Episode 32
心そのものが、もう揺らぐ必要を失ったとき――そこに初めて、真の静けさが訪れる。
ゲンソン・ジェスダは、そこに座していた。
虚無の中心。
時間と空間が、まるで裂けて千切れた絹布のように絡み合い、幾重にも渦を巻いている場所だった。
少年の肩から、ゆっくりと力が抜けていく。
かつて嵐と破壊を運んでいた呼吸は、今や長く、細く、朝霧のように淡く透き通っていた。
鼓動が、静かに遅くなる。
ひとつ。
――千年を待つ。
そして、ようやく二つ目の鼓動が響いた。
その瞬間だった。
無明の帳が、音もなく崩れ落ちた。
大爆発が起きたわけではない。
空を真っ二つに裂くような、まばゆい光が走ったわけでもない。
悟りとは、静かな湖面へ一滴の水が落ちるように訪れた。
だが、その一滴が生み出した波紋は、三界のすべてを貫き、果てなき彼方へまで広がっていった。
ゲンソンは目を開いた。
かつてその瞳に燃えていたのは、極限まで研ぎ澄まされた傲慢と、苛烈な残忍さ、そしてすべてを征服せんとする渇望だった。
しかし今、その奥に宿っているのは、まだ誰にも見出されたことのない宇宙そのもののような、深遠なる静寂だった。
怒りは、すでに蒸発していた。
その代わりにそこにあったのは、果てしない慈悲。
冷たさすら感じさせるほどの静謐。
それでいて、万物を拒むことなく包み込む、限りなき寛容。
彼には、すべてが見えていた。
あらゆる生命を絡め取る因果の連鎖。
無数の存在が流す涙。
そして、繰り返される戦いという営みが孕む、あまりにも深い無意味さ。
だが――
全知には、代償があった。
それは、肉体という器そのものの限界だった。
ゲンソンの皮膚に、ひびが入り始める。
亀裂の奥から、眩い白金色の光が漏れ出した。
かつては暴力と力の結晶とも呼ぶべき完成された肉体だった。
しかし今や、それは存在という概念さえ超越した魂を収めるには、あまりにも狭すぎた。
血は沸騰し、骨は砕ける。
至高の叡智が生み出す圧力に、肉体そのものが耐え切れなくなっていく。
「この肉体は……もう、その役目を終えた」
ゲンソンは、そう心の内で呟いた。
しかし、その声は喉から発せられたものではなかった。
周囲に存在する無数の素粒子、その一つ一つから響き渡っていた。
彼は抗わなかった。
ただ、肉体が崩壊していくのを受け入れた。
皮膚が砕ける。
肉が崩れる。
骨が粉砕される。
そしてそのすべてが、数十億もの光り輝く塵へと変わり、果てなき虚空に浮遊していった。
やがて――
ひとつの思念が、吐息よりも軽く零れる。
それだけで、ゲンソンは自らを再構築した。
散り散りになった光の塵が、少しずつ集まり始める。
骨は宇宙の法則によって編まれ、
血は時間の流れを注ぎ込まれて脈打ち、
肉体は、最も純粋なる光によって形を与えられていく。
そして――
白い光の奔流の中から、ゲンソン・ジェスダが歩み出た。
今の彼の美貌は、もはや人の世における美醜の概念など遥かに超えていた。
神々の美さえ、比較の尺度にはならない。
それは欲望を掻き立てる美ではなかった。
嫉妬を生む美でもない。
ただ、その姿を見た者に、
跪き、
涙を流し、
これまで抱えてきた苦しみを、すべて手放したいと思わせるような美だった。
――真理そのものの美。
彼が再生した瞬間、三界を駆け抜ける大いなる衝撃が生まれた。
地獄では、永遠に続くはずだった絶叫と硫黄の臭気の中へ、突如として温かな気配が満ちていく。
酷寒の層――骨寒の地では、凍りついていた大地がゆっくりと溶け、透き通った小川へと姿を変えていった。
火池の灼熱もまた、その激しさを失い、秋の夕暮れを思わせる柔らかな朱色の光へと変わっていく。
罪深き魂たちは絶叫することをやめた。
呆然としたまま、自らの両手を見つめる。
そこにはもう、血が流れていなかった。
そして――悪魔たちもまた、変わり始めた。
罰と苦痛の象徴として、歪み、醜悪に捻じ曲げられていたその姿が、少しずつ本来の形を取り戻していく。
ざらついた角質のような鱗が剥がれ落ち、
鋭い牙が抜け落ちる。
女悪魔と女阿修羅は脱皮するように古き姿を捨て去り、原初の天使にも似た、聖らかで燦然たる美しさを帯びていった。
男悪魔と男阿修羅は、天へ届かんばかりに背丈を増し、隆々とした筋肉に雄大な銅色の光を宿した。
その顔立ちからは獰猛さが消え、代わりに鋭さと力強さ、そして威厳が刻まれていく。
天界が震撼した。
光雲に包まれた幾重もの天上宮殿。
その遥かな天空に築かれた玉座から、高位の神々が一斉に立ち上がった。
