Episode 31
ソン帝府の奥深くにある、陰鬱な寝宮。そこでは闇そのものが凝縮され、手を伸ばせば触れられるのではないかと思えるほど濃密に淀んでいた。
ゲンソン・ジェスダは、己の胸元に流れ落ちていたリリスの燃えるような赤い髪を、そっとほどいた。
そして静かに寝台から降りる。
漆黒の長衣の裾が、冷え切った石床へ音もなく滑り落ちた。
リリスはなおも深い眠りに沈んでいた。
その呼吸は穏やかで、唇にはかすかな微笑みさえ浮かんでいる。まるで、幾千年にも及ぶ戦いの果てに、ようやく甘美な夢の中へ身を委ねたかのようだった。
ゲンソンは寝台の傍らに立ったまま、細く長い指をわずかに掲げ、虚空へそっと触れる。
その瞬間――
彼の瞳が、変貌を始めた。
瞳孔に宿っていた通常の光が完全に消え失せる。
その代わりに浮かび上がったのは、宇宙の法則そのものが捻じ曲がるような、おぞましくも壮絶な変化だった。
ゲンソンの眼窩の奥深くで、二つの虚無の渦がゆっくりと回転し始める。
一つは、無数の世界の終焉そのものを思わせる深紫。
それは、永遠の源流から湧き出る燦然たる黄金と絡み合い、互いを吞み込みながら脈動していた。
それこそが――
「天幻滅世無極眼」である。
その眼は因果に属さない。
時間にも属さない。
光明の界にも暗黒の界にも、その存在を縛る枷はない。
それは存在という概念の頂点。
全万界を通じて唯一、所有者のいかなる観念であろうとも、それを完全なる現実へと変えることのできる絶対の瞳だった。
ゲンソンの脳裏に、ほんの一片でも思考がよぎれば――
現実そのものが自動的に歪み、創造され、あるいは消滅していく。
印法も、呪文も必要ない。
いかなる仏陀であろうと、魔神であろうと、その瞳を前にすれば、突如として噴き上がる虚無の嵐を前にした一粒の塵に等しい。
ゲンソンは微動だにしなかった。
彼の瞳の中で、紫金の渦が徐々に回転速度を増していく。
空間そのものが引き裂かれるたび、かすかな軋轢音が寝宮の静寂へと響き渡った。
ゲンソンは「天幻滅世無極眼」の至高なる権能を行使する。
彼は、太古の始原より己の身に植え付けられたあらゆる因縁の糸を、一つ残らず追跡した。
記憶の欠片。
因果の連鎖。
心の奥底へと埋め込まれた幻影。
すべてを暴き出す。
幾重にも重なった次元を見通し、現実を覆い隠していた霧を一層ずつ剥ぎ取っていく。
その視線はやがて、東京・渋谷にある小さな店へと辿り着いた。
そして――
一つの冷酷な真実が、容赦なく姿を現した。
あまりにも剥き出しで、あまりにも残酷な真実だった。
ゲンソンの心臓が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
――「井上清美」という女も。
――「井上七海」という女も。
かつて幼少期からの親友だった人間など、最初から存在していなかった。
木造の家に響く笑い声。
甘くとろけるようなドラ焼き。
一面の銀世界へ変わった冬の日々。
ゲンソン自身が、幾度生まれ変わっても決して失いたくないと信じていた、あの温かな記憶。
それらすべては――
あらかじめ仕組まれた、巨大な因果幻影の網だった。
二人の人間の少女は、完全に見知らぬ駒に過ぎない。
彼女たちは何者かによってゲンソンの軌道へと投げ込まれ、地獄を統べる存在の歩みを引き止めるために利用された。
そして彼を、取るに足りない人間的感情に縛られた存在へと変えるために。
――本当にゲンソンの魂へ踏み込んだ者。
――無数の万劫を数えるほどの歳月を超えて、ただ一人、真の知己、真の心の伴侶と呼ぶことのできた者。
その名は――
紫霞天子。
彼女は、雲海と雪霜の気配を纏う高潔な仙女だった。
玉皇上帝が統べる天庭、その天界に属する存在。
天国――あるいは天界とは、単一の王国などではない。
それは無限に重なり合い、果てしなく交錯する無量の空間階層の総体であり、その数を数えることも、その境界を測ることも、誰一人として成し得ない。
だが――
天界同士の階級構造には、極めて厳格かつ明確な差が存在していた。
最上位に位置する天界。
仏教における西方極楽。
キリスト教における絶対天国――すなわちイエスが統治する聖域。
さらに、ヒンドゥー教とイスラム教における最高位の聖なる領域。
それらは一つへと統合され、独立した「新界」を形成していた。
既存のあらゆる世界を超越し、無限の権能を備えた、唯一無二の領域。
そして――
この「新界」における最大の特徴は、完全に輪廻から解脱していることだった。
そこに住まう者たちは、生・老・病・死という法則に支配されることはない。
時間に摩耗することもない。
宇宙の滅亡そのものさえ超越し、永遠に存在し続ける。
それに対して――
中級天界。
玉皇上帝の天庭。
ゼウスのオリュンポス。
