↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/83

Episode 26

 レイ・チャンタインの死生闘技場は地下にあるのではない。積乱雲の層のただ中、成層圏の灼熱の陽光にさらされながら、天空に浮かんでいた。


 それは黒石金属から鋳造された、直径二キロにも及ぶ巨大な円盤状の闘技場だった。周囲は半球状のエネルギー障壁に覆われている。戦闘用フロアの表面には、深々と刻まれた無数の裂傷と、物質構造の奥深くまで染み込んだ赤褐色の染みがまだらに広がっていた――ここで無数の命が引き裂かれた、その痕跡である。


 この場所の空気には、オゾンと硫黄、そして古い血の錆びたような臭気が濃密に漂っていた。


 戦闘フロアから五百メートル上空に浮かぶ強化ガラス製の観覧台。


 レイ・ティエン・チュオン・モンはガラスの縁ぎりぎりまで大股に歩み寄り、両手を背中で組んだ。


 その深紅の眼差しは、闘技場東側の門から悠然と歩み出してくる、小さな人影へと釘付けになっている。


 その三歩後方には趙敏が立っていた。


 彼女はすでに白地に金の縁取りを施した貴族軍装へと着替えている。鮮やかな橙色の髪は高い位置で束ねられ、その顔立ちは原初の氷河から削り出されたかのように冷ややかだった。


「敏よ」


 不意にレイ・ティエンが口を開いた。


 その声音は低く鈍く、それでも観覧室の空間そのものをわずかに震わせるほどの威圧感を帯びている。


「父王に話してみろ。あの人間の小僧……あいつは、お前にとって一体どれほど大切な存在なのだ?」


 趙敏はまばたき一つせず、呼吸も完全に一定のリズムを保っていた。


「ただの面白い玩具です、父王。利用価値のある道具でもあります。貴重な資源を無駄にしたくないだけです」


「道具、だと?」


 レイ・ティエンは薄く笑った。


 その笑い声は冷え切っており、観覧室いっぱいに不気味に響き渡る。


「お前は私の血を引いている、敏よ。お前がいつ真実を口にしているのか、いつ乱れた鼓動を隠そうとしているのか――私はすべて知っている。お前があれを守っている理由は、研究価値などではない」


「では、父王は何故だと思われるのです?」


 彼女は鋭く問い返した。そこには一切の譲歩がない。


 レイ・ティエンは振り返り、目を細めて娘を見つめた。


「それを確かめようとしているのだ。そして、今日の試合が私に答えを与えてくれる」


 彼は観覧台の下を指差した。


「もしあれが震宝の手で死ねば、所詮はお前が気にかける価値もない廃物だったということだ。だが、生き延びれば……本当の遊戯が始まる」


 *


 闘技場西側の門から、レイ・チャンバオが姿を現した。


 顔だけを見れば三歳半ほどの幼子にしか見えない。


 だが、その肉体は異様なほど鍛え上げられていた。青白い皮膚の下では、異常なまでに発達した筋肉が幾重にも隆起している。


 身に着けているのはケブラー繊維製の戦闘用パンツのみ。上半身は裸で、その身体には古代魔術の紋様がいくつも刻まれ、きらきらと淡い光を放っていた。


「よく聞け、敏よ」


 レイ・ティエンは続けた。


 その声には、偉大なる策謀家のような響きがあった。


「次の『英雄大典』が開幕するまで、残りわずか二年だ。あのジェンソンという小僧が今のような脆弱な仮面を被ったままでいるのなら、そいつをお前の近衛にすることは致命的な足枷となる」


 趙敏は眉をひそめた。


「英雄大典? 父王は、あいつをあそこへ放り込むおつもりですか?」


「八大貴族都市の遊戯の規則は、お前もよく知っているだろう」


 レイ・ティエンは身体の向きを変え、観覧室に設置された玉座へ悠然と歩いていく。


「八年に一度開催される。二年間にわたって続く。参加人数に制限はない。規則もない。各試合に制限時間という概念も存在しない。どんな卑劣な策略を用いても許され、手加減は一切禁じられる。そして何より――敵の命を奪うことさえ完全に認められている」


「肉挽き機ですね」


 趙敏は冷淡に答えた。


「貴族社会が、自らの弱者を選別するための方法だ」


 レイ・ティエンは傲慢な笑みを浮かべた。


「ルールを決めたのは、奴ら自身だ。そして、それを認可したのは私だ。三大会連続で優勝した者――つまり、二十四年間にわたって屍の山の頂に立ち続けた者だけが、私へ直接挑戦する権利を得る。私を倒せば、その者が新たな魔王となる」


 彼は血酒を一口すすった。


「だが、この十万年というもの、私との第三ラウンドを生き延びた者は一人もいない。さて……あのジェンソンという小僧は、今日、震宝の一撃すら受け切れないのだとすれば、あの屠殺場で一体どれほど持ちこたえられるかな?」


