Episode 27
真昼の眩い陽光が、天文塔のクリスタルガラス張りの窓を突き抜け、床に散乱した毛布や寝具の山を容赦なく照らし出していた。
あまりにも静かな空気の中、毛皮の毛布の下から、かすかな寝息と規則正しい寝言交じりのいびきが聞こえてくる。
昨夜、星々を眺めながら、半ば冗談めかして永遠の愛を誓い合った末、ゲンソンと趙敏はいつの間にか互いに寄り添ったまま、眠りへ落ちてしまっていたのだ。
――その瞬間だった。
轟音とともに、魔法陣の紋様が刻まれたオーク材の扉が、蹴破られるようにして勢いよく開け放たれた。
「起きろ! 今すぐ起きろ、この怠け豚どもが!」
雷震宝の甲高い怒鳴り声が部屋中に轟き、穏やかな静寂を粉々に切り裂いた。
毛布の山の中で、ゲンソンの身体がびくりと跳ねる。
「うわっ……!」
そのまま彼はごろごろと床へ転がり落ち、髪はまるで烏の巣のようにぼさぼさになっていた。
まだ夢の中にいるような顔で目をこすり、彼は何度もあくびをする。
「くそ……人が気持ちよく寝てるときに叩き起こすんじゃねえよ、クソガキ……」
ゲンソンはぶつぶつ文句を言いながら、寝間着の下の平らな腹をぽりぽりとかいた。
「お前、知らねえのか? ノックするのが貴族階級における最低限の礼儀だろうが。新魔王を名乗りたいくせに、山賊みたいな振る舞いしやがって」
残された毛布の隅から、趙敏もゆっくりと身体を起こした。
鮮やかな橙色の髪は完全に乱れ、眠気の残る頬には、袖に押し潰されたせいで赤い跡まで残っている。
だが――
父、雷善長夢が扉の前に立ち、腕を背中で組んだまま、乱雑に積み重なった寝具を冷たい眼差しで見つめているのに気づいた瞬間、彼女の眠気は一気に吹き飛んだ。
「お父様……!」
趙敏は慌てて飛び起き、しわだらけになった舞踏会用のドレスを必死に整える。
「私たちは……昨夜、戦術について話し合っていて……そのまま、いつの間にか眠ってしまったのです」
雷善は何の感情も示さなかった。
ただ、口元だけをわずかに歪め、薄い笑みを浮かべる。
「戦術だと? それとも今朝の訓練から逃げる方法でも相談していたのか?」
「もう太陽は真上だぞ、敏。私は、お前をこんな規律知らずの人間に育てた覚えはない」
「おい、爺さん。彼女を怒鳴るなよ」
ゲンソンは割って入ると、何食わぬ顔で上着を拾い上げ、身につけ始めた。
「悪いのは俺だ。眠すぎて、こいつを引き寄せちまっただけだよ。昨日、お前んとこの息子に散々殴られて痛かったもんだから、一晩中どうやって復讐してやろうか考えてたんだ」
「復讐だと?」
雷震宝が甲高い声で笑った。
鋭い牙が露わになり、その顔には露骨な侮蔑が浮かんでいる。
拳を強く握り締めると、節々の周囲から小さな黒い気が、じゅうじゅうと音を立てながら立ち上り始めた。
「昨日、偶然一発当てられただけで、いい気になるんじゃねえぞ、この役立たずが! 今日、訓練場に来なかったら……この部屋で、そのままお前を粉々にすり潰してやる!」
ゲンソンは肩をすくめると、雷震宝へ歩み寄り、ぽん、とその肩を叩いた。
その一撃だけで、少年の身体がよろめく。
「そうカリカリするなって。朝飯は食ったのか? 飯も食ってないのに喧嘩を始める気かよ」
そして、にやりと笑う。
「まあいい。そこまでやる気なら、兄ちゃんが相手してやる。行こうぜ、闘技場へ。今日はお前に教えてやるよ――愛と正義の力ってやつをな!」
趙敏はわずかに眉をひそめると、ゲンソンの袖を掴んだ。
「あなた、馬鹿なの? 昨日の震宝の力なんて、あれでもまだ準備運動にすぎないわ。今日はお父様が監督しているのよ。そんなことをしたら、本当に殺されるわよ」
「俺のこと、心配してるのか?」
ゲンソンは片目をぱちりと閉じ、ニヤニヤと笑った。
「守るって約束しただろ? ほら、顔でも洗ってこい。それから闘技場で俺の晴れ舞台を見届けてくれよ」
――三十分後。
黒石闘技場。
今回は、空中に浮かぶガラス製の観覧台は存在しなかった。
雷善と趙敏は、闘技場の縁に設けられた高い石造りの台座へ直接立っていた。
正午の風が熱気を孕んで吹き抜け、かつて繰り広げられた戦闘の余波として残留する魔力の熱が、肌を焼くように周囲へ漂っている。
闘技場の中央。
ゲンソンと雷震宝は、二十メートルの距離を隔てて向かい合っていた。
雷震宝はすでに戦闘形態へ移行している。
三歳半ほどの幼い身体は異様なまでに膨張し、隆起した筋肉の上を真っ黒な血管が這うように浮かび上がっていた。