そこには濃密な仙気、神力、そして果てしない豪奢が満ち溢れている。
しかし、その本質は依然として輪廻の渦の中にある。
そこに住む天人や神々は、百万年にも及ぶ寿命を持つことさえある。
だが、「天寿」が尽き、五衰が現れれば――
彼らもまた神聖なる肉体を捨て、より低位の世界へと堕ちていく。
そして、六道輪廻の流転へと再び呑み込まれるのだ。
ゲンソンと紫霞天子が出会ったのは、遥か遥か昔のことであった。
まだ二人が、西方極楽の巨大な蓮華座の麓にて修行する同門だった頃。
彼らは共に説法を聞いた。
共に、心が澄み切っていた静謐な歳月を歩んだ。
互いの眼差しだけで相手の意図を理解し。
一つの思考が生まれるより先に、その想いさえ察する。
終わりなど存在しないと思えるほど長い時間を、二人は共に過ごした。
だが――
ある日。
紫霞天子の天寿が尽きた。
彼女の魂は、中級天界に存在する輪廻の法則によって、徐々に引き寄せられ始めた。
そして――
転生しなければならなくなった。
ゲンソンは、彼女が現代の末法の時代へと転生し、井上家の二人の少女のうちの一人になったのだと、ずっと信じていた。
しかし今日。
「天幻滅世無極眼」の絶対なる光の下で。
彼は初めて悟った。
自分が、徹底的に騙されていたことを。
紫霞天子は、この二十一世紀へ転生などしていなかった。
彼女が生まれ変わったのは、遥か数百年も前。
歴史の中でも古き封建時代。
中国――清朝であった。
そして――
この一連の因果劇を陰から操り。
井上家の二人の少女という幻影を編み上げ。
ゲンソンの精神を欺いた者。
その正体は――
仏陀とイエス。
ゲンソンが最も深く敬い、そして最も強く信頼していた二人の大聖尊だった。
彼らは知っていた。
ゲンソンが「天幻滅世無極眼」を所有していることを。
そして、いずれ彼がすべての真実を見抜くことも。
だが――
彼らは同時に、ゲンソンの致命的な弱点も知っていた。
現在のゲンソンは、絶対なる力を手にしている。
一息の間に万物を破壊し、あるいは再創造することすらできる。
それでも――
その知恵と経験は、無量劫を生き抜いてきた大哲人たちと比較すれば、あまりにも「幼い」。
彼は彼らが何をしたのかを見ることはできる。
だが、その背後にある真の目的。
その遥か先に存在する大計略。
そこまでは理解できない。
まるで――
無敵の神剣を手にした子供が、戦場を支配するだけの力を持ちながら、歴戦の道師たちが繰り広げる戦略の盤面については何も知らないかのようだった。
ゲンソンは、闇の中に立ち尽くしていた。
ゆっくりと目を閉じる。
瞳の中で渦巻いていた紫金の光が、静かに収束していく。
彼はゆっくりと首を後ろへ反らした。
そして――
喉の奥から、小さな笑い声が漏れた。
「フッ……ハハ……ハハハ……」
初めは、ごく小さな笑いだった。
しかし、それは次第に低く、濁り、苦く、そして冷たいものへと変わっていった。
やがて、その笑い声はソン帝府の石壁さえ震わせるほどのものとなる。
それは――
自分が宇宙を統べる者たちの棋盤の上で、偉大なる道化師へと成り果てていたのだと気づいた者の笑いだった。
彼は彼らを敬っていた。
彼らを己の道標と信じていた。
それなのに――
彼らは、ゲンソンが心から抱いていた最も純粋な感情を、己の道具へと変えた。
「……素晴らしい……」
ゲンソンが呟く。
その声には、これまで存在しなかったほどの苛烈な冷酷さが滲んでいた。
「お前たちは、私が未熟だと思っているのか?」
「こんな幻影で、この私の歩みを止められるとでも思っているのか?」
彼は伝音術すら用いなかった。
ただ一念。
それだけで、最高位の死刑宣告を帯びた意志の波動が解き放たれた。
それは人界にいた魔将たちの精神へ、直接流れ込んでいく。
「雷善長夢。黒白無常。」
遥か海の彼方。
巨大な嵐の中で激しく揺さぶられる船――「昇陽号」。
そこにいた三人の魔将は、同時に動きを止めた。
ゲンソンの声が、彼らの頭蓋ではなく魂そのものへと響き渡る。
冷たく。
鋭く。
まるで魂を断ち切る刃そのものだった。
『芝居は終わりだ。』
『井上清美と井上七海は、ただの屑同然の幻影に過ぎない。』
『雷善長夢。直ちに船を離れ、東京へ向かえ。』
『お前の雷罰をもって、あの店を跡形もなく吹き飛ばせ。あの二人の少女も灰燼へと変えろ。一片の残魂すら残すな。』
『黒無常、白無常――お前たちは船に残れ。』
『蓮華生大師と、その者と共にいる子供を始末しろ。』
『我らの前に立ちはだかる者は、すべて消せ。』
最高位の殺戮命令を受けても、雷善長夢には一切の葛藤がなかった。
彼は口元を歪め、冷笑すると、黒白無常へ向かって頷く。
「陛下より命令が下った!」
「俺は先に東京へ向かう! お前たちはここに残って、あの坊主を片付けろ!」
――轟ッ!!
