↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/83

Episode 37

挿絵(By みてみん) 秋の早朝の霧は、学校へと続く通りに沿って延びる鉄柵の金網の目に、いくつもの薄暗い水の輪となって残っていた。空気は澄み切っている。それでも、薄い制服の生地をすり抜けるような、かすかな冷気が肌を刺していた。


 バンソンはエナミ・アサの隣を歩いていた。


 足取りはわずかに右へ傾いている。昨夜の一件で左肩は包帯の下にきつく固定されており、動かすたびに鈍い痛みが走っていた。それでも右手には、二人分の通学鞄が提げられている。自分のものと、アサの濃紺の革鞄だった。


 横断歩道の手前で、アサが立ち止まった。


 そして小さく首を傾けて彼を見ると、何の前触れもなく手を伸ばし、自分の鞄の持ち手をつかんだ。指先にわずかに力がこもる。


「怪我をしてるのに、無理して持つんですか」


 澄んだ声だった。責めるような響きではない。だが、決して譲るつもりのない強さが、その声音の奥にはあった。


 バンソンはすぐには手を放さなかった。擦れて少し傷んだ革の端を、なおも指先で握ったまま答える。


「俺が持てる。これくらい、重くない」


「持てるのは分かっています」


 アサは一歩だけ近づいた。


 二人の距離が縮まり、バンソンの耳には彼女の規則正しい呼吸と、唇から漏れる温かな息遣いまで感じ取れるほどになった。


「でも、無理をして平気なふりをするあなたを見るのは好きじゃありません。……特に、私の前では」


 バンソンは、一拍だけ言葉を失った。


 視線がアサの顔に止まる。


 静かに澄んだ瞳。真っ直ぐで、誠実で、少しも逃げようとはしない眼差し。


 やがて彼は小さく息を吐き、ようやく手を緩めた。アサはその隙に鞄を取り戻す。


「母親みたいなことを言うな」


 バンソンはぼそりと呟き、視線を逸らして交差点を横切っていく自転車の流れを眺めた。


 アサは横目で彼を見て、口元に含みのある微笑を浮かべる。


「じゃあ、言うことを聞くんですか?」


「聞かない」


「やっぱり」


 二人は再び歩き出した。


 その歩調は、いつものように不思議なほど自然に重なっていた。


 二人の関係が変わったのは、人目をはばからぬ手つなぎや、耳に残るような大げさな約束があったからではない。


 その変化は、昨夜のあの瞬間から始まっていた。


 薄暗い路地の外、黄色く色あせた街灯の下に立ったバンソンは、アサの瞳を真正面から見つめ、不器用でありながら、人生で一度も口にしたことのないほど確かな告白をした。


 これまで幾つもの複雑な推論の迷宮を解き明かしてきた彼にとって、彼女を安全な場所へ帰し、そして自分の傍にいさせることだけは、決して計算を誤ってはならない唯一の事柄なのだと。


