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Episode 30

挿絵(By みてみん) 十二月の雪が、東京・渋谷の空からはらはらと舞い落ちていた。白銀の帳は、喧騒に満ちた大交差点と、絶え間なく明滅を繰り返す東京のネオンを一面に覆い尽くしている。


 肌を刺し、骨まで凍てつかせるような寒気の中、慌ただしく行き交う人々の白い吐息が宙へと立ちのぼり、車のクラクションや巨大な広告スクリーンから流れ出す電子音楽と複雑に絡み合っていた。


 そんな賑わいから完全に隔絶された、表通りから枝分かれした細い路地の奥に、一軒の木造店舗がひっそりと佇んでいた。昭和時代を色濃く残す、どこか懐かしい造りの店である。


 入口に掛けられた暖簾には、「井上」という文字が染め抜かれており、雪混じりの風に激しくはためいていた。


 引き戸のわずかな隙間からは、温かく、複雑で、どこか人を惹きつける香りが絶え間なく流れ出している――。


 濃厚な乳製品とバターをふんだんに使ったヨーロッパ菓子の甘美な香り。


 どら焼きの中でことことと煮詰められた小豆餡の、濃密な甘さ。


 鉄板の上でじゅうじゅうと焼かれるたこ焼きから漂う、香ばしい醤油の匂い。


 そして豚骨と削り節の出汁を長時間煮出した、芯まで染み渡るような濃厚なラーメンスープの香り。


 それらが奇妙なほど調和し、古びた小さな食堂を包み込んでいた。


 狭苦しいながらも、タイルの隙間に至るまで清潔に保たれた厨房の中で、井上清美は額に滲んだ汗を手の甲で素早く拭い、顔にかかった乱れた前髪を分けた。


 彼女は慎重に丸々と焼き上がった黄金色のたこ焼きを一つずつトングで挟み、皿へと移していく。そこへ濃い茶褐色のソースをたっぷりとかけ、マヨネーズを添え、熱気に煽られて踊るかのように揺れる鰹節をひと掴み振りかける。


「七海! 四番テーブル、たこ焼き二人前と、大盛りの醤油ラーメン一杯! 急いで! お客さんが待ってるでしょう!」


 清美の声が厨房に響く。だが、それは油の弾ける音と食器が触れ合う甲高い音にかき消されそうになっていた。


 菓子を並べたカウンターの向こうでは、井上七海――左右に結んだ髪をぴんと跳ねさせた妹が、焼き上がったばかりのマカロンを載せたトレイを慌ただしくテーブルへ置き、そのまま小走りで駆けてきた。


「分かってるってば! お姉ちゃん、そんなに急かさなくても、私の手は二本しかないんだからね! 阿修羅みたいに六本もあるわけじゃないんだから!」


 七海はぶつぶつと文句を言いながらも、その手は決して止まらない。


 熱々の料理を載せたトレイを器用に抱え、満席の狭い通路をすり抜けていく。


「大変お待たせいたしました! どうぞごゆっくりお召し上がりください!」


 清美は小さく息を吐き、忙しなく働く妹の背中を見つめてから、厨房の隅へと視線を向けた。


 そこでは、二人の祖母が柔らかなクッションの敷かれた椅子に腰掛け、しわが刻まれ、薄茶色の老人斑が浮かんだ両手で、どら焼きの生地を作るための塊をゆっくりと捏ねていた。


 この店は、祖母が一生をかけて築き上げてきた、まさに人生そのものだった。


 しかし、長い年月は老いた女性から少しずつ生気を奪い去っていた。


 歳を重ねた身体は、冬になるたび関節が痛み、自由に動くことさえままならなくなっている。


 祖母が心血を注いできた店が消えていく姿を見たくなかったからこそ、清美と七海は自分たちの多くの私的な予定や夢を後回しにし、袖をまくって店を手伝うようになった。


 そうして二人は、小さな昔ながらの食堂を、渋谷一帯で評判の、夜になるほど人が集まる温かな憩いの場へと変えていった。


 とりわけ、夜の帳が下り、冬の雪が降り始める頃になると、この店はひときわ多くの客で賑わった。


「清美……」


 祖母が、乾いた咳に途切れながら静かに声をかける。


「二人とも、本当にご苦労さまだね……。ここはおばあちゃんが生地を捏ねるから、あんたは少し休んできなさい」


「おばあちゃんは、そこに座ってて!」


 清美は振り返った。


 声にはやや苛立ちが滲んでいたが、その瞳には隠しようもない深い心配といたわりが宿っている。


「これ以上無理して生地なんか捏ねたら、明日は私が店を閉めちゃうからね。私と七海でちゃんとやれるんだから。何も心配しなくていいよ」


 ――東京から幾万もの次元を隔てた彼方。


 現実という境界の幕の向こう側では、地獄の尊帝府が、なおも永遠の闇に沈んでいた。


 黒曜石のような漆黒の玉座に腰を預け、ゲンソン・ジェスダは細く長い指で、玉座の肘掛けを断続的に叩いていた。


 その眼窩では、宇宙最古にして最も恐るべき力の一つが脈動している。


 それは――「天幻滅世無極眼」。


 無数の世界の始まりと終焉、そのすべての光を宿した、絶対無比の瞳。


 その眼前では、時間も、空間も、物質も、因果律の壁さえも、何の意味も持たない。


 井上家の店。


 清美の額に浮かぶ一滴一滴の汗。


 七海の歩み。


 そして渋谷の窓の外を舞い落ちる雪の一粒一粒までもが、魔王の深淵なる瞳孔の中に、まるで現実そのものを映し出すかのように鮮明に映っていた。


 ゲンソンは、読めない笑みをわずかに浮かべた。


 そして片手を上げ、軽く指を鳴らす。


 ――パチン。


 瞬間、眼前の空間がガラス細工のように砕け散った。


 虚無の中から、雷電の鎧を身に纏った「雷善長夢」と、背筋を凍らせるような二つの影――黒白無常が姿を現し、冷え切った石床へ深々と跪いた。


「陛下がお呼びとあれば、我ら三名、ただちに参上いたしました」


 雷善長夢が、轟雷のごとき声で告げる。


「人界へ下りろ」


 ゲンソンは命じた。


 その声自体は驚くほど軽かった。


 だが、その一言には魂さえ押し潰すような圧力が凝縮されている。


「東京へ向かえ。井上家の二人の娘を探せ。人間の世界へ自然に紛れ込み、あの二人の一挙手一投足を観察しろ。そして、最も自然な形で接触する方法を探せ」


 ゲンソンの瞳がわずかに細まる。


「魔法によって強制することも、彼女たちを傷つけることも、絶対に許さない。あの二人の生活、交友関係、そして周囲に存在する一切の異常について、私はすべてを知る必要がある」