紫黒色の雷光が船室の天井を引き裂いた。
雷善長夢は、凄まじい雷光の一条へと化す。
木造の天井を一瞬で突き破り、荒れ狂う嵐の空へと飛び出す。
激しい風を切り裂きながら――
彼は恐るべき速度で東京へ向かっていった。
同じ頃。
船倉の下層では、黒無常と白無常がゆっくりと立ち上がった。
彼らの身に纏っていた俗世のスーツが、霧のように消え去る。
その下から現れたのは――
冥府の恐るべき判官たち。
黒無常は「札魂榜」を。
白無常は「赤陰球」を手にしている。
二人の真紅の眼差しが、船内にいる蓮華生大師を冷たく見据えた。
大海原で惨劇が始まろうとしている、その一方で――
ゲンソン・ジェスダは、地獄から姿を現していた。
しかし彼は人界へ下ったのではない。
そのまま歩を進め、天界のさらに上――
諸仏と諸聖が住まう「上界天国」へと向かった。
彼の一歩一歩が、空間そのものの境界を引き裂く。
そして、彼の姿が仏陀の西方極楽へ現れた瞬間――
ゲンソンの五感すべてを、極めて奇妙な感覚が覆った。
ここには闇がない。
深淵の身を切るような寒気もない。
血の生臭さも存在しない。
空間全体を満たしているのは、柔らかな黄金の光。
宙に浮かぶ無数の蓮華台から、その光が静かに降り注いでいる。
風の中には、優曇華の花のような清らかな香りがかすかに漂い。
天空から流れる天上の音楽は、まるで心にこびりついた塵のすべてを洗い流してしまうかのようだった。
その静けさ。
その純粋さ。
その安らぎ。
それらは、ゲンソンの魂の最も深い場所へと触れた。
胸の奥に、自然な安堵が芽生えていく。
歓びが広がる。
心が穏やかになっていく。
それは――
地獄を統べる者となって以来、幾多の時代を経てもなお、二度と味わうことのできなかった感覚だった。
まるで――
遠い昔に置き去りにしてきた、懐かしい故郷へ帰ってきた子供のように。
ゲンソンの眼前。
雲海を突き抜けるほど巨大な蓮華座の上に、一人の偉大なる存在が座していた。
仏陀。
その身は静かに禅定へと入り、背後から放たれる後光は無数の小さな太陽のように輝き、幾層もの天界を照らし出していた。
やがて――
仏陀が静かに目を開く。
その眼差しは大海原のように果てしなく広く、絶対的な理解を湛えている。
しかしその奥には、ほんのわずかな哀愁とため息も宿っていた。
「ゲンソン」
仏陀の声が響く。
その音は喉から発せられたものではなかった。
万物の意識そのものを直接震わせるように、威厳と慈悲を同時に伴って響き渡った。
「来たのだな」
ゲンソンは壮麗な虚空の中に立っていた。
黒き皇袍は、周囲を満たす黄金の光と鮮烈な対比を成している。
彼は跪かなかった。
頭を垂れることもしなかった。
ただ、真っ直ぐに仏陀を見つめる。
そして、口元に嘲笑を浮かべた。
「そうです、世尊。」
「私は来ました。」
「そして、あなたとイエスに礼を言いに来たのですよ。」
「二人が大変な労力を費やして用意した、実に見事な芝居でした。」
「渋谷にいたあの二人の少女に関する偽りの記憶……あまりにも現実味があった。」
「もう少しで、本当に私が温かな人間の因縁を得たのだと信じるところでしたよ。」
仏陀は静かにゲンソンを見つめた。
その声は、秋の湖面のように穏やかだった。
「ゲンソン。」
「そなたは天幻滅世無極眼を所有している。」
「万物を見ることができる。」
「だが――諸仏の心までは、まだ見通せぬ。」
「我らがそなたの精神へあの幻影を植え付けたのは、そなたを騙すためでも、破滅させるためでもない。」
「冥界へ満ち溢れる殺気を、少しでも和らげるためだ。」
「そなたは今、雷善長夢と黒白無常へ命を下し、罪なき生命を殺そうとしている。」
「ゲンソンよ。」
「これ以上、殺生を続けてはならぬ。」
ゲンソンは鼻で冷たく笑った。
その瞳に、凶暴な紫光が一瞬閃く。
「罪なき者だと?」
