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Episode 36

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どうもありがとうございます。

 ラッシュアワーの地下鉄駅に渦巻いていた喧騒が、まだ耳の奥に残っている。


 だが、荘厳な鉄製の門扉をくぐり、瀟洒な装飾の施された私立センバ高等学校の敷地内へ足を踏み入れた瞬間、バンソンは明らかに異質な空気を感じ取った。


 騒がしくもなければ、雑然としているわけでもない。


 ただ、濃密で、鋭く、重い。


 まるで水銀のような、冷え切った空気だった。


 ここはセンバ。


 東京でも指折りの名門校であり、常に国内トップクラスの大学へ圧倒的な合格実績を叩き出すことから、「エリートの養成所」とまで呼ばれている。


 今日、センバでは近隣の高校から生徒たちを招き、毎年恒例となっている学校間合同チャレンジ模試が行われることになっていた。


 成績競争などにはさほど興味のないバンソンが、わざわざここまで足を運んだ理由も、それだけだ。


 ――正確に言えば、もう一つの理由が彼のすぐ隣を歩いている。


 江波アサ。


 昨夜、自宅の門前で起きた気まずい出来事――不用意に「うちに遊びに来ないか」と誘ってしまい、その返事として軽く突き飛ばされた挙げ句、轟音とともにドアを閉められた一件――以来、今朝の二人の間にはどこかぎこちない空気が漂っていた。