「御意! 陛下!」


 三人の魔将は声を揃えて答えると、たちまち幾筋もの黒い煙へと姿を変え、空間の境界へ溶け込むようにして人界へと向かった。


 やがて、紫色の絹の帳の向こうから、リリスが姿を現した。


 薄衣の寝間着を纏った彼女は、その美しい身体の輪郭と、白磁のように滑らかな肌を惜しげもなく覗かせていた。


 背中にあった蝙蝠の翼はすでに収められている。


 しかし、魔界の女王特有の陰鬱で濃密な魔気は、燃えるように鮮やかな赤い髪の一筋一筋にまでまとわりついていた。


 彼女はゲンソンの背後まで近づくと、その柔らかな両腕を彼の首へ回し、顎を肩に乗せる。


「なぜ、あの者たちを遣わせたのですか?」


 リリスは囁いた。


 吐息には地獄の黒薔薇を思わせる香りが混じり、ゲンソンの耳元をそっと撫でた。


「二人の人間の娘に、深淵を統べる御身が気を留めるほどの何があるというのです? それとも……まさか、あの子たちの美貌が御身の目に留まったのですか?」


 彼女は少しだけ唇を尖らせる。


「どうして御身自ら人界へ降りて、彼女たちに近づかないのです?」


 ゲンソンは低く笑った。


 その穏やかで温かな笑みは、それまで漂っていた威圧的な空気を一瞬にして和らげた。


 彼は手を上げ、リリスの頬をそっと撫でる。


「私が行かないのはな……お前が嫉妬するのが怖いからだよ、可愛い人」


 からかうような、しかし絶妙に優しい声音だった。


「考えてみろ。もし私が自ら人界へ降りて、ただの人間の男を装い、あの二人の美しい娘と親しくなろうとしたら……」


 ゲンソンは口元をわずかに歪める。


「お前、剣を担いで渋谷まで乗り込んで、あの娘たちの菓子店を粉々に切り刻んだりしないか?」


「もう……」


 リリスは頬を膨らませた。


 その瞳には、わずかな反抗心の光が宿っていた。


 しかし、その奥に隠しきれない甘さもまた浮かんでいる。


 彼女はゲンソンの前へ回り込み、その大きな胸の中へすっぽりと収まるように身を寄せた。


 そして頭を、彼の逞しい胸板へ預ける。


「御身は、私をそんなに心の狭い女だと思っているのですか?」


 そう呟きながら、彼女の指先がゲンソンの皇衣に施された黄金の文様をゆっくりとなぞっていく。


「でも……御身なら知っているでしょう?」


「私はいつも考えるのです。御身が私を許し、甘やかしてくださるたびに……私は、私たちが初めて出会った日のことを思い出します」


 リリスはゆっくりと顔を上げる。


「その頃の私たちは、こんなふうに抱き合ってなんていませんでしたよね……。あの時、御身は私の喉元へ剣先を突きつけていた」


 ゲンソンの瞳から、わずかに光が消えた。


 古代の聖戦の記憶が、灰燼の嵐のように脳裏へ押し寄せる。


 あの頃、この穏やかで甘美な時間など存在しなかった。


 当時のゲンソン・ジェスダは、純白の戦甲を眩いほどに纏い、天使軍団の最高指揮官として、光の絶対的な意志そのものを体現していた。


 一方のリリス――闇の女王は、幾億、幾兆、幾京もの悪魔と魔神たちを率い、天を引き裂きながら天界を呑み込もうとしていた。


「……あの戦いでは、天使の黄金の血と、悪魔の黒い血が空を覆っていた」


 リリスは囁いた。


 その声は遠い過去へ引き込まれるように、かすかに震えている。


「御身は、本当に恐ろしかった。まるで希望そのものをすり潰す機械のように、深淵のすべてを踏み砕きながら戦っていた」


「今でも、あの瞬間を鮮明に覚えています。御身がルシファーと対峙した時……」


 かつて「暁の星」と呼ばれ、自らを地獄で最も誇り高き主と称した者。


 それほどまでの存在が、ゲンソンの剣の前では、あまりにも無残に敗れ去った。


「御身は、ただ彼を倒しただけではない……彼の胸を剣で貫き、彼の中に宿っていた原初の暗黒の炎を根こそぎ吸い上げ、残された魂までも、その身へと取り込んだ」


 リリスの指が、わずかに震える。


「そして御身が振り返って私を見た時……その瞳は、もう天使のものではなかった」


 彼女はゲンソンの眼をじっと見つめる。


「そこにあったのは――深淵でした」


 リリスはさらに顔を上げる。


 その問いへの答えをどうしても知りたいという切実な思いが、声を微かに震わせた。


「あの時、私は御身へ飛びかかりました。敗北の復讐を果たすために、地獄の憤怒をすべてこの身に宿して……」


「でも御身は……片手しか使わなかった」


「たった片手で、私の魔剣をへし折り、私の首を締め上げ、戦場の血溜まりへと私を跪かせた」


「そして御身は、裁きの剣を掲げた……」


「剣先と私の喉との距離は、ほんの指一本ほどでした」


「その刃から放たれる光は、私の皮膚を焼き、肉体にまで灼けつくような痛みを与えた」


「私は目を閉じ、処刑の瞬間を待ちました」


「自分が虚無へと消え去る覚悟までしていたのです」


 リリスは乾いた喉を飲み込み、ゲンソンの衣を強く掴んだ。


「でも……その剣先は、決して振り下ろされなかった」


「御身は、止めた」


「武器を捨て、跪き……そして、御身は私を立ち上がらせるために手を差し伸べた」


「天界のあらゆる教義を裏切ってまで、最大の敵である私の命を救った」


 リリスの声が揺れる。


「なぜですか、ゲンソン?」


「その時……御身は、何を思っていたのですか?」


 ゲンソンは沈黙していた。


 尊帝府の大広間から、すべての音が消え失せたかのようだった。


 彼はそっと彼女の顎を持ち上げ、親指で深紅の唇を静かになぞる。


 そこにはもう、嘲笑も、覇者としての傲慢さもなかった。


 ただ、むき出しの誠実さだけがあった。


「本当のことを知りたいのか?」


 ゲンソンの声は低く、わずかに掠れていた。


 一語一語が、静寂に包まれた空間へ落ちていく。


「私の剣が、お前の首へ触れんばかりに近づいた時……正直に言えば、私の精神は、自分の意識そのものが砕け散ってしまうのではないかと思うほど、混乱していた」


