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Episode 40

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どうもありがとうございます。

 古びたノートパソコンの冷却ファンが、苦しげに何度も甲高い唸り声を上げている。その音が、仮住まいの部屋に凝り固まったように漂う静寂を、爪で引っ掻くように切り裂いていた。


 淡い青白いモニターの光が、Bansonの顔を下から照らし出している。目の下には、幾重にも刻み込まれた疲労の影があった。


 彼は瞬きもしない。


 人差し指はスペースキーの上に軽く置かれ、数秒おきに、乾いた音を一つずつ叩き落としていく。


 ファイル名が《NOA_FINAL.mp4》の動画が、また再生された。


 また、止まる。


 そしてまた、再生位置が最初へと引き戻される。


 意味があるのかさえ分からないそのループを、Enami Asaは止めようとも、口を挟もうともせずに見守っていた。


 Bansonから少し離れたところに置かれた、使い古されたソファの上で、彼女は足を組んで座っている。


 声をかけることもない。


 ただ、その視線だけがBansonの角張った頬にしばし留まり、やがてキーボードの上に置かれた彼の手へと静かに滑り落ちていった。


 温かな手。


 ほんの数日前、その手は夕焼けに真っ赤に染まった空の下、帰宅時間の喧騒に包まれながら、彼女の手を握っていた。


 Asaは、あの瞬間を今でも鮮明に覚えている。


 花もなかった。


 蝋燭もなかった。


 ましてや、ありふれた甘い言葉など、一つもなかった。


 Bansonは彼女の前に立ち、ほとんど頑固とさえ言えるほど揺るぎない眼差しを向けていた。そして、いつものように平坦な口調で、それでも滅多に見せることのない微かな震えを声の奥に滲ませながら、こう言った。