両目は悪魔蜘蛛のような完全な漆黒へ変貌し、一方で両脚は長く引き伸ばされ、暴君カンガルーの持つ圧縮動力構造を備えている。
「お前、棺桶の準備はできてんだろうな?」
変形しつつある顎のせいで、雷震宝の声は不気味に歪んでいた。
「今日は、お前の身体に埋め込まれたクソみてえな微細回路を、一つ残らず引き裂いてやる!」
ゲンソンはすぐには答えなかった。
彼はただ真っ直ぐに立ったまま、自分の装甲を見下ろす。
そこには、青い光を放つ六角形の抑制装置が五つ取り付けられていた。
「なあ、坊や」
ゲンソンはため息をついた。
その声音には、奇妙なほどの倦怠感が滲んでいる。
「昨日の夜、いろいろ考えたんだよ。ずっとこの玩具みたいなもので魔力を封じたまま、お前と戦い続けてるだろ?」
「……なんつーか、大人が幼稚園児をいじめてるみたいでさ」
「公平じゃないんだよ」
そう言うと、ゲンソンは胸元へ手を伸ばした。
――ガシャッ。
最初の抑制チップを、装甲から無理やり引き抜く。
石造りの台座の上で、趙敏の瞳孔が縮んだ。
彼女は一歩前へ踏み出すと、叫んだ。
「ゲンソン! 何をしているの!?」
「それには絶対に触らないって、私と約束したでしょう!」
ゲンソンは振り返らなかった。
その手は止まらない。
――ガシャッ。
――ガシャッ。
――ガシャッ。
――ガシャッ。
残る四つの抑制装置も、次々と接続部から引き剥がされた。
彼はそれらを価値のない小石でも投げ捨てるかのように、何気なく黒石の床へ放り投げる。
カチャ、カチャ、カチャ――。
乾いた金属音が、広大な闘技場の静寂に吸い込まれていく。
「安心しろよ、姫さん」
ゲンソンは振り返りもせず、いつものような調子で手をひらひらと振った。
「たまには少しくらい公平に遊ばなきゃな」
そして、口元を吊り上げる。
「今日は純粋な人間の力――百パーセントだけで、こいつの顔面をぶん殴ってぶっ壊してやるよ!」
雷善は目を細めた。
何かが変化した。
だが、彼が予想していたような禍々しいエネルギーの爆発は起こらない。
古代より眠っていた圧倒的な威圧も、どこからも噴き出してこない。
空間は依然として静まり返っていた。
あの人間の少年は――
本当に、自分が持つ唯一の防御手段を自ら捨て去り、魔族の力の前に完全に無防備な存在となったのだ。
「馬鹿が!」
雷震宝が咆哮する。
「自分から死にに来やがったな!」
――ドンッ!!
空気が爆発した。
床の一角を踏み潰すほどの踏み込みとともに、雷震宝の身体が黒い閃光へと変わり、空間そのものを引き裂く。
その速度はすでにマッハ五を超えていた。
普通の人間の肉眼にとって、それは完全なる消失だった。
しかし――
ゲンソンの量子演算脳には、すべてが明確に見えている。
軌道。
角度。
空気抵抗。
攻撃が到達するまでの時間。
そのすべてを、彼は認識していた。
ゲンソンは、ほんの半歩だけ左へ身体をずらす。
だが――
身体が反応しきれなかった。
抑制チップによる増幅機能を失った無力状態の装甲は、突然、鉛のように重くなっていた。
――ドゴォン!!
黒い気を纏った凄まじい蹴りが、ゲンソンの腹部中央へ直撃した。
猛烈な衝撃が装甲を貫き、三本の肋骨をへし折り、内臓を激しく揺さぶる。
ゲンソンは大量の鮮血を吐き出した。
小さな身体が宙へと持ち上げられ、そのまま数十メートルも吹き飛ばされる。
背中から地面へ叩きつけられ、その勢いのまま何度も何度も転がった。
「ゲンソン!」
趙敏は石の手すりへ指が食い込むほど強く手を握り締め、息を詰まらせた。
「立てよ、このクズが!」
雷震宝は狂ったように叫ぶ。
だが、止まらない。
雷震宝が再び加速した。
速度は限界を突破し、ついには光学的残像を生み出し始める。
一人。
二人。
十人。
五十人。
雷震宝と同じ姿をした黒い影が、あらゆる方向からゲンソンを取り囲んだ。
その狂気じみた笑い声が四方八方から響き渡る。
まるで何万もの悪魔が、生贄を神へ捧げる儀式を行っているかのようだった。
ゲンソンはよろめきながら立ち上がった。
口元についた血を手で拭い、わずかに口角を上げる。
「安っぽい手品だな……」
彼は目を閉じた。
そして、全身の力を右腕へ集中させる。
次の瞬間。
死角となる左側から飛び込んできた影へ向けて、渾身の拳を叩き込んだ。
――ヒュッ。
拳が空気を切り裂く。
だが、それはただの幻影だった。
「どこ殴ってやがる、盲目のクソ犬が!」
本物の雷震宝の声が、右耳のすぐそばで響いた。
――ズガァン!!