 アサは、華美な言葉で返事をすることはなかった。


 ただ静かに歩み寄り、彼の無事なほうの手を取った。


 そして、強く握った。


 今の二人は、外から見れば、ただ並んで登校している男女にすぎない。


 だが二人の間では、これまで互いを守るために存在していた見えない境界線も、距離を保つための防壁も、すでに完全に消え去っていた。


 二人は分かっている。


 今日という日を境に、自分たちはもはや、真実を追い求める道をただ並んで歩くだけの同行者ではないのだと。


 二人が今から足を踏み入れる学校は、バンソンやアサが通う学校ではない。


 ここは市東部に位置する高校――アサの中学時代からの親友、ミズノ・レイカが現在通っている学校だった。


 バンソンとアサがここへ来た理由は、最近になってレイカの周囲に現れ始めたいくつもの不自然な兆候に気づいたアサの好奇心と不安が発端だった。


 そしてそれは、バンソンを予想していた以上に深く、暗い泥沼へと引きずり込むことになる。


 校門の精巧な鉄細工を抜けた、その瞬間だった。


 バンソンの制服のポケットに入っていた携帯電話が、短く断続的に震え始めた。


 彼は取り出す。


 光沢のある黒い画面には、見知らぬ番号からの短いメッセージが表示されていた。


 市外局番もない。


 差出人を特定できる情報も、一切ない。


「ミズノ・レイカに、死んだ人間のことを尋ねるな。」


 バンソンは、数多くの生徒が行き交う校庭の中央で突然立ち止まった。


 アサも異変を即座に察し、身を寄せるようにして画面を覗き込む。


 細い眉がわずかに寄った。


「……また?」


「そうだ」


 バンソンは画面を指でなぞり、乾いた文章を一文字ずつ読み返した。


 アサは腕を組み、深い疑念を宿した眼差しを向ける。


「昨日の最初のメッセージでは、何としてでもレイカに聞けって言ってきたのに。今日は逆に、尋ねるな……なんなの、いったい」


 人の流れの真ん中で、バンソンは黙っていた。


 灰色のタイル張りの地面に、彼の影だけが長く伸びている。


 いつものような即断の推理は、出てこなかった。


 アサは彼の横顔を見つめる。


 そして静かに尋ねた。


「この二つのメッセージ……同じ人物から送られたと思う?」


 バンソンは、平らな画面に浮かぶ黒い文字を凝視した。


 薄い唇がわずかに動く。


 数秒の沈黙のあと、彼は短く答えた。


「……分からない」


 アサがわずかに目を見開いた。


 長い間、彼と共に事件を追ってきた彼女でさえ、その答えには驚きを隠せなかった。


 最初からずっと、あらゆる論理の糸を掴み取ってきた男が、これほど直接的に行き詰まりを認めることはなかった。


「分からない」


 その言葉は、彼にとって決して容易に口にできるものではない。


 そこには、この事件そのものが、すでに制御不能な混沌へ向かいつつあることを告げる、重苦しい予兆があった。


 *


 B棟地下。


 古い記録保管室の内部は、細かな埃に覆われ、腐りかけた紙の臭いでむせ返っていた。


 BとCは、すでにそこで待っていた。


 バンソンとアサが重い木製の扉を押し開け、部屋へ入ってくる。


 生徒記録の照合作業を担当していたBは、黄ばんだ紙の束を透明な保護カバーに包んだ状態でバンソンへ差し出した。


 この学校に過去三年間在籍していた全生徒の名簿だった。


 バンソンは一枚ずつめくる。


 そして、人差し指が一行の上で止まった。


 わずかに色褪せた活字。


「神崎リク」


 バンソンが顔を上げる。


「この人物は?」


 BはCの手元にあった台帳を取り上げ、青いインクが褪せた手書きの記録を数ページめくった。


「去年の11年生。Bクラス所属です」


「今は?」


 バンソンの問いに、Bは指を生徒在籍状況の欄へ滑らせた。


 その目に、明らかな戸惑いが浮かぶ。


「今年の12年生の名簿には……ありません」


「転校?」


「転校ではありません」


 Bは一瞬ためらい、紙の端に小さく記された注記へ視線を落とした。


「記録には……退学、と」


 バンソンが眉間を深く寄せる。


「いつ退学した?」


 Bは最下部に記された小さな日付を指差した。


「去年の10月18日です」


 バンソンはアサを見る。


 アサも、すぐに彼を見返した。


 今日は10月上旬。


 記録された日付から、まだ一年も経っていない。


 バンソンは机の前まで歩み寄り、自分の手で神崎リクの個人記録を取り上げた。


「退学理由は?」


「記録には、一言だけです」


 Bが答える。


「病気」


「何の病気だ? 診断書は?」


「具体的な病名は何もありません」


 Bは首を振った。


「去年の医療記録ファイルも全部確認しました。でも、完全に空白です」


「両親は?」


 バンソンが木製の机を指先で軽く叩く。


「現在の連絡先はありません。自宅の電話番号も、すでに使われていないようです」


「住所は?」


「その週のうちに、別の場所へ転居する手続きをしています」


 バンソンは完全に黙り込んだ。


 腕を組み、天井近くまで積み上がった書架にもたれかかる。


 その眼差しは、何もない虚空を見つめていた。


 アサが彼の傍へ歩み寄る。


「普通に学校へ通っていた生徒が、突然、具体的な病名も示されないまま退学して、現在の住所も家族の連絡先も残っていない……あなたは、これが普通だと思う?」


 Bは疑わしげに首を横へ振った。


「そうは思いません。うちの学校は転校や退学に関する記録管理がかなり厳しい。ここまで情報が抜け落ちている例は、ほとんどありません」


 それまで古びたコンピューターの前で黙っていたCが、突然口を開いた。


「もっと妙なことがあります」


 バンソンが振り向く。


「神崎リクの個人データは、学校の電子データベースから完全に削除されています」


「削除?」


「そうです」


 Cはキーボードを叩き続ける。


「ただし、一部だけです。Bが持っている古い紙の台帳には名前が残っている。でも、成績、生活指導記録、出欠履歴……学校サーバー上のデータは、ほとんど全部きれいに消えています」


