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Episode 29

 上界の至宝殿は、煉瓦や大理石といった俗世の物質によって築かれたものではない。そこは、純粋無垢なる慈悲の光と、原初の銀河の奔流そのものを凝縮して造り上げられた聖域であった。


 ここには闇もなく、時の流れさえ存在しない。


 ただ永遠なる安寧だけが、幾百万もの種族と、無数の文化・宗教・神話を象徴する至高の存在たちを包み込み、果てなき虚無の彼方まで静かに広がっていた。


 大殿の中央では、三界の歴史上かつてない規模の総会議が開かれていた。


 雲海にそびえるオリュンポスの神々、氷雪に覆われたアース神族の神々、古代エジプトの神々、そしてインドの諸天――世界各地の神話体系に名を刻む神々が、ことごとくこの場に集っている。


 文明も、信仰も、歩んできた歴史も異なる。


 それでも、上界に住まうすべての生命に共通しているものが一つだけあった。


 それは、欠点というものを微塵も感じさせない完全な美と、その肉体を柔らかく包み込む神聖なる後光である。


 高壇の左手には、イエスが座していた。


 質素な白衣は、聖なる気流に撫でられ、静かに揺れている。


 その右手にはブッダが黄金の蓮華座に坐していた。


 半ば閉じられたその瞳からは、無量の劫を照らし出す慈悲と悟りの哲理が、静かに、しかし果てしなく滲み出ていた。


 二人は独裁者のごとく絶対的な権力によって世界を支配する者ではない。


 しかし、その哲学、その知恵、その悟りの深さゆえに、あらゆる神々でさえ彼らを前にすれば自然と身を正し、畏敬の念をもって頭を垂れずにはいられなかった。


 ――そのときだった。


 轟音が轟いた。


 一筋の雷鳴が、聖殿を包んでいた静寂を引き裂いたのである。


 オリュンポスの王――ゼウス神が、大殿の中央へと歩み出た。


 白銀の髪と髭は激しい怒りに震え、手には青白い雷電を狂おしいほど迸らせる天雷の槍が握られている。


 かつて王者の威厳に満ちていた顔には、今や深い屈辱と、抑えきれぬ憤怒が刻み込まれていた。


「諸君!」


 ゼウスは吼えた。


 その咆哮だけで、聖なる雲海までも震撼する。


「もう我慢ならぬ! ゲンソン・ジェスダ――あの凶悪なる悪魔めは、侮辱の限界をとうに踏み越えた! 奴はオリュンポスの尊厳を踏みにじっただけではない! 我が妻たちを……我が女たちを、すべて奪い去ったのだ!」


 ゼウスは大きく息を吸い込んだ。


 胸が激しく上下する。


 そして、怨嗟に震える声で、一人ひとりの名を吐き出していった。


「ヘラ――我が王妃だ!


 メティス、テミス、エウリュノメ、デメテル、ムネモシュネ、レト……


 そして我が娘たち――オリュンポスきっての美しき女神たちまでもだ!


 アテナ、アルテミス、ペルセポネ、ヘベ、ヘレネ、エイレイテュイア!


 すべて……すべて奴に奪われた!


 あの忌まわしき邪悪な力と、卑劣極まりない精神操作によって、奴は我がものをことごとく奪い去ったのだ!


 見よ!


 我がオリュンポスは今や、何一つ残らぬ裸の廃墟と化している!


 この有様を見て、どうして私に耐えろと言うのだ!」


 ゼウスの怒りの嵐に対し、ブッダはゆっくりと目を開いた。


 その眼差しは深い慈悲を湛えながら、どこまでも静謐だった。


 まるで底の見えぬ湖面が、俗世の狂乱そのものを静かに映し返しているかのようである。


「オリュンポスの主よ」


 ブッダの声は、そよ風のように穏やかだった。


 だが、その一言だけで、ゼウスの轟雷さえ押し静めるほどの重みを秘めていた。


「この世の一切の法は、因果の理に従って巡っている。


 女神たちがそなたのもとを去り、ゲンソンのもとへ向かったことも、そなたがすべてを失ったことも――それは、そなた自身が何千何万もの歳月にわたって蒔き続けてきた業の種が、苦き果実となって実っただけではないのか。


 節度を失い、欲望のままに女性を弄び、己の都合だけで他者を扱ってきた。


 その報いが、今、目の前に現れているのだ。


 そなたが人の世に淫欲と不平等を植え付けるたび、その業は積み重なっていった。


 そしてゲンソンは、ただそれを映し出す鏡に過ぎぬ」


「貴様……あれが業だと言うのか!?」


 ゼウスが目を見開く。


 その手の天雷が爆裂し、耳をつんざく轟音を撒き散らした。


「私はオリュンポスの神々を統べる王だ!


 私には権利がある!


 ならば全神聖軍を率いて大戦を起こし、地獄を跡形もなく消し飛ばしてやる!