濃密な黒い気を拳へ凝縮し、火山そのものの力を圧縮したかのような一撃が、ゲンソンの頬へ真正面から叩き込まれた。
その破壊力は凄まじかった。
衝撃波が巨大な円錐状となって広がり、周囲の土砂を一掃し、闘技場上空に浮かぶ雲さえも吹き飛ばしていく。
これほどの一撃をまともに受ければ、普通ならゲンソンの頭部は跡形もなく吹き飛び、少なくとも身体は何キロも遠くまで飛ばされているはずだった。
――だが。
ゲンソンは、飛ばなかった。
彼の両足は黒石の床へ深く沈み込み、まるで不滅の古樹の根のように大地へ食い込んでいた。
拳による圧力を受けても、身体はほんのわずかに傾いただけ。
次の瞬間。
空気が凍りついた。
荒れ狂っていた衝撃波が、突如として空中で静止する。
そして――
無数の見えないガラス片へと砕け散り、消滅した。
石の台座の上で、雷善の笑みが固まった。
趙敏は目を大きく見開き、呼吸そのものを忘れていた。
その瞬間。
ゲンソン・ジェスーダの精神の最深部で、壮絶な殺戮が起きていた。
騒がしく、愚かで、よく笑い、よく計算する――
人間としての自我。
完璧な仮面を作り上げていた、その人格。
それは薄れていったのではない。
統合されたのでもない。
ただ――
果てのない暗闇によって噛み砕かれ、飲み込まれた。
深淵が、目を開いた。
もはや「仮面」と「実体」の区別など存在しない。
そこに残ったのは、ただ一人。
唯一無二の存在――
ゲンソン・ジェスーダ。
ゲンソンは、ゆっくりと首を回した。
雷震宝の拳は依然として彼の頬へ押しつけられている。
しかし、拳を覆っていた黒い気は完全に消滅していた。
残されていたのは、魔族の少年の腕から伝わる、凄まじい恐怖による震えだけだった。
普段のゲンソンが持っていた澄んだ瞳は、もう存在しない。
そこにあったのは――
深く、果てしなく、暗黒の奈落。
死にゆく星々が沈み。
光そのものが締め殺されていく、虚無の深淵。
「お、お前……」
雷震宝は言葉を詰まらせた。
歯がかちかちと鳴る。
昨日、溶岩湖の底で感じた古代の威圧感。
それが今、彼の喉元を掴み上げ、呼吸することすら許していない。
ゲンソンの顔には、いかなる感情も浮かんでいなかった。
軽薄さもない。
間の抜けた表情もない。
今の彼から漂っているのは、冷たく、高慢で、残酷なほどに荘厳な威厳。
万物すべてを跪かせるほどの、絶対的な支配者の気配だった。
「ここで茶番を終わらせよう」
ゲンソンが告げる。
だが、その声は喉から発せられたものではなかった。
あらゆる次元から響き渡り、鼓膜を震わせ、そこにいる者たちの一つ一つの細胞にまで共鳴する。
低く、響きがあり、磁力を帯びた声。
真の皇帝だけが持つ、絶対的な権威そのものだった。
ゲンソンは右腕をゆっくりと持ち上げた。
その動きはあまりにも遅い。
幼い子供でさえ避けられるほどだった。
手首を軽くひねり――
雷震宝の顔面へ拳を返す。
魔力は使わない。
運動エネルギーも使わない。
それどころか、一パーセントの力にすら達していない。
ただ単純な――
「判決」を下すための接触。
――ボフッ。
音は、水滴が静かな湖面へ落ちるように軽かった。
だが、その結果は凄惨だった。
雷震宝の上半身が――消えた。
血肉が飛び散ることもない。
悲鳴が上がることもない。
少年の原子構造そのものが、現実から完全に抹消されたのだ。
かろうじて残った下半身だけが、見えない力によって光速で後方へ吹き飛ばされる。
闘技場の床を抉り。
雷鎮城塞の山壁を貫き。
数キロメートルもの彼方まで飛翔した後――
空中で灰となって消えた。
雷震宝は死んだ。
永遠に。
完全に。
徹底的に。
ゲンソンはゆっくりと腕を下ろした。
まるで衣服についた埃を払い落とすように、上着を軽く叩く。
そして顔を上げ、石造りの台座を見つめた。
そこには魔王、雷善長夢が立ち尽くしていた。
「最初から分かっていた」
ゲンソンは低く言った。
「お前たちの魔法が織り上げた、この馬鹿げた世界は――ただの幻影にすぎない」
「雷善」
「もしお前が、すべてを本来あるべき姿へ戻さないのなら……」
彼の眼差しが鋭くなる。
「この窮屈な繭を、俺自身の手で破壊する」
雷善長夢は、息子が灰へ変わった跡を見つめた。
しかし、その血走った瞳に怒りはなかった。
悲しみもなかった。
震えている。
だが、それは絶望による震えではない。
むしろ、長きにわたって抑圧されていた狂気じみた歓喜。
極限まで高められた崇拝心による震えだった。
やがて彼は、ゆっくりと膝をついた。
魔王の両腕が大きく広がる。
そして――
額を石床へ激しく打ちつけた。
「御命令こそ……絶対なる真理にございます」
「我らが神たる魔王陛下よ」
雷善は高らかに笑った。
血のように赤い涙が、その頬を伝って落ちる。
彼はゆっくりと顔を上げる。
そして両手を合わせ――
強く叩いた。
――パンッ。
乾いた拍手の音が響いた。
そして、世界が――
砕けた。
真っ青な空。
眩い陽光。
ふわふわと浮かぶ白い雲。
壮麗にして繁栄を極めた雷鎮城。
そのすべてが、巨大な鏡を大槌で叩き割ったかのように、無数の亀裂を走らせる。
空間の一片一片が剥がれ落ちる。
砕けた世界の欠片が次々と崩落し、その下に隠されていた、真実の空間が露わになっていく。
血のように赤黒い色と、粘りつくような漆黒の闇が押し寄せた。
硫黄の臭い。
焼け焦げた肉の臭い。
そして、永遠の絶望そのものの臭いが、一気に嗅覚を襲う。
世界は変貌した。
冷たく。
陰鬱で。
そして、あまりにも巨大な――
地獄。
どれほど優れた視力を持つ者であっても、その果てを測ることなどできない。
空は燃え盛る死の星雲によって織り上げられている。
大地には、白骨でできた巨大な山脈と、漆黒の溶岩が果てしなく広がっていた。
「お帰りなさいませ、皇帝陛下」
「あなた様の家へ――再び」
雷善が低く囁いた。
彼自身の身体も、ゆっくりと変貌していく。
