Episode 33
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世田谷の夜は、初夏のにわか雨に沈んでいた。
狭い路地の波板トタン屋根を、雨粒が絶え間なく叩いている。夜遅くまで営業する飲食店の並ぶ一角では、赤や緑のネオンが雨に濡れたアスファルトの上へ、ぼやけた光の筋となって滲んでいた。
居酒屋「鶴」の店内は、外とはまるで別世界だった。
焦げたネギ油の匂い。温めた日本酒の香り。グラスが触れ合う軽快な音。そして、残業を終えてようやく一息ついた会社員たちの、賑やかな話し声。
その熱気の中心に、バンソンは立っていた。
オープンキッチンの奥で、右手には漆黒の鉄鍋、左手には勢いよく噴き上がるガスの炎。
ゴォッ!
鍋を巧みに振るたび、青と橙が入り混じった炎が高く舞い上がった。
薄切りの豚肉、焼き目のついたキャベツ、そして特製の醤油ダレ。その香ばしく濃厚な匂いが、店内いっぱいに広がっていく。
バンソンは、まるでプログラムされた機械のように正確なリズムで鍋を操っていた。
三度、軽く煽る。
そして一度、鍋を傾け、炎を料理の表面へ舐めさせる。
中華料理でいう「鍋気」――熟練した料理人でなければ引き出せない、火による香ばしさが完璧に生まれていた。
「バンソン! 四番テーブル、枝豆一皿追加! それと生二つ!」
五十歳ほどの恰幅のいい男――白髪の混じった髪と大きな腹を持つ店主、ケンジがレジの奥から怒鳴った。
「はい、店長!」
バンソンは、標準的な東京のアクセントで、ごく自然に応じた。その日本語には、外国育ち特有の不自然さが微塵もない。
出来上がった料理を白い皿へ盛りつけ、木製の盆に整然と載せる。
そしてすぐさま、身長一八八センチの長い脚を巧みに操り、テーブルとテーブルの間に残された狭い隙間をすり抜けていった。
その動きには、不思議なほどの軽やかさがあった。
腰に巻いた黒いエプロンが、広い肩とすらりと伸びた体格をいっそう際立たせている。
隅のテーブルに座っていた女子客たちは、何度となく彼へ視線を送り、若い男子生徒の整ったハーフ顔と、どこか謎めいた深い瞳について小声で囁き合っていた。
今夜の店の仕事のほぼ半分を、バンソン一人が背負っているようなものだった。
雑用から配膳、冷え切った流し台に積み上がった油まみれの皿洗い。そして客が一気に押し寄せれば、補助の調理までこなす。
バンソンは、どんな仕事も嫌がらなかった。
彼にとって、この肉体労働は単に一人暮らしの生活費を稼ぐためだけのものではない。
それは同時に、自らを鍛えるための修練でもあった。
灼熱した厨房の床へ落ちる汗。
その一滴一滴が、人間という肉体の存在を、これ以上ないほど鮮明に実感させてくれる。
――至高の意識の一部が、深い眠りについたまま宿っている、この肉体を。
午前二時になる頃には、客足もすっかり途絶え、店は閉店の時間を迎えた。
バンソンは椅子とテーブルを片づけ、油で汚れた調理台を磨き、最後まで残っていた汚れを水で洗い流した。
ケンジが売上金の束を数え終えると、そこから数枚の紙幣を抜き取り、バンソンの手に載せた。
その上、吸いかけの煙草の箱まで添えて。
「よくやったな、坊主」
ケンジは店の扉にもたれ、煙草を一本くわえたまま目を細めてバンソンを見た。
「お前の鍋さばき……正直に言うとな。銀座で三年修業した見習いでも、お前にかなうかどうか怪しい。どこで覚えた?」
バンソンはタオルで手を拭きながら、かすかに笑った。
十五歳という年齢には到底そぐわない、落ち着き払った笑みだった。
「独学です。遠心力と温度を観察していれば、だいたい分かります」
「それで、まだ隠してるってわけか」
ケンジは豪快に笑い、バンソンの肩を強く叩いた。
「まあ、無理はするなよ。お前、まだ学生なんだからな。目を見てみろ。完全にクマができてるぞ。机に突っ伏したまま死ぬんじゃないぞ」
「ありがとうございます。自分の限界は把握しています」
バンソンは正当に働いて得た金を受け取り、丁寧に財布へしまった。
店主へ一礼すると、店の外へ出る。
夜の雨はいつの間にか上がっていた。
残されたのは、肌を撫でる冷気と、鼻を刺激する濃厚な濡れた土の匂いだった。
バンソンは自転車を漕ぎ、自分の小さなアパートへ戻っていった。
身体は完全に疲れ切っていた。
何時間も休むことなく働き続けたせいで、肩や背中の筋肉は、まるで一斉にストライキを起こしているかのように軋んでいる。
部屋へ戻るなり、バンソンは油の匂いが染みついた服を脱ぎ捨てた。
冷たい水で手早くシャワーを浴び、身体にまとわりついた疲労を洗い流す。
そして、そのまま畳の上の薄い敷布団へ身を投げ出した。
眠りは、ほとんど一瞬だった。
夢すら見ない。
凍りついた湖面のように、静かで、深い眠りだった。
――07:50 AM.