彼らは感じ取っていた。
脅威ではない。
敵意でもない。
それなのに――
どうしても頭を垂れずにはいられない、絶対的な威厳を。
天の彼方では、曼荼羅華が雨のように降り注いだ。
神聖なる鳥たちは、一斉に祝福の歌を奏で始める。
――ゲンソン・ジェスダは、悟ったのだ。
彼は三界の境界に立った。
そしてその声は、決して大きくなかった。
それでも、宇宙の隅々にまで届いた。
すべての生命が、その言葉を自らの心の内側で聞いた。
「これより、万物は一つへと帰する。
余は恐怖によって支配しない。
かといって、甘やかすことによって支配することもない。
余は三界の王となる。
だが、余の玉座にあるものは――支配ではない。
均衡だ」
ゲンソンは片手を掲げた。
細く長い指が、虚空を軽く弾く。
その瞬間――
本来なら永遠に隔絶され、相反する存在であった天界と地獄が震え始めた。
空間そのものが巨大な地殻変動を起こし、二つの世界が、ゆっくりと移動していく。
そして、至高の力によって――
二つの世界は、互いに絡み合うように巻き上げられ、
巨大な太極図――陰陽を象徴する「太極図」の形を成す、ひとつの大渦へと封じられていった。
「天界は陽の界。
光に属する世界だ。
そこでは魂が修行を重ね、幸福を享受し、己という存在に残された最後の濁りを洗い清める。
地獄は陰の界。
闇に属する世界だ。
だが、盲目的に苦しめるための場所ではない。
自らの業と向き合い、悔悟の温もりの中で罪を洗い流すための場所となる。
陰と陽は、互いを生み、
互いを内包し、
互いを欠いては存在できない」
神々も。
悪魔たちも。
無数の魂たちも。
ただ黙して、その言葉に耳を傾けていた。
その真理は、あまりにも当然だった。
けれど――
ゲンソンが世界そのものを再構築するまで、誰一人として、それを完全には理解できなかったのだ。
宇宙の秩序を再編し終えると、ゲンソンは身を翻した。
そして、自らの私的な空間へと歩み入る。
新たに生まれ変わった宇宙を統べる責任は、あまりにも重い。
まして、悟りの爆発によって一気に獲得した無限の力を完全に同化させるためには、深く、長い休眠が必要だった。
今すぐに統治を続けることはできない。
だが――
玉座を空けておくわけにはいかなかった。
その前に、十五の偉大なる影が立っていた。
リリス――原初にして野性的。
ヘラ――威厳に満ち、鋭敏。
メティス――深遠なる知恵。
テミス――厳格なる正義。
エウリュノメ――秩序の源。
デメテル――万物を育む生命。
ムネモシュネ――永遠なる記憶。
レト――母なる慈愛。
アテナ――戦略と光明。
アルテミス――狩猟と独立。
ペルセポネ――再生を司る女王。
ヘベ――永遠なる青春。
ヘレネ――比類なき美。
エイレイテュイア――生命を導く者。
そして、パールヴァティ――献身と原初の力。
彼女たちは皆、かつてのゲンソンの妻だった。
過去の彼が抱えていた愛、欲望、権力――
そのすべてを構成していた十五の欠片。
しかし今――
悟りを得たゲンソンを前にした彼女たちからも、かつての世俗的な欲望は静かに消え去っていた。
彼女たちは理解していた。
彼が何を必要としているのかを。
ゲンソンが手を差し伸べる。
十五人の女神たちは、微笑んだ。
嫉妬はない。
未練もない。
ただ互いへ向かって歩み寄る。
そして、光が空間そのものを包み込んだ。
「あなたが築いた均衡を守るために――」
十五人の声がひとつに重なった。
それは、威厳と優しさが完全に調和した、比類なき響きだった。
「私たちは、一つになります。
私たちの意志は、あなたが眠る間、
あなたの玉座となりましょう」
光が一点へと収束する。
濃密なまでに凝縮し――
そして、弾けた。
眩い光輪の中心から、一人の女が歩み出る。
言葉では到底言い表せない美しさだった。
リリスの持つ、妖しくも魅惑的な野性。
アテナの、すべてを見通す知性。
ヘラの、圧倒的な威厳。
パールヴァティの、深き慈愛。
そしてヘベの、永遠に失われることのない青春。
それらすべてが、一つに融合している。
そこに存在していたのは――
神性という概念そのものの、究極の女性性だった。
そのとき、不意に空間が震えた。
遥かなる涅槃の彼方から、重厚な響きが轟き渡る。
彼女の頭上に、巨大な黄金の蓮華が幻のように咲き誇った。
そして、世尊――仏陀の声が響く。
十方諸仏の証明を携えた、静かでありながら絶対的な声だった。
「無数の自我を一つへと統合し、
