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Episode 34

挿絵(By みてみん) 午前五時四十七分。

 東京、杉並。


 バンソンは目を覚ました。


 耳をつんざく目覚まし時計の音もなければ、関節の奥にまとわりつく、あの慢性的な鈍い痛みもない。昨日は珍しく、コンビニのアルバイトを入れていない。だからだろう。昨夜の眠りは、妙なほど深く、満ち足りていた。


 薄い敷布団の上に横たわったまま、バンソンはじっとしていた。布団の生地が肌を擦る、かすかな衣擦れの音に耳を澄ます。


 昨夜、猛威を振るった通り雨はすでに去っていた。


 その代わりに杉並には、ひんやりとして澄み切った、静寂に近い空気が満ちている。静かすぎて、人気のない路地の向こうから、朝刊を配る自転車の車輪が小石を弾きながら進む、かたかたという音さえ聞こえてくる。


 バンソンは大きく伸びをした。


 背骨が、ぽき、ぽき、と乾いた音を立てる。


 十七歳の身体が、十分な休息を得たときだけ見せる、満ち溢れるような快調さが胸いっぱいに広がった。


 彼は勢いよく起き上がり、色褪せたカーテンを開けた。


 窓の外では、空が灰を溶かしたような色をしていた。そこに、夜明けの淡く青白い光が滲んでいる。


 だが、彼の部屋からそう遠くない場所では、夜明けはもっと暗く、もっと冷たい色で幕を開けていた。


 高層ビル群の隙間に埋もれるように建つ、その中学校は、雨に濡れたアスファルトから立ち上る薄い霧の中で、まるで死んだ建築物のように佇んでいた。


 校庭には、人の気配がまるでない。


 正門近くの銀杏の木の下には、昨夜の風に吹き飛ばされた透明なビニール傘が何本か、無造作に転がっていた。骨は折れ、ビニールは裂けている。その姿は、打ち捨てられた蝙蝠の骨格のようだった。


 廊下に沿って設置された蛍光灯は、まだ煌々と光っている。


 低い唸りのような電気音が絶え間なく響き、朝の静寂とはあまりにも不釣り合いな、無機質な音を空間に垂らしていた。


 清掃員の木村老人は、水の入ったバケツとモップを手に、旧校舎の廊下を歩いていた。


 この学校で働き始めて、すでに十年以上になる。


 年齢のせいで曲がった背は、歩みを遅くしていた。ゴム長靴を床に引きずるたび、タイルの上に、ず……ず……という一定の音が刻まれていく。


 この校舎には主に、生化学系の実習室と物置が入っている。夜間は基本的に施錠される場所だ。


 木村の仕事は、生徒たちが登校してくる前に、一通り校舎を見回ること。それだけだった。


 三階の廊下の突き当たりまで来たとき、長靴の先が、何か濡れたものに触れた。


 木村は足を止め、腰を屈める。


 床に、小さな水たまりが広がっていた。


 反射的に天井を見上げ、雨漏りでもしているのかと探す。だが、天井は完全に乾いている。


 視線を下ろし、水の跡を辿った。


 それは、第3生物実験室の扉の下から、細く流れ出していた。


「また蛇口を締め忘れたのか……」


 老人は、疲れ切ったような濁った声で呟いた。


 ドアノブを回す。


 回らない。


 鍵が掛かっていた。


 それも、内側から。


 いつもの苛立ちが、胸の奥に生じたわずかな違和感へと変わっていく。


 生徒が実験室に泊まり込むことは禁止されている。最後に部屋を出る教師には、外から施錠する責任がある。


 ならば――なぜ、内側から鍵が掛かっている?