「片方には、天界の最高指揮官としての責務と誇りがあった」


「私の足元では、数え切れないほどの天使たちが命を落としていた。彼らの血は、お前への裁きを求めていた」


「頭の中では、こう叫んでいた。剣を振り下ろせ。お前の首を断ち切り、この醜悪な戦争に終止符を打て、と」


 ゲンソンは深く息を吸い込んだ。


 そして過去から押し寄せる鼓動を鎮めるように、静かに目を閉じる。


「だが……」


「私が下を見た時」


「お前の真紅の瞳を見た時だ」


「お前は命乞いをしなかった」


「恐怖の涙を、一滴たりとも流さなかった」


「傲慢だった。憎しみに満ちていた」


「だが同時に……世界そのものから拒絶された者だけが抱える、耐え難いほど深い孤独を、その瞳は宿していた」


 ゲンソンの声が、ほんの少しだけ震えた。


「その瞬間、天使だった私の心に……説明のつかないほど強い哀れみが込み上げた」


「それは、勝者が敗者へ向ける憐憫ではない」


「孤独の頂に立つ、二つの魂が響き合うような感覚だった」


「私は考えた」


「もしお前を殺せば、この光は本当に平和をもたらすのか?」


「それとも私は、感情というものを知らない、空虚な機械へと成り果てるだけなのではないか……と」


 ゲンソンは目を開き、リリスの魂そのものを見通すように、まっすぐ彼女を見つめた。


「私は、お前を殺せなかった」


「それどころか……手にしていた剣が、銀河一つ分の質量よりも重く感じられた」


「そして――あの、忌々しく、混沌として、血に塗れた瞬間の中で……」


「私は気づいてしまった」


「いつの間にか、私はお前を愛していた」


「お前の不屈さを愛した」


「運命そのものに抗おうとする、その在り方を愛した」


「その愛は、死体と灰燼の中から芽吹いた」


「理不尽で、滑稽で、あまりにも馬鹿げたものだった」


「だが……私がこの世に生まれて以来、一度たりとも感じたことのないほど、確かなものだった」


 リリスの目尻に涙が滲んだ。


 魔界の女王の心は、その剥き出しの真実と壮大さに、完全に打ち砕かれていた。


 彼女は身を伸ばし、ゲンソンの首へ強く腕を回すと、彼の肩口へ顔を埋めた。


 声は、極上の幸福に堰を切ったように震えた。


「ゲンソン……私の夫……」


 リリスは嗚咽を漏らす。


「私は本当に……本当に、御身の妻になれたことを幸せに思います」


「もしあの瞬間、御身があの剣を手放してくださらなかったなら……」


「私にとって、この世界は、出口のない暗黒の牢獄でしかなかったでしょう」


 地獄の闇が、時を超えた愛によって静かに照らされている一方――。


 地上の中国、上海港では、現実はもっと剥き出しで、埃っぽく、火薬の匂いに満ちていた。


 海から吹きつける風には、鼻を刺すような塩気が混じっている。


 同時に、港へ停泊する巨大な船舶の煙突から吐き出される濃い煤煙が、辺り一帯を薄暗く包み込んでいた。


 船の汽笛が幾度となく不吉な音を上げ、荷を担いで走り回る苦力たちの怒号、物売りたちの呼び声、そして国際港湾ならではのさまざまな言語による罵声が飛び交う騒々しい空間を切り裂いている。


 そんな混沌とした人波の中を、一人の世俗離れした男が、ゆっくりと歩いていた。


 彼は袈裟と伝統武術の道着を混ぜ合わせたような衣を身に纏い、長い黒髪を簡素な木製の簪で高く束ねていた。


 その瞳は秋の湖のように澄み切っている。


 だが、その奥には名剣のごとく鋭い智慧が宿っていた。


 ――それこそが、チベットより来たりし偉大なる道師、蓮華生(パドマサンバヴァ)である。


 蓮華生の衣の懐には、この世に二つとない貴重な品が隠されていた。


 それは純粋な光そのものを織り上げて作られた、一枚の指示書。


 そこには、仏陀とイエスが自らの手で彼へ託した、至高の啓示が記されていた。


 その聖なる文書は、欲望に満ちた人間界を進む彼の旅路を示す単なる案内図ではない。


 そこにはさらに秘められた陣法が刻まれており、死生の境に追い込まれた際には、その力を起動させることで、彼自身を守る法力を飛躍的に高めることさえ可能だった。


「人の世というものは……瞬きする間に、ここまで変わってしまったのか」


 蓮華生は、正確な標準中国語で独りごちた。


 その視線が、通りを走り抜ける内燃機関の自動車へと向けられる。


 何年もの間、年中雪に覆われたヒマラヤ山脈の峰々で隠遁修行を続けてきた彼にとって、技術と鉄によって生み出されたこの喧騒は、あまりにも異質だった。


 目の前に広がる光景は、彼が瞑想を続けてきた静寂な岩場とは、あまりにかけ離れている。


 だが、彼は決して古寺に閉じこもるだけの浅薄な修行者ではなかった。


 若き日、悟りへ至る以前の彼は、四方八方を放浪し、数え切れないほどの苦難を経験している。


 大陸を横断し、ぼろぼろの帆船で海を越えた無数の旅。


 それらの経験は、彼に並外れた生存能力を与えた。


 そして何よりも、無数の言語を自在に操る力を授けた。


 中国語、英語、日本語、ベトナム語、さらにはスペイン語に至るまで――。


 彼はいずれも、まるで母語であるかのように流暢に話すことができた。


 その能力こそが、人界へ降りた彼が神聖なる正体を露見させることなく、人々の世界へ溶け込むための鍵だった。


 現在の蓮華生の目的は、上海から日本へ向かう船の切符を手に入れ、海を越えることである。


 目的地は日本。


 仏陀から授けられた案内書には、そこに異常なエネルギーが交差する一点が存在すると記されていた。


 倉庫第四区画を通り過ぎた、その時だった。


 蓮華生の足が、突然止まった。


 数十年にもわたり、雪が地面へ落ちる微かな音さえ聞き分けるよう鍛えられた彼の耳が、錆びたコンテナの列と列の間に挟まれた暗い路地から、途切れ途切れに響く音を捉えたのだ。