その身の夫に代わって三界の業を背負う者。
これより、そなたの名を――
パルザリス・ガウタマと定める」
ゲンソンが微笑んだ。
悟りを得てから、初めて見せる笑みだった。
慈しみと理解に満ちた、穏やかな微笑み。
彼は歩み寄り、淡い光を纏うパルザリス・ガウタマの両手を、そっと取った。
「どうだ、パルザリス?」
その名を呼ぶ声は、包み込むように温かかった。
パルザリスは瞬きをする。
その瞳の奥では、無数の宇宙が生まれ、滅び、そしてまた生まれていた。
「不思議な感覚です……旦那様。
完全なのです。
十五の魂の欠片は、ひとつとして失われていません。
むしろ、より強く、より深く絡み合っている。
私は今、何兆、何京もの生命から届く祈りを、
一つ一つ感じ取ることさえできます」
彼女は僅かに眉を寄せた。
そこには、ヘラの面影を残す、極めて人間らしい表情が浮かんでいた。
「ですが……この仕事量は、少々問題ですね。
三界中から、あらゆる願いが送り込まれてきます。
雨を降らせてほしい。
豊作にしてほしい。
宝くじに当ててほしい。
挙句の果てには――
『あの敵を滅ぼしてください』です。
旦那様は……なんともまあ、
美しい大混乱を私に残していってくださいましたね」
ゲンソンは、くすりと笑った。
そして彼女の手を引き、雲の回廊を歩いていく。
二人が向かう先にあったのは――
輪廻の望。
万物の生・老・病・死を一本の巨大な流れとして繋ぐ、途方もなく巨大な渦の井戸だった。
その中を、無数の魂が銀河のように輝きながら、絶え間なく流れ落ちている。
「君が苦労することは、分かっている」
ゲンソンの声は優しかった。
「至高の玉座に座るということが、決して心地よいだけの仕事ではないこともな。
私は、人間にとっては永遠にも等しい時間、眠りにつくことになる。
その間、願いの書類の山と向き合い続けて、
君に退屈や極度のストレスを味わわせたくはない」
そう言って、ゲンソンはパルザリスの驚いた顔を横目に――
自らの鼻元へ手を伸ばした。
そして、一本の毛を、そっと引き抜いた。
身体から離れた瞬間。
それは床へ落ちることなく、虚空に浮かび上がった。
眩いばかりの光を放ちながら凝縮し、やがて神聖なる生体エネルギーを宿した、ひとつの微小な分子核へと変わっていく。
「……何をしているのです?」
パルザリスが尋ねる。
僅かに首を傾げたその仕草には、アルテミスの好奇心が滲んでいた。
「小さな芝居を準備している」
ゲンソンは答えた。
「君の仕事の合間の、ちょっとした娯楽だ」
そう言いながら手を開く。
その分子核は、ゆっくりと輪廻の望へ向かって漂っていった。
「これは、ほんの僅かだ。
本当に、僅かな量の私のDNAを持っている。
これを人界へ落とす。
そして、身籠っている一人の女の腹へ入り込む。
生まれてくる子供は――
私の化身となる」
「……化身?」
パルザリスが眉を上げた。
「また人類へ干渉するおつもりですか?」
「いや」
ゲンソンは、静かに首を振る。
「その子には、神としての力を一切与えない。
空間を歪めることもできない。
不老不死でもない。
雨を呼び、風を操ることもできない。
身体能力と知性も、普通の人間より約四十パーセント優れている程度だ。
傑出した存在にはなれる。
だが、物理法則や人間の限界から抜け出せるほどではない。
容姿も整っていて、私の面影を受け継ぐだろう。
……もっとも、今のこの完璧な本体と比べることなど、到底できないがな」
ゲンソンが手を離した。
分子核は輪廻の渦へと落ちていく。
一度だけ、閃光が走った。
そしてそれは、現世の彼方へと消えた。
「その子には独立した意識がある。
自分自身の人生もある。
だが、その魂は、眠りについた私の精神と、極めて微細な次元で繋がっている。
あの子が求めるものは――真実だ。
一人の若者が、
事件を追う」
ゲンソンは、意味ありげに微笑んだ。
「人界で最も難解な事件。
最も悪辣な陰謀。
それらすべてが、あの子にとっての舞台になる。
君は王座に座り、上奏文に目を通しながら、
望鏡を通して、その旅を眺めることができる。
長編ドラマのようなものだ。
現実そのものを舞台にした劇。
この山のような書類を片付ける合間に、
君のストレスも、
退屈も、
少しは紛れるだろう」
それを聞いたパルザリスの瞳に、深い感情が宿った。
彼女は静かに歩み寄り、ゲンソンへ腕を回す。
そして、その頑健な胸板へ頬を寄せた。
アテナの知性と、デメテルの共感が彼女に理解させていた。