 *


 視点は再び、黒石の戦闘フロアへ戻る。


 ジェンソンは大きく伸びをし、ぼさぼさの髪を掻きながら、大あくびを一つした。


 彼は標準的な防具など身に着けていない。


 代わりに、少々くたびれた灰色の密着型アーマーを身にまとい、腰には奇妙な形状をした金属塊をいくつか吊るしていた。


「おい、顔泥棒!」


 ジェンソンは震宝を指差し、大声で怒鳴った。その甲高い声が闘技場全体へ響き渡る。


「俺、今日はまだ朝飯食ってねえんだぞ! さっさと終わらせて牛肉フォー食いに行かせろ、いいな!?」


 震宝は口角を吊り上げた。


 そこから覗いた歯列は、まるでサメの牙のように鋭かった。


「もう飯を食う必要などなくなるぞ、役立たず。お前の頭を噛み砕いて、俺の胃袋にでも詰め込んでやる!」


「うわ、キッショ!」


 ジェンソンは両腕を抱き、わざとらしく身震いした。


「今どきの子供って、食事の仕方まで不衛生なんだな。母親に『食事は火を通せ、飲み水は煮沸しろ』って教わらなかったのか?」


「黙れぇぇぇっ!」


 震宝が咆哮した。


 次の瞬間。


 両足の踵が変形する。


 腓骨とアキレス腱の構造が突然引き伸ばされ、異常なほど発達した筋肉を分厚く覆い始めた――古代暴君カンガルーの生物学的特性。


 ズドォン!


 黒石の地面が震宝の足元から一気にひび割れた。


 爆発的な運動エネルギーが小さな肉体を前方へ吹き飛ばす。


 その速度は音速の壁を容易く超えていた。


 衝撃波が空中で真っ白な円環となり、一気に膨張する。


 ジェンソンができたのは、目を見開くことだけだった。


 天才的な頭脳が瞬時に運動軌道を解析する。


 速度――マッハ2.5。


 攻撃方向――下方から上方、四十五度。


 標的――顎と胸膜。


 だが、凡人の肉体では反応が追いつかない。


 ドゴォッ!


 千トン級の威力を秘めた蹴りが、ジェンソンの胸部中央へ直撃した。


 衝突音は、人間の肉体同士がぶつかったものではない。


 巨大なハンマーが鋼鉄の板へ叩きつけられたような、乾いた轟音だった。


 ジェンソンの身体は空中へ弾き飛ばされる。


 数百メートルにも及ぶ完璧な放物線を描いた後、その身体は黒石の床を深々と削りながら滑走し、ついにはエネルギー障壁の縁でようやく停止した。


 もうもうと煙と砂塵が立ち込める。


 観覧台の上で、レイ・ティエンは頬杖をつき、鼻で笑った。


「ほら、見ただろう、敏よ? ただの余った肉だ。昨日のあの気配など、所詮は幻覚だったのだ。こんなゴミを英雄大典へ連れて行けば、お前は五行仙国全体の笑い者になるぞ」


 趙敏は手すりを強く握り締めた。


 指の関節が白くなる。


 だが、彼女は何も言わなかった。


 その緑色の瞳だけが、眼下の濃い煙幕へ釘付けになっていた。


 *


 煙の内部。


 ジェンソンは地面へ這いつくばっていた。


 痛みが神経系を駆け巡る。


 だが――胸骨は折れていない。


 血も、一滴たりとも流れていない。


「ふぅ……ツイてたな」


 ジェンソンは小さく呟き、激しく咳き込みながら顔に付いた埃を払った。


 灰色のアーマーの下。


 五つの六角形の青い光が、絶え間なく点滅している。


 それはジェンソンが木造の部屋で一晩中眠らず、風呂場へ連れて行かれている最中に兵士たちから盗み出した、あり合わせの部品を使って作り直した五基の生体抑制チップだった。