 それは、か弱い老人の懇願する声。


 その奥からは、幼い子供のすすり泣きが聞こえてくる。


 蓮華生は、僅かに眉を寄せた。


 一瞬たりとも躊躇せず、歩調を速める。


 その姿は、一陣の風のように路地の奥へ滑り込んでいった。


 次の瞬間、彼の静かな瞳に、抑えきれない怒りの光が宿った。


 そこには、三人の粗暴な男たちがいた。


 擦り切れた革ジャケットを身につけた彼らは、痩せ細った老婆と、およそ十歳ほどの子供を湿った壁際へ追い詰めている。


 そのうちの一人が、老婆の手から使い古された布製の巾着袋を乱暴に引き剥がしていた。


 別の一人は老婆の腹部を容赦なく蹴りつける。


 老婆は泥とごみだらけの地面へ崩れ落ちた。


 子供は必死に加害者の脚へしがみつき、涙を流しながら、喉の奥から絞り出すような声で懇願した。


「おじさんたち……それは、おばあちゃんの薬を買うお金なんです……お願いだから、持っていかないで……」


「失せろ、このガキ!」


 チンピラの一人が怒鳴り声を上げた。


 そして、泥で汚れた子供の頬へ、容赦なく平手打ちを叩き込もうと腕を振り上げる。


 ――ヒュッ!


 ――バシッ!


 汚れた手が子供に触れる、その寸前。


 一つの人影が、まるで瞬間移動したかのように現れた。


 蓮華生の手がチンピラの手首を掴む。


 鉄ばさみのように硬い指から伝わった力によって、手首の骨が乾いた音を立てた。


「ぎゃあああっ!」


 男が苦痛に絶叫し、腕をだらりと垂らす。


「白昼堂々、弱い老人から物を奪い、幼子を虐げるか」


 蓮華生の声は冷え切っていた。


 だが、その中国語は一語一語が明瞭で、銅鐘の響きのように鋭く、重かった。


「お前たちは、因果応報というものを恐れないのか?」


 仲間が制圧されたのを見て、残る二人は即座に懐からぎらつく短刀を抜いた。


 歯を食いしばり、一直線に蓮華生へ突進する。


 しかし、蓮華生には微塵の動揺もなかった。


 ここは人界。


 彼は、人間の前で魔法や仙気を用いることを禁じる最高位の法則によって拘束されていた。


 現実の秩序を破壊しないためだ。


 だが、武術の宗師たる彼にとって、この程度の屑どもを制圧するために術を使う必要などなかった。


 ――体術だけで十分だった。


 彼は最初の男の手を放すと同時に身体を捻り、見事な円形の回し蹴りを放つ。


 つま先が空気を切り裂き、鋭い風切り音を響かせた。


 その足は、短刀を手に突進してきた男のこめかみを正確に捉えた。


 ――ドゴッ!


 二人目の男は顔面からコンテナへ叩きつけられ、そのまま意識を失った。


 三人目は恐怖に駆られ、出鱈目に短刀を突き出す。


 しかし蓮華生は、身体を僅かに傾けるだけでそれをかわした。


 次いで二本の指を、男の脇下にある経穴へ鋭く打ち込む。


 男の腕が痺れ、短刀が乾いた音を立てて地面へ落ちた。


 その直後、胸部へ強烈な掌打が叩き込まれる。


 男は地面を転がり、苦痛の呻きを上げた。


 わずか三度の呼吸にも満たぬ間に、屈強な三人のチンピラは、すでに全員が地面へ沈んでいた。


 蓮華生は衣の裾を軽く払い、振り返る。


 そして腰を屈め、老婆の身体をゆっくりと起こした。


「お婆さん、大丈夫ですか?」


 子供はすぐさま老婆へ駆け寄り、その身体を抱きしめる。


 その瞳には、救い主への畏敬と、わずかな恐れが入り混じっていた。


「ありがとうございます……!」


「あなたが、おばあちゃんを助けてくれたんですね……!」


 すべてはこれで終わった――。


 蓮華生が踵を返して立ち去ろうとした、その瞬間だった。


 路地の入口から、耳をつんざくような笛の音が響き渡った。


 そして四方の路地裏から、十数人もの別の暴漢たちが一斉に押し寄せてきた。


 全身に刺青を刻み、手には鉈、鉄パイプ、バールなどを握り締めている。


 先ほどの三人の手下が上げた悲鳴を聞きつけてやって来た、港湾一帯を縄張りとするギャングの構成員たちだった。


「このハゲ野郎!」


 先頭の男が唸る。


「黒龍組の人間に手を出しやがったな!」


「殺せ!」


 十五人ものチンピラが凶器を振りかざし、殺気をむき出しにして狂犬の群れのように突進してくる。


 だが、路地はあまりにも狭い。


 そして蓮華生の背後には、逃げることすらできない老婆と幼い子供がいる。


 蓮華生は眉をひそめた。


 魔法は使えない。


 そのうえ、背後の二つの弱き命を守らなければならない。


 この状況は、明らかに不利だった。


 彼の眼光が鋭くなる。


 その時、袖の中から一本の武器を取り出した。


 二本の硬い木棒を短い鉄鎖で繋いだ武器――ヌンチャクだった。


 ――ヒュッ!


 ――ヒュッ!


 ――ヒュッ!


 蓮華生の手の中でヌンチャクが唸り、幾重もの死の渦となって回転する。


 まるで見えない盾そのものだった。


 それは、老婆と子供の前に鉄壁の防御陣を築き上げる。


 硬い木が鉈や鉄パイプと衝突する金属音が、耳障りなほど鋭く響き渡る。


 一人。


 また一人。


 襲いかかる男たちは、ヌンチャクによって腕の骨を砕かれ、顎を打ち抜かれ、あるいは脚を折られて次々と地面へ叩き伏せられていった。


 蓮華生の身法は、波間を滑る龍のようにしなやかだった。


 無数の刃が飛び交う中でさえ、その衣の裾に一本たりとも触れることはできない。


 だが――。


 混乱が極限に達した、ある一瞬。


 蓮華生が高く跳躍し、最も巨体な頭目へ決定的な一撃を叩き込もうとした、その瞬間だった。


 小柄な一人の手下が、彼が宙に浮いている隙を狙い、地面を這うようにして防御陣の隙間をすり抜けた。


 彼が狙ったのは蓮華生ではない。


 壁際で身体を縮こまらせている老婆だった。


 男の目は血走り、狂気に染まっている。


 手には血のついた短刀。


「死ね、このクソババア!」


 男が咆哮し、勢いをつけて突進する。


「――いけない!」


 蓮華生の瞳が見開かれ、心臓が跳ね上がった。


 彼は空中で必死に身体を捻り、態勢を立て直した。


 手にしていたヌンチャクを男へ向けて投げ放つ。


 しかし――。


 距離と、地上の物理法則による加速度は、奇跡が起こることを許さなかった。


 ――ザシュッ!