 木村は腰に下げた巨大な鍵束を探った。


 狭い廊下に、金属同士がぶつかる澄んだ音が響く。


 赤いテープを巻き付けた鍵を見つけ、鍵穴へ差し込んだ。


 カチャッ。


 内鍵が外れる。


 木村は扉を押し開けた。


 室内は真っ暗だった。


 窓のカーテンは完全に閉じられている。


 空気は淀み、息苦しいほど重い。浸漬標本から立ち上るホルマリンの臭気に混じって、嗅ぎ慣れない異様な臭いが鼻を刺した。


 生臭く、どこか甘ったるい。


 それでいて、錆びた鉄のような臭い。


 廊下から差し込んだ光が、床に一本の斜線を描いた。


 ――水。


 大量の水が、部屋の隅にある流し台から溢れ出していた。ビニール床いっぱいに広がり、じわじわと扉の外へ向かっている。


 そして、その水たまりの中央。


 実験台の列の足元に、一人の人影が、身体を折り畳むようにして倒れていた。


 木村は凍りついた。


 手からバケツが滑り落ちる。


 床に叩きつけられた水が、石鹸水とともに激しく飛び散った。


 少女だった。


 学校の制服は乱れ、プリーツスカートは無理やり引き上げられ、ところどころ引き裂かれている。


 長い黒髪は水と汗に濡れて張り付き、青白く、生気のない顔の半分を覆っていた。


 少女の目は大きく見開かれている。


 濁った瞳は、何かを見つめるように実験台の下へ向けられたままだった。


 廊下から漏れ込む蛍光灯の光に照らされた彼女の肌は、生命を失った大理石のような青灰色をしている。


 木村の喉から、ひどく詰まった声が漏れた。


 まるで見えない手に、喉頭そのものを握り潰されたかのようだった。


 一歩、後ずさる。


 長靴が水に滑った。


 老人の身体が、どさりと床に落ちる。


 立ち上がることすらできない。


 木村は両手で床を掻きながら、這うようにして廊下へ後退した。口は大きく開いているのに、声が出ない。


 静まり返っていた学校の空気が、その瞬間、無残にも引き裂かれた。


 午前七時十五分。


 バンソンが校門をくぐったとき、学校はすでに完全な混乱に陥っていた。


 校庭には、三台のパトカーが斜めに停められている。


 赤と青の回転灯が、濡れた木々の葉を狂ったように照らし、その光が、規制線の外で足止めされている生徒たちの、動揺しきった顔を照らし出していた。


 旧校舎へ続く通路は、目にも鮮やかな黄色の規制線で完全に封鎖されている。


 バンソンは足を止めた。


 野次馬に紛れることもしなければ、好奇心を満たそうとして人混みに割り込むこともしなかった。


 ただ、目を細める。


 瞳孔がわずかに収縮する。


 混乱の中に埋もれた異常を、一つずつ拾い上げるように視線を走らせていく。


 黄色い規制線の位置。


 鑑識官たちが白い手袋を嵌め、ケースを抱えて三階へ駆け上がっていく、その動線。


「第3実験室……」


 彼は心の中で呟いた。


 あそこは人通りが少なく、それに監視カメラからも死角になっている。


 そのときだった。


 一人の人影が人混みをかき分け、まっすぐ警察の規制線へ向かっていく。


 誰にも止められない。


 アサだった。


 制服はきちんと整っている。


 だが、その顔には氷のような冷たさがあった。


 彼女が現れると、何人かの警官が軽く会釈をする。


 当然だった。


 彼女の父親――この管轄を担当する刑事課長、黒田。


 バンソンは一瞬だけ躊躇した。


 だが、昨夜から胸の奥で燃え上がっていた、真実へ近づきたいという欲求が、その慎重さを上回った。


 彼は生徒たちの間をすり抜け、黄色い規制線をくぐろうとするアサのすぐ後ろまで足早に追いついた。


「あなた、ここで何してるの?」


 アサが振り返る。


 目の前に立っているバンソンを見て、眉間に皺を寄せた。


「これは事故じゃない」


 バンソンは答えた。


 その声には、高校生らしい動揺が微塵もない。低く、平坦で、異様なほど落ち着いていた。


「所轄の警察が先に来て、その直後に殺人捜査班が入ってきた。しかも、遺体袋を運んでる」


 アサは目を細めた。


 追い払うつもりだった。


 だが、バンソンの揺るぎない、冷え切った視線を受けると、わずかに言葉を失った。


 彼女は三階を見上げ、声を落とす。


「ミサキ。11年B組。実験室で死亡しているのが見つかった」


「凶器は?」


「まだ不明」


 アサは即答した。


 それから規制線を少し持ち上げ、入口を警備している警官へ言う。


「彼も一緒。父が知ってる人だから」


 警官は一瞬ためらった。


 だが、黒田家の令嬢が放つ有無を言わせぬ威圧感に押され、渋々道を開けた。


 バンソンは礼を言わなかった。


 ただ黙ってアサの後をついて、階段を上った。


 二人は実験室の内部まで入ることを許されず、廊下の境界線に立つだけだった。


 そこでは、黒田と若い刑事が低い声で話している。


 実験室の中では鑑識官たちが指紋採取用の粉末を撒いていた。


 それは、逆に不気味なほど整然とした現場だった。


 倒れた椅子もない。


 壊れた机もない。


 仮に揉み合いがあったとしても、それは圧倒的な力で一方的に制圧されたか、あるいは完全な無音の中で行われたのだろう。


 ミサキの遺体にはすでにシートが掛けられていた。


 それでもバンソンは一瞬だけ見た。


 被害者の手首には、指の形をした痣が残っている。


 太腿にも同様の痕跡があった。


 物理的な拘束による、極めて激しい暴行の痕だ。


 刑事のケンジは三十歳手前。


 ぼさぼさの髪。


 睡眠不足で深く刻まれた隈。


 彼は小さな手帳をめくりながら、黒田――アサの父親へ報告していた。


 黒田は大柄な男だった。


 四角張った顔。


 刃物のように鋭い目。


「課長」


 ケンジは声を落とし、ペン先で簡単な見取り図を指した。


「予備鑑定では、死亡前に性的暴行を受けた痕跡があります。ただし、死因はまだ特定できていません。致命的な開放創はありませんし、絞殺や縊死のような機械的な窒息の痕跡もない」


 ケンジは一拍置いた。


「そして、最も不可解なのが――この部屋です」


 黒田が腕を組む。


「言ってみろ」


「木村さんが発見した時、ドアは内側から施錠されていました。機械式の内鍵で、外側から掛けることはできません。六枚ある窓ガラスも、すべて内側の安全ロックが掛かっていた。換気口の幅は十五センチ程度。人間が通り抜けるのは不可能です」


 ケンジは見取り図を閉じた。


「我々は、完全な密室と向き合っています」


 黒田の眉間に皺が寄った。


 周囲の空気が重く沈む。


「密室だと?」


 低い声が落ちる。


「犯人が蒸発でもしたっていうのか。それとも――自殺か?」


「手首と太腿の痣を見る限り、自殺はありえません」


 ケンジは断言した。


「それと、もう一つ妙な点があります」


 彼は透明なジッパー付き証拠袋を持ち上げた。


 中には、淡いピンク色のカバーを付けたスマートフォンが入っている。


「被害者の携帯です。教師用の机の上に、きちんと置かれていました。表面は完全に拭き取られていて、被害者自身の指紋すら残っていません。通話履歴もすべて削除されています」