「俺は、可能性を一つずつ潰すための除外表を作ってみた。あらゆる変数を心理学的な方程式に組み込み、今ある境界線を越えることで生じるリスクを、全部計算した。


 何度やっても、結果には一つのエラー定数が返ってきた。


 そして気づいたんだ。


 俺の論理を根本から崩壊させる唯一の変数が……お前だった。


 もう、他人の秘密を解き明かすためだけの仲間でいたくない、Asa。


 俺は、お前に――俺が決して疑うことのない、ただ一つの真実になってほしい」


 それは、いかにもBansonらしい告白だった。


 素っ気なく、理屈ばかりで、冷静な計算に満ちている。


 それなのに、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも誠実だった。


 Asaの心臓は、その一言でほんの一拍、動きを忘れた。


 彼女は、頷いた。


 そしてその瞬間から――


 嘘と、語られることのない死に満ちた世界の中で、二人は互いを手に入れた。


 それは、彼らの中に残された最後の人間らしさを、この世界に繋ぎ止めるための一つの錨だった。


 だが今、その錨そのものが、《Shirasawa Noa》という名の、底の見えない深海へと沈みかけている。


 Noaは、二人と同じ学校に通う生徒ではない。


 彼女はAsaが中学生だった頃の友人だった。


 桜の木の下で昼食の弁当を分け合った、かつての友人。


 目に見えない何かが二人の間を引き裂き、互いに遠ざかってしまう、その前までは。


 新しい学校――私立Seikou Academy――でNoaが自殺したと聞いたとき、Asaはそれを信じることができなかった。


 好奇心。


 そして、胸の奥を鋭く掻きむしる、どこか不吉な予感。


 その二つに突き動かされるように、彼女はBansonにこの泥沼へ足を踏み入れてほしいと頼んだ。


 そして、Noaが屋上の縁ぎりぎりに立つ姿を収めた動画が現れて以来、Seikou Academy全体が狂乱に陥った。


 警察でさえ例外ではなかった。


 誰もが、動画の中でNoaの背後に立ち、カメラを構えていた人物こそが、彼女を自殺へと追い詰めた人間なのではないか――


 あるいは、もっと恐ろしい可能性として、


 その人物が、Noaを屋上から突き落とした張本人なのではないか。


 そんな考えに、次第に傾き始めていた。

 だが、Bansonは違った。


 彼はその動画を見返していた。


 十回どころではない。おそらく、もう五十回以上になる。


 彼の視線は、三つのものに釘付けになっていた。


 ファイルに表示された時刻。


 Noaの背後にある窓ガラスに映り込んだ像。


 そして、クリップの静寂を横切る、極めて小さな異音。


 Asaが小さく息を吐き、息苦しい沈黙を破った。


「もう十回以上、その場面を見てるよ」


 声は柔らかかったが、言葉は明瞭だった。


「ああ」


 Bansonは答えたものの、視線は依然として画面から離れない。


 スペースキーが、また乾いた音を立てた。


 動画が再び巻き戻される。


「Noaの後ろにいる人物を探してるの?」


 Asaはそう尋ねながら立ち上がり、Bansonの背後まで歩いていった。


 彼女の髪から漂う淡い香りが、Bansonの肩をかすめる。


 張り詰めていた彼の眉間が、ほんのわずかに緩んだ。


「いや」


 Bansonは一言だけ、鋭く切り捨てた。


 マウスから手を離し、椅子の背にもたれながら首を反らす。


 そして、逆さに見上げた視線がAsaの瞳を捉えた。


 Asaは、その漆黒の瞳の奥をじっと見つめた。


「じゃあ……何を探してるの?」


 Bansonは椅子を回し、彼女と正面から向き合った。


 両手を組み合わせ、膝の上に置く。


「この動画を、みんなが信じているような形では信じてはいけない――そう証明するための理由を探してる」


 その言葉に、他人とは違う道を選びたがる者特有の傲慢さはなかった。


 そこにあったのは、極限まで研ぎ澄まされた慎重さだった。


 彼は動画そのものを否定しているわけではない。


 動画から伝わってくる、背筋を這うような不気味さも否定してはいない。


 ただ、誰かが用意して、目の前に差し出した餌を丸ごと呑み込むことだけを拒んでいた。


 Asaは声を落とし、ゆっくりと尋ねた。


「じゃあ……この動画自体が偽物だと疑ってるの? ディープフェイク? それとも、編集や合成?」


 Bansonは首を横に振った。


 ゆっくりと揺れた髪がモニターの光を受け、壁に細長い影の筋を落とす。


「まだ分からない」


 彼は考え込むように答えた。


「動画そのものは本物かもしれない。屋上に立っている人物が、本当にNoaだった可能性もある。カメラを持っていた人物だって、本当に存在したのかもしれない。だが……」


 Bansonは一本の指を持ち上げた。


 そして、一語一語を押し込むように言った。


「……その三つが揃ったからといって、それだけで、この動画が俺たちの考えている“あの夜”に撮影された証拠にはならない」


 Asaは目を細めた。


 彼の思考の速度に、彼女の鋭敏な感覚も即座に追いついていく。


「つまり……時間?」


「その通り」


 Bansonは振り返り、いくつかのキーを素早く叩いた。


 画面に表示されたのは、警察から提供された技術報告書だった。


 Bansonが、少々のネットワーク上の細工をして複製したものだ。


「警察はオリジナルファイルを調べた」


 Bansonの声は一定で、冷たかった。


 まるで感情を持たない解析装置が、ただ事実だけを読み上げているかのようだった。


「初期解析の結果では、ファイル《NOA_FINAL.mp4》が作成された時刻は二十三時四十一分。その後、翌日の午前一時十三分に編集が行われている。さらに、このファイルを作成した学校内部システム上のアカウントは、現在ではもう存在しない」