 アサは相変わらず、いつもの冷淡な表情を崩していない。


 だが時折、バンソンが横目で見ると、彼女は鞄の持ち手をきゅっと強く握りしめていたり、不意に視線がぶつかるたびに、わざとらしいほど素早く目を逸らしたりしている。


 それでも彼女は、センバにいる旧友へ試験対策の資料を渡すため、一緒に来てほしいとバンソンに頼んだ。


 そして当然ながら、バンソンが断る理由はなかった。


 二人は、寸分の乱れもなく敷き詰められた赤煉瓦の中庭を並んで歩いていく。


 淡い朝日が校舎を照らしていた。


 それでも、完全な左右対称に設計された巨大なコンクリート建築から漂う冷たさを、追い払うには到底足りない。


「……ねえ、見て」


 不意にアサが口を開いた。


 駅を降りてから続いていた長い沈黙を破る、低く落ち着いた声だった。


 彼女は顎をわずかに上げ、正面玄関の方を示す。


 バンソンもその視線を追った。


 大理石張りの広いエントランス、その中央でひときわ目立っているのは、巨大なLED電子掲示板だった。


 真っ赤な文字が無慈悲な速度で横一列に流れ、まるで機械仕掛けの心臓の鼓動のように点滅している。


『中間試験まで、あと18日。』


『学力ランキングは金曜日に発表されます。』


 そのカウントダウン表示のすぐ下には、大きなアクリル製の掲示板が設置されていた。


 先月行われた定期試験の成績上位100名が、順位順にずらりと並べられている。


 バンソンは、その中でも最上位に君臨する三つの名前を容易に見つけた。


 他の生徒よりも太く、大きく印字されている。


 1位:水野玲香


 2位:高瀬俊


 3位:秋山陽翔


 灰色のブレザーをまとったセンバの生徒たちが、掲示板の前を次々と通り過ぎていく。


 観察癖のあるバンソンは、彼らの反応を一つ残らず目に焼きつけていた。


 ある者は、瞳を輝かせながら羨望と渇望を露わにしている。


 別の者は、掲示板の最下層に自分の名前を見つけると、まるで判決を告げられた罪人のように顔を俯け、逃げるように足を速めた。


 また別の者は腕を組み、鼻で笑いながら、いかにも興味がないという顔をしている。


 ――だが、その視線だけは、取り憑かれたように数字へ釘付けになっていた。


 アサが足を止め、胸の前で腕を組む。


 黒曜石のような瞳が、成績表の前に群がる生徒たちを静かに見渡した。


「ほら、見てよ」


 その声には、わずかな皮肉と、それ以上に深い思索が滲んでいた。


「まるで生存競争の結果発表を見てるみたい。狩る側の目と、獲物の目が……ぐちゃぐちゃに入り混じってる」


 バンソンは両手をズボンのポケットに突っ込み、わずかに首を傾げた。


 ちょうどそのとき、ランキングの底近くに自分の名前を見つけ、深々とため息をつく男子生徒が目に入った。


「点数が未来を左右する場所なら、実際に生存競争なんだろうな」


 バンソンの声は淡々としていた。


「順位が落ちれば、それだけで資源を奪われる。周囲からの尊敬も失う。小さく閉じた、残酷な社会だ」


 アサが彼を見る。


 端正な眉がわずかに持ち上がった。


「バンソンって、いつも何でも事件みたいに見るよね。どこにでも犯罪者がいるとでも思ってるの?」


「違う」


 バンソンは穏やかに答えた。


 だが、その目だけは鋭かった。


「事件じゃない。人間っていうのは、隠したくても痕跡を残す生き物なんだ」


 彼は、掲示板の前にいる生徒たちへ視線を戻した。


「歩き方、互いの視線を避ける仕草、あの掲示板を見上げた瞬間、制服の裾を爪が食い込むほど強く握る指……そういうものは、隠しきれない」


 一拍置く。


「そして、プレッシャーが限界を超えたとき、それらの痕跡は――ひび割れになる」


 アサは答えなかった。


 バンソンの言っていることが正しいと、彼女も分かっていた。


 やがて鞄の中から、丁寧に包まれた資料の束を取り出す。


「行こう。自習が始まる前に、玲香を探さないと」


 水野玲香。


 バンソンも、アサから何度かその名前を聞いていた。


 完璧な少女。


 圧倒的な学力を誇り、センバへ入学して以来、常に学年首位を守り続けている。


 名家の令嬢であり、医学と法曹に深い伝統を持つ一族から、途方もない期待を一身に背負っている。


 教師たちの目には、非の打ち所のない「理想の生徒」。


 友人たちの目には、美しく、遠く、決して手の届かない――翡翠から削り出された彫像のような存在だった。


 だが。


 バンソンとアサが玲香の教室を探して校舎C棟の廊下を歩いていった先で、彼らが目にしたのは、そんな完璧な少女の姿ではなかった。


 下駄箱の近く。


 人目につきにくい廊下の隅で、三人の女子生徒が、小柄な少女を取り囲んでいた。


 肩まで切り揃えられた短い髪。


 分厚い眼鏡。


 黒田芽衣。


 学業成績は特に目立つわけでもなく、性格は気が弱い。


 重圧に満ちた環境では、容易に八つ当たりの標的にされてしまうタイプだった。


 その三人の中心にいるのは、藤沢蓮。


 軽くウェーブのかかった髪。


 艶のあるリップ。


 口元には、いつも人を嘲るような笑みが浮かんでいる。


 蓮は芽衣の手から数学のノートをひったくると、何ページかぱらぱらとめくり、鼻で笑った。


「随分と細かく書いてるじゃん、黒田。なのに先月は危うく最下位だったよね? もしかして、勉強のやり方そのものが間違ってるんじゃない?」


「か、返して……」


 芽衣が蚊の鳴くような声で呟く。


 震える手を伸ばすが、ノートを取り返す勇気はない。


 瞳は赤く充血し、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。


 蓮の隣に立っていた女子生徒が、甲高い声で笑う。


「また泣くの? ちょっと何か言われただけですぐ泣くんだね。私たち、別に何もしてないじゃん?」


 蓮は肩をすくめると、ノートを床へ放り投げた。


 鈍い音が廊下に響く。


 表紙が開き、丁寧に書き込まれていた数ページの紙が折れ、皺だらけになった。


 芽衣の身体に直接暴力が加えられたわけではない。


 殴られたわけでもない。


 だが、人の往来する廊下で、何十人もの視線に晒されたまま受ける精神的な辱めは――時として、肉体への暴力より遥かに鋭い刃になる。


 誰一人として止めに入ろうとはしなかった。


 ただ眺める者。


 関わりたくないと顔を背ける者。


「自分には関係ない」と言い聞かせながら通り過ぎる者。


 それだけだった。


 アサが眉を寄せる。


 握りしめた拳に力が入る。


 弱い立場の人間が傷つけられているのを、黙って見ていることなど、彼女の性格が許さない。


 だが――


 アサが一歩踏み出すよりも先に、細い人影が人垣を割って進み出てきた。


 長く艶やかな黒髪。


 秋の湖面のように静かな顔立ち。


 すっと通った鼻筋。


 澄んでいながら、どこか底知れない瞳。


 身にまとった制服には、一分の皺もない。


 水野玲香。


 彼女は蓮たちの目の前で足を止めた。


 周囲の喧騒が、まるで嘘だったかのように途端に消える。


 学年首位の少女が放つ見えない圧力に、蓮は思わず動きを止めた。


 唇に浮かんでいた薄ら笑いが、わずかに引きつる。


「……もう十分でしょ」


 玲香の声は大きくもなければ、怒鳴りつけるようなものでもない。


 だが、明瞭で、ぞっとするほど冷たかった。


 生徒たちが互いの顔を見合わせる。


 蓮は強気を取り戻そうと顎を上げた。


「うちら、ちょっとふざけてただけだよ、 水野。いちいち首を突っ込まなくてもよくない? だって、こいつ――」


 最後まで言わせなかった。


 玲香はゆっくりと視線を巡らせる。


 刃物のように鋭い眼差しが、いじめに加担していた一人ひとりの顔を滑っていく。


 その瞬間、全員が無意識に半歩後ずさった。


 玲香は、それ以上何も言わなかった。


 ただ静かに腰を屈める。


 プリーツスカートの裾が、さらりと揺れた。


 そして、床に落ちたノートを拾い上げる。


 皺になったページを、一枚一枚、細心の注意を払うように伸ばした。


 それから、芽衣へ差し出す。


 芽衣は呆然としながらそれを受け取った。


 涙が頬を伝い続けている。


「……あ、ありがとう、水野さん」


 玲香は小さく頷いた。


 そして蓮たちなど最初から存在していなかったかのように、その横を通り過ぎ、何事もなかったように歩き出した。


 少し離れた場所から、その一部始終を見ていたバンソンは目を細める。


 他人の目には、ただの正義感の強い優等生の行動に映っただろう。


 だが、バンソンには違って見えた。


 玲香が腰を屈めた瞬間――その指の関節が真っ白になるほど、強く握りしめられていたことに彼は気づいていた。


 肩にも、わずかな力が入っていた。


 あれは自然な平静ではない。


 極限まで自分を抑え込んだ者の姿だ。


 そして何より。


 普段の彼女は、常に中立を保ち、面倒事から距離を取る「完璧な優等生」だとアサから聞いていた。


 今の行動は、その人物像とはあまりにもかけ離れている。


「……あれが玲香?」


 バンソンが小さく尋ねる。


 アサは頷いた。


 その眼差しには、複雑な色が浮かんでいた。


「うん。昔からずっと、あんなふうに輝いてる。でも……どうしてだろう。あの子、なんだか……疲れてる気がする」


 その後、アサは資料を玲香へ渡した。


 二人は校庭の一角で、自分たちの試験の順番を待つことになった。


 やがてバンソンは、喉が渇いたから飲み物を買ってくると言い、校内の自動販売機へ向かった。


 帰り道、彼は誤ってB棟屋上へ続く階段へ入り込んだ。


 人の姿はほとんどない。


 大きな窓から差し込む朝の強い光が、宙を舞う埃の一粒一粒まで浮かび上がらせている。


 そのとき――


 バンソンは、かすかな話し声を聞いた。


 足を止め、物陰へ身を寄せる。


 上階の踊り場。


 玲香が壁に背を預けて立っていた。


 そして、その正面にいるのは、高瀬俊。


 学年二位の男子生徒。


 長身で細身。


 角張った顔立ちに、鋭い切れ長の目。


 玲香を追い越して首位に立つことに執念を燃やしていることで知られる男だった。


 だが、今その瞳に宿っている感情は、単純なライバル意識などではなかった。


「また黒田のことに首を突っ込んだな」


 俊の声は平坦だった。


 だが、その底には隠しきれない気遣いが潜んでいる。


 玲香は顔を上げる。


 先ほどアサが感じ取った疲労が、今ははっきりとその表情に滲んでいた。


「じゃあ、見て見ぬふりをしろっていうの?」


 彼女は静かに言った。


「棘を全部抜き取られたハリネズミみたいに縮こまってるのを見て、放っておけるわけないでしょう」


「……違う」


 俊は小さく首を横に振った。


「お前が間違っているなんて言ってない。ただ……お前は、もう抱えすぎだ」


 空間が静寂に沈む。


 窓の向こうで風に揺れる木々の葉擦れの音が、その静けさをいっそう際立たせていた。


 俊が一歩、前へ出る。


 ズボンのポケットから、温かい缶コーヒーを取り出す。


 そして、それをそっと玲香の頬へ押し当てた。


 不意の接触に玲香はわずかに肩を震わせた。


 だが、俊の手を払いのけようとはしなかった。


 代わりに缶を受け取り、冷え切った両手で包み込む。


「昨日、何時間勉強した?」


 俊が尋ねる。


 その視線は、玲香の目の下に浮かぶ薄い隈へ向けられていた。


 玲香は視線を落とす。


 長い睫毛が、その動揺を隠すように目元を覆った。


「……覚えてない」


「玲香」


 俊の声が低くなる。


 優しいとも脅しているとも言い切れない、静かな圧力がそこにはあった。


「……四時間くらい」


 玲香は表情を変えずに答える。


 俊は黙って彼女を見つめた。


 すべてを見透かすような目だった。


 明らかに、彼女が嘘をついていると分かっている。


 三時間だったのかもしれない。


 あるいは、それ以下。


 最悪の場合――一睡もしていない。


 俊は小さく息を吐く。


 そして玲香の髪へ手を伸ばしかけ――途中で止めた。


 結局、その手を引き戻し、ポケットへ入れる。


「別に、毎回一位じゃなくたっていいだろ。たまに二位に落ちたくらいで、世界が終わるわけじゃない」


 玲香がふっと笑った。


 それは、ごく小さな笑みだった。


 滅多に見せることのない、本当に穏やかな笑顔。


 大勢の人間の前で作っている冷たい表情とは、まるで別人のようだった。


「二位の人だから、そんなことが言えるんだよ、高瀬くん」


 玲香はかすかに微笑んだ。


「私が二位に落ちたら、そのとき一位になるのは誰?」


 俊も笑う。


 張り詰めていた空気が、たちまちほどけていく。


 そこにあったのは、言葉では説明しきれないほど親密で、強く結びついた二人だけの空気だった。


 ――だが、その光景を見ていた第三の人物がいた。


 下の階の廊下の端。


 秋山陽翔。


 学年三位。


 いつも人当たりがよく、誰に対しても気さくなことで知られている男子生徒が、そこに立ち尽くしていた。


 片手で握りしめた革鞄の縁に、指が食い込む。