 ケンジはそこで言葉を切った。


「ですが、犯人は見落としたのか――あるいは、わざと一つ残したのかもしれない」


 彼は証拠袋の外から画面を軽く撫で、スリープ状態だったディスプレイを点灯させた。


「未開封のSMSが一件。昨夜、二十三時十四分に着信しています」


 画面に表示された文面。


『昨夜、お前と話した人間を信じるな』


「発信元は未登録の公衆回線です」


 その瞬間まで、アサの隣で影のように立っていたバンソンが、初めて口を開いた。


 声は大きくない。


 だが、静まり返った廊下では、一語一語がはっきりと響いた。


「……どうして流し台なんだ?」


 黒田とケンジが、同時に振り返った。


 黒田は眉を顰めた。


 どうしてこんな場所に生徒が入っているのかと怒鳴りつけようとした、その前に、アサが素早く口を挟んだ。


「お父さん、この子は……私の友達」


 バンソンは二人の反応など気に留めなかった。


 視線は、半開きになった実験室の扉の隙間へ固定されている。


「さっき、木村さんが階下で事情聴取を受けている警官に話しているのを聞きました」


 バンソンは静かに続けた。


「水は流し台から溢れていた。かなり大きな水たまりができるほど」


 ケンジを見る。


「さっき、携帯電話は完全に拭き取られていたと言いましたよね。つまり犯人には時間があり、痕跡を残さないことにも細心の注意を払っていた」


 そして、現場の奥を見た。


「そんな人間が、携帯電話の画面についた指紋を一つ残らず消しておきながら、蛇口を閉め忘れるなんて考えられますか?」


 その声は淡々としていた。


「水が廊下へ流れ出れば、発見時刻を早める。捜査員の注意を、最初から現場へ引き寄せることになる」


 ケンジは瞬きをした。


 黒田へ視線を向ける。


 確かに。


 二人は遺体と携帯電話に意識を集中するあまり、その水の存在を完全に見落としていた。


「血を洗い流していて、慌てて逃げた……という可能性は?」


 ケンジが反論する。


「密室なんでしょう?」


 バンソンは即座に返した。


「内側から施錠された部屋で、慌てて逃げることはできません」


 その声には、研ぎ澄まされた論理が宿っていた。


「犯人はこの密室そのものを成立させるための時間を使っている。蛇口から水を溢れさせたのは、単なる不注意じゃない」


 一拍。


「仕掛けの一部です」


 ケンジの表情が変わった。


「俺なら、流し台の下か排水口の近くを調べます」


 バンソンは言った。


「水で溶けるナイロン片か、テープか、それとも釣り糸のような細い線が残っているはずです」


 彼の視線が鋭くなる。


「犯人は水を使って死亡時刻を撹乱した。あるいは――」


「水そのものを、遠隔で内鍵を外すための道具として使った」


 ケンジが息を呑んだ。


 彼はすぐに鑑識官へ合図を送った。


 流し台周辺を徹底的に調べる。


 数分後。


「刑事さん!」


 鑑識官の一人が声を上げた。


「排水管に何か挟まっています!」


 皆の視線が集中する。


「水に溶ける粘着テープの切れ端です。医療用のものと思われます!」


 一瞬、空気が止まった。


 そして、すべての視線がバンソンへ向けられた。


 十七歳の少年。


 少し乱れた髪。


 遺体にも血にも、波一つ立たない静かな目。


 彼はそこに立っていた。


 まるで中学レベルの数学の問題を解いただけであるかのように。


 黒田が歩み寄る。


 大柄な身体がバンソンの前に立ちはだかり、その影が少年をすっぽり覆った。


 鷲のような目が、頭から足先までバンソンを観察する。


 そして黒田は、ちらりと娘を見た。


 アサはバンソンを見つめている。


 そこには驚きと――普段よりわずかに柔らかな、何かが混ざっていた。


 次の瞬間。


 黒田は、喉の奥でくつくつと笑い始めた。


 殺人現場にはあまりにも場違いな、低く濁った笑い声だった。


「たいしたもんだ。実にたいしたもんだ」


 黒田は満足そうに頷いた。


「頭の回転が速い」


 そして、いきなりバンソンの肩を力いっぱい叩いた。


「うわっ」


 少年の身体がよろめき、転びかける。


 黒田は娘へ顔を向け、口元を歪めるように笑った。


 小声のつもりだったが、三人にははっきり聞こえた。


「お前の彼氏か? アサ。見る目があるじゃないか。うちの家業にも向いてそうだ」


 アサの目が見開かれた。


 首元から一気に赤みが広がり、耳まで真っ赤になる。


 黒田家の令嬢として普段まとっている冷静沈着な仮面が、一瞬にして崩れ落ちた。


「お父さん! 何言ってるのよ! ただのクラスメートだから!」


 歯の隙間から絞り出すように言いながら、両手を背中に隠し、指をぎゅっと握り込む。


 あまりにも狼狽していて、バンソンの顔すらまともに見られない。


「クラスメートが朝七時から一緒に殺人現場へ来るか?」


 黒田は豪快に笑った。


「俺とお前の母さんだって、若い頃はよく一緒に死体安置所へ遊びに行ったもんだ」


「そんなわけないでしょ!」


「まあいい」


 黒田は肩をすくめた。


「坊主、面白い指摘をありがとう。ただし、ここから先は大人の仕事だ」


 黄色い規制線を指で示す。


「お前たちは校庭へ戻れ。そろそろ学校側が全校集会を始める」


 そしてケンジを見る。


「ケンジ、流し台を完全に封鎖しろ。あのテープの溶解度を調べて、死亡推定時刻を逆算してくれ」


 バンソンは礼儀正しく一礼した。


 それ以上は何も言わず、踵を返した。


 その後を、まだ顔を真っ赤にしたアサが慌てて追いかけてくる。


 張り詰めていた殺人現場の空気には、黒田の妙に型破りな性格によってぽっかりと穴が開いていた。


 その奇妙な感覚が、バンソンの胸に残った。


 生と死。


 そのあまりにも鮮烈な対比だった。


 夕刻。


 警察は証拠の採取を終え、遺体の搬送も済ませていた。


 旧校舎の一部は封鎖された。


 それでも学校側は、行政からの説明と安心措置を受け、新校舎で授業を続けることを決めた。


 できるだけ日常を装おうとしている。


 だが、教室の空気は恐怖で重く淀み、あちこちから小声の囁きが漏れていた。


 放課後のチャイムが鳴った。


 まるで、それ自体が解放の合図であるかのように。


 バンソンはリュックを背負い、校門を出た。


 夕陽が杉並の街を黄金色に染めている。