 彼はそこで一度言葉を切った。


 Asaが情報を咀嚼するための時間を与える。


 それから、静かに続きを口にした。


「だが、ストレージの記録が一つの事実を暴いた」


 Bansonが画面を指で示す。


「このファイルは、アップロードに使われた端末で直接撮影されたものじゃない」


 Asaは机に手をつき、画面へ顔を近づけた。


「この二つの概念の間にある差は……」


「……真実と欺瞞の境界線だ」


 Bansonが言葉を引き取った。


 その目に、一瞬だけ鋭い光が走る。


「最初、全員――警察まで含めて――単純な計算を前提にしていた。二十三時四十一分。それが動画の撮影時刻だ、と」


 彼は淡々と続ける。


「そして、それをNoaの“死亡推定時刻”として扱った。だが、今出てきたデータが示しているのは何だ?」


 Bansonは画面を見つめたまま言った。


「二十三時四十一分は、動画がシステムに取り込まれた時刻にすぎない可能性がある。事件が起きた時刻そのものじゃない」


 Bansonの脳裏に、前日の午後、事件を担当する捜査官と電話で交わした短い応酬が蘇った。


『ですが、Banson君。ファイル名も作成時刻も、サーバーのログにははっきり残っています』


 捜査官の声には、学生一人に理屈で出し抜かれたことへの苛立ちが滲んでいた。


 それに対してBansonは、落ち着いた声で答えた。


『ええ。その通りです』


 一拍置いて、彼は続けた。


『ですが、サーバーが知っているのは、自分がファイルを受信した時刻だけです』


『サーバーは保管庫ですよ。証人じゃない』


『そこには屋上もなければ、カメラがNoaの顔を捉えた瞬間を目撃する目もありません』


 それは、Bansonの思考そのものを一段上の領域へと押し上げる、重要な転換点だった。


 彼は完全に切り分けていた。


 事件が実際に起きた時刻――Event Time。


 そして、データが記録・保存された時刻――Storage Time。


 この二つは、決して同じではない。


 感情という余分な脂肪を一片残らず削ぎ落とし、論理だけを露出させる。


 外科用メスの刃先のように、鋭く、冷たく、そして一切の無駄がない推論だった。

 Bansonはマウスを動かし、動画のプログレスバーを最後の数秒まで一気に引き寄せた。


 右クリック。


 拡大表示を選択し、映像の枠を右上へと移動させる。


 Noaの震える肩、そのすぐ後ろにある一角へ。


「見てくれ、Asa」


 Asaは息を呑み、画面へ顔を寄せた。


 そこにあった。


 埃と汚れに覆われた窓ガラスの一枚に、ぼんやりと映り込んだ壁掛け時計の影が。


 拡大による解像度の低下に加え、反射像であるため左右も反転している。映像は輪郭を失い、ほとんど滲んでいた。


 それでも――二本の針がどこを指しているのかだけは、辛うじて読み取れた。


 短針は、真下を指している。


 長針は、上方のどこかにあった。


「六時……」


 Asaが呟いた。


 驚愕の色が、声に滲む。


「午後六時ごろ」


「そうだ」


 Bansonは頷いた。


 その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ満足げな光が浮かぶ。


「反射の角度が曖昧すぎて、正確な分までは特定できない。だが、一つだけ確かなことがある」


 Bansonは画面を見つめたまま続けた。


「もし、あの時計が正常に動いていたのなら――この動画が二十三時四十一分に撮影されたはずがない」


「でも、あの時計が壊れていたら?」


 Asaはすぐさま反論した。


 Bansonと推論を交わすうちに培われた、彼女自身の生存本能とも言うべき思考の反射が働いたのだ。


「何か月も前から、六時を指したまま止まっていた可能性だってあるでしょう?」


 Bansonは、かすかに笑った。


 それは、恋人であるAsaの鋭さに向けられた、滅多に見せない微笑だった。


「俺も、最初にそう考えた」


 彼はそう言って、別の画像を開いた。


「だから、あの窓ガラスの位置を別の方法で照合してもらった」


 画面に表示されたのは、Seikou Academyの校舎見取り図だった。


「撮影角度と反射の位置から考えると、ここは新校舎じゃない」


 Bansonの指が、図面の一角を示す。


「西棟。旧校舎だ」


 そして、もう一枚の資料を指で軽く叩いた。


「それから、映り込んでいた時計だが……」


 一度言葉を切る。


「機械式なんだ。今どきの電子時計じゃない。ゼンマイを巻いて使う、時代遅れの代物だ」


 Asaが黙って聞いている。


「西棟はこれまで何度も電源を落とされている。それでも、あの機械式時計だけは、古株の警備員が毎朝ゼンマイを巻いている。もう習慣になっているらしい」


 その事実は、時間をめぐる矛盾を一気に致命傷へと変えた。


 当初の仮説を貫いていた一本の槍が、根元から折れたようなものだった。


「もし時計が狂っているなら、映像の中にあるただの意味のない物体だ」


 Bansonの声が、わずかに低くなる。


「だが、もし時計が正しいのなら……」


 彼はモニターを見つめた。


「《NOA_FINAL.mp4》を作った人間は、俺たちにわざと二十三時四十一分という数字を見せている」


「俺たちの目を、時間そのものから逸らすために」


 Bansonはゆっくりと言葉を継いだ。


「Noaが真夜中に死んだと思わせたいんだ」


 背筋に、冷たいものが走った。


 Asaは思わず腕を抱いた。


「じゃあ……その人物が、最初から全部仕組んだと思ってるの?」


 彼女の声は、いつの間にか低くなっていた。


「午後六時に撮影して、夜中になってからファイルをアップロードして、アリバイを作った……ってこと?」


 Bansonは、すぐには答えなかった。


 椅子の背もたれに体を預け、目を閉じる。


 数秒が過ぎる。


 部屋には、再び古いノートパソコンの冷却ファンが擦れるような音だけが響いた。


 やがてBansonが目を開く。


 その眼差しは、先ほどよりも冷たかった。


「まだ決めつけるな」


 一言ずつ、噛みしめるように言う。


「可能性を、自分の考えに都合がいいという理由だけで結論に変えるな、Asa」


「それこそが、心理学における最大の罠だ」


 Bansonは続ける。


「俺たちは今、“狡猾な犯人”を欲しがっている。だからこそ、真実を『あいつは意図的に仕組んだ』という型に無理やり嵌め込んでしまいやすい」


「本当に意図的だった可能性もある」


「だが……午後六時に撮影したあと、携帯をしまってしまい、深夜になってようやくパソコンを使える状況になった――それだけかもしれない」


 Bansonの視線がAsaを射抜く。


「どちらの可能性も、まだ閉じてはいない」


 それこそが、Bansonが自分自身に対して、徹底的かつ容赦なく課し始めた原則だった。


 ――望んだ答えから逆算して、推論してはならない。


 結果を先に決め、その結果に合うように事実を並べ替える。


 それだけは、絶対にしない。


「それと、もう一つある」


 Bansonが突然身を乗り出した。


 そして動画の再生バーを、00:14の位置まで一気に戻す。


「これを聞いてくれ」


「目を閉じて、聴覚だけに集中するんだ」


 Asaは言われた通りにした。


 ゆっくりと目を閉じる。


 耳に流れ込んでくるのは、スマートフォンのマイクを通して拾われた、風のざらついたノイズ。


 Noaの荒い息遣い。


 そして――


 その混沌とした音の底に、さらに微かな何かが潜んでいた。


 ビィィン……ボォォン……。


 ――鐘の音。


 ほんの短い一音だった。


 低く、重い。


 何重もの壁を突き抜けてきたかのように、あるいは遠く離れた場所から届いたかのように、音はくぐもり、途切れ途切れになっていた。


 それでも間違いない。


 学校内部で使用される通知用チャイムの音だ。


 一度だけ鳴り響き――すぐに、ぷつりと消えた。


 Asaが勢いよく目を開いた。


「学校のチャイム? でも、夜なのに……」


「その通りだ」


 Bansonが言葉を遮った。


 瞳が鋭く輝いている。


「俺はSeikou Academyの設備管理システムに侵入した」


 Bansonは淡々と続けた。


「Noaが失踪した夜、学校全体のメインチャイムは17時30分に自動停止するよう設定されていた。だが……」


 彼は、電気配線の接続図が複雑に入り組んだ技術資料を開いた。


「旧生徒相談室――西棟の奥深くにあるあの部屋には、独立した校内チャイムが一基だけ残っている」


「去年から回路に不具合があって、中央サーバーと同期していない」


 Bansonの指が、校舎見取り図の一角をなぞる。


「そして、そこは旧文書保管室のすぐ隣だ」


 Asaは、深く息を吸い込んだ。


 今まで誰もが当然のように信じていた配置図が、内部から少しずつ崩れ始めている。


 まるで、噛み合っていたはずの歯車が、一つずつ別の方向へずれていくようだった。


「ということは……」


 Asaの声は、興奮と恐怖が入り混じったせいか、わずかに震えていた。


「この動画は新校舎の屋上で撮影されたものじゃなくて……午後六時ごろ、旧校舎で撮られた可能性があるってこと?」


「それ以上に重要なのは――」


 Bansonは立ち上がった。


 両手をズボンのポケットに突っ込み、その眼差しが剃刀の刃のように鋭くなる。


「俺は、『Noaがどこで撮影されたのか分かった』とは言っていない」


 一拍。


「俺が言っているのは、『動画の音と光に一致する場所が少なくとも一つある。だから、そこを実際に調べる必要がある』――ただそれだけだ」


 そういう言い方だった。


 可能性を事実にすり替えない。


 推測を結論に昇格させない。


 Bansonの両足を、常に論理という地面へ繋ぎ止めているのは、まさにその姿勢だった。


 彼は当てずっぽうに答えを出さない。


 答えを探す前に、それを裏づける事実を探す。


 それから一時間後。


 BansonとAsaの関心は、別の一群のデータへと移っていた。


 ――SR-01。


 それまで警察も学校側も、メディアからの激しい圧力にさらされる中で、「SR-01」を一人の人間の別名だと早々に決めつけていた。


 Noaの成績を操作し、彼女を追い詰めて自殺へと至らせた、学校内に潜む正体不明の怪物。


 誰もが、そう思い込んでいた。


 だが、Bansonがある探索アルゴリズムを使い、Seikou Academyのネットワーク構造全体を走査すると――


 浮かび上がってきた事実は、彼らが想像していたものとはまるで違っていた。


「SR-01」


 Bansonは、モニター上で絶え間なく流れていくコードの列を指した。


「図書館管理モジュールにも出てくる。校内の食堂決済システムにも出てくる。それに、成績入力システムにも存在している」


 Asaは眉をひそめた。


「学校のシステム全部にアクセスできるハッカー?」


「違う」


 Bansonは首を横に振った。


 彼はスマートフォンを操作し、スピーカーモードで、今朝Seikou Academyの設備管理担当者と交わした短い会話の録音を再生した。


 スピーカーから、ノイズ混じりの男の声が流れる。


『君が聞いているSR-01のことか? あれはユーザーネームじゃない』


『アクセス・ロール――つまり、権限コードだ』


『SRは“System Root”の略称だ。データに深く介入する必要がある人間に与えられる権限でな。たとえば、成績の再審査申請を受けたあとに点数を修正するときや、新しい生徒証を登録するときなんかに使われる』