 関節が白くなるほど強く。


 普段ならいつも笑みを浮かべているその瞳が、今は暗く沈んでいた。


 そこには、極限まで押し殺された嫉妬と怒りが滲んでいる。


 陽翔は何も言わなかった。


 ただ一歩、後ろへ下がる。


 そして静かに踵を返し、廊下の暗がりへと溶けるように姿を消した。


 物陰に身を潜めたバンソンは、その一部始終を余すところなく見ていた。


 俊と玲香の会話。


 陽翔の眼差し。


 完璧に整えられたこの学校という舞台には――どうやら脚本どおりに動かない役者が、あまりにも多すぎる。


 その夜。


 水野家の邸宅。


 静寂がすべてを支配していた。


 聞こえるのは、壁掛け時計が刻む規則正しい秒針の音だけ。


 玲香の部屋は広かった。


 だが、息が詰まるほど窮屈だった。


 四方の壁は巨大な本棚で埋め尽くされている。


 参考書。


 大学受験対策の問題集。


 分厚い百科事典。


 机の上には、冷たい白色のLED照明に照らされながら、模擬試験の問題用紙が几帳面に積み上げられていた。


 その隣には、休息という文字を挟む隙間すらないほど、ぎっしりと詰め込まれた塾と自習の予定表。


 玲香はコンピューターの前にぼんやりと座っていた。


 学校のウェブサイトには、先月の試験結果が表示されている。


 一番上。


 一位。


 水野玲香。


 だが、彼女の瞳には何の感情もなかった。


 誇りもない。


 喜びもない。


 それはただ、自分がまだこの金箔で覆われた檻の中に存在していることを証明する数字に過ぎなかった。


 傍らに置かれていたスマートフォンが震える。


 玲香が視線を向ける。


 母からのメッセージだった。


『今週も必ず一位を維持しなさい。今回の学力評価試験は、医学部志望のあなたにとって非常に重要です。』


 五秒と経たないうちに、もう一通が届いた。


『自分の目標を忘れないで。水野家は二位に甘んじる人間を認めません。あなたの父親のような臆病者になって、これ以上お母さんを失望させないで。』


 玲香は目を強く閉じた。


 爪が手のひらに食い込み、薄く血が滲む。


 肉体の痛みだけが、彼女を辛うじて正気に繋ぎ止めていた。


 この凄まじい精神的圧力の前で、完全に崩れ落ちないために。


 家族。


 母親。


 彼らにとって、玲香は一人の人間ではない。


 完璧なプロジェクト。


 そして、破綻した夫婦関係の名誉を取り戻すための道具だった。


 玲香が手を伸ばし、コンピューターを閉じようとした、そのとき。


 スマートフォンが再び震えた。


 今度は、俊からだった。


『もう寝ろ。目の下、パンダになってるぞ』


 玲香の口元が、ほんの少しだけ無意識に緩む。


 凍てついた世界の中で、たった一つ与えられた小さな温もり。


 彼女はキーボードに指を滑らせ、短く一文字だけ打ち込んだ。


『うん』


 送信する。


 玲香はスマートフォンを伏せるように机へ置いた。


 それからボールペンを手に取る。


 積み上げられていた数学の発展問題を、自分の前へ引き寄せた。


 そして、また解き始めた。


 冷たい照明が、孤独な彼女の影を壁へ映し出している。


 細長く伸びた影は、どこか歪んで見えた。


 ――俊には「寝る」と約束した。


 それでも玲香は知っている。


 自分には、眠る権利など与えられていないのだと。


 翌日。


 バンソンとアサは、正式な交流試験に参加するため、再びセンバを訪れていた。


 試験教室の変更を待つ間、バンソンは教師用区画の近くを歩いていた。


 廊下は比較的静かだった。


 ほとんどの生徒はすでに教室へ入り、試験の準備をしている。


 来客室の前を通りかかったところで、バンソンは足を止めた。


 扉がわずかに開いている。


 そこから、はっきりと会話が漏れていた。


「今回、絶対に順位を落とすんじゃないぞ、水野」


 玲香の担任教師の声だった。


 重く、命令するような響きを帯びている。


「……分かっています」


 玲香の声は平坦で、感情がなかった。


「今朝、君のご家族から学校へ話があった」


 教師の声が続く。


 だが、わずかに声の調子が落ちた。


 そこには、ほんの少しのためらいが滲んでいる。


 扉の隙間から覗くと、玲香がほんのわずかに身を強張らせたのが見えた。


 常に真っ直ぐだった肩が、ごく小さく震える。


「……何の話でしょうか?」


 声がわずかに高くなる。


 警戒心が跳ね上がったことを、バンソンは聞き逃さなかった。


 教師は数秒、沈黙した。


 眼鏡のフレームを押し上げ、玲香と真正面から視線を合わせることを避ける。


「いや、何でもない。今回の試験がどれほど重要か、その確認だ。君は勉強だけに集中すればいい。余計なことは気にしなくていい」


 バンソンの眉が寄る。


 ――まただ。


 嘘。


 生徒の家族から圧力をかけられながら、それを本人に伝える勇気も、あるいは意思もない教師の嘘。


 この学校における水野家の権力は、どうやら彼の想像を遥かに超えている。


「……こんなところで何してるの?」


 背後からアサの声がして、バンソンはわずかに肩を揺らした。


 彼女が近づいてくる。


 怪訝そうな目でバンソンを見、それから来客室の扉の隙間へ視線を向ける。


 二人はそのまま歩き出し、掲示板のあるエントランスへ向かった。


「何か怪しいことでもあった?」


 アサが小声で尋ねる。


 歩幅をバンソンに合わせながら。


「まだ分からない」


 バンソンは短く答えた。


「じゃあ、なんであんなに長く見てたの? まさか、先生と生徒の話を盗み聞きするのが趣味とか?」


 アサが横目で彼を見る。


 その声音には、いつものからかうような調子が戻っていた。


「彼女の答え方だ」


 バンソンは前を向いたまま答える。


 視線の先では、生徒たちが次第に集まり始めていた。


「教師が家族の話を出した瞬間、玲香の呼吸が変わった。警戒心が一気に跳ね上がったんだ。それなのに、教師が答えを濁したとき、彼女は問い詰めなかった」


 バンソンは淡々と続ける。


「何でも自分で管理したがる人間が、あれほど曖昧な回答をそのまま受け入れるのは不自然だ」


 一拍。


「考えられる理由は二つしかない。一つは、自分の家族が何をしたのかを彼女自身が知っていること。もう一つは――真実を知ることが怖すぎて、あえて目を背けていることだ」


 その分析に、アサは黙り込んだ。


 昨日の朝に残っていた気まずさは、いつの間にか消えていた。


 代わりに、周囲の出来事を読み解くときの、二人特有の奇妙な呼吸の合い方が戻っている。


 やがて掲示板へ近づくと、あちこちから囁き声が聞こえ始めた。


「聞いた? 玲香が一位なのは、どうせ決まってるだろ」


 男子生徒が、嫉妬の滲んだ声で言う。


「そうとも限らないよ。数学の発展問題、直前で差し替えられたらしい」


 隣の生徒が声を潜める。


「一部の生徒が、過去の試験問題を事前に知ってたんじゃないかって。だから学校側が急遽、問題を変更したって話」


「本当かよ? 問題漏洩? 誰がやった? そんなことができる奴って……」


「さあ。でも問題が変わったなら、今回の順位、めちゃくちゃになるかもな」


 噂は、乾いた草原を駆け抜ける火のように広がっていった。


 誰が最初に流したのか。


 誰も知らない。


 だが、点数が生徒たちの「生存権」とでも呼ぶべき意味を持つこの環境では、わずかな変化さえ、巨大な嵐を巻き起こすには十分だった。


 その頃――


 女子更衣室。


 玲香は体育の授業に備え、荷物をロッカーへしまっていた。


 個人ロッカーの扉を開けた、その瞬間。


 鞄の中のスマートフォンが不意に光る。


 玲香は取り出してロックを解除した。


 画面に表示されたのは、登録されていない見知らぬ番号からのメッセージだった。


『真実を話さなければ、すべてを公にする。黙っていれば済むと思うな。』


 玲香の瞳孔が大きく収縮した。


 息が喉の奥で詰まる。


 震える指が画面の上を滑り、彼女はまるで毒を持った病原体にでも触れるかのような勢いで、メッセージの削除ボタンを押した。


 そして、勢いよく振り返る。


 更衣室を見渡す。


 何人かの女子生徒が楽しそうに会話し、笑い声を上げていた。


 誰も玲香を見ていない。


 怪しげな視線を向けている者もいない。


 ――秘密。


 恐ろしい秘密が、暗闇の中から少しずつ彼女の首を締め上げている。


 この脅迫はいったい何を意味しているのか。


 ――何の真実だというのか。


 玲香は目を閉じ、深く息を吸う。


 狂ったように跳ね上がっていた心拍を、無理やり落ち着かせる。


 そして再び、完璧な殻の中へ自分自身を閉じ込めた。


 何事もなかったかのような顔を作り、静かに更衣室を出ていく。


 午後。


 下校時刻を迎える少し前。


 バンソンとアサは交流試験を終えていた。


 帰る前に玲香へ挨拶をしておきたいとアサが言ったため、二人は生徒用下駄箱のあるエリアへ向かった。


 遠くから見ると、玲香が自分の靴箱を開けている。


 鉄製の扉を開いた瞬間――


 一枚の白い紙が、二つ折りの状態で床へ落ちた。


 玲香は眉をひそめ、それを拾い上げる。


 開いた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、新聞の切り抜きを乱雑に貼り合わせた文字だった。


『一位になっても、お前は救われない。』


 玲香の手が強く握り締められる。


 紙がくしゃりと潰れる。


 顔から血の気が引いた。


「……どうした?」


 背後から俊の声がした。


 玲香が振り返ると、廊下の隅で彼が待っていた。


 両手をポケットに入れたまま、鋭い目で彼女の一挙手一投足を観察している。


 玲香は咄嗟に、くしゃくしゃになった紙を制服のポケットへ押し込んだ。


 それから振り返り、微笑む。


 完璧な笑顔。


 一分の隙もない。


「何でもないよ」


 玲香は軽い調子で答えた。


「ただの広告チラシ」


 俊が近づいてくる。


 二人の距離が縮まった。


 彼の目は玲香から一瞬たりとも逸れない。


 彼女が必死に築き上げた防壁の奥へ、真っ直ぐに踏み込もうとしている。


「また嘘をついたな」


 俊の声は低く、冷たかった。


 玲香は黙り込む。


 顔を背け、彼の視線から逃げる。


 説明はない。


 言い訳もない。


 そして二人の間に落ちた沈黙は、これまでのような理解し合うための静けさではなかった。


 それは、二人の間にゆっくりと形を成していく、冷たい隔壁だった。


 ――場面転換。


 バンソンとアサは、下駄箱へ近づくことをやめた。


 バンソンが合図を送り、アサを促す。


 二人はそのまま踵を返し、正面玄関へ向かって歩き出した。


 広大なエントランスでは、巨大な電子掲示板が相変わらず赤い数字を点滅させ続けている。


 カウントダウン。


 中間試験まで、あと18日。


 アサがバンソンの隣で足を止める。


 LEDの赤い光が彼女の横顔を照らし、その瞳に宿る不安を浮かび上がらせた。


 この学校にあるものは、何もかもがおかしい。


 空気。


 噂。


 そして――玲香の振る舞い。


 すべてが、不自然すぎる。


「ねえ……これから、どうなると思う?」


 アサの声には疲労が滲んでいた。


「なんだか……全部、もうすぐ爆発しそうな気がする」


 バンソンは顔を上げ、掲示板を見つめた。


 玲香。


 俊。


 陽翔。


 三人の名前は、依然としてそこに並んでいる。


 だが、彼には分かっていた。


 その無機質な数字の下には、凄まじい勢いで渦巻く地下水脈のような、激烈な感情の流れが隠されている。


「まだ分からない」


 バンソンは答えた。


 いつもの穏やかな口調。


 だが、その奥には、獲物の匂いを嗅ぎつけた猟犬のような、冷たい鋭さが混じっていた。


 彼は一拍置く。


 視線は、学年首位――水野玲香の名前へ向けられる。


 ゆっくりと下へ滑る。


 二位の高瀬俊。


 そして最後に――三位の秋山陽翔。


 さらに、その下に表示された赤い文字へ。


『中間試験まで、あと18日。』


 バンソンが静かに口を開く。


 広大なエントランスに、その声が響き渡った。


 確信に満ち、刃のように鋭い声だった。


「……だが、俺は思う」


 彼の目が、再びランキング表へ向けられる。


「このランキングを――何が何でも変えたがっている奴がいる」

 空は、巨大な鉛の塊が街全体を押し潰しているかのように、重く灰色に沈んでいた。空気は湿気を孕んで濃く淀み、今にも激しい雨が降り出しそうな息苦しさを漂わせている。


 翌日。


 水野玲香が通う名門高校――バンソンと江波アサにとっては、完全に未知の場所であるこの学び舎では、すべてが冷徹なまでに正確な歯車の回転に従って動いていた。


 学校は何事もなかったかのように機能している。


 生徒たちは磨き上げられたタイル張りの廊下を、俯いたまま足早に行き交っている。教師たちは教壇に立ち、張り詰めた神経を持つ生徒たちの頭へ、無数の定理と数字を単調な声で詰め込んでいく。