悟りを得た至高の神ならば、本来はあらゆる執着を断ち切るはずだ。
それでも彼は――
ほんの僅かな人間らしさを残している。
ほんの小さなロマンチックな心を残している。
それはすべて――
妻を少しでも喜ばせるためだった。
「……では、あなたがお目覚めになったら?」
彼女は小さな声で尋ねた。
「私が目を開けば、繋がりは切れる」
ゲンソンの声は、あくまで穏やかだった。
「その子の存在を維持している力は、すべて私の本体へと還っていく。
あの事件を追う若者は――
そこで死ぬ」
悲しみはなかった。
その言葉を、彼は淡々と告げる。
なぜなら彼にとって、それはただ一つの意識の欠片が、本来あるべき場所へ戻るに過ぎないからだ。
一滴の水が、再び大海へ還るように。
「彼の生と死は、我々にとっては一瞬にすぎない。
だが――
その一瞬の中で、彼が紡ぐ物語が、
君を笑顔にしてくれればいい」
パルザリスは、彼を抱く腕に力を込めた。
「ありがとうございます、あなた。
私は、この劇を大切にします。
あなたが築いた均衡を、必ず守ります。
どうか、何も心配せずにお眠りください」
ゲンソンは、静かに頷いた。
そして一歩、後ろへ退く。
振り返ると、無限に広がる宇宙を見つめた。
輪廻の望の外には、天上界のあらゆる階層から神々が集結していた。
彼らは全員、深々と頭を垂れ、至高なる王を見送っている。
「三界を、パルザリス・ガウタマに託す」
ゲンソンの宣言が響き渡る。
その声は、巨大な銅鐘を打ち鳴らしたように、宇宙全域へと轟いた。
「我に仕えるのと同じように、彼女に仕えよ。
陰と陽の輪を絶やすな。
夢の界と現実の界を支え、
その二つが崩壊せぬようにせよ」
万雷の歓声が沸き起こるのを待つことなく――
ゲンソン・ジェスダは、静かに目を閉じた。
肉体がゆっくりと宙へ浮かび上がる。
そして、虚無から生え出した巨大な結晶の中へ、徐々に沈んでいった。
巨大な結晶が閉じる。
それは三界の王を、永遠とも呼ぶべき深き眠りへと封じ込めた。
波紋すら立たぬ、完全なる休眠。
そこにあるのは、ただ絶対的な静寂だけだった。
パルザリスは、その光景を黙って見つめていた。
夫が静寂の中へ沈んでいくのを。
彼女は、ゆっくりと深く息を吸った。
十五柱の女神が持っていたすべての力が、血脈の中を流れている。
その神性は、かつてとは比べものにならないほど強大だった。
だが、振り返った彼女の前に広がっていた光景は――
白雲と黒い隕石によって形作られた玉座。
そして、その周囲を埋め尽くす無数の巻物、書類、魂の光。
そこに記され、収められているのは、三界の生命たちが寄せた無数の願い。
その大半は――
呆れるほど些細で、
身勝手で、
どうしようもなくくだらない願いだった。
山のように積み上がったそれを前にして、三界の至高の女王は、こめかみをそっと揉んだ。
「……分かりました」
彼女は小さく呟いた。
そして片手を振る。
すると巨大な水晶のような映像スクリーンが空間に浮かび上がり、下界を映し出した。
霧に包まれた、とある都市。
そこでは、一人の赤子が鋭い眼差しを宿したまま、今、生まれたばかりの産声を上げている。
パルザリスは、その姿を見ながら小さく息を吐いた。
「少なくとも……
この多元宇宙のゴミを片付けている間、眺めていられるものくらいはあるようね」
パルザリス・ガウタマは、玉座へと歩み上がった。
そして、最初の上奏記録を手に取り、静かに開いていく。
その一方で、巨大な映像画面には、ゲンソンの血を引く天才探偵――
彼の物語、その第一幕が映し出され始めていた。
夢の界と現実の界。
天界と地獄。
二つの相反する世界は、新たなる秩序のもとで動き始める。
そして――
彼女の統治のもと、
「均衡の時代」が、
今ここに正式に幕を開けた。
一粒の黄金色に輝く塵があった。
深き永遠の休眠へと沈んだ、偉大なる意志――その残滓を宿した、ほんの一粒の塵である。
それは幾重にも重なる雲を、空間を、そして時間そのものを貫きながら落ちていった。
無数の星々の間を滑り抜け、地球の大気圏を突き抜け、やがて静かに――
喧騒に満ちたニューヨーク、その人波のただ中へと溶け込んだ。
そして黄金の塵は、マウント・サイナイ病院の最上級の分娩室に横たわる、一人の妊婦へと辿り着く。
次の瞬間、それは音もなく、母親の胎内で形成されつつある小さな生命へと溶け込んでいった。
その夜は、激しい雪の降る冬の夜だった。
やがて、一人の男児がこの世に生を受ける。
産声は、甲高くもなく、弱々しくもなかった。