 ゲンソン・ジェスダを百片にも千片にも斬り刻み、我が妻と娘たちを取り戻してみせる!」


「どうか心を静めよ、ゼウスよ」


 イエスが穏やかな声で語りかけ、そっと手を掲げた。


「上界とは、安寧と幸福のための場所です。


 神であるならば、数え切れぬほどの生命が見つめていることを自覚し、自ら模範となるべきでしょう。


 憎しみをもって憎しみを報復しても、炎は決して消えません。


 むしろ、その炎をさらに激しく燃え上がらせ、最後には火を放った者自身を焼き尽くすだけなのです」


 ゼウスと二人の聖師の緊張が、いよいよ頂点に達しかけた――その瞬間。


 大殿の上空が、突如として裂けた。


 雷鳴もない。


 異常な天文現象もない。


 ただ一筋の黄金色の光だけが、暖かく、柔らかく、それでいて宇宙そのものと万象すべてを背負ったかのような圧倒的な重みを伴い、大殿全体を包み込んだ。


 次の瞬間。


 狂騒を好む戦神たちから、高位の天使たちに至るまで――その場にいたすべての神々が、一斉に石床へと跪いた。


 それは、創造主にして至高神――バンズリョンの降臨であった。


 万物の生命の源。


 あらゆる存在を形作り、神々そのものを創造した、最強の存在。


 しかし、彼には具体的な姿形など存在しない。


 肉体もなく、固定された輪郭もない。


 ただ偉大なる一つの概念として、そして広大無辺なる純粋な光としてのみ、そこに在った。


「なぜ……」


 バンズリョンの声が響く。


 それは一つの場所から発せられたものではなかった。


 大殿にいるすべての生命の意識へ、直接語りかけるように響き渡った。


 その声は春の日差しのように暖かい。


 だが同時に、空間そのものを凍りつかせるほどの威厳を帯びていた。


「なぜ、お前たちはゲンソンを去らせた?」


 イエスとブッダは同時に合掌し、創造主へと深く頭を垂れた。


 バンズリョンは続けた。


「私はゲンソン・ジェスダを、最も純粋なる霊質をもって創り上げた。


 彼こそが神々の王となり、私に代わって神々を統べ、宇宙の秩序を維持する存在となるよう、私は定めたのだ。


 なぜ、お前たちは彼に抗った?


 なぜ、彼を闇の側へと追いやったのだ?」


 ブッダは静かに息を吐き、恭しく答えた。


「恐れながら、創造主よ。


 確かにゲンソンは高貴なる霊質を持つ者です。


 しかし、俗世を観察する過程で、彼の内には次第に悪意が芽生えてしまいました。


 不完全なる生命たちへの傲慢と憎悪が、彼の精神を蝕み、変質させたのです。


 もし、そのような悪意を抱いた存在を神々を統べる玉座に座らせれば――三界は未曾有の災厄に沈むでしょう」


「たとえ、そうであったとしても」


 バンズリョンは厳かに告げた。


 その周囲を包む黄金の光が、わずかに揺らめいた。


「彼が神々の王であることに変わりはない。


 それは、現実そのものの構造に刻み込まれた運命なのだ。


 彼を奈落へ突き落として、さらなる憎悪を蓄積させるのではない。


 お前たちの使命は、私に代わって彼を導き、教え、諭し、そして正しき道へと連れ戻すことだ」


 そして、その光がゼウスへと向きを変える。


「そして、お前だ。ゼウス。


 己の行動と思想、その一つ一つに慎重であれ。


 傲慢さによって智慧を曇らせるな。


 さもなくば、お前は極めて重い代償を支払うことになる。


 その代償は、お前の神性をもってしても背負い切れぬほどのものとなろう」


 幾つもの神域を我が物顔で支配してきたゼウス。


 しかも今は、喪失による錯乱と怒りに我を忘れていた。


 彼は顔を上げると、あろうことか創造主にまで傲然と言い返した。


「代償だと!?


 創造主バンズリョンよ!


 貴方が奴を創り、無限の力を与えた!


 その結果、奴はその力を使って他の神々の妻を、娘を奪っているではないか!


 それが創造主の理なのか!?


 私は認めぬ!


 たとえ貴方が奴を庇護しようとも、我がオリュンポスは最後の一滴の血が流れ落ちるまで戦うぞ!」


 バンズリョンは、その無礼を前にしても怒りを見せなかった。


 黄金の光がただ静かにゼウスの身体を撫でるように通り抜け、深遠な哲理の波動を放った。


「所有に執着する者は、実のところ、何一つ所有してはいない」


 バンズリョンの言葉は静かだった。


 しかし、一語一語が千斤の鉄槌となって、ゼウスの精神そのものへと打ち込まれていく。


「その女たちは、ゲンソンに鎖で繋がれて奪い去られたのではない。


 彼女たちの魂が、ゲンソンの中に自らとの調和と安らぎの場を見いだしたからこそ、お前のもとを去ったのだ。


 独裁と利己心にまみれたお前には、決して与えられなかったものを、彼は彼女たちに与えた。


 お前は『自分の所有物』を取り戻すために戦おうとしている。


 だが、まだ気づいていない。


 お前が失ったのは、彼女たちではない。


 お前が失ったのは――蒙昧に覆われた、お前自身の古き自我なのだ」


 ゼウスは言葉を失った。


 バンズリョンの言葉は、容赦なく彼の心の傷へと突き刺さっていた。


 そして、その事実はあまりにも苦かった。


 ゼウスの強大なる息子たち――アレス、ヘラクレス、アポロン。


 彼らでさえ、かつてゲンソンへの嫉妬と憎悪から軍勢を率いて挑みかかったことがあった。


 だが、そのすべてが、ゲンソンによっていとも容易く打ち破られた。


 神力を奪われ、惨めな屈辱の中で生きることを余儀なくされたのである。


 今や、オリュンポスの一族は――中身を失った空殻にすぎなかった。


 最後に警告を残すと、バンズリョンはゆっくりと虚無の中へ溶けていった。


 黄金の光は消え去り、再び上界の大殿へ静寂が戻った。


 ブッダはゼウスへと視線を向ける。


 その眼差しには、奈落へ自ら身を投じようとしている者に向ける、深い哀れみがあった。


「ゼウスよ」


 ブッダは言った。


 その口調には、苦い皮肉すら滲んでいる。


「私からの最後の忠告だ。


 今この時、ゲンソンと戦うために軍勢を送り込もうとすることは――卵を岩にぶつけるようなもの。


 あるいは、燃え盛る炎へ自ら飛び込む羽虫にも等しい。


 もう一度、自分自身を見つめ直すがよい。


 今のゲンソンなら――ただ一人で、この上界の大殿に集う神々を、すべて打ち破り、滅ぼすことさえ容易なのだ」


 ブッダは一度言葉を切った。


 そして、静かに続ける。


「そなたの息子たちが今なお生きていること。


 そして、そなた自身がここでまだ声を張り上げることができていること。


 その理由はただ一つ。


 ゲンソンの魂の奥深くには――今なお、ほんのわずかな原初の慈悲が残されているからだ。


 彼は、お前たちを殺すことを選ばなかった。


 その最後の一筋の光まで、消させてはならぬ。


 このままなお、その傲慢さを改めずに振る舞い続けるのなら――オリュンポスという名が歴史そのものから完全に抹消される日は、そう遠くないぞ」


 ブッダの言葉も、バンズリョンの言葉も、すべて紛れもない真実だった。


 そこには疑う余地のない理があった。


 だが――一人の王の腐り果てた誇りは、すでにゼウスの理性を完全に覆い隠していた。


「私は、悪魔風情の情けなど必要とせぬ!」


 ゼウスは歯を食いしばり、血走った目で叫んだ。


「こんな屈辱の中で生き恥を晒すくらいなら、戦場で栄光とともに死ぬ方を選ぶ!