 正面玄関の大きな掲示板には、相変わらず無機質な数字の羅列が並んでいた。


 ――しかし、それは単なる数字ではない。


 生徒たちの運命を左右する力を持つもの。


 学力ランキング。


 だが、外部からやって来たバンソンたちのような、周囲の異変に敏感な人間には分かっていた。


 この学校を覆う空気には、すでにひびが入り始めている。


 腐敗の臭いが、扉の隙間から、壁の亀裂から、ゆっくりと校舎全体へ染み込んでいた。


 玲香はランキング表の前で、まるで地面に縫い付けられたかのように立ち尽くしていた。


 誰もいない。


 寄る辺もない。


 一分の皺もない制服に身を包みながら、その姿はひどく小さく、脆く見えた。


 彼女は、自分の名前――《水野玲香》を見つめていた。


 堂々と頂点に君臨する名前。


 その横にある「1」という真紅の数字は、鮮やかであると同時に、網膜へ突き刺さる短剣のように眩しかった。


 玲香はそれを長いこと見つめ続けた。


 あまりにも長く見つめていたせいで、呼吸さえ浅くなり、喉の奥に詰まりそうになる。


 やがて、視線がゆっくりと下へ落ちていく。


 二位――高瀬俊。


 三位――秋山陽翔。


 背後から、数歩離れた場所。


 薄い紙が耳元を撫でるような、かすかな囁き声が聞こえた。


「二位の奴が、水野を抜けると思う?」


 返ってきたのは、嫉妬と皮肉の混じった小さな笑い声だった。


「水野があんな機械みたいな勉強を続けるなら、無理じゃない? あの子、たぶん『睡眠』ってものを知らないんだよ」


 玲香には、そのすべてが聞こえていた。


 肩がわずかに震える。


 だが、振り返って誰が言ったのかを確かめようとはしなかった。


 この場所では、誰もが自分の背中にナイフを突き立てる可能性を持っている。


 玲香は身を翻し、足早に階段へ向かった。


 ――彼女が立ち去って間もなく。


 薄暗い廊下の奥。


 物陰から、一人の人影がゆっくりと姿を現した。


 その人物の目は、小さな玲香の背中に突き刺さっている。


 静かで、冷たい。


 まるで獲物を観察する爬虫類のような眼差しだった。


 *


 同じ頃。


 校門前では、バンソンとアサが悠然と歩いていた。


 二人とも自分たちの学校の制服を着ており、ここにいる生徒たちの中では明らかに浮いている。


 それでも、バンソンの余裕ある態度と、アサから滲み出る鋭い雰囲気の前では、警備員も生徒も、わざわざ近づいて問いただそうとはしなかった。


 二人がここへ来た理由は、ただ一つ。


 アサの中学時代の友人――水野玲香から発せられた、言葉にならない救難信号。


 そしてアサが調べるというのなら、バンソンが彼女を一人で行かせるはずもなかった。


 実際のところ。


 二人の関係は、もう単なる「面倒事を一緒に片付ける相棒」などという言葉では片付けられなくなっていた。


 いつからなのかは分からない。


 だが、二人の間には何かが根を張り、芽を出し、少しずつ、確実に伸び始めている。


 ただ――


 まだ誰も、それを正式に名前で呼ぼうとはしなかった。


 アサは歩きながら、自動販売機で買った黒い缶コーヒーを唇へ当て、大きく一口飲む。


 苦味と渋みが喉を落ちていき、眠気を少しだけ追い払ってくれる。


 バンソンは両手をズボンのポケットへ突っ込み、わずかに首を傾けて彼女を見た。


 視線が、目の下に浮かぶ薄い隈を捉える。


「朝っぱらからブラックか?」


 いつもと変わらない口調。


 だが、その声色は他人に向けるときより、ほんの少しだけ柔らかかった。


 アサは缶を口から離し、ふっと息を吐く。


「昨日、ある人のせいで一晩中考え込んじゃって。眠れなかったの」


「誰?」


 バンソンが眉を上げる。


 アサは足を止めた。


 そして、ゆっくりと彼の方へ身体ごと向き直る。


 口元がわずかに吊り上がった。


「あなた」


 バンソンは黙った。


 風が吹き、額にかかった黒髪が揺れる。


 それでも、彼は目を逸らさなかった。


 アサが半歩、近づく。


 見上げるように彼を見つめながら、いつもの鋭い調子で言う。


「ねえ、バンソン。あなたって、いつも他人を見てるよね。周りで起きてることも、まるで全部が一つの問題みたいに。解かなきゃいけない方程式で、そこから未知数Xを探してるみたいに」


 彼女は続けた。


「人を切り分けて、分析して、弱点まで見つけ出す。そのくせ、相手の気持ちなんてほとんど気にしない」


「そうか?」


 バンソンは淡々と答えた。


 だが、瞳の奥にかすかな興味が浮かんでいる。


「じゃあ、お前はどうなんだ、アサ?」


 アサが瞬きをする。


「……どういう意味?」


「俺の目には、お前は何に見える?」


 今度は、彼が彼女の問いをそのまま返した。


 ただし、立場を逆転させて。


 アサが固まる。


 この男が一体、どんな奇妙な比喩を持ち出してくるのかと思った。


 バンソンはほんの数秒、考えるふりをした。


 視線が、固く結ばれた彼女の唇をかすめる。


 そして、一語一語をゆっくりと口にした。


「一つの問題……かな」


 わずかな間。


「まだ、俺には解けていない」


 さらに、もう一拍。


「たぶん――俺が唯一、最後の答えを見つけたくない問題でもある。ずっと残しておいて、一生かけて解きたいから」


 ドクン。


 アサの心臓が、誰かに指で強く弾かれたように跳ねた。


「……っ」


 彼女は目を見開いてバンソンを睨む。


 だが、熱を持ち始めた耳だけはどうしても隠せなかった。


「全然ロマンチックじゃない」


 アサは勢いよく顔を逸らし、誤魔化すようにコーヒーをもう一口飲む。


「ロマンチックだなんて言ってない」


 バンソンは彼女の隣まで歩み寄る。


 その口元には、滅多に見せない薄い笑みが浮かんでいた。


「ただ、事実を言っただけだ」


 アサは何も答えなかった。


 ただ、バンソンが見ていない間に――


 その口元には、本人でさえ気づかないほど素直な笑みが浮かんでいた。


 *


 休み時間。


 バンソンは廊下の壁に背を預け、正面にある職員室のガラス扉越しに中を見ていた。


 隣にはアサ。


 腕を組んだまま立っている。


 室内では、玲香が担任教師の机の前で縮こまるように立っていた。


 両手には分厚い答案の束。


 深く頭を下げたまま、教師の説教に黙って耳を傾けている。


 バンソンの鋭い瞳が細くなる。


 彼が見ていたのは、玲香の表情ではなかった。


 制服の袖からわずかに覗いている――手首。


 玲香が答案の束を抱えるために腕へ力を込めた。


 その瞬間、袖がほんの少しずり落ちた。


 そこから、うっすらと赤く残った痕が覗いた。


 まるで紐で強く締めつけられたような――あるいは、誰かに強く掴まれたような痕。


 アサも彼の視線を追う。


 そして、その集中が尋常ではないことに気づいた。


「……また何か見つけた?」


 彼女が小声で尋ねる。


「まだ断定はできない」


 バンソンの声が低くなる。


「彼女の手首にある痕だ。自分で引っ掻いたものじゃない。事故でできた傷にも見えない」


 彼は淡々と分析する。


「角度と圧力のかかり方から考えると、誰かが彼女の手首をかなり強く掴んだ可能性が高い」


 アサの眉が険しく寄る。


「……本当に?」


「八割」


 アサは深々と息を吐き、こめかみを指で揉んだ。


「お願いだから、また他人の問題に首を突っ込む気じゃないでしょうね。最初は玲香が無事かどうか、それだけ確認しに来たはずでしょ」


「俺はただ観察してるだけだ」


 バンソンは肩を竦めた。


「その台詞、毎回毎回、命懸けの面倒事が始まる前兆なんだけど」


 アサは文句を言う。


 ――それでも、その場から一歩も動かなかった。


 バンソンが彼女を見る。


 その瞳には、かすかなからかいと、柔らかな温度があった。


「でも、お前はここにいる」


 彼は静かに言う。


「俺と一緒に、その面倒事の中へ入ってくる」


 アサは一瞬も迷わず答えた。


「あなたを見張るためよ。放っておいたら、そのうちどこかの路地裏で死んで、私がわざわざ死体を拾いに行く羽目になりそうだから」


 バンソンの胸の奥から、小さな笑い声が漏れる。


 それは温かく、作りものではなかった。


 彼は少しだけ身を屈める。


 二人の距離が近づく。


 そして、目を見開いているアサを真っ直ぐ見つめた。


「それって……ずいぶん俺のことを気にかけてるみたいに聞こえるけど」


 アサの身体が硬直した。


 近すぎる。


 ミントのような淡い香りが、彼の襟元から漂ってくるのまで感じ取れる距離。


 呼吸がわずかに乱れる。


 彼女は反射的に人差し指を立て、バンソンの胸を強く突いた。


 そして、ほんの少しだけ彼を押し返す。


「調子に乗るな、この馬鹿」


 *


 玲香の教室。


 そこは、誰かが酸素を全部抜き取ったかのように息苦しい空間と化していた。


 数学教師が、大量の模擬試験の答案を机へ叩きつける。


 バンッ――!