「ほとんど?」


 バンソンは、その一語に即座に反応した。


「暗号化されたファイルが一つ残っています」


 Cが画面に映る灰色のフォルダアイコンを指差した。


「管理サーバーのゴミ箱フォルダの奥です」


 バンソンが近づき、画面を覗き込む。


 ポップアップウィンドウが現れた。


 複雑な16文字の暗号パスワードを要求している。


 通常の方法では、到底アクセスできない。


 そこへ、技術関係とネットワークログの解析を担当するFが入ってきた。


 Cと席を交代すると、Fは機械式キーボードの上を素早く指で走らせる。


 システム操作履歴、いわゆるSystem Logを解析するためのコマンドを実行した。


 黒い画面に、緑色の文字列が次々と流れる。


 やがて結果が表示された。


 K.R.ファイル作成時刻――10月17日 23時41分。


 神崎リクが退学手続きを取る前日だった。


 だが、さらに不可解な記録がその直下に残っていた。


 K.R.ファイル最終更新時刻――10月18日 01時13分。


 その直後、更新操作を行ったアカウントは、管理システムから永久に削除された。


 バンソンは、記録された時刻を頭の中でもう一度なぞった。


 そして低く呟く。


「一人の生徒が、突然退学した」


「ロックされたデータファイル」


「編集者のアカウントが消去された」


「そして、成績履歴が痕跡ひとつ残さず消えている」


 アサが彼の隣に立つ。


「これ、レイカと直接関係していると思う?」


 バンソンの視線は、画面上の01時13分から離れない。


「まだ分からない」


 *


 三階の廊下の片隅。


 ミズノ・レイカは、胸の前に大量の受験用資料を抱え、一人で立っていた。


 バンソンとアサは、ようやく彼女を見つけた。


 バンソンは数歩手前まで近づくと、回りくどい前置きもせず、そのまま問いかけた。


「神崎リクを知っているか?」


 レイカの動きが止まった。


 全身が、一瞬で強張る。


 ほんのわずかな時間だった。


 肩の小さな揺らぎ。


 不自然な瞬き。


 だが、バンソンはそのすべてを見逃さなかった。


 彼女は、その名前を完全に知っている。


 レイカは顔を上げ、できるだけ平静を装った声を作る。


「知らない」


 バンソンは何も言わない。


 ただ、彼女を静かに見つめる。


 隣に立つアサの目には、旧友を案じる気持ちと、答えを求める疑念が同時に浮かんでいた。


 レイカはバンソンを見返す。


 声がかすかに震え始める。


「どうして……私にそんなことを聞くの?」


「ただ、気になっただけだ」


「本当に知らない。そんな人、私は知らない」


 レイカは一語一語を強調した。


 抱えている資料に、さらに強く指が食い込む。


 バンソンは真正面から彼女の瞳を見据える。


「今、嘘をついた」


 レイカの表情が完全に凍りついた。


 わずか一瞬で顔色が青ざめる。


「あなた……」


 アサが小さくバンソンを呼んだ。


 だが、バンソンは説明しなかった。


 撤回もしない。


 ただ冷静に、彼女の反応を観察し続ける。


 レイカは下唇を噛み締めた。


 やがて赤い血が滲む。


 彼女がバンソンを見る眼差しには、恐怖と憤りが入り混じっていた。


 そして小さく、震える声で言った。


「本当に……このことは話したくないんです。お願い。もう聞かないでください」


「分かった」


 バンソンは小さく首を傾けた。


 レイカは身を翻し、廊下の奥へ足早に去っていく。


 アサは数歩だけ追おうとした。


 だが、友人のあまりにも狼狽した背中を見て、足を緩める。


 そして、立ち止まった。


 二人は風の吹き抜ける廊下の窓際に残された。


 アサがバンソンへ尋ねる。


「レイカがリクを知っているって、本当に確信してる?」


「間違いない。生理的反応は嘘をつかない。呼吸、瞳孔、肩の動き……全部がそれを示している」


「でも、直接的な証拠は何もない」


 アサが小さく息を吐く。


 バンソンは答えず、眼下に広がる校庭を見つめた。


「全部、推測なの?」


 アサが続ける。


「……そうだ」


 バンソンは認めた。


 その日だけで二度目だった。


 自分が、不完全な推測の断片を頼りに動いていることを認めなければならなくなったのは。


 それは、慎重さを何より重視してきた彼にとって、極めて異例のことだった。


 *


 一方、捜査チームのITルームでは、Cがデータ上書きによって消されたメモリ領域をアルゴリズムで復元し続けていた。


 二時間近くに及ぶ作業の末、前年のいくつかの成績表が部分的に復元された。


 画面に、神崎リクの成績表が浮かび上がる。


 結果は明白だった。


 10年生の一年間と、11年生の前半まで。


 神崎リクは、完全に平均的な学力の生徒だった。


 成績は常に50~60点/100点の範囲。


 目立つところは何一つなく、学年の中でも存在感の薄い生徒だった。


 だが、失踪直前の最後の学期に入ると、その成績が異様な勢いで跳ね上がった。


 学年順位の下半分にいたはずの彼は、一気に全学年7位まで駆け上がった。


 次の試験――5位。


 その次――4位。


 そして――3位。


 最後。


 彼の記録が完全に消去される直前の定期試験で、リクはついに全学年2位へ到達していた。


 そのすぐ上にいた唯一の人物。


 一度もその座を譲らなかった全学年1位。


 ――ミズノ・レイカ。


 アサは復元された成績表を見つめ、深い疑念を滲ませた。


「おかしい……。こんな短期間で、どうしてここまで成績が伸びるの?」


「そうだ」


 バンソンは腕を組み、上位二つの名前を見据える。


「妙すぎる」


 彼は黒いマーカーを取り出し、仮設会議室のホワイトボードにタイムラインを描き始めた。


 神崎リクの系統:


 - 成績が突然、不自然な速度で上昇。

 - 多数の成績上位者を追い抜き、1位へ接近。

 - 再採点や成績公開をめぐる水面下の対立が発生。

 - 電子記録全体に改竄が加えられ、削除される。

 - 謎の退学。


 ミズノ・レイカの系統:


 - 一貫して絶対的な1位を維持。

 - 家庭と学校の成績から極めて強いプレッシャーを受けている。

 - 匿名の脅迫メッセージを繰り返し受信。

 - 鞄の中に秘密の資料を隠している。


 バンソンは一歩後ろへ下がり、全体像を見渡した。


「この事件のすべての道筋が、まるでレイカを指し示している」


 アサは背後から静かに尋ねた。


「でも……あなたは、まだ何かがおかしいと思ってる」


「その通り」


 バンソンは手の中でマーカーを回した。


「俺は、証拠が勝手に一人の人間を指し示す事件が嫌いなんだ。あまりにも分かりやすすぎる。まるで、最初から誰かに筋書きを用意されていたみたいだ」


 *


 学校の別棟。


 Dは、昨年11年生で神崎リクと同じクラスだった元同級生、ハヤマ・ケントを探し出していた。


 二人は体育館の裏手、死角になっている石造りのベンチに腰を下ろしていた。


 ケントはひどく怯えた様子で、何度も周囲へ視線を走らせている。


「リクは……ものすごく臆病なやつでした」


 彼は震える声で囁いた。


「大きな音が怖い。人混みも怖い。他人と目を合わせることも、いつも避けていました」


「でも、途中で変わったんだろ?」


 Dが追及する。


「……はい」


 ケントは小さく頷いた。


「姿が消える少し前です。リクはまるで別人になったみたいでした。反抗するようになって、他人の顔を真正面から見て話すようになった」


「誰かにいじめられていた?」


 ケントは長い間、黙っていた。


 そして俯き、ズボンの裾を両手で強く握る。


「一人じゃありません」


「じゃあ、誰だ?」


「……グループです」


 ケントが小声で答えた。


「どのグループだ? 名前は?」


 Dが身を乗り出す。


「ぼ、僕……名前までは、はっきり……」


 ケントは言い淀んだ。


 だが、その瞬間。


 彼の目が、無意識に二つの校舎をつなぐ廊下の方へ向いた。


 そこを、一人の背の高い男子生徒が歩いていく。


 整然とジェルで髪を固め、友人たちと一緒になって大声で笑っていた。


 ――藤沢レン。


 その直後、藤沢レンはDから生徒相談室へ呼び出された。


 レンは平然とした顔で部屋に入り、Dの向かいに座ると、腕を組んで背もたれに体を預けた。


 Dがノートを開く。


「神崎リクを知っているか?」


 レンは見下すような半笑いを浮かべた。


「知ってるよ。去年、同じ11年生のクラスだったからな。あまりに影が薄くて、忘れようとしても忘れられない程度には」


「お前は、リクをいじめていたか?」


 Dはレンの顔を真正面から見据える。


「まったく」


 レンは肩をすくめた。


「俺がそんな変人のことを気にするほど暇に見えるか?」


「では、お前のグループの他の連中は?」


「さあな。あいつらのことが俺に何の関係がある?」


「お前、成績のことでリクを脅したことがあるんじゃないか?」


 Dがさらに圧力をかける。


 レンの薄笑いは消えない。


「そんなでたらめを言うな。証拠はあるのか?」


 Dは言葉では答えなかった。


 鞄の中から、前年の11年生のクラス集合写真を一枚取り出し、木製の机の上へ置く。


 そこには全員の姿が写っていた。


 リクは左端の隅で縮こまるように立っている。


 対してレンは、目立つ生徒たちの中央に堂々と立っていた。


 Dは左端を指差した。


「現在、学校公式サイトに保存されている写真データでは、どうしてリクの姿だけが消されている?」


 レンは机の上の紙焼き写真を見下ろした。


 その一瞬だけ。


 顔に浮かんでいた軽薄な笑みが完全に消えた。


 瞳孔が縮む。


「俺は……知らない」


 *


 同じ頃。


 技術室にいたFは、専用ソフトによるデジタル画像解析を終えていた。


「ぞっとするものを見つけた」


 Fはバンソンとアサを呼び寄せる。


 学校のプリンターのキャッシュメモリから復元された原版には、後列に合計14人の生徒が写っていた。


 ところが、現在の保存システムに掲載されている写真には、13人しか残っていない。


 神崎リクだけが消されていた。


 しかも、単純なトリミングではない。


「高度な画像編集ソフトを使ってリクの姿だけを消し、その空いた部分に、背後の壁の模様を描き足してある」


 Fは拡大表示しながら説明した。


 画像のピクセルに残された加工痕が、画面いっぱいに広がる。


 編集後の画像ファイルが出力された時刻。


 10月18日 01時17分。


 バンソンの視線が、その時刻へ突き刺さる。


 リクの記録アカウントが電子システムから消去されてから――わずか4分後。


 バンソンは拳を強く握った。


 声は凍りついたように冷たかった。


「誰かが意図的に、あいつをこの世に一度も存在しなかった人間へ変えようとしている」


 *


 夕方。


 血のように赤黒い夕日が、図書館の高い窓ガラスから差し込み、古びた書架の間へ濃い影を長く落としていた。


 バンソンとアサは、大量の資料を積み上げた長い木の机を挟んで向かい合って座っていた。


 アサは、継ぎはぎだらけの記録を見つめながら、声を落とす。


「……怖くない?」


 バンソンは長く息を吐いた。


「怖い」


「生きていた一人の人間が……」


 アサは霧のかかった窓の外を見た。


「ここで勉強して、友達がいて、成績があって、ちゃんと名前もあった。それなのに、たった一晩で、その人間が存在していた証拠が全部、跡形もなく消されてしまった」


 バンソンは黙って彼女の言葉を聞いていた。


「もし、私たちが偶然この古い紙の台帳を見つけていなかったら……」


 アサは冷え切った紅茶のカップを、机の上でゆっくり回した。


「たぶん、神崎リクという人間が存在していたことを覚えている人は、もう誰もいなくなっていた」


 バンソンはアサを見る。


 その目には、深い思索が浮かんでいた。


「リクには、何か……とてもひどいことが起きたんだと思う」


「分からない……」


 アサは小さく呟いた。


 そしてわずかに身震いし、両手で自分の肩を抱く。


「でも、もう本当に怖くなってきた」


 *


 その夜。


 外部の情報源との連絡を担当するEが、一枚の古い法医学報告書を持ってきた。


 だが、それは神崎リクの記録ではなかった。


 別の女子生徒――白澤ノアのものだった。


 彼女の遺体は、前年の秋、学校近くの廃工事現場で発見された。


 警察記録上の死因は、心理的圧力による自殺と正式に判断されている。


 バンソンは報告書を素早くめくった。


「この記録が、俺たちの調べている事件とどう関係する?」


 Eは添付資料のページを指差す。


「確証はありません。でも、ノアの死亡記録に、気になる記述があります」


「死ぬ三日前、彼女は学校事務室に申請書を提出しているんです。ある教科の試験結果について、再採点と点数の再確認を求めたそうです」


「結果は?」


 アサが尋ねた。


「教師は即座に却下しています」


 Eは記録を読み上げた。


「却下理由――『採点過程に誤りはない』」


 バンソンは最初のページを裏返した。


 目が、担当教員の名前と、却下記録に押された承認欄を走る。


 その教師は――


 現在、ミズノ・レイカの担任を務めている人物だった。


 バンソンはホワイトボードの前へ歩み寄る。


 そしてマーカーを手に取り、名前同士を強く線で結んでいった。


 SHIRASAWA NOA → 成績


 KANZAKI RIKU → 成績


 MIZUNO REIKA → 成績


 MEI → 校内暴力


 FUJISAWA REN → 校内暴力


 SHUN → REIKA


 HARUTO → REIKA


 バンソンは赤いペンを取り出し、図全体を大きな円で囲んだ。


 アサが彼のすぐ後ろまで歩み寄る。


 その目に、深い思索が浮かぶ。


「まるで嵐みたい……。みんなが同じ渦に巻き込まれている」


「成績」


 バンソンが、一語だけ呟いた。


 アサは赤い円を見つめる。


「でも、紙に書かれた数字だけで、人を殺したり、その人の存在そのものを消したりなんてできないでしょう?」


 バンソンが彼女を見る。


 その目は、氷のように冷たかった。


「そうだ。数字そのものが人を殺すわけじゃない」


 一拍。


「その数字の裏にある、欲望と恐怖が人を殺すんだ」


 バンソンはさらに二枚の古い答案――白澤ノアと神崎リクのものを取り出し、一行ずつ照合していく。


 そして、一つの奇妙な共通点を見つけた。


 二人とも、同じ教科で異常な成績上昇を見せている。


 ――上級数学。


【ノアの成績】


 - 1回目の試験:62点

 - 2回目の試験:89点

 - 3回目の試験:91点


【リクの成績】


 - 1回目の試験:58点

 - 2回目の試験:84点

 - 3回目の試験:96点


 二人の点数は、まるで完全な線形グラフを描くように増加している。


 だが、バンソンが最も注目したのは――答案の右下だった。


 担当数学教師の確認署名。


 異なる時期に書かれたはずの二人の答案の署名が、インクの払いに至るまで完全に一致している。


 バンソンは拡大鏡を使い、デジタルスキャン画像をさらに拡大した。


 そして断言する。


「同じ人間が署名したわけじゃない」


 一瞬の沈黙。


「これは、電子署名のスタンプだ。元のテンプレートファイルから、そのままコピー&ペーストされている」


 *


 やがてFが、隠された「K.R.」データファイルの最後の暗号化層を突破した。


 画面に表示されたのは、何の情報もない空白のテキストページ。


 ただし、画面の中央にだけ、一行の文字が浮かんでいた。


 鮮烈な赤。


「成績は改竄された。」


 その直下には、操作を実行したアカウント情報が表示されている。


 アクセスアカウント:SR-01


 全員がモニターの周囲へ集まった。


 バンソンは眉をひそめる。


「SR-01」という名前には、まったく心当たりがない。


 Fはただちに、学校の全生徒・全教職員データベースを横断して識別コードの検索を開始した。


「これまで存在した生徒アカウントを全部確認しました。でも、そんなコードはありません」


「教師は?」


「ありません」


 Bが口を挟む。


「まさか、学校側の上級管理者アカウントじゃないか?」


 Fは断固として首を横に振る。


「ありえません。学校のシステム管理者アカウントは、すべてADMから始まります。SRという形式は、現在のシステムには一つも存在しません」


 バンソンは静かに椅子へ腰を下ろした。


 頬杖をつき、完全な沈黙へ沈んでいく。


 アサが彼を見つめる。


「誰なのか、分かった?」


 バンソンは顔を上げ、疲労の滲んだ目を彼女へ向けた。


「分からない」


 アサは静かに息を吐く。


「……また?」


 バンソンは答えなかった。


 首を背もたれへ預け、暗い天井を見上げる。


 *


 深夜。


 23時。


 バンソンの私室。


 室内は静まり返り、机の上に広げられた数十枚のA4用紙を、淡い黄色のデスクライトだけが照らしていた。


 リク。


 ノア。


 レイカ。


 シュン。


 ハルト。


 レン。


 成績。


 匿名の脅迫メッセージ。


 切り取られた監視カメラ映像。


 消去された記録。


 すべての手掛かりが互いに衝突し、彼の仮説を次々と打ち砕いていく。


 残ったのは、矛盾に満ちた混沌だけだった。


 バンソンはペンを握り、紙の上へ素早く書きつける。


「もしレイカが本当に成績不正を隠蔽する動機を持っているのなら → なぜ彼女は、危険を冒してまで秘密の資料を鞄に持ち歩く?」


 線で塗り潰す。


「もしレンが嫉妬からリクをいじめていたのなら → なぜリクの記録を消去できる権限を持つ者が、匿名の管理者アカウントだった?」


 また消す。


「もし学校側が事件を意図的に隠しているのなら → なぜ古い図書館の倉庫に紙の記録を残したままにした?」


 さらに消す。


「もしリクが本当に死亡したか、何か重大な事故に巻き込まれたのなら → なぜ一年もの間、家族は警察に行方不明届を出していない?」


 バンソンは紙を握り潰した。


 そして、部屋の隅へ力任せに投げ捨てる。


 事件の世界へ足を踏み入れて以来、これほど苛立ちと行き詰まりを強く感じたことはなかった。


 自分が誰よりも信頼してきた論理が、今は闇の中に潜む見えない敵によって、弄ばれている。


 そのとき、部屋の扉が静かに開いた。


 アサが入ってくる。


 彼女はすぐには何も言わなかった。


 床に散乱した紙。


 机の上を埋め尽くす乱雑な図。


 そして、バンソンの張り詰めた表情。


 それだけで、すべてを理解していた。


 アサは机の隅に弁当箱と、まだ温かい紅茶を置く。


「午後から何も食べてないでしょう?」


「腹は減ってない」


 バンソンはそう答えながら、手の中のマーカーを弄っていた。


「知ってる」


 アサは彼のすぐ隣へ椅子を引き寄せて座った。


 数分間、黙ってバンソンを見つめる。


 重たくなった呼吸を聞きながら。


 そして、静かに問いかける。


「怖いんでしょう?」


 バンソンは黙った。


 指先の動きが止まる。


 アサは机の上に絡み合う無数の図を見つめた。


「自分の推理が間違っていることが怖い?」


「……」


「自分の推理で、みんなを間違った方向へ導いてしまうのが怖い?」


 バンソンは頭を両手で抱え込んだ。


 疲労で声が掠れている。


「この感覚が、一番嫌いなんだ」


「どんな感覚?」


「見えるんだ……」


 バンソンは顔を上げた。


 その目には、赤く充血した筋が浮かんでいる。


「細かすぎるほどの情報も、矛盾も、全部見える。なのに……奥へ踏み込めば踏み込むほど、何が本物で、何が誰かの仕掛けた罠なのか、分からなくなる」


 アサは、ありきたりな慰めの言葉を口にしようとはしなかった。


「頑張って」とも、


「きっと大丈夫」とも言わない。


 ただ静かに椅子を少しだけ彼へ寄せる。


 そして、小さく温かな手を、強く握り締められていたバンソンの手の甲へそっと重ねた。


「じゃあ、全部を一晩で解こうとしないで」


 アサは真っ直ぐに彼の目を見た。


 その瞳には、揺るぎない信頼が宿っていた。


「もし、明日また誰かが危険な目に遭ったら?」


 バンソンが苦しげに尋ねる。


 アサは数秒、黙っていた。


 それから、一つ一つの言葉をゆっくりと、しかし確かな声で紡いだ。


「そのときは、明日も一緒に探し続ければいい」


「あなた一人で、すべての人の答えを背負わなくていいの」


 バンソンはアサを見た。


 隣に座る少女の、まっすぐな眼差し。


 その瞳を見ているうちに、胸の奥で荒れ狂っていた暗い波が、少しずつ静まり始める。


 彼は小さく頷いた。


 *


 23時48分。


 バンソンの携帯電話の画面が、突然まばゆい光を放った。


 連絡先に登録されていない、見知らぬ番号からの着信。


 バンソンはすぐに通話を受け、スピーカーへ切り替えた。


 向こうからは、すぐには声がしなかった。


 聞こえてくるのは、雑音混じりの電波音と、その奥にある荒く、重たい呼吸だけ。


 数秒。


 永遠にも思えるほど長い沈黙のあと、男性の声が極端に低く、そして音声フィルターで歪んだ状態で響いた。


「お前……神崎リクを探しているんだろう?」