むしろ、驚くほど低く、力強く、堂々としていた。
ベテランの産科医でさえ、その第一声に思わず目を見開いたほどである。
少年は――バンソンと名付けられた。
父方も母方も、名だたるエリート一族だった。
政治家、実業家、そして高級警察幹部。
両家ともに、社会の頂点に近い場所に立つ者たちが多くを占めていた。
しかも、ここ三世代にわたって、両家には不思議なほど女児しか生まれていなかった。
そこへ現れた、初めての男児。
バンソンの誕生は、まるで奇跡そのものだった。
家族にとって、何よりも大切に扱われる至宝だった。
そして、その赤子の美貌には、生まれた瞬間から、通常の生物学的な範疇を遥かに超える完成度が宿っていた。
鋭く整った顔立ち。
深く澄んだ瞳。
しかもその眼差しには、新生児特有の無垢な空白がほとんど見られなかった。
老いた父――実利を何より重んじるニューヨーク市警の警部ですら、初めて自分の手で息子のおむつを替えた際、その異常なほど早い身体的成長を目の当たりにして、思わず呆気に取られたように笑った。
そして妻の肩を軽く叩きながら、冗談めかして言った。
「見てみろ、愛しい人。こんなサイズと完成度……こいつは生まれながらの支配者だな。ビジネスの世界であろうと、ベッドの上であろうと、だ」
妻は名うての鉄鋼企業を率いる敏腕女性CEOだった。
だが――
バンソンは、いわゆる「金のスプーンを咥えて生まれた子供」が辿るような人生を歩むことはなかった。
四歳。
他の子供たちが、まだ簡単な単語の綴りを覚えている頃。
バンソンは家族の図書室に置かれたスエード張りのアームチェアへ身体を丸めるように座り、アーサー・コナン・ドイルやアガサ・クリスティの推理小説を読み耽っていた。
読むだけではない。
四歳にして、すでに読み書きまで完全に身につけていた。
両親は、残酷なまでに忙しかった。
警察官としての過酷な勤務。
そして女性CEOとしての大陸をまたぐ出張。
それらのせいで、バンソンが成長していったのは、広大なペントハウスの静けさの中だった。
乳母は次々に入れ替わり、家庭教師もまた頻繁に変わった。
だが――
バンソンは泣かなかった。
何かをねだったりもしなかった。
不満を口にすることすらなかった。
その自立心は、むしろ不気味なほどだった。
魂の核、その最も深い場所から湧き上がるものがあった。
類まれなる冷静さと、突出した知性。
それは――
至高者ゲンソンから受け継がれた、かすかな遺産だった。
それがバンソンの人格を形作った。
冷徹。
鋭敏。
そして何よりも――
真実と、この世界に散らばる論理の断片を愛する少年へと。
だが、その卓越性には当然のように別の影響も伴った。
バンソンは――骨の髄から女たらしだった。
六歳。
同じ幼稚園に通う少女たちが、彼を巡って口喧嘩を始めるようになった。
十歳。
学校のロッカーは、ラブレターとチョコレートでいつもいっぱいだった。
十四歳。
バンソンは中学校を州内首位の成績で卒業し、その後ろには、数え切れないほどの上級生の少女たちが、呆然とした視線を残していった。
彼自身、決して意図して色気を振りまいていたわけではない。
だが、あの無関心そうな態度。
口元に浮かぶ、わずかな笑み。
そして秋の湖のように深い瞳。
それだけで、少女たちの心を次々と射抜いてしまう。
――まるで致命的な魔性だった。
そして現在。
バンソンは十五歳になった。
その肉体は、すでに常識外れとしか言いようのない領域へ達していた。
身長、一八八センチ。
広い肩幅。
シャツの下に浮かぶ、無駄のない引き締まった筋肉。
さらに、その類まれなる頭脳によって、英語、中国語、日本語、韓国語、ベトナム語、スペイン語――
六か国語を自在に操る。
そして今、彼は東京にいる。
日本へ単身移り住み、高校生活を始めてから、すでに五か月が経過していた。
彼の夢は明確だった。
しかし、それを聞いた家族は揃って驚いた。
――偉大な警察官になりたい。
――天才的な探偵になりたい。
光の当たらぬ闇の中に立ち、世の中に潜む最も汚れた真実を、ひとつ残らず表舞台へ引きずり出す。
それが、バンソンの目標だった。
春の東京。
朝の柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、バンソンの彫刻のように整った横顔を照らしていた。
彼は畳の上に敷いた寝具から跳ね起きると、電子時計へ目をやった。
――午前八時十五分。
「くそ……」
バンソンはスペイン語で呟いた。
昨夜は明け方近くまで、大阪で一九九〇年代に発生し、未解決のままとなっている連続殺人事件の事件記録を分析していたのだ。
彼は恐ろしく速い手つきで歯を磨きながら、スマートフォンを肩と耳の間に挟み、地球の反対側にいる父へ電話をかけた。
数回の呼び出しの後、受話器の向こうから、眠たげで低い声が返ってくる。
「バンソン? 今ニューヨークは真夜中だぞ、息子よ」
「こんばんは、警部殿」
バンソンは口に歯磨き粉の泡を残したまま、洗面所のタオルで口元を拭った。
「一つ聞きたいことがあります。将来、外国籍の人間が日本の警察組織に入るには、どういう道筋を辿ればいいんですか? 今のうちに進路を知って、準備しておきたいんです」
受話器の向こうで、リチャードは豪快に笑った。
その笑い声には、父親としての誇らしさと、どこか大雑把な性格が同時に滲んでいる。
「何だ、そんな先のことまで心配してるのか。まずは勉強を終わらせろ。そんな話は……まあ、この親父に任せておけ。東京の警察本部にも昔からの知り合いが何人かいる。何とかなるさ。それより今日は、お前の入学式じゃなかったか?」
「そうです。そして――遅刻しています」
「だったら走れ、チビ助!」
電話は切れた。
バンソンは慌ただしく日本の男子高校生の制服へ着替える。
黒い詰襟ではなく、黒のブレザーにシャツ、そして折り目のきっちりついたスラックス。
彼は家族へ依存することを好まなかった。
両親が毎月、莫大な金額を仕送りしてくれているにもかかわらず、バンソンは自分で世田谷に小さな部屋を借り、移動には電車と、漆黒のマウンテンバイクを使っていた。
リュックをひっ掴む。
そしてバンソンは、通りへ飛び出した。
四月の東京は、まだ少し肌寒い。
そこへ、アスファルトの湿った匂いと、満開の桜の香りが混ざっていた。
マウンテンバイクが小さな坂道を切り裂くように駆け抜ける。
長い脚が力強くペダルを踏み込み、そのたびにスラックスの下で筋肉がしなやかに動いた。
バンソンは頭の中で、速度、摩擦係数、信号が赤になっている時間まで瞬時に計算していく。
時速三十五キロを維持すれば――
渋谷の交差点には、ちょうど黄色信号の間に滑り込める。
だが。
数字の論理が、ときに運命の持つ予測不能な変数に屈することがある。
視界の利かない曲がり角。
古い民家の煉瓦塀が道路へ張り出した、その死角から――
一人の少女が、鞄を抱えたまま突然飛び出してきた。
「――ッ!」
バンソンは急ブレーキをかけた。
タイヤが耳をつんざくような悲鳴を上げ、路面に黒い痕を刻む。
しかし、慣性という名の法則は、たとえ天才であろうと無視することができない。
――ドンッ!
自転車の車体が少女の脚へ激突した。
バンソンはサドルから放り出され、そのままアスファルトの上を転がった。
少女もまた衝撃に弾き飛ばされ、鞄と大量の書類が宙へ舞う。
まるで紙の雨だった。
「くそ……」
バンソンは手をついて身体を起こした。
掌が擦りむけ、焼けるように痛む。
彼は肩についた埃を素早く払うと、自分がぶつかった少女へ目を向けた。
そこにいたのは、一人の少女だった。
腰まで届く長い黒髪は乱れ、丸く大きな瞳は本来なら明るく輝いているはずなのに、今は怒りのあまり細く吊り上がっていた。
彼女もまた、バンソンと同じ学校のプリーツスカート型の制服を着ていた。
「……すみません」
バンソンは手を差し出す。
「怪我は――」
「目ぇ、空の上についてんの!?」
少女の声は、非常ベルのように鋭かった。
バンソンの言葉を完全に遮る。
彼女は自分の力で勢いよく立ち上がると、スカートについた埃を乱暴に叩き落とした。
瞳には、遠慮の欠片もない激しい炎が燃えている。
「こんな見通しの悪いところで、死に急ぐみたいなスピードで走るなんて正気!? 死にたいなら一人で勝手に川へ飛び込んでよ! 他人まで巻き込まないで!」
「ここは死角でした。それに、あなたも周囲を確認せずに飛び出してきた」
バンソンは冷静に言い返した。
論理的に物事を捉える性格が、即座に反応したのだ。
「僕はちゃんとブレーキをかけました。もし止まらなかったら、あなたは少なくとも肋骨を二本は折っていたでしょう。とはいえ、速度を出し過ぎていた僕にも責任はあります。ですから、賠償については――」
しかし。
最後まで言い終えることはできなかった。
少女は理屈に耳を貸さなかった。
革靴が閃く。
その速度も、正確さも、バンソンには完全に予想外だった。
――バシィッ!
鋭く、容赦のない蹴りが、彼の下腹部を正面から直撃した。
その瞬間――
天才探偵の視界が、一気に真っ白になった。
青天を貫くような激痛が下方から脳天まで突き抜け、傲慢なまでに優秀だった神経系を、一瞬ですべて機能停止へ追い込んだ。
至高者と魂を繋ぐ化身であろうとも。
この肉体は、所詮、生身の人間だ。
そして――
男の急所を巡る物理法則だけは、誰に対しても平等だった。
「――ッ……!」
バンソンは両膝から崩れ落ちた。
顔は真っ赤になったかと思えば、次の瞬間には真っ青になっている。
両手で下腹部を必死に押さえ、口を開いているのに、喉から漏れるのは掠れた呻き声だけだった。
「この変人!」
少女は吐き捨てるように言いながら、散らばった書類を急いで拾い集めた。
地面で震えるバンソンを睨みつける。
「次からは、ちゃんと前見て歩きなさいよ!」
そう言い残し、少女は踵を返して学校の方へ走っていった。
バンソンはその場に膝をついたまま、全身に冷や汗を流していた。
呼び止めたい。
名前を聞きたい。
この致命的な一撃を放った少女の正体を確かめたい。
だが、声帯は完全に職務放棄していた。
彼がかろうじて記憶へ刻み込めたのは――
少女の胸元にあった、高校の校章だけだった。
制服……。
同じ学校……。
バンソンが再びまっすぐ立てるようになるまで、きっかり三分かかった。
歯を食いしばる。
半分は殺してやりたいという気持ち。
もう半分は、笑ってしまいそうなほどの屈辱。
痛みに耐えながら自転車を起こし、彼はこれまで経験したことのない不自然な歩き方で、再び学校へ向かった。
ようやく身長一八八センチの身体を引きずるように校門まで運ぶ頃には、校庭はすでに閑散としていた。
「入学式」と書かれた看板だけが、場違いなほどぽつんと立っている。
式はとっくに終わっていた。
生徒たちは、それぞれ部活動の見学へ向かったり、帰宅の準備を始めたりしている。
バンソンは自転車を押しながら校門をくぐり、深く息を吐いた。
――そのときだった。
彼の直感が、警鐘を鳴らす。
校庭の隅。
大きな桜の木の下。
そこに、見覚えのある少女が立っていた。
今朝の少女だ。
彼女は別の女子生徒と楽しそうに笑い合っている。
バンソンは一瞬たりとも迷わなかった。
自転車をその場へ置き、長い脚で地面を踏みしめながら、真っすぐ二人のもとへ歩いていく。
その影が、校庭に長く伸びる。
そして、陽光の一角を覆った。
少女が振り返る。
その瞬間――
大きく、逞しく、力強い熱を帯びた手が、彼女の手首をしっかりと掴んだ。
「ようやく見つけた」
バンソンの声は低く、静かだった。
しかし、そこには拒絶を許さない圧があった。
少女が驚いて目を見開く。
素肌に伝わる体温に、彼女は思わず狼狽し、手を振りほどこうとした。
だが、バンソンの握力はびくともしない。
見上げた先にあったのは――
彫刻のように整った、鋭い顔立ち。
細く長い瞳には、研ぎ澄まされた知性と、抑え込まれた怒りが宿っている。
少女は、一瞬だけ言葉を失った。
「ちょ、ちょっと……何してるのよ! 離して!」
頬を僅かに赤くしながら、少女が怒鳴る。
その隣にいたのは、短く切った髪を内巻きにした少女だった。
悪戯っぽい瞳を細めながら、彼女はバンソンの手から、その顔へと視線をゆっくり移していく。
そして――
口元に、意味ありげな笑みを浮かべた。
「ええ~?」
親友の少女は、掴まれている少女の腰を肘で軽く小突く。
「何よ、そんなの隠してたの? もしかして彼氏? 私に教えてくれなかったじゃん! しかも、何この超絶イケメン!」
「彼氏なわけないでしょ!」
少女はバンソンの手を勢いよく振りほどき、手首をさすった。
「私、この変人の名前すら知らないんだから! 今朝こいつが自転車で私に突っ込んできたの!」
バンソンは背筋を伸ばした。
片手をポケットへ入れ、もう片方の手で乱れた髪を整える。
そして、できる限り紳士的な態度を作った。
「きちんと謝るために来ました。今朝は最後まで話させてもらえないまま、あなたに暴行されましたからね。自転車でぶつかった件については、僕の責任です。謝ります」
そこまで言ってから、静かに続ける。
「ただし、あの蹴りは傷害罪に問われてもおかしくありません」
少女は唇を尖らせ、腕を組んだ。
挑発するような目だった。
「謝罪は受け入れる。今回は許してあげる。だから、もう帰って」
そう言って、少女は背を向けた。
「待って」
バンソンが声をかける。
そして半歩だけ前へ出て、彼女の進路を遮った。
「僕は自分の非を認めました。だったらせめて――」
口元に薄い笑みが浮かぶ。
「僕を一瞬で宦官にしかけた人の名前くらい、教えてもらえませんか?」
少女の足が止まった。
彼女はゆっくり振り返る。
そして、鋭い視線をバンソンへ突き刺した。
「絶対に嫌。あなたに教える必要なんてない」
「彼女、江波アサ!」
横から、甲高い声が割り込んだ。
親友の少女――ルカが、バンソンへ向かってウインクした。
その笑顔は、ますます楽しそうになっている。
「私は河合ルカ! よろしくね!」
「ルカ!」
アサは、親友を噛み殺しそうな勢いで睨みつけた。
「私を売る気!?」
バンソンはルカを見る。
そして――
口角を僅かに上げた。
ニューヨークで幾多の少女たちの心を一撃で撃ち抜いてきた、あの半笑いの微笑みだった。
「河合ルカ。ありがとうございます。僕はバンソンです」
「バンソン……」
ルカはその名前を小さく繰り返し、まじまじと彼の姿を観察した。
「何年生? そんなに背が高くて大人っぽいから、私とアサは二〇〇六年生まれで高校二年なんだけど……同い年?」
バンソンは両手をポケットへ入れ、肩をすくめた。
「僕は二〇〇七年生まれです。今年、高校一年に入学しました。お二人とも、先輩ですね」
アサとルカは、同時に目を見開いた。
一年生?
二〇〇七年生まれ?
それなのに、一八八センチ。
圧倒的な存在感。
深い瞳。
どう見ても、自分たちより年下の少年とは思えない。
「い、一年……?」
アサは思わず言葉を詰まらせた。
すると、不意に今朝の出来事が脳裏へ蘇る。
自分が――
年下の少年を蹴った。
しかも、かなり危険な場所を。
そう考えると、何とも言えない居心地の悪さが込み上げてくる。
だが、先輩としてのプライドが、そんな動揺を表に出すことを許さなかった。
アサは咳払いをすると、ルカの手を掴んだ。
「一年生なら一年生の教室に行きなさいよ。ルカ、帰るわよ!」
「え、ちょっと、アサ――」
アサはルカを半ば引きずるようにして、校門の外へ連れていった。
バンソンは、その場に残った。
そして、遠ざかっていく少女の背中を見つめる。
小柄なのに、妙に生命力に満ちた少女だった。
そのとき。
下腹部へ、再び鈍い痛みが走った。
「……っ」
思わず歯を食いしばる。
だが――
十五歳の天才探偵の胸には、別の感情が芽生え始めていた。
奇妙な興味。
「江波アサ……」
彼は小さく呟き、自転車置き場へ向かって歩き出した。
今日は入学式に間に合わなかった。
だが――
明日から、この学校はきっと面白くなる。
東京の坂道を夕焼けが赤く染めていた。
その舗道には、二人の少女の長い影が伸びている。
「ねえ、アサ」
ルカは後ろ向きに歩きながら、両手を背中で組み、いたずらっぽく目を細めて親友を見る。
「もしかして、馬鹿なの?」
「は?」
「何であのバンソン君の連絡先、聞かなかったのよ?」
アサは足元の小石を蹴飛ばし、ぷいと唇を尖らせた。
「何言ってるの。自転車で突っ込んできて、校庭の真ん中でいきなり手首まで掴んでくるような男よ? 私たちはただ、偶然ぶつかっただけ」
「偶然?」
ルカが立ち止まり、首を傾げる。
「高校一年生で、ハーフっぽい顔立ちで、彫刻みたいな美形で、一八八センチもあって、そのうえ自分からあなたを探しに来て謝るんだよ?」
ルカは目を輝かせた。
「私の前の学校だったら、あんな男の子、漫画の中にしか存在しなかったって。バンソンって、まさに私のタイプなんだけど!」
アサの足が、ぴたりと止まった。
胸の奥を、奇妙な感覚が一瞬だけ走り抜ける。
だが――
彼女はすぐにそれを振り払った。
そしてルカの顔を指差しながら、声を上げて笑う。
「だったら自分であいつの連絡先でも聞きなさいよ!」
「はいはい」
「でも忠告しておくけど、あいつ、顔はものすごくいいけど――」
アサは少しだけ声を落とした。
「目が怖いのよ。
まるで人の心の奥まで見透かしてるみたいで……。
気をつけなさい。
食べられちゃうわよ?」
「それ、言い訳にしか聞こえないんだけど!」
ルカが大声で笑う。
そして突然、アサへ飛びかかり、脇腹をくすぐり始めた。
「きゃっ! ちょっと、ルカ! やめなさい!」
「ほらほら、白状しなよ!」
「やめてってば!」
二人の少女は、人気のない坂道を駆けていく。
澄みきった笑い声が、穏やかな夕暮れの街に響き渡った。
二人はまだ知らない。
この日の朝。
一人の少年と偶然出会ったことが――
やがて自分たちの人生そのものを大きく変えてしまうことを。
至高者の意識の一部を宿した少年。
天才的な推理力を持つ、一人の十五歳。
そして、彼の前に現れた二人の少女。
この何気ない出会いこそが、やがて彼女たちを、恐ろしい事件と、光の届かぬ秘密が渦巻く世界へと引きずり込む――
数々の戦慄すべき事件と、常識では決して触れることのできない真実へ至る物語。
その長い物語の、最初の一歩だった。