『このSR-01権限を、自分のアカウントに割り当てられている人間は、少なくとも六人いる。学校幹部から教務課までな』


 録音は、感情のない電子音――ピッ、という一音で終わった。


 その瞬間、手がかりの意味そのものがひっくり返った。


 SR-01が一人の人間を指しているのではないのなら――


 それは、必要な権限を持つ人間なら誰でもなり得る。


 あるいは。


 その権限を持つ者のアカウントを盗み、不正に利用した人間である可能性もある。


 Asaは核心へと踏み込んだ。


「じゃあ、Noaの成績変更命令が出されたとき、実際にキーボードを操作していたのが誰なのか……どうやって突き止めるの?」


「そこだ」


 Bansonが鼻で笑った。


 額に垂れかかっていた髪を、片手で後ろへとかき上げる。


「Seikouの旧システムは、ひどいほど脆かった」


「以前のシステムなら、操作を実行した人間のアクセスカードIDまで記録していた」


「だが、今年の初めに新しいサーバーシステムへ移行した際、バックアップ処理に障害が起きた」


「個人識別情報は失われた」


 Bansonは画面に別のログを表示した。


「旧サーバーの残骸に残っていたのは……乾ききった骨みたいなデータだけだ」


 モニターに、Bansonが旧サーバーの残骸から辛うじて掘り起こした四行の情報が表示された。


 Timestamp:19:12

 Device IP:西棟・資料保管室端末

 Action:UPDATE_GRADE(成績変更)

 Role:SR-01


 名前はない。


 画像もない。


 そこに残されているのは、冷たい数字と記号だけだった。


 Bansonの推論は、その瞬間に形を変えた。


 純粋に心理学だけで考えるなら、人はこう問う。


「犯人は誰なのか?」


 感情に流されれば、こう問うだろう。


「SR-01を使った悪人は誰なのか?」


 だが、Bansonが見つめていたのは、人間ではなかった。


 ログだった。


 その四行を見た瞬間、彼の頭脳は新しい方程式を組み上げた。


 ――もはや、問いは「SR-01とは誰なのか」ではない。


 問いはこうだ。


「――あの夜の19時12分、あの西棟の端末で、SR-01を使用する能力と権限を持っていたのは誰なのか?」

 それは、決定的な転換点だった。


 彼らは、ネットワークの闇に潜む幻のような存在を追う段階から、具体的な時間と場所の中に実在する、生身の人間を追跡する段階へと踏み込んだのだ。


「Noaのアカウントは、放課後にアクセスされている」


 Bansonは声を落として言った。


「19時12分。俺たちが動画の撮影時刻として疑っている18時から、ちょうど一時間ほど後だ」


「でも……」


 Asaは言葉を濁した。


 Bansonの慎重さが自分にも伝染したかのように、彼女もまた、軽々しく結論を出すことができなくなっていた。


「誰がアクセスしたのかは分からない。そもそも、その人物が本当にNoaの成績を下げたのか、それともただ閲覧しただけなのかも分からない。まして、その人物が彼女の死や動画の撮影に関係しているのかどうかなんて……」