 鋭い音が響き、何人かの生徒が肩を跳ねさせた。


「お前たちは一体、頭の中で何を考えている!」


 教師の声が、歯の隙間から絞り出されるように響く。


「大学受験が目の前なんだぞ。このくだらない点数で、この先どうするつもりだ? 社会に出て、他人に踏みつけられるだけの道具になるのか!」


 一人の男子生徒が、俯いたまま前へ出て答案を受け取る。


 赤インクで大きく書かれた「40」。


 その数字を見つめたまま、彼は顔を伏せ、震える指で答案の端を握り潰していた。


 教室の後方から、鼻で笑う声が聞こえた。


「その点数で大学受験とか、無理だろ。もう今から学校辞めて、親の金でも浮かせたら?」


 嘲笑された生徒の身体が強張る。


 だが、反論することはできない。


 唇を強く噛みしめ、血が滲んだまま、急いで自分の席へ戻っていく。


 誰も彼を庇わなかった。


 この学校において、同情や共感は――誰も買おうとしない贅沢品だった。


 教師は定規で黒板を叩く。


「お前たちは一つの真理を理解しろ」


 乾いた音が教室へ響く。


「点数がすべてを決める。頂点に立つ者にはすべてを決める権利があり、最下位はただのゴミだ」


 そして、教室の一番前を見る。


「水野玲香を見習え!」


 玲香は最前列に座っていた。


 目の前にある答案は、完璧だった。


 ――100点。


 今日も、彼女は頂点にいた。


 だが、机の下。


 彼女の左手は、右手首を強く握りしめていた。


 そこは、先ほどバンソンが見つけた赤い痕のある場所だった。


 手が激しく震えている。


 止めることのできない震え。


 それは誇りからではない。


 極限まで追い詰められた人間の、純粋な恐怖から生じる震えだった。


 やがて、授業終了のチャイムが鳴る。


 それは解放の鐘のように聞こえた。


 ――ただし、一時的なものに過ぎない。


 生徒たちが一斉に教室から出ていく。


 玲香だけは席に残り、教科書や筆記具を片付けていた。


 その動作は遅く、機械的だった。


 やがて、高瀬俊が彼女の机の前へやって来る。


 学年二位。


 背が高く、視線には真っ直ぐな芯がある。


 誠実である一方、ときに頑固すぎる少年。


「昨日、何時間寝た?」


 俊は単刀直入に尋ねた。


 玲香の手が止まる。


 顔を上げ、目の奥に届かない作り物の笑顔を浮かべる。


「ちゃんと寝たよ」


「ちゃんとって、何時間だ?」


 俊が一歩踏み出した。


 机の縁ぎりぎりまで距離を詰める。


「答えろ」


「……三時間」


 玲香の声は軽かった。


 まるで、それが当然のことであるかのように。


 俊は黙った。


 二人の間の空気が重く沈む。


 下げたままの手が、ゆっくりと拳へ変わる。


「それは『ちゃんと』じゃない」


 俊の声が低くなる。


 怒りで少し掠れている。


「お前、自分で自分を殺してるぞ」


 玲香は小さく笑った。


 疲れ切った、皮肉な笑みだった。


「私が勉強しなかったら。自分を追い込まなかったら――俊、あなたが私を抜くでしょう?」


 彼女は視線を上げる。


「そうしたいんじゃないの?」


「俺が欲しいのは、実力でお前を抜くことだ!」


 俊の声が鋭くなる。


 その目には、怒りだけではない。


 痛ましさが滲んでいた。


「お前が自分を限界まで追い詰めて、ボロボロになって倒れるのを見ながら一位を取ることじゃない!」


 声が震える。


「そんなやり方で一位になって、俺が誇れると思うのか?」


 その瞬間。


 周囲の時間が止まったようだった。


 俊の剥き出しの誠実さ。


 飾り気のない感情。


 それが、すべて玲香の前へ晒された。


 玲香は呆然と彼を見つめた。


 唇がわずかに開く。


 だが、言葉が出てこない。


 ――そのときだった。


 背後から、低く穏やかな声が響く。


 あまりにも完璧で。


 だからこそ、どこか作り物めいていた。


「二人とも、本当に仲がいいんだね」


 俊が振り向く。


 教室の入り口に、一人の少年が寄りかかっていた。


 秋山陽翔。


 三位。


 誰に対しても親しげで、感じがよく、いつも笑顔を絶やさない少年。


 今も笑っている。


 とても綺麗な笑顔だった。


 模範的で、爽やかで、太陽のように明るい笑顔。


 ――だが。


 その黒い瞳だけは、一切笑っていなかった。


 深く、冷たく、底知れない。


 まるで、自分の舞台の上で踊る人形たちを眺める捕食者の目だった。


 *


 夕方。


 一日の終わり。


 体育館棟の裏手にある石段には、ほとんど人影がなかった。


 銀杏の木々を抜ける風の音だけが、静かな空間に流れている。


 アサは高い段に腰を下ろし、ぶらぶらと足を揺らしていた。


 その一段下にはバンソンが座っている。


 彼の視線はスマートフォンに表示された校舎配置図へ向けられていた。


 頭の中では、玲香の手首に残っていた痕と、昼間の陽翔の奇妙な眼差しについて、いくつもの仮説が組み上がっては崩れていた。


 アサは鞄から冷たいペットボトルの水を取り出す。


 そして、その底でバンソンの肩を軽く小突いた。


「飲んで」


 バンソンは顔を上げない。


 視線は依然として画面に釘付けだった。


「喉は渇いてない」


「飲んで」


 今度は強い口調で言い、ボトルを彼の手へ押しつける。


 バンソンがようやく動きを止める。


 顔を上げ、アサを見る。


 小さく舌打ちするような仕草をしてから、観念してボトルを受け取り、蓋を開けた。


「お前は本当に命令するのが好きだな、アサ」


 少し呆れたような声だった。


 アサは頬杖をつき、彼を見つめる。


「普通の人には必要ないの。でも、あなたには必要」


 バンソンが冷たい水を一口飲む。


 冷気が食道を走り、頭が少しだけ冴えた。


 彼は横目で彼女を見る。


「つまり……俺が普通じゃないってことか?」


「そう」


 アサは即答した。


「謎解きに夢中になると、食事も睡眠も、自分が喉が渇いてることまで全部忘れるタイプでしょう。私が無理やり飲ませなかったら、たぶんここで干からびて死んでる」


 バンソンは少し驚いた。


 ボトルの蓋を閉めようとしていた手が止まる。


 そして、顔を上げる。


 彼女の目を深く見つめる。


 鋭かった瞳が、不意に柔らかくなる。


 そこには、目の前で小言を言っている少女の姿が映っていた。


「……そこまで見てたのか?」


 バンソンが小さく尋ねる。


 アサは瞬きをした。


 そこで初めて、自分が言い過ぎたことに気づいたらしい。


 彼女は慌てて視線を逸らした。


 そして、落ちていく一枚の黄色い葉をじっと見つめる。


「べ、別に……ただ、あなたのそばにいる時間が長くなっただけ。観察癖までうつったのよ」


 しばらく、穏やかな沈黙が二人を包んだ。


 夕方の風が吹き抜け、アサの短い髪をさらさらと揺らす。


 バンソンは微笑み、再び水を飲んだ。


 だが、そのとき。


 ふと上げた彼の手を見ていたアサの視線が止まる。


 手の甲。


 指の関節から袖口近くまで伸びた、比較的深い切り傷。


 鮮やかな赤い血が、まだわずかに滲んでいる。


 アサの眉が寄った。


 次の瞬間。


 彼女は手を伸ばし、バンソンの手首を掴んで強く引き寄せた。


「……手」


「ん?」


 バンソンは自分の手を見る。


 まるで蚊に刺された程度の傷だと言わんばかりに、何の感慨もない顔をしている。


「いつ怪我したの?」


 アサの瞳に怒りが浮かぶ。


「古い体育館の裏口を調べてたとき。扉が引っかかってたんだ。割れたガラス片に気づかなかった」


「怪我してたのに、一言も言わなかったの?」


 アサの声が一段高くなる。


「ただの小さな傷だ。死ぬようなものじゃない」


 バンソンが何でもないように手を引こうとする。


 だが、アサは離さなかった。


 むしろ両手でしっかりと握り込む。


「引っ込めないで!」


 その声には、苛立ちが混じっていた。


「あなたにとっては、何だって『ただの』なんでしょう。手を切っても『ただの』。誰かに狙われても『ただの』」


 言いながら、彼女は片手を離した。


 制服のポケットへ手を入れる。


 そして取り出したのは――


 子供っぽい熊の絵がプリントされた絆創膏だった。


 バンソンが目を丸くする。


「……こんなの持ち歩いてるのか?」


「あなたがまた何かやらかして、血だらけになって帰ってくるときのためでしょう!」


 アサは苛立たしそうに包装を破く。


「俺は何もやらかしてない」


 バンソンが反論する。


 アサは思い切り睨みつけた。


「あなたって、本当に……存在してるだけで十分トラブルなのよ」


 バンソンが声を上げて笑った。


 完全に力が抜けている。


 そのまま、好きなように自分の手を預ける。


 アサは俯き、濡らしたガーゼで血を丁寧に拭う。


 そして、傷口へ絆創膏を貼りつける。


 口では文句ばかり言っているのに、手つきはひどく優しい。


 まるで、少しでも痛ませることを恐れているようだった。


 二人の距離は、とても近かった。


 近すぎて、バンソンには彼女の長い睫毛が一本一本見える。


 夕日に照らされた頬が、うっすらと赤く染まっているのも分かる。


 髪から漂う淡い香り。


 ――優しいジャスミンのような香りが、鼻腔を満たした。


 バンソンは、ただじっとアサの顔を見ていた。


 その瞳は深く、優しく、そして自分でも気づいていないほど強い独占欲を帯びていた。


 絆創膏を貼り終えたアサが顔を上げる。


 視線が重なる。


 わずか数センチ。


 アサが驚いて、少しだけ身を引いた。


「……何見てるの?」


 戸惑いを隠すように、少しきつい口調で尋ねる。


「何でもない」


 バンソンが笑う。


 低く、少し掠れた声。


「だったら、もう見ないで」


「無理だな」


 バンソンが首を傾ける。


「俺の目だ。何を見るかは俺の自由だろ」


 アサは唇を噛んだ。


 勢いよく顔を逸らす。


 両耳が、血のように赤くなっている。


「……馬鹿」


 *


 だが、その束の間の平穏は長くは続かなかった。


 夕暮れが深まる。


 やがて雨が降り始めた。


 最初はぱらぱらとした弱い雨だった。


 しかし、それは瞬く間に勢いを増した。


 まるで滝のような豪雨が一気に降り注ぎ、視界を白く塗り潰していく。


 校舎全体が、陰鬱な灰色の世界へ沈んでいった。


 バンソンは、西側にある立入禁止の旧校舎へ戻ることを決めた。


 もう一つ確認したいことがあった。


 玲香を圧迫している、学校内の見えない暴力構造。


 その背後に、あの古い下駄箱群が関わっている可能性を彼は疑っていた。


 旧校舎は真っ暗だった。


 電気は通っていない。


 空気はカビと湿気の臭いで満たされている。


 割れた窓から雨が吹き込み、腐りかけた木の床には濁った水たまりがいくつもできていた。


 バンソンはスマートフォンのライトを点け、古い下駄箱の列を照らしていく。


 そしてしゃがみ込み、四番のロッカーへ視線を落とした。


 ――玲香が一年生の頃に使っていたロッカー。


 そのときだった。


 鋭い聴覚が、ごく小さな音を拾った。


 カチ……。


 錆びた金属が擦れ合う音。


 音源は――


 頭上。


 バンソンが反射的に顔を上げる。


 その瞬間。


 靴のトレーを載せるための巨大な鉄製ラックが、固定金具から外れ、彼の頭上へ向かって落下してきた。


 思考する時間はなかった。


 生存本能が先に動く。


 バンソンは身体を後方へ投げ出した。


 ――ドンッ!!