 オリュンポス軍は出陣する!」


 そう言い放つと、ゼウスは踵を返した。


 禍々しい殺気を全身から噴き上げながら、大殿の外へと荒々しく歩み去っていった。


 その背を見つめながら、ブッダは静かに息を吐いた。


 彼にはすでに分かっていた。


 この結末は、運命の流れそのものの中に、とうの昔から刻まれていたのだ。


 やがて戦火が燃え上がることを察したブッダは、傍らに立つ一人の大菩薩へと振り向いた。


「地蔵よ」


 ブッダは穏やかに告げる。


「お前はここを下り、深き地獄へ赴くのだ。


 ゲンソンに会い、私の言葉を伝えてほしい。


 たとえ何が起ころうとも。


 たとえ世が彼を挑発し、あるいは破壊しようとも――どうか心を堅く保ち、自ら新たな悪業を生み出すことだけは避けてほしい、と」


 地蔵王菩薩は合掌し、命を拝受した。


「はい。世尊の御命、確かに承りました」


 ―――――


 地獄。


 尊帝府。


 奈落へと通じる巨大な黒石の門が、ゆっくりと動き始める。


 その軋轢音は、まるで巨大な獣が唸っているかのようだった。


 地蔵王菩薩は、質素な袈裟をまとい、右手に錫杖を、左手に明珠を携えながら歩いていた。


 地獄の骨と灰だけで築かれた道を、悠然と進んでいく。


 純粋なる仏光を身に纏った菩薩の出現は、陰界そのものを照らすほど眩かった。


 その瞬間――


 数百万にも及ぶ悪鬼、魅魔、そして六本の腕を持つ阿修羅の軍勢が、一斉に咆哮を上げた。


 彼らは黒き甲冑をまとい、槍や刀を手にし、地蔵王菩薩を幾重にも取り囲む。


 真っ赤な目には凄まじい殺気が宿り、ただ一声の命令が下されるのを待っていた。


 いつでもこの招かれざる客を引き裂かんとするかのように。


「下がれ!」


 そのとき――


 尊帝府の頂上から、重厚にして威厳極まりない声が轟き落ちた。


 まるで千斤の拳が地獄そのものを殴りつけたかのように、空間全体が激しく震える。


 数万の悪鬼たちが放っていた怒号は、その一声だけで完全に消え失せた。


「そのお方を中へ通せ」


 ゲンソン・ジェスダの声が、地獄全体に響き渡る。


「地蔵王菩薩様に無礼を働く者がいれば――私がその魂を滅する」


 その瞬間。


 数万の魔神たちは恐怖に顔をこわばらせ、一斉に左右へと退いた。


 そして深々と頭を垂れ、城の奥へ一直線に続く広大な道を開けた。


 主殿。


 そこにはゲンソン・ジェスダが、すでに豪奢な黄金の皇袍を纏って立っていた。


 彼は階段の上で地蔵王菩薩を待ち受けていた。


 完璧な美貌には、礼儀正しく穏やかな微笑みが浮かんでいる。


 そこには、魔王としての残虐さなど微塵も感じられない。


「ようこそお越しくださいました、地蔵菩薩様」


 ゲンソンは合掌し、仏門の礼法に則って静かに頭を下げた。


 だが――


 夫とは正反対に、玉座のすぐ傍らにはリリスが立っていた。


 紫色の蝙蝠翼が、苛立たしげに大きく羽ばたいている。


 魔王妃は腕を胸の前で組み、真っ赤な瞳で地蔵王菩薩を睨みつけていた。


 その表情には、あからさまな不快感と侮蔑が浮かんでいる。


 彼女は地蔵王菩薩の身から放たれる仏教の光を、心底から忌み嫌っていた。


 ゲンソンは、その張り詰めた空気をすぐに察した。


 彼はリリスの方へ振り向き、そっと彼女の手を取る。


 そして、その手の甲へ優しく口づけすると、小さな声で囁いた。


「愛しい人。先に部屋で休んでいてくれ。


 少しだけ、私と菩薩様に二人で話す時間をくれ」


 リリスはむっと頬を膨らませた。


 それから地蔵王を鋭く睨みつけ、ふてくされたように寝殿の奥へと歩き出す。


「この坊主に洗脳なんてされたら……あとで許しませんからね、あなた!」


 寝室の扉が閉ざされる。


 ゲンソンは地蔵王菩薩へと向き直った。


 そして、軽く手を払う。


 ――ザッ。


 次の瞬間。


 二人を取り囲んでいた、陰鬱で悪臭に満ちた冷たい地獄の空間が、音もなく裂けた。


 ゲンソンが己の権能によって、外界から完全に切り離された独立空間を創り出したのだ。


 そこに現れたのは――


 どこまでも広がる青々とした竹林の中央に佇む、小さな茶室だった。


 竹筒を流れる水のせせらぎ。


 葉の隙間から差し込む柔らかな陽光。


 そして、静かに漂う上品な茶の香り。


 あまりにも穏やかで、心休まる空間。


 奈落の現実とは、まるで別世界だった。


 ゲンソンは地蔵王菩薩を質素な木椅子へと案内し、自ら温かな茶を淹れて、目の前へ差し出した。


「実に静かな場所ですな」


 地蔵王菩薩は微笑み、一口茶を口に含んだ。


「心尽くしのもてなしに感謝いたします、ゲンソン殿」


「菩薩様がわざわざこの穢れた地へ下りてこられた以上、単なる茶飲み話のためではありますまい」


 ゲンソンは悠然と言った。


 その深い瞳は、立ち昇る茶の湯気を静かに見つめている。


「お聞かせください。


 世尊は、私に何をお伝えになりたいのでしょう?」


 地蔵王菩薩は茶碗を静かに置いた。


 その表情が一変し、真剣なものとなる。


「オリュンポスの神ゼウスは、我らの忠告を聞き入れませんでした。


 彼は今、己の全神兵を集めている。


 そして、この地獄へ一直線に進軍し、あなたを探し出すつもりです。


 これは交渉でもなければ、腕試しのような戦いでもありません。


 おそらく――生死を賭けた全面戦争となるでしょう」


 ゲンソンはその話を聞いても、ただ口元を歪めるだけだった。


 その顔には、驚きの一片すら浮かばない。


「ゼウスだと?


 あの老いぼれは、まだ夢から醒めていないのか?」


 地蔵王菩薩はゲンソンの瞳を深く見つめ、慈悲に満ちた声で告げた。


「世尊からの伝言です。


 たとえ、いかなる事態が起ころうとも――どうか己の良心に従って行動してほしい。


 殺戮の炎に身を委ね、自らを本当の怪物へと変えてはならない。


 私も、そして世尊も――あなたの魂の最も深い場所には、原初の慈悲がまだ完全には消えていないと、今も信じている、と」


 ゲンソンは数秒間、沈黙した。


 そして、そこに座る一人の菩薩を見つめた。


 地獄から決して逃げることなく、この陰界が空になるその日まで留まり続けると誓った存在。


 その姿を前にして――


 魔王の胸に、極めて稀な敬意が静かに芽生えた。


「分かりました」


 ゲンソンは頷いた。


 その声には、偽りのない誠意が宿っていた。


「ご忠告、ありがとうございます。


 そして、世尊のお心にも感謝します。


 約束しましょう。


 私は――彼らが本当に受けるに値する形で、この事態に対処します」


 地蔵王菩薩を見送った後、ゲンソンは茶室そのものを空間ごと引き裂き、再び尊帝府の主殿へと戻った。


 だが――


 彼が姿を現した瞬間。


 寝殿の奥から、リリスが飛び出してきた。


 どうやら彼女は魔術を用いて、先ほどの会話の一部を盗み聞きしていたらしい。


 魔王妃の顔には凄まじい殺気が漲っていた。


 大きく開かれた蝙蝠翼が、背後で猛々しく震えている。


「あなた!」


 リリスが怒鳴った。


「またあのクソみたいに老いぼれたゼウスが、ここへ来て騒ぎを起こそうとしているの!?」


 声には、隠しきれない憤怒が満ちていた。


「今すぐ十二の魔王軍団と、数十億の悪鬼・阿修羅兵を総動員するわ!


 この私が自ら軍を率いて、あの腐り果てたオリュンポスの頂を完全に叩き潰してやる!