 道路に残った雨水が、その光を受けて細長く輝いていた。


 歩道には、長い影が伸びている。


「ねえ」


 背後から、澄んだ声がした。


 バンソンが振り返る。


 アサだった。


 彼女は黒い革の鞄を手に、早足でこちらへ歩いてくる。


 夕風が吹き、額にかかった後れ毛がふわりと舞った。


「何か用?」


 バンソンはいつもと変わらない、淡々とした声で尋ねた。


 だが、アサと並んで歩くように、彼の歩幅は自然と緩んでいた。


「朝のことなんだけど……」


 アサは小さく咳払いをした。


 いつもの厳しい表情を取り戻そうとしているらしい。


 それでも、耳はまだ少し赤い。


「あなた、よくやったわ。あのケンジでさえ――父の部下の中でも一番優秀なのに――あんなに早く蛇口のことには気づかなかった」


 彼女は一瞬だけ、バンソンを見る。


「あなた、素質あると思う」


「俺は、誰もが遺体に目を奪われて見落としたものを見ただけだ」


 バンソンは正面を向いたまま答えた。


「すべての魔術には仕掛けがある。密室だって同じだ」


 淡々とした口調。


「結果を壊せないなら、現場に生じた違和感から始めればいい」


 アサは横目で彼の横顔を見た。


 この少年には、何かがある。


 静かなのに、ひどく危険な何か。


 水面だけを見れば穏やかな湖。


 だが、その底はどこまでも深く、決して見通せない。


「それにしても……父があんなことを言ってたのに、言い返さなかったのはありがとう」


 アサは視線を逸らしながら、気まずそうに言った。


「事実に関係のないことは、気にしない」


 バンソンは平然と答えた。


 二人はそのまま、長い時間、並んで歩いた。


 国道を走り抜ける車の音が、遠くで低く響いている。


 バンソンは、昨夜の電話で父から言われたことを思い出していた。


 ――普通の人間の世界に馴染め。


 それは、これまでの彼にとって最も困難な命令の一つだった。


 だが、今日はなぜか、その言葉を試してみようと思った。


 しばらく歩いたところで、バンソンが突然足を止める。


 アサが振り返った。


 バンソンは少しだけ気まずそうな顔をしていた。


 こんな表情を見せることは、ほとんどない。


「なあ……」


 彼は後頭部を掻いた。


 意味のない仕草だった。


 人付き合いに慣れていない人間の、不器用な癖のようにも見える。


「まだ完全には暗くなってないし……その……もし急いで帰る必要がないなら」


 一瞬、言葉に詰まった。


「渋谷を少し歩かないか?」


 そして、いかにも無理やり付け足すように続けた。


「最近、あの辺が……その……」


 アサが瞬きをした。


 目を大きく見開き、珍しい生物でも観察するようにバンソンを見る。


 やがて、彼女の口元に苦笑が浮かんだ。


「ごめん。無理」


 アサは小さく首を横に振った。


 その目が少し伏せられる。


 そこには、疲労の色が滲んでいた。


「母がね……夕食までに家に帰らなかったら、本気で私を殺すと思う」


 冗談とも本気ともつかない顔で、彼女は続けた。


「刑務官より厳しいんだから。警察署じゃ泣く子も黙る刑事課長の父でさえ、家に帰った途端、母の前では大きな声で咳ひとつできないの」


 アサはため息をついた。


「こんな時間から渋谷なんか行ったら、今夜は家庭裁判所が臨時開廷するわ」


 バンソンはわずかに目を見開いた。


 彼はすでに資料で知っていた。


 アサの母親が、腕の立つ有力な弁護士であることも。


 だが、それほどまでに強い影響力を持っているとは思わなかった。


「……そうか」


 バンソンは頷いた。


 アサが気まずくならないよう、さっきの誘いをすぐに引っ込める。


「じゃあ、また今度だ」


「でもね」


 アサはすぐに話題を変えた。


 口元には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。


「あなた、まだ知らないでしょ?」


「何を?」


「ソウスケのこと」


 その名前を聞いた瞬間、バンソンの眉がわずかに寄った。


 ――以前、彼が叩きのめした男。


 あの喧嘩は、できれば思い出したくない。


 誇れるような戦いではなかった。


 ただ、生き残るために振るった原始的な暴力。


「……あいつがどうした?」


 短い言葉だった。


「あなたが怖すぎて、転校したって」


 アサの肩が小刻みに震える。


 笑いを堪えているのだ。


「今朝、転校手続きが取られたって学校から連絡があったの。なんでも、あなたに倒されたときの、あの目つきが相当なトラウマになったらしいわ」


 アサはついに吹き出しそうになる。


「あなた、いったい何したの? ただの不良を、東京から逃げ出すほど怯えさせるなんて」


 バンソンは何度か瞬きをした。


 普段なら氷のように鋭く、冷静な顔が――


 今だけは、困惑しきったようにしぼんでいた。


 少しだけ頬を赤くし、何とも情けない表情を浮かべている。


 彼は靴先で、アスファルトを意味もなくこすった。


「俺……何もしてないけど」


 ぼそぼそと呟く。


「ただ、あいつの手首を捻って、それから、人間の肋骨がどこまでの衝撃に耐えられるか、少し説明しただけだ」


 どう反応していいのか分からない。


 そんな困惑が、その言葉の一つ一つから滲み出ていた。


「別に、脅かすつもりはなかった」


 さらに小さく続ける。


「ただ医学的な事実を説明しただけなんだ」


 その顔を見た瞬間だった。


 今朝、殺人現場で冷静に密室の謎を解いた、いかにも「日本版シャーロック・ホームズ」のような少年。


 その人物と今、目の前にいる、ひどく間の抜けた顔をした十七歳の少年が、どうにも結びつかない。


 アサは耐えきれなかった。


「ふっ……」


 小さな笑いが漏れる。


 慌てて口元を手で覆う。


 それでも笑いは止まらない。


「……何で笑うんだ?」


 バンソンが眉を顰めた。


 ますます困惑した顔になる。


「あなた、その顔……!」


 アサは指を差した。


 とうとう堪えきれず、声を上げて笑った。


 澄んだ笑い声だった。


 それは、黒田家の令嬢として背負っていた重圧も、警察官の娘として身につけていた緊張も、朝の殺人現場に漂っていた死の空気さえ、すべて吹き飛ばしてしまうような笑いだった。