「世尊。」
「私は自分の眼で、井上清美と井上七海、その二人の命運を見た。」
「生死簿に記された彼女たちの人間としての寿命は、そもそも今年の冬には尽きることになっていた。」
「ならば私は、ただ少し……」
「その時期を早めただけだ。」
「苦しみに満ちた人の世から、彼女たちを解放してやったに過ぎませんよ。」
仏陀は静かに首を横へ振った。
柳の枝から一滴の露が落ちる。
その雫が虚空へ触れた瞬間、黄金の波紋が無数に広がった。
「それは、堕ちた心が生み出した詭弁だ。」
「そなたは運命を持ち出し、自らの残酷さを正当化しているに過ぎない。」
「もう一度、自分自身を見つめ直すがよい。」
「最初の悟りへ帰れ。」
「本来の使命へ帰れ。」
「世界を統べ、秩序を維持するという自らの務めを果たせ。」
「憎しみと絶滅の道へ、これ以上深く沈んではならぬ。」
仏陀はゲンソンの瞳を深く見つめる。
その声は、より切実なものとなった。
「そなたの内側には――」
「たとえ魔王の鎧を纏おうとも。」
「絶対的な破壊の力を手にしようとも。」
「慈悲の種は、決して消えてはいない。」
「それこそが――」
「かつてこの世界で修行していた頃、そなたが持っていた最大にして最も偉大な力なのだ。」
「今のそなたの能力は、確かに絶対だ。」
「だが、理性と知恵は深刻なまでに衰えている。」
「そなたは、かつての聡明さを失ってしまった。」
「傲慢さと裏切られたという感情に、心そのものを引きずられているのだ。」
仏陀の言葉は、巨大なエネルギーの鉄槌となってゲンソンの精神を打ち据えた。
彼の身体が、ぴたりと止まる。
――知恵が衰えている?
――慈悲こそが、最も偉大な力だと?
違う。
そんな哲理など、もう聞きたくなかった。
真実は――
自分が裏切られたこと。
真実は――
唯一無二の知己が、暗黒の時間の流れへと投げ捨てられたこと。
それだけだった。
「慈悲、だと?」
ゲンソンは苦く笑った。
その眼差しは、狂気すら孕むほどに強固な決意へと変わっていた。
「世尊。」
「その慈悲は、万界のために残しておけばいい。」
「私は、もう必要としていない。」
「もし本当に、私の因縁が誰かによって弄ばれていたというのなら――」
「ならば、私自身の手で。」
「徹底的に断ち切る。」
ゲンソンが、一歩前へ踏み出した。
その瞬間――
上界天国全体が激しく震え始める。
彼の肉体から噴き上がった魔気の圧力が、空間そのものを歪ませる。
「私は時間の流れを逆行する。」
「中国の清朝へ戻る。」
「そして――」
「紫霞天子を見つけ出す。」
「彼女こそが、今なお残されている唯一の存在だ。」
「私との真実の記憶と、真実の因縁の糸を抱えている。」
そして――
ゲンソンは一言一言を噛み締めるように宣言した。
「私は、この手で――」
「彼女を始末する。」
その言葉は、上界天国において異端の雷鳴のように炸裂した。
ゲンソンは仏陀を真っ直ぐに見据えた。
その瞳は氷のように冷たい。
「この手で彼女を消し去れば――」
「私の精神をこの世に繋ぎ止めている最後の因縁の糸も、永遠に断ち切られる。」
「もう何も残らない。」
「誰も残らない。」
「たとえあなたであろうと。」
「たとえイエスであろうと。」
「感情や因果などを使って、このゲンソン・ジェスダを縛り、操ることは二度とできない。」
仏陀は、静かにゲンソンを見つめていた。
その瞳には、極限まで深い悲哀が滲んでいる。
しかし――
仏陀は手を出さなかった。
止めようともしなかった。
なぜなら知っていたからだ。
天幻滅世無極眼を持つ存在が、一度悲劇への道を歩むと決意したならば――
外部からの干渉は、ただ悲劇そのものを、より凄惨なものへと変えるだけなのだと。
「それが、そなた自身の選択だというのなら……」
仏陀は目を閉じた。
深い吐息が漏れる。
「行くがよい、ゲンソン。」
そして、静かに続けた。
「だが、覚えておくのだ。」
「自らの因縁を、自らの手で消し去ることの代償は――」
「どれほど絶対的な力をもってしても埋めることのできぬ、果てなき空白だ。」
ゲンソンは答えなかった。
彼は背を向ける。
空間を引き裂き、壮麗なる上界天国を後にする。
そして再び――
地獄。
ソン帝府の暗黒へと身を投じた。
ゲンソンの身体が、冷たい石床へ静かに降り立つ。
静寂が寝宮全体を包み込む。
広大な寝台の上では、リリスがなおも深い眠りに落ちていた。
絶世の美貌を誇る魔王妃は、夫が天界で下した凄惨にして狂気じみた決断など、何一つ知る由もない。
ゲンソンは寝台へ歩み寄った。
リリスを見下ろす。
冷たい手を伸ばし、彼女の頬を撫でようとする。
だが――
その手は、途中で止まった。
虚空に浮いたまま、微動だにしない。
彼の胸の内には今――
広大で、果てしなく、冷たい空白が広がっていた。
まるで、底なしの闇そのもののように。
その時――
寝宮の最も奥。
濃密な闇に覆われた一角から。
そこには、幾千もの劫にわたり封印され続けてきた古代の石門があった。
その扉の向こうから――
一つの足音が、静かに響いた。
軽やかな歩み。
しかし、その一歩一歩には、空間そのものさえ押さえ込むような絶対的な威圧感が宿っていた。
カツ……。
カツ……。
次の瞬間――
誇り高く、古く、そして高貴なる聖気が溢れ出した。
それは銀葉菊を思わせる香りと、オリュンポスの頂点に君臨する女王の威厳を伴っていた。
聖気はゆっくりと地獄を満たし、毒々しい魔気を押し退けていく。
ゲンソンがわずかに身を震わせた。
そして、素早く振り返る。
闇の奥から姿を現したのは――
一人の偉大なる女だった。
彼女は、太陽の光そのものから織り上げられたかのような、燦然たる黄金の王衣を纏っている。
プラチナブロンドの髪は高く結い上げられ、その上には翡翠の王冠。
深い海を思わせる碧き瞳には、誇りと至高の権力が満ちていた。
その肌から放たれる光輝は、まさに至高神のもの。
千年にも及ぶ長き閉関修行を終え、己の神力を完全に統合・強化したばかりの女神だけが持つ、圧倒的な神聖の輝きだった。
彼女こそ――
ヘラ。
オリュンポスの女王。
そして同時に、ゲンソン・ジェスダが娶った、偉大にして強大なる妻の一人でもある。
ヘラは、ゲンソンから五メートルほど離れた場所で足を止めた。
鋭い眼差しが、まず寝台の上で眠り続けるリリスへと向けられる。
それからゆっくりと――
殺気と疲労の色を浮かべた夫の顔へと戻された。
ヘラの艶やかな唇が、わずかに吊り上がる。
そこには、意味深げな微笑が浮かんでいた。
そして――
神聖なる響きを帯びた、威厳に満ちた声が、静寂に包まれた寝宮へと響き渡る。
「随分と久しぶりね、私の夫……」
「私は今しがた閉関から出たばかりなのだけれど――」
「どうやらあなたは、つい先ほど、とてつもなく狂気じみていて……血塗れの決断を下したようね?」
大海原の彼方では、狂おしいほどの暴風雨が吠え狂っていた。
荒れ狂う黒雲と怒涛の狭間で、昇陽号の船内には、濃密な冷たい殺気が充満していた。まるで空気そのものが、目に見えぬ圧力によって押し潰されているかのようだった。
その遥か数千里先――
豪雨に濡れる東京では、すでに「処理」が終わっていた。
雷罰大将――雷善長夢。
彼は、ただ虚空へ一本の「永遠紫雷」を落としただけだった。
それだけで、渋谷に存在していた小さなパン屋は、まるで最初から存在しなかったかのように歴史の彼方へと消え去った。
井上清美と井上七海も、自分たちの身に何が起きたのか認識する暇すらなかった。
二人の肉体も、魂も、記憶も――
すべてが瞬時に塵となり、灰となり、完全なる虚無へと還された。
ゲンソンの冷酷な命令どおり。
――現実という名の地図から、跡形もなく消し去られたのである。
バリィッ!!
海上を覆う黒雲を、一条の雷光が真っ二つに引き裂いた。
次の瞬間。
黒いスーツ姿へと擬態した雷善長夢が、激しく揺れる昇陽号の甲板へと舞い降りた。
彼は腕を組み、深紫色の瞳に凶暴な電光を燃え上がらせながら、黒無常と白無常の傍らへ立つ。
「……終わったのか?」
黒無常――范無救が、低く掠れた声で問いかけた。
その手には、冷たい黒気を噴き出す喪魂棒が握られている。
「跡形もない」
雷善長夢は答えた。
唇には、冷たい嘲笑が浮かんでいる。
「欠片一つ残さず消し飛ばした。あの二つの幻影の駒は、虚無へ戻ったというわけだ」
そして――
彼は視線を正面へ向けた。
「さて……次は、あの大師だ」
三人の強大な地獄の魔将を真正面から前にしても――
蓮華生大師は、激しく傾く船上でなお毅然と立っていた。
片腕では、花春をしっかりと抱き寄せている。
十歳の少女は身体を震わせながら、般若心経を胸元へ強く抱き締めていた。
もう一方の手を胸前へ掲げ、平和印を結ぶ。
蓮華生大師の全身を包むように、清らかな黄金色の光輪――極楽仏光――が一気に爆発した。
それは黒白無常から漂う陰気の霧を、容赦なく押し返していく。
だが――
大師の額には、すでに細かな汗が浮かんでいた。
彼は仙智を備え、広大無辺の神通力を持つ大師である。
しかし、三人の冥府魔将が繰り出す凶悪極まりない魔術を防ぎながら、同時に全身の護体仙気を割き、花春というか弱い凡人の少女まで守らなければならない。
その負担はあまりにも大きかった。
明らかに、彼は劣勢へ追い込まれている。
「蓮華生大師……」
白無常――謝必安が、怨嗟を帯びた声で呟いた。
血のように赤い長い舌が、歯の隙間からぬるりと伸びる。
その手に握られた赤陰陽が、甲高い音を響かせた。
「あなたほどの仏界の悟者が、なぜそこまで頑なに、一冊の生死簿に名を刻まれた凡俗の命を守ろうとするのです?」
「我らが陛下はすでに裁定を下された。すべては自然と因果に従うべきなのだ!」
「南無阿弥陀仏……」
蓮華生大師は、静かで穏やかな声を返した。
三人の魔将を見るその眼差しには、怒りではなく哀れみがあった。
「因果とは、心識が営む流れそのものだ。」
「お前たちが殺戮を撒き散らすための口実ではない。」
大師は腕の中の花春へ一瞬視線を落とす。
「この子には、無量なる仏縁がある。」
「その命は、まだ終わる時ではない。」
「何だと……!?」
黒無常が冷たい咆哮を上げた。
「ならば見せてもらおう!」
「この一撃を、どう受ける!」
雷善長夢が一歩踏み出した。
その瞬間――
全身を包んでいた雷電が一斉に爆発する。
紫黒の雷光が、黒白無常の魔気と融合した。
凄まじい圧力が船内全体を押し潰し、甲板が悲鳴を上げる。
三人の魔将は知っていた。
今の蓮華生大師に残された唯一の弱点。
それは――
腕の中にいる少女だった。
「謝必安! 范無救!」
雷善長夢が叫ぶ。
「――あの技を使え!」
右手を高々と掲げる。
その掌中に、巨大な紫色の雷槍が形成されていく。
黒無常と白無常は互いに一瞥を交わした。
そして同時に頷く。
二人の身体が空中へ跳ね上がる。
黒と白――二色の魔気が互いに絡み合い、凄まじい陰陽の渦を形成していく。
空間そのものを震わせる、冥府判官の合撃奥義。
――「幽冥輪廻誅魂斬」!!
ギシィッ!!
バキィッ!!
陰陽の魔気によって形成された渦が、空間を貫いた。
それは蓮華生大師の護体金光を、正面から引き裂く。
しかし――
狙いは大師そのものではなかった。
凄惨極まりない殺気は、途中で不自然に軌道を曲げた。
そして――
まっすぐに、花春の小さな胸へと突き進む。
「花春!!」
蓮華生大師の顔色が変わった。
生死を分ける一瞬。
彼は咄嗟に身体を翻した。
そして、全身の背中を盾にして――
少女を庇った。
ドォォォン!!
凄まじい爆発音が海上へ轟き渡る。
蓮華生大師の背中から黒煙が噴き上がった。
口元からは鮮血が流れ落ちる。
だが――
事態は、それだけでは終わらなかった。
「幽冥輪廻」の力は、あまりにも異質だった。
それは単なる物理的破壊力ではない。
魂そのものを貫く、輪廻の波動だった。
蓮華生大師がほとんどの衝撃を引き受けたにもかかわらず――
一筋の幽冥の殺気だけが防御をすり抜けた。
そして、それは花春の心臓を真正面から貫いた。
「……っ」
少女の身体が、かすかに震える。
その手から般若心経が滑り落ち、甲板へ静かに転がった。
花春は透き通った瞳をゆっくりと開き――
自分の師を見上げた。
苦痛に満ちていた人間の表情が、次第に消えていく。
代わりに――
不思議な光が、彼女の身体の奥から静かに溢れ出した。
少女の身体が徐々に薄くなっていく。
肉体が光へ変わり。
そして、淡い黄金色の魂の粒子へと解け始めた。
「し……師匠……」
花春の声は、嵐の轟音にかき消されそうなほど弱々しかった。
「もう……痛くないよ……」
「私……見える……」
「あの光る道の向こうに……おばあちゃんが立ってる……」
少女は、かすかに微笑んだ。
「私……やっと……般若心経が……わかった……」
「花春……」
蓮華生大師は、消えゆく弟子の身体を両腕で抱き締めた。
その頬には、一筋の涙が伝っていた。
哀しみ。
慈しみ。
そして、失われゆく命への深い慈悲。
だが――
黒白無常の一撃は、花春の魂そのものを破壊したわけではなかった。
輪廻の力を用いて、少女の「現世」という一つの生を強制的に断ち切ったのだ。
そしてその魂を――
そのまま転生輪へと送り込んだ。
やがて弟子の魂が完全に虚空へ溶け、新たな生へ向かったことを確認すると――
蓮華生大師は静かに目を閉じた。
そして再び目を開く。
そこには、もう悲しみはなかった。
代わりに宿っていたのは――
一人の大師が持つ、極限まで研ぎ澄まされた威厳だった。
「……お前たちは。」
低い声が海上へ落ちる。
「私に、これを使わせたな……」
蓮華生大師は胸元へ手を入れた。
そして一冊の経典を取り出す。
それは眩い後光を放つ「真経」。
彼が人界へ降りる以前――
仏陀自らより授けられた、至高の仏経だった。
シュアッ!!
真経が開かれた瞬間――
至高にして至善なる光が爆発した。
永遠仏光。
その輝きは、夜の海を覆っていた暗雲すら一瞬で照らし出した。
轟き狂っていた大嵐が、一瞬にして消え去る。
海面が鎮まり。
風が止まり。
黒白無常の魔気が完全に霧散した。
雷善長夢でさえ、あまりの清浄なる光に耐え切れず、腕で目を覆いながら顔を歪め、後退する。
そして――
その黄金の光の中で。
蓮華生大師の姿もまた、空間そのものとともに薄れていった。
彼は自らの痕跡さえ残さず――
地獄の手が届かぬ、遥か遠い世界へと転移していったのである。
その時だった。
三人の魔将の精神へ、冷え切った声が直接響いた。
――ゲンソン・ジェスダ。
『もういい。』
『お前たちは全員、ただちにソン帝府へ戻れ。』
◇ ◇ ◇
ソン帝府――地獄。
その壮麗なる寝宮には、今や異様なほどの荘厳さと神聖さが満ちていた。
そこに立つのは、ゲンソン。
その傍らには、目を覚ましたばかりのリリス。
そして――
閉関修行を終え、オリュンポスの頂点より帰還した女王、ヘラ。
雷善長夢、黒無常、白無常の三人は大殿の下で跪き、蓮華生大師が真経を用いて逃亡したこと、そして少女・花春の魂が輪廻へ入ったことを報告していた。
ゲンソンはただ静かに頷くだけだった。
罰する言葉は、一つもない。
やがて彼は軽く手を振った。
「下がれ。」
それだけで三人の魔将は一礼し、宮殿の外へ退いていった。
大殿に残ったのは――
三人。
ゲンソン。
リリス。
そしてヘラ。
静まり返った寝宮の中で、ヘラが一歩前へ出た。
彼女はそっとリリスの細い手を握る。
そして、深い理解を湛えた眼差しでゲンソンを見つめた。
「あなた。」
ヘラの声は穏やかでありながら、王者の威厳を帯びていた。
「私は閉関修行を終えた。」
「でも、それはまだ始まりに過ぎないわ。」
「ここへ戻ってきたのは――」
「リリスとあなたに、一つの伝言を届けるためよ。」
リリスが不思議そうにヘラを見上げる。
「お姉様……伝言って?」
ヘラは優しく微笑んだ。
その瞳には神光がきらめいている。
「リリス。」
「どうして私たちが傍にいるというのに、あなたの夫――ゲンソンがいつも孤独を感じているのか、考えたことはある?」
「それはね――」
「あなたの夫の力が『無極』だからよ。」
「絶対そのもの。」
「この世界に存在する、いかなる尺度でも触れることのできない絶対的な力。」
ヘラは一度、ゲンソンへ視線を向けた。
「私たちの今の肉体も、魂も。」
「たとえ私が地獄の女王であろうと、リリスが魔界を統べる女王であろうと――」
「ゲンソンの至高なる力の規模から見れば、まだあまりにも小さい。」
そしてヘラは、さらに言葉を続けた。
「それは私やリリスだけではないわ。」
「あなたの他の妻たちも同じ。」
「さまざまな神話。」
「さまざまな天界。」
「そして、さまざまな宇宙。」
「そこにいるあなたのすべての妻たちは、今まさに至高の閉関修行へ入っている。」
ゲンソンの眉が、わずかに動いた。
「……何のために?」
ヘラは静かに答えた。
「私たちは今、宇宙で最も古い秘法の一つを修めているの。」
「最も古い……秘法?」
ゲンソンが僅かに眉を寄せる。
ヘラは力強く頷いた。
「そう。」
「そして、私たち全員が至高の力の境界へ到達した時――」
「私たちすべての魂、本質、そして権能は、一つへと融合する。」
「唯一無二の――」
「不敗の存在へ。」
その言葉が、寝宮に静かに響いた。
「その融合体が誕生した時にのみ。」
「初めて、完全なる力を得ることができる。」
「ゲンソンと釣り合い。」
「あなたを支え。」
「あなたと肩を並べ。」
「あなたの力に押し潰されることなく、永遠の道を共に歩むことができるのよ。」
リリスは黙ってその話を聞いていた。
そして――
その紅い瞳の奥で、激しい決意の炎が燃え上がった。
彼女は理解した。
このままここに留まり。
甘えて。
守られるだけの小さな妻であり続けるなら――
自分は永遠に、ゲンソンの足手まといでしかない。
「ヘラお姉様……」
リリスはヘラの手を強く握り締めた。
「分かった!」
「私も修行へ行く!」
「私も、あの不敗の存在の一部になりたい!」
「そして――」
「本当の意味で、ゲンソンの隣に立ちたい!」
やがてリリスはゲンソンへ振り返った。
その瞳には、狂おしいほどの愛情が宿っている。
だが同時に――
避けられない別れの痛みも滲んでいた。
彼女には分かっていた。
ここから先、ゲンソンが歩む道。
清朝へ時を遡り、紫霞天子との因縁を断ち切ろうとする旅。
その道を――
彼は一人で歩まなければならない。
「ゲンソン……」
「私の夫……」
リリスは彼へ歩み寄った。
そして両腕を伸ばし、その首へ抱きつく。
背伸びをして――
唇を重ねる。
深く。
熱く。
離れがたい想いを込めて。
魔王妃の頬を、一筋の涙が滑り落ちた。
その涙は、彼女の唇を濡らす。
甘く――
そして、胸が締め付けられるほど苦かった。
「……私を待っていて。」
リリスは唇を重ねたまま囁く。
「私が戻ってきた時には――」
「私は、あなたに相応しい最高の女になっているから。」
その時、ヘラもまた二人へ近づいた。
そしてゲンソンとリリスの二人をまとめて抱き締める。
彼女は首をわずかに傾け――
ゲンソンの頬へ、優しく、それでいて王妃としての厳かな気品を湛えた口づけを落とした。
「行ってらっしゃい、あなた。」
「あなたが成すべきことを、最後まで果たしてきて。」
「孤独を恐れる必要なんてないわ。」
「私たちは、いつだってあなたの後ろにいる。」
シュアッ!!
ヘラはリリスの手を握った。
二人は同時に、古代より伝わる継承陣を起動させる。
紫黒の光と黄金の光が複雑に絡み合いながら、一柱の巨大な光の奔流となって二人の絶世の美女を包み込んでいく。
一瞬だった。
二人の姿は、至高の閉関修行の領域へと消えていった。
残されたのは――
完全なる静寂。
あまりにも静かで。
あまりにも深く。
逆に恐ろしいほどの静寂だった。
ゲンソンは、一人。
広大な空間の中央に立ち尽くしていた。
黒き皇袍の裾が、かすかな風に揺れている。
彼は、自分の両手を見つめた。
そこにはまだ――
リリスの唇の温もりが、微かに残っているような気がした。
だが。
その温もりさえも、やがて消えていく。
そして再び――
底知れぬ孤独が、魔王の魂を覆い尽くした。
カチャ……
大殿の扉が開く。
雷善長夢が中へ入ってきた。
彼は片膝をついて冷たい石床へ跪く。
その後ろには、黒無常と白無常。
雷善長夢は顔を上げた。
見上げた先には――
広大な大殿の高みに、ただ一人立つ君主の姿。
彼は、絶対的な忠誠と敬意を込めて口を開いた。
「陛下……」
「女王陛下たちは修行領域へ入られました。」
そして、一拍置いて。
「これより……」
「我らは何をすべきでしょうか?」
「次に陛下が歩まれる道は、いかなるものなのか。」
「どうか――」
「御命令を。」