 あいつらの骨は全部砕いて、あなたの煙草用の灰皿にしてあげるわ!」


 ゲンソンはリリスへ歩み寄った。


 そして、彼女の肩へそっと手を置く。


 たったそれだけで、彼女の周囲を渦巻いていた魔力の炎が静かに消え失せた。


 ゲンソンは微笑んだ。


 その表情には、極めて悠然とした――そして絶対的な自信が満ちていた。


「軍を動かす必要はないよ、愛しい人」


 その声音は穏やかだった。


 だが、その奥には、逆らうことすら許さぬ絶対的な覇気が宿っていた。


「老いぼれ一人と、オリュンポスの残党程度のために――我らの軍勢が汗の一滴でも流す価値などない。


 この程度のことなら……


 私一人で、すぐに片づけてみせる」


 尊帝府の聖殿は、地蔵王菩薩の姿が重く幽玄な仏光の中へ完全に消え去った後、不思議なほど静まり返っていた。


 ゲンソンが創り出した茶室の異空間は、水泡が弾けるように徐々に消滅し、夫婦二人だけの私室が本来の姿を取り戻していく。


 そこには上質な黒絹が敷き詰められ、濃紫色の魔霧が静かに漂っていた。


 リリスは黒曜石のような大理石の卓の縁に背を預けていた。


 背後の巨大な蝙蝠翼はゆっくりと閉じていたが、それでもなお、その翼の周囲からは禍々しい黒煙が細く立ち昇り、見る者を威圧する凄まじい気配を放っている。


 彼女は腕を胸元で組み、燃え盛る炭火のように赤い瞳で夫を見つめていた。


 その声には、魔王妃として思慮深く物事を見据える気高さと、勝者としてのわずかな誇らしさが混じっている。


「オリュンポスの女神たち――ヘラ、アテナ、アルテミス、それにデメテル……今ではみんな、私の妹分であり、あなたのものになった女性たちね、ゲンソン」


 リリスは唇の端をわずかに吊り上げた。


 艶やかな紅い唇に、意味深い微笑みが浮かぶ。


「でも、私は一つだけ認めざるを得ないわ。


 ゼウスのそばにいた頃、あの子たちは本当の意味で『道』というものを理解していなかった。


 あのオリュンポスの王は、ただ彼女たちを己の俗世的な欲望を満たすための道具に変え、卑劣な宮廷内の権力争いと、停滞した神性の中に閉じ込めていただけ。


 修行というものも知らなければ、自らの内に眠る原初のエネルギーをどう開拓するかも知らなかった。


 だから今、彼女たちは皆、虚無殿の深部に籠もっているの。


 体内に蓄積した濁った気を洗い流すための、深い閉関修行に入っているわ。


 本当の意味で戻ってきて、尊帝府の列に加わるまでには――かなり長い時間が必要になるでしょうね」


 ゲンソンは悠然と歩み寄った。


 深紅の玉杯に満たされた酒を注ぎ、口元へ運ぶ。


 そして、ほんの一口だけ静かに味わった。


 その深い眼差しには、隠しようもない満足感が浮かんでいた。


「それなら、実に良いことだ、リリス」


 ゲンソンの低く穏やかな声には、心からの賞賛が込められていた。


「己の美貌と他者からの寵愛だけに頼る女は、所詮、歩く花瓶に過ぎない。


 自らの欠落を認め、それを補うために自ら静寂の中へ身を置き、修行を重ね、心境と力を高めようとする――


 それこそが尊帝府に加わる女たちが持つべき気品というものだ。


 彼女たちがその道を選んだことを、私は心から喜んでいる」


 ゲンソンは杯を卓上へ置いた。


 その瞬間、表情が一変する。


 右手を掲げ、掌を天へ向けた。


 すると――


 白金色の雷光に黒い斑紋を帯びた稲妻が閃き、空気そのものを引き裂いた。


 その轟きは、大地の地層そのものが引き裂かれたかのように低く唸り、私室全体を震わせる。


 虚無の彼方から、一人の巨躯が姿を現した。


 その身には黒曜石の戦甲がまとわれ、装甲の至る所には紫色の雷紋が刻み込まれている。


 男は石床へ片膝をつき、深く頭を垂れた。


 その姿には絶対的な忠誠と畏敬が満ちている。


 彼こそが――


 雷善・長夢。


 尊帝府の先鋒大将にして、ゲンソンの配下の中でも最も苛烈な雷罰を司る猛将であった。