「人を病院送りにしておいて、『医学的な事実を説明しただけ』って……!」


 アサは笑いながら肩を震わせた。


「あなた、本当に変な人ね、バンソン!」


 その言葉を聞いて、バンソンもあのときの自分を思い出した。


 そして、目の前で腹を抱えて笑うアサを見る。


 胸の奥でずっと張り詰めていたものが、ふっと切れた。


 警戒心。


 孤独。


 自分を守るために纏ってきた、冷たい鎧。


 そのすべてが、突然、力を失っていく。


 バンソンの口元がわずかに緩んだ。


 そして――彼も笑った。


 最初は、喉の奥から漏れるような、低く途切れ途切れの笑いだった。


 だが、涙が滲むほど笑っているアサを見ているうちに、彼も堪えきれなくなった。


 十七歳の少年と少女の笑い声が、夕焼けに染まる静かな街路いっぱいに響き渡る。


 二人はそこに立っていた。


 東京の歩道の真ん中で、身体を折るほど笑っていた。


 まるで、今まで積み重なっていた恐怖も、息苦しさも、孤独も――そのすべてを笑い飛ばしてしまうかのように。


 仕事帰りの人々が何人か通り過ぎていった。


 制服姿の少年少女が、街中で腹を抱えて笑っているのを見て、怪訝そうに振り返る。


 そして、首を横に振りながら呟いた。


「最近の子どもは、受験や学校のストレスで頭がおかしくなったのかねえ」


 彼らは知らない。


 そして、知る必要もない。


 この瞬間。


 凄惨な殺人事件を経験したばかりの杉並で。


 二人の孤独な人間が、互いの隣に立つことで、不思議なほど小さな温もりを見つけていた。


 バンソンがこの国へ来てから――


 初めてだった。


 自分はもう、世界の外側に立っているわけではない。


 そう思えたのは。

 学校からアサの家までの道のりは、およそ三キロ。


 足が重くなるほど遠くはない。


 けれど、二人の間に落ちる沈黙が、まだ名前のついていない、気まずくて、初々しい青春の感情へと変わっていくには、十分すぎるほどの距離だった。


 夜は静まり返っていた。


 オレンジがかった街灯の明かりがアスファルトにまだらな光を落とし、バンソンとアサの影を長く引き延ばしている。時折、二人の影が本人たちの意思とは無関係に触れ合う。


 当の二人は、いつもおよそ半メートルほどの距離を保ったままだった。


 夜気がアサの頬を優しく撫でていく。


 夜露と腐葉土の湿った匂いが、かすかに鼻をくすぐった。


 隣を歩くバンソンは両手をズボンのポケットに深く突っ込み、一定の歩調を保っていた。


 時折、彼は隣の少女へちらりと目を向ける。


 だが、街灯の光に照らされた彼女の端正な横顔が視界に入ると、まるで見てはいけないものを見たかのように、慌てて視線を前へ戻す。


 誰も、何も話さなかった。


 それでも、その沈黙は決して息苦しいものではなかった。


 まるで歌詞のない一曲のようだった。


 一つ一つの呼吸。


 靴底が地面を叩く音。


 そのすべてが、言葉の代わりに何かを語っている。


 やがて二人は、玄関先に枝垂れたブーゲンビリアのある二階建ての家の前で足を止めた。


 アサはそっと身体を向け、両手を背中で組んだ。


「つ、着いた……。ここ、私の家」


 その声にはわずかな戸惑いが混じっていた。


 夜の中で砕けた風鈴のように、澄んだ響きだった。


「うん」


 バンソンは頷いた。


 できる限り平静を装っていたが、心臓だけが彼の意志を裏切っている。


「じゃあ、入れよ。もう遅い」


 その瞬間。


 玄関の木製扉が、カチャリと開いた。


 立っていたのはアサの父親だった。


 中年の男。


 穏やかな笑みを浮かべている一方で、その目だけは妙に鋭い。


 男の視線がまずアサを捉え、それからゆっくりとバンソンへ移る。


 そして――親という生き物だけが持つ、妙に破壊力の高い、意味深な笑みが口元に浮かんだ。


「おやおや。我が家のお嬢様は、今日はボディーガード付きか」


「ボディーガード」という言葉だけを、わざとらしいほど長く引き伸ばす。


 アサの顔が一瞬で熱くなり、耳まで真っ赤に染まった。


「お父さん! 何言ってるのよ!」


 アサは慌てて足を踏み鳴らした。


 父親がさらに何か言うより早く、彼女は俯いたまま、その横をすり抜けて家の中へ駆け込んだ。


 ほどなくして二階から、


 ――バタン!