 鋭利な金属が、擦り切れた衣服を突き破り、肉体へ深々と沈み込む音が、怒号と悲鳴の渦の中であまりにも鮮明に響き渡った。


 老婆の目が大きく見開かれる。


 老いた身体が激しく震えた。


 チンピラの短刀は老婆の左胸へ突き刺さり、そのまま心臓を貫いていた。


 鮮血が一気に溢れ出し、泥に汚れた衣服の裾を真っ赤に染めていく。


「おばあちゃ――ん!」


 子供の絶叫が響き渡った。


 鼓膜を引き裂くほどの悲鳴。


 そこには、幼い心が耐えられる限界を遥かに超えた絶望が込められていた。


 蓮華生の瞳孔が縮む。


 天をも焼き尽くさんばかりの怒りが、一気に噴き上がった。


 彼は地面へ着地すると、もはや武器には頼らなかった。


 全身の内功を掌へ集め、一筋の稲妻のような速度で男へ突進する。


 ――バキィッ!


 宗師の凄まじい勁力を乗せた正拳が、老婆を刺し殺したばかりの男の胸へ真正面から叩き込まれた。


 肋骨が砕ける不気味な音が響く。


 男の身体は十メートル以上も後方へ吹き飛び、その場で絶命した。


 鼻と口から血が噴き出し、地面を赤く染めていく。


 その凄惨な光景を目の当たりにした残りのチンピラたちは、完全に戦意を喪失した。


 武器を投げ捨て、恐怖の叫びを上げながら、一目散に路地から逃げ去っていく。


 再び、周囲は静寂を取り戻した。


 残ったのはただ一つ――。


 冷たくなりつつある祖母の身体を抱きしめ、泣き崩れる子供の、胸を引き裂くような泣き声だけだった。


 蓮華生はゆっくりと歩み寄る。


 そして片膝をつき、震える手で老婆の胸元にあるいくつかの経穴を押さえ、必死に出血を止めようとした。


 しかし彼には、はっきりと分かっていた……。


 刃はすでに――

 旅客船「あさひ丸」の下層客室は、人間の煙草の煙で白く霞み、むせ返るような汗の臭いと、床下で唸りを上げるディーゼル機関から立ちのぼる機械油の匂いに満ちていた。


 船体の骨組みが、波が舷側を打ちつけるたびに、ギシギシと軋む。


 その音が一定の間隔で繰り返され、どこか陰鬱な調べのように船内へ響き渡っていた。


 人目につきにくい隅の座席に身を置き、蓮華生はゆっくりと隣の子供へ顔を向けた。


 少女の名は花春――本名を陸蓮花という。


 彼女は、擦り切れてぼろぼろになった布張りの硬い木製ベンチに身体を小さく縮めて座っていた。


 小さな手は煤で黒く汚れており、師が掛けてくれた長い外套の裾を、まるで唯一残されたぬくもりであるかのように固く握りしめている。


 花春は揺れ続ける船室の天井を、涙で赤く腫れた目でぼんやりと見上げていた。


 透明な雫が一筋、痩せた頬を静かに伝い、顎先へ集まり、そのまま衣の上へと落ちていく。


 たった一人の祖母を失った痛み――。


 十歳の少女の孤独な人生を最後まで温めてくれていた、唯一の存在を失った喪失感は、幼い心を一秒たりとも休ませることなく引き裂き続けていた。


 蓮華生は胸の奥で、かすかなため息をついた。


 今この子にどれほどありふれた慰めの言葉を掛けたところで、それは耳元を通り過ぎる風に等しい。


 祖母を失った心の底に穿たれた巨大な空洞を、そんな言葉で埋められるはずもなかった。


 蓮華生はそっと袈裟の懐へ手を差し入れ、一冊の古い経典を取り出した。


 灰色の絹糸で綴じられたその経本は、長い年月によって紙が黄色く変色している。


 そこには、古代サンスクリット語と古漢字が鋭い筆致で記されていた。


 それは――蓮華生が雪山で隠遁修行をしていた頃から、常に肌身離さず持ち歩いてきた『般若心経』の手写本だった。


「花春」


 蓮華生は、石の間を流れる清水のような穏やかな声で語りかける。


「これを持って、読んでごらん」


 少女は小さく肩を震わせた。


 涙に濡れた赤い目を師へ向け、それから蓮華生の手にある古びた経典へ視線を落とす。


「師匠……」


 泣き続けたせいで、少女の声は掠れていた。


「これは……何の本なんですか……?」


「私……あまり字を読むのが得意じゃありません。おばあちゃんから教えてもらったのも、買い物に必要な簡単な漢字くらいで……」


「構わない」


 蓮華生は微笑んだ。


 震える小さな手の中へ、そっと経典を渡す。


「まずは開いてごらん。読める文字があれば読めばいい。分からない文字は、その形や墨の跡を眺めるだけでもいい」


「一つ一つの文字に心を向けているうちに――胸の中で燃えている悲しみの炎も、少しずつ和らいでいくだろう」


 当初、蓮華生はこれを単なる気晴らしのつもりで渡しただけだった。


 十歳ほどの子供なら、世俗の世界に生きる他の子供たちと同じように、難解で乾いた古文の羅列を二、三分も眺めれば嫌気が差し、欠伸をし、やがて椅子へ頭を預けて眠ってしまう――。