「陛下がお呼びとあらば、臣はここに!」


 長夢の声は、洞窟の奥で轟く天雷のように重々しく響き渡った。


 ゲンソンは側近の将を見つめた。


 その瞳には殺気が宿っていたが、声音はあくまでも冷静だった。


「長夢。


 あの老いぼれのゼウスが、残存するオリュンポス軍を率いてこちらへ攻め下ってくる。


 あの男の出迎えを、お前に任せる」


 長夢は顔を上げた。


 深紫色の雷光が、その瞳の中で燃え上がる。


「承知いたしました!


 ゼウスの首を切り落とし、陛下の酒杯にして献上してみせましょう!」


「いや」


 ゲンソンは掌を開いて彼の言葉を遮った。


 その瞳には、盤上の駒を操る者だけが持つ鋭い知性が閃いていた。


「私はお前を虐殺のために呼んだのではない。


 よく覚えておけ。


 ゼウスが来たら、お前は私の代理として彼の前に出る。


 だが、絶対に先に手を出すな。


 冷静さと戦況そのものを使って、あの男を追い詰めろ。


 あの傲慢な王に、まず自分の手で武器を振るわせるのだ。


 そして、自ら狂気と無力さのすべてを、神々と魔兵の目の前へ晒させろ。


 奴が攻撃を仕掛けてから初めて、お前が動く。


 己の武術と雷罰を正確に行使し、奴の抵抗を完全に叩き潰せ。


 ただし――命だけは奪うな。


 理解したか?」


 雷善・長夢はわずかに目を見開いた。


 意外な命令だった。


 しかし、絶対的な忠誠を抱く彼は、すぐさま額を床につけた。


「御意!


 陛下のお言葉、一言一句までこの胸に刻みます!


 決して大局を損なう真似はいたしません!」


 長夢が戦の準備のため殿外へ退出した後、リリスはようやくゲンソンへ近づいた。


 その美貌には、はっきりとした不安が浮かんでいた。


 彼女はそっと手を伸ばし、ゲンソンの衣の裾を掴む。


「ゲンソン……本当に、長夢に任せて大丈夫なの?」


 リリスはためらいながら尋ねた。


 その声は少し低くなっていた。


「確かにゼウスは、かつて上界の覇者だった。


 原初の天雷槍を握る存在でもある。


 独裁者というものは、追い詰められ、すべてを失った瞬間に、その狂気から予測不能な破壊力を引きずり出すことがあるわ。


 私は……少し心配なの」


「何の問題もないよ、私の愛しい人」


 ゲンソンは微笑んだ。


 大きな手がリリスの細い手を包み込み、優しく握り締める。


「ゼウスは、バンズリョン様と世尊の忠告に背を向けた、その瞬間からすでに心を失っている。


 怒りと怨恨によって智慧を曇らせた者は、たとえ千の星の力を握っていたとしても、所詮は暗闇の中で斧を振り回す狂人に過ぎない。


 長夢には、その残り火を消し止めるだけの器量がある」


 そう言って、ゲンソンはリリスの手を離した。


 そして、頭の先から足元まで、妖しくも魅惑的な妻の姿をじっと眺めた。


 やがて、わずかに眉をひそめる。


 半ば冗談、半ば本気といった口調で言った。


「ところで、リリス。


 もう少ししたら将兵たちの前に出て、この件を片づけることになるだろう。


 その時だけでも――もう少し見栄えのする姿になれないか?


 その棘だらけの蝙蝠翼は、少ししまってくれ。


 それから、身体の周囲に漂っている濃い魔気も、少し抑えてくれると助かる」


 その言葉は、地獄の女王たるリリスの自尊心へ冷水を浴びせかけるには十分だった。


 リリスは驚いて一歩後退する。


 頬は怒りで真っ赤に染まった。


 彼女は唇を尖らせ、両手を腰に当てる。


 背後の蝙蝠翼が激しく羽ばたき、邪悪な風圧を巻き起こした。


「な、何ですって!?


 あなた……あなた、私が醜いって言うの、ゲンソン!?」


 リリスの声が高くなる。


 その声音には、この上ない不満と拗ねた感情が込められていた。


「私はリリスよ!


 奈落の女王!


 何万年もの間、この姿を見ただけで数え切れないほどの神々が恐怖に震え、どれほど多くの魔王たちが跪いて私の奴隷になることを願ったと思っているの!?