「その通りだ」


 Bansonが彼女へ顔を向ける。


 その瞳には、隠しきれない強い称賛の光が宿っていた。


「だから、『19時12分に成績を変更した人間が犯人だ』とは言えない」


「それは論理の飛躍だ」


 Bansonは画面に手を伸ばし、19時12分という数字に指先を軽く触れた。


「だが、Asa」


 その声が、突然一段低く、力強い響きを帯びた。


「ここに、本当の証拠がある」


「どうして?」


 Bansonは、黒い画面の中央で白く浮かび上がるログを真っ直ぐに見つめた。


「この、嘘で絡み合った状況の中で――初めて俺たちは、明確な時刻を伴った一つの“行為”を手に入れたからだ」


「それは、歪められる可能性のある証言じゃない」


「匿名の脅迫文でもない」


「アップロード時刻を操作された動画でもない」


「物理的な事実だ」


 一つ一つの言葉を、確かめるように置いていく。


「誰かが西棟の端末の前に座り、システムへログインし、Shirasawa Noaのデータに手を加えた」


 BansonがAsaへ視線を向ける。


 周囲の空気まで、まるで凝固したかのように重くなっていた。


「そして今、俺たちが答えなければならないのは、その物理的な問いだ」


 一拍置いて、Bansonは言った。


「――あの夜の19時12分、西棟には誰がいた?」


 BansonとAsaがSeikou Academy西棟の旧資料保管室へ忍び込むことを決めるまで、それほど時間はかからなかった。


 何しろ、実際の現場には、デジタルデータには決して記録できない“残響”が残されている。


 旧校舎の内部には、朽ちかけた書類が放つ湿った黴の臭いと、腐り始めた木材の鼻を刺すような臭気が充満していた。


 閉ざされた鎧戸の隙間から差し込む薄明かりの中で、無数の埃がゆっくりと舞っている。


 二人はスマートフォンのライトを頼りに、錆びついた金属製の棚を一段ずつ照らしていった。


 棚には、黄ばんだ書類の束が隙間なく積み上げられている。


 Bansonが探していたのは、成績への異議申し立てに関する資料が保管されている区画だった。


 コンピューターシステムとは別に、Seikou Academyが今なお奇妙なほど律儀に維持している、手作業による記録管理だ。


「……あった」


 Asaが小さく声を上げた。


 四番の棚から、淡い青色のファイルを一冊引き抜く。


 ラベルには、はっきりと名前が記されていた。


 SHIRASAWA NOA


 二人はファイルを開いた。


 そこに綴じられていたのは、Noaが化学と数学の成績について再審査を求めた申請書だった。


 手書きの文字。


 少し右へ傾いた筆跡。


 文字の一本一本に、絶望が刻みつけられている。


 自分が積み重ねてきた努力の成果を、理由すら分からないまま奪われようとしている少女の筆跡だった。


 だが、Bansonの目を引いたのは、申請書の内容ではなかった。


 彼はライトを紙の右上へ向けた。


 そこには赤い判が押されていた。


 教務課が内部処理のために使用する受付番号だ。


 その番号は、二桁の数字で終わっていた。


 27。


 空気が、突然静まり返った。


 Asaの鼓動さえ、耳元ではっきり聞こえてくるほどだった。


 Bansonはゆっくりとコートのポケットへ手を入れ、小さな透明のジップ袋を取り出した。


 袋の中に入っていたのは、半分焼け焦げた硬質プラスチックの破片だった。


 数日前、旧校舎付近の排水溝に引っかかっていたのを、Bansonが拾ったものだ。


 表面の印刷はほとんど剥がれ落ちていた。


 それでも、識別番号の末尾だけが残っていた。


 ……27


「一致する……」


 Asaが囁いた。


 目を大きく見開く。


「じゃあ、そのカードの破片って……Noaのものなの? 彼女がこれを使って、この区画に入ったってこと?」


 ごく自然な、あまりにも単純な推論が二人の脳裏を駆け抜けた。


 Noaの申請書には27という番号がある。


 カードの破片にも27が残っている。


 ならば、そのカードはNoaのものだ。


 そして――Noaはここにいた。


 だが。


 Bansonは、まるで彫像のように動かなかった。


 手にしたライトも微動だにしない。


 彼の視線は、カードの破片からファイルへ移り、さらに一歩後ろへ下がった。


 そして、棚全体へとライトをゆっくり走らせる。


「違う」


 Bansonの冷たい一言が、Asaの早すぎる結論へ冷水を浴びせた。


「どうして?」


 Asaは眉をひそめた。


 恋人の反応が理解できない。


「だって、全部がそう示してるじゃない」


「示しているのは、俺たちが見たいものだ」


 Bansonが言葉を切った。


「本当に存在するものじゃない」


 その声音には、学生の論点を容赦なく崩していく教授のような響きがあった。


 Bansonは、別の生徒のファイルを一冊取り上げた。


 名前はTanaka。


 右上には、数字が記されている。


 14。


 さらに別の生徒のファイルを手に取る。


 そこには――


 89。


 Bansonはそのまま手早く別の棚を次々と開いていった。


 下級生の記録。


 過去数年分の記録。


 そして、古い年度のファイル。


 やがてBansonは、三冊のファイルをAsaの目の前へ差し出した。


 三人の異なる生徒。


 三つの異なる年度。


「Asa、これを見てくれ」

 三冊のファイル。


 その右上に記された番号は、すべて同じ数字で終わっていた。


 27。


 Asaは、言葉を失った。


「可能性その一。カードの破片に27という数字がある以上、それはNoa個人に紐づくものだった」


 Bansonは鋭い口調で分析を始めた。


「だが、可能性その二。『27』は個人識別番号じゃない。書類を分類するためのコードかもしれない。複数の部署で循環的に使われる内部整理番号かもしれない。あるいは、この保管区画そのものを示す番号かもしれない」


 Bansonは三冊のファイルを机の上へ置いた。


 積もっていた埃が舞い上がり、薄暗い空気の中へ白い靄のように漂う。


「結論。27という数字だけでは、一人の人間を特定するには不十分だ」


 彼は淡々と言った。


「ある数字が別の場所にある同じ数字と一致したからといって、それだけで証拠としての価値が生まれるわけじゃない。その数字が意味を持つのは、それが唯一無二のものだった場合だけだ」


 それは、手がかりを“解毒”する瞬間だった。


 下手な推理小説なら、こうした偶然の一致に飛びつき、そこへ無理やり意味を与えて、偽りの緊張感を作り上げるだろう。


 だが、Bansonは違った。


 自分自身が抱いた幻想さえ、自らの手で打ち砕く。


 たとえそれが、どれほど残酷な現実を目の前に突きつけることになったとしても。


「じゃあ……」


 Asaが息を吐いた。


 肩の力が抜ける。


「また手がかりを一つ失ったってこと? 最初からやり直し?」


 Bansonは彼女へ顔を向けた。


 手にしたライトの光が天井を照らし、その反射が二人の間にぼんやりとした光の輪を描いている。


 Bansonが一歩、近づいた。


 二人の距離が縮まる。


 彼は手を伸ばし、Asaの頬にかかっていた一房の髪を、そっと耳の後ろへ払った。


 その優しい仕草は、鋭い刃物のように働き続けている彼の頭脳とは、あまりにも対照的だった。


「違う、Asa」


 Bansonの声は、低く穏やかだった。


「何も失ってない」


 彼は続けた。


「むしろ、今、とても重要なことを一つ証明できた」


 Asaは黙ったまま、次の言葉を待った。


「俺たちは今、27という数字が、人間を特定する証拠にはならないと証明した」


 Bansonの口元が、わずかに歪む。


 それは、姿の見えない犯人へ向けた、侮蔑の笑みだった。


「誰かが、27と印字された焼け焦げたカードの破片を、わざと排水溝に残した。誰かがそれを拾えば、Noaの整理番号と結びつけるだろう――そう期待して」


「Noaが死ぬ前に、この辺りをうろついていた。そう思わせるために」


 Bansonの目が冷たく細められる。


「つまり、奴は偽りの足取りを描こうとしている」


「俺たちの捜査の方向そのものを、操作しようとしているんだ」


 Bansonは再び書類棚へ振り返った。


 ライトを最下段へ向ける。


 そこには、まるで闇そのものが溜まっているかのような濃い影が沈んでいた。


「そして、27が“人間”じゃないのなら――」


 Bansonは囁いた。


「それは、“つながり”だ」


 ライトの光が、分厚い埃に覆われた金属棚の表面を横切る。


 そして、中央付近で止まった。


 そこだけ、異様なほど綺麗だった。


 長方形の形に、くっきりとした空白が残っている。


 埃が積もっていない。


 つまり――


 長いあいだ、そこには長方形の物体が置かれていたのだ。


 周囲に埃が積もるほどの長期間。


 そして、その物体だけが、ごく最近持ち去られた。


 その空白のすぐ脇に、一つの古びた段ボール箱があった。


 角が破れ、紙自体もところどころ裂けている。


 箱の側面には、黒いマーカーで手書きされた文字が、色褪せながらもライトの下に浮かび上がった。


 GRADE REVIEW — 27

(成績再審査――27)


 BansonはAsaを見た。


 その瞬間、彼の中で27という数字は、完全に別の姿へと変わった。


 それはもう、Shirasawa Noaを指す数字ではない。


 それは、三つのものを見えない一本のクリップで束ねるように繋ぎ止める数字だった。


 Noaの記録。


 SR-01のアクセス権。


 そして――この暗い資料保管室。


 * * *


 Mizuno Reikaは、体育館の裏手にある石のベンチの上で、身を縮めるようにして座っていた。


 空は重く垂れ込めている。


 今にも雨が降り出しそうな灰色の雲が、少女の強張った肩へ、さらに重い影を落としていた。


 ReikaはSeikou AcademyでのNoaの親友だった。


 少なくとも――あの日々が壊れてしまう、その前までは。


 事件の始まりから、彼女は一貫して、Noaが抱えていた問題について何も知らないと否定していた。


 二人はずっと前から疎遠になっていた。


 そう、繰り返し主張してきた。


 だが今日、Bansonに猫と鼠のような探り合いを続けるつもりはなかった。


 BansonとAsaが近づく。


 二人の姿が、Reikaへ残されていたかすかな光を遮った。


 Bansonの靴底が乾いた落ち葉を踏み砕く。


 ぱきっ――。


 乾いた、鋭い音だった。


 警察がこれまで何度も繰り返したように、


「Noaが何かトラブルを抱えていたことを知ってるんだろ?」


 などという曖昧な問いから始めることはしない。


 Bansonは、Reikaの心理的な防壁へ、いきなり爆薬を叩き込んだ。


「Shirasawa Noaと一緒に、西棟の成績異議申立て処理室へ行ったことがあるか?」


 問いかけだった。


 だが、その声音には疑問符など存在しなかった。


 ほとんど断定そのものだった。


 Reikaの身体がびくりと跳ねた。


 瞳孔が収縮する。


 スカートの端を強く握りしめていた指先から、血の気が引いていく。


 沈黙が続いた。


 限界まで引き伸ばされた一本の糸のように。


 あと少しでも力を加えれば、今にも切れてしまいそうだった。


 あまりにも具体的で。


 あまりにも細部まで踏み込んだ問いだった。


「何も知らない」という彼女の薄い殻を、真正面から突き破っている。


 もはや、ありふれた嘘や曖昧な言葉で誤魔化すことはできない。


 やがて――


 Reikaは途切れ途切れに息を吸い、ほんの小さく頷いた。


「……ある」


 彼女は顔を上げた。


 目は赤く腫れていた。


「私……一度、あの子と一緒に旧相談室へ行った」


「でも、怖くて言えなかった……」


 声が震える。


「私も一緒にそこにいたって知れたら、警察は……私がNoaの成績を下げることに手を貸したんじゃないかって思うかもしれない」


 一度、言葉が詰まる。


「それより……最悪の場合、あの子が飛び降りたことに私も関係していると思われるかもしれない」


 AsaはBansonの隣に立ったまま、黙ってReikaの表情を観察していた。


 こうした感情の微細な揺らぎを読み取ることについては、AsaのほうがBansonより鋭い。


 唇の端に走る震え。


 真正面から目を合わせることを避けるように、視線を落とす仕草。


 Asaには分かっていた。


 Reikaが感じているのは、単なる恐怖だけではない。


 その瞳を覆っている薄い霧の正体は、もっと深いものだった。


 罪悪感。


 人を内側からゆっくりと蝕んでいく、逃げ場のない罪悪感だった。


 だがAsaは、それと同時に、Bansonがいつも決して忘れない原則も理解していた。


 ――罪悪感と殺人は、同義ではない。


 自分の良心に苛まれているからといって、その人間が血にまみれた殺人者になるわけではない。


 Reikaはやがて嗚咽を漏らし始めた。


 そして、押し込めていた言葉が、決壊した堤防のように一気に溢れ出した。


「Noaが……私に聞いたことがあるの……」


 声が震える。


「『Reika、もし成績が明らかに書き換えられてるのに、誰も正しい数字に直してくれなかったら……被害を受けてる私は、どうすればいいの?』って……」


 彼女は涙を堪えながら続けた。


「私……こう言った」


「『もう放っておきなよ。大ごとにしないで。そんなことしたら、あの人たちにもっと嫌われるだけだよ』って……」


 Reikaは両手で顔を覆った。


 熱い涙が、指の隙間を伝って落ちていく。


「でも、Noaは聞かなかった……」


「どうして自分の点数が何度も下げられているのか、自分で調べたいって……」


「だって、テストでは正解と同じ答えを書いていたのに……」


「そして、お前は知っていた」


 Bansonが冷たく口を挟んだ。


 最後に残った事実を、容赦なく剥ぎ取るように。


「Noaの成績が操作されていたことを、最初から知っていた」


「お前が黙っていたのは、疑われるのが怖かったからだけじゃない」


「自分自身も、Noaの成績を踏みにじることで利益を得ていた生徒の一人だと知られるのが怖かった――そうだろ?」


 Reikaは凍りついた。


 顔を覆っていた手が、ゆっくりと落ちる。


 その瞳は、完全に混乱していた。


「どうして、最初から警察に話さなかった?」


 Bansonがさらに追及する。


 逃げ道を一切残さない、剣のように鋭い声だった。


「どうして……って……」


 Reikaの唇が震える。


「だって……私は……嘘をついたから!」


 叫び声が風の中で砕け散った。


「自分が嘘をついたことくらい、分かってる」


 Bansonの返事には、感情がなかった。


「違う!」


 Reikaは勢いよく立ち上がった。


 一歩、後ずさる。


 その目は、ほとんど正気を失いかけていた。


「あなたには分からない!」


「私が嘘をついたのは、私が犯人だからじゃない!」


「分かる?」


 声が震える。


「私は……そこにいたの」


「友達が追い詰められていくのを……逃げ場のないところまで追い込まれて、深い谷の底へ落ちていくのを……私は見てた」


「それなのに、自分に言い聞かせてた」


「『私が口を出すほどのことじゃない。きっと大丈夫』って……」


 その声は次第に激しく震え、途切れ途切れに崩れていった。


「私は、自分には関係ないと思ってた……」


「自分だけは、汚れずに済むと思ってた……」


「でも……」


 Reikaは唇を噛みしめた。


「声を上げなきゃいけないって気づいたときには……」


「Noaの側に立たなきゃいけないって分かったときには……」


「もう、遅すぎた……」


 Reikaの膝から力が抜けた。


 そのままベンチへ崩れ落ちる。


 嗚咽が何度も漏れた。


 それは、無力さと後悔と、どうしようもない苦痛が混ざり合った泣き声だった。


 Reikaの言葉は、人間という存在の本質に突きつけられた、残酷な真実そのものだった。


 彼女が抱えていたのは、傍観者としての罪悪感。


 自分自身の利益のために、見て見ぬふりをした。


 真実を隠す理由も、いくらでもあった。


 臆病だった。


 卑怯だった。


 だが――


 どれほど彼女が弱く、愚かで、罪悪感に苛まれていたとしても。


 その嘘だけでは、まだ“殺人という動機”にはならない。


 Bansonには、その境界がはっきりと見えていた。


 彼は、犯人を追い詰めることで自分の優越感を満たすためだけに尋問する探偵ではない。


 彼が求めているのは、誰かを犯人にすることではない。


 真実だった。

 Bansonは、その場に立ち尽くしたまま、しばらくReikaを見つめていた。


「きっと大丈夫だ」などという、上辺だけの慰めを口にすることもなかった。


 かといって、臆病だった彼女を責めたり、侮辱したりすることもしない。


 ただ、一歩だけ彼女へ近づく。


 そしてその声は、いつものBansonへ戻っていた。


 静かで、冷たく、無機質。


 それが彼という人間の本質だった。


「お前が嘘をついたからといって、俺はお前を断罪するつもりはない、Reika」


 Bansonは、一語一語を明瞭に区切った。


「法律は、臆病そのものを罪には問わない」


「だが、これだけは覚えておけ」


「今この瞬間から、俺はお前の口から出る言葉を、俺自身で確かめられるまでは、一つたりとも真実として扱わない」


 Reikaが顔を上げる。


 涙でぐしゃぐしゃになった顔だった。


 それでも、彼女は小さく頷いた。


 理解していた。


 それは公平な判決だった。


 冷酷で、容赦のない対決。


 それでも、論理というルールには完全に従っている。


 BansonとAsaが体育館の裏手を離れる頃には、小雨が降り始めていた。


 冷たい雨粒が肌を叩く。


 その一粒一粒が、Reikaの残していった、罪悪感に濃く淀んだ空気を少しずつ洗い流していくようだった。


 AsaはBansonの隣を歩いていた。


 彼女はちらりと横目で、彼の横顔を見た。


「何を考えてるの?」


 沈黙を破るように尋ねる。


 Bansonはコートのポケットへ手を入れ、雨に濡れた道の先だけをまっすぐ見つめていた。


「ReikaはNoaを知っていた。成績のことも知っていた」


「うん」


 Asaが頷く。


「それは本人も認めた」


「だが……」


 Bansonはゆっくりと言った。


「彼女は、あの動画がネット上に流出するまで、その存在を知らなかった」


 Asaの足が、一瞬だけ止まった。


 探るような目でBansonを見る。


「本当にそう思ってるの?」


 Bansonはすぐには答えなかった。


 そのまま数歩、歩く。


 そして突然、立ち止まった。


 通り過ぎていく生徒の透明なビニール傘を、雨粒がぱらぱらと叩いていた。


「……いや」


 Bansonが答えた。


 その声には、自分自身に対するわずかな驚きが混じっていた。


 Asaが眉を寄せる。


「なのに、まるで事実みたいに言ってた」


 Bansonは長く息を吐いた。


 白い息が薄く漂い、湿った空気の中ですぐに消えていく。


 そしてAsaへ顔を向ける。


 口元が、わずかに皮肉な笑みを作った。


「ただの仮定だった」


「Reikaが自分の臆病さを認めたから、あいつにはあの動画を撮影するだけの度胸もなかった――俺は無意識に、そう決めつけていた」


 Bansonは小さく首を振った。


 表情が引き締まる。


「そして今、気づいた」


「俺は、警察の連中に対して一番嫌っていることを、自分自身もやりかけていた」


 Asaが小さく笑った。


 それは嘲笑ではない。


 彼の意味を理解した者だけが浮かべる、静かな笑みだった。


「先に推測して、それから証拠を都合よく組み立てようとする?」


 Bansonは頷いた。


「自尊心が仕掛けた、完璧な罠だ」


「俺は危うく、同情という感情だけを理由に、Reikaをカメラを持っていた人物の容疑者リストから外すところだった」


 それは小さな瞬間だった。


 だが、Bansonという人物を形作るうえで、極めて大きな意味を持つ瞬間でもあった。


 Bansonは、何もかもを見通す「神のような探偵」ではない。


 間違えることもある。


 感情に惑わされることもある。


 だが――


 彼を鋭く、そして危険なほど強靭な存在にしているのは、自分自身を客観視する能力だった。


 そして、わずかでも論理の綻びを見つければ、自らの仮説さえ容赦なく叩き壊せること。


 その瞬間だった。


 Asaのコートのポケットの中で、スマートフォンが激しく震えた。


 土砂降りとまではいかない雨音を切り裂くように、緊急メッセージの着信音が響く。


 Asaがスマートフォンを取り出し、画面を見る。


 知らない番号。


 匿名の送信者だった。


 最初のメッセージ。


 西棟の旧資料保管室に気を取られているな。


 Asaの顔色が変わった。


 彼女は慌ててスマートフォンをBansonの前へ差し出す。


 Bansonの瞳孔が縮む。


 誰かが、彼らを監視している。


 あるいは少なくとも――


 SR-01についての情報を掘り起こしたあと、Bansonが次にどんな手を打つのかを、すでに予測していた人間がいる。


 続けざまに、二通目のメッセージが表示された。


 まるで真っ直ぐ振り下ろされた刃のような一文。


 27番の札が付いた扉を開けるな。後悔したくなければ。


 周囲から、空気そのものが抜き取られたようだった。


 Asaの血が、熱を帯びて全身を駆け巡る。


 これほど露骨な挑発を目の前に突きつけられれば、真実を追う者の本能は――そこへ向かい、扉を蹴破り、正体を隠した誰かが何を守ろうとしているのか確かめることだ。


 Asaも反射的に一歩後ずさった。


 身体がすでに西棟へ戻る方向へ向かおうとしている。


 そのときだった。


 温かな手が、彼女の手首をしっかりと掴んだ。


 Bansonだった。


 痛みを与えるほど強くはない。


 それでも、決して振りほどけないだけの確かな力があった。


 地面へ繋ぎ止める錨のように。


 Bansonは、すぐには走り出さなかった。


 その場に立ったまま、スマートフォンの画面を凝視している。


 頭の中では、すでに情報の解析が凄まじい速度で進んでいた。


 やがて顔を上げ、Asaを見る。


「行かない」


 Asaは目を見開いた。


「でも、Banson……もしあの部屋に最後の証拠が隠されていたら? それに、もし犯人が中で証拠を処分していたら――」


「止めないと!」


「落ち着け、Asa」


 Bansonの声は、不思議なほど穏やかだった。


 それは、嵐の真ん中にあっても一切波立たない湖面のようだった。


 彼は、彼女の言葉を絶対的な理性で断ち切る。


「文章をよく見ろ」


「俺たちには、メッセージを送った人間が本当に俺たちを監視しているのか、それともシステムログへのアクセスを検知した時点で、自動送信されるよう仕掛けられていたメッセージなのか――まだ分からない」


 Bansonは一つ目の可能性を潰すように、淡々と続けた。


「それに、もう一つ」


「奴が言っている『27番』が、部屋番号なのか、書類棚の番号なのか、それともカードの識別番号なのかも分からない」


 Asaは黙った。


 胸が激しく上下している。


 だが、先ほどまで身体を突き動かしていた焦燥は、Bansonの論理によって少しずつ鎮められていった。


 Bansonは彼女の手首から手を離した。


 そして、そのまま手を滑らせ、彼女の指と自分の指を絡ませる。


 軽く、握る。


「罠だ」


 Bansonが囁いた。


 霧雨に霞む校舎の向こうを、深く見つめながら。


「罠が本当に効力を持つのは――俺たち自身が、自分の意思でそこへ足を踏み入れると決めたときだけだ」

 Bansonは、好奇心や「何かしなければならない」という衝動に、自分を支配させなかった。


 匿名の脅迫文一つを理由に、愛する恋人を連れて、先の見えない暗闇の中へ死に物狂いで駆け込むこともしなかった。


 そこに、Bansonの成長がはっきりと表れていた。


 もはや彼は、素人探偵を気取って、自分の手で事件を解決し、英雄になろうとしていた少年ではない。


 自分自身が誰かに操られることを許したとき、その代償がどれほど重いものになるのか――彼はもう理解していた。


 走り出す代わりに、Bansonは親指でスマートフォンを素早く操作した。


 そして、警察の担当捜査官の内線へ直接電話をかける。


「捜査官。今すぐ人員を出して、西棟の旧資料保管室の外周全体を封鎖、確認してください」


 Bansonの声は落ち着いていた。


「外側からだ。分かったな? 扉は開けるな」


「警察犬と熱画像スキャナーも連れていけ」


「もう一度言う。外から確認するんだ」


 そう言い切ると、Bansonは電話を切った。


 その平静さは、揺るぎない盾となっていた。


 犯人は、二人に扉を開けさせたがっている。


 ならば――Bansonは、その逆を選ぶ。


 あの扉を、自分たちの手で開けるのではない。


 警察という力で、完全に封じ込める。


 * * *


 BansonとAsaが背を向け、校門の外へ歩き出した。


 冷たい雨の向こうへ消えていく二人の背後に、旧校舎が取り残される。


 だがその頃――


 西棟のさらに奥、誰の視界にも入らない暗がりでは、すべてがぞっとするほど静かな軌道に沿って動き続けていた。


 物語の視点は、墨を流したように暗い廊下を通り抜ける。


 風がひゅうひゅうと吹き抜ける、ガラスの割れた窓。


 その脇を滑るように進み――


 やがて、朽ち果てた木製の資料保管室の扉の前で止まる。


 扉を透過するように視線が室内へ入り込む。


 そこは、湿気と黴と腐朽した紙の臭いが充満した空間だった。


 部屋の隅に置かれた机。


 その上では、古びた端末のモニターが、怪異じみた青い光をなおも放っていた。


 Bansonがつい先ほど掘り出したログが、画面上にそのまま残っている。


 19:12 | IP_WEST_STORAGE | UPDATE_GRADE | SR-01


 だが、そのすぐ下。


 接続が弱かったため、Bansonのシステムがまだ完全には読み込めていなかった領域から――


 さらに古い情報の断片が、キャッシュメモリの闇からゆっくりと姿を現し始めていた。


 一行。


 また一行。


 点滅する文字列が、真実に開いた空白を少しずつ埋めていく。


 ACCESS CARD: [ID_REDACTED]—27


 画面上の十字形のマウスポインターが、一度瞬く。


 二度。


 三度。


 古いCPUの冷却ファンが唸る。


 まるで、死に瀕した機械仕掛けの怪物が、喉の奥から最後の呻き声を絞り出しているかのようだった。


 そして――


 くすんだ黄色の警告表示が、一行だけ浮かび上がった。


 その表示が存在したのは、わずか一秒にも満たない。


 次の瞬間。


 何者かの介入によって、システムそのものが強制的に電源を断たれた。


 だが――


 その一秒だけで、最も恐ろしい真実を暴くには十分だった。


 CARD STATUS: ACTIVE


 ――カード状態:有効。


 画面が、突然、完全な暗闇へと落ちた。


 部屋の空気が、急激に濃密になる。


 骨まで凍てつくような冷気が、静かに満ちていく。


 そして、その直後だった。


 資料保管室の外側から――


 金属がかすかに擦れる音がした。


 Clack.


 小さな音だった。


 それでも、それは剃刀の刃のように鋭く、部屋に沈んでいた静寂を真っ二つに切り裂いた。


 誰かが、鍵を回した。


 ――扉が施錠された。


 だが、誰にも分からない。


 今、鍵を回した人間は、廊下の外側に立っているのか。


 それとも――


 そもそも最初から、この部屋の中にいたのか。


 書類棚と書類棚の間に落ちた深い闇へ、その姿を溶かしたまま――。


 もし、排水溝から見つかった、焼け焦げたカードの末尾に残っていた「……27」が、失われた過去の残骸などではなかったとしたら。


 もしそれが――


 そのアクセス権が。


 そのカードが。


 これまで一度も無効化されていなかったことを示す印だったとしたら。


 その瞬間、この事件を覆っていた謎の問いそのものが変わる。


 もはや、


「過去、19時12分にShirasawa Noaのデータへアクセスしたのは誰だったのか?」


 ではない。


 もっと恐ろしい現実へと、問いは姿を変えていた。


 ――「誰が……」


「すべての人間が、その持ち主は永遠に消えたと思い込んでいるというのに――」


「今なお、27番のカードを使い続けているのか?」


「このシステムの中で」


「この学校の中で」


「誰にも気づかれないまま――」


 闇が、完全に部屋を呑み込んだ。


 残されたものは、ただ一つ。


 窓を激しく叩きつける雨音だけだった。


 その音は、次第に強さを増していった。

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