目覚まし時計が長々と鳴り響き、その音はバンソンの手によって無造作に止められた。
「……ちくしょう。また寝坊した」
まだ完全には開ききらない目で時計を見つめ、バンソンは呟いた。
次の瞬間には、竜巻のような勢いで洗面所へ駆け込んでいた。
男子生徒用の制服に慌ただしく着替え、皺一つないシャツを身につけ、鞄を肩に引っかける。
そしてマウンテンバイクへ飛び乗った。
長い脚が、街の起伏の激しい坂道を狂ったように回す。
通勤する人々の流れをかき分け、のろのろと進む車を紙一重でかわしながら、バンソンは疾走した。
「間に合う」と「遅刻する」。
その境界は、わずか数秒だった。
高校正門へ続く細い道の角を、バンソンが勢いよく曲がった、その瞬間。
雨上がりの路面でタイヤが甲高い音を上げた。
ちょうどその時、桜の植え込みの向こうから、一人の人影が前も見ずに飛び出してきた。
ドンッ!
またしても、最悪の衝突だった。
バンソンは反射的にブレーキを握った。
自転車は長く滑った。
だが、距離が近すぎた。
前輪部分が、そのまま少女の脇腹へまともに突っ込む。
二人の身体が、ほとんど同時に路面へ叩きつけられた。
「きゃあああっ!」
甲高い悲鳴が、朝の静けさを切り裂いた。
バンソンは両手をついて上体を起こした。
まだ何が起きたのか頭が追いついていない。
その時だった。
目の前に、黒い影が覆いかぶさる。
――エナミ・アサ。
少女の顔は怒りで真っ赤に染まり、長い黒髪が風に激しく揺れている。
アサは勢いよく立ち上がると、地面に座り込んだバンソンへ指を突きつけた。
そして、近くの校舎まで震わせかねない声量で、一気にまくし立てた。
「またあんたなの!?」
「この自転車バカ! 目ぇどこについてんのよ! もう完全に節穴じゃない!」
周囲には、すでに何十人もの生徒が足を止め、二人を取り囲むようにして見物していた。
だが、アサはそんなことなど気にも留めない。
「昨日ぶつかったばっかりじゃない! 今日もまた私に突っ込んでくるってどういう神経してんの!? 私が急いでるの、分かってる!?」
「この無礼者! 礼儀知らず! この野蛮人!」
怒声が次々と飛んでくる。
バンソンは呆然と少女を見上げた。
彼は天才だった。
並外れた知性を持ち、常人を遥かに凌駕する頭脳の持ち主。
だが今この瞬間だけは、理不尽かつ猛烈な罵声を一方的に浴びせてくる少女を前に、その頭脳が完全にフリーズしていた。
周囲では、学校中の生徒たちが面白がるように彼を見ていた。
ひそひそ声。
忍び笑い。
「ほら、あれ転校生だろ? 背が高くてイケメンなのに、アサ先輩に何も言えないじゃん」
「うわ、惨め……。完全に鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してる」
あの時のバンソンの感情を言葉にするなら――
ただただ、屈辱だった。
顔が熱くなる。
それでも、どうにか弁解しようと口を開いた。
「俺……いや、僕は謝るけど、君だって――」
「消えて!」
アサは、説明する機会すら与えなかった。
髪を払い、地面に落ちた鞄を拾う。
そしてそのまま踵を返し、校門の向こうへ走り去っていった。
あとに残されたのは、何百もの嘲笑の視線の中に一人取り残されたバンソンだけだった。
「……はぁ」
苦々しいため息を吐き、バンソンは立ち上がった。
片方のペダルが曲がってしまった自転車を起こし、限界まで羞恥に苛まれながら、うつむいたまま校舎へ向かう。
誰も望まない形で、入学初日から有名人になった。
そんなバンソンが一年A組の教室へ入ったのは、ちょうど始業のチャイムが鳴ったところだった。
担任教師――分厚い眼鏡をかけた中年の男――が教室の一番奥を指差した。
「バンソン君、君はアメリカから転校してきたんだったな。空いている席は窓際の一番後ろだけだ。そこへ座りなさい」
「はい、先生」
バンソンは短く答えた。
教室の中をまっすぐ歩いていく。
クラス中が静まり返っている。
好奇心に満ちた視線と、小さな囁き声が再び広がっていく。
そしてバンソンが三列目の机を通り過ぎようとした、その時だった。
一人の生徒が、突然、足を伸ばした。
――明らかに、故意だった。
彼を転ばせ、クラス全員の前で無様な姿を晒させるつもりなのだ。
昨夜ほとんど眠っておらず、身体には疲労が残っている。
それでも、肉体を強化されたバンソンの反射神経は即座に作動した。
転倒はしなかった。
しかし、足を取られたことで身体は大きくよろめき、肩に掛けていた鞄が机の縁へ激しく叩きつけられた。
ガシャン!
その周辺に座っていた男子生徒たちから、一斉に笑い声が上がった。
「おいおい。あれだけデカくてハーフっぽい顔してるのに、意外と鈍臭いじゃん」
薄茶色に染めた髪。
尊大な笑み。
相手を挑発することしか考えていないような目。
声を上げたのは、そんな少年だった。
周囲の仲間たちも、面白がって囃し立てる。
バンソンはゆっくり身体を起こした。
そして、自分の足を引っかけた相手へ視線を向ける。
十五歳ほど。
身長は一六五センチ前後。
決して大柄ではない。
それでも、その顔には、学校の中で威張り散らすガキ大将特有の増長と粗暴さが浮かんでいた。
その時、教師が机を叩くようにして怒鳴った。
「エナミ・ソウスケ! 何をしている! 授業中だぞ! いい加減にしろ!」
――エナミ・ソウスケ。
その姓を聞いた瞬間、バンソンの脳内で一連の論理が繋がった。
バンソンはソウスケの顔を注意深く観察する。
吊り上がった目。
小さな口。
わずかに尖った顎。
明らかに、この少年には、今朝校門の前で自転車に衝突し、彼を罵倒してきた少女――エナミ・アサとよく似た家族的な特徴があった。
だが、バンソンは何も言わなかった。
騒ぎも起こさない。
怒りを表情に出すことすらしない。
ただ静かに自分の席へ向かい、椅子を引き、教科書とノートを取り出す。
そして机へ視線を落とし、黙々と授業内容を書き写し始めた。
その落ち着き払った態度が、逆にソウスケには自分を見下されているように感じられた。
苛立ちは、さらに膨れ上がっていく。
しかし――
知性という戦場において、バンソンは決して簡単に踏みつけられる存在ではなかった。
歴史と高度数学の授業。
教師は年度初めの生徒たちを試すように、難解な問題を次々と投げかけていった。
教室全体が沈黙する。
誰もが教師と目を合わせないように俯いている中で、バンソンだけが何度も手を挙げた。
「先生。その事件についてですが、当時の経済・政治的背景から分析すると、核心にあったのは宗教対立ではなく、交易路をめぐる利権争いだったと考えられます」
「先生、この問題は二通りの解法があります。行列の定理を使う方法と、線積分によって簡約する方法です。後者なら三手ほど短くできます」
低く穏やかな声。
淀みのない説明。
鋭く整理された論理。
それらが教室中へ響き渡っていく。
教師は満足そうに頷き、何度もバンソンに加点していった。
朝まで彼を嘲笑していたクラスの視線は、いつの間にか驚嘆へと変わっていた。
バンソンの圧倒的な知性は、ソウスケのくだらない挑発を完全に押し潰した。
教室前方に座るエナミ家の少年は、悔しさのあまり歯をギリギリと食いしばり、顔を青ざめさせていた。
◇
休み時間。
朝の雨はすっかり上がり、校庭には湿った空気が残っていた。
バンソンは息苦しさから逃れるように校庭へ降りた。
屋外階段の下にある石壁へ背を預け、両手をズボンのポケットへ入れる。
そして、ゆっくりと晴れ間を見せ始めた灰色の雲を見上げた。
「おい! そこのハーフ!」
尊大な声が飛んできた。
バンソンは振り返った。
エナミ・ソウスケ。
その背後には、同じクラスの体格のいい男子生徒が四人。
いつの間にか、彼は完全に囲まれていた。
正面の校庭へ抜ける道も塞がれている。
ソウスケが一歩前へ出る。
腕を組み、バンソンを見上げながら、露骨な敵意を浮かべていた。
「勉強ができるからって、もっともらしいことを二、三言喋れば、自分が偉いと思ってるのか?」
「この学校じゃな、勉強ができたって何の意味もねえんだよ。ガキ。俺が誰だか分かってんのか?」
バンソンは鼻から長く息を吐いた。
疲れていた。
本当に、こんな子供じみた揉め事に付き合うことそのものに疲れ果てていた。
「エナミ・ソウスケ。何がしたい?」
「お前が教室で見せた、その気取った態度を謝って、俺の前で土下座することだよ!」
ソウスケは近づくと、指をバンソンの胸へ突きつけ、強く押した。
「俺より背が高いからって、怖がるとでも思ってんのか? そのイケメン面も、もう見てるだけでムカつくんだよ!」
周囲の男子たちが笑い声を上げる。
さらに距離を詰め、バンソンの外国人としての出自や孤立を嘲笑した。
「そうだそうだ、混じり物のガイジン!」
「アメリカへ帰って、そこでイキってろよ!」
「見ろよ。怖くて何も言えなくなってるぜ!」
バンソンの忍耐には、限界があった。
彼は神だった。
人間として生きることを選び、謙虚に振る舞っている。
だが、それは卑劣な人間に尊厳を踏みにじられることを受け入れる、という意味ではない。
昨夜の過酷な労働。
校門前での屈辱的な転倒。
そして朝から続いた執拗な嫌がらせ。
積み重なったすべてが、胸の奥へ押し込めていた感情へ火をつけた。
「お前たち……もう話は終わったか?」
バンソンの声が、不意に低くなった。
冷たい。
あまりにも冷たい声だった。
その一言だけで、周囲の空気まで凍りついたように感じられる。
「何だと――」
ソウスケが言い終えるより先に。
ヒュッ!
バンソンの身体が回った。
一八〇度の後ろ回し蹴り――
後ろ回し蹴り(ウシロ・マワシゲリ)が、凄まじい速度と爆発的な威力で放たれた。
一八八センチの長い脚が、鋼鉄の鞭のように宙を切り裂く。
バンッ!
ドゴォッ!
足の甲が、エナミ・ソウスケの右頬へ正面から叩き込まれた。
衝撃は凄まじかった。
体重六十キロほどのソウスケの身体が、その場から宙へ跳ね飛ばされる。
五メートル。
正確に五メートルほど吹き飛び、そのまま湿ったタイル張りの路面へ叩きつけられた。
身体は勢いのままさらに滑り、ようやく止まる。
口元から血が飛び散り、折れた奥歯の一本が地面へ転がった。
――静寂。
校庭全体が、死んだように静まり返った。
ソウスケの仲間たちは、その場に凍りついていた。
目の前で起きたことが信じられない。
肉眼では捉えきれないほど速い蹴り。
プロの格闘家を思わせる、容赦のない破壊力。
「この野郎ッ! 囲め!」
最も体格の大きな男が叫び、バンソンへ突進した。
真正面から拳を叩き込む。
だが――
バンソンは、その拳を見ることすらしなかった。
ほんの数ミリ、頭を傾ける。
拳が頬を掠めて通り過ぎる。
同時に、左手が相手の手首を掴んだ。
力を力で受け止めることなく、相手の勢いを利用する。
合気道のように相手の力を流し、そのまま身体を捻って腕を背中へ回した。
――ミシッ。
「ぐああああっ!」
巨体の男が膝から崩れ落ちる。
バンソンはさらに胸元へ膝を叩き込み、男の身体を遠くへ弾き飛ばした。
残った二人も、恐怖を振り払うように一斉に飛びかかってくる。
しかし――
バンソンは、まるで一匹の影のように校庭の中央を舞っていた。
空間。
距離。
角度。
そのすべてを完全に支配する。
ムエタイとシステマを組み合わせた動きで、急所と関節を寸分違わず狙っていく。
軸足を薙ぎ払うローキック。
脇腹へ滑り込むように突き刺さるフック。
そして、喉元へ走る手刀。
一撃、一撃が正確だった。
余計な動きは、一切ない。
三十秒も経たないうちに――
四人の男子生徒は、全員が地面へ転がっていた。
腹を押さえ、腕を抱え、苦痛に呻き声を上げている。
その時、ソウスケが歯を食いしばりながら立ち上がった。
顔は腫れ上がり、血で汚れている。
その目には、敗北した者の狂気が燃え上がっていた。
「てめえ……絶対ぶっ殺す!」
傷ついた獣のような叫び声を上げ、ソウスケは滅茶苦茶に拳を振り回しながら突っ込んでくる。
だが、バンソンは動かなかった。
両手をポケットへ入れたまま、ただ静かに立っている。
左。
右。
身体を沈める。
一歩、後ろへ。
それだけだった。
ソウスケが何度拳を振り抜いても、バンソンには触れることさえできない。
息は乱れ、肩は激しく上下し、汗と血が混ざった液体が顎から滴り落ちる。
それでも、拳は一度たりともバンソンを捉えられなかった。
バンソンは前後左右へ軽やかに滑りながら、時折ソウスケの額を軽く指先で叩く。
腕を払って体勢を崩し、そのまま地面へ突っ込ませる。
「止まれ!」
遠くから、教師の悲鳴に近い怒声が飛んできた。
二人の体育教師と、数人の上級生が校庭へ駆け込んでくる。
そして教師たちのすぐ後ろには――
エナミ・アサがいた。
彼女の目に飛び込んできたのは、顔を変形させるほど腫らし、血まみれになって地面へ跪く弟の姿。
その前には、傷一つ負わず、長身の身体を冷たく立たせているバンソン。
「ソウスケ!」
アサは叫び、弟へ駆け寄った。
ソウスケを抱き起こし、それから涙の滲んだ瞳でバンソンを睨みつける。
「一体あんた、何なのよ!?」
「どうして弟をこんな目に遭わせたの!?」
◇
生徒指導・相談室。
バンソンは教頭と担任教師の向かい側に座っていた。
室内には、重苦しい空気が張りつめている。
「転校初日だぞ、バンソン君」
教頭が木製の机を指先で軽く叩いた。
「君は今日だけで五人もの生徒に重傷……いや、軽傷とはいえ、病院で手当を受けるほどの怪我を負わせた。先に彼らから挑発されていたことは、証人たちの証言からも分かっている。しかし、君の暴力行為は到底看過できない」
バンソンは静かに頭を下げた。
そして、可能な限り穏やかで礼儀正しい声で答えた。
「先生。自分の行動が行き過ぎていたことは認識しています。校則に従い、必要な処分は受け入れます。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
その誠実な態度。
礼儀正しい口調。
そして年齢からは考えられないほどの落ち着いた物腰。
それらを前に、教師たちは停学処分までは下せなかった。
二時間に及ぶ事情確認と、二度と同じことを起こさないという誓約。
最終的にバンソンへ下されたのは、厳しい反省文の提出だった。
◇
午後。
東京の高層ビルの向こうへ太陽が沈み始め、人気のなくなった校庭を赤く染めていた。
バンソンは鞄を肩に掛け、ペダルの曲がったマウンテンバイクを押しながら校門を出た。
肉体的にも、精神的にも、疲れ切っていた。
だが、鉄製の門をくぐったところで、彼の足が止まった。
そこには、エナミ・アサが立っていた。
隣には、顔中に包帯を貼った弟のソウスケ。
そして、その二人のそばには親友のカワイ・ルカがいた。
バンソンは一瞬だけ立ち止まった。
そして、ゆっくりと三人のほうへ歩き出す。
仲直りしたかった。
くだらない「犬猿の仲」のような関係を、いい加減、大人らしく終わらせたかった。
「エナミ先輩」
バンソンはアサをまっすぐ見つめて口を開いた。
「今日のことですが……本当にすみませんでした。弟さんに対して、やりすぎました」
だが――
その誠意ある謝罪は、ソウスケの目には侮辱のように映った。
朝の屈辱的な敗北を引きずったままの弟は、バンソンが近づいてくるのを見るや、再び怒りを爆発させた。
一八八センチのバンソンの顔へ拳を届かせるほどの身長がない。
だからこそ、ソウスケは一歩踏み込むと、全身の力を振り絞り――
バンソンの腹へ、渾身のフックを叩き込んだ。
ドスッ!
拳が、鍛え上げられた腹筋へ深くめり込む。
バンソンの身体が、わずかに震えた。
鋭い痛みが下腹部を駆け抜ける。
長時間の疲労によって、すでに敏感になっていた場所だった。
その瞬間――
バンソンの武術家としての反射が爆発的に立ち上がった。
右手が固く拳を握る。
肩の筋肉が一気に張り詰める。
そして次の瞬間には、ソウスケの顎骨すら砕きかねない威力の反撃が放たれようとしていた。
「やめて!」
軽い声だった。
だが、その声には強烈な制止の力があった。
バンソンの動きが止まる。
顔を上げる。
そして、エナミ・アサの瞳と目が合った。
そこにあったのは、言葉では簡単に言い表せない複雑な感情だった。
怒り。
弟を守ろうとする姉としての盲目的な庇護欲。
そして――恐怖と、間接的な懇願。
その眼差しは、すべてを物語っていた。
――これ以上、弟を殴ったら、もう二度とあなたの顔を見ない。
アサの目を見つめたまま、強く握り締められていたバンソンの拳が、ゆっくりとほどけていった。
怒りも。
屈辱も。
すべてを、胸の奥へ飲み込む。
バンソンはソウスケから受けた拳を、そのまま受け入れた。
一切、反撃しなかった。
背筋を伸ばし、片手で自転車のハンドルを強く握る。
その瞳だけが、冷え切っていた。
アサはすぐさま弟へ駆け寄り、その手を強く叩いた。
「ソウスケ! あんた、馬鹿なの!?」
「早く帰るよ!」
そして、バンソンへ視線を向ける。
そこには、一瞬だけ戸惑いが浮かんでいた。
自分の弟に殴られたにもかかわらず、バンソンは反撃せず、ただ一歩後ろへ引いただけだった。
それを見ても、アサの自尊心は礼を口にすることを許さない。
彼女はソウスケの腕を掴み、そのまま坂道のほうへ引きずるように連れていった。
その二人を見送っていたカワイ・ルカが、少しだけ歩みを緩める。
そしてバンソンを振り返った。
その瞳には、深い理解と同情が宿っていた。
ルカは数歩戻り、バンソンの前まで近づく。
そして、夕風のように柔らかな笑みを浮かべた。
「バンソン君……よく我慢したね」
「気にしないで。ソウスケは、ただの意地っ張りな子供だから」
「それより……本当に大丈夫?」
バンソンはルカを見つめ、それから小さく頷いた。
薄い笑みを浮かべる。
「大丈夫です。ありがとうございます、ルカさん」
「じゃあ、また明日、学校でね! 頑張って!」
ルカは手を振り、そのままエナミ姉弟の後を追って走っていった。
三人の影が、夕暮れの坂道へ長く伸びる。
やがて遠ざかり。
曲がり角の向こうへ消えていった。
バンソンは、誰もいなくなった校門の前に一人残された。
深い、長い息を吐く。
そして壊れた自転車を押しながら、自宅への道を歩き始めた。
腹には鈍い痛みが残っている。
身体は重く、疲労は骨の髄まで染みついている。
それでも――
十五歳の少年の姿をした探偵の意識の奥では、運命の歯車が、すでに静かに回り始めていた。
複雑に絡み合う人間関係。
憎悪。
誇り。
そして、やがて彼の前に姿を現す、数々の謎めいた事件。
そのすべては――
まだ、始まったばかりだった。
借り上げのアパートの一室は、徳島郊外にある古びた集合住宅の三階にあった。
そこは、ひとまとまりの静寂すら養っておくことのできないほど狭かった。
両腕を左右いっぱいに伸ばせば、剥がれ落ちたコンクリート壁の両端に、指先が触れてしまいそうなほどである。
床に直接敷かれた一人用の布団。
長い年月の重みに耐えきれず、わずかに歪んだ合板の学習机。
そして、古いデスクトップパソコン。
その冷却ファンは、まるで慢性病を患った人間の呼吸のように、低く、途切れることなく唸り続けている。
それ以外には、余分な物を置くための空間すら残されていなかった。
夜はすでに、梅雨特有の湿った冷気の底深くへ沈んでいた。
曇りきったガラス窓の向こうでは、激しい雨が波板トタンの屋根やコンクリートの縁を絶え間なく叩いている。
乱雑で、執拗で、それでいて身を刺すように冷たい雨音が、狭い部屋の中へ容赦なく侵入していた。
薄暗い室内を照らしているのは、パソコンの画面から漏れる青灰色の光だけだった。
少年は冷え切った壁に背を預け、膝を軽く立てて座っていた。
焦点の定まらない目が見つめているのは、九〇年代の日本を舞台にした古い推理映画だった。
画面の中では、濃い色のトレンチコートをまとった老刑事が、東京の夜の雨に打たれながら立っている。
彼は雨に濡れた煙草へ火をつけ、黄色い規制線に囲まれた殺人現場を、細めた目で睨んでいた。
安物のパソコン用スピーカーから流れる、少しくぐもった台詞の声が、慎ましい部屋をいっそう狭苦しいものにしている。
少年は小さく息を吐いた。
吐息が薄い白い靄となって口元に浮かび、すぐに消える。
身体を伸ばし、机の上のマウスへ手を伸ばす。
そして、老刑事が見落とされた手掛かりを前に眉をひそめている場面で、映画を一時停止した。
途端に、部屋には別の音が戻ってくる。
窓の外で荒れ狂う雨の音だけが、残った。
少年は安全性の高いブラウザを立ち上げ、プラスチック製のキーボードを素早く叩き始めた。
カタ、カタ、カタ――。
乾いたキー音が、一定のリズムで狭い部屋へ響く。
独学で身につけたコンピューター技能。
そして、闇の中で物事を観察することに慣れた者だけが持つ、わずかな論理的思考力。
その二つを頼りに、少年は学校内部の情報管理システムへアクセスしていった。
そこには、生徒たちの身元や基本情報を記録したデータが保管されている。
彼が何日も前から、人知れず抜き出す方法を探していたものだった。
画面を走っていたコードがやがて止まり、暗号化された生徒名簿が表示される。
少年の視線が、二つの名前に止まった。
――アサ。
――ソウスケ。
画面の光が、深い闇を宿した彼の瞳に映り込む。
まずソウスケのプロフィールを開いた。
基本情報は簡潔だった。
都心近くの高級住宅街にある住所。
学業成績は平均的。
校則違反などの特記事項はなし。
だが、アサの記録へ切り替えた瞬間、少年の指がマウスの上でぴたりと止まった。
彼女の住所は、独立した邸宅街にあった。
街路は常緑樹で囲まれ、防犯設備も至るところに設置されている。
その家柄は、単に「裕福」という言葉だけでは到底片づけられない。
地方行政にも一定の影響力を持つ、一族だった。
だが、少年の胸をかすかに締めつけたのは、資産額でも社会的地位でもなかった。
アサの保護者情報欄。
そこに並んだ二行の黒い文字が、彼の目に突き刺さる。
父親――刑事部捜査部門責任者。
母親――県弁護士会所属弁護士。
少年は言葉を失った。
あまりにも皮肉で、奇妙な偶然だった。
彼の父もまた、故郷で犯罪捜査に携わる警察官だった。
社会の暗部と向き合い続け、一生をその仕事に捧げてきた男。
そして母は、法廷という場所で、自らが正しいと信じる理屈を守るため、何度も毅然として立ってきた弁護士だった。
奇妙な共通点。
目には見えない、不合理な一本の糸。
狭い借り上げ部屋で独り暮らしをする異邦人の少年と、教室の中で冷たく、人との距離を取っている少女――アサ。
二人の間を、まるで運命が無理やり結びつけようとしているかのようだった。
少年は壁に後頭部を預けたまま、その文字をじっと見つめ続けた。
ほんの一瞬だけ、自分と世界との距離が、少しだけ縮まったような気がした。
だが次の瞬間、冷たいコンクリート壁の感触が、その錯覚を現実へ引き戻した。
その時だった。
布団の隅に置いてあった携帯電話が突然、震えた。
点滅する着信ランプが、重苦しい空気を切り裂く。
画面に表示された文字は、短かった。
――父さん。
少年は数秒間、画面を見つめた。
それから、まぶたにのしかかる疲労を振り払うように深く息を吸い、通話に応じた。
「……もしもし、父さん」
一晩中ほとんど声を出していなかったせいか、少年の声は低く、少しかすれていた。
受話口の向こうから、長距離通話特有のかすかなノイズが聞こえる。
その奥には、風の音。
そして、遠くで鳴るパトカーのサイレン。
父親の声が響いた。
温かさを失ってはいない。
だが、幾晩もの徹夜が積み重なった疲労は、隠しきれていなかった。
「そっちは雨、ひどいのか?」
「ひどいよ。夕方からずっと降ってる。トタン屋根が、ずっとバタバタ鳴ってる」
少年は身体を少し捻り、雨粒に濡れた窓を見た。
「父さんのほうは? もう勤務は終わった?」
「さっき国道で起きた事故の対応を終えて、署に戻ったところだ」
父親が深く息を吐く。
プラスチック製の椅子が、ギシッと鳴った。
どうやら机の前へ腰を下ろしたらしい。
「今日は一日中、雨の中を走り回ってた。雨合羽なんて役に立たないくらい、顔までびしょ濡れだよ。でもな……お前のところの雨音を聞いてると、昔の家を思い出す」
少年はしばらく黙っていた。
無意識に、指先が木製の机の表面をなぞる。
「昔の家って、雨漏り二か所あったじゃん。去年、父さんが業者に頼んで直したばかりなのに」
「そうだったな」
父親が小さく笑う。
短く、乾いた笑いだった。
「それでも雨が降るとな、今でも台所の隅にプラスチックのバケツを置きそうになるんだ」
一拍置いて、声が少し柔らかくなる。
「お前、向こうで一人だろ。部屋はどうだ? 雨、染み込んできたりしてないか?」
「大丈夫。狭いけど、ちゃんと乾いてる。ただ……」
少年は言葉を濁した。
視線は、依然として画面に表示されたアサのプロフィールへ向いている。
「ちょっと狭いだけ。布団と机を置いたら、もう歩く場所がほとんどない」
「狭い家のほうが、暖かいもんだ」
父親の声が、少し沈む。
そこには隠しきれない胸の痛みがあった。
「もっとちゃんとしたところを用意してやれなくて、すまないな。向こうは何かと金がかかるし、父さんと母さんの給料じゃ――」
「父さん、それは言わないで」
少年は静かに父の言葉を遮った。
その声には、強さと柔らかさが同居していた。
「俺はこれで十分だよ。自由だし、静かだし、学校にも近い。広い部屋なんて必要ない。広すぎたら、かえって持て余すだけだ」
「……一人で暮らしてて、寂しくないか?」
父親の問いが、宙へ落ちた。
遠くの海の向こうで、低い雷鳴が響いた。
少年は携帯電話を強く握りしめた。
胸の奥から、言葉にならないものがせり上がってくる。
耐え難い孤独。
学校へ行っても、挨拶を交わす友人一人いない日々。
灰色の廊下を、まるで幽霊のように一人で通り抜けていく感覚。
そのすべてが、喉元まで込み上げていた。
だが、少年はそれを飲み込んだ。
「もう慣れたよ、父さん。今は勉強に集中してるから、そんなに気にならない」
自分自身を欺くような嘘だった。
少年は画面から目を逸らし、自分の両手を見下ろした。
「それに、こっちの授業は日本にいた頃とかなり違うから。追いつくだけで精一杯なんだ」
「お前は昔から無口だったし、誰かに心を開くのも苦手だったからな」
父親がため息をつく。
カチッ――。
ライターの音。
続いて、深く息を吸い込む音。
父親はまた煙草を吸い始めた。
事件が行き詰まった時や、何かを心配している時に出る、昔から変わらない癖だった。
「友達とは、もっと話せ。人間は一人きりの島みたいには生きられないぞ。せめて一人か二人、親しい友達を作れ。何かあった時に、互いに支え合えるようにな」
「分かってるよ。クラスにも何人か……ちょっと面白い奴がいる」
口にした途端、少年の脳裏へ一人の少女の姿が浮かんだ。
鋭い目。
そして、自分にも負けないほどの孤独を纏った少女。
――アサ。
「本当か? 男か、女か?」
父親の声が、少しだけ弾んだ。
「両方だよ。でも、まだ挨拶したり、少し話したりする程度」
それ以上追及される前に、少年は素早く話題を変えた。
「それより父さん。最近の捜査、どう? B区の事件、何か新しい進展はあった?」
受話口の向こうが、しばらく沈黙した。
長い煙草の吸い込み。
そして、静かに吐き出す息。
やがて、父親が低い声で答えた。
「……相変わらずだ」
その声には、熟練した捜査員が状況を分析する時の、あの思慮深い響きがあった。
「容疑者には完璧すぎるアリバイがある。現場の痕跡も、妙なほど綺麗に消えてる。今回は検察からの圧も強い。母さんも最近、民事裁判の案件をいくつも抱えていて、夫婦二人で一緒に飯を食えたのは、ここ一週間で一度だけだ」
「完璧すぎるアリバイほど、偽装されている可能性があります」
少年は無意識のうちに口を挟んでいた。
最近読んだ理論。
そして、これまでに見てきた実際の事件。
そこから導き出した推論だった。
「現場が綺麗すぎるなら、犯人は痕跡を消すためにかなりの時間をかけたか、あるいは警察の証拠採取手順に精通している可能性があります」
「お前、また刑事みたいな分析を始めたな」
父親が笑った。
今度の笑いには、隠しきれない誇らしさが混じっていた。
「本の中の理論と、現場で使える理屈は別物だ。現場へ出れば、また違う。合理的な推測と、法廷で通用する証拠。その間には、とんでもなく大きな隔たりがあるんだ」
少し間を置き、続ける。
「警察は、勘だけで人を逮捕することなんてできない」
「でも、勘があるからこそ、証拠を探す方向が決まるんじゃない?」
少年は言い返した。
その声には、十五歳らしいわずかな頑固さが滲んでいた。
「最初の仮説がなかったら、父さんだって、どこを調べればいいか分からないでしょう」
「それはそうだ」
父親の声は穏やかだった。
「だが、最初の仮説を信じすぎると、先入観に引きずられてしまう。そうなると、他にある客観的な証拠を見落とす」
「だからこそ、この仕事は残酷なんだ」
その言葉には、長年現場に立ち続けてきた男の重みがあった。
「警察の小さな判断ミス一つで、無実の人間の人生を壊してしまうこともある。逆に、本当の犯人を逃がしてしまうことだってある」
少年は黙って父の言葉を聞いていた。
それは単なる職業論ではなかった。
無数の眠れない夜と、身体に残るいくつもの傷と引き換えに、父が身につけてきた人生そのものだった。
「……それでも、お前はこの道へ進みたいのか?」
父親が、突然尋ねた。
声が真剣になる。
「うん」
少年は一秒たりとも迷わなかった。
「今でもそう思ってる。これまで一度も変わったことはない」
「大変だぞ。危険でもある」
父親の声が少し重くなる。
「母さんは昔から、お前には自分と同じ法律の道へ進んでほしいと思ってる。そっちのほうが穏やかだし、社会的な立場もある」
少年は、暗闇に沈んだ部屋の一点を見つめた。
「法律は、真実が明らかになった後で、その正しさを争うための道具だ」
静かに言葉を続ける。
「俺がなりたいのは、その真実を最初に見つける側なんだ。すべての始まりに立ちたい」
電話の向こうで、父親が長く息を吐いた。
そこには、父親としての誇りと不安、その両方が入り混じっていた。
「……分かった。お前がそう決めたなら、父さんも母さんも止めない」
「でも、大学受験まではまだ長い。優秀な警察官になりたいなら、まず自分の身体を大切にすることを覚えろ」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「こんな天気なんだから、ちゃんと布団をかけて寝ろ。風邪なんか引くなよ」
「分かってる。父さんも母さんも、身体に気をつけて」
「そうだな。もう休め。明日も学校だろ」
「うん。おやすみ、父さん」
「おやすみ」
通話は短い電子音とともに終わった。
その瞬間、部屋は再び完全な静寂へと沈んだ。
残っているのは、軒先を叩く雨音だけだった。
少年は携帯電話を膝の上へ下ろし、しばらく強く握りしめたまま動かなかった。
孤独は、電話を終えたからといって消えるものではなかった。
むしろ逆だった。
地下水のように静かに、しかし激しく渦巻きながら、彼の心を少しずつ押し流していく。
この国へ来てからというもの、少年には一人として本当の意味での友人がいなかった。
放課後、友達とくだらない話をしながら歩くこともない。
何気ない雑談を交わす相手もいない。
頭の中で渦巻く考えを、そのまま誰かに話すこともできない。
少年は立ち上がった。
そして部屋の隅へ歩いていく。
そこには、故郷から持ってきた古いサッカーボールがあった。
革は擦り切れ、縫い目も年月とともに薄れている。
数あるスポーツの中で、少年が本当に得意としているのは、サッカーだけだった。
だが、その「得意」は、どこか奇妙で、孤独な能力でもあった。
バスケットボールはできない。
バドミントンも分からない。
そして、この国で国民的スポーツともいえる野球については、ルールすらろくに理解していない。
ではサッカーならどうか。
十一人の人間が連携して戦うことを前提とした競技でさえ――
彼は、ただ一人でボールを扱うことしか知らなかった。
少年はボールを足の甲で空中へ蹴り上げる。
落ちてきたところを太腿で受ける。
そこから足の裏へ移し、再び空へ。
トン。
トン。
トン。
革が身体へ触れる音が、一定のリズムを刻んでいく。
心臓の鼓動のようだった。
彼は千回でもボールを落とさずにリフティングできる。
三十メートル離れた場所から、小さな手のひらほどの標的へ正確に蹴り込むこともできる。
だが――
味方へパスを出すことはできない。
なぜなら、そんなパスを受けるための「味方」が、これまで一度もその空間に立っていなかったからだ。
スポーツにおける孤独。
それは、そのまま少年という存在そのものを映し出していた。
一個の独立した存在。
自分だけで動き。
自分で法則を定め。
そして、失敗した時も、そのすべてを自分一人で背負う。
しばらくリフティングを続けると、額に薄く汗が滲んだ。
少年は足元へ落ちてきたボールを、足裏で静かに止める。
そして、軽く蹴って部屋の隅へ転がした。
再び机へ戻り、さきほど停止した推理映画を再生する。
青灰色の光が、また部屋を照らした。
今度の場面では、日本の捜査官たちが事件解決のための捜査会議を開いていた。
ホワイトボードには、無数の写真。
線で結ばれた人物相関。
そして、いくつもの仮説。
少年は腕を組み、画面から一瞬たりとも目を離さなかった。
登場人物たちの一挙手一投足へ、あらゆる感覚を研ぎ澄ませる。
分析する。
考える。
照合する。
そして――違和感を拾う。
少年には、彼らが現場へ向き合う際のいくつもの盲点が見えていた。
犯人の位置を推定する際に、風向きを無視している。
被害者が死の直前に見せた心理状態を軽視している。
さらに、技術的に成立したアリバイを過信しすぎている。
「……甘い」
少年が暗闇の中で、ぽつりと呟いた。
その声には、冷たく鋭い自信が宿っていた。
「僕なら、あのドア枠に残った微細な擦過痕を、絶対に見落とさない」
胸の奥で、何かが燃えていた。
地下深くで燻り続けていた炎のような、激しい渇望だった。
彼は、ただ事件を見るだけでは満足できない。
画面の外側から、観客として眺めているだけでもない。
自ら現場へ踏み込みたい。
極めて巧妙な犯罪者たちの頭脳と、直接向き合いたい。
幾重にも積み重ねられた嘘を一枚ずつ剥がし、その下に隠された灰色の真実を暴きたい。
そして――
彼らを超えたい。
スクリーンの中で事件を追う刑事たちを。
そして、現実の世界で捜査に携わる者たちを。
「……必ず、できる」
少年の中で、目標はすでに明確な形を持っていた。
それは、どこか傲慢ですらあるほど、揺るぎなかった。
大学へ進学したら、国内有数の大学で警察官・刑事を目指すための専門課程、あるいは犯罪学を専攻する。
それは単なる就職先ではない。
単なる職業でもない。
少年にとって、それは自分が何者なのかを証明するための、生きる理由そのものだった。
自分がいつも異邦人のように感じてしまう、この世界の中で。
自分自身を、自分の手で定義するための道。
少年はパソコンの電源を落とした。
青灰色の光が一瞬で消える。
代わりに、濃密な闇が部屋いっぱいに流れ込んできた。
薄い布団を身体へ引き寄せ、横向きになる。
そして、濡れたガラス窓の向こうを見つめた。
外では、なおも雨が降り続いていた。
徳島の長い街並みを、洗い流すかのように。
湿った夜の冷気の中で、少年は目を閉じた。
耳を澄ます。
自分の心臓が刻む鼓動。
そして、その鼓動に重なる雨音。
明日になれば、また目を覚まさなければならない。
また制服を着なければならない。
また、あの学校へ足を運び、見知らぬ顔の群れと向き合わなければならない。
だが――
今夜だけは。
この小さな借り上げ部屋の中で、ひとつの目標が確かに灯っていた。
少年は目を閉じる。
解き明かされていない事件の数々。
そして、最も孤独な道を自ら選び取った者だけが抱く、鉄のように揺るぎない決意。
それらを胸に抱えたまま、静かに眠りへ沈んでいった。
ブックマークしてくださって、本当にありがとうございます!
皆さんの応援が、物語を書き続ける一番の力になります。
これからも少しずつですが、心を込めて更新していきますので、
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
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