 という、盛大なドアの閉まる音が響く。


 するとリビングの奥から、弟のソウスケが玩具を抱え、ぱたぱたと走ってきた。


 少年は階段を見上げ、それから父親を見る。


「父さん、姉ちゃんどうしたの? なんで姉ちゃんの顔、あんなにトマトみたいに真っ赤なの?」


 父親は腹を抱えるように笑った。


「ははは……」


 そうして息子の頭を優しく撫でたあと、玄関先に残っていたバンソンへ親しげに頷く。


 最後にもう一度だけ笑みを浮かべ、ゆっくりと扉を閉めた。


 一人、静かな夜道に取り残されたバンソンは、大きく息を吐いた。


 知らず知らずのうちに、その口元には珍しい笑みが浮かんでいる。


 彼は踵を返し、自宅へ向かって歩き出した。


 途中、胃の奥から湧き上がる空腹が、今日という一日でどれほど体力を消耗したかを思い知らせてくる。


 バンソンは明々と蛍光灯を灯した二十四時間営業のコンビニへ入った。


 店内には、おでんの出汁の匂いと、レモン系の芳香剤の匂いが混じっている。


 バンソンは適当に辛口の海鮮ラーメンを数袋手に取り、レジへ向かった。


 バーコードリーダーが、


 ピッ。


 と乾いた電子音を鳴らす。


 バンソンはスマートフォンを取り出し、QRコード決済のアプリを開いた。


 その瞬間だった。


 画面が明るくなり、「最近の連絡先」が空欄になっているのが目に入る。


 まるで目に見えない雷が、脳天を直撃した。


 彼の動きが止まる。


 瞳孔が大きく開いた。


 ――俺……あの子の電話番号、聞いてない。


 三キロの道のりを歩いた。


 三十分近く、隣に並んでいた。


 家の玄関先まで送り届けた。


 それなのに。


 デジタル時代における最も基本的な連絡手段を――彼は完全に聞き忘れていた。


「お会計、以上でございます」


 レジ係の女性が営業用の笑顔を浮かべ、ビニール袋を差し出した。


 バンソンはラーメンの入った袋を受け取ると、魂が抜けたような足取りで店を出た。


 夜風はもう涼しいとは感じなかった。


 むしろ、自分の間抜けさを嘲笑っているようにさえ思えた。


 家に着いても、バンソンは電気をつける気になれなかった。


 買ってきた袋をテーブルに放り投げ、そのまま柔らかなベッドへ身体を投げ出す。


 仰向けになり、スマートフォンを天井へ掲げた。


 真っ暗な画面をじっと見つめながら、彼は深いため息をつく。


「ああ……」


 後悔が、少しずつ、しかし執拗に、若き天才探偵の精神を蝕んでいった。


 そして、その夜。


 バンソンは何度も寝返りを打ちながら、ようやく眠りへ落ちていった。


 *


 翌朝。


 高校の旧校舎。


 昨夜まで漂っていたロマンチックで穏やかな空気は、跡形もなく引き裂かれていた。


 代わりに満ちているのは、消毒液の鼻を刺す匂い。


 そこら中に放置された安物のプラスチックカップから漂う、冷めたコーヒーの臭い。


 そして、殺人現場特有の、張り詰めて重く凝り固まった空気。


 黄色い警察の規制テープが、廊下や階段の各所に張り巡らされていた。


 急遽、臨時捜査本部として使用されている教室では、若い刑事――ケントがホワイトボードの前に立っていた。


 鋭い刃物を思わせる目つきで知られる男だった。


 ホワイトボードには現場写真が所狭しと貼られ、その間を赤いリボン状のテープが複雑な線を描いて結んでいる。


 バンソンは部屋の隅に置かれた椅子に腰掛けていた。


 両手を組み、顎の前に置く。


 目は半ば閉じられている。


 眠っているように見えた。


 だが実際には、その脳は限界まで回転していた。


 アサもそこにいる。


 バンソンの隣の椅子に身体を縮めるように座り、両手を強く握り締めていた。


 その表情には明らかな不安が浮かんでいる。


「警察は昨夜、一睡もせずに数百件に及ぶ証言を整理した」


 ケントが口を開いた。


 寝不足で声は掠れている。


 手にしたホワイトボードマーカーで、板を軽く叩く。


「現在、昨夜学校内にいた人物――特に、アラタが死亡した旧校舎周辺にいた人間の範囲まで、容疑者候補を絞り込めた」


 ケントは白板に三つの名前を書いた。


 千葉。


 大輝。


 英司。


「これは彼らの初期供述だ」


 ケントは振り返った。


 そして鋭い目をバンソンへ向ける。


 まるで、何かに気づくことを期待しているかのようだった。


「千葉は、美術部の部室を片付け終え、午後八時には学校を出たと証言している」


 一本、線を引く。


「大輝は夜間の図書室担当だ。新校舎二階の図書室に午後十時近くまでずっといた。卒業論文の作業をしていたと話している」


 そして三人目。


「英司。陸上部の主将。午後九時ごろ、校庭の周囲を走っていた。しかし、その夜にアラタと会ったことも、姿を見たことも一度もないと断言している」


 ケントはそこで一度言葉を切った。


「だが、まだある」


 別の報告書を取り出し、机の上へ置く。


「校内警備担当の秀雄教諭によれば、旧校舎の監視カメラが突然故障し、二十一時三十分から二十三時三十分まで完全に信号を失っていた」


 部屋の中が静まり返った。


 バンソンがゆっくりと目を開く。


 深い瞳に、鋭い光が宿った。


 彼は大きく息を吸った。


 そして静かに口を開く。


「完璧だ」


 その声が、沈黙を切り裂いた。


「……何?」


 ケントが眉を動かす。


 バンソンは続けた。


「完璧すぎる。実に見事な筋書きですよ、刑事さん」


 三人の供述は互いに矛盾しない。


 空白となる時間を補い合うように、あまりにも綺麗に噛み合っている。


「彼らの証言は閉じている。互いを補完し合っている。それなのに、一つとして交差する点がない」


 バンソンは静かに言った。


「つまり、矛盾が発生しないように作られた証言です」


 ケントが目を細める。


「どういう意味だ、バンソン?」


「人間の記憶には、必ず誤差が生じます」


 バンソンは立ち上がった。


「特に、その夜に何か特別な出来事がなく、時刻だけを記憶から逆算するときはね」


 彼はホワイトボードへゆっくり近づいた。


「二十時。二十二時近く。二十一時」


 書かれた数字を見る。


「どれも綺麗すぎる。丸すぎる時間です」


 だが、と彼は続けた。


「致命的なのは、そこじゃない」


 バンソンの視線が監視カメラの記録へ移る。


「監視カメラのような警備システムが、ちょうど殺人が起きた時間帯に故障する。犯人は普通、暗闇が自分を守ってくれると思う」


 一拍。


「でも――忘れているんですよ」


 口元がわずかに上がる。


「別の『電子の目』があることを」


 ケントは口元を歪めた。


 その視線には、わずかな賞賛が浮かんでいる。


「その通りだ、少年」


 ケントは次の資料をめくった。


「すべてが理にかなって見えた。だが、技術班が正門の入退場カードシステムと照合した結果、話が変わった」


 彼は白板の千葉という名前を指差した。


「システム上、千葉のICカードは二十時二分に正門を出た記録になっている」


 そこで声を落とす。


「しかし――記録データのハッシュ値が改ざんされていた」


 アサが息を呑む。


「ローカルサーバー上に保存されていた実際の時刻データが上書きされている」


 ケントは千葉の名前を指で叩いた。


「つまり、こいつは二十時には学校を出ていない」


「誰かが――あるいは本人が――システムへ介入し、このアリバイを偽造した」


 アサは思わず口元を覆った。


「千葉……? 嘘でしょう。あの子、いつもすごく大人しくて優しいのに……」


「優しさは、犯罪を防ぐ盾にはならない」


 バンソンが静かに答えた。


 視線は千葉の名前に固定されている。


「門のデータが改ざんされた以上、疑いは当然、千葉へ向かう」


 そこで彼は一度言葉を止めた。


「偽の証拠を作る人間は、多くの場合、罪を犯した人間だ」


 指先が机を一定の間隔で叩く。


 コン、コン、コン。


「だが……」


 バンソンが顔を上げる。


「もし千葉に学校のシステムへ侵入できるほどの知識があるのなら、どうしてこんなに露骨なハッシュの痕跡を残した?」


 室内の空気が変わった。


「これは犯罪を隠すための行為なのか」


 バンソンの瞳が鋭く細められる。


「それとも――千葉を生贄にするための、巧妙な目くらましなのか?」


 その瞬間。


 教室の扉が勢いよく開いた。


 現場担当の警官が一人、緊張した表情で入ってくる。


 手には透明な証拠袋が握られていた。


「ケント刑事!」


「被害者アラタの教室にある個人机を調べていたところ、これが見つかりました」


 ケントが袋を受け取る。


 中に入っていたのは、くしゃくしゃになった一枚の紙だった。


 紙の端は引き裂かれたように激しく乱れている。


 おそらくノートから強引に引き抜かれたのだろう。


 黒いインクで書かれた、鋭く走る文字が一行だけ残っていた。


『もしあのことが知られたら、俺たちはみんな――』


 その先は完全に引き裂かれていた。


 結末だけが、永久に失われている。


 室内の空気が、一気に冷え込んだように感じられた。


 バンソンは首を傾ける。


 そして透明な袋越しに、その紙片をじっと見つめた。


 瞳孔が小さく収縮する。


 無数の可能性が、一瞬のうちに脳内を駆け巡る。


「刑事さん」


 バンソンは囁いた。


 その声には、ぞっとするほどの確信があった。


「この事件は、個人的な激情によって突然引き起こされた悲劇じゃない」


 誰も口を挟まない。


 バンソンの声だけが続く。


「重要なのは、人称です」


 彼は紙を指した。


「『俺』じゃない。『お前』でもない」


 一拍。


「『俺たちみんな』だ」


 バンソンの言葉に、部屋の全員が息を潜める。


「つまり、アラタが握っていたのは、彼自身だけの秘密じゃない。一人の人間の秘密ですらない」


 彼の視線が、写真や資料を順番に追う。


「この学校の中には――同じ秘密を共有している集団がいる」


「全員が同じ罪を共有しているのか」


 静かに続ける。


「あるいは、全員が何らかの暗い利益を共有している」


 ケントが歯を食いしばる。


「共犯グループ……」


 彼は紙を見下ろした。


「アラタは告発しようとした。あるいは、その秘密を利用して脅迫しようとした。そして口封じされた」


 破れた紙へ視線を落とす。


「この破れ方を見る限り、揉み合いが起きた可能性が高い。もしくは、犯人が証拠を処分しようとしたものの、完全には持ち去れなかった」


「その通りです」


 バンソンは頷いた。


「密室での殺人事件は、今ここで規模を変えた」


 その声は低かった。


「俺たちが相手にしているのは、暗闇に潜む一匹の狼じゃない」


 彼は資料全体を見渡した。


「この学校の闇に身を潜める――狼の群れです」


 *


 異常点を明らかにするため、ケントとバンソンは再び主たる現場へ向かった。


 旧校舎一階にある化学実験室。


 アラタの遺体が、内側から施錠された状態で発見された部屋だった。


 古びた廊下には湿気が染み付き、壁には薄暗い影が張り付いている。


 自然光はほとんど入らない。


 アサはバンソンの少し後ろを歩いていた。


 制服の布地を通して、冷気が身体へ染み込んでくる。


 バンソンが実験室の前で立ち止まった。


 視線は封鎖された扉には向かない。


 床へ落ちている。


 タイル張りの廊下。


 扉からおよそ半メートル離れた場所に、水たまりが一つ残っていた。


 縁の部分は、すでに乾き始めている。


「この水たまり、鑑識は調べましたか?」


 バンソンはしゃがみ込んだ。


 ケントが手帳を開く。


「ああ」


 ページをめくりながら答える。


「当初は、実験室内部の流し台から水が漏れたと考えたらしい」


 眉を寄せる。


「だが中は完全に乾いていた。それで、昨日の午後に誰かが何かをこぼしただけだろう、と判断した」


「違います」


 バンソンは即座に否定した。


 人差し指は水に触れない。


 その代わり、水の広がり方を空中でなぞるように動かす。


「容器から水をこぼしたのなら、重力や衝撃の方向に従って、もっと偏った形で広がるはずです」


 彼は水たまりを観察した。


「でも、これは違う」


 指先が中央を示す。


「水の中心が一箇所に集まっている。周囲には細かな飛沫が環状に散っている」


 ゆっくりと顔を上げる。


 暗い廊下の天井を見た。


「床から滲み出たものじゃない」


 さらに視線を上げる。


「扉の下から流れ出したものでもない」


 一拍。


「上から落ちてきたんです」


 ケントはすぐさま懐中電灯を取り出した。


 光を天井へ向ける。


 頭上には、古びた天井板が並んでいた。


 長い年月の中で染みついた黄色いシミが点々と広がっている。


 そして――


 水たまりの真上。


 二枚の天井板の隙間から、一滴の水がゆっくりと滲み出していた。


 懐中電灯の光を受け、小さくきらめいている。


「実験室の上には何がある?」


 バンソンが矢継ぎ早に尋ねた。


「二階だ」


 ケントが答える。


 声に緊張が混じり始めている。


「立入禁止区域になっている。あの部屋の真上には、古い設備倉庫がある」


 一度息を吸う。


「建物中央の給水管やケーブル類が通っている場所だ。少なくとも三年前から施錠され、使われていない」


「行きましょう」


 バンソンは即座に立ち上がった。


「今すぐ」


 自分がただの高校生であることなど、完全に忘れていた。


 その瞬間の彼には、捜査官すら圧倒する異様な威圧感があった。


 三人は狭い階段を駆け上がった。


 暗い二階の廊下。


 その突き当たりに、金属で補強された古びた木製の扉が現れた。


 中央には、拳ほどもある錆びついた南京錠が掛かっている。


 ケントは戦術警棒を取り出した。


 そして錠の腐食した接合部へ、三度続けて叩きつける。


 ガッ。


 ガンッ。


 最後の一撃。


 ――ガシャッ。


 南京錠が床へ落ちた。


 ケントは扉を強く押し開ける。


 その瞬間、長年積もった埃が一斉に舞い上がった。


 腐った木材と、錆びた金属の湿った臭いが襲いかかってくる。


 懐中電灯の光が狭い部屋を一周する。


 床には電気ケーブルの束。


 壁には古いPVC配管。


 だが――人影はない。


 ただ、重く澱んだ静寂だけがあった。


 そして、バンソンの目は即座に部屋の中央へ向けられた。


 厚い灰色の埃に覆われた床。


 そこに、一筋の擦過痕が伸びている。


 まるで、重い何かを引きずったような跡。


 その終点に――


 一足の靴が転がっていた。


 男子生徒用の革靴だった。


 水に濡れ、靴底には泥がこびりついている。


「靴のサイズ……二十八センチ」


 ケントが呟いた。


 顔から血の気が引いていく。


「アラタと一致する」


 彼はゆっくりと遺体の写真を思い出す。


「発見された遺体は、左足の靴しか履いていなかった」


 アサが胸元を押さえた。


 そして一歩、後退する。


 呼吸が速くなる。


 バンソンは一歩だけ前へ出た。


 現場には触れない。


 ただ、その靴を見つめる。


 まるで、事件を覆っていた何層もの霧の向こう側まで見通そうとするように。


 重要なピースが、ついに彼の手元へ落ちてきた。


 事件全体の構図が――百八十度、ひっくり返る。


「刑事さん」


 バンソンの声が低く響いた。


 冷たい。


 鋭い。


 その一言一言が、これまで警察が積み上げてきた仮説を内側から打ち砕いていく。


「最初から、方向を間違えていたんです」


 ケントが振り返る。


 黙って続きを待つ。


「あなたたちは『施錠された部屋』に囚われすぎている」


 バンソンは床へ視線を落とした。


「内側から施錠された扉。逃走経路はない。だからここが殺害現場であり、犯人は何らかの機械的な仕掛けを使って、犯行後に扉を内側から施錠した――そう考えた」


 彼は床に走る配管を指差した。


 それは真下にある実験室の天井へ続いている。


「でも、この濡れた靴と――」


 視線が廊下の水たまりへ移る。


「下の廊下に落ちていた水が、その逆を証明している」


 バンソンは目を閉じた。


 脳裏の中で現場を再構成する。


 遺体。


 水。


 靴。


 そして、鍵を作動させるための細い仕掛け。


「アラタは、あの施錠された部屋で死んだんじゃない」


 低い声。


「別の場所で殺されたか、あるいは拘束されていた可能性が高い」


 さらに続ける。


「それも、おそらく水のある場所の近くで」


 彼の頭の中で点と点が繋がっていく。


「その後、遺体をこの設備倉庫へ運び込んだ」


 バンソンは配管を見上げた。


「そして犯人は、この部屋の換気設備か配管系統を利用して、遺体を下の実験室へ落とした。あるいは、そう見せかけた」


 アサが息を呑む。


「つまり――」


「そう」


 バンソンが言葉を引き取る。


「警察が『密室』だと思っていたものそのものが、偽物だった」


「死亡時刻も、実際の殺害場所も、まとめて偽装するための舞台装置だ」


 彼は静かに言った。


「大事なのは、犯人がどうやって部屋から逃げたかじゃない」


 瞳が鋭く光る。


「アラタの遺体が、そこへ運び込まれる前と、その直後に何が起きたのかです」


 バンソンの説明は、夜の闇を引き裂く雷鳴のようだった。


 監視カメラの停止。


 二十一時三十分から二十三時三十分。


 改ざんされた正門の入退場記録。


 濡れた靴。


 引き裂かれた紙。


 それらすべては、単なる犯人の不注意によって残された痕跡ではない。


 むしろ――


 綿密に組み上げられた、一つの舞台だった。


 その瞬間。


 ケントが無線機を取り出し、設備倉庫全体を封鎖するよう鑑識班へ指示しようとした。


 しかし――


 突然、耳をつんざくような音が廊下に響いた。


 ――ザ……ザザッ……!


 古びたスピーカーから、激しいノイズが噴き出す。


 その音は一つだけでは終わらなかった。


 廊下のスピーカー。


 教室のスピーカー。


 校舎全体の放送設備。


 すべてが、次々に同じノイズを吐き出し始める。


 誰かが、遠隔操作で校内放送システムを起動させたのだ。


 二秒。


 不気味なほど長い沈黙。


 そして――


 声が響いた。


 校長の声ではない。


 校内警報の自動音声でもない。


 それは、一人の男子生徒の声だった。


 途切れ途切れの呼吸。


 震える声。


 そして、絶望の底から絞り出すような響き。


『もし……もし、これを聞いているなら……』


 声が一度途切れる。


『俺は、たぶん……もう死んでいる』


 アサの目から涙が溢れた。


 彼女は慌てて口元を両手で覆う。


 ケントは呆然としたまま、手にしていた懐中電灯を床へ落とした。


 ガタン。


 バンソンは、その場から動けなかった。


 目を見開く。


 その声を、彼は知っていた。


 ――アラタ。


 被害者本人だった。


 死者の声が、校舎中の廊下を駆け巡る。


 無人の教室へ入り込み、壁に反響し、今この学校にいる何百人もの人間の意識へ突き刺さっていく。


 学校全体が、凍りついた。


 誰も大きく息をすることさえできなかった。


 やがて、録音は再びノイズを交えながら続きを流し始めた。


 それは、警察が積み上げてきた推理そのものへ突き立てられた一本の刃だった。


『俺を殺した人間は……お前たちが考えている人物じゃない……』


 呼吸音。


 震える声。


『そいつは――』


 ――ザザザザッ!


 突然、激しいノイズが音声を飲み込んだ。


 そして。


 校内放送が、ぷつりと途切れた。


 完全な静寂。


 バンソンは動かなかった。


 誰一人、言葉を発さない。


 録音は、アラタが死ぬ前にあらかじめ用意していたものだった。


 つまり――


 彼は、自分が殺されることを知っていた。


 そして校内放送システムは、あらかじめ設定されていたのだ。


 警察が最初の偽装を見破った、この瞬間に再生されるように。


 事件は、まだ始まったばかりだった。


 ――C U T T O B L A C K.

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