 それなのに、あなたは私に『もう少し見栄えのする姿になれ』ですって!?


 もう私には飽きたの!?


 オリュンポスの美しい女神たちが妻になったから、今度は私のこの悪魔の姿が気持ち悪く見えるようになったんでしょう!?」


 ゲンソンは、牙を剥き、全身の毛を逆立てたように怒っている偉大なる魔王妃の姿を見つめた。


 そのあまりにも愛らしい様子に、胸の内から可笑しさと温かな愛情が同時に込み上げる。


 一歩、近づく。


 リリスがさらに後ろへ下がるより早く、左腕で彼女の腰を抱き寄せ、胸元へ引き寄せた。


 右手でそっと彼女の顎を持ち上げる。


 ゲンソンの瞳が深くなる。


 そこには、絶対的な愛情と、ひたむきな恋情が満ちていた。


 彼は彼女の耳元へ顔を寄せ、古典詩のようになめらかで甘い言葉を囁いた。


「私の可愛い、おバカな宝物よ……


 この宇宙が生み出した最高傑作を、私がどうして醜いなどと言える?」


 ゲンソンの温かな吐息が、彼女の滑らかな首筋をそっと撫でる。


「君がこの陰界で最も恐ろしい怪物の姿をしていようと、俗世を超越した至高の女神の姿をしていようと――


 私の目には、君だけが唯一無二だ。


 姿を変えてほしいと言ったのは、君を醜いと思っているからではない。


 私はただ、外にいるあの傲慢な神々にも、配下の魔兵たちにも、はっきりと見せたいのだ。


 ゲンソン・ジェスダの妻は、無限の権能を持つ女王であるだけではない。


 この世のあらゆる言葉をもってしても形容し尽くせぬほどの、比類なき美の至宝なのだと。


 その美しさの前では、上界の神々も地獄の悪魔たちも、恥じ入りながら頭を垂れずにはいられない――そう思わせたい。


 そして何より、私が君を手に入れたことを知って、皆が狂うほど嫉妬してほしいんだ」


 耳元へ流れ込む蜜のような甘い言葉。


 そして、ゲンソンの一途な眼差し。


 それらは、リリスの怒りに満ちた心の防壁を完全に打ち崩した。


 魔王妃の心臓が激しく脈打つ。


 怒りの炎は跡形もなく消え去り、その後に残ったのは、羞恥と幸福だけだった。


「あなた……本当に、いつも口が上手なんだから……」


 リリスは小さく呟いた。


 そのままゲンソンの胸へ顔を埋め、両腕で彼の背中を強く抱き締める。


 彼女はそっと目を閉じた。


 すると、淡い紫紅色の魔力の光が彼女の身体を包み込んだ。


 棘だらけの蝙蝠翼が静かに折り畳まれ、その姿を完全に消していく。


 淡く灰色がかった魔族の肌は、白く滑らかな玉石のような肌へと変わった。


 鮮烈な紅色の長髪は踵に届くほど長く、柔らかな波を描いて優雅に揺れる。


 全身を覆っていた黒曜石の棘鎧は消え去り、代わりに深紫色の夜会用シルクドレスが姿を現した。


 大胆なスリットの入ったその衣装は、彼女が本来持つ妖艶で優美な曲線を際立たせている。


 その美しさは、俗世のいかなる言葉をもってしても表現し尽くせぬほどだった。


 もはやそこにいるのは、闇に生きる怪物ではない。


 天界の気高き尊貴さと、地獄が持つ致命的な魔性を同時に宿した――


 至高の女王。


 それこそが、今のリリスだった。


 ゲンソンは生まれ変わった妻を眺め、満足げに微笑んだ。


 そして柔らかな髪を優しく撫でる。


「よくできました。


 これこそ――私の女王だ」


 ―――――


 ドォン!


 ズドォォン!


 その直後。


 尊帝府の黒石門上空が、幾千もの淡い黄金色の雷電によって引き裂かれた。


 それまで陰鬱だった地獄の空気は、たちまち猛烈な殺気と、上界の雷が焼き焦がしたような臭気に満たされる。


「ゲンソン・ジェスダァァ!


 卑怯な魔王め!


 ゴミめ!


 今すぐ姿を現し、その罪を償えぇぇ!」


 ゼウスの咆哮が地獄全体へと響き渡った。


 その轟声だけで、何千年もの歳月を経た白骨山脈すら震動する。


 ゼウスは、炎の翼を持つ四頭の天馬に牽かれた戦車の上に立っていた。


 その手には天雷槍が握られている。


 そして背後には、数万のオリュンポス残存兵が続いていた。


 彼らの顔には怒りと傲慢さが浮かんでいる。


 だが、その瞳の奥には、隠し切れない極度の恐怖も宿っていた。


 その時、尊帝府の内部から深紫色の雷光が天へ向かって駆け上った。


 雷光は空中で凝縮し、やがて雷善・長夢の巨大な姿となった。


 彼は腕を組み、宙に浮かんだまま、正面からオリュンポス軍を見下ろしている。


 長夢はゼウスを見つめると、口元に嘲笑を浮かべた。


 その声には露骨な侮蔑が込められている。


「ゼウス!


 こんなところで何を喚いている!


 妻も子もすべて失い、見る影もなくなった敗残の兵を率いる老いぼれが――それでも我らが陛下、ゲンソン・ジェスダへの面会を望むというのか?


 貴様には、我が陛下がわざわざ姿を現して出迎えるほどの価値も資格も、一片たりともない!」


 ゼウスは怒りのあまり髪も髭も逆立てた。


 手中の天雷槍が激しく震える。


「名もなき下僕め!


 今すぐそこをどけ!


 ゲンソンがここへ出てきて跪き、我が妻と娘たちを返さぬ限り――


 この私がオリュンポスの天雷をもって、この腐り果てた地獄そのものを灰燼に帰してくれる!」


 長夢は大声で笑った。


 その笑い声は、オリュンポス兵たちの鼓膜すら震わせた。


「灰燼にするだと!?