 彼はそう考えていた。


 しかし。


 次に起こったことは、この偉大なる道師を完全に驚愕させるものだった。


 花春は、まるで至高の宝物を扱うかのように、経典を両手で慎重に受け取った。


 小さな人差し指を表紙のざらついた紙へそっと滑らせる。


 そして最初の頁を開いた。


 船室の薄暗い油灯の下、諸仏の教えを刻み込んだ古い漢字の一行一行が、静かに少女の前へ姿を現した。


 その瞬間――。


 少女の瞳が止まった。


 先ほどまで宿っていた困惑も、苦痛も、恐怖も、少しずつ薄れていく。


 代わってそこに現れたのは、奇妙なほど深く、十歳の少女とは思えないほど研ぎ澄まされた集中だった。


「観……自在……菩……薩……」


 花春は乾いた唇を小さく動かし、一文字ずつ、ゆっくりと読み上げる。


 しかし、その発音は驚くほど正確だった。


 少女は顔を上げ、蓮華生を見つめた。


 その瞳には幼い疑問が満ちていた。


 だが同時に、その奥では知への火がひそかに燃え始めている。


「師匠……『観自在』って、どういう意味なんですか?」


「もしかして……自分自身をちゃんと見つめ直せば、もう怖くなくなる……っていう意味なんですか?」


 蓮華生の心が震えた。


 髭を撫でていた手が、ぴたりと止まる。


 仏教について学んだこともなく、学校で体系的な教育を受けたわけでもない十歳の少女。


 それが、心経の最初の四文字を見ただけで、内面を見つめるという最初の境地へ、自ら辿り着こうとしている。


「お前……その意味が分かったのか、花春?」


 蓮華生の声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。


「えっと……」


 花春は自信なさげに呟きながら、再び指を次の行へ滑らせる。


「『深く般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度す』……」


 少女は顔を上げた。


「師匠、この言葉は……全部の苦しみや涙、それに……おばあちゃんが亡くなったことさえ、最後には空へ消えていく雲みたいなものだって、言っているんですか?」


「もし、すべてのものが『空』だと理解できれば……私は、もう苦しまなくて済むんですか?」


 蓮華生は答えなかった。


 ただ静かに、少女を見つめていた。


 花春は、経文の一文字一文字へ没頭している。


 周囲の騒音も、煙草の臭いも、油と汗に満ちた船室の不快な空気も、彼女の意識にはもはや存在しないかのようだった。


 その瞬間、蓮華生は悟った。


 ――この子は、普通の人間ではない。


 陸蓮花の魂の奥底には、生まれながらにして極めて優れた「霊根」が宿っている。


 その天賦の悟性は、何十年も修行した者ですら、容易には触れられない領域にまで達する可能性を秘めていた。


「そうだ、花春……」


 蓮華生は静かに囁いた。


 その眼差しには、誇らしさと、同時に深い哀れみがあった。


「そのまま読み続けなさい」


「そこに記された一文字一文字が、いつかお前を暗闇の中から照らし出す灯火になるだろう」


 ――しかし。


 蓮華生と花春の間に静謐な哲理の空気が流れている、そのすぐ後ろ。


 薄い一枚の木板を隔てた後部座席では――。


 まるで正反対の光景が繰り広げられていた。


 しかもそれは、緊張感に満ちているくせに、あまりにも馬鹿馬鹿しく、滑稽極まりないものだった。


 漆黒のスーツに身を包み、フェルト帽を深く被って顔の半分を隠した三人の男が、狭いベンチへ窮屈そうに並んでいる。


 彼らこそ――地獄の偉大なる雷罰大将、雷善長夢。


 そして冥府の裁きを司る二人の官吏、黒無常・范無救と白無常・謝必安であった。


 本来、三人は人間のように食物を必要とすることも、呼吸する必要もない魔神である。


 ところが、地上へ潜入するために己の凶暴な魔気を徹底的に押し殺し、巨大な本来の肉体を人間の男ほどの大きさへ縮め、さらに人間の姿を装わなければならなかった。


 そのうえ、凡俗の食べ物の匂いが充満する客室で何時間も座り続けている。


 その結果――実に皮肉な生理現象が、三人の身体を襲った。


 ――グゥゥゥ……。


 ――ゴロ……ゴロゴロ……。


 低く鈍い音が、雷善長夢の腹部から響いた。


 それはまるで、海の彼方で遠雷が唸っているかのようだった。


 白無常が顔を傾ける。


 帽子の影に隠れた目を細め、三人だけに聞こえる魔音で囁いた。


「おい、長夢大将……」


「今、あなたの腹から妙な音が聞こえませんでしたか?」


「まさか、雷罰を落としてこの船室ごと吹き飛ばそうとしているんじゃないでしょうね?」


 雷善長夢の痩せた顔が、恥ずかしさのあまり赤く染まった。


 彼は必死に腹を押さえながら、歯を食いしばる。


「黙れ、謝必安! 俺が知るか!」


「この人間の身体は、本当に面倒だな!」


「さっきから胃が勝手に収縮し続けている……」


 そして屈辱に耐えながら、ぽつりと呟いた。


「……腹が減った」


