Episode 38
秋は、鋭く冷たい風を伴って街を横切っていた。風に煽られた枯れ葉が、灰色にくすんだアスファルトの路面を転がり、渦を巻いている。
早朝の空は、濃密な霧の膜に覆われていた。太陽がすでに地平線の向こうから顔を出しているというのに、その白濁した霧は頑なに晴れようとしない。まるでこの天気そのものが、この学校の平穏という薄皮の下に深く沈んでいる、腐り果てた秘密を隠そうとしているかのようだった。
バンソンが学校へやって来たのは、まだ人影もまばらな早朝だった。
彼は、半ば葉を落とした栗の木々がつくる木陰に立ち、両手を濃色のウールコートのポケットへ深く突っ込んでいた。立ち姿はわずかに右脚へ重心を寄せている。昨夜の揉め事で負傷し、ガーゼを巻いた左肩にかかる負担を減らすためだった。
鈍い痛みが、ときおり筋肉の一本一本を噛むように疼く。それでも今のバンソンの意識には、そんな生理的な信号が入り込む余地などなかった。
脳裏には、昨夜送られてきた一枚の写真が、画素の一つ一つまで鮮明なまま焼きついている。
盗撮写真。
そこに写っていたのは、バンソンとエナミ・アサだった。
撮影された角度は、決して偶然のものではない。
肉眼で推測する限り、撮影地点は数十メートルほど離れた高所にあったはずだ。学校正門の前で二人が話している光景を、ほぼ全景で捉えている。
つまり、顔を隠した何者かが、たまたま通りかかってスマートフォンを掲げたわけではない。
あらかじめそこに潜んでいたのだ。
二人を監視していた。
いや――正確には、捕食者が獲物を見下ろすような視点から、二人を眺めていたのだ。
乾いた枯れ葉を踏みしめる足音が響き、バンソンの冷徹な思考の流れを断ち切った。
彼が顔を上げる。
エナミ・アサがこちらへ歩いてくるところだった。
きちんと整えられた学校指定の制服。その上には、淡いベージュの薄手のニットを羽織っている。艶やかな黒髪が、霧を含んだ風にそっと揺れていた。
昨夜、街灯の黄色い光の下で、バンソンが不器用にも胸の奥に隠していた想いをすべてさらけ出し、彼女に愛を告げたあの瞬間から――二人の間には、目には見えない磁場のようなものが生まれていた。
騒がしくもなく、性急でもない。
けれど今や、互いの存在は、もう一方にとって生死を左右するほどの錨となっていた。
アサは彼の前で立ち止まった。
吐息が薄い白い煙となって、冷えた空気の中へ溶けていく。
澄み切っていながら鋭さを秘めた瞳が、少し青ざめたバンソンの顔をなぞった。
「ずいぶん早いんですね?」
アサの声は穏やかだった。しかし、その奥には隠しきれない探るような響きがあった。
「用事がある」
バンソンは短く答え、彼女の真正面からの視線をわずかに避けた。
アサは、その逃げを見逃さなかった。
半歩、前へ出る。
二人の距離が縮まる。
白茶を思わせるシャンプーの柔らかな香りが、彼女の髪からほのかに漂い、バンソンの鼻先をくすぐった。
アサは彼の目元をじっと見つめた。
薄く浮かんだ隈。
「寝てないんでしょう?」
「寝た」
嘘は、条件反射のように滑らかにバンソンの唇からこぼれた。
アサは彼の瞳の奥を真っ直ぐに見つめた。
琥珀色の瞳は、一度たりとも瞬きをしない。
沈黙は三秒ほど続いた。
それだけで、バンソンが必死に築き上げていた偽りの防壁は、あっけなく崩れ落ちた。
「嘘」
アサが小さく言った。
それは問いではなかった。
断固とした、確信そのものだった。
バンソンは黙り込む。
薄い唇をきつく結んだ。
彼女を欺けないことなど、最初から分かっていた。まして今は、二人の結びつきが単なる捜査上の協力関係など、とっくに超えてしまっている。
アサは、それ以上問い詰めなかった。
なぜ眠れなかったのか――そんな理由を説明させる必要などない。彼の意識をこの事件のブラックホールが呑み込み続けていることを、彼女自身がよく知っていたからだ。
ただ手を伸ばし、細い指先で彼のコートの縁をそっとなぞる。
風にめくれ上がっていた襟を、丁寧に直した。
「今すぐ話さなくてもいい」
アサの声が低くなる。
その言葉には、誓いにも似た重みがあった。
「でも、一人で決めないで。絶対に」
バンソンは小さく喉を鳴らした。
布越しに伝わる彼女の指先の温もりを感じながら、静かに頷く。
二人は背を向け、街の東側に建つ学校の、精緻な装飾を施した鉄門を並んでくぐった。
そこには、カンザキ・リク、シラサワ・ノア、そしてミズノ・レイカの秘密が、まだ眠ったまま横たわっている。
二人は肩を並べて歩いていく。
揺るがぬ決意を胸に、強く結びついたまま。
だが、バンソンもアサも知らなかった。
向かいの棟、そのはるか高層階から――
カメラのレンズに宿る小さな赤い点が明滅しながら、二人の一挙手一投足を、密かに記録し続けていることを。
――――――
学校図書館の内部。
古い紙の匂い。
木の香り。
陽の差し込まない空間特有の、湿った黴の臭い。
それらが混ざり合い、息苦しい空気を形づくっていた。
バンソンとアサは、最奥の一角、高々とそびえる書架の陰に隠れるように置かれた長机を選んだ。
バンソンはスマートフォンを机の上に置き、ロックを解除する。
昨夜盗撮された写真が、青白い蛍光灯の下にくっきりと浮かび上がった。
彼は二本の指で画像を拡大する。
一つ一つの画素へ。
物体に落ちる影の方向へ。
わずかな角度の違いへ。
徹底的に視線を走らせる。
向かいに座ったアサは、頬杖をついたまま画面を食い入るように見つめていた。
「この写真が撮られたのは、昨日の朝だ」
バンソンは分析を始めた。
指先が画面を滑る。
「街灯と学校正門のアーチに落ちている影を見てくれ。日差しは東からだ。撮影角度は上方から斜めに見下ろす形になっている。仮想的な直線を引けば、角度はおよそ四十五度だ」
彼は顔を上げ、アサの瞳を真っ直ぐに見た。
「その直線を延長すれば――ちょうど西側の旧校舎を指す」
「距離は数十メートル程度……」
アサは眉を寄せ、思考を巡らせる。
「でも、あそこには一つ特徴がある。先週、レイカが言ってた。西側の窓は全部、何か月も前から固く施錠されてるって。外で行われている水道管工事のために、封鎖されてるの。中から窓を開けることはできない」
「その通り」
バンソンが人差し指で机を軽く叩く。
「窓が施錠されているなら、撮影者は教室の中には立てない。それに写真には、窓枠やカーテンによる遮蔽物がまったくない」
「じゃあ、どこにいたの?」
「屋上だ」
バンソンは冷たい声で断定した。
アサはしばらく黙った。
二人を包む空気が、突然、粘つくように濃密になる。
やがて彼女は視線を上げる。
その眼差しには鋭い光が宿っていた。
「そこへ行くつもりなんでしょう?」
「そうだ」
バンソンは迷いなくスマートフォンをしまい、立ち上がろうとした。
だが、アサのほうが速かった。
彼女は勢いよく立ち上がる。
木製の椅子の脚がタイル床を擦り、鋭い音を小さく響かせた。
「私も行く」
「駄目だ」
即座の拒絶。
交渉の余地すら与えない声音だった。
アサは眉をひそめ、両手を机について身を乗り出す。
「駄目?」
バンソンは彼女の瞳を深く見つめた。
昨夜、彼女を抱きしめたとき。
この世界の汚さに、彼女を触れさせまいと――そう、自分自身に誓った。
だが今、敵はその槍先を、まっすぐ二人へ向けている。
「そいつは、お前にこの件から手を引けと警告してきた」
バンソンはそう言って、写真とともに送られてきた脅迫メッセージを思い返す。
「狙われているのは俺だ。なのに、あいつは俺の弱点として、お前を利用しようとしている」
アサは黙って彼を見つめた。
やがて口元がほんのわずかに持ち上がる。
その笑みには、彼女らしい頑固さが滲んでいた。
「それで、私がその顔の見えない男の言うことを聞くと思ってるの?」
一拍。
「それとも、あなたの言うことを聞いて、安全な場所に隠れていろって?」
「聞くべきだと思ってる」
バンソンは低く唸るように言った。
胸の内側を引き裂くような不安を、必死に押し殺しながら。
「アサ。この件は、今まで俺たちが追ってきた事件とは違う。今回は……あいつが、俺たちそのものを直接狙っている」
「違う」
アサが言葉を遮った。
彼女は机の端を回り込み、バンソンのすぐ目の前まで歩み寄る。
そして顔を上げ、血走った彼の目を真正面から射抜いた。
「間違ってるよ、バンソン」
「あなたは全部、一人で背負おうとしてる」
「危険が大きくなるたびに、いつもそうやって私を外へ追いやる」
バンソンは言葉を失った。
アサは手を伸ばす。
細い指先が、彼の左胸――激しく鼓動している心臓のある場所へ、そっと触れた。
「昨夜、あなたは私に何と言ったか覚えてる?」
アサの声が柔らかくなる。
だが、その言葉は容赦なく感情の核心を突いた。
「私をそばに置くことだけは、絶対に間違えることのできない唯一の方程式だって……そう言ったよね」
彼女はそのまま、真っ直ぐ彼を見つめ続ける。
「なのに今度は、私を外に置こうとしてるの?」
「言ったでしょう、バンソン。あなたが全部を一人で背負う必要なんてない」
バンソンは床へ視線を落とした。
喉仏が苦しげに上下する。
服越しに、彼女の手の温もりが伝わってくる。