誇り高き魔王の皮膚が剥がれ落ち、その下から姿を現したのは、玉座へひれ伏して仕える上級悪魔の真の姿だった。
そして――
ゲンソンは、崩壊の中心に立っていた。
彼の外見そのものが変化していく。
身長が伸びる。
筋肉はより引き締まり、洗練されていく。
灰色のぼろぼろになった装甲は崩れ落ち、その代わりに、漆黒の闇と純金の糸から織り上げられた皇衣へと変貌した。
かつての人間の少年の顔貌は、完全に生まれ変わっていた。
成熟した美貌。
美しい。
あまりにも美しい。
性別という概念を越え。
美的価値という概念を越え。
万物の理解そのものを越えた、絶対的な美。
高貴さ。
妖艶さ。
威厳。
それらすべてが混ざり合い、一つの異様な魅力へと昇華していた。
その美しさを前にすれば、天使でさえ自ら翼を折り、彼の足元に跪いてしまうほどだった。
なぜなら――
彼は怪物ではない。
彼は――
「始原なる御方」。
世界の根源そのものだった。
空間のあちこちで瞬滅する太古の記憶。
そこに映し出されるゲンソン・ジェスーダの起源は、壮大にして悲劇的な英雄譚そのものだった。
数億兆年よりも遥か以前。
時間という概念さえ存在せず、宇宙という概念すら形を成していなかった時代。
虚無の中で、最も強烈な生命エネルギーが一つへと集束し、胎動を始めた。
そして――
ゲンソンは生まれた。
彼は精神的な子。
イエスそのものの手と意志によって形作られた存在。
彼に完璧なる美を与えたのも。
一点の曇りもない容貌を与えたのも。
唯一無二の高貴なる風格を与えたのも――
すべてイエスだった。
かつてゲンソンは、純白の衣を身にまとい、光に満ちた菩提樹の根元で跪いていた。
そこでは彼は、ブッダの最も愛された弟子だった。
至高の仏は、彼へ無数の世界に関する知識を授けた。
慈悲について説き。
善の道へ進むよう諭し。
新たな生命の芽を守るよう教えた。
彼の本当の故郷――
それこそが天国だった。
だが――
万物は進化していった。
地球が生まれ。
人類が増殖した。
九重の天空にある玉座から、ゲンソンはその小さな生物たちの残酷さの極致を見つめ続けた。
同族同士で殺し合う。
自然を破壊する。
裏切り。
欺瞞。
果てしない欲望のために、神聖なる教えさえ踏みにじる。
ゲンソンは吐き気にも似た嫌悪を覚えた。
彼は浄化の炎を地上へ落としたかった。
その種族そのものを消し去り、宇宙を完全に浄化しようとした。
そのとき――
イエスが歩み寄った。
傷跡に覆われた御手が、ゲンソンの肩へ置かれる。
「忍耐するのだ、我が子よ」
「彼らが目覚めるその時を待ちなさい」
「もう一度だけ、彼らに機会を与えるのだ」
ブッダもまた、蓮台の中央に姿を現した。
慈悲に満ちた声が、静かに響き渡る。
「怒りを手放しなさい、我が子よ」
「破壊からは、新たな生命の芽は生まれぬ」
だが――
ゲンソンは聞かなかった。
人類の不正と汚濁に対する怒りは、絶対だった。
彼は彼らへ反旗を翻した。
自らの手で世界を浄化することを望んだ。
そして――
判決が下された。
イエス。
ブッダ。
そして数え切れぬほどの太古の神々。
彼らは力を合わせ、ゲンソンの力を封印することを余儀なくされた。
天国の空が引き裂かれる。
そして彼は――
宇宙で最も深い奈落へと投げ落とされた。
地獄へ。
身体が光に満ちた雲海を突き抜け、果てなき闇へと墜ちていく瞬間。
ゲンソンは泣いた。
涙が滂沱と流れ落ちる。
流星のように熱く、激しく。
彼は悲しみで泣いたのではない。
理不尽さに。
抑えきれぬ怒りに。
そして――
自分が最も敬愛した者たちによって、絶対的な正義への信念を否定されたことへの憤りによって、泣いたのだ。
遥か上空。
イエスとブッダもまた、静かに涙を流していた。
彼らが泣いたのは、自分たちが生み出した最も美しい生命を、地獄へ追放しなければならなかったからだ。
それでも彼らは信じていた。
いつの日か。
ゲンソンが理解し、許しによって帰還する日が来ることを。
だが――
彼の背が地獄の灰へ触れた瞬間。
ゲンソンは顔を上げ、閉じゆく天を睨みつけた。
歯を食いしばり、永遠の誓いを口にする。
「見せてやる……」
「人間という種族が、どれほど醜く、腐り果て、死ぬに値する存在なのかを――」
地獄がまだ黎明期にあった頃。
そこには、すでに王が存在していた。
その名は――
ルシファー。
神に寵愛された堕天の御子。
堕天使としての傲慢をまとったルシファーは、ゲンソンを奴隷に変えようとした。
そして――
太古の戦争が勃発した。
しかし、宇宙の根源の気から生まれた存在を前に、ルシファーはあまりにも弱かった。
ゲンソンはルシファーの身体を引き裂き、その魂と権能を丸ごと喰らい尽くした。
堕ちた天使の最後の自尊心さえ踏みにじった。
そして――
彼は正式に玉座へ登った。
奈落が生み出した、最も強大で。
最も美しく。
最も残酷な魔王。
いや――
魔王を超えた、地獄そのものの支配者となった。
――記憶が収束する。
ゲンソンの冷たい眼差しが、自らの王国を見下ろした。
その足元から赤黒い地平線の果てまで。
そこに広がっていたのは、無数の黒い鎧に身を包んだ悪魔兵。
その数、数十億。
さらにその後方には、巨大な身体を持つアスラの軍勢が数百億。
六本の腕には、それぞれ血に濡れた武器が握られている。
奈落の全土が――
跪いていた。
「皇帝!」
「皇帝!」
「皇帝!」
咆哮が冥界そのものを揺さぶる。
空間の膜を引き裂き。
遥か天上界にまで響き渡る。
数十億、数百億もの悪魔たちの瞳には、狂信と戦意が燃え盛っていた。
長き眠りから帰還した、真なる主を迎えるために。
ゲンソン・ジェスーダは両腕を大きく広げた。
唇の端が持ち上がる。
それは傲慢で。
邪悪で。
そして、抗いようのない誘惑を秘めた笑みだった。
彼は全存在を覆い尽くすほどの声で宣言する。
「闇よ、唯一薄れゆく天霊の亡霊を抱きしめよ」
「玉座は未だ、大地と岩の中で我を待っている……」
「今こそ――皇帝が、我が家へ帰還する日だ!」
――ウオオオオオオッ!!
眼下で、数百億の兵士たちが一斉に額を地面へ叩きつける。
武器同士がぶつかる音。
地鳴りのような歓声。
無数の拍手。
それらすべてが、宇宙規模の嵐となって爆発した。
そのとき――
ゲンソンの背後から、一人の人影がゆっくりと歩み出た。
趙敏。
――いや。
その名は、もはや余分な仮面にすぎない。
彼女の外見もまた、完全に変貌していた。
鮮やかな橙色だった髪は、今や生血を思わせる深紅。
緑色の瞳には、欠けた月のような冷たい光が宿っている。
舞踏会用のドレスは消え去り、代わりに深いスリットの入った漆黒のドレスが、その妖しく、息を呑むほど魅惑的でありながら、同時に凶悪な美貌を際立たせていた。
背中からは、紫色の光で形作られた蝙蝠の翼が、静かに広がる。
彼女は、もはや魔族の大公女ではない。
彼女の真名は――
リリス。
闇夜の女王。
第一王妃。
そして、現在のゲンソンの唯一の伴侶として、その傍らに立つ存在。
(太古の時代、この魔王が無数の后妃を迎え入れていた事実はある。だが、この瞬間――王妃の玉座を許されるのは、ただ一人の彼女だけだった。)
リリスはゲンソンの背後から歩み寄ると、白く滑らかな両腕を彼の身体へ回し、背中から優しく抱き締めた。
そして頬を彼の肩へ寄せる。
燃えるような赤い瞳が眼下の無数の文武百官を見下ろし、それから再び、自らの夫の完璧な横顔へ向けられる。
「私……あの弱々しい大公女の役を、ずいぶん長いこと演じてきましたわ、旦那様」
リリスの囁きには、危険なほど甘美な誘惑と、狂気すら感じさせる崇拝が混ざっていた。
「あなた様は、本当に長い眠りについておられました」
「さて……」
彼女は耳元へ唇を近づける。
「これから、あの腐り果てた世界を……どうなさるおつもりですの?」
ゲンソンはわずかに首を傾ける。
そして手を伸ばし、彼女の赤い髪を優しく撫でた。
彼の深い瞳は、地獄の幾重もの空間を貫き、さらにその向こう――
高天界。
そして人間界へと向けられる。
「どうするだと?」
ゲンソンは微笑んだ。
その笑みには、あらゆる生命へ永遠の悪夢をもたらすことを約束するような、冷酷な歓喜が宿っている。
「始めるのさ」
「上にいるあの二人の爺さんに――」
「自分たちが、あの種族を守ったことが、どれほどの過ちだったのかを証明してやる」
人間界で繰り広げられていた馬鹿げた茶番劇は――
ついに幕を閉じた。
そして、本当の物語。
愛。
憎悪。
そして――
一つの宇宙そのものが滅びへ向かう物語は、
今まさに――
最初の鐘を鳴らし始めたばかりだった。
地獄の夜は、太陽によって測られるものでも、星々の昇り沈みによって測られるものでもない。
それは、時間そのものが凝固したかのような状態だった。
濃密な闇が一つ一つの玄武岩の隙間へ根を張り、零下の冷気があらゆる生命の肉体へと容赦なく染み込んでいく。
だが――
今夜だけは、三界で最も果てしなく、最も冷たく、最も暗い大地が、血蛇酒の赤々とした輝きと、冥府の業火によって燃え上がっていた。
かつて人間界の雷鎮城だった場所は、もはや完全にその姿を変えていた。
偽りの世界を覆い隠していた外殻は砕け散り、そこに封じられていた本来の姿――
「尊帝府」が姿を現していた。
それは、果てが見えないほど広大な皇宮と、古代よりそびえ立つ荘厳な城塞が融合した、究極の宮殿だった。
漆黒の巨石で築かれた柱には、太古の悪魔たちの姿が精巧に彫刻されている。
それらは純金で覆われた巨大なドーム状の天井を支え、その下では、巨大な竜骨から造られた無数のシャンデリアが、柔らかくも威厳に満ちた光を放っていた。
皇帝ゲンソン・ジェスーダの「帰還」を祝う大宴は、今まさに狂乱の頂点を迎えていた。
数十億もの黒い甲冑を纏った悪魔兵。
そして、六本の腕にそれぞれ血塗れの武器を携えた無数のアスラ将軍たち。
彼らは何キロにもわたって続く大広間の回廊に沿って、ことごとく平伏していた。
人骨で作られた杯同士がぶつかり合う音が、カン、カン、と乾いた音を響かせる。
禍々しい音楽が流れ、そこへ無数の悪魔たちの歓喜の咆哮が重なり、大広間の壁を震わせながら反響していた。
その最上段。
玉座の間の頂点に据えられた玉座で、ゲンソン・ジェスーダは背もたれへ身を預けていた。
玉座には、巨大な龍の頭蓋が彫刻されている。
闇そのものから織り上げられた皇衣が、成熟したゲンソンの高貴な身体を包み込んでいた。
その姿から漂う妖艶な美貌は、あらゆる美意識の限界を遥かに超えている。
ゲンソンは片手に、新鮮な血のように赤い液体が揺れるクリスタルグラスを持ち、深い瞳で何気なく眼下の群衆を見下ろしていた。
だが――
最高位の魔王にふさわしい厳粛にして恐ろしい光景とは、完全に対照的な光景が、玉座のすぐ隣で繰り広げられていた。
リリス。
闇夜の魔王妃。
かつて、その冷酷さと残虐さによって数え切れないほどの神々を震え上がらせた女。
その彼女が――
今はゲンソンの袖をぎゅっと抱きしめ、何度も彼の肩へ頭を擦り寄せながら、背中の紫色の蝙蝠翼を甘えるようにぱたぱたと揺らしていた。
「旦那様ぁ~。また、どこをぼんやり見ていらっしゃるのです?」
リリスは唇を尖らせる。
宝石のように赤く輝く瞳には、わざとらしい不満が溢れていた。
彼女はゲンソンの鍛えられた腕へさらに身体を寄せ、甘く妖艶でありながら、露骨な拗ね声を滲ませる。
「何千年もの間、あなた様はあの愚かな人間の姿を演じて、私を一人きりで、こんな退屈な地獄を治めさせていたではありませんか!」
「それなのに、やっと帰ってきたと思えば……今度は私のことなど、まともに見てもくださらない!」
「もう、私のことなんて愛してくださらないのでしょう?」
ゲンソンは小さくため息をついた。
口元がぴくりと引きつる。
絶対的な魔王としての冷酷さと傲慢さが、第一王妃の理不尽な甘えっぷりを前に、一瞬にして冷水を浴びせられたかのように萎えていた。
ゲンソンは身体を彼女へ向けると、手を伸ばしてリリスの柔らかな頬を軽くつまんだ。
その声音は、不意に穏やかになっていた。
少しばかりの呆れと、それ以上の甘やかすような優しさが混ざっている。
「そんなに甘えるな、我が女王よ」
ゲンソンは低く温かな声で、彼女を宥めるように言った。
「俺はついさっき、あの窮屈な繭から抜け出したばかりだ。まだ少し頭がぼんやりしているだけだよ」
「それに――」
ゲンソンは彼女の瞳を見つめた。
「俺は今、お前のすぐ隣に座っているじゃないか」
「この地獄全土……いや、三界すべてを探したところで、俺の隣の座を奪える者がいると思うか?」
「俺のリリス以外に?」
リリスはそれを聞くと、得意げに顎を上げた。
心の中では花が咲き乱れているくせに、表情だけはまだ不満そうに取り繕っている。
彼女は唇を尖らせ、赤く塗られた指先でゲンソンの胸を軽く叩いた。
「本当ですの?」
「約束してくださいませ!」
「そんな遠くばかり見る癖もやめて、ちゃんと私の目を見てください!」
ゲンソンは思わず笑った。
仕方なく素直に彼女の方へ顔を向け、額へ軽く口づける。
「本当だよ」
「お前が一番だ。それで満足か?」
玉座の上で繰り広げられる二人の甘ったるい光景は――
瞬く間に、眼下にいる数万もの魔神たちの目へ入った。
第一段の階に立っていたのは、ゲンソンに最も忠実な側近――雷善長夢だった。
老悪魔はただ口元を手で覆い、
「んっ……んんっ……」
と、わざとらしく咳払いを繰り返すしかなかった。
その下では、残忍さで名を馳せた好戦的な悪魔やアスラ将軍たちまでもが、自分たちの偉大な魔王が女王に完全に「尻に敷かれている」光景を見て、とうとう堪えきれなくなった。
くすくす。
くすくすくす。
小さな笑い声が、あちこちから漏れ始める。
「おい、見たか?」
六本腕のアスラ将軍が隣の悪魔へ声を潜めた。
「我らが偉大なる魔王陛下は、魔族の王子の頭をたった一度触れただけで粉砕したんだぞ」
「それなのに、自分の甘えん坊な嫁さんには逆らえないらしいぜ!」
「口を慎め!」
隣の悪魔兵が慌てて囁き返す。
「灰にされたいのか!?」
そう言いながらも、その口元は耳まで吊り上がっていた。
「……まあ、だが公平に言えば」
「女王陛下の甘え方、結構可愛いじゃねえか」
「……だな」
クスクス。
クスクス。
豊作を祝う宴のような笑い声が、尊帝府の大広間へ小さく広がっていく。
ゲンソンは眼下へ視線を落とした。
何も言わない。
ただ――
雷善長夢へ向けて、わずかに片目を細める。
それだけだった。
長年仕えてきた側近であり、主君の意図を誰よりも理解している雷善は、その視線に潜む明確な脅迫を即座に察した。
「……!」
雷善はくるりと振り返る。
そして漆黒の石で造られた杖を床へ勢いよく叩きつけた。
――ドンッ!!
「貴様ら全員、黙れ!!」
雷善の怒号が大広間全体を震わせた。
「これ以上笑った者は、全員、油煮え地獄へ送り込んで三千年間、煮込んでやるぞ!」
その瞬間。
大広間は完全な静寂へ戻った。
悪魔たちは一斉に俯き、自分の杯だけを見つめながら、何事もなかったかのように振る舞う。
ゲンソンは満足げに口元を吊り上げた。
そしてリリスの深紅の髪を軽く撫でる。
――その瞬間。
彼の瞳に、奇妙な光が走った。
ゲンソンの瞳孔のさらに奥。
そこで、恐るべき変化が始まっていた。
彼の両眼が、紫と黄金の輝きを渦巻かせる二つの巨大なブラックホールへと変貌する。
――天幻滅世無極眼。
全存在の中で唯一無二にして最強の眼。
所有者が望んだことなら、ただ一つの念じるだけで実現してしまう、究極の権能。
空間。
時間。
運命。
そのすべての階層を超えて見通す絶対視。
その眼差しの中では、地獄と天国の境界さえ意味を失っていた。
――
同時刻。
上界。
純粋な光と雪蓮の花々に満ちた、天国の領域。
須弥山の頂。
五色の雲がゆっくりとたなびくその場所で、光を司る二柱の至高存在が、一枚の巨大な水晶鏡を見下ろしていた。
そこには、人間界と深淵の姿が映し出されている。
白く質素な法衣をまといながら、無限の聖光を纏うイエスが、静かにため息をついた。
その瞳には、深い後悔と哀惜が浮かんでいた。
地獄の玉座に腰掛ける、自らの精神的な子を見つめながら。
「ゲンソン……」
イエスが口を開く。
その声は、朝の教会に鳴り響く鐘のように、天上へ静かに響き渡った。
「あの子は、私がこれまで形作ってきた存在の中でも、最も大きな可能性を秘めていた」
「原初の世界に存在した、最も純粋なエネルギーから生まれた子だ」
「だが……」
イエスは苦しげに目を細める。
「人類の不完全さに対する怒りが、あの子をあまりにも深く闇へ迷い込ませてしまった」
その隣では、ブッダが黄金の蓮台に結跏趺坐していた。
目は半ば閉じられ、そこから慈悲に満ちた柔らかな光が静かに放たれている。
仏は一度、長い息を吐いた。
その吐息には、無量の輪廻を重ねてきた者だけが抱える深い憂いが宿っていた。
「蒔いた因は、必ず果を結ぶ」
ブッダはゆっくりと告げた。
「彼は仏門の知識をその身に宿していた」
「しかし、その知識を衆生の暗部を見つめるために使う道を選んだ」
「傲慢と執着が、彼の智慧を覆い隠してしまったのだ」
「私はただ願っている……」
ブッダは静かに目を開いた。
「いつの日か、慈悲の光が凍りついた彼の心へ届き、自ら悟りへ至ることを」
イエスはしばらく黙っていた。
そして、ふと何かを思い出したように、ブッダの方へ顔を向ける。
「ゲンソンがまだ天国にいた頃のことを覚えているか?」
イエスの声音には、かすかな懐旧の情が混ざっていた。
「あの子は、滅多に他人へ心を開かなかった」
「だが、一人の親しい友について、何度も話していたことがある」
「あなたの門下にいる者だったそうだな、ブッダよ」
「その人物について語るときだけは、あの子は不思議なほどの敬意を見せていた」
ブッダはわずかに目を見開き、眉を寄せた。
「仏門の友?」
「私は大弟子たちや菩薩たちを厳格に管理している。だが、彼がこの世界で誰かと深い親交を結んでいたなど、一度も聞いたことがない」
「それは、あの子が深淵へ追放される前に私へ話していたことだ」
イエスが答える。
「おそらく、その人物こそが、ゲンソンの中にわずかに残された人間性を繋ぎ止めている唯一の鍵なのかもしれない」
「その友を見つけることができれば……」
「浄化の戦争が始まる前に、彼を正しい道へ戻すための最後の手段になる可能性がある」
ブッダは静かに頷いた。
「そういうことなら、すぐに全宗門とあらゆる修行の場を調べ直そう」
――
尊帝府。
ゲンソンは天幻滅世無極眼を閉じた。
紫と黄金に輝いていた両眼は、再び深い漆黒へと戻っていく。
天国で交わされていたイエスとブッダの会話。
その一語一句を、ゲンソンは完全に聞き取っていた。
だが、完璧な美貌を備えた魔王の顔には、一片の感情の波紋すら浮かんでいない。
ただ、嘲るように唇を歪めた。
――俺の親友を探すって?
――あの上の爺さんたちは、本当に呆れるほどお人好しだな。
ゲンソンは、上界のくだらない思惑について、それ以上考える気すら起こらなかった。
彼は横を向く。
そこにはリリスがいた。
長い一日をかけて幻境を維持し続けた疲労から、彼女はいつの間にか眠そうに何度もあくびをしていた。
小さな頭が、ゲンソンの肩へこくり、こくりと落ちかける。
「ほら、おいで」
ゲンソンはそう言って身を屈める。
そしてリリスを、いわゆる花嫁を抱き上げるような姿勢で、軽々と抱き上げた。
「えっ……!?」
リリスは驚き、反射的に両腕をゲンソンの首へ回す。
真っ赤な瞳がぱちぱちと瞬いた。
驚愕はすぐに、極度の羞恥へと変わっていく。
「だ、旦那様!?」
「な、何をなさっているのです!?」
「まだ皆が宴会を続けているではありませんか!」
ゲンソンは何も答えない。
ただ、何食わぬ顔で歩き始める。
それを見た雷善長夢は、即座に片手を上げた。
楽団へ合図する。
演奏が一斉に止まった。
そして、二人の主君のために、広大な道が開かれる。
ゲンソンはリリスを抱いたまま、尊帝府の果てしなく長い回廊を進み、皇帝の寝宮へ向かった。
重厚な黒檀の扉が、自動的に――
バタン。
と音を立てて閉じられる。
それによって、外の宴の喧騒は完全に遮断された。
広大な寝宮を照らしているのは、柔らかな紫色をした魔法の蝋燭。
部屋の中央には、巨大な帝王の寝台が置かれている。
その寝台には、滑らかで冷たい黒氷絹のシーツが敷かれていた。
ゲンソンはリリスをそっと寝台へ下ろす。
そしてその隣に腰を下ろし、彼女の細く、冷たく、それでいて何よりも懐かしい手を取った。
部屋は完全な静寂に包まれる。
幻想的な光の中で、二人の視線が静かに交わった。
「……どれくらい経ったんだろうな」
ゲンソンは小さく呟いた。
長い指が、リリスの指へそっと絡んでいく。
「俺たちは……こうして穏やかな時間を過ごせるようになるまで、いったいどれほど長く待った?」
リリスは彼の瞳を深く見つめた。
先ほどまでの甘えた態度も、わがままも、完全に消えていた。
そこにいるのは、かつての女王だった。
強く。
不屈で。
何千年もの間、愛する男の帰還だけを待ちながら、一人で地獄全土を支え続けてきた魔王妃。
彼女は静かに頷いた。
その目尻に、透明な涙が一粒だけ浮かんだ。
「……あまりにも長かったです、旦那様」
リリスは囁いた。
抑圧され続けていた感情によって、その声は微かに震えている。
「私はずっと……あなた様を待っていました」
「幾千もの輪廻を越えて……」
ゲンソンは静かに顔を下げた。
二人の距離が縮まっていく。
そして、彼は優しく唇を重ねた。
長い年月の中で積み重ねられた想い。
孤独。
愛情。
そのすべてを閉じ込めた、深く熱い口づけだった。
天井から吊るされていた暗雲色の絹の天蓋が、ゆっくりと垂れ下がり、巨大な寝台を覆い隠していく。
地獄で最も冷たい夜。
その静寂の中で――
尊帝府の寝宮には、二人の愛と情熱の炎が静かに、しかし鮮烈に燃え上がっていた。
――
翌朝。
上界の仏門、その中心地――霊山。
ブッダは最も高い蓮台へ座していた。
その周囲には、数千もの阿羅漢、菩薩、そして弟子たちが集まり、敬虔に合掌している。
仏は弟子たちを一人一人見渡した。
その声は穏やかでありながら、絶対的な威厳を帯びていた。
「今日、汝らを集めたのには一つ理由がある」
「数億年前、ゲンソン・ジェスーダがまだ天国にあり、霊山で教えを受けていた頃――」
「汝らの中に、彼と親しい間柄にあった者はいるか?」
「心の奥深くまで語り合った者は?」
「あるいは、彼と友情を築いた者はいるか?」
数千人にも及ぶ弟子たちは、一斉に顔を見合わせた。
やがて、一人の偉大なる菩薩が前へ進み出て合掌する。
「世尊」
「かつてゲンソン・ジェスーダは霊山へ訪れ、説法を受けておりました」
「しかし、その性格は極めて孤独で、同時に高慢でもありました」
「彼は万物の弱さを軽蔑していたのです」
「我らも幾度となく近づき、彼を導こうと努めました」
「しかし、彼は常に冷たい距離を保ち続けました」
「我らの中で、彼のことを『親友』と呼べる者など……一人も存在しません」
他の阿羅漢たちも、一斉に頷いた。
ブッダは静かに聞いていた。
眉間にわずかな皺が寄る。
やがて手を振り、弟子たちを下がらせる。
そして蓮台から姿を消し、須弥山の頂へ戻る。
そこで再び、イエスと向き合った。
「誰もいない」
ブッダがため息をついた。
「私の弟子たちは皆、ゲンソンが霊山で誰とも友情を結んだことなどないと断言している」
イエスは腕を組んだまま、空を漂う雲を眺めていた。
その瞳には、これまで以上に複雑な色が浮かんでいる。
「おかしい……」
イエスが呟いた。
「あの子は、そんなことについて私に嘘をつくようなことは決してなかった」
「確かに言っていたんだ」
「仏門には、とても親しい友がいると」
「自分の最も深い心の内まで分かち合えるほどの存在がいると」
ブッダは目を細め、虚無の彼方を見据えた。
「ならば……その者はいったい誰なのだ?」
「なぜ彼は、その存在の正体を私にも、あなたにも隠さねばならなかった?」
イエスは拳を静かに握り締める。
「おそらく……」
「我々自身の手で答えを探す必要があるのだろう」
「その正体不明の友の背後にある真実が……」
「ゲンソン最大の秘密を握っている可能性がある」
――
深き地獄。
尊帝府の最奥にある寝宮。
ゲンソンは、リリスの温かな腕の中で目を覚ました。
その口元には、冷たい笑みが浮かんでいる。
神々による「かくれんぼ」は――
まだ始まったばかりだった。