 それらの役割は、単に古代の「自我」を完全に封じ込めることだけではない。


 ――あの恐るべき存在が肉体を乗っ取り、ジェンソンが弱った瞬間に世界そのものを吹き飛ばすのを防ぐ。


 さらに同時に、エネルギーフィルターとしても機能していた。


 この凡人の肉体では弱すぎる。


 ジェンソンの脳が量子的な速度で解析を進める。


 ――「自我」が漏れ出れば、雷鎮城そのものを破壊してしまう。


 しかし同時に、この生物学的な脳も耐え切れず爆発する。


 五基のチップで「自我」のエネルギーを0.000000001%だけ抽出し、それを電磁エネルギーへ変換する。


 そして、その電磁流をアーマーへ送り込む。


 これなら――


 世界を崩壊させることなく、あのガキの口をぶん殴れる。


 ジェンソンはゆっくりと立ち上がった。


 そして髪を撫でつけ、へらへらと笑う。


「くすぐったいだけか、クソガキ?」


 ジェンソンは叫んだ。


 その声には、聞く者の神経を逆撫でするような、とことん人を食った調子があった。


「なあ、短足のくせに高跳びなんか真似すんなよ! そのうち首でも折ったら、俺に障害児いじめされたとか言って泣きつくなよ!」


 震宝は目を細めた。


 全力の蹴りをまともに食らったにもかかわらず、あのモータルの小僧が立ち上がっている。


 信じられなかった。


「お前……一体何なんだ、そのクソみたいな装備は!?」


「母ちゃんが買ってくれた防寒着だよ!」


 カチッ。


 カチッ。


 カチッ。


 ジェンソンの身体に装着された五基のチップが一斉に強烈な光を放った。


 灰色のアーマーが、機械的な軋み音を響かせる。


 肩から踵まで、青く輝く回路が一気に走った。


 ドォン!


 今度は――ジェンソンが消えた。


 だが、それは震宝のような爆発的な運動エネルギーによる移動ではない。


 不気味なほど静かだった。


 風を切る音すらない。


 ただ、距離だけがナノメートル単位で完璧に計算されている。


 震宝が驚愕して振り返った。


 いつの間にか、ジェンソンはその脇に立っていた。


「いないいない……ばぁ!」


 ジェンソンは歯を剥いて笑った。


 バキィッ!


 横薙ぎのフックが震宝の脇腹を正確に打ち抜いた。


 震宝は目を剥き、口から唾液を吐き出す。


 だが、飛んでいく暇すらなかった。


 ジェンソンがその足首を掴み、勢いよく引き戻す。


「どこへそんなに急いでる? フォーはまだ煮えてねえぞ!」


 ボコッ!


 バシッ!


 ドゴォン!


 ジェンソンはそのまま連続攻撃へ移った。


 魔術もない。


 オーラもない。


 そこにあるのは、人工知能によって計算され尽くした近接格闘術だけ。


 肩関節へ拳を叩き込む。


 後頭部を打ち抜く。


 膝を下腹部へ突き上げる。


 一発一発が震宝の重心を完全に封じ込め、その身体を思い通りに操っていた。


 雷家の若き御曹司は、まるで嵐の中で振り回される布人形のように、右へ左へと放り投げられていく。


 ジェンソンは傲慢な小坊主へ、これでもかというほど「お仕置き」を叩き込んだ。


「どうだ? 腹いっぱいになったか?」


 ジェンソンは殴りながらも、よく喋った。


「酢と唐辛子も追加するか? 揚げパンももう一杯取ってやろうか?」


 観覧台では、レイ・ティエンがわずかに身を前へ乗り出していた。


 口元から先ほどまでの薄笑いは消えている。


 一方、趙敏の張り詰めていた手がわずかに緩んだ。


 緑色の瞳を、一瞬だけ誇らしげな光が横切った。


 だが――


 魔王の血を引く震宝が、この程度で倒れるはずもなかった。


 拳と蹴りの嵐に翻弄される中、震宝の野性的な感覚が突然、ジェンソンの移動軌道を捉える。


「グアアアアッ!」


 耳をつんざくような咆哮を上げ、震宝はジェンソンの拳から伝わった力を逆利用して後方へ退いた。


 両手を地面へつき、爬虫類のような姿勢を取る。


「俺を本気で怒らせたな、このノミ野郎!」


 震宝が叫んだ。


 その瞬間、両目が漆黒へと変わる。


 そして、一つだった瞳が六つの小さな瞳孔へ分裂した。


 第二の生物学的特性――古代魔蛛。


 震宝の下顎が左右へ大きく裂けた。


 彼は首を反らし、大きく息を吸い込む。


「プッ!」


 灰銀色の液体が口から超高速で噴き出した。


 ジェンソンの前方空間を丸ごと覆い尽くす。


 空気に触れた瞬間、その液体は即座に超高強度の蜘蛛糸へと硬化した。


 その網はカミソリの刃のように鋭い。


 シュパッ!


 蜘蛛糸がジェンソンへ絡みつき、両腕と胴体を完全に拘束する。


 前進していたジェンソンの運動量が強制的に止められ、身体がそのまま地面へ叩きつけられた。


 網はさらに締め上げられる。


 アーマーの外装を切り裂き、無数の電光が火花となって飛び散った。


「クソッ!」


 ジェンソンは悪態をつきながら身をよじる。


 だが、この蜘蛛糸はチタン合金よりも頑丈だった。


「戦ってる最中に無闇に唾吐くんじゃねえよ!」


 それでもジェンソンの減らず口は止まらない。


「このろくでなし! 家庭教育ってもんはどこへ置いてきた!?」


「三途の川の底にでも沈めてきたんだよ、この馬鹿!」


 震宝は好機を逃さなかった。


 右腕へ全身の力を凝縮し、その拳を濃密な黒気で包み込む。


 地面を強く蹴る。


 一瞬で距離を詰め、拘束されたまま地面に倒れているジェンソンの顔面へ、野獣の力を宿した拳を叩き込んだ。


 ガァン!