 鉄製ラックが木の床へ激突する。


 大量の埃と木片が舞い上がる。


 バンソンは直撃を避けた。


 だが、完全には逃げ切れなかった。


 金属の塊が左肩を強く掠める。


 同時に、細い鉄棒の一本がこめかみを切り裂いた。


 バンソンの身体が冷たい木の床へ叩きつけられる。


 一瞬。


 視界が真っ白になる。


 無数の光点が弾ける。


 左肩から走った激痛が、電撃のように脳まで突き抜ける。


 歯を食いしばり、片手をついて立ち上がろうとする。


 ――無理だ。


 左腕が痺れている。


 感覚がほとんどない。


 こめかみから流れ出した熱い血が頬を伝い、目尻へ流れ込む。


 視界の半分が赤く滲んだ。


 スマートフォンは数メートル先へ吹き飛んでいた。


 画面には大きな亀裂が走り、ライトだけが虚空を照らしている。


 バンソンはその場に横たわり、外で荒れ狂う雨音の中、荒い呼吸を繰り返した。


 *


 正面玄関。


 アサは落ち着きなく、何度も同じ場所を行ったり来たりしていた。


 まるで火の上に座らされているような気分だった。


 バンソンが――帰ってこない。


 あまりにも長い。


 嫌な予感が、胸の奥で警鐘を鳴らしている。


 アサはスマートフォンを取り出した。


 電話をかける。


 一回。


 二回。


 三回。


 四回。


 五回。


 ――ただ、虚しく呼び出し音が続くだけだった。


「……くそっ」


 アサは歯を食いしばる。


 そして一秒も迷わず、傘を開いて豪雨の中へ飛び出した。


 向かう先は、旧校舎。


 *


 旧校舎の廊下は、まるで怪物の喉の奥のように暗かった。


 アサはびしょ濡れになった傘を脇へ放り投げ、廊下を駆け抜ける。


 足音が激しく響き渡る。


「バンソン! どこにいるの!?」


 恐怖のためか、声が上ずっていた。


 廊下の突き当たり。


 古い下駄箱が置かれている付近。


 稲妻の一瞬の光が、暗闇を切り裂いた。


 その白い光の中に――


 壁に背を預け、苦しそうに座り込む一人の少年の姿が浮かび上がった。


 白い制服のシャツは、埃と濁った雨水にまみれている。


 頭は力なく垂れ下がり、左肩は明らかに不自然な位置まで下がっていた。


「バンソン!」


 アサの心臓が、誰かに強く握り潰されたように痛んだ。


 彼女は駆け寄り、その横で濡れた木の床へ膝をつく。


 バンソンは声を聞き、ゆっくりと顔を上げた。


 こめかみから流れた血が頬を伝い、襟元へ染み込んでいる。


 暗闇の中でも、その目だけは鋭く光っていた。


 ただし――


 その光には、極度の疲労が滲んでいた。


「アサ……何しに来た?」


 声は掠れ、途切れ途切れだった。


 アサは手を伸ばす。


 だが、触れて余計に痛ませるのが怖くて、手が途中で止まる。


 震えていた。


「探しに来たの!」


 彼女は叫ぶ。


「この馬鹿! どうして電話に出ないのよ!」


 目から涙が溢れそうになる。


 だが、それを怒りで無理やり押し戻す。


 バンソンは口元だけを持ち上げた。


 弱々しい笑み。


「スマホ……壊れた。俺は大丈夫だ」


 アサは彼の青ざめた顔に流れる鮮血を睨みつける。


「これのどこが大丈夫なのよ!?」


 バンソンは息を吐き、目を半ば閉じる。


「死んでない」


 その言葉を聞いた瞬間。


 アサが――


 爆発した。


 彼女は無傷だった右側の襟を強く掴み、彼を少しだけ自分の方へ引き寄せる。


 目は赤くなっていた。


 そこには、激しい怒りと、失うことへの恐怖が同時に宿っている。


「もう二度と!」


 一語。


「私に!」


 もう一語。


「そんなこと言わないで!」


 声が震えていた。


「私がどれだけ怖かったか……あなた、分かってるの!?」


 バンソンが固まる。


 涙を湛えたアサの瞳を見る。


 その瞬間――


 頭の中にあった、すべての言い訳が。


 すべての論理が。


 まるで溶けるように消えていった。


 彼は何も言わず、素直に頷いた。


 アサは襟を放す。


 深く息を吸い込み、自分を落ち着かせる。


 そして彼の腰へ腕を回し、バンソンの右腕を自分の肩へ掛けた。


「立って。保健室へ行く」


 *


 だが、保健室には誰もいなかった。


 扉に鍵はかかっていない。


 しかし、当直の教師の姿もない。


 あるのは、冷たい蛍光灯の白い光と、鼻を刺す消毒液の臭いだけ。


 外では雨が激しく降り続いていた。


 時折、雷鳴と稲光が空を裂き、窓ガラス越しに青白い光が差し込んでくる。


 世界そのものから切り離されたような、狭い空間。


 そこにいるのは――二人だけ。


 アサはバンソンをベッドへ座らせた。


 自分の濡れた制服の上着を脱ぎ、椅子に掛ける。


 それから袖をまくり上げ、薬品棚を探し始める。


 間もなく、消毒用アルコール、ガーゼ、テープを見つけた。


 バンソンは壁に背を預けながら、せわしなく動くアサの背中を見つめていた。


 小さな肩が、わずかに震えている。


 寒さのせいなのか。


 それとも――さっきの恐怖の余韻がまだ残っているのか。


 アサが戻ってきた。


 小さな丸椅子を引き寄せ、バンソンの正面へ座る。


 ガーゼへアルコールを染み込ませる。


 その瞳は、彼のこめかみの傷へ強く集中していた。


「染みるから。少し我慢して」


 まだ苛立ちの残る声で告げる。


 彼女は傷の周囲で乾きかけた血を、慎重に拭っていく。


 動きは極めて優しい。


 吐息がかすかに、バンソンの頬へ触れる。


 バンソンは一度も瞬きをしなかった。


 痛みなど、ほとんど感じていない。


 彼が見ていたのは――


 自分の瞳に映る、目の前の少女だった。


「……お前、緊張しすぎだろ」


 静寂を破るように、バンソンが言う。


 アサは彼を睨みつけた。


 だが、手を止めない。


「誰のせいで心臓が止まりそうになったと思ってるのよ。自分の命が雑草か何かだと思ってる?」


「そんなつもりはなかった」


 バンソンが静かに答える。


 低く、温かな声。


 アサの手が、一瞬だけ止まった。


 彼女は目を伏せる。


 長い睫毛が、わずかに震えた。


「分かってる」


 声が小さくなる。


「分かってるよ……わざとじゃないって。でも、あなたはいつも、そうやって自分から死ぬような場所へ入っていく」


 アサは再び手を動かした。


 傷口を消毒し、白いガーゼをこめかみへ当て、しっかりと固定する。


 終わった。


 彼女は安堵の息を漏らし、膝へ両手を置いて立ち上がろうとした。


「アサ」


 突然、バンソンが呼んだ。


「何?」


 アサはアルコールのボトルを片付けようと手を伸ばす。


「……ありがとう」


 たった二文字。


 短く、簡単な言葉。


 それなのに――


 アサはまるで急所を突かれたように、その場でぴたりと動きを止めた。


 振り返る。


 理解できないものを見るような目。


「あなた……鉄の棚に頭でも潰された?」


 アサの口元が引きつる。


「私が知ってるバンソンなら、そんなふうに素直に『ありがとう』なんて言う人じゃないでしょう」


 バンソンは微笑んだ。


 苦味を含みながらも、どこか優しい笑み。


「普段は……言う相手がいないからな」


 彼は続ける。


「お前が来るまで、俺はずっと一人で全部片付けてた」


 その言葉には、今までなかった静かな孤独があった。


「生きるのも死ぬのも、俺一人。俺がどこで倒れても、わざわざ雨の中まで飛び込んで探しに来るような馬鹿なんて、今までいなかった」


 アサが言葉を失う。


 黒い瞳の奥を見つめる。


 これまで彼と出会ってから初めて。


 こんなにも剥き出しの誠実さを向けられて――


 彼女は、いつものような冗談を返すことができなかった。


 ゆっくりと丸椅子へ座り直す。


 二人の間に流れる空気が、濃くなっていく。


 言葉にされていない思いが、そこへ重く沈んでいた。


「ねえ……」


 アサが口を開く。


 ためらいながら下唇を噛む。


「あなた、疲れることってある?」


 バンソンは首をわずかに傾けた。


 冷たい壁へ身体を預ける。


 そして天井を見上げた。


 瞳は遠かった。


「あるに決まってる」


「じゃあ、どうしていつも無理するの?」


 アサの声が少し揺れる。


「なんで全部背負うの? 玲香のことだって……本当はあなたの責任じゃない」


 バンソンは長いこと黙っていた。


 バルコニーの外側にあるトタン屋根を叩く雨音が、せわしない心臓の鼓動のように響いている。


 やがて、彼が口を開いた。


「俺が止まったら……」


 低い声が静寂の中へ落ちていく。


「永遠に埋もれる真実がある」


 一拍。


「誰にも聞かれないまま終わる泣き声がある」


 そして――


「それに……誰にも見つけてもらえない出来事がある」


 アサは彼を見る。


 その瞬間、理解した。


 バンソンが語っているのは、決してこの学校の事件だけではない。


 彼自身の人生についてだ。


 一人きりの機械のように動き続ける、その生き方について。


 暗闇を一身に背負い、それでも光を探し続ける生き方。


 怪我をしても声を上げないことに慣れている。


 倒されても、自分一人で這い上がることに慣れている。