守りたいという本能と、愛する相手を一人の人間として尊重したいという思い。
その二つが激しく衝突し、頭の中が張り裂けそうになる。
「俺はただ……お前まで巻き込みたくないんだ」
かすれた声が、ようやく漏れた。
「もう遅いよ」
アサは即座に答えた。
顔を上げる。
薄暗い図書館の中で、琥珀色の瞳が揺るぎなく、強く輝いていた。
「私があなたの隣に立つと決めた、その日から――私はもう、この事件の中にいる」
静かな、それでいて一歩も退かない声だった。
「私を盤上から外すことを、『守る』なんて言わないで」
長い沈黙が落ちた。
壁に掛けられた時計が、乾いた音を一定の間隔で刻み続けている。
チク、タク。
チク、タク。
やがて、バンソンは疲れ切ったように長く息を吐き出した。
そしてゆっくりと手を上げる。
彼の左胸に置かれていたアサの手を、自分の手でそっと包み込む。
そのまま、強く握りしめた。
「分かった」
バンソンは折れた。
その瞳には、再び鋭い光が宿っていた。
「でも、俺の指示には必ず従ってくれ。絶対に離れるな。一歩たりともだ」
アサは小さく微笑んだ。
「あなたも、私の言うことを聞いてね」
バンソンは学校の建築図面を机の上へ広げた。
指先が、青い線に沿ってゆっくりと滑っていく。
「西棟の屋上へ上がるルートは三つある」
バンソンは説明を始めた。
声はすでに、完全な分析モードへと戻っている。
「一つ目は教室棟の中央階段。二つ目は屋外の非常階段。三つ目はエレベーターの保守班が使う通路だ」
アサは図面へ視線を落とす。
「もし本当に写真を撮った人間が屋上にいたなら……逃げるには、その三つのどれかを使うことになる」
「必ずしも、そうとは限らない」
バンソンが首を横に振った。
「どうして?」
バンソンは、図面上に薄く残された点線を指差した。
それは西棟の三階と、その背後にひっそりと隠れる旧・廃棄校舎を結んでいる。
「連絡通路がある。学校の安全管理記録では、構造の老朽化を理由に、去年から鉄扉で封鎖されていることになってる」
バンソンは顔を上げた。
「でも、実際のところ……『施錠済み』と報告されている扉を、俺は信用してない」
二人は図書館を出た。
バンソンがあらかじめ頭に叩き込んでいた監視カメラの死角を縫うようにして進み、旧校舎へ向かう。
その一帯だけは、休み時間の喧騒から完全に切り離されていた。
剥がれ落ちた壁面には青緑色の苔がびっしりと張りつき、腐葉土のような湿った臭いが、息苦しいほど濃く漂っている。
二人の目の前に、重々しい鉄扉が現れた。
表面には斑状の錆が広がり、色褪せた赤い標識がぶら下がっている。
――関係者以外立入禁止。
大きな真鍮製の南京錠が、鉄扉の二つの金具を固く繋いでいた。
鋸で切った痕跡もない。
切断された形跡も、力任せに破壊された痕跡も見当たらなかった。
だが、バンソンはそれを確認するなり、しゃがみ込んだ。
目を細め、南京錠へ可能な限り顔を近づける。
「誰かが、ついさっき開けた」
断定だった。
アサも隣へしゃがみ込む。
「どうして分かるの?」
「埃を見てくれ」
バンソンは現物に触れないよう注意しながら、小指で南京錠の胴体を指し示した。
「金属表面に積もった埃がかなり厚い。長期間ここにあって、ろくに拭かれていない証拠だ」
彼はさらに指を動かす。
「でも、鍵穴の周囲をよく見ろ。ここだけ金属の縁が妙に光ってる。完全に汚れが落ちてるだろ」
そして、かすかに残った一本の光る線へ視線を向ける。
「この細い傷……」
バンソンが指先を止めた。
「まだ新しい金属の光沢が残ってる。酸化すらしていない」
アサは息を呑んだ。
「つまり……その人は、ついさっき出ていった?」
わずかな間。
「それとも……今、入ったばかり?」
「可能性はある」
バンソンはコートのポケットから、精巧な多機能ロックピック・ツールを取り出した。
右手だけで、いくつかの器具を正確に差し込み、微細な力加減で操作する。
カチリ――。
乾いた音が鳴った。
南京錠が外れる。
バンソンは鉄扉を軽く押した。
錆びついた蝶番が軋み、ギィィ……と不気味な音を響かせる。
まるで、眠りについていた巨大な獣が、長い年月を経て目を覚ましたかのようだった。
その先にあったのは、果てしなく続いているように見える暗い廊下だった。
巨大な鯨の胃袋の内部にでも入り込んだかのような、陰鬱で息苦しい空間。
空気には濃厚なカビ臭がこびりつき、そこへ微かにホルマリンの臭いまで混じっている。
古い生物実験室でよく嗅ぐ、あの独特の臭いだった。
天井に設置された人感センサー式の照明は、そのほとんどが壊れている。
数少ない蛍光灯だけが、断続的に明滅していた。
ジジ……ジジジ……。
耳障りな電気音が、静まり返った廊下に不気味に響いている。
バンソンが先を行く。
身体をわずかに屈め、右手はコートのポケット――そこに隠したタクティカル・フォールディングナイフの位置へ、いつでも動かせるよう軽く添えていた。
アサはすぐ後ろをついていく。
猫のように足音を殺しながら、左右へ絶え間なく視線を走らせていた。
警戒を解く気配は微塵もない。
そのとき――
バンソンが突然、足を止めた。
スマートフォンのライトを床へ向ける。
そこには、薄灰色の細かな埃が積もったコンクリートの床が広がっていた。
その埃の上に――
靴跡が、くっきりと残っている。
スポーツシューズ。
複雑なジグザグ模様のソール。
そして、その踏み込みの強さには大きなばらつきがない。
慌てて走った形跡ではない。
一定の速度で、落ち着いて移動している。
バンソンは片膝をついた。
目と靴跡の距離は、わずか十センチほど。
次の瞬間、彼の頭脳が計算のための歯車を一斉に回し始めた。
「サイズは……およそ二十七センチ」
バンソンが低く呟く。
「男性だ。踵が埃へ沈み込んだ深さから考えて、身長は一七五センチ前後。体重は六十五から七十キロ程度」
上からそれを見ていたアサが、腕を組む。
「埃に残った靴跡だけで、そこまで分かるの?」
「基本的な推測だ」
バンソンは顔を上げない。
「体重が靴底の面積にどう分散されるかで、床に加わる圧力は変わる。それに、歩くときの足の傾きには、その人間の癖が出る」
「また始まった」
アサが小さく唇を噛む。
いつもの、機械じみた推論癖。
こんな緊迫した状況でさえ、目の前の情報を一つ残らず拾い上げ、冷徹に組み立てていくバンソンの極度の集中力は、彼女にとってどこか奇妙な魅力を放っていた。
けれど――
その微笑みが形になるより先に、バンソンの表情が突然変わった。
瞳孔がきゅっと縮む。
彼はライトを廊下の奥へ向けた。
そして、ゆっくりと反対側――二人が入ってきたばかりの鉄扉へ照らし戻す。
足跡が――
一方向にしか存在しない。
靴先はすべて、旧校舎のさらに奥へ向いている。
反対方向へ戻った足跡は、一つもなかった。
「ってことは……」
アサも異変に気づいた。
誰もいない廊下に、その声だけが微かに震える。
「……その人、まだここにいるの?」
バンソンは答えなかった。
本能が告げている。
これまで何度も凶悪な人間と対峙してきた経験が、警鐘を鳴らしている。
死に直結する危険が――
今まさに、二人の頭上へと落ちてきている。
ごく小さな、鋭く乾いた音が響いた。
カチッ。
バンソンは、ばね仕掛けのように振り返った。
背後にあった重い鉄扉――二人と外の世界を隔てる、ただ一つの境界が――凄まじい勢いで突然閉じた。
甲高い轟音が壁という壁に反響し、鼓膜まで震わせる。
アサが驚いて一歩後ずさり、思わず叫んだ。
「バンソン!」
バンソンは左肩を引き裂くような痛みを無視し、鉄扉へ駆け寄った。
押し棒を両手で叩く。
びくともしない。
ドアノブも完全に固まっていた。
全身をぶつける。
だが、鉄扉は巨大な岩塊のように、微動だにしなかった。
――電磁ロック。
遠隔操作された。
バンソンは一歩後退し、荒く息をついた。
そして頭上を見上げる。
扉の真上、天井の隅。
闇の中で、小さな監視カメラの赤いLEDが不気味なほど鮮明に光っていた。
カメラがわずかに旋回する。
そして、そのレンズはまっすぐ二人へ向けられた。
アサが彼の背後へぴたりと寄り、冷え切った手でバンソンの肘を掴んだ。
「私たち……閉じ込められたの?」
バンソンは赤く光るカメラの目を睨みつけた。
顎の筋肉が硬く張り、顔の輪郭は氷から削り出したかのように強張っている。
「……ああ」
歯の隙間から、低い声が漏れた。
「ねえ……まだ冷静でいられる?」
アサが尋ねる。
厚いウール地のコート越しにも、バンソンの筋肉が張り詰めているのが伝わってきた。
バンソンは一秒だけ目を閉じた。
埃っぽい空気を深く吸い込む。
そして目を開いた。
その瞳には、彼には珍しいほどの怒りと、どうしようもない無力感が燃えていた。
「……無理だ」
それは、恐ろしいほど率直な告白だった。
常に敵の三手先を読むような分析機械――そう評されても不思議ではないバンソンが、初めて自分自身の動揺を認めた。
二人は、自ら罠の中へ頭を突っ込んだのだ。
敵は、彼らがここへ来ることを知っていただけではない。
最初から、二人を迎え入れるための舞台まで用意していた。