 ジェンソンの顔面を覆っていた、防毒マスクとステータス表示機能を統合したマスクが粉々に砕け散る。


 ガラス片が百以上の破片となって飛び散り、口元から鮮血が噴き出す。


 いくつかの破片が頬へ軽く突き刺さった。


 ジェンソンの身体は黒石の床へ半メートルもめり込んだ。


 強烈な眩暈が一気に押し寄せる。


「お前はもう終わりだ、ジェンソン!」


 震宝はその上から見下ろした。


 その目に宿っているのは、血に酔った捕食者の眼差しだった。


 彼は足を高く上げ、ジェンソンの頭蓋を踏み潰そうとする。


「死ね!」


 だが――


 ジェンソンは慌てなかった。


 血に濡れた顔の半分と、乱れた髪を晒しながら――


 その口元をゆっくりと吊り上げた。


 満面の笑み。


 人を食った、狂気じみた、それでいて挑発的な笑みだった。


「なあ……」


 ジェンソンが囁く。


 その声はもう甲高くない。


 低く沈み、限界まで酷使された演算機のような響きを帯びていた。


「お前、裂いちゃいけないモンを裂いちまったな」


 *


 アーマーの内部で、ジェンソンはシステムへ命令を下した。


 ――チップ3、オーバーロード。


 ――抑制障壁を1%開放。


 ――全熱エネルギーを筋肉へ伝導。


 ジジジジジッ!


 ジェンソンの身体から眩い閃光が爆発的に噴き上がった。


 一頭の竜すら拘束できるほどの超高強度蜘蛛糸が、突然、激しく煙を上げ始める。


 そして――


 ブツン!


 細切れになって弾け飛んだ。


 ジェンソンは千分の一秒にも満たない速度で立ち上がった。


 アーマーから猛烈な熱気が立ち上り、その周囲に淡い霧のような揺らめきが生じる。


 だが、「自我」の破壊的な力が外へ漏れ出したわけではない。


 その全エネルギーを――


 一つの物理法則へ押し込めたのだ。


 静的運動エネルギー。


 獲物が拘束から逃れたのを見て、震宝は一瞬だけ狼狽した。


 だが、すぐさま戦闘態勢へ戻る。


 再び全身の黒気と筋力を右腕へ集中させる。


 傷ついた野獣のような咆哮を上げ、ジェンソンへ真正面から突進した。


「俺がお前を粉々にしてやるッ!」


 ジェンソンは避けなかった。


 自らも重心を落とし、右拳を腰まで引く。


 腕部アーマー内部の回路コアが赤熱するように発光する。


 油圧ピストンが限界まで圧縮される。


「誰が誰を粉々にするか――見てみようぜ!」


 二人は同時に踏み込んだ。


 技もない。


 回避もない。


 純粋な力、速度、そして意志の正面衝突。


 二つの拳が、まったく同じ瞬間に振り抜かれる。


 空気の膜を切り裂きながら、それぞれの顔面へ一直線に迫る。


 そして――


 生死を分ける、その一瞬。


 ジェンソンの天才的な頭脳は、震宝よりも数百万手先を計算していた。


 彼は頭を、たった一ミリだけ傾けた。


 震宝の黒気を纏った拳が頬をかすめる。


 皮膚が裂け、そこに新たな長い傷が刻まれる。


 だが、その代償として――


 ジェンソンの赤熱した装甲拳が、寸分違わず震宝の顔面中央へ叩き込まれた。


 ドオオオオン!


 その衝突音は、人間の肉体と肉体がぶつかった音ではなかった。


 巡航ミサイルが巨大な岩壁へ激突したかのような、凄まじい轟音。


 衝撃波が爆発し、闘技場全体の煙と砂塵を一瞬で吹き飛ばした。


 震宝の顔面が、凄まじい圧力によって歪む。


 その瞬間――


 脳機能が完全に停止した。


 震宝の全身が地面から引き剥がされる。


 そのまま砲弾のような速度で観覧台へ向かって吹き飛んでいく。


 彼は空高く舞い上がり、エネルギー障壁を突き破り――


 魔王が座すガラス張りの観覧室へ一直線に突っ込んだ。


 ガシャァン!


 ドォン!


 強化ガラスが粉砕される。


 震宝の身体が玉座へ向かって突進する。


 だが、レイ・ティエン・チュオン・モンは眉をほんのわずかに寄せただけだった。


 そして、片手の人差し指を軽く掲げる。


 すると――


 見えない壁が出現した。


 ドンッ!