 ならば――やれるものなら入ってこい!


 そのオリュンポスの粗末な雷電が、尊帝府の門境すら越えられるのか、この目で確かめてやろう!」


「オリュンポスの神々よ!


 攻めかかれ!


 奴らを木端微塵に引き裂けぇぇ!」


 ゼウスが天雷槍を激しく振り下ろす。


 次の瞬間――


 数万のオリュンポス兵が一斉に槍を構え、戦魔に跨って、まるで流星群のように急降下した。


 長夢の瞳から温度が消えた。


 彼は軽く手を振る。


「尊帝府の魔兵たちよ。


 我らの大切な客人を――丁重にもてなして差し上げろ!」


 ――ゴォォォン!


 地獄の大地が轟いた。


 地下深くから数百万、数千万にも及ぶ阿修羅軍団、六臂の魔神たち、そして奈落の怪物たちが一斉に湧き上がる。


 巨大な二つの軍勢が、空中で激突した。


 ドォン!


 バキィ!


 ズガン!


 戦場は一瞬にして凄惨な殺戮の場と化した。


 武器同士が激突する金属音。


 黄金色の神血と、漆黒の魔血が空中を飛び交う。


 獣のような咆哮。


 骨が砕ける音。


 雷電によって肉体が焼け焦げる異臭。


 それらすべてが混ざり合い、破滅そのものを奏でる狂宴となっていた。


 だが、その兵士たちの殺し合いをよそに、ゼウスは長夢だけを標的として突進した。


 オリュンポス王の瞳は血走っている。


 手にした天雷槍が次々と凶悪な突きを繰り出す。


 そのたびに、淡黄色の雷刃が数百本も生み出され、空間を切り裂きながら長夢の急所へと迫った。


 バキィ!


 バキィ!


 しかし、長夢は微塵も動じなかった。


 ゲンソンの命令を忠実に守り、最初から激しい反撃へ移ることはない。


 彼はただ軽やかに身を翻し、黒曜石の装甲で覆われた前腕を使って攻撃を受け流していく。


 ゼウスの天雷槍が迫るたび、長夢は身体をわずかに回転させる。


 そして槍の勢いを逸らし、その隙間へと正確な雷撃の拳を滑り込ませる。


 その一撃一撃は決して派手ではない。


 だが、ゼウスの鎧の隙間へ寸分違わず叩き込まれていた。


 両者の激突は五十合を超えた。


 外から見れば、両者はまるで互角に見えた。


 無数の雷電爆発が空中で連続して炸裂し、地獄の広大な空を絶え間なく震わせている。


 しかし――


 戦えば戦うほど、ゼウスの心には恐怖が膨れ上がっていった。


 自分は上界の王としての原初の力を、すでに一〇〇%まで引き出している。


 それなのに――


 己が放った最も危険な攻撃のことごとくを、この男はまるで散歩でもするかのように容易く受け流している。


 この男は……


 まさか、まだ本気ですらないのか?


「まだ抗うか、老いぼれ!」


 長夢は攻撃を受け流しながら言った。


 その言葉には忠告の色がありながら、同時に冷酷な嘲りも含まれていた。


「ゼウス、もうやめろ!


 お前の身勝手と盲目的な傲慢さのために、罪のない兵士たちまで無駄死にさせるな!


 お前は――ここへ足を踏み入れようと思った、その瞬間からすでに敗北していたのだ!」


「黙れぇぇぇ!


 私は神々の王だぁぁぁ!」


 ゼウスは絶望に近い叫び声を上げた。


 残されたすべての神力を最後の一撃へと注ぎ込む。


 天雷槍が小さな太陽のごとき眩い光を放った。


 そして――


 長夢の頭上へ、凄まじい雷撃が叩き落とされる。


 長夢は静かに首を振った。


 その眼差しが、一瞬で凍りつく。


「与えられた好機を守れぬのなら……


 これで終わりだ!」


 彼は、もはやこれ以上遊ぶことをやめた。


 ――ドォォォン!


 次の瞬間。


 雷善・長夢の身体の内部から、原初の紫黒色をした雷罰真気が爆発的に噴き出した。


 その力は、一呼吸の間に十倍以上へと跳ね上がる。


 長夢は一歩踏み込んだ。


 身体をわずかに傾け、ゼウスが放った光の槍先を紙一重でかわす。


 同時に左手で天雷槍の柄を掴み取った。


 右手を強く握り締める。


 拳の周囲には、龍の頭部を思わせる紫黒の雷電が渦巻いていた。


 そして――


「紫雷・破天!」


 轟ッ!


 凄まじい一撃が、ゼウスの胸部へ真正面から炸裂した。


 バキィィ!


 ドゴォォン!