「何だと!? 腹が減った!?」


 隣に座っていた黒無常がびくりと身体を震わせ、雷善長夢を凝視する。


「あなたは尊帝府の雷罰大将だぞ!」


「かつて千、いや万もの悪鬼の残魂を眉一つ動かさず丸呑みにしたあの方が――!」


「今さら人間のくだらない食べ物ごときで『腹が減った』だと!?」


「お前に何が分かる!」


 雷善長夢は鼻で笑い、空気を嗅ぐように鼻を動かした。


「お前たちには、この匂いがしないのか?」


「厨房から漂ってくる、焼き豚と熱い麺の脂っこくて香ばしい匂いだ……」


「さっきから真っすぐ鼻の奥へ入ってきやがる!」


「はっきり言っておく。陛下からあのふざけた命令を受けていなければ、俺はとっくに厨房へ突っ込み、鍋ごと丸呑みにしているぞ!」


 白無常は、ごくりと唾を飲み込んだ。


 実を言えば、彼自身の腹も、先ほどから小さく鳴り始めている。


 白無常は前方に座る蓮華生の背中をちらりと見やり、声を潜めた。


「なあ……」


「一人くらい、上の客室へ行って食べ物を買ってきてもいいんじゃないか?」


「俺もそろそろ限界だぞ」


「このまま座っていたら、長夢大将の腹の音があまりにも大きくなって、あの坊主に気づかれるぞ!」


「お前、正気か!?」


 黒無常が即座に切り捨てるように言った。


「陛下から我々に与えられた任務は何だ!?」


「この道師の呼吸一つ、一挙手一投足まで監視することだ!」


「我々がここを離れた隙に、もしあの男が何らかの遁術を使って、一瞬で姿を消したらどうする!」


「その時、陛下の怒りを誰が受け止める!?」


「陛下なら我々三人の皮を剥いで提灯にし、尊帝府の門前へ吊るしかねないぞ!」


「皮を剥いで……提灯……」


 その言葉を聞いた雷善長夢の身体が、ぶるりと震えた。


 だが――。


 その直後。


 ――ゴロゴロゴロォォ……。


 腹の音は、先ほどよりさらに大きく鳴り響いた。


 雷善長夢は絶望的な表情を浮かべる。


「だがな……」


「このまま何も食わずに座っていたら、陛下に皮を剥がれるより前に、このくだらない『空腹』とやらで死ぬぞ!」


「考えてみろ」


「三界にその名を轟かせる雷罰大将が、人間界の船の椅子の上で、食事を我慢したせいで餓死したなんて――」


「そんな死に方のほうが、陛下に処刑されるより恥ずかしくないか!?」


 白無常は激しく頷いた。


「その通りだ、范無救!」


「長夢大将のおっしゃることは、実にもっともだ!」


「恥ずかしすぎる!」


「最後の一滴の血まで戦って死ぬならまだしも、空腹で死ぬなど冗談ではない!」


 白無常はしばし考えた末、名案を思いついたように続ける。


「こうしましょう」


「長夢大将は我々の中で一番身体が大きい。だから、大将が食べ物を買いに行くのが一番自然です」


「その間、俺たち二人はここに残る」


「そして、あの坊主の頭頂部を四つの目でじっと監視し続ける」


「一寸たりとも目を離さない!」


「これなら任務を守りながら、腹も満たせる!」


 黒無常はしばらく考えた。


 やがて、懇願するような目でこちらを見る雷善長夢を見て、深いため息をつく。


「……分かった」


「さっさと行ってこい」


「肉の多いものを買ってこいよ!」


「ただし、忘れるな」


「人間として、きちんと振る舞え!」


「絶対に雷を使って料理人を脅すんじゃないぞ!」


「分かってる! いちいちうるさい!」


 雷善長夢は、まるで子供が贈り物をもらったかのように嬉しそうな顔をした。


 そして立ち上がると、皺だらけになった黒いスーツを整え、巨大な身体を狭い座席の隙間へねじ込むようにして、厨房客室へ続く階段へ向かった。


 ところが――。


 雷善長夢が、わずか三歩進んだ、その瞬間だった。


 ――ドォォン!!


 ――バキッ!!


 船体全体が突然、激しく揺れた。


 夜空を映していた船窓の外が、一瞬にして漆黒へと染まる。


 墨を流したような黒雲が海面全体を覆い尽くしていた。


 次の瞬間。


 それまで穏やかだった海上に、これまでに類を見ない巨大な嵐が突然、爆発的に巻き起こった。


 数十メートルにも達する深い青黒色の波が、まるで海の怪物の群れのように次々と立ち上がる。


 そして巨大な船体へ猛烈な勢いで叩きつけられた。


 木造の大型旅客船は波に持ち上げられ、次の瞬間には深い波間へ自由落下する。


 船内の荷物も、食器も、そして乗客たちも、ことごとく床から投げ出された。


「うわああああっ!! 助けてくれ!!」


「船が沈むぞ!!」


「母さん――!! 大嵐だ!!」


 数百人にも及ぶ乗客の絶叫と泣き声が船室いっぱいに響き渡る。


 天井の油灯と電灯が激しく明滅し――。


 やがて次々と破裂した。


 船室は一瞬で、揺れ動く完全な暗闇へと叩き込まれた。


 船の床は四十五度近くまで傾いた。


 食べ物を買いに向かっていた雷善長夢は、足元を奪われる。


 千斤にも及ぶような重々しい身体が木の床を滑り――。


 ――ドゴン!!