 震宝の身体はそれに激突し、その場で完全に止められた。


 そのまま不可視の壁をずるずると滑り落ち――


 ドサッ。


 魔王の足元へ転がり落ちる。


 完全に意識を失っている。


 鼻血と口から流れ出た血が、豪華な絹の絨毯をびっしょりと濡らしていた。


 試合は終わった。


 闘技場全体が静寂に包まれる。


 レイ・ティエンは、足元で無残な姿になった息子を見下ろした。


 そして、競技場中央に立つ小さな人影へ視線を落とす。


 その眼差しに怒りは一片もなかった。


 そこにあるのは、骨の髄まで凍りつくような冷たさ。


 そして――


 奇妙な興奮。


 彼は何も言わなかった。


 ただ、ゆっくりと虚空へ溶けるように姿を消した。


 *


 闘技場の下。


 ジェンソンは肩で大きく息をしていた。


 灰色のアーマーからは激しい煙が立ち上り、冷却システムがジュウジュウと音を立てている。


 右腕は反動によって骨の髄まで鈍く痛んでいた。


 それでも――


 その唇には、勝ち誇った笑みが残っていた。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 高いヒールが黒石の床を叩く、せわしない足音が静寂を破った。


 いつの間にか観覧台を離れていた趙敏が、風のような速さで闘技場中央へ歩いてくる。


 白地に金の縁取りを施したドレスが風にはためく。


 彼女はジェンソンの前で足を止めた。


 緑色の瞳が彼の全身を一巡する。


 そして、頬に走る長い切り傷と、口元から滲み出る血に視線を止めた。


 何も言わず、趙敏は袖の中から白い絹のハンカチを取り出した。


 そしてそっと手を伸ばし、彼の口元に付いた血を拭う。


 指先がわずかに震えていた。


 そこからは、いつも嗅ぎ慣れたアヤメの香りがほのかに漂っている。


「あなた……」


 趙敏が口を開いた。


 冷淡さを保とうとしている声だった。


 だが、その奥にはわずかな焦りが滲んでいる。


「どこか痛むところはない?」


 ジェンソンは彼女をじっと見つめた。


 澄んだ瞳をぱちぱちと瞬かせる。


 やがて、彼は彼女の手を払いのけ、半歩後ずさった。


「痛いに決まってんだろ! お前、自分の顔に耕運機でも突っ込まれてみろよ。痛くねえのか!?」


 ジェンソンはぶつぶつ文句を言った。


 だが、突然、粉々になった観覧台を見上げる。


「なあ、ちょっと本気で聞くんだけどさ。さっき俺があの顔泥棒のガキをぶっ飛ばしただろ? あんたの親父さんとあいつ、大丈夫なのか?」


 ジェンソンは真顔になった。


「もし俺があいつの首でもへし折ってたら、親父さんに命で弁償しろとか言われたらたまんねえぞ!」


 趙敏はわずかに目を見開いた。


 つい先ほどまで、生死を懸けた戦いが行われていた。


 彼は全身を散々に叩きのめされ、自身も血を流している。


 それなのに――


 この馬鹿が最初に気にしたのは、敵の安否だった。


 単なる皮肉なのか。


 それとも、傲慢すぎるが故の余裕なのか。


 彼女には、この男の本心を見抜くことができなかった。


 趙敏は血に染まったハンカチをしまい込み、再び大公女としての威厳を取り戻した。


「まだ死んでいない。そんなことを心配する必要はないわ」


 彼女は背を向け、淡々と言った。


「レイ・チャンバオには自己再生能力がある。父王に至っては、髪の毛一本すら傷ついていない」


 そう言うと――


 不意に手を伸ばし、ジェンソンの袖口を掴んだ。


 そのまま彼を引きずるように、出口へ向かって歩き出す。


「私についてきなさい」


 命令だった。


「お、おい、おい! どこへ連れてくんだよ!? 俺、まだフォー食ってねえんだけど!」


 ジェンソンは喚きながら、彼女のハイヒールの後ろをよたよたと追いかける。


 趙敏は振り返らない。


 もう一方の手を軽く上げると、闘技場の縁で震えている衛兵たちへ向かって指示を飛ばした。


「清掃部隊を呼びなさい。ここを完全に洗浄しておけ。私が戻ってきた時、一滴の汚れすら残っているのを見せないこと」


 *


 趙敏に廊下をずるずると引きずられながら、ジェンソンは俯いていた。


 そして――


 その口元が、ほんのわずかに吊り上がる。


 今日の戦いは、単にレイ・チャンバオへ力の差を思い知らせるためだけのものではなかった。


 ジェンソンは、レイ・ティエンに自らの力を見せつけた。


 それは、すぐさま危険視されて抹殺されるほど恐ろしいものではない。


 だが――


 十分すぎるほどの可能性を秘めている。