 黄金の胸甲が無数の破片となって吹き飛ぶ。


 ゼウスは大量の血を吐き出し、身体ごと砲弾のように弾き飛ばされた。


 五里ほど先にあった黒曜石の山へ激突し、その山を真っ二つにへし折る。


 だが、長夢はまだ止まらない。


 彼自身が紫色の雷光へと変わった。


 一瞬で崩れ落ちた山の頂へ到達する。


 着地と同時にゼウスの胸を片足で強く踏みつける。


 そして、雷電をまとった指先を、地面に倒れ伏し瀕死となった神の額へ真っ直ぐ突きつけた。


 ゼウスは血まみれの身体を横たえていた。


 かつて傲慢に輝いていた瞳には、もはや愕然とした恐怖しか残されていない。


 完全なる敗北だった。


 逃げ道など、どこにもなかった。


 長夢はゼウスを見下ろし、ゆっくりと指を下ろす。


 そして雷電を収束させた。


「我らが陛下、ゲンソン・ジェスダは大局を重んじる御方だ。


 今回に限り、貴様へ死を免じる命令を下された。


 ゼウス。


 敗残兵を率いて、今すぐ地獄から立ち去れ。


 そして――二度とここへ戻ってくるな!」


 そう言うと、長夢は腰の帯から一つの青白く輝く生命回復の霊玉を取り出した。


 それは奈落でも極めて希少な治癒の秘宝である。


 彼はそれをゼウスの顔のすぐ横へ投げ落とした。


 それは、最低限の慈悲と補償だった。


「これでも使って、その腐った命を繋いでおけ」


 長夢は背を向ける。


 そして手を振り、地獄軍へ停止の合図を送った。


 ゼウスは震える血まみれの手を伸ばし、その霊玉を拾い上げた。


 かつて西方を覇した王の頬を、屈辱の涙が静かに伝っていく。


 彼自身が理解していた。


 オリュンポスの誇りは――永遠に打ち砕かれたのだ。


 もはや他に道はない。


 ゼウスは苦渋を飲み込み、痛みに満ちた咆哮を上げた。


 生き残った神兵たちへ戦場の撤収を命じる。


 そして、敗北に沈んだまま、黙々と上界へ撤退していった。


 戦いは、あまりにも一方的だった。


 そして勝利は圧倒的だった。


 数十億にも及ぶ魔兵たちと尊帝府の将兵は、陰界全体を揺るがすほどの歓声を上げた。


 ―――――


 尊帝府・大殿。


 戦を終えた雷善・長夢が殿内へ戻ってきた。


 その戦甲には、いまだ黄金色の神血が幾筋か付着している。


 彼は跪き、両手を前へ揃えて報告した。


「陛下!


 命を受けた任務、完遂いたしました!


 ゼウスとオリュンポスの残存軍は完全に撃破され、屈辱にまみれたまま撤退いたしました!」


 報告を終えた長夢は顔を上げ、次の命令を待とうとした。


 だが――


 その瞬間、彼の視線がゲンソンの隣に立つ一人の女性へと触れた。


 すると、勇猛果敢にして常に冷静沈着であった大将が――


 凍りついたように動きを止めた。


 そこにいたのは、先ほどまでの恐ろしき魔王妃リリスではない。


 蝙蝠翼と濃密な魔気をまとった怪物のような女ではなく――


 あまりにも優雅で、気高く、美しく、その姿を目にした者の思考さえ停止させるほどの絶世の女王だった。


 長夢は慌てて深々と頭を床へ伏せた。


 失礼に当たることを恐れ、もう一秒たりとも彼女を見ようとはしなかった。


 ゲンソンは、その将の態度を見て満足げに微笑んだ。


「よくやった、長夢。


 実に見事な働きだった。


 では外の大広間へ行け。


 宴を開き、戦いに参加した魔兵たちを労い、褒賞を与えよ」


「はっ!


 陛下の御慈悲に、心より感謝申し上げます!」


 長夢はすぐさま一礼し、足早に殿を退出していった。


 大殿に残されたのは、二人だけだった。


 ゲンソンはリリスへ振り向いた。


 その眼差しは、限りなく優しかった。


 口元に小さな笑みが浮かぶ。


「どうだ、愛しい人?


 私の言った通りだっただろう?


 ほんの一撃を与えただけで、あの男の傲慢さを完全にへし折ることができた」


 リリスは夫を見つめた。


 その瞳には、まだわずかな疑問が残っていた。


「でも、ゲンソン……


 それでも私は理解できないわ。


 どうして、あんなに手加減したの?


 あの男はあなたを侮辱したのよ。


 しかも軍勢を率いて、あなたの家にまで攻め込んできた……」


 ゲンソンは静かに息を吐いた。


 そして、窓の外に広がる灰色の虚空を見つめる。


 その眼差しには、至高の存在だけが持つ深遠な哲理が浮かんでいた。


「正直に言えば――


 奴がこれまでしてきたこと、そしてあの傲慢な性格を考えれば、私は容易くゼウスの神体を滅ぼすことができた。


 魂を引き裂き、輪廻の流れへ投げ込み、畜生道へと堕とし、幾度生まれ変わろうとも最も卑しい獣として生きさせることさえできた……」


 ゲンソンは一度言葉を切った。


 それから再びリリスへ視線を戻す。


 声音が少し低くなった。


 一言一言に圧倒的な重みが宿る。


「だが、私はそうしなかった。


 どれほど落ちぶれていようとも、ゼウスはかつてオリュンポスの王だった。


 一つの時代にわたり、上界を統べる王権の象徴だった存在だ。


 私は、奴の『王』という称号そのものを尊重している。


 だから最後に残された、神としてのわずかな威厳だけは奪わなかった。


 それは弱さではない。


 本当の意味で世界の頂点に立つ者が示す――寛容というものだ」


 ゲンソンの心の奥底から語られた言葉を聞き、リリスの胸に激しい感情の波が押し寄せた。


 目の前の男は、天を滅ぼし地を砕くほどの絶大なる力を持っているだけではない。


 甘い言葉で彼女を慈しむだけでもない。


 そこには、途方もなく偉大な精神がある。


 そして――


 真に神々の王たる者だけが持つ、圧倒的な器があった。


「ゲンソン……」


 リリスは小さく呟いた。


 その瞳には、限りない崇拝と愛が満ちていた。


 もはや感情を抑えることができない。


 彼女は一歩踏み出し、そのままゲンソンの巨大な身体へ抱きついた。


 温かな胸へ顔を押しつけ、両腕で彼の腰を強く抱き締める。


 まるで愛する男の身体へ、自分自身まで溶け込んでしまいたいかのようだった。


 ゲンソンは優しく微笑んだ。


 そして両腕でリリスの柔らかく優美な身体をすっぽりと抱きしめる。


 魔王の大きな手がゆっくりと持ち上がる。


 そのまま女王の頭へ優しく置かれ、雲のように豊かな赤い髪を静かに撫でていく。


 尊帝府を包む穏やかな静寂の中――


 二人の至高なる存在は互いを強く抱きしめながら、静かに未来を見つめていた。


 そしてその未来の彼方では――


 三界を再び揺るがす、新たなる嵐の気配が、音もなく積み重なり始めていた。

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