その瞬間だった。
ジジ……という静電ノイズが、静寂を切り裂いた。
廊下の中央。
蜘蛛の巣がびっしりと張りついた古いCRTテレビが、突然、青白い光を放って点灯した。
不気味な青い光がバンソンとアサの顔を照らし、その二人の影を壁の上へ長く引き延ばす。
画面に映像が流れ始めた。
音声はない。
ただ、低画質の盗撮カメラ特有の、激しく揺れる映像だけが映し出されている。
そこは――教室だった。
制服の冬用セーターから判断する限り、おそらく昨年の光景だ。
画面の隅には、カンザキ・リクが教壇の前で縮こまるように立っていた。
少年の顔は青ざめ、怯えた目は自分の靴先へ落ちている。
教室の後方では、数人の男子生徒が首を反らして笑っていた。
口元は歪み、そこにあるのは残酷な嘲笑だけだった。
一枚の紙――おそらくテスト用紙。
それが丸められ、リクの顔面へ容赦なく投げつけられる。
跳ね返った紙が床へ落ちた。
その瞬間、黄色い字幕が画面いっぱいに浮かび上がった。
『七位程度で、自分が優秀だと思ってるのか?』
映像が瞬間的に切り替わる。
人気のない階段。
リクが二人の男子生徒に壁へ押しつけられていた。
彼らはリクの鞄を漁り、中に入っていた教科書やノートを床へぶちまけていく。
――切り替わる。
誰もいない教室。
外では激しい雨が降っている。
リクは一人、身体を縮めるようにして座り込み、スマートフォンを握っていた。
その両手は震え、キーボードすらまともに打てない。
画面がクローズアップされる。
見知らぬ番号から、一件のメッセージ。
『成績を守りたければ、言うことを聞け』
映像が突然、凍りついた。
絶望の底へ落ちたリクの顔。
三秒。
灰色のノイズが画面を覆い尽くした。
そして――
黒い背景の上に、血が滲んだようなフォントで白い文字がゆっくりと浮かび上がる。
『誰が、始めた?』
アサがバンソンの腕を強く掴んだ。
爪がコートの布地へ食い込む。
あまりにも露骨で、あまりにも残酷な学校内暴力の光景に、吐き気すら込み上げてきた。
「……何、これ?」
アサが囁く。
「告白……なの?」
「誰の?」
バンソンは画面から一瞬たりとも目を逸らさなかった。
その頭脳は、すでに最大出力で回転を始めていた。
無数の情報が一瞬で分解され、組み替えられ、ひとつの仮説へ収束していく。
「この画面。この映像。扉が閉まったタイミング……」
バンソンが低く呟く。
「全部、出来すぎてる」
一拍。
「これは衝動的な行動じゃない」
テレビの映像が再び動き始めた。
しかし、今度は動画ではない。
ゆっくりと文字が打ち込まれていく。
まるで死を宣告するタイプライターのキーを、一打ずつ叩いているかのように。
人物1――カンザキ・リク
人物2――シラサワ・ノア
人物3――【黒いピクセルによって完全に伏せられている】
バンソンは三人目の名前が隠されている部分を凝視した。
目を細める。
そして呼吸が、少しずつ静かになっていった。
「こいつは、犯人が俺たちに話を聞かせているんじゃない」
鋭い声が、メスの刃のように謎を覆う膜を切り裂いた。
「じゃあ……何?」
アサが彼を見上げる。
困惑がその表情に滲んでいた。
「こいつは劇を作ってるんだ」
バンソンがアサへ振り向く。
その瞳は冷たく研ぎ澄まされていた。
「こっちの口に、答えを入れようとしてる。俺たちに洗脳を仕掛けて、自分で書いた筋書きを真実だと思い込ませようとしてるんだ」
「何を信じさせたいの?」
「ノアの死。リクの失踪。そして、あの三人目……」
バンソンは画面を指差した。
「全部が一本の糸で繋がっていると思わせたいんだ」
「その糸は――学校内暴力と、成績へのプレッシャー」
彼の声が低くなる。
「俺たちには、いじめた連中の影を追わせる。その間に、本当の犯人はどこかで悠々と金でも数えてる」
その言葉が途切れた、まさにその瞬間だった。
テレビが、
プツッ――
と短く音を立てて消えた。
直後。
廊下に並ぶ蛍光灯が、すべて一斉に点灯した。
眩い白光が暗闇を一瞬で塗り潰す。
そして背後の鉄扉から――
カチッ。
電磁ロックが解除される乾いた音が響いた。
鉄扉が、ゆっくりと開いていく。
冷たい風が、外から廊下へ流れ込んできた。
だが、その先には何もなかった。
人気はない。
人影一つない。
ついさっきまで二人を閉じ込めていた犯人は、まるで獲物を弄ぶように――自らの圧倒的な優位を見せつけるかのように、檻を開けたのだ。
バンソンは振り返った。
鋭い視線が、扉付近の床を隈なく走る。
先ほど埃の上に残されていた、サイズ二十七センチほどのスニーカーの足跡。
――それが、扉から約三メートル手前の地点で、完全に消えていた。
犯人は後ろ向きに歩きながら退いたのだ。
そして――
雑巾か、それに類する何かを使って、逃走した痕跡そのものを綺麗に消し去っていた。
だが、そこには別のものが残されていた。
アサの靴の踵、そのすぐそばに、象牙色の紙を四つ折りにした小さな紙片が無造作に落ちていた。
アサは身を屈め、反射的にそれを拾おうと手を伸ばした。
「触るな!」
バンソンの怒鳴り声が飛んだ。
張り詰めた緊張に耐えきれず、声が裏返る。
だが――もう遅かった。
アサの指先は、すでに紙の端へ触れていた。
そして、紙をめくる。
バンソンは弾かれたように駆け寄り、まるで毒が塗られているかのような勢いで、その紙片をアサの手からひったくった。
ハンカチで紙を包み込み、慎重に持ち上げて目の高さへ掲げる。
そこに書かれていたのは、たった一文。
赤いインクで、病的なまでに整った文字。
――「いつだって、彼女なんだ。」
アサの全身から血の気が引いた。
「彼女」?
彼女とは誰だ。
ミズノ・レイカなのか。
それとも――
まさか、自分自身なのか。
バンソンは紙片を強く握りしめた。
アサに考える時間を与えないまま、彼女の手首を掴み、強く引く。
「ここを離れるぞ。今すぐだ」
二人が鉄扉を飛び出し、屋外へ続く廊下へ足を踏み出した――その瞬間だった。
旧校舎と体育館を繋ぐ階段の方角から、耳をつんざくような音が響いた。
ゴム底がタイル床を強く擦る音。
バンソンが弾かれたように顔を上げる。
階段の手すりの隙間から、一つの人影が黒い矢のように横切った。
濃色のダウンジャケット。
フードを深く被り、顔は完全に隠されている。
細身で背が高い。
その走りには、まるでプロの陸上選手のような速度と無駄のなさがあった。
バンソンの血の中にある捕食者としての本能が、一気に沸騰した。
二秒も考える必要はなかった。
彼はアサの手を放し、床を強く蹴った。
一瞬で駆け出す。
「S!」
アサが、いつもの癖で彼を呼ぶ。
「バンソン! 駄目!」
「ここで待ってろ!」
階段へ飛び込んだバンソンの怒声が、壁に反響する。
「ついてくるな!」
黒い影は階段を一気に駆け下りていく。
バンソンも、その背中へ食らいつくように追った。
手すりを掴み、身体を捻って方向転換するたび、左肩を引き裂くような激痛が走る。
だが、止まる気はなかった。
アサは命令を聞かなかった。
歯を食いしばり、バンソンの背後を追って走る。
二人の足音が、無人の階段へ連続して叩きつけられる。
胸の鼓動は、今にも肺を突き破りそうなほど激しくなっていた。
追跡は、体育館へ繋がるむき出しのタイル張りの廊下へ続いた。
霧を含んだ冷たい風が、バンソンの顔面を容赦なく打ちつける。
フードを被った人物は異常なほど速かった。
しかし、バンソンが驚いたのは、その速度ではない。
――空間把握能力だ。
相手は決して取り乱していない。
障害物へ無様にぶつかることもなければ、闇雲に走っているわけでもない。
校舎のどの死角に何があるか。
誤って置かれたゴミ箱の位置。
開いている扉と、施錠された扉。
そのすべてを知り尽くしている。
曲がり角へ差しかかっても、速度を落として確認する必要などない。
左へ。
そして滑らかに、迷いなく右へ。
一切の躊躇がない。
これは、偶然校内で迷った生徒ではない。
この人間は――
学校の構造を、手のひらを見るように把握している。
バンソンとの距離は、およそ十五メートルに保たれていた。
逃げているのではない。
――導いている。
黒い影が左へ折れた。
そのまま木製の扉を抜け、狭い非常階段へ飛び込む。
バンソンは扉の前で一瞬だけ足を止めた。
そして素早く背後を振り返る。
アサが、荒い息を吐きながら走ってくる。
体力差のせいで、二人の距離は徐々に広がっていた。
バンソンは振り返り、彼女へ向かって怒鳴る。
「アサ! 戻れ!」
「バックを探せ! この先には入るな!」
「嫌!」
アサが頑なに叫び返した。
風と恐怖のせいで、目の縁は赤く滲んでいる。
もう一度でも、彼の姿を視界から失いたくなかった。
「言うことを聞け!」
バンソンは一語一語を噛みしめるように言った。
その瞳には怒りと――ほとんど懇願に近い必死さが燃えている。
「俺の足手まといになりたいのか?」
その残酷な言葉は、冷水を浴びせかけるようにアサの心を打った。
彼女はその場で立ちすくんだ。
床を踏みしめて急停止し、唇を強く噛む。
その歯が皮膚を切り、赤い血が滲んだ。
分かっていた。
バンソンはわざと酷い言葉を投げつけている。
自分を安全な場所に留めるために。
アサを守るために。
アサが立ち止まったことを確認すると、バンソンはすぐさま身体を反転させ、暗い階段を駆け下りていった。
一階の廊下を追走している最中だった。
バンソンの頭脳が、突然、一つの異常な信号を捉えた。
――走る方向。
あの男は、学校の正門へ向かっていない。
逃走しやすい外周のフェンスにも向かっていない。
大きな弧を描くように、校内を迂回している。
そして、その経路の終着点は一つしかなかった。
――旧資料保管室。
昨日の朝、バックとCがリクの帳簿を発見した場所だ。
バンソンは徐々に速度を落とした。
廊下へ打ちつける自分の靴音が、少しずつ遅くなる。
「……俺を追わせたいのか」
バンソンが呟いた。
冷たい汗が、こめかみを伝う。
すべてだ。
わざと一方向だけに残された足跡。
絶妙なタイミングで再生された映像。
そして、あえて自分に逃走する姿を見せたこと。
この人間には――
最初から逃げるつもりなどなかった。
パンくずを一つずつ撒きながら、バンソンを魔女の巣穴へ誘い込んでいるのだ。
「……罠だ」
分かっている。
これは罠だ。
だが、それでもバンソンには立ち止まることができなかった。
その先にあるどんな小さな手掛かりも、この状況をひっくり返すための鍵になり得る。
バンソンは資料保管室の扉を力任せに押し開けた。
中は、不気味なほど静まり返っていた。
濃密な埃の臭いが漂っている。
待ち伏せはない。
書架の陰から潜めた息遣いが聞こえることもない。
フードを被った人物は、まるで幽霊のように姿を消していた。
ただ一つ。
部屋の中央に置かれた事務机の上で、古いコンピューターが画面を煌々と光らせていた。
CPUの冷却ファンが低く唸っている。
バンソンは最大限の警戒を保ったまま近づいた。
画面から半メートルほど離れた場所で立ち止まり、視線をディスプレイ全体へ走らせる。
黒一色のデスクトップ。
その中央に、一つのウィンドウが大きく開かれている。
タイトルには、はっきりとこう表示されていた。
――【生徒データ カンザキ・リク】
バンソンは歯を食いしばった。
マウスを掴み、画面上に一つだけ表示されているフォルダをクリックする。
フォルダ名は――
「10月18日」
それは、カンザキ・リクが謎の退学手続きを行った日だった。
フォルダの中には、二つのスクリーンショット画像が保存されていた。
バンソンは一つ目のファイルを開く。
学校の成績管理システムのログデータ。
だが――
一つの列だけが、鮮烈な赤色で塗りつぶされていた。
カンザキ・リクの高度数学。
暗号化される前の生データには――
「96」
と表示されている。
ところが、最終成績表へ出力されるデータでは――
「76」
へ書き換えられていた。
明らかに、何者かがシステムへ介入している。
バンソンの身体が止まった。
呼吸すら、一瞬忘れる。
昨日、Cが復元した成績表。
そこに記されていたリクの点数は96点。
その結果、順位は二位まで上がっていた。
なのに――
このファイルでは、点数が意図的に引き下げられている。
バンソンは急いで二つ目のファイルを開いた。
ファイル名は――
【NOA――62 → 42】
同じような改竄だった。
シラサワ・ノアの点数も、本人の実力からすればあまりにも不自然な数字まで落とされている。
「誰かが……」
バンソンの声が低く震えた。
「誰かが、わざとあいつらの足を引っ張った。侮辱して、上へ這い上がる道そのものを潰したんだ」
脳内を、新たな仮説が何万通りも駆け巡る。
誰に、この操作を行える権限がある?
教師か。
システム管理者か。
それとも――雇われたハッカーか。
そのとき。
背後から、激しい足音が響いた。
アサが資料保管室へ駆け込んできた。
胸が激しく上下している。
やはり彼女はバンソンの命令を聞かなかった。
バックを探しにも行かず、一人で痕跡を追い、ここまで辿り着いたのだ。
「バンソン!」
アサが叫ぶ。
バンソンが勢いよく振り返る。
命令違反を咎めようとした、その瞬間だった。
アサが手を上げ、埃で曇ったガラス窓の向こうを指差した。
声には明らかな動揺が混じっている。
「前に誰かいる!」
「校庭を走ってる!」
バンソンは窓へ駆け寄り、肘でガラスの一部を素早く拭った。
その先には、広大なグラウンドが広がっている。
霧はすでに濃くなり始めていた。
その白い帳の向こうで、小さな黒い人影が走っている。
向かっているのは――
グラウンドの最奥にある資材倉庫だ。
「くそっ!」
バンソンが吐き捨てるように呟く。
そして一瞬も迷わず、部屋を飛び出した。
画面を煌々と照らし続ける古いコンピューター。
そこに残された腐敗した秘密だけを置き去りにして。
バンソンは階段を三段飛ばしで駆け下りた。
廊下を抜け、屋外へ飛び出す。
靴底が、霧に濡れたグラウンドの芝生を強く踏みしめた。
地平線の向こうから、灰色がかった黒雲がゆっくりと迫ってくる。
細かな霧雨が降り始めた。
冷たい秋雨の前触れだった。
黒い人影は、資材倉庫へ向かってひたすら走っている。
二十メートル。
十五メートル。
その距離が、少しずつ縮まっていく。
そして――
倉庫の扉へ手が届こうとした、その瞬間。
黒い影が突然振り返った。
ほんの一瞬。
その一瞬だけ、バンソンと視線が交わった。
距離はまだ遠い。
霧雨によって視界も遮られている。
それでも、バンソンの目は相手の核心的な特徴を捉えていた。
――制服。
濃色のダウンジャケットの裾から、この学校の男子生徒特有の灰色のスラックスが覗いている。
顔は黒いマスクとフードによって完全に覆われている。
バンソンは歯を食いしばった。
そして、さらに加速する。
痛む左肩に限界を超えた動きを強いる。
だが――
間に合わなかった。
黒い影は薄いトタン製の倉庫扉を勢いよく押し開け、その身体を滑り込ませる。
そして、扉を閉めた。
五秒後。
バンソンの右脚が、倉庫の扉を真正面から蹴り飛ばした。
轟音。
扉が弾けるように開く。
バンソンは中へ飛び込み、そのまま地面を一回転して、待ち伏せによる一撃をかわした。
右手には、すでに刃を展開した折り畳み式ナイフ。
だが――
薄暗い倉庫の中に広がっていたのは、無惨に破れたバレーボール用ネットと、古びた走り高跳び用マットだけだった。
人の気配はない。
呼吸音もない。
生の気配すら――
完全に消えていた。
バンソンは素早く周囲へ視線を走らせた。
この倉庫には、もう一つ非常口がある。
その先は、学校敷地の外縁に沿って延びる細い裏道へ直接繋がっていた。
そして――その裏口は、すでに大きく開け放たれていた。
冷たい風を受け、ギィ、ギィ……と錆びた蝶番が軋んでいる。
バンソンはそのまま裏道へ飛び出した。
雨は、すでに本降りになっていた。
彼は入口のすぐ前にある、泥でぬかるんだ地面へ視線を落とす。
いくつかの薄い足跡が泥の上に刻まれている。
向かう先は、濡れたアスファルトの道路。
だが、激しい雨が容赦なく降り注ぎ、泥の表面を削り取っていく。
残されていた痕跡は、雨水に引き裂かれるように崩れ、少しずつ洗い流されていった。
そのとき――
まばゆい黄色の市営バスが、びしょ濡れのアスファルトを轟音とともに横切った。
濃い霧を切り裂きながら走り抜け、街の雑音を巻き上げる。
一瞬、視界が完全に遮られた。
そして、バスが通り過ぎたあと。
通りには――
誰もいなかった。
奴はバスに飛び乗って逃げたのか。
それとも、どこかの細い路地へ姿を消したのか。
何一つ、分からない。
最後の手掛かりは――
秋の雨に、完全に呑み込まれていた。
二分後。
ようやくアサが追いついた。
彼女は倉庫の入口の枠へ身体を預け、両手を膝について激しく息を切らしている。
呼吸が乱れすぎて、言葉を発することさえできない。
雨に濡れた黒髪が頬へ張りつき、細い雫がそこから流れ落ちていた。
バンソンは、誰もいない濡れた道路の中央に立ち尽くしていた。
激しい雨が全身を叩き、厚手のコートはすっかり濡れそぼっている。
両手は力なく垂れ下がっていた。
折り畳み式ナイフも、すでに収納されている。
その姿は――
目の前まで追い詰めた獲物を、寸前で奪い取られた獣そのものだった。
「あなた……捕まえられなかったの?」
アサがようやく声を絞り出した。
胸が激しく上下している。
バンソンが振り返る。
雨水が鼻筋を伝い、顎から滴り落ちる。
「……無理だった」
たった一言。
だが、その声には、激しい自責が滲んでいた。
「顔は見えた?」
「いや」
バンソンは答えた。
「男子生徒の制服だけだ」
重い足取りで、再び倉庫の軒下へ戻っていく。
アサは彼を見上げた。
そのとき、彼女は気づいた。
バンソンの顔に渦巻いている怒り。
それは体力不足による失敗でも、運の悪さによる取り逃がしでもない。
もっと別のところから湧き上がっている。
――知性を弄ばれたことへの屈辱。
バンソン自身も気づいていた。
最初から最後まで、自分は相手にとって――
ただの操り人形だったのだ。
「俺たちに見つかることなんて、最初から恐れていなかった」
バンソンは倉庫のトタン壁を拳で強く殴りつけた。
バァンッ!
金属を叩く甲高い音が雨音を切り裂く。
「階段から資料保管室。そして、ここまで……」
彼は拳を握りしめたまま続ける。
「あいつは、俺たちの一秒一秒、呼吸の一つ一つまで計算してた」
「わざと速度を落としてたんだ」
「俺が見失わないようにな」
「どうして……?」
アサには理解できなかった。
「どうして、わざわざ自分から囮になるような真似をしたの?」
バンソンは顔を上げた。
血走った目が、雨の向こうを射抜く。
「俺たちに追わせるためだ」
その声は低い。
「自分で仕組んだ情報を、俺たちの頭の中へ叩き込む」
「そして――俺たち自身が辿り着いた答えだと思わせる」
二人は、朽ちかけた軒下で黙ったまま見つめ合った。
そこには――
どうしようもない無力感だけが重く沈んでいた。
バンソンが身体を反転させ、アサを連れて立ち去ろうとした。
そのときだった。
ふと――
彼の視線が、開け放たれた倉庫のトタン扉、その内側へ向く。
そこには、誰かが黒い太字の油性マーカーで、剥がれかけた塗装の上へ急いで描いたばかりの記号があった。
大きな円。
だが――
完全には閉じていない。
その円の内側には、鋭く刻み込まれた二つの数字。
「03」
アサも近づいてくる。
インク特有の刺激臭が、まだはっきりと残っている。
彼女は目を細めた。
「……三番?」
小さく呟く。
「そうかもしれない」
バンソンは手を伸ばし、インクの線へそっと指先を近づける。
触れた瞬間――
まだ湿っている。
雨に晒されているというのに、インクは滲んですらいない。
「たった今、ここで描いたんだ」
バンソンが言った。
「あいつはここで立ち止まって、俺が追いつくのを待ってた。その間にこれを描いた」
「三人目……?」
アサの身体が小さく震えた。
脳裏に、先ほどテレビ画面へ映し出された死のリストが蘇る。
「リクが一人目……。ノアが二人目……」
「あるいは――」
バンソンが重く頷く。
「次の犠牲者候補、その三人目かもしれない」
「じゃあ、その三人目って……誰?」
アサが囁く。
その瞳には、極度の恐怖が浮かんでいた。
答えは返ってこなかった。
ただ冷たいトタン屋根を、雨粒が規則的に叩き続けている。
――パラパラ。
――パラパラ。
それだけだった。
すべての痕跡を改めて確認し、周囲に危険がないことを確かめたあと、バンソンとアサは主要教室棟の廊下へ重い足取りで戻っていった。
二人とも全身ずぶ濡れだった。
肉体的にも、精神的にも、疲労は限界に達している。
二階へ上がった、そのとき。
アサのコートのポケットの中で、スマートフォンが長く一度、振動した。
彼女は取り出し、画面をスワイプする。
見慣れない番号から、一枚の画像メッセージが届いていた。
発信元は、仮想の市外局番を使った番号だった。
画像を開いた瞬間――
アサの血の気が、一瞬で引いた。
そこに映っていたのは、遠距離から撮影された一枚の写真。
強いノイズが入り、輪郭も粗い。
それでも――
誰が写っているのかは、十分に分かった。
旧校舎の廊下を走るアサ。
その前を走る、バンソンの背中。
つまり――
誰かが、アサの姿まで撮影していた。
犯人は、バンソンだけを監視していたわけではない。
別の協力者がいる。
あるいは――
別の場所に設置されたカメラがある。
どちらにせよ、一つだけ確かなことがあった。
この一連の出来事は――
最初から最後まで、二人の行動そのものが監視されていたのだ。
二階へ上がった、その直後だった。
アサのコートのポケットの中で、スマートフォンが長く一度、震えた。
彼女は携帯を取り出し、画面を滑らせる。
仮想の市外局番を使用した番号から、一通の画像メッセージが届いていた。
画像が表示された瞬間――
アサの血の気が、すっと引いた。
それは遠距離から撮影された一枚の写真だった。
強いノイズが入り、画質も荒い。
それでも、誰が写っているのかははっきり分かる。
旧校舎の廊下を走るアサ。
その前を走る、バンソンの背中。
――誰かが、二人を追跡しながら撮影していた。
いや。
違う。
奴はバンソンだけを監視していたのではない。
アサまで監視している。
別の共犯者がいるのか。
それとも――
別の場所に設置されたカメラから、彼女の行動まで記録しているのか。
写真の下には、死者の世界から打ち込まれたかのような、乾いた文字が並んでいた。
『あの男には、君を巻き込むなと言ったはずだ』
その直後、画面に三つの点が点滅し始めた。
次のメッセージを入力していることを示している。
そして――
『次は、警告だけでは済まない』
アサは、その場に凍りついたように立ち尽くした。
手からスマートフォンが滑り落ちる。
ドサッ。
タイルの床へ落ちた衝撃で、画面には斜めに大きな亀裂が走った。
バンソンが即座に振り返る。
床からスマートフォンを拾い上げる。
そして――
そこに並ぶ二つの死を予告するような文章へ目を走らせた瞬間、少年の全身から凄まじい殺気が立ち昇った。
それはもう、冷静な推理を積み重ねる者の静けさではない。
自分の縄張りを侵された野獣が、愛するものを守るために剥き出しにする怒りだった。
バンソンはアサの両肩を掴み、彼女の身体を自分へ向ける。
「今この瞬間から――」
低く、濁った声。
一語一語が、空気へ釘を打ち込むように響く。
「一人でどこにも行くな」
「トイレに行くときも、水を買うときも、家へ帰るときもだ」
「絶対に」
「あなたもでしょ」
アサは顔を上げた。
目には涙が溜まっていた。
それでも、その眼差しには揺るがない強さがあった。
「あなたも、あいつらの標的になってる」
「違う」
バンソンは切り捨てるように答えた。
そこには、抑圧的なほどの強い意志が滲んでいた。
「あいつらの狙いは、俺を脅すためにお前を利用することだ」
「また、そんな――」
アサが反論しようとした。
彼女が何より嫌っているのは、彼が一人ですべてを背負おうとする、その独善的なまでのやり方だった。
「聞け、アサ!」
バンソンが怒鳴った。
だが次の瞬間――
彼は彼女を胸の中へ引き寄せた。
両腕で、力いっぱい抱きしめる。
傷ついた左肩から血が滲んでいることさえ構わない。
湿ったアサの髪へ顔を埋め、震える息を吐く。
「もし、あいつらがお前を使って俺を追い詰めて――」
「俺の心を壊そうとしてるんなら……」
声が僅かに震えた。
「俺は、絶対にそんなことをさせない」
「天に誓ってもいい」
「俺の命を奪われるほうが、まだマシだ」
「それでも――お前の髪一本にすら、触れさせない」
アサの身体が、彼の腕の中で強張った。
だが、胸に渦巻いていた怒りは消えていった。
代わりに押し寄せてきたのは、胸を締めつけるような痛みだった。
アサは彼の背中へ両腕を回し、強く抱きしめ返す。
分かっている。
この男は、自分のためなら――
世界そのものを壊してしまえる。
そして同時に――
自分自身さえ、壊してしまえる。
* * *
夜が降りる。
街は、青白い闇と、力なく滲む街灯の明かりに包まれていた。
雨は上がっていた。
その代わりに、濡れたアスファルトにはいくつもの水溜まりが残り、そこへ街灯の光が細かく揺らめきながら映り込んでいる。
バンソンとアサは学校を後にした。
二人は、地下鉄の駅へ続く、人通りの少ない近道を歩いていた。
周囲は異様なほど静かだった。
そのため、砂利を靴底が擦る、わずかな音さえはっきりと聞こえる。
バンソンはアサの左側を歩いていた。
常に彼女を車道から遠ざけ、歩道の内側へ置いている。
その身体は完全に警戒態勢へ入っていた。
今にも切れそうな一本の弦のように、全身が張り詰めている。
そのとき――
背後から、空気を切り裂くような不気味な音が響いた。
凄まじい速度で回転する自転車のチェーン。
濡れた路面を強く擦るタイヤ。
それらが重なり、耳をつんざくような音となって迫ってくる。
バンソンが振り返れたのは、顔の半分だけだった。
街灯もつけていないスポーツタイプの自転車が、黒いフードで頭部を覆った乗り手を乗せて、狂ったバイクのような速度で突っ込んできた。
その進路は――
アサの背中。
「アサ!」
バンソンが吠えた。
考えるより早く、反射神経が身体を動かす。
右腕を伸ばし、アサの腰を掴む。
全身の力を込めて、彼女を自分の胸元へ引き寄せる。
同時に身体の軸をひねり、自分の背中を盾にするように彼女の前へ回り込んだ。
ヒュッ――!
自転車が、二人の身体を紙一重で掠めていった。
合金製のハンドルが、負傷しているバンソンの左肩を激しく打つ。
衝撃で身体が大きくよろめいた。
アサもバランスを崩し、そのままバンソンの腕の中へ倒れ込む。
二人は数歩よろめきながら後退し――
そのまま、濡れた草地の縁へ倒れ込んだ。
だが、自転車は一切速度を緩めなかった。
そのまま暗闇の向こうへ疾走し、前方の曲がりくねった路地へ姿を消す。
残されたのは、建物の壁々へ反響する、耳障りな走行音だけだった。
アサが勢いよく身体を起こす。
心臓が胸郭を突き破って飛び出しそうなほど激しく鳴っている。
彼女は呆然と、自転車が消えていった方向を見つめた。
その直後、バンソンが地面へ手をついて立ち上がった。
左肩から脳天へ突き抜けるような激痛も無視する。
彼は両手でアサの顔を包み込み、無理やり自分の目を見させた。
その瞳には、これまで見せたことのないほどの焦りと恐怖が浮かんでいた。
「大丈夫か?」
「怪我してないか?」
「ぶつけられてないか?」
矢継ぎ早に問いながら、肩、腕と順に手を滑らせ、擦り傷や骨折がないかを必死に確かめていく。
「大丈夫……」
アサは息を整えながら答えた。
「本当に、何ともないから」
だが、バンソンは止まらなかった。
今度は彼女の両手を裏返し、指先まで確かめる。
その声は震えていた。
「本当にそうか?」
「どこか痛いところは?」
「隠すな。すぐに言え!」
「バンソン、大丈夫だってば。本当に何ともない」
アサは、取り乱している彼の両手をそっと握った。
そして、目の前の顔をじっと見つめる。
薄暗い街灯の下。
バンソンの顔は紙のように青ざめていた。
額には大粒の汗が浮かび、それが雨の名残の水滴と混ざっている。
薄い唇も、わずかに震えている。
論理の天才。
これまで数多くの殺人鬼を前にしても、一度として恐怖に屈したことのなかった男が――
今は、ほんの一度の接触事故になりかけた出来事のために、身体を震わせている。
アサは声を落とした。
胸の奥が締めつけられるような、痛ましい気持ちが込み上げる。
「あなた……」
一瞬、ためらってから。
「……怖かったの?」
バンソンは否定しなかった。
彼はゆっくりと目を伏せる。
そして額をアサの額へそっと重ねた。
熱い吐息が、彼女の顔へ触れる。
その呼吸には――
魂の奥底から湧き上がるような、微かな震えが混じっていた。
「……ああ」
バンソンは囁いた。
自分の致命的な弱さを認めるように。
「怖かった」
アサは手を伸ばし、そっと彼の首へ腕を回した。
張り詰めたまま硬直している背中を、優しく撫でる。
「私はここにいるよ。大丈夫。あなたがちゃんと私を守ってくれたでしょう?」
「分かってる」
バンソンは掠れた声で答えた。
そして彼女の首元へ顔を埋め、胸の中で狂ったように鳴り続ける鼓動を鎮めるために、慣れ親しんだ彼女の香りを貪るように吸い込んだ。
しばらくして、ようやく心を落ち着かせたアサが、そっとバンソンの身体を少しだけ引き離した。
彼女は振り返り、自転車が消えていった暗い路地を見つめる。
目を細める。
そして――新たな推論が、ゆっくりと形を取り始めた。
「ねえ……」
アサが口を開く。
声は重かった。
「どうした?」
バンソンは身体を起こし、彼女の服についた泥を手で払ってやる。
「さっきの自転車」
アサはゆっくりと言葉を選びながら、分析を始めた。
「突っ込んできたとき、乗っていた人は一度も速度を落とさなかった」
「ブレーキをかけた音すら、しなかった」
バンソンの手が止まった。
彼は顔を上げ、アサを見る。
アサは唾を飲み込んだ。
背筋を冷たい感覚が走る。
「もし、あの人が私たちを脅かしたかっただけなら……さっきまでの警告メッセージと同じなら、どうしてあんな危険な速度で、すれすれまで自転車を突っ込ませたの?」
「もしあなたが間に合わなかったら……あの速度と衝撃なら、肋骨を折ることだってできる。頭を打てば、重い頭部外傷になる可能性もある」
バンソンはすぐには答えなかった。
ゆっくりと立ち上がり、アサへ手を差し出して彼女も立たせる。
その顔からは、先ほどまでの動揺が完全に消えていた。
そこにあるのは――
冷酷な殺し屋のような表情だった。
二人は互いを見つめる。
そして同時に、背筋を凍らせる一つの事実へ辿り着いた。
あれは、二人を怯ませるための警告などではない。
単なる学校内での脅しでもない。
もしかすると――
あの人間には、本物の殺意があった。
アサを故意に傷つけようとしていた。
この事件は、もはや心理的な揺さぶりや操作だけで片づけられる段階を、完全に越えてしまったのだ。
* * *
十分後。
バンソンは通りの角に立ち、スマートフォンを取り出した。
そして、バク――学校外から捜査を支援するチームのリーダーへ電話をかける。
数コールもしないうちに、向こうが応答した。
「どうした、バンソン」
「バク。学校西棟周辺の監視カメラを全部確認してくれ」
バンソンは淡々と、しかし一切の余計な言葉を挟まずに命じた。
「西棟を中心に、半径二キロ以内まで範囲を広げて、周辺の裏道や道路沿いにあるカメラも全部だ」
バクは、バンソンの声にただならぬ異変を感じ取った。
「何があった? また何か面倒を起こしたのか?」
「違う」
バンソンは即答した。
「誰かが俺とアサを監視している。さっき、物理的な攻撃を仕掛けてきた」
電話の向こうが、五秒ほど完全に沈黙した。
やがてバクが、深く息を吸う。
バンソンは朝から起きた一連の出来事を手短に説明した。
盗撮写真。
旧校舎への閉じ込め。
洗脳を目的とした映像。
改竄された成績データ。
そして、つい先ほどの自転車による襲撃。
すべてを聞き終えると、バクの声が変わった。
一気に指揮官としてのものになる。
「いいか、バンソン」
低い声だった。
有無を言わせない圧力が込められている。
「今この瞬間から、アサを連れて勝手にあの旧校舎へ戻るのは禁止だ。分かったな?」
「……分かった」
バンソンは、自分の判断が甘かったことを認めた。
「それと、聞けよ、バンソン」
バクの声がさらに低くなる。
「この件は、もう単なる成績絡みの学校内いじめなんかじゃない」
「お前が相手にしている奴は、カウンターサーベイランスの知識を持っている。現場を演出する思考力もある。しかも、暴力を使うことをためらわない」
「これはもう、未遂の殺人事件へ発展しつつある」
「俺もそう考えてる」
バンソンは短く答えた。
「監視カメラの確認結果が出たら、最優先で知らせてくれ」
* * *
それから三十分後。
バンソンとアサが駅近くの人影もまばらなカフェで黙って座っていたとき、バンソンのスマートフォンが鳴った。
F――チームのネットワークデータ分析担当、フドからの着信だった。
スピーカーに切り替える。
「バンソン、西棟周辺のカメラを調べた結果が出た」
フドの声が、電話越しに慌ただしく響いた。
「言ってくれ」
「完全に消えているデータが一箇所ある」
「ネットワーク障害でも停電でもない。誰かが高権限のアクセス権を使って保存サーバーへ侵入して、映像データを手動で削除してる」
「時間帯は?」
バンソンはすぐに紙とペンを取り出し、記録の準備をする。
「今日の午後四時八分から四時十七分まで」
フドが答える。
「ぴったり九分間だ」
「しかも一台だけじゃない」
「西棟の廊下にある、三台の死角カメラが、まったく同じ時間帯に同時にデータを失っている」
バンソンがペン先で机を軽く叩く。
「つまり、学校内部のサーバールームからシステムを操作したか、バックドア用のアカウントを使ったってことだな」
「偶然じゃない」
「最初から周到に計画されていた」
「その通りだ」
フドが肯定する。
「犯人は、倉庫から逃げた人物の退路を隠したかったのかもしれない」
バンソンは推論を続ける。
「九分あれば十分だ。制服を着替えて、変装用の上着を捨てて、下校する生徒の流れに紛れ込める」
「でもな――」
電話の向こうで、フドが得意げに笑った。
「一つだけ、奴らが計算に入れてなかったものがある」
バンソンの眉が上がる。
「何だ?」
「消されていないカメラが一台ある」
「どこだ?」
「資材倉庫の裏手、死角になっている交差点に設置された市の交通監視カメラだ」
「学校の内部ネットワークには繋がってない。だから、奴らの手じゃ消せなかった」
フドが説明する間にも、キーボードを叩く音が電話越しに聞こえる。
「交通管制システムに侵入して、映像データを抜き出した」
「今、ファイルを送る」
ピンッ。
通知音が鳴った。
バンソンは受信したファイルを開く。
そこには、低解像度の映像から切り出された一枚の静止画があった。
一人の人間が、ぬかるんだ土の道を歩くように走り抜け、バスの走る大通りへ向かっている。
制服は、この学校の男子生徒のもの。
その上から、黒いダウンジャケットを羽織っている。
雨に濡れ、身体へ張りついていた。
顔は深く被ったフードで完全に隠されている。
さらに撮影位置も、木の枝によって一部を遮られていた。
画面に映っていたのは、わずか一秒。
その直後には、男の姿はフレームの外へ消えていた。
だが――
バンソンはスマートフォンの画像処理ソフトを使い、走っている男の右手へズームした。
そこで――
一つの、ごく小さな特徴が目に飛び込んできた。
ダウンジャケットの袖口から覗く右手首。
そこに――
赤い糸で編まれた細い紐が結ばれていた。
「フド」
バンソンの声が、張り詰めた弦のように硬くなる。
「AIで、この紐を拡大して鮮明化できないか?」
「無理だな、相棒」
フドが悔しそうに息を吐く。
「そこの交通カメラは解像度が低すぎる。それに雨までひどい」
「AIで不足してるピクセルを補完したら、元の情報じゃなくてAIが勝手に作った形になる」
「証拠としては使えない」
バンソンは、画面を長い間見つめ続けた。
赤い紐。
何千人もの生徒の中で、数少ない識別要素。
だが、それだけでは弱すぎる。
アサも隣から身を寄せ、画面を覗き込む。
眉間に皺を寄せ、必死に記憶を探る。
「……知ってる人?」
アサが顔を上げる。
「いや」
バンソンは首を横に振った。
そして、窓の外に広がる霞んだ地平線へ視線を向ける。
脳裏を、何十もの顔が次々とよぎっていく。
この学校には、およそ二千人近い生徒がいる。
その半数が男子だ。
何らかの縁起担ぎ、ファッション、あるいはお守りとして赤い紐を身につけている生徒など、数百人いてもおかしくない。
この曖昧すぎる一つの特徴だけで、人物を特定することはできない。
捜査はまたしても――
苛立ちを伴う袋小路へ突き当たった。
* * *
翌朝。
その出来事は、午前の授業終了を告げるチャイムが鳴った直後に起きた。
バンソンとアサが西門から学校を出て、昼食を取る店を探そうとしていたときだった。
小柄な人影が、二人の前に立ちはだかった。
――ミズノ・レイカ。
中学時代からのアサの親友だった。
その場に立っているだけなのに、嵐の前に放り出された雛鳥のように、全身が小刻みに震えている。
以前より明らかに憔悴していた。
目の周囲には濃い隈が浮かび、瞳には隠しきれないほどの恐怖が滲んでいる。
彼女は一抱えもの資料を、最後に残された盾であるかのように胸へ強く抱きしめていた。
レイカは最初にアサを見る。
そこには、罪悪感が滲んでいた。
そして次の瞬間、勢いよくバンソンへ向き直る。
「あなたたち……昨日の午後、旧校舎へ行ったの?」
掠れた声。
喉の奥で言葉が詰まっている。
バンソンは、彼女が情報を知っていること自体には驚かなかった。
表情を冷たく保ったまま答える。
「ああ」
「どうして知ってる?」
レイカの顔からさらに血の気が引いた。
唇は固く閉じられ、真っ白になっている。
彼女が答えられずに黙り込んだこと自体が、十分な答えだった。
――誰かが、裏で情報を流した。
「どうして……?」
レイカがようやく声を絞り出す。
目には涙が浮かび始めていた。
「どうして、そんな馬鹿なことをしたの?」
「どうして、あのことを掘り返そうとするの?」
「カンザキ・リクのためだ」
バンソンは、はっきりと言った。
声量は大きくない。
だが、その名前には、人の心臓を正確に突き刺すほどの威力があった。
レイカが一歩後ずさる。
全身が強張った。
視線が落ち着かず、何度も左右へ揺れる。
「君はあそこを知っている」
バンソンが半歩前へ出る。
その身長差さえも、心理的な圧力として利用する。
「旧校舎に何が隠されているのかも知っている」
「学校内暴力の映像も、改竄された成績記録も……」
「全部、知ってるんだろ?」
「もう調べないで!」
レイカが突然、叫んだ。
両手で耳を塞ぐ。
これ以上、何一つ聞きたくないとでもいうように。
「お願いだから、やめて!」
「どうして俺がやめなきゃならない?」
バンソンは冷たく問い返す。
「だって……!」
レイカは泣きじゃくりながら叫んだ。
身体中が小刻みに震えている。
「だって、あなたたちは何も分かってない!」
「これがどれほど危険なことか、分かってないのよ!」
「あなたたちは――」
息を詰まらせる。
「悪魔を相手にしてるの!」
「奴らは、誰一人として許さない!」
「だったら教えてくれ」
バンソンの声が低くなる。
「その悪魔は――誰だ?」
その瞳はレイカの心の奥へ食い込むように向けられていた。
容赦なく。
一歩も引かない。
レイカは顔を上げた。
そして、アサを見る。
助けを求める眼差し。
そこには、過ぎ去った友情への何万もの「ごめん」が詰まっていた。
だが――
アサがバンソンの隣で見せている、揺るぎない視線を目にした瞬間。
レイカの表情が変わった。
絶望が、その顔を覆い尽くす。
「無理……」
レイカは震えながら後ずさった。
首を何度も横に振る。
「私には……言えない」
「言えないの……」
バンソンは、最後に残った忍耐を使い果たすように息を吐いた。
そして、問いを一つだけに絞る。
「なら、せめて一つだけ教えてくれ」
「一つだけでいい」
「カンザキ・リクは……」
一拍。
「今も生きているのか?」
それとも――
「もう、死んでいるのか?」
その問いは、静まり返った空間へ落とされた。
まるで――
爆発までの時間だけを刻み続ける、時限爆弾のように。
レイカは、石になったようにその場へ立ち尽くしていた。
秋風が、乱れた髪を容赦なく巻き上げる。
何かを言おうとして、口を開く。
だが――
結局、何も言えないまま、固く唇を閉じた。
強く握りしめた手の甲へ、涙がぽろぽろと落ちていく。
彼女は答えなかった。
バンソンはレイカを見つめていた。
その顔に現れる、ごく微細な筋肉の変化さえ見逃さない。
そして、冷たく言い放った。
「この沈黙が……答えってことか?」
その一言が、レイカの最後の防衛線を打ち砕いた。
彼女は両手で顔を覆い、その場で泣き崩れた。
その泣き声には、耐え難い羞恥と、底なしの後悔が滲んでいる。
「ごめんなさい……」
しゃくり上げながら、レイカが呟く。
「本当に、ごめん……アサ……」
それだけを残して、彼女は踵を返した。
そして、C棟へ続く廊下へ向かって、逃げるように走り去っていく。
下校する生徒たちの騒がしい波の中へ、その姿はあっという間に消えていった。
レイカが去ったあと。
バンソンとアサの周囲から、まるで酸素だけが抜き取られたかのような、息苦しい静けさが残った。
アサは、その場から動けなかった。
虚ろな目で、誰もいなくなった廊下を見つめる。
そこは――
幼い頃から唯一の親友だった少女が、今しがた消えていった場所だった。
裏切られた。
隠されていた。
そして、自分自身も知らないうちに、巨大な嘘の渦へ巻き込まれていた。
その感覚が胸を締めつける。
「もう……誰を信じればいいのか分からない」
アサが呟いた。
その声は、風に吹かれれば消えてしまいそうなほど脆かった。
「俺もだ」
バンソンは腕を組む。
眉間には深い皺が刻まれていた。
「フジサワ・レンは、リクをいじめていたことについて嘘をついている」
アサは、目の前に積み重なった狂気じみた事実を、ひとつずつ数え直していく。
「ミズノ・レイカは、被害者と面識がないと言って嘘をついてる」
「コンピューターの成績記録は、露骨に改竄されていた」
「監視カメラは、管理権限を持つ誰かに消去されてる」
「私たちの行動をずっと追っている誰かがいる」
「そして、私を潰すために、わざと自転車を突っ込ませてきた人間までいる……」
アサはバンソンへ振り向いた。
その瞳には涙が浮かんでいた。
しかし、その涙の奥には、目隠しをされたまま盤上へ駒を置かされている人間のような、激しい憤りがあった。
「じゃあ、結局……」
「私たちは何を捜査してるの、バンソン?」
「犯人は誰?」
「被害者は誰?」
「誰が敵で、誰が操り人形なの?」
バンソンは、すぐには答えなかった。
胸がゆっくりと上下する。
彼は灰色に濁った空を見上げた。
混沌と化した巨大な方程式の中から、わずかでも秩序を見つけ出そうとするように。
長い沈黙のあと。
彼はアサへ顔を向け、唇をわずかに開いた。
「……分からない」
まただった。
「分からない」
その言葉が、再びバンソンの口から出た。
まるで自らナイフを握り、自分自身の推理力の誇りへ突き立てるような言葉だった。
苛立ち。
怒り。
無力感。
そのすべてが、彼の顔に刻み込まれている。
事件を解くことにおいて、誰よりも先を読む天才。
その男が今、自分の周囲すべてに刃物が仕掛けられた部屋の中で、手探りで出口を探している盲人のような気分を味わっていた。
* * *
その日の午後。
バクたちの秘密の作業室。
バンソンは巨大なホワイトボードを部屋の中央まで引きずり出した。
そして、色とりどりのマーカーが入ったバスケットを机の上へ乱暴に置く。
カタン――。
「何をするつもり?」
ソファに座っていたアサが、不思議そうに彼の背中を見つめる。
「全部、最初から洗い直す」
バンソンは答えた。
赤いマーカーを一本取り出し、片手でキャップを外す。
「今回は、犯人が誰なのかを探すことから始めない」
彼はマーカーを持ち上げ、ホワイトボードの中央へ、大きく、鋭い文字を書き込んだ。
――
【俺は、何を検証もせずに前提としていた?】
アサは、その鮮烈な赤い文字を見つめた。
すぐに理解した。
これは――
推理が完全に行き詰まったとき、バンソンが取る最も極端な方法だった。
自分自身の先入観という名のシステムを、一度すべて破壊する。
そして、土台からもう一度組み直す。
ゼロへ戻る。
バンソンは黒いマーカーを手に取った。
ホワイトボードの左側へ仮説を書き連ねていく。
そして右側には、赤いマーカーで次々と線を引き、その反証を書き込む。
ペン先が走る速度は、風のように速かった。
まるで、自分自身の思考そのものと殴り合っているかのようだった。
――カンザキ・リクは死亡している?
→ ×
「遺体が見つからない限り、断定はできない」
「失踪は監禁かもしれない。逃亡かもしれない」
「あるいは……自分の死そのものを偽装している可能性だってある」
「現時点では、殺人を直接裏付ける証拠は何もない」
――シラサワ・ノアは、成績へのプレッシャーで自殺した?
→ ×
「それは現場を見た警察が最初に下した結論にすぎない」
「もし本当に、成績を改竄され続けたことが自殺へ追い込む原因になっていたなら――それは間接的な殺人だ」
「もっと悪い可能性もある」
「自殺現場そのものが、偽装だったということだ」
――学校の成績は、学校側が実績のために改竄した?
→ ×
「無理がありすぎる」
「学校側が隠蔽するつもりなら、物理的なバックアップまで完全に消すはずだ」
「なぜ旧資料室に、こんな下書きデータを残しておく?」
「そもそも、誰がSR-01というアカウントを使って操作した?」
――ミズノ・レイカは脅迫された被害者?
→ ?
「可能性は高い」
「だが、脅迫されて犯罪を隠蔽している共犯者という可能性もある」
「彼女の沈黙は……受け身すぎない」
「むしろ、意図的に何かを隠しているように見える」
――フジサワ・レンはリクをいじめ、失踪にも関与している?
→ ×
「学校内暴力については、映像という証拠がある」
「だが、殺人やシステム改竄とレンを直接結びつける物的証拠は一つもない」
「レンは、誰かが世論を誘導するために用意した捨て駒にすぎない可能性がある」
――俺たちを監視している人間は、去年の事件を仕組んだ首謀者と同一人物?
→ ×
「まだ断定できない」
「自転車で襲ってきた人間は、雇われた実行犯かもしれない」
「誰かを守ろうとしている模倣犯――コピーキャットかもしれない」
「あるいは、学校そのものに恨みを抱く生徒かもしれない」
「『03』の記号も、赤い紐も、まだ何一つ論理的には繋がっていない」
バンソンは三歩後ろへ下がった。
そして持っていたマーカーを机へ叩きつけるように投げた。
カタン。
ホワイトボードには、仮説と否定の線が入り乱れている。
まるで――
一度築き上げた推理の壁そのものが、崩壊してしまったかのようだった。
アサは、赤い線で無数に消去された一覧を見つめた。
「あなた、自分の仮説を全部、自分で壊してる」
アサが静かに言った。
「そうだ」
バンソンは腕を組む。
赤い文字と、無数の線で埋め尽くされたホワイトボードを凝視する。
その声は暗かった。
それでも――
奇妙なほど澄み切っていた。
「もし俺が自分で壊さなかったら……」
バンソンは静かに続ける。
「俺たちは、あいつがわざわざ時間をかけて作り上げた筋書きの通りに――」
「何も疑わず、素直に踊らされることになる」
彼の視線が、ホワイトボード中央の赤い問いへ戻る。
――【俺は、何を検証もせずに前提としていた?】
その問いだけが、静かな部屋の中で異様な存在感を放っていた。
バンソンはアサへ振り返った。
口元に、殺気を孕んだ薄い笑みが浮かぶ。
「ゲームは終わりだ」
その瞳には、もはや迷いがなかった。
「明日からは、あいつらのルールでは戦わない」
* * *
深夜。
雨はすっかり上がり、代わりに秋の夜特有の、骨まで凍みるような冷気が街を覆っていた。
バンソンとアサは、アサの住む住宅街へ続く細い道を歩いていた。
力のない街灯が二人の影を路面へ長く引き伸ばしている。
街は静まり返っていた。
だが、二人の胸の中には、それぞれ重たい石が沈んでいた。
分かっている。
二人が一歩後退するたび――
敵は、一歩前へ進んでいる。
アサの家へ曲がる交差点まで来ると、二人は足を止めた。
ここで、別れなければならない。
バンソンはアサの正面に立った。
何も言わない。
ただ手を伸ばし、頬にかかった一房の髪を、親指でそっと払った。
その仕草は、事件の冷酷さとはあまりにも対照的なほど、優しかった。
「ねえ……」
アサが小さく呼びかける。
顔を上げたその瞳には、数え切れないほどの不安が宿っていた。
「ん?」
「明日……」
アサは唇を噛んだ。
ほんの一秒ためらい、それから懇願するような声で続ける。
「何があっても、絶対に一人でどこかへ行かないで」
「約束してくれる?」
バンソンは、彼女の琥珀色の瞳をじっと見つめた。
アサの不安が、一本の針のように胸へ突き刺さる。
彼は静かに頷き、彼女の頭をそっと撫でた。
「分かった」
「本当にだからね」
アサは念を押すように言い、両手で彼のコートの裾を掴んだ。
「あなたに何かあったら……私、どうしたらいいのか分からない」
「分かってる」
バンソンは、安心させるように微笑んだ。
「約束する」
「だから、もう家に入れ」
「しっかり鍵をかけろ。何かあったら、すぐに俺へ電話しろ」
アサは頷いた。
やがて、ゆっくりと手を離す。
二人はそれぞれ別の方向へ身体を向け――
少しずつ、距離を開いていった。
バンソンは十五歩ほど歩いた。
革靴が路面を叩く音が、規則正しく夜へ溶けていく。
その間にも、彼の思考は翌朝に向けたアサの家の警備計画を組み直し始めていた。
どの位置に監視を置くべきか。
侵入経路は。
逃走経路は。
そして――
敵が次に狙う場所はどこか。
そのとき突然。
ズズッ――。
ズズズッ――。
ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが激しく震えた。
新着メッセージ。
また、あの仮想番号からだった。
バンソンは足を止めた。
スマートフォンを取り出す。
画面の光が、暗闇の中で鋭く目に飛び込んできた。
そこに表示されていたのは、短い一文だった。
だが、それは――
午後、彼が必死になって築き上げた推理の体系を、根こそぎ破壊するほどの威力を持っていた。
『君は、とても基本的なことを一つ、勘違いしている』
バンソンの心臓が、わずかに鼓動を外した。
彼はその場に立ち尽くした。
五秒後。
二通目のメッセージが届く。
『カンザキ・リクは、最初の一人じゃない』
バンソンの瞳孔が極限まで開いた。
――最初の一人ではない?
なら、この悲劇の連鎖は、それよりずっと前から続いていたのか?
あの映像にあったリストは、偽物だったのか?
暗闇の中に、三通目の着信音が鋭く鳴り響く。
『そして、ミズノ・レイカは……標的ではない』
バンソンはスマートフォンを強く握り締めた。
指の関節が白くなる。
レイカが標的ではない?
なら――
なぜ彼女は脅迫されていた?
なぜ、あれほど怯えていた?
なぜ、すべての手掛かりが彼女へ向かっていた?
最後のメッセージが届く。
そこには、まるで脳そのものへ下される死刑宣告のような一文が記されていた。
『最初に救うべきなのは……彼女自身だ』
――彼女?
まただ。
あの旧校舎の紙片に書かれていた、「彼女」という代名詞。
あれと同じだ。
レイカではない。
ノアでもない。
その瞬間だった。
冷たい電流のような感覚が、バンソンの背筋を一気に駆け抜けた。
途切れていたすべての断片が――
最も恐ろしい一つの答えによって、突然、一本に繋がった。
標的にされている人物。
自分にとって――
最大の弱点。
バンソンは弾かれたように振り返った。
視線の先。
アサが、さっき歩いていった方向へ進んでいる。
距離は、およそ六十メートル。
遠い街灯の下で、彼女の身体が小さな影となっている。
そのとき。
静まり返った夜の中に――
アサのスマートフォンから、着信を知らせる音が微かに響いた。
アサが足を止める。
道路の中央で、ぴたりと立ち尽くす。
バンソンは見た。
彼女がゆっくりとコートのポケットからスマートフォンを取り出す。
画面の光が、青白い顔を照らしていた。
アサの画面に表示されていたのは――
心理を弄ぶような文章ではなかった。
自分が旧校舎を走っていたときの盗撮写真でもない。
レイカの写真でも、リクの写真でもない。
それは――
アサの家の正面玄関を真正面から撮影した写真だった。
そして――
明かりの消えた家。
そのガラス窓の隙間から見えた室内には、
巨大な黒い人影が一つ。
まるでそこに最初から存在していたかのように――
リビングルームの中へ、ぬっと立っている。
写真の下には、赤い文字が浮かんでいた。
『今、私は君の家の中にいる』
『君が外に立っていることも知っている』
アサは凍りついた。
喉が塞がり、息が出てこない。
震えきった指から、スマートフォンがゆっくりと滑り落ちていく。
だが、彼女はそれを拾おうとすらしなかった。
ただ立ち尽くし――
今まで「自分の家」だったはずの場所を見つめている。
そこはもう、闇の中に口を開けた墓場にしか見えなかった。
遠くから、バンソンは彼女の身体が完全に硬直するのを見ていた。
その姿だけで分かった。
極限の恐怖を示す身体言語。
理屈よりも先に、本能が理解していた。
次の瞬間――
理性という最後の壁が、完全に崩れ落ちた。
バンソンは自分のスマートフォンを路上へ叩き捨てた。
そして、痛む左肩から傷口が再び裂け、血が滲み出ようとも構わない。
脚に残された力をすべて叩き込む。
一頭の獣が、命よりも大切な存在を救おうとするように――
絶望的な速度で、アサのもとへ駆け出した。
「アサ――ッ!」
その絶叫が、静まり返った夜を引き裂く。
冷たい煉瓦の壁々へ反響し、何度も何度も遠くへ消えていった。
そして――
画面は暗転する。
世界から、すべての光が消える。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ――
黒だけが、すべてを呑み込んでいった。