 興味を抱かせるには、十分だ。


 そして――


 あの忌々しい『英雄大典』へ放り込ませるには、まさに絶好の程度だった。


 すべては――


 この間抜けな笑顔の裏側に潜む、天才の頭脳が計算した通りに進んでいる。


 盤上の駒は、すでにすべて配置された。


 ――雷鎮城を転覆させる戦いの幕開けが、今、正式に始まった。

 医療用アルコールの濃密で鋭い匂いが鼻腔を容赦なく刺し抜いていた。


 古代の紋様が精緻に彫り込まれた、雷鎮城の大理石の壁。その荘厳な空間には、あまりにも不釣り合いな匂いだった。


 水晶を思わせる人工照明に満たされた医務室。


 ジェンソンはベルベット張りのベッドに脚をぶらぶらさせながら腰掛けていた。


 灰色のアーマーはすでに脱ぎ捨てられ、床に無造作に転がっている。


 上半身には無数の打撲痕が走り、毛細血管が破れた箇所からじわじわと血が滲んでいた。


 しかし、最も目を引くのは――肋骨へ密着するように埋め込まれた五つの青い光だった。


 生体抑制チップ。


 それらはまるで機械仕掛けの心臓の鼓動のように、一定のリズムで明滅を繰り返している。


「いったぁぁっ! おいおい、もっと優しくしてくれよ姉貴! 消毒してんのか、それとも俺の皮を剥ごうとしてんのか!?」


 ジェンソンは甲高い声で叫び、首をすくめながら、塩をまぶされた干物のようにビクビクと身体をよじった。


 リン光性の消毒液を染み込ませたガーゼが、頬の浅い裂傷をなぞったからだ。


 その正面には趙敏が立っていた。


 眉がわずかに寄せられ、鋭い一本の線を描いている。


 便利な治癒魔法を使う代わりに、彼女は自ら医療用ピンセットとガーゼを手にしていた。


 白地に金の縁取りを施したドレスには、ジェンソンの身体から飛び散った血がいくつか付着している。


「じっとしていなさい」


 冷たい声だった。


 そこには温度というものが一切存在しない。


 しかし、ガーゼを傷口へ押し当てる力だけは――無意識に、ほんの十分の一ほど弱まっていた。


「これ以上、塩を振られたミミズみたいにグネグネ動くなら、龍の腱糸で口まで縫い付けてやるわ」


「口を縫ったら、どうやってフォー食うんだよ!? 朝っぱらから一戦やったせいで、俺の腹なんて昨日の肉まんみたいにぺったんこだぞ!」


 ジェンソンはぶつぶつ文句を言いながらも、今度こそ大人しく座り込んだ。


 そして、澄み切った瞳で、わずか二十センチにも満たない距離にある彼女の顔をじっと見つめる。


 この角度なら――


 大公女の長く湾曲した睫毛を一本一本数えられる。


 だが、その間抜けで無害そうな仮面の裏側では、ジェンソンの量子演算級の頭脳が、彼女の顔に浮かぶ微細な表情の変化を一つ残らず解析していた。


 呼吸――やや速い。


 瞳孔――二パーセント拡大。


 皮膚表面温度――わずかに上昇。


 ……動揺している。


 ジェンソンは密かに結論づけた。


「なあ、趙敏」


 突然、彼が口を開いた。


 いつものふざけた調子が消え、声のトーンが低くなる。


「ちょっと本気で聞きたい。なんで俺を助けてくれるんだ?」


 趙敏の手が止まった。


 巻き上げようとしていた包帯を持ったまま、ほんの一瞬、空中で静止する。


 だが彼女はジェンソンの目を見ようとはしない。


 そのまま何事もなかったかのように、彼の上腕へ真っ白な包帯を機械的に巻き続けた。


「助けているわけではないわ」


 淡々と答える。


「私の所有物を整備しているだけ。あなたは私の近衛。壊れた道具は使い物にならないでしょう」


 ジェンソンは頬を膨らませた。


 わざとらしく、悲しげなため息まで吐いてみせる。


「物、ねえ……」


 そして、少しだけ俯いた。


「顔泥棒のガキにあれだけお仕置きしたんだから、少しくらい俺を見る目が変わると思ったんだけどな。ところがどっこい……」


 彼は肩を落とす。


「生きるか死ぬかの戦いをした挙げ句、結局わかったのは――俺って本当に弱いんだなってことだけだ」


「弱っちい。魔法もない。筋肉もない。俺、お前を失望させたよな?」


 ジェンソンは頭を垂れ、肩を完全に沈ませた。


 自信喪失した少年を演じるその芝居は、あまりにも完璧だった。


 この世界にいる、軽く手を振っただけで山を真っ二つにできるような怪物たちを基準にすれば、純粋な人類の肉体を持つ彼は確かに紙切れのように脆い。


 だが――それはただの外殻に過ぎない。


 あのチップの下で眠っているもの。


 もし、それが目を覚ましたなら――


 彼らが瞬きをするより早く、この王国そのものが蒸発する。


 その言葉を聞いた瞬間、趙敏の胸がかすかに締めつけられた。


 冷徹な政治的計算の奥深くへ押し込め、決して表に出そうとしなかった、微かな感情。


 自分でも名前を付けられないほど淡く、未知の感情が、突然浮上してきた。


「……馬鹿なことを言わないで」


 趙敏は包帯を置いた。


 そしてジェンソンの顎へ手を添え、無理やり顔を上げさせる。


 深い緑色の瞳を、真正面から見せるために。


「あなたは弱くなんかない」


 声に確かな芯があった。


「ただ、あの奇妙な頭脳の奥に眠っている可能性を、まだ引き出す方法を知らないだけ」


「本当に取るに足らない弱者なら、雷震宝をエネルギー障壁の向こうまで殴り飛ばすことなんてできない」


 彼女の指先が、ジェンソンの顎をわずかに持ち上げる。


「あなたには……あなた自身の価値があるのよ」


 ジェンソンは瞬きをした。


 そして――


 何の前触れもなく手を伸ばした。


 消毒薬のかすかな匂いが残る趙敏の両手を、ぎゅっと握りしめる。


 あまりにも突然の行動だった。


 趙敏の全身が硬直する。


「俺に価値があるなら……」


 ジェンソンはへらっと笑った。


 朝日のように眩しく、無邪気で、あまりにも純粋な笑顔だった。


 そこには一片の下心すらない。


「だったら、俺はこの安っぽい命を使って、お前を守るよ!」


「歯を全部折られても、身体を引き裂かれても、俺は絶対お前の前に立つ。約束する!」


 口から出た言葉は、馬鹿な少年が子供じみた冗談を口にするかのように軽かった。


 だが――


 趙敏にとって、それは千トンの重りが静かな心の水面へ叩き込まれたような衝撃だった。


 生まれた瞬間から、魔王の娘という宿命を背負ってきた。


 彼女が知っていたのは、裏切り。


 利用。


 恐怖に染まった視線。


 あるいは権力への飢えに満ちた眼差し。


 ただの一人もいなかった。


 誰一人として――


 悪魔の血を引く自分を守るために、自らの小さく安い命を差し出すなどと、これほどあっさり宣言した者はいなかった。


 ドクン。


 心臓が一拍、跳ね飛ばされた。


 喉元から熱い何かが一気に込み上げ、両頬へ猛烈な熱が広がっていく。


 ジェンソンは首を傾げ、さらに顔を近づけた。


 透明な瞳をぱちぱちと瞬かせながら、純粋な疑問を口にする。


「ん? 趙敏、部屋に暖房なんて入ってないよな?」


「なのに、なんで顔が熟したトマトみたいに真っ赤なんだ?」


「風邪か? それとも、あの顔泥棒から病気でもうつされた?」


「黙りなさい!」


 趙敏は感電したかのように手を引き抜いた。


 そして三歩後ろへ飛び退き、勢いよく顔を背ける。


 鮮やかな橙色の髪が、炎のように赤くなった頬を隠した。


「治療は終わったわ! 自分で服を着なさい。私は……私は少し外で風に当たってくる!」


 それだけ言うと、彼女は逃げるように医務室を飛び出した。


 カツ、カツ、カツ――。


 大理石の床を叩くハイヒールの音が、いつになく速く、そして完全に乱れている。


 その姿はやがて廊下の向こうへ消えていった。


 残されたジェンソンは、ベッドに座ったままその背中を見送っていた。


 やがて――


 唇に浮かんでいた間抜けな笑顔が、ゆっくりと消える。


 そこに残ったのは、かすかな薄笑いだった。


 ジェンソンは胸元で点滅するチップへ視線を落とした。


 完璧だ。


 彼は心の中で呟く。


 一つの駒が、正しい位置へ配置された。


 *


 同じ頃。


 城の地下深く――黒水脈。


 そこは自然に湧き出した温泉であり、雷鎮城の地下最深部に存在する場所だった。


 空間は濃密な蒸気に包まれている。


 鼻を刺す強烈な硫黄臭。


 黒く濁った湯は激しく泡立ち、微細なレベルで細胞を再生させる魔法鉱物を豊富に含んでいた。


 その黒い湯の中に、雷震宝は身体を沈めている。


 顔の半分は大きく腫れ上がり、顎の骨もまだ完全には癒着していない。


 異様な体格を持つ幼子は唇を強く噛み締め、水面で弾ける泡を濁った瞳で睨みつけていた。


 やがて――


 静かな足音が響く。


 霧のような蒸気の向こうから、雷善・チョウムンが姿を現した。


 身に纏っているのは、薄い氷絹のローブだけ。


 彼は湯には入らず、岩の岸辺に立ったまま、無残な姿になった息子を見下ろした。


「痛むか?」


 雷善の低い声が、閉ざされた洞窟の中へ静かに反響する。


「父王……」


 震宝が喉の奥で唸った。


 拳を強く握り締め、水面を思い切り叩く。