 アサの胸が痛んだ。


 心臓を鋭く刺されたような痛み。


 彼女は自ら椅子を少しだけ彼の近くへ寄せた。


 そして、真っ直ぐに彼の目を見る。


 その瞳には揺るぎない意思があった。


 燃えるような強さと、それを包み込むような優しさが同居している。


「だったら、これからは――一人で背負わないで」


 バンソンが彼女を見る。


 驚きが浮かんでいた。


 アサは自分の胸を指で叩いた。


 一語ずつ、強く言い聞かせるように。


「私がいる」


「あなたがどこへ突っ込んでいっても、私が引っ張り出すから」


 *


 外の雨は、世界そのものを洗い流そうとしているかのように降り続けていた。


 保健室は完全な静寂に包まれていた。


 聞こえるのは、二人の呼吸だけ。


 バンソンがアサを見る。


 アサも見返す。


 それ以上の言葉は、必要なかった。


 二人の間に張り詰めた見えない糸がある。


 それが、激しく震えている。


 これまでばらばらに散らばっていた感情の欠片が、今この瞬間――


 勝手に噛み合い、一枚の絵を完成させていくようだった。


 だが、空気があまりにも甘くなりすぎたことに気づいたアサが、小さく咳払いをする。


 頬が少し熱くなる。


 彼女は立ち上がり、薬品類を片付けようとした。


「私がやるから……」


 だが、一歩踏み出すより先に。


 バンソンの右腕が伸びた。


 怪我をしていない方の手。


 無意識だった。


 彼はアサの手首をそっと掴んだ。


 力は強くない。


 それでも、アサをその場に止めるには十分だった。


 皮膚と皮膚が触れた瞬間。


 二人とも、まるで電流を流されたように身体を震わせた。


 アサが振り返る。


 大きく見開かれた瞳が、自分の手首を掴んでいる彼の手へ落ちる。


「……どうしたの?」


 声がかすかに震えた。


 自分でも説明できない衝動的な行動だった。


 バンソンは気づくと、火に触れたような勢いで手を放した。


 そして少し顔を逸らす。


 視線を合わせない。


「……何でもない」


 声が少し掠れていた。


 アサはその場に立ったまま、数秒間、彼を見つめ続ける。


 鋭い観察眼。


 そんな彼女が、この天才馬鹿の心理の変化を見逃すはずがなかった。


「嘘」


 断定するように言う。


 バンソンは息を吐いた。


 口元に諦めたような笑みが浮かぶ。


「……たぶんな」


 アサは去らなかった。


 むしろ戻ってきて、そのままベッドの端へ腰を下ろす。


 バンソンのすぐ隣。


 肩が触れそうな距離。


 頬杖をつき、彼の横顔を見つめる。


 完璧だった輪郭。


 だが、今は傷だらけの顔。


「ねえ、バンソン」


 突然、アサが尋ねる。


「私があなたの一番嫌いなところ、知ってる?」


 バンソンが振り向く。


 眉を上げた。


「何だ? 傲慢なところ? 冷たいところ? それとも空気を壊すところか?」


「違う」


 アサが首を横に振る。


 その眼差しには、あまりにも真っ直ぐな誠実さがあった。


 バンソンは思わず息を止める。


「あなたは、何でも自分一人でやらなきゃいけないって思ってる」


 アサは静かに続けた。


「どんな陰謀だって暴けるくせに、周りの人の気持ちには驚くほど鈍い」


 わずかに声が震えた。


「……どうして、私に頼っていいってことに気づけないの?」


 バンソンが俯く。


 黒髪が目元へ落ちる。


 右手が、真っ白なシーツの上で強く握り締められた。


「……どうしてだ?」


 バンソンは低く尋ねる。


 ほとんど囁き声だった。


「どうして、お前は……俺みたいにいつも危険ばかり運んでくる人間のそばに、そんなに頑固にいる?」


 アサはすぐには答えなかった。


 窓の外へ顔を向ける。


 雨粒がガラスを伝い、長い涙のような筋を作っていた。


 彼女の頭の中を、これまで見てきた光景が次々とよぎる。


 危険から自分を庇ってくれたバンソン。


 誰かのために謎を解き、無実の人間を救ったバンソン。


 そして――


 誰もいないところで、痛みを一人で噛み殺していたバンソン。


 長い沈黙のあと。


 アサは彼を真っ直ぐ見つめる。


 そして、たった一言で答えた。


「私が、そうしたいから」


 バンソンが呆然とする。


 彼は顔を上げた。


 まるで聞き間違いではないかと確かめるように。


「……それだけ?」


「うん。それだけ」


 アサははっきりと頷いた。


「私はあなたのそばにいたい」


「事件を追うときも、怪我をするときも……全部、一緒にいたい」


 そして、少しだけ顔を赤くしながら言う。


「あなたが私を追い出さない限り、最後までついていく」


 その言葉を聞いた瞬間。


 これまでずっと張り詰めていたバンソンの肩から、力が抜けた。


 そして――


 本物の笑顔が咲いた。


 温かく、優しく、眩しい。


 普段の冷たさを忘れさせるほど鮮やかな笑顔。


 バンソンは思わず声を上げて笑った。


 その笑いは澄んでいて、どこかほっとしたような響きを帯びていた。


 アサは眉を寄せ、恥ずかしさで頬を真っ赤にする。


「な、何笑ってるのよ! こっちは本気で言ってるんだから!」


「分かってる」


 バンソンは笑いを止めた。


 その瞳が深くなる。


 彼女だけを真っ直ぐ見つめる。


「お前が本気で言ってるのは、分かってる」


「じゃあ、あなたは?」


 アサが問い詰める。


 顎を少し上げ、挑むような眼差しを向ける。


「聞いてるだけじゃなくて、自分のこともちゃんと言いなさいよ!」


 バンソンはすぐには答えなかった。


 ただ、彼女を見る。


 静かな空間。


 自分の胸の中で響く激しい鼓動が、はっきりと聞こえた。


 それは――彼女のためだった。


 これまで理性で築いてきた壁が、目の前にいる少女のあまりにも真っ直ぐな想いによって、完全に崩れ落ちていく。


 やがて。


 バンソンが口を開く。


 低く、柔らかな声。


 彼が持つすべての優しさを詰め込んだような声音だった。


「俺も、お前にいなくなってほしくない」


 一拍。


「一度だって、そう思ったことはない」


 さらに――


「これから先も、ずっと」


 アサが固まる。


 胸が一度、大きく跳ねた。


 その直後、心臓は壊れそうなほど速く鼓動し始めた。


 彼女は大きく目を見開き、バンソンを見つめる。


 言葉が出ない。


 彼の正面からの告白は、これまで口にしてきたどんな論理的推論よりも、はるかに強烈だった。


 二人とも、もう何も言わなかった。


 言う必要がなかった。


 ベッドの端に座る二人の距離が、見えない力に引き寄せられるように少しずつ縮まっていく。


 バンソンがわずかに身を乗り出す。


 アサも無意識に近づいていく。


 ミントの香り。


 ジャスミンの香り。


 二つが重なった。


 アサはバンソンを見る。


 バンソンもアサを見る。


 互いの瞳の中には、もう相手しか映っていなかった。


 アサの視線が、深い黒色の瞳から、わずかに結ばれた唇へ落ちる。


 胸が上下する。


 迷い。


 そして、決意。


「私……」


 アサが唾を飲み込む。


 声は蚊の鳴くように小さい。


「一つ、してもいい?」


「何を?」


 バンソンが静かに尋ねる。


 その瞳が少し暗くなる。


 期待と欲望が、静かに混じっていた。


 アサは答えなかった。


 言葉の代わりに――


 目を閉じる。


 そして、十七年の人生で集めてきたすべての勇気を振り絞り、ゆっくりと身体を前へ伸ばした。


 唇が、バンソンの唇へ触れる。


 一瞬。


 時間が止まったようだった。


 外で轟く雷鳴も、稲光も、すべて遠くへ押し流された。


 彼女の唇は柔らかく、少し冷たい。


 だが、その触れ合いから伝わってきた熱は、熱流となってバンソンの胸の奥へ一気に流れ込んだ。


 彼は一瞬、完全に固まった。


 目を大きく見開く。


 だが次の瞬間。


 胸の奥から、甘い感覚が込み上げてきた。


 思わず目を閉じ、応えたくなる。


 しかし――


 その口づけは、三秒しか続かなかった。


 アサが慌てて離れる。


 まるで取り返しのつかないことをしてしまったように、飛び退く。


 保健室の空気が凍りつく。


 完全な静寂。


 アサは勢いよく顔を逸らした。


 耳。


 頬。


 首。


 すべてが熟した柘榴のように真っ赤だった。


 彼女は落ち着きを失い、髪を何度も撫でつけながら、しどろもどろに言う。


「い、今のは……その……ご、ご褒美! じゃなくて……今日あなたが生きてたことへの、お礼! だから! 変なこと考えないでよ!」


 バンソンは、目の前で必死に顔を隠そうとしている少女を見る。


 胸の奥が、まるで熱で溶けたように柔らかくなる。


 口元が、いたずらっぽく持ち上がった。


 そして、わざとゆっくりと言う。


「だったら……」


 アサが反応する。


 警戒するように振り返った。


「……何?」


 バンソンが首を傾ける。


 瞳には、濃い笑いが宿っている。


「もう少し頻繁に危険な目に遭ってもいいか?」


 アサの顔が引きつる。


「このご褒美……かなり価値がある」


 アサの目が丸くなる。


 頭のてっぺんまで血が昇った。


「……あんた、よくも!」


 彼女は手を振り上げる。


 だが、怪我をしていない右肩を、恐ろしく加減してペシッと叩くだけだった。


 ほとんど撫でたような力しかない。


 バンソンが声を上げて笑う。


 右手で叩かれた場所をさすりながら、そこには限りない愛おしさが滲んでいた。


「もう、そういう冗談やめて!」


 アサは文句を言いながら立ち上がる。


 薬品のトレーを持ち、洗面台へ向かう。


 必死に騒がしい心臓を隠そうとしている。


 ――それでも。


 その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。


 *


 二人が保健室を出る頃には、雨はかなり弱まっていた。


 残っているのは、細かな水滴だけ。


 二人は肩を並べて廊下を歩いていく。


 どちらも、先ほどのキスについて直接触れようとはしなかった。


 だが――


 二人の間の空気は、完全に変わっていた。


 ぎこちない。


 気恥ずかしい。


 それなのに、不思議なほど甘い。


 その感情が、二人の足取り一つ一つに染み込んでいる。


 アサは先ほど自分が脱いだ制服の上着をある程度乾かし、バンソンの右肩へそっと掛けた。


 血と埃に汚れた白いシャツを隠すためだ。


「一応着てて。外、冷えるから」


 バンソンが襟元を軽く引く。


「ありがとう」


「……うん」


 アサは咳払いし、正面を見た。


 一秒。


 沈黙。


 響くのは、二人分の足音だけ。


「アサ」


 バンソンが突然呼ぶ。


「何よ、まだ?」


 戸惑いを隠そうとして、ぶっきらぼうに答える。


「耳……まだ赤いぞ」


 その声には、隠しきれない笑いが含まれていた。


 アサは即座に振り向き、睨みつける。


「うるさい! これ以上何か言ったら、ここで首を絞めるから!」


 バンソンは素直に口を閉じた。


 ただし、口元の笑みだけは消えなかった。


 *


 その頃。


 バンソンとアサの間に生まれた甘い空気とは、完全に異なる世界。


 水野玲香の寝室。


 そこは墓場のように静かだった。


 玲香は絨毯の上に正座するように座り、青白い光を放つスマートフォンと向き合っている。


 その光が、彼女の血の気のない顔を浮かび上がらせていた。


 ――ピロン。


 新しいメッセージ。


 匿名の番号。


『自分だけで、いつまでも全部を守れると思ってるの? お前の王座は、血と骨の上に築かれているんだよ、玲香』


 玲香は唇を噛んだ。


 血が滲む。


 震える指でメッセージを削除する。


 だが、今回は泣かなかった。


 その瞳に浮かんでいたのは――


 恐ろしいほどの虚無だった。


 追い詰められ、もう逃げ場がない人間が見せる空虚。


 玲香は立ち上がる。


 本棚へ歩く。


 分厚い辞書へ手を伸ばし、それを一冊引き抜く。


 すると、その奥に――


 壁へ深く埋め込まれた隠し引き出しが現れた。


 暗証番号を入力する。


 カチリ。


 引き出しが開く。


 中には、黒いファイルに挟まれた大量の資料が入っていた。


 玲香はそれを机へ運び、デスクライトを点ける。


 ファイルには、学年内にいる数十人の生徒の名前が並んでいた。


 その横には、赤ペンで塗り潰された数字。


 訂正線。


 書き換えられた点数。


 不自然なほど系統的に操作された記録。


 玲香は三ページ目をめくる。


 そこで、彼女の目が止まった。


 赤いペンで丸がつけられた名前。


 筆圧が強すぎて、紙そのものが破れかけている。


 ――秋山陽翔。


 玲香は引き出しからもう一枚の紙を取り出した。


 サーバールームから密かに持ち出した、本物の模擬試験の成績表。


 それを、今朝掲示された公式のランキング表と照らし合わせる。


 数字が一致しない。


 秋山陽翔の数学の本当の点数は――


 95点ではなかった。


 60点。


 他の生徒の点数も同じように入れ替えられている。


 加点。


 減点。


 変更。


 そのやり方は、一人や二人のいたずらではない。


 明らかに、誰かが――


 意図的に。


 そして継続的に。


 成績を操作している。


 玲香は震える声で呟いた。


「……そんな……ありえない……」


 指が紙を強く掴む。


「何なの……これ……」


「誰が……成績表を操作してるの……?」


 ――コンコン、コンコン、コンコン。


 突然、ドアを叩く音が響く。


 玲香の身体が跳ねる。


 慌てて資料をかき集める。


 そしてベッドへ駆け寄り、マットレスの下へ隠す。


「玲香、何してるの? こんな時間まで、まだ寝てないの?」


 扉の向こう。


 母親の声。


 柔らかい。


 だが、その奥には見えない圧力があった。


「わ、私は……何でもない! 物理の問題を少し残してて……。もう寝るから!」


 玲香は必死に普通の声を作った。


 しばらくして。


 廊下を遠ざかっていく足音。


 玲香は大きく息を吐く。


 そして机へ突っ伏した。


 スマートフォンを見る。


 時刻は――20時17分。


 そのとき。


 ロック画面へ、新しいメッセージが表示された。


 冷たい。


 そして、明確な脅迫。


『明日、お前は選ばなければならない。頂点に立つ者か――それとも、身代わりとなって死ぬ者か』


 *


 場面は、バンソンとアサへ戻る。


 二人は学校の門を出たところだった。


 すでに空は暗い。


 雨に濡れた道路が、街灯の黄色い光をぼんやりと反射している。


 しばらく歩いていたバンソンが、突然足を止めた。


 普段のからかうような表情が消える。


 代わって現れたのは――


 冷静さと鋭さ。


 天才探偵としての気配だった。


 アサも歩みを止める。


 振り返った。


「……また何か思いついた?」


 バンソンは、自分の包帯を巻いた腕を見る。


 その目が険しくなる。


「俺の怪我……あれは事故じゃない」


「え?」


 アサの眉が寄る。


 一歩近づく。


 バンソンは振り返り、暗闇へ沈む旧校舎を見る。


「落ちる前に、あの鉄製ラックをちゃんと見ていた」


 彼は淡々と説明した。


「ボルトは錆びて自然に外れたんじゃない」


 一拍。


「誰かが意図的に緩めていた」


 アサの表情が変わる。


「でも、それだけじゃ落ちないだろ」


「残っていた摩擦力は、ラックを壁にギリギリ留めておける程度だった」


 バンソンは続ける。


「そこへ、ごく小さな外力が加わるか、わずかな振動が起きれば落下する状態だった」


 彼は視線を細める。


「そして、俺が真下に立った瞬間に落ちた」


「時間の誤差は一秒もない」


 アサの背筋を、冷たいものが走った。


 バンソンが何を示唆しているのか、すぐに理解する。


「……誰かが、わざとやったっていうの?」


 彼女の声が震える。


「あなたを殺そうとした人間がいる?」


 バンソンはすぐには答えなかった。


 ただ、校舎の真っ暗な窓を睨む。


「目的が、口封じのための殺人なのか……それとも警告なのか、まだ分からない」


 一拍。


 そして、ゆっくりアサへ顔を向ける。


 鋭い眼差し。


「だが、もし警告だったとしたら……」


 アサが、その先を口にする。


「……あなたが、この件を調べてるって誰かに知られてる」


 彼女の喉が鳴る。


「私たち……監視されてるんだ」


 バンソンはゆっくりと頷いた。


 淡い殺気が、彼の周囲に滲む。


 自分へ手を出した人間。


 そして――


 アサまで危険へ引き込もうとした人間。


 その相手を、決して許すつもりはなかった。


 *


 深夜。


 校舎三階。


 そこは、決して光の届かない廊下だった。


 一人の人物が、黒いフード付きパーカーを着たまま、物陰に静かに立っている。


 その人物はゆっくりと顔を上げた。


 見つめる先は――


 天井の隅に設置された監視カメラ。


 どういう方法を使ったのかは分からない。


 しかし、カメラは赤いランプを一度だけ点滅させたあと、完全に動かなくなった。


 しかも――


 レンズの向きは、本来の方向から完全に逸らされている。


 人物はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出した。


 画面が光る。


 そこに表示されたのは、遠くから盗撮された一枚の写真だった。


 写真の中には――


 保健室の前に並んで立つ、バンソンとアサ。


 そして、バンソンの頭に巻かれた白い包帯。


 フードの影の下。


 口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


 人物は素早く文字を打ち込み、正体の分からない番号へ送信する。


『新しく介入してきた人間がいる。頭の切れる男だ。ここの生徒じゃない』


 数秒も経たないうちに、返信が届いた。


 まるで高い場所から盤上を見下ろす者の命令だった。


『なら、そのまま続けさせろ』


 続いて、もう一通。


『掘れば掘るほどいい。このゲームには、もう少し新鮮な血が必要だ』


 スマートフォンの画面が消える。


 黒い影は暗闇へ溶けていった。

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