Episode 35
壁に掛けられた時計の秒針が、静まり返った部屋の中で規則正しく時を刻んでいた。
カチ、カチ、カチ――。
一つ、また一つと響くその音は、まるでバンソンの脳内を駆け巡る無数のニューロンに、思考のリズムを刻み込んでいるかのようだった。
彼は背もたれのある椅子へどさりと腰を落とし、目の前のコルクボードを凝視していた。そこには無数の写真、急いで切り抜かれた新聞記事、そして赤い糸が巨大な蜘蛛の巣さながらに縦横無尽に張り巡らされている。
室内には、冷めきったコーヒーと紙埃の匂いがこもり、息苦しいほどだった。
バンソンはゆっくりと目を閉じる。
無数の事実、証言、時刻、そして一見すると互いに無関係に思える物的証拠が、次々と脳裏を駆け巡った。
人通りのない路地での口論。
窓枠に残された一筋の傷。
放置された上着から漂っていた、あの化学薬品の臭い。
そして――
夜の闇を引き裂く稲妻のように、すべてが一つにつながった。
カチリ。
実際には聞こえるはずのない、完璧な一音が脳裏で鳴った。
バンソンは勢いよく目を開いた。
ふうっ、と息を吐く。
安堵を滲ませながらも、その瞳は鋭く冷え切っていた。
「……こいつだ」
バンソンは掠れた声で呟いた。水分不足で喉は枯れていたが、その目だけは異様なほど輝いている。
「どの想定時間帯にも姿を現さなかった男が……逆に、偽のアリバイを作るだけの時間を唯一持っていたんだ」
一秒たりともためらわず、バンソンは机の上に置かれていたスマートフォンをつかみ、慣れた番号を素早く入力した。
三度の呼び出し音。
その直後、夜勤明けの疲労を滲ませた、低くくぐもった声が返ってきた。
「目暮だ」
「解けました、目暮警部」
バンソンの口調は、十代の少年とは思えないほど落ち着いていた。
前置きも、遠回しな説明もない。
彼はただ核心へと切り込んだ。
犯人の証言に潜んでいた矛盾。
死亡推定時刻を欺くために使われた手口。
そして、そこから導き出される犯人の行動。
一つ一つの論拠を、まるで手術刀で切り開くかのように、論理的かつ明快に、そして冷徹に白日の下へ晒していく。
電話の向こうが、しばらく沈黙した。
聞こえるのは、驚愕に息を呑む音だけ。
やがて――
ガタンッ。
椅子が床を激しく擦る音が響いた。
「その場を動くな。捜査班を直ちに向かわせる」
目暮の声には、いつもの落ち着きとは違う熱がこもっていた。
「……坊や。君、本当に大物を釣り上げたな」
そして、その言葉は現実のものとなった。
翌朝。
事件は、警察署全体を驚愕させたまま幕を閉じた。
単なる窃盗でもなければ、街中で起きたありふれた喧嘩でもない。
それは、完璧に偽装された事故の裏側に隠されていた、組織的な詐欺と暴力の犯罪網だった。
バンソンは、年齢という枠を遥かに超えた洞察力と推理力によって、その精巧な舞台装置を根こそぎ引きずり倒したのである。
そして、彼の名声は嵐のような勢いで広まっていった。
警察署から表彰状が届いた。
学校では、週初めの全校朝礼で校長が彼の名を読み上げた。
だが――
おそらくバンソンが最も気にしていたのは、報道陣のフラッシュでも、周囲から向けられる羨望の眼差しでもなかった。
廊下の隅に立つ、榎波アサの視線だった。
長い黒髪が肩へと静かに流れ、澄み切った瞳が、まるで波一つない湖面のような静けさを湛えて、彼を見つめている。
榎波家は、古くから続く伝統を重んじる家柄だった。
礼儀と家の体面を何よりも大切にし、娘が誰と付き合うかについても極めて慎重である。
ところが、あの事件以来。
街の安全に関わる真実を明らかにしたのがバンソンだと知ったことで、榎波家の態度は明らかに変わっていた。
彼を見る目には、確かな敬意が宿っていた。
それは、一人の高校生に向けられるには珍しい、静かな好意だった。
だが、地元紙の一面を彼の写真が堂々と飾るようになってからというもの、物事はバンソンが最も忌み嫌う方向へと進み始めた。
彼は学食の席に座り、目の前に置かれた朝刊を睨んでいた。
太字で躍る見出し。
『映画スター顔負けの美貌を持つ天才男子高校生、難事件を鮮やかに解決!』
「……はあ」
バンソンは深いため息をつき、こめかみに手を当てた。
そして、まるで新聞そのものが病原菌でも持っているかのように、遠ざける。
「どうして『美貌が映画スター並み』なんて文句を、『事件を解決した』より先に持ってくるんだよ……?」
彼は本気で不満そうだった。
「昨夜、フル稼働していたのは僕の脳みそだぞ。顎のラインでも鼻筋でもない」
向かいに座っていたアサが、くすりと笑った。
その声は澄んでいて柔らかく、真夏の昼下がりに風鈴同士が触れ合う音のようだった。
彼女は手を伸ばして新聞を裏返し、細く長い指で、こっそり撮られた「考え込むバンソン」の写真を軽く叩く。
「人が美しいものを好きになるのを、禁止することなんてできないでしょう、バンソン」
アサは微笑みながら言った。
その瞳には、珍しく悪戯っぽい光が宿っている。
「それに、この角度の写真……そんなに悪くないと思うけど」
バンソンの首筋が一気に熱くなった。
「……っ」
ごまかすように小さく咳払いをし、冷たい麦茶を一口飲む。
「僕は、そういう表面的な評価には興味ない」
できるだけ平静を装って続ける。
「僕の目標は、芸能人みたいなアイドルになることじゃない。世界で最も偉大な警察官になって、世界中のあらゆる嘘を見抜ける探偵になることだ」
その言葉に、彼は真っ直ぐな眼差しを向けた。
「そのためには、自分が写真写りよく見えるかどうかなんて気にしている暇がない。まだまだ鍛えなきゃならないことが山ほどあるんだ」
「……うん。分かってる」
アサの声が、ふっと低くなった。
真剣で、そして優しい声音だった。
「そして、私はあなたならきっとできると思ってる」
少しだけ微笑む。
「あなたはいつだって、他の人が何気なく見落としてしまうものを見つけるから」
その瞬間、二人の間に流れる空気が、ふっと変わった。
目に見えない親密さが、濃密な霧のように漂い始める。
バンソンの心拍が、いつもよりわずかに速くなる。
天才的な分析能力を誇る彼の頭の中では、あらゆる確率、あらゆるリスクが瞬時に計算されていく。
しかし――
アサを前にすると、彼の脳はいつも部分的な麻痺状態へ陥ってしまう。
「今日の午後……」
バンソンが口を開いた。
だが、言葉がわずかに引っかかる。
咳払いを一つ。
冷たい麦茶の入ったグラスを見つめるのではなく、何とか彼女の目を見ようとする。
「今日、学校が終わったあと……その、事件解決のお祝いっていうか」
一拍置く。
「すごく美味しい鍋の店を知ってるんだ。もし予定が空いてたら……」
最後まで言い切る前に、アサの沈黙が背中を冷たく這った。
――断られる?
――家が厳しいって言ってたよな。
――僕、焦りすぎたんじゃないか?
――今からでも誘いを取り消したほうが……。
「鍋?」
アサの目が、ほんの少しだけ輝いた。
その一言で、バンソンの暴走しかけた思考がぴたりと止まる。
「いいね。楽しそう」
彼女は微笑んだ。
「放課後に、異性の友達と二人きりで鍋を食べに行くのなんて、今まで一度もなかったから」
そう言ってから、少し考えるように首を傾げる。
「ちょっと待ってね。家に電話しないと」
アサはバッグからスマートフォンを取り出し、席を立つ。
そして廊下の隅へと歩いていった。
その後ろ姿を見送ったバンソンは、長い息を吐き出した。
まるで自分が今しがた時限爆弾の解除に成功したかのようだった。
しばらくして、アサが戻ってきた。
表情には、少しだけ安堵が浮かんでいる。
「お母さん、いいって。でも、夜の八時半までには帰ってきなさいって」
バンソンは眉を寄せた。
「家族も、前よりは厳しくなくなったんじゃなかったっけ?」
首を傾げる。
「もう中学生じゃないんだし。どうして今でもそんなに厳しくされてるんだ?」
アサは席に座り、両手を組んでテーブルの上に置いた。
そして窓の外へ視線を向ける。
そこでは、街路樹の楓の葉が、少しずつ色褪せ始めていた。
「家族みんなが厳しいわけじゃないよ」
彼女は静かに言った。
「むしろ、お父さんはかなり自由にさせてくれるの。でも、お母さんは……お母さんなりの決まりがあるんだって」
一度言葉を区切る。
「榎波家の娘なら、一人前になるまでは相応の節度を守らなきゃいけないって」
アサは苦笑した。
「大学に進学して、自分の人生に責任を持てるってことを自分自身で証明できたら、そのときに初めて手を離してくれるんだって」
「だから、お父さんじゃなくて、いつもお母さんに許可を取るのか?」
バンソンの声には、わずかな痛ましさが滲んでいた。
アサは小さく頷く。
「お父さんに頼めば、きっとすぐに許してくれる。でも、そうするとお母さんがお父さんに怒るから」
彼女は静かに続けた。
「自分のちょっとした楽しみのために、家族の間に不和を作りたくないの」
そして、ほんの少しだけ微笑む。
「お母さんと正面から向き合うのは大変だけど……それが、お母さんのルールを尊重するってことだと思ってる」
バンソンは彼女を見つめた。
その静かな佇まいの奥に、驚くほどの強さがあることに気づく。
彼女は盲目的に閉じ込められているわけではない。
家族への愛情と平穏を守るため、自らの自由を一時的に引き締めているのだ。
そして、いつか堂々と、自分の人生を咲かせる日を待っている。
「……なるほどな」
バンソンは穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、八時十五分には家に着けるようにする」
彼は時計を確認する。
「一秒たりとも遅れないように」
* * *
鍋料理店『火の味』は、賑やかな大通りから一本入った路地裏にありながら、どこか古めかしく、どこか温かみのある空気を残していた。
高い位置には赤い提灯が吊るされ、燻された香りの染みついたオーク材のテーブルが並んでいる。
店内は客の出入りで賑わい、笑い声や話し声、グラスの触れ合う澄んだ音、そして鍋から立ち上るぐつぐつという音が混ざり合い、まるで日常そのものを奏でる交響曲のようだった。
バンソンが扉を押し開ける。
入り口の風鈴が、からん、と涼やかに鳴った。
「いらっしゃ――おお、なんだ、誰かと思えば!」
長身の男性店員が、腰にエプロンを巻いたまま出てきた。
目を丸くする。
「我らが名探偵バンソンじゃないか! どうした? 今日は事件を解決するんじゃなくて、彼女を連れて鍋デートか?」
「……っ!」
バンソンの顔が耳まで真っ赤に染まる。
彼は店員を睨みつけ、歯を食いしばりながら小声で言った。
「ヨウスケさん、変なこと言わないでください。クラスメートです」
ヨウスケは意味ありげにアサへウインクした。
「クラスメートねぇ」
ニヤリと笑う。
「まあいい。VIPにはVIP席だ。いちばん奥の右側、あそこなら静かだからな。ゆっくり……話もできる」
「……っ」
アサは唇を噛んで笑いをこらえた。
そして礼儀正しくヨウスケへ頭を下げ、バンソンの後を追う。
ここでアルバイトをしているだけあって、バンソンはメニューを完全に暗記していた。
メニューを開くことすらせず、すぐに二色鍋を注文する。
一方は、きのこの旨味が溶け込んだ上品で優しい味わいのスープ。
もう一方は、舌が痺れるほど刺激的な辛口のスープ。
そこへ新鮮な牛肉、さまざまな種類のきのこ、そして手作りのつみれを次々と追加する。
「ずいぶん慣れてるね」
アサは感心したように言った。
バンソンは自分で彼女の器と箸を熱湯ですすいでいる。
「ここでバイトを始めて、もう半月以上になるから」
何でもないことのように答える。
「いろんな人と接することも、将来警察の仕事をする上では観察力を鍛える訓練になるし」
ところが、その直後。
バンソンの頭に、午後からずっと考えていた一つの目標が浮かんだ。
まだ実行できていないこと。
電話番号。
ごくり。
バンソンは唾を飲み込んだ。
犯罪者への尋問なら、何百通りもの方法を知っている。
心理的な圧力をかける方法も、罠となる質問を仕掛ける方法も、沈黙によって相手に自らしゃべらせる方法も知っている。
しかし――
女の子に電話番号を聞く方法だけは、どうにも分からない。
どうすれば馬鹿みたいに見えずに済むんだ?
「アサ……」
バンソンが口を開いた。
だが、その声は途端にしどろもどろになる。
「どうしたの?」
アサが顔を上げる。
大きな瞳が、鍋店の温かな黄色い照明を映していた。
「実は……その……最近、通信暗号化アルゴリズムについて研究していて……」
――何を言ってるんだ、僕は!
心の中で自分自身を罵る。
「いや、違う!」
慌てて言い直す。
「その、課題について連絡を取りやすくするために……いや、緊急事態が起きたときに……いや、違う! 僕は……君に……その……」
これほどまでに顔が熱くなったのは、生まれて初めてだった。
論理の天才が、たった十個の数字の羅列を前に完全に敗北している。
バンソンは額に手を当て、浮き出した冷や汗を拭った。
アサはぱちぱちと瞬きをした。
それから――
唇の端が、ゆっくりと弧を描いた。
「ふふっ」
彼女は声を上げて笑った。
そこには隠しきれないほどの楽しさが滲んでいる。
「今のバンソン……すごく可愛い」
その瞳が、とろりと柔らかくなる。
バンソンは硬直した。
『可愛い』。
その二文字が、まるでノックアウト・パンチのように彼の中枢神経を真正面から撃ち抜いた。
「……え?」
言葉を失っている間に、アサは身を乗り出した。
そして、バンソンが壊れそうなほど強く握りしめていたスマートフォンを、そっと彼の手から抜き取る。
細く長い指が、慣れた手つきで画面上を滑っていく。
ピッ、ピッ、ピッ。
やがて彼女はスマートフォンを彼へ返した。
「はい」
画面には、新しく登録された番号。
名前の欄には、『アサ』と表示されている。
「課題のことで連絡したいときでも、緊急事態のときでも――」
彼女は少しだけいたずらっぽく笑った。
「……それとも、ただ鍋を食べに行きたいだけでも。いつでも電話していいよ」
バンソンは画面を凝視した。
まるで、今この瞬間に世界でたった一つの宝物を手に入れたような気分だった。
そのとき――
隣のテーブルから、何人かの中年客がこちらを振り返った。
「おい、坊主」
一人の男性が、嬉しそうに声をかけてくる。
「今朝の新聞に載ってたバンソン君じゃないのか?」
男は豪快に笑った。
「大したもんだ! 頭が切れて、男前で、それに女の子への気遣いもできる。俺に娘がいたら、ぜひとも君に嫁がせたいくらいだ!」
店内からどっと笑い声が上がった。
バンソンは困ったように頭を掻き、ただただ頭を下げて励ましの言葉に礼を述べるしかなかった。
そしてアサへ目を向ける。
彼女は、どこか誇らしげな眼差しで彼を見つめていた。
二人の食事は、これ以上ないほど穏やかで心地よい空気の中で始まった。
やがて料理が運ばれてくる。
バンソンは鍋の扱いに関して、見事な腕前を披露し始めた。
牛肉を入れるタイミングを正確に見極め、火を通しすぎることなく、柔らかさと肉そのものの旨味を残す。
出来上がった肉を一枚ずつアサの器へ取り分けてやる。
そして――
彼は、自分の推理能力では到底予測できなかった、一つの事実を知ることになる。
榎波アサ。
細身で、風に揺れる柳の枝を思わせるような華奢な少女。
その身体のどこに収まっているのかと思うほどの、とてつもない食欲の持ち主だった。
それは、この店全体の食料供給を脅かしかねないほどである。
彼女は、ひたすら食べた。
それも、実に美味しそうに。
妙な遠慮もなければ、決して下品でもない。
皿に盛られていた牛肉は、見る間に消えていった。
一皿。
二皿。
三皿――。
バンソンはただ呆然としながら、次から次へと追加注文を繰り返した。
そして心の中で、今日が給料日だったことに感謝した。
一時間半後。
テーブルの上には、空になった牛肉の皿が六枚、きのこの皿が三枚、そしてうどん二人前の器が残されていた。
もちろん、中身はすべて消えている。
アサは紙ナプキンで口元を拭き、心から満足したように微笑んだ。
「すごく美味しかった。ありがとう、バンソン。もうお腹いっぱい」
「き、君……本当によく食べるんだな……」
バンソンは、なおも目の前の空皿の山から視線を離せずにいた。
まさに二人が席を立ち、会計へ向かおうとした、その瞬間だった。
ガシャーンッ!
店の入り口から、耳をつんざくような破砕音が響いた。
三人の男が、ふらつきながら店へ入ってきた。
酒の強烈な臭いが一気に広がり、鍋の香りすら押し流す。
先頭に立つ男は、安物の革ジャンを着ていた。
胸元のボタンは外され、その隙間から、歪んだ竜の刺青が覗いている。
まるで下手な絵師が失敗したまま放置したような、酷く雑な代物だった。
後ろに続く二人は、がっしりとした大柄な体つきをしている。
目は酔いで濁っているが、その奥には、酒に酔って暴力の捌け口を求める者特有の粗暴さが滲んでいた。
本物のヤクザというわけでもなければ、マフィアでもない。
せいぜい、街中でつるんでいるだけのチンピラ集団だ。
「クソが!」
革ジャンの男が怒鳴りつける。
「こんな洗い水みてぇなもん食わせやがって、よくも一万も請求しやがったな!」
男は木製の椅子を蹴り飛ばした。
そして、ちょうど伝票を持ってきたヨウスケの胸倉をつかむ。
「飯は腐ってる、店員の態度も気に食わねぇ! こんなもん払えるか!」
凄みのある声が店内に響き渡る。
「店長を出せ! 俺の胃袋に怪我させた詫びをしろ!」
店内が、しんと静まり返った。
周囲の客たちは身を寄せ合い、何人かは気づかれないように立ち上がり、裏口から逃げようとする。
ヨウスケは青ざめながら、男の手を振りほどこうとした。
「お客さん、当店の料理は――」
パァン!
乾いた音が響いた。
革ジャンの男がヨウスケの頬を強烈に平手打ちしたのだ。
ヨウスケの身体が数歩よろめく。
口元から血が滲んだ。
バンソンは眉をひそめた。
未来の警察官としての本能が、血流とともに一気に沸き立つ。
椅子を押し退け、立ち上がった。
脳が瞬時に状況を分析する。
――三人。
――全員、酔っている。
――先頭の男は重心が不安定。
――左の男は大柄だが足元がおぼつかない。
――右の男は今、身体のバランスを保つことに意識を割いている。
先頭の男の軸足を蹴り払えば、二人の注意が一瞬逸れる。
その隙に――。
しかし、バンソンが一歩踏み出すより先に。
小さな手が、彼の胸を横切って制した。
「……!」
いつの間にか、アサが立ち上がっていた。
ついさっきまで浮かべていた柔らかな笑顔は、もうそこにはなかった。
その整った顔から感情が消え失せている。
瞳は凍りついた湖面のように冷たく、静かだった。
アサはバンソンを背後へ下がらせると、三人の男へ向かって、落ち着いた足取りで歩き始めた。
「ねえ、おじさんたち」
声は高くない。
それでも、酔いきった男たちの鼓膜を鋭く貫くには十分だった。
「食事をしたのにお金を払わないのは、民事上の問題になります。人を殴って怪我をさせたら、刑事事件です」
一歩。
また一歩。
「今夜は警察署で過ごしたいんですか?」
革ジャンの男がヨウスケを乱暴に放した。
そして振り返る。
自分の前に立っているのが、プリーツスカートの制服を着た、ただの女子高校生だと知ると――。
男は腹を抱えて笑い出した。
「ひゃっははは! 警察だってよ!」
後ろの二人もゲラゲラと笑う。
革ジャンの男が一歩前へ出た。
酒臭い息が、アサの顔面へまともに吹きかかる。
「お嬢ちゃん、この俺たちに説教しようってのか?」
男が手を伸ばす。
「それとも、兄ちゃんたちと二次会でも行くか? そうすりゃ、その店員を許してやるよ――」
空気が、止まった。
バンソンの目が見開かれる。
ほんの一瞬。
一秒にも満たない時間の中で、彼は見た。
アサの身体が、わずかに沈んだ。
怯えたわけではない。
恐怖でもない。
――狩りに入る獣の準備だった。
嵐の前の、静寂。
革ジャンの男の汚れた指が、アサの頬からあと五センチというところまで迫った。
その瞬間。
アサが動いた。
左手が、コブラの頭が跳ね上がるような速さで突き出される。
男の手首を、正確無比につかむ。
「な――」
男の目が驚愕に見開かれた。
そのまま反応する暇すら与えない。
アサは右足を一歩引き、腰を旋回させた。
男自身の突進する勢いを、そのまま利用する。
手首を返し、右手で軽く肘を押し下げる。
次の瞬間――
アサの全体重が、逆方向へねじり上げられた男の関節へと乗った。
ミシッ。
乾いた音が響く。
肩関節を完全に極めた、完璧なロック。
相手の力を真正面から受け止めるのではなく、合気道の理に従ってその勢いを殺し、力の流れそのものを無効化する技術だった。
「ぎゃあああああっ!」
革ジャンの男が絶叫した。
激痛に耐えかね、膝を床へ叩きつけるように落として、靭帯が引き裂かれるような痛みを少しでも逃がそうとする。
やがて男は、アサの足元に這いつくばった。
涙も鼻水も垂れ流している。
「て、てめぇ! 兄貴に何しやがった、このアマ!」
酔いが一気に醒めた二人の子分が吠え、アサへ飛びかかろうとした。
しかし――
アサは一切動じない。
むしろ、手に込める力をほんの少しだけ強めた。
「ぐあああっ!」
革ジャンの男が再び悲鳴を上げる。
その声が店内いっぱいに響き渡った。
そしてアサの瞳が、残った二人へ向けられる。
そこには鋭さがあった。
そして――
殺気。
声が低く沈む。
さっきまでの温かさは、一片たりとも残っていない。
「一歩でも近づいたら、この男の肩を完全に壊します」
冷たい声だった。
「次はあなたたちの番です」
一語ずつ、区切る。
「――金を、出して」
アサの中で、何かが弾けていた。
榎波家で守り続けてきた規律も、自制も、抑制も。
それらすべてが、不正と暴力を目の前にした瞬間だけ、完全に解き放たれていた。
二人の子分の顔から血の気が引く。
酔いは、跡形もなく消えていた。
震える手でズボンのポケットへ手を突っ込み、くしゃくしゃになった札束を取り出す。
そして慌ててテーブルの上へ放り投げた。
「わ、分かった! 払う! 払うから兄貴を放してくれ!」
アサはテーブルの上の伝票を一瞥し、それから金額を見る。
――足りている。
彼女は小さく手を振った。
革ジャンの男の身体が床へ転がる。
「……失せろ」
冷たい一言だった。
三人の男は、それ以上何かを言う勇気すらなく、互いに支え合いながら、まるで幽霊にでも追われているかのように店から逃げ去っていった。
次の瞬間。
店内の緊張が、一気に弾け飛んだ。
拍手が轟く。
ヨウスケは腫れ上がった片頬を押さえながら、アサを崇拝するような眼差しで見つめていた。
そして――
バンソンは、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
脳内で、あらゆる分析が再計算されている。
物理法則。
人体構造。
力学。
生体反応。
すべてが、もう一度プログラムを走り直していた。
アサが内面の強い女性だということは、以前から知っていた。
しかし――
これほど実戦的で、これほど容赦のない近接戦闘技能まで身につけているとは、思ってもいなかった。
あの関節技。
あの正確さ。
あれを実戦の場で成立させるには、何年にもわたる鍛錬と、鋼鉄のような精神力が必要になる。
そのとき。
アサが振り返った。
先ほどまで彼女の瞳を満たしていた殺気が、まるで嘘だったかのように消えていく。
両手をぱん、ぱん、と軽く叩く。
まるで、埃でも払っているだけのようだった。
そしてバンソンへ、いつもの柔らかな笑顔を向ける。
「ごめんね。ちょっとムキになっちゃった」
申し訳なさそうに眉を下げる。
「せっかくの食事、台無しにしちゃったね」
バンソンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
そして彼女のもとへ歩み寄る。
その瞳には、驚愕と敬意、そして――
これまで以上に強くなった、ある種の激しい感情が入り混じっていた。
もう、ためらわなかった。
彼はアサのすぐ近くまで歩み寄り、驚くほど落ち着いた、成熟した声音で言った。
「台無しなんかじゃないよ、アサ」
一度言葉を切る。
「君は、君なりのやり方で正義を守ったんだ」
そして、ほんの少しだけ笑う。
「……すごく格好よかった」
だが、すぐに腕時計へ目を落とす。
「あ」
「もう八時まで十分しかない」
バンソンは少し困ったように言った。
「もう帰らないと。君をこんな時間まで外にいさせたくない」
そして、彼女へ視線を戻す。
「……君が、どんな相手からでも自分の身を守れることは分かってるけどね」
アサが瞬きをする。
そして、頬がほんのりと赤く染まった。
「うん」
小さく頷く。
「ありがとう、バンソン」
二人は店を出た。
背後には、再び賑わいを取り戻していく店内の喧騒が残される。
街の夜気は少し冷たく、二人の頬を撫でるように吹き抜けていった。
街灯の黄色い明かりの下。
バンソンとアサの二つの影が、細長く地面へ伸びている。
並んで。
そして、どこか寄り添うように。
バンソンは自然と車道側を歩いた。
彼女を通り過ぎる車から守るように。
そのとき、彼はふと思った。
この世界は、果てしなく広い。
そして、無数の謎に満ちている。
偉大な探偵になるというのは、きっと長い長い旅になるのだろう。
数え切れない事件に出会い、無数の嘘と向き合い、幾千もの謎を解き明かしていく。
けれど――
今、自分の隣を歩いている少女の心を読み解くことこそ。
もしかすると、それは自分がこれまで出会ったどんな事件よりも魅力的で、どんな謎よりも深く、そして何よりも解き明かしたいと思える問題なのかもしれない。
夜の街灯の下を、一歩、また一歩と歩いていく。
バンソンには分かっていた。
二人の関係は、今この瞬間を境に、まったく新しい頁を開いたのだ。
――すべては、まだ始まったばかりだった。
街灯が明滅し、やがて一斉に灯った。
黄色く力のない光がアスファルトの路面へ降り注ぎ、バンソンとアサの二人の影を、前方へ向かって細長く引き延ばしていく。
賑やかな鍋の食事を終えたというのに、二人の間には突然、奇妙な沈黙が落ちていた。
靴底が規則正しく歩道を叩く音だけが、闇に少しずつ飲み込まれていく夜の中で、唯一響いている。
バンソンは両手をズボンのポケットに突っ込み、隣を並んで歩く少女をちらりと見た。
アサは一定の歩調を崩すことなく前を向いて歩いている。
その瞳はまっすぐ前方を捉えながらも、どうやら自分自身の思考の中へ深く沈み込んでいるようだった。
もともとバンソンは、沈黙を恐れるような人間ではない。
だが――
この濃密な空気には、どうにも落ち着かなかった。
それは、互いの心を理解した者同士に訪れる静寂ではない。
むしろ、昼間の騒動で生まれた感情が完全に冷めてしまう前に、何かを注ぎ込んで埋めなければならない空白のように感じられた。
バンソンは小さく咳払いをした。
そして、何とか自然に話を始められそうな話題を探す。
「なあ、アサ」
夜の闇の中に、落ち着いた低い声が響いた。
「君は……将来、自分が何をするか考えたことってある? その……夢とか」
アサの足が、ほんの半歩だけ止まった。
彼女は隣を歩くバンソンへ顔を向ける。
黒曜石のような瞳が、街灯の光を映していた。
そして、唇の端をわずかに持ち上げる。
どこか意味深な、片側だけの笑み。
「どうして急に、そんな青春恋愛ドラマみたいな話をするの?」
「ただの興味だよ」
バンソンは肩をすくめ、できる限り自然な態度を装った。
「どうせ俺たちも、そろそろ進路を決めなきゃいけない年齢になるだろ。君みたいな性格の人間が、どんな道を選ぶのか知りたかっただけだ」
アサはすぐには答えなかった。
彼女は顔を上げ、風にそよぐ古い街路樹の枝を見つめる。
しばらくして、ようやく穏やかな声が返ってきた。
だが、そこにいつものからかうような調子はなかった。
代わりにあったのは、妙なほど真剣な響きだった。
「医者」
バンソンが瞬きをする。
歩く速度がわずかに緩んだ。
「医者? 君が?」
声には隠しきれない驚きが滲んでいた。
別にアサを見下しているわけではない。
ただ、昼間、敵の顔面へ容赦なく蹴りを叩き込んでいた少女の姿と、白衣を身にまとい、人の命を救う医師というイメージが、あまりにもかけ離れていたのだ。
「何?」
アサが片眉を上げる。
鋭い視線が、まるで刃物のようにバンソンの顔を横切った。
「私が人を助ける側に向いてなさそうに見える?」
「ち、違う、そういう意味じゃない!」
バンソンは慌てて両手を振った。
「ただ……あの仕事は大変だろ。医学部だって、そう簡単なものじゃない。ものすごいプレッシャーがかかる。君、本当にやっていけるのか?」
「夢っていうのはね」
アサは髪を軽く後ろへ払った。
瞳の奥に、バンソンがこれまで見たことのないほど強い炎が灯る。
「『できない』なんて言葉を置く場所、最初からないの」
「私は、本気で医者になりたい」
一歩、歩きながら彼女は続ける。
「まだ物心もつかない頃から、それだけは分かってた。私が進みたい道は、これしかないって」
その声には、揺るぎない決意があった。
「どれだけ時間がかかっても、どれだけ努力しなきゃならなくても、最後まで追い続ける」
そして、ほんの少しだけ視線を落とす。
「一度止まってしまった命に、もう一度鼓動を取り戻させること」
その言葉は、静かな夜に不思議なほど強く響いた。
「それが生み出す感覚に比べたら、この世のどんな権力も、お金も、同じ価値なんて持たないと思ってる」
アサの一言一言に込められた激しさに、バンソンは背筋を熱いものが走り抜けるのを感じた。
彼は、ようやく理解した。
一見すると気が強く、どこか刺々しくて、冷たくも見える少女。
その内側には、目を眩ませるほど鮮烈な生命の炎が燃えている。
「じゃあ、あなたは?」
アサが不意に問い返した。
バンソンの思考を、その一言が断ち切る。
「まさか今日のことを経験して、将来はヤクザか格闘家になりたい、なんて言わないでしょうね?」
バンソンは思わず吹き出した。
「違うよ」
そして、迷うことなく答える。
「俺は警察官になりたい」
今度はアサが目を見開いた。
「警察官?」
「うん」
バンソンは頷いた。
遠くで色を変える信号機へと視線を向ける。
「まだ鼻水も自分で拭けなかった頃からの夢なんだ」
わずかに笑う。
「人を守りたい」
自分でも少し青臭いと思ったのか、照れ隠しのように続けた。
「説教くさいって思うかもしれない。でも、不公平なことを見たり、弱い立場の人が踏みにじられているのを見ると、どうしても腹の底が煮えくり返る」
声に力がこもる。
「だから、俺はそういう人たちと悪の間に立つ壁になりたいんだ」
アサは何も言わずに聞いていた。
目を細める。
ちょうどそのとき、冷たい風が吹き抜け、彼女の横髪をふわりと舞い上がらせた。
「……みんなを守る、か」
彼女はぽつりと呟いた。
そして、小さく首を振る。
その口調には、さっきまでとは比べものにならないほど現実的な響きがあった。
「それは、すごく難しいよ。バンソン」
「あなた一人で、世界中の人を守ることなんてできない」
淡々とした声が続く。
「この世界は広すぎるから。そして、光が届かない場所には、いつだって闇が残る。あなたの光では、永遠に照らせない場所だってある」
冷水を浴びせられたような言葉だった。
それでも、バンソンは怯まなかった。
歩みを止める。
そして身体ごと振り返り、正面からアサと向き合った。
街灯の下で、彼の瞳にもまた、彼女に劣らない確かな意志が宿っている。
「その通りだ」
一語一語、噛みしめるように言う。
「俺には、全員を守ることなんてできない」
そして、まっすぐ彼女を見つめた。
「でも、それは君だって同じだろ、アサ」
「君は医者になるんだ。自分の患者を全員助けられるのか?」
アサの瞳が、わずかに揺れた。
「手術台の上で亡くなる人だっている。今の医学じゃどうにもならない病気だってある」
バンソンの声は静かだった。
だが、その言葉には確かな重みがある。
「それでも――君は白衣を着るのをやめるのか?」
アサは息を呑んだ。
言葉が出てこなかった。
バンソンの反論は、彼女の思想の核心を正確に射抜いていた。
アサは唇をきゅっと結ぶ。
だが、返す言葉は見つからない。
「俺は、世界全部を救わなきゃいけないなんて思ってない」
バンソンは続けた。
その声は低く、年齢に似合わない成熟した重みを帯びていた。
「目の前にいる人を助けられれば、それでいい」
「誰かが助けを求めたとき、そこに俺がいられればいい」
「一人でも、二人でも、百人でも――」
ほんの少しだけ微笑む。
「俺にとっては、それで十分なんだ」
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
今度の沈黙には、気まずさなどなかった。
二つの思想。
二つの魂。
互いが胸の奥深くに秘めていた願いを、初めて光の下へ晒しながら、静かにぶつかり合っていた。
張り詰めていたアサの肩から、少しずつ力が抜けていく。
彼女はふう、と息を吐いた。
そして、滅多に見せない、穏やかで偽りのない笑みを浮かべる。
「私のお父さん……」
柔らかな声だった。
「お父さんも、昔はそういう世界で働いてたの」
一瞬、彼女は遠くを見るような目をした。
「いろんなことを経験してきたし、人間の裏側も嫌というほど見てきた」
それから、バンソンへ視線を戻す。
「もしあなたが本気でその道を目指すなら……いつか、お父さんに話を聞いてみるといい」
「きっと、あなたが憧れている『警察官』っていう肩書きが、現実にはどんなものなのか――もう少し現実的な視点から教えてくれると思う」
「本当に?」
医者。
警察官。
そして、武術。
アサの家庭には、自分が想像していた以上に多くの秘密が隠されているらしい。
「もちろん、ぜひ聞いてみるよ」
バンソンは頷いた。
「でも、タイミングは選ばないとな。いきなり押しかけるみたいになったら悪いし」
「好きにすれば?」
アサは肩をすくめ、そのまま歩き始めた。
「ただ、覚悟だけはしておいたほうがいいよ」
「お父さん、料理は本当に上手だけど」
いたずらっぽく笑う。
「お父さんの話は、料理みたいに簡単には飲み込めないからね」
そして、ふと思い出したように付け加えた。
「特に、うちの弟がいつも他人の足にしがみついて離れないから」
「弟?」
バンソンは瞬きをし、慌てて彼女の横へ追いついた。
「弟がいるのか? なんで今まで聞いたことなかったんだ?」
「すごく面倒くさい子だよ」
そう言いながらも、アサの瞳の奥には隠しきれない愛情が浮かんでいた。
「家に私がいると、コアラみたいにずっとくっついてくるの。どこへ行くにも一緒についてくるんだから」
「何歳?」
「まだ三歳」
アサは苦笑した。
「今まさに、好奇心旺盛で、何でも壊したがる時期」
子どもの話を聞いた瞬間、バンソンの脳裏に昼間の光景が蘇った。
弱い立場の人たちを守るため、容赦なく敵へ攻撃を加えていたアサ。
それと、幼い弟を可愛がる彼女の姿。
その二つが、ひどく奇妙な形で重なった。
「……待てよ」
バンソンは眉をひそめ、少し首を傾げてアサを見る。
「さっきから一つ気になってたんだけど」
「君の夢は医者なんだろ?」
アサが横目で彼を見る。
「だったら――なんで未来の医者が、今日みたいな恐ろしい格闘技術まで持ってるんだ?」
バンソンの目が細くなる。
「昼間の回し蹴りなんて、ネット動画を見て覚えられるような代物じゃない」
するとアサは、声を立てて笑った。
冷え始めた夜気の中へ、明るい笑い声が響く。
彼女は制服の裾を軽く整え、どこか誇らしげな表情を浮かべた。
「医者は喧嘩する必要なんてない。でも、アサには必要だったの」
そして、胸を張る。
「こう見えて私、ジュニア大会の空手と柔道、どっちも優勝経験があるんだから」
「……優勝?」
バンソンが目を見開く。
「しかも、両方?」
ようやく納得がいった。
昼間のチンピラたちが、なぜあれほど簡単に地面へ転がされたのか。
「母さんに無理やり習わされたの」
アサはため息をつき、道端の小石をつま先で軽く蹴った。
「今どきの女の子は、注射器かペンしか持てないんじゃ駄目だって」
「まず、自分の身を守れるようになれって」
少し遠い記憶を辿るように、彼女は続ける。
「今の弟くらいの年齢だった頃から、いきなり道場へ放り込まれたんだから」
「畳の上で受け身を取る練習をしたと思ったら、次はサンドバッグを殴る。毎日そんな感じ」
アサは肩をすくめた。
「たぶん、物心つく前から殴ったり蹴ったりしてきたせいで、こんな気の強い、ちょっとぶっきらぼうな性格になっちゃったんだと思う」
そう言ったところで――
彼女が突然、足を止めた。
そして、くるりと振り返る。
次の瞬間。
バンソンとの距離が、一気に縮まった。
アサは少しだけ背伸びをする。
そして、その顔を彼のすぐ近くへ寄せた。
黒い瞳が、いたずらっぽくきらりと輝く。
「どうしたの?」
彼女は声を落とした。
吐息に混じったほのかなミントの香りが、バンソンの鼻先をくすぐる。
「私がこんなに怖い女だって分かったけど……」
彼女は口元を笑わせた。
「もしかして、怖くなった?」
バンソンの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
髪から漂う香り。
異常なほど近い距離。
その二つが重なった瞬間、彼の脳は数秒間、完全に機能停止した。
反射的に、半歩後ずさる。
ごくりと唾を飲み込み、平静を保とうとする。
だが、声には隠しきれない動揺が滲んでいた。
「ち、違う!」
「こ、怖いって……何がだよ! 俺が怖がるわけないだろ!」
言葉がつっかえる。
視線は、アサの鋭い眼差しから逃げるように、あらぬ方向へ泳いだ。
その否定は、あまりにも不自然で、ぎこちなく、白々しかった。
三歳児にだって見抜けそうなほどに。
それを見たアサは――
「ぷっ……」
次の瞬間には腹を抱えて笑い出した。
心底楽しそうだった。
いつも冷静ぶっているこの男が、自分にからかわれただけでここまで狼狽し、まともに言葉すら話せなくなる。
それがたまらなく面白いらしい。
「もう、やめてよ!」
アサは笑いながら言った。
「顔、真っ青になってるじゃん! 今さら何を否定してるの」
そして、からかうように続ける。
「安心して。別にあなたをサンドバッグにするつもりなんてないから」
「だから、俺は怖くないって言ってるだろ!」
バンソンは頭を掻きむしった。
頬が恥ずかしさで少し熱くなる。
だが、わざとらしい苛立ちを見せるほど、アサの笑い声はさらに大きくなっていった。
そのときだった。
突如、強烈な突風が通りを吹き抜けた。
街路樹の枝葉が大きく揺れ、乾いた葉がざわざわと舞い上がる。
周囲の気温が、一気に下がった。
湿った土の匂いまで混じっている。
――大雨が来る。
そう告げるには、十分すぎるほど明確な前兆だった。
アサの身体が、小さく震える。
笑い声がぴたりと止まった。
彼女は両腕を胸の前で組み、露出した腕を擦って少しでも体温を逃がさないようにする。
肩が、わずかに縮こまった。
ほんの一瞬だけ見せた、その無防備な姿を――
バンソンは見逃さなかった。
考えるより先に、身体が動いていた。
彼は厚手のカーキ色のジャケットを脱ぎ捨てるように肩から外した。
そしてアサへ近づく。
何も言わず、そのまま彼女の肩へ掛けた。
布地には、まだ彼自身の体温が残っている。
その温もりが、冷え切ったアサの身体を優しく包み込んだ。
アサは呆然と顔を上げる。
ジャケットは彼女の身体には明らかに大きすぎて、裾が太腿近くまで垂れ下がっている。
「何してるの?」
驚いたように尋ねる。
「あなたは寒くないの?」
「俺は牛並みに頑丈だからな。この程度で寒がるかよ」
バンソンはぶっきらぼうに答えた。
もっとも、その下に残っているのは薄い半袖のTシャツ一枚だけだった。
彼はアサの袖口をつかみ、ほんの少し前へ引く。
「急ぐぞ。もうすぐ嵐になる」
「ゆっくりしてたら、二人まとめてずぶ濡れの鼠になるぞ。ほら、急げ!」
有無を言わせぬバンソンの催促に、アサは反論する暇もなかった。
握られた手が、温かい。
そして、しっかりしている。
彼女は慌てて、長い歩幅で進むバンソンの速度に合わせた。
ジャケットが二人の呼吸に合わせてふわふわと揺れる。
その布地からは、かすかな男性的な体温の残り香に、洗剤の爽やかな匂いが混じっていた。
アサの胸の奥で――
何かが、小さく震えた。
ほんのわずか。
それでも、確かに。
二人は二つの交差点を全力で駆け抜けた。
そして小さな路地へ曲がり、アサの家の鉄門の前へたどり着いた、その直後だった。
ぽつ、ぽつ――。
次の瞬間。
豆粒ほどもある大粒の雨が、滝のように降り注ぎ始めた。
「わっ……!」
アサが慌ててポケットから鍵を取り出す。
鍵穴を探す手元が濡れないよう、バンソンは手を伸ばして彼女の頭上を覆った。
ようやく門を開け、二人が玄関先へ駆け込んだ、その瞬間。
ガチャッ。
玄関の木製ドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、がっしりとした体格の中年男性だった。
角ばった顔立ちをしているものの、その瞳は驚くほど優しい。
腰には茶色のエプロンを巻いている。
「おかえり、アサ!」
低く、温かみのある声が響く。
「おやおや。もう少しでびしょ濡れになるところだったな」
アサが挨拶をするより先だった。
ドアの隙間から、丸々とした小さな塊が魚雷のような勢いで飛び出してきた。
それは、青い恐竜柄のパジャマを着た、ぷくぷくとした幼い男の子だった。
少年は一直線にアサのもとへ駆け寄る。
そして、その足にぎゅっとしがみつき、小さな頭を彼女の太腿へすり寄せた。
「お姉ちゃん帰ったー!」
「お姉ちゃん、だっこ! だっこー!」
アサの顔に、途端に柔らかな笑みが浮かぶ。
彼女はしゃがみ込み、少年の頭を優しく撫でた。
「お姉ちゃん、今ちょっと汚れてるから。抱っこはもう少し待ってね」
それから顔を上げ、父親へ言う。
「お父さん、紹介するね。こちら、バンソン。私と同じ学校の友達で、家まで送ってくれたの」
そして、バンソンへ視線を向ける。
「バンソン、こっちが私のお父さん。それで、私の足にしがみついてるジャガイモみたいなのが、リョウタ」
「じゃ、ジャガイモ……?」
バンソンは一瞬固まったものの、すぐに姿勢を正した。
そして、きっちり九十度に腰を折る。
「は、初めまして! お邪魔いたします!」
声はやけに張り切っていた。
「バンソンと申します。本日はアサさんをお送りしました!」
アサの父親は目を細めて笑い、目の前の背の高い少年をじっくりと眺めた。
礼儀正しい。
受け答えもきちんとしている。
そんな印象を確かめるように頷く。
しかし――
彼の視線が、娘の肩に掛けられた大きめの男物のジャケットへ移った。
そして、冷たい雨の中、薄いTシャツ姿になっているバンソンを見る。
男の口元が、ほんの少しだけ意味ありげに吊り上がった。
そのとき、台所から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
続いて、女性の声が響く。
「あなた、誰か来たの? アサが帰ったの?」
「母さんが果物を洗ってるんだ」
アサの父親が説明する。
「うちはあまり台所仕事が得意じゃなくてな。だから料理は基本的に俺の担当なんだ」
そう言って彼は扉を大きく開けた。
外では雨がますます激しさを増している。
「ずいぶん降ってきたな。これじゃ、しばらく止みそうにない」
彼はバンソンへ笑いかけた。
「坊や、よかったら上がっていきなさい。雨が弱くなるまで家で待って、それから帰ればいい。せっかくだ、俺たち三人で夕飯でも食べよう」
「えっ、いえ! ありがとうございます!」
バンソンは慌てて手を振った。
「でも、ご家族にご迷惑をおかけしますし……それに、その……さっきアサと鍋を食べたばかりなので」
困ったように腹へ手を当てる。
「まだお腹いっぱいなんです」
「そうだよ、お父さん」
アサも横から助け舟を出した。
「私たち、もうすっごくお腹いっぱいだから。牛肉の鍋をこれでもかってくらい食べてきたし」
そう言いながら、アサは肩に掛けていたジャケットを脱ぎ、バンソンへ返した。
「そうか?」
父親は豪快に笑った。
「それならちょうどよかった」
「俺もまだ晩飯は作ってないんだ。ちょうどオーブンで焼き菓子を作ってるところでな」
彼は奥を指差した。
「デザートにすればいい。鍋のあとに焼き菓子と紅茶なんて最高じゃないか」
そして、逃げ道を塞ぐようににっこり笑う。
「ほら、入りなさい。遠慮はなしだ、坊や」
あまりにも強引――いや、親切すぎる勧めに、バンソンはとうとう断る理由を失った。
「……それでは、お言葉に甘えて」
観念したように頷く。
靴を脱ぎ、玄関を上がった。
家の中へ入った瞬間。
バンソンは、思わず息を呑んだ。
外観から想像していたよりも、はるかに広い。
磨き上げられたオーク材の床。
無駄のない、それでいて快適さを徹底的に追求した家具。
すべてが整然と配置されている。
古典的な意匠を取り入れたシャンデリアからは、暖かな黄色い光が降り注いでいた。
さらに、台所から漂ってくるバターやミルクの濃厚な香り。
そこへ甘いバニラの香りまで混じっている。
その空間には、人の心から疲労を少しずつ溶かしてしまいそうな、穏やかな家庭の温もりが満ちていた。
「バンソンは客間でゆっくりしてて」
アサが言う。
「私は着替えて、それからお父さんたちの手伝いをしてくるから」
そう言うなり、彼女はリョウタをひょいと抱き上げた。
そして近くのソファへ下ろす。
「いい子にしててね」
それだけ言うと、軽やかな足取りで階段を上っていった。
バンソンは頷き、革張りのソファの端へ背筋を伸ばして腰を下ろした。
だが、どうにも居場所がない。
どこを見ればいいのか分からないまま、何となく周囲へ視線を巡らせる。
すると――
視線がぶつかった。
じっと自分を見つめる、小さな瞳と。
リョウタだった。
三歳の少年は赤いゴムボールを両腕で抱え、得体の知れない生物でも見るように、丸い目を大きく見開いてバンソンを凝視している。
口には指をくわえたまま、頭を傾げて観察していた。
バンソンは、できる限り友好的な笑顔を浮かべる。
「やあ。君のお兄ちゃんは、バンソンだ」
リョウタはすぐには答えなかった。
よちよちと歩いて近づいてくる。
そして、バンソンから半メートルほど離れたところで立ち止まった。
突然。
少年は赤いボールをバンソンへ突き出す。
「お兄ちゃん!」
舌足らずな声が響いた。
「ボール、蹴れる?」
答える暇すら与えず、リョウタは両手でボールを思い切り投げつけた。
ドンッ。
痛くはない。
だが不意を突かれたバンソンは、反射的に胸元でそれを受け止めた。
手の中のボールを見る。
次に、鼻水を垂らしていてもおかしくない年頃の、挑戦的な顔つきの少年を見る。
バンソンの口元が、わずかに緩んだ。
「ボール遊びってのは、足で蹴るものだぞ」
「誰が投げるんだ、こんなふうに」
彼は立ち上がった。
ボールを床へ落とす。
そして、床に触れる寸前。
つま先ではなく、足の甲で軽く弾いた。
ポンッ。
ボールが素直に跳ね上がる。
バンソンは、そのままリフティングを始めた。
足の甲。
インサイド。
次に膝。
ボールはまるで彼の身体へ吸いついているかのように、寸分の狂いもなく上下していく。
滑らかで、しなやかで、無駄のない動き。
やがて最後の仕上げに入る。
ボールを背中のラインに沿って転がし、そのまま首元まで送り上げる。
そして跳ね返ってきたボールを、再び足の甲の上へぴたりと乗せた。
完全な静止。
完璧なバランスだった。
「…………!」
リョウタが口をぽかんと開ける。
その目は、まるで本物のスーパーヒーローが目の前に降り立ったかのように輝いていた。
次の瞬間。
「すごーい!」
パン、パン、パン!
小さな手を力いっぱい叩く。
「もういっかい! お兄ちゃん、もっとやって!」
その声を聞きつけるように、台所から焼きたての菓子が並んだトレイを抱えたアサの父親がやってきた。
彼はバンソンの一連の動きを最初から最後まで見ていたらしい。
目を細め、感心したように笑う。
「ほう……いい技術だな」
「反射神経も、バランス感覚も見事だ。何か本格的にやってるのか?」
バンソンは照れ臭そうにボールを床へ置き、頭を掻いた。
「ええ、まあ……学校のサッカー部でやっています」
「なるほどな。スポーツは健康にもいい」
父親は焼き菓子のトレイをテーブルへ置いた。
甘く香ばしい匂いが、瞬く間に部屋いっぱいへ広がる。
「さあ、座りなさい。焼き上がったぞ」
ところがそのときにはもう、リョウタは完全にバンソンへ懐いていた。
少年は駆け寄ると、バンソンの足へぎゅっと抱きつく。
そして両手をいっぱいに広げた。
「だっこ!」
「お兄ちゃん、だっこして!」
バンソンは少し戸惑った。
しかし、ぷっくりとした愛嬌のある顔を見ていると、とても断る気にはなれない。
彼は少年の脇へ腕を差し入れ、ひょいと抱き上げた。
するとリョウタはすぐに両腕をバンソンの首へ回し、嬉しそうにくすくす笑い始めた。
そのちょうど直後だった。
階段の上から、アサが下りてきた。
彼女は淡い水色の柔らかなシルクの部屋着へ着替えていた。
長い髪は後ろでまとめられ、すっきりと整えられている。
そして――
目の前の光景を見た瞬間、アサの足が止まった。
目が大きく見開かれる。
「えっ……」
アサは二人のもとへ歩み寄る。
「一体、何の魔法を使ったの?」
そして、自分の弟を呆れたように見た。
「この子、人見知りがものすごく激しいんだよ。知らない人に触られただけで大泣きするし、抱っこなんて滅多にさせないのに」
「それが今じゃ……」
リョウタはバンソンの首へしがみついたまま離れない。
「まるで接着剤みたいにべったりじゃん」
バンソンは苦笑しながら、少年を抱え直した。
「たぶん、俺には子どもを引き寄せるオーラがあるんだろ」
「はいはい、妄想はそのへんにして」
アサが冷たい目を向ける。
だが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「ほら、テーブルに行くよ」
やがて家族全員が、大きなオーク材の食卓を囲んだ。
焼きたての菓子からは、まだ白い湯気が立ち上っている。
その隣には、熱々のハーブティーが入ったポット。
バンソンはアサの向かいに座らされ、その隣にはリョウタがいる。
子ども用の椅子へ座ることを断固として拒否し、「スーパーマンのお兄ちゃん」の隣がいいと主張した結果だった。
そこへ――
台所から、一人の女性が姿を現した。
布巾で手を拭いている。
アサの母親だった。
切れ長で鋭い美貌。
凛とした佇まい。
そして、近づくだけで周囲を自然と静かにさせてしまうような、目に見えない威圧感をまとっている。
もしアサが燃え盛る炎だとするなら――
彼女の母親は、凍りついた湖だった。
静かで。
深く。
そして、何を考えているのか容易には読み取れない。
「こんばんは」
母親は食卓の上座へ腰を下ろした。
そして、バンソンを一瞥する。
その視線は、まるで空港の保安検査機のように、彼の全身を一通り走査していった。
声音は上品で落ち着いている。
しかし、そこには人を圧するだけの重みがあった。
「あなたがアサを雨から守ってくれた子ね」
一瞬だけ、視線がバンソンの髪から足元まで流れる。
「ありがとう」
そして、再び目を合わせる。
「名前はバンソン君で間違いないかしら?」
「は、はい。ありがとうございます、おばさん」
バンソンは無意識のうちに背筋をぴんと伸ばした。
「本日は、ご一緒させていただきます」
目の前の女性から滲み出る、ほんのわずかな圧。
それを感じた瞬間――
バンソンは、ようやく理解した。
なるほど。
アサがここまでの胆力を持っている理由は、これか。
おそらく、この母親のもとで育てば、並の精神力では到底太刀打ちできない。
焼き菓子を楽しみながら、母親は優雅にティーカップを持ち上げる。
そして何気ない調子で問いを投げた。
だが、その声音には、どこか尋問めいたものがあった。
「アサと同じクラスなのでしょう?」
「学校では、どのくらいの成績なの?」
「あなたたちの学校は、かなり競争が激しいと聞いているけれど」
アサは向かい側ですぐに眉をひそめた。
「お母さん、食事中なんだから……そんな堅い話、しなくてもいいじゃない」
だが、バンソンは穏やかに手を上げた。
「大丈夫」
そんな意味を込めた仕草だった。
そしてフォークを皿の上へ静かに置く。
背筋は真っ直ぐ。
表情も落ち着いている。
母親の視線を真正面から受け止めながら、少しも怯まない。
「ええと……」
バンソンは小さく咳払いをする。
そして、必要以上に誇張することもなく、明瞭な声で答え始めた。
「成績については、そこまで大したものではありません」
謙虚な言い方だった。
「ただ、安定して結果を出せるようには心がけています」
一度言葉を区切る。
「現在、主要な理系科目の平均点で、学年三位以内を維持しています」
母親の眉が、ほんの少し動いた。
バンソンは続ける。
「それから、昨年は市の弁論大会で最優秀賞をいただきました」
「あと、先ほどお父さまにも見ていただきましたが、学校ではサッカー部のキャプテンを務めています」
「去年は地区大会で優勝して、学校へトロフィーを持ち帰ることができました」
一呼吸。
そして、最後の一言。
「それと……二か月ほど前に、国際的な外国語資格試験でも上級認定を取得しました」
――静寂。
食卓全体が、突然、完全な無音に包まれた。
ただ一人。
リョウタだけが何も知らずに焼き菓子をもぐもぐと噛んでいる。
サクッ。
その小さな咀嚼音だけが、奇妙なほど鮮明に響いた。
アサは口を半開きにしている。
手にしていたフォークが、危うく皿の上へ落ちるところだった。
彼女は、バンソンが勉強のできる人間だということは知っていた。
しかし――
ここまで堂々と。
しかも淀みなく。
自分の実績を一つずつ淡々と並べていく姿など、今まで一度も見たことがなかった。
そのあまりの流暢さに、逆に恐怖すら覚える。
一方、父親は紅茶を飲む手を止めていた。
そしてバンソンを見る目が、単なる好意的な評価から、心底感心した人間へ向けるものへと変わっていく。
母親は、ゆっくりとティーカップをテーブルへ置いた。
静寂が、さらに数秒続く。
張り詰めた空気。
そして――
ふっと。
それまで冷淡に見えた女性の口元が、わずかに持ち上がった。
微笑み。
それは静かでありながら、驚くほど本心からのものだった。
「素晴らしいわ」
たった一言。
だが、その言葉には千斤の重みがあった。
「少しくらい意地悪な質問をしてみた甲斐があったわね」
彼女の声には、先ほどまでの冷たい圧力がもうほとんど残っていない。
「本当に才能のある子というのは、自分の能力を必要以上に隠さないものよ」
しかし、同時に――
「かといって、それを鼻にかけることもない」
彼女はバンソンを静かに見つめた。
「あなたの答え方は、とてもよかったわ。バンソン君」
そして、ほんのわずかに目元を和らげる。
「とても立派な気質をしているのね」
アサは――
そんな母親を、呆然と見つめていた。