 バンソンは携帯電話を強く握った。


「お前は誰だ?」


 向こうの声が途切れ途切れになる。


「本当に真実を知りたいのなら……」


 激しいノイズが走った。


「……絶対に、ミズノ・レイカを信用するな」


 プツ……プツ……プツ……


 通話は突然切れた。


 バンソンはすぐに折り返した。


 だが返ってきたのは、番号が存在しないことを告げる自動音声だけだった。


 アサが顔を上げる。


 その表情は、ひどく険しくなっていた。


「あなた、いちばんおかしいところに気づいた?」


「何だ?」


「今の電話……あの人は、私たちが神崎リクとレイカを調べていることを正確に知っていた」


 アサは囁くように言った。


 静まり返った部屋の中で、彼女の視線がゆっくりと周囲を巡る。


「そうだ」


 バンソンは拳を固く握る。


「つまり……」


「誰かが、俺たちの一歩一歩を追っている」


 バンソンは冷たい声で言い切った。


 二人は同時に、わずかに開いた窓へ振り向いた。


 外には深い闇が広がっている。


 木々の隙間を風が裂くような音だけが聞こえる。


 二人とも、それ以上何も言わなかった。


 *


 同じ時刻。


 深夜。


 場所の分からない、真っ暗な部屋。


 一人の人影が、木製の机の前に静かに座っていた。


 その人物は、ゆっくりと埃をかぶった古い金属製の箱を開ける。


 中には、過去を物語るいくつもの遺品が収められていた。


 - 留め具の折れた校章。

 - 黄ばんだ、満点を記録した数学の答案。

 - 画面が粉々に割れた古い折り畳み式携帯電話。

 - クラス集合写真。

 - そして、何度も線で消された跡のある一枚の紙。


 そこに記されている名前は、たった一つだった。


 Kanzaki Riku


 その人物は、写真を取り出す。


 原版には、14人の生徒が全員写っている。


 痩せ細った指が、その中の神崎リクの顔の上で止まった。


 そして、ゆっくりと写真を裏返す。


 そこには、乾いた黒インクで手書きされた一行があった。


「一人目は、沈黙した。」


 その直下には、番号付きの名簿。


 1. 神崎リク ― ?

 2. 白澤ノア ― 死亡

 3. ミズノ・レイカ ― 監視中


 そして、いちばん下には新しく書き加えられたばかりの一文。


「バンソンもまた、足を踏み入れた。」


 *


 場面が、バンソンの部屋へ移る。


 机の上の携帯電話が、再び画面を点灯させた。


 匿名IPアドレスから、一枚の画像ファイルが送信されてきている。


 バンソンは携帯電話を手に取り、開いた。


 そこに映っていたのは――


 高解像度で撮影された、遠距離からの隠し撮り写真。


 その日の朝、学校の正門前で、バンソンとエナミ・アサが肩を並べて立っている姿だった。


 写真の下には、短いメッセージが一行だけ添えられている。


「あの女を、この事件に巻き込むな。」


 バンソンは画面を凝視した。


 その表情が、完全に変わる。


 冷静な推論者の顔から、今にも爆発しかねない脅威を宿した眼差しへ。


 そのとき、アサが背後から近づいてきた。


「どうしたの? また新しいメッセージ?」


 バンソンは即座に携帯電話を伏せ、画面を消した。


 そして顔を上げ、できる限り平静を装った声で答える。


「何でもない。迷惑メールだ」


 アサは彼の目をじっと見つめる。


 分かっている。


 バンソンが嘘をついていることを。


 それでも、その瞬間の彼の目に刻まれた決意と、露骨なまでの庇護の色を見れば、アサにも理解できた。


 ――今度ばかりは。


 バンソンは、自分自身が危険を背負うつもりなのだ。


 何があろうとも、彼女を守るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。