 鉄製の壁へ思い切り叩きつけられた。


「ぐおっ……!」


 雷善長夢は、なんとも情けない呻き声を漏らした。


 一方、前方の座席では――。


 蓮華生が瞬時に腕を伸ばし、花春の小さな身体を胸へ抱き寄せた。


 同時に、自身の足を座席へ絡めるように固定し、激しい揺れに耐える。


「師匠!」


 花春は経典を胸に抱いたまま、蓮華生の首へ必死に腕を回した。


「嵐、すごく大きいです!」


「船、ひっくり返っちゃうんですか!?」


 だが蓮華生は、大師としての絶対的な平静を少しも失っていなかった。


 彼は片手で少女の背を優しく撫でる。


 すると、その掌から、人の目には見ることのできない淡い金色の光が静かに広がっていった。


 柔らかな金光は花春の意識を包み込み、膨れ上がっていた恐怖を少しずつ鎮めていく。


「恐れるな、花春」


 蓮華生の低く安定した声は、外で唸り狂う暴風さえ押し返すかのように響いた。


「嵐というものは自然の運行にすぎない」


「人の人生に起こる出来事も、それと同じだ」


「この船は頑丈な木で造られている」


「船頭も、数えきれぬほどの荒波を越えてきた者だ」


「心を乱すな」


「定めの導きに身を委ね、信じなさい」


 その頃、後部座席では――。


 黒無常と白無常が、座席の縁へ両手両足を必死に絡ませ、吹き飛ばされないよう耐えていた。


 黒無常の顔色が変わる。


 彼はこっそりと法印を結び、指先に黒い魔術の炎を灯した。


「くそっ!」


「この忌々しい嵐はいったいどこから湧いてきた!?」


「謝必安!」


「我々も魔術で海の波を封じたほうがいいんじゃないのか!?」


「この腐りかけた木造船が波に粉々にされたら、あの坊主とあの小娘が溺れ死ぬぞ!」


「その時、我々は陛下に何と報告すればいい!?」


 白無常は慌てて手を伸ばし、黒無常の指先に灯った黒い炎を消し飛ばした。


「お前、狂ったのか、范無救!」


「陛下のお言葉を忘れたのか!?」


「『絶対に軽挙妄動するな。蓮華生の前で、わずかな魔気すら露呈させるな』だ!」


「この状況で魔術を放ったら、お前の陰気な魔気が俺たちの正体を一瞬で暴いてしまうぞ!」


 白無常は前方を指差した。


「ほら、あの坊主を見ろ!」


「あいつは仙気を半呼吸ほども使っていないじゃないか!」


「お前が何を焦ってるんだ!」


「だが――この船、もう真っ二つに折れそうだぞ!」


 黒無常が歯を食いしばる。


 彼が窓の外へ目を向ける。


 そこには、巨大な波が、まるで海そのものを覆い尽くさんばかりに迫ってきていた。


 ――その頃。


 大海原で猛威を振るう嵐が、旅客船「あさひ丸」を海底へ引きずり込もうとしている一方で――。


 地獄、尊帝府の深奥。


 そこでは、船上で起きている一切の出来事が、巨大な黒晶石の鏡――「黒晶鏡」の表面へ、一分の狂いもなく鮮明に映し出されていた。


 巨大な鏡は大殿の中央に宙吊りになっている。


 その表面は水面のように静かでありながら、淡い紫色の光を放っていた。


 鏡の中には、荒れ狂う嵐の海で激しく揺さぶられる船。


 花春を庇う蓮華生。


 そして船底で右往左往する三人の魔将たちの、あまりにも情けない姿まで克明に映し出されていた。


 黒い羊毛を敷き詰めた快適な玉座に、ゲンソン・ジェスダは悠然と腰掛けていた。


 暗色の帝衣には金糸の刺繍が施され、長い黒髪は肩へと無造作に流れ落ちている。


 その腕の中にはリリスがすっぽりと収まっていた。


 今や魔界の女王は一切の殺気を収め、素直な妻のようにゲンソンの膝へ腰を下ろしている。


 細く長い両脚は、子供のようにぶらぶらと揺れていた。


 ゲンソンの手には銀皿があり、その上には「雪陵果」と呼ばれる冥界でも極めて希少な果実が盛られている。


 果実からは涼やかな冷気と、甘く芳醇な香りが漂っていた。


 ゲンソンは指先で雪陵果の皮を丁寧に剥き、一つをリリスの赤く艶やかな唇へそっと運んだ。


 リリスは小さく口を開き、差し出された果実へ軽く噛みつく。


 甘い果汁が口いっぱいに広がると、彼女は満足そうに微笑んだ。


 そして首を傾け、燃えるような赤い瞳で黒晶鏡を見つめる。


 やがて彼女は視線を夫へ戻した。


「ねえ、あなた……」


 リリスは甘えるような声を出しながら、ゲンソンの髪を指先でくるくると弄ぶ。


「見てくださいな……」


「海の嵐、とても激しいですよ」


「どう見ても、あの船はあと十分も持たないでしょうね」


「それなのに、雷善長夢と黒白無常ったら……」


「魔術を使うことすら怖がって、馬鹿みたいに溺れ死にそうになっていますよ」


 リリスは鏡の中を覗き込みながら、さらに尋ねる。


「御身は、どうするおつもりなのです?」


「あの蓮華生とかいう道師と、あの子供が海底へ沈んで魚の餌になるのを、何とも思わないのですか?」


 ゲンソンは穏やかに微笑んだ。


 そして再び果実の皮を剥き、妻へ差し出す。


 彼は玉座へ深く身体を預け、宇宙そのものを宿しているかのような深い眼差しで鏡を見つめていた。


「自然のままにしておけ、我が可愛い人」


 その声は静かだった。


 だが、その奥には至高の哲理が宿っている。


「嵐とは、人間界の大気が移動しているにすぎない」


「それに、蓮華生は仏陀とイエスから託された導きを、その身に携えている」


「幾世にもわたる修行によって蓄えられた護身の法力も、彼の周囲にはすでに集積している」


 ゲンソンは静かに笑う。


「凡俗の海の波ごときが、どうして運命に選ばれた者の命を終わらせられようか?」


 彼はリリスの柔らかな髪を撫でながら続けた。


「それに、あの三人の役立たずについては……少しくらい試練を味わわせるのも悪くない」


「奴らはこれまで、絶対的な力を振るい、あらゆるものを力ずくで押し潰すことに慣れすぎている」


「今こそ――普通の生き物として耐え、生き延びる術を学ぶ時だ」


 リリスはそれを聞くと、いたずらっぽく口元を吊り上げた。


 そしてゲンソンの胸へ頭を預ける。


 次の瞬間――彼女は静かに目を閉じた。


 魔界の女王に相応しい、至高の神識の力が解き放たれる。


 ――ビリッ!


 一筋の神識通信が空間そのものを貫いた。


 地獄と人界の境界を越え、海上の船内で苦戦する雷善長夢、黒無常、白無常の鼓膜へ直接叩き込まれる。


『この役立たずども!!』


 冷たく、威厳に満ち、なおかつ殺気すら感じさせるリリスの声が、三人の魔将の精神へ轟き渡った。


『よく聞きなさい!』


『陛下のお言葉です――「自然のままにせよ」!』


『絶対に軽挙妄動するな!』


『一片たりとも魔気を漏らすな!』


『状況に応じて、臨機応変に対処しなさい!』


『もし、あなたたちの誰かが、一杯の麺ごとき、あるいは一場の嵐ごときのために陛下の大計を台無しにしたなら――』


『この私が、長夢! あなたの雷の筋を一本残らず引き抜いてやる!』


『そして無常の二人は、永遠の炭火炉へ放り込んで、魂魄が消滅するまで焼き続けます!』


『分かった!?』


 ――ズウウウゥゥン!!


 激しく揺れる船上で、雷善長夢、黒無常、白無常の三人は、揃って身震いした。


 屈辱と恐怖が混じった顔を見合わせる。


 ――魔界の女王リリスによる神識の脅しは、何千何万もの大嵐を同時に浴びるよりも恐ろしかった。


『わ、分かりました……女王陛下……』


 三人は心の中で震えながら答えた。


 顔から血の気が完全に引いている。


 結局、彼らには座席へしがみついたまま、荒れ狂う波の上を船が流されていくのを見守るしかなかった。


 ――尊帝府。


 三人の手下へ恐怖の神識を送り終えたリリスは、ふぁ……と長い欠伸を漏らした。


 それは妙に艶やかで、どこか愛らしいものだった。


 彼女はさらにゲンソンの胸の中へ身を潜り込ませ、両腕で彼の腰を抱く。


 瞼を半ば閉じたまま、甘えた声をこぼした。


「あなた……」


「もう劇を見るのに疲れちゃいました……」


「私、すごく眠いです……」


 ゲンソンは、妻のこの上なく甘えた姿を見つめた。


 胸の奥で、愛情に満ちた鼓動が静かに鳴る。


 彼はリリスの背中へ片腕を回し、もう一方の腕をその膝裏へ差し入れる。


 そして、彼女の身体を玉座からそっと抱き上げた。


「分かったよ、可愛い人」


 ゲンソンは彼女の耳元で静かに囁いた。


 そして長い歩幅で、ゆっくりと私室へ向かって歩き始める。


「もう眠ろう」


「外のことは……自然の流れに任せておけばいい」


 やがて、寝宮の入口に掛けられていた紫色の絹の帳が静かに垂れ下がった。


 それは、二人の至高なる存在の姿を大殿から完全に隠す。


 そして――。


 尊帝府の大広間には、再び絶対的な静寂だけが残された。挿絵(By みてみん)

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