 黒い湯が大きく跳ね上がった。


「痛いなんてもんじゃない……屈辱なんだ!」


「魔力を一滴も持っていない凡人に、俺は完全に叩きのめされた!」


「本来なら、最初の一秒であいつを引き裂いていなきゃならなかった!」


 雷善は笑わなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ悠然と岩の上へ腰を下ろし、脚を組んだ。


「では――なぜ、引き裂けなかった?」


 静かな問い。


 その一言で、震宝の動きが止まった。


 幼子の身体がわずかに震える。


 あの赤熱した装甲拳が、自分の顔面へ迫った瞬間を思い出したのだ。


「父王……」


 震宝の声が突然震えた。


 そこからは、先ほどまでの野性的な傲慢さが完全に消えていた。


「あの野郎……」


 震宝は唾を飲み込んだ。


「……本気を出していなかった」


「いや……むしろ、俺には――あいつが本当の力をまだほとんど使っていないように感じた」


 雷善の眉がわずかに上がる。


「ほう?」


「説明してみろ」


「奴と俺がぶつかった瞬間……」


 震宝は熱い湯の中にいるにもかかわらず、震える両肩を抱きしめた。


「奴はわざと胸部の防御を切ったんだ」


「右腕へ運動エネルギーを集中させるために」


「そして、その防御にほんのわずかな隙間が開いた時……俺は奴の目を通して見た」


 震宝の瞳に恐怖が蘇る。


「そこに、人間の魂なんてなかった」


「俺が見たのは――」


 一瞬、声が詰まる。


「もっと深いものだ」


「真っ黒で……巨大で……冷たくて……」


「まるで、宇宙に存在するすべての星を丸ごと飲み込もうとしているかのような何かだった」


 震宝は父親を見上げる。


 その目には、隠しきれない恐怖が浮かんでいる。


「あいつは……あの弱々しい身体の中に、何か、とんでもなく恐ろしいものを閉じ込めている」


 黒水脈を、深い静寂が覆った。


 聞こえるのは、湯がぐつぐつと煮え立つ音だけ。


 やがて――


 雷善・チョウムンの顔に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。


 それは侮蔑の笑みではない。


 呪われた宝箱を発見した探検家の笑みだった。


「よくやった。実によくやったぞ、宝児」


 雷善は満足げに頷いた。


 その眼差しには、鋭い計算が宿っている。


「怒りに理性を奪われなかったな。お前の危険察知能力は非常に鋭い」


「ジェンソン・ジェスダ……」


「奴は、本当に危険な存在だ」


「だったら、なぜ父王はすぐに殺さない!?」


 震宝が焦燥を露わにする。


「あんなものを姉上のそばに置いておくなんて……もし封印が解けたら――」


「だからこそだ」


 雷善が言葉を遮った。


 その声音には、絶対的な威厳があった。


「危険だからこそ、私は手を出さない」


「鋭い剣には、必ず二つの刃がある」


 彼はゆっくり立ち上がる。


「愚か者は、刃が鋭いと知れば恐れて捨てる」


「だが――王たる者は、その剣が鋭ければ鋭いほど、柄を握る方法を考えるものだ」


 雷善は湖の縁まで歩み寄り、息子を見下ろした。


「よく聞け、震宝」


「二度と、あれを怒らせるな」


「奴が被っている馬鹿な少年の仮面を、無理に剥がそうともするな」


「この世界には、いったん開いてしまえば、たとえ魔王であっても閉じることのできない扉が存在する」


「今日、お前が奴を挑発したことは――」


「救いようのないほど愚かな真似だった」


 震宝は俯いた。


 唇から血が滲むほど強く噛み締める。


「……承知しました、父王」


「俺は……あまりにも思い上がっていました」


「だが、私はお前を信じている」


 雷善は思いがけず声を和らげた。


 そして、その巨大な手を伸ばし、異様な身体を持つ幼子の頭を撫でる。


 魔族の王族においては、極めて珍しい父子の情だった。


「今日の敗北は、最も高価な授業になった」


「英雄大典まで、あと二年だ」


「それまでに身体と精神を休めておけ」


「明日からは――私自ら訓練場へ降り、お前と鍛錬する」


「もう二度と、弱さを許さない」


 震宝の瞳に再び光が宿った。


 戦意の炎が燃え上がる。


「はい、父王!」


 *


 天象塔の頂。


 雷鎮城における、最も高い場所。


 夜の風が咆哮する。


 高層雲に吹き荒れる冷気は、まるで無数の刃となって肌を切り裂いていく。


 夜空は純粋な黒ではなかった。


 紫紺色の星雲が幾筋もの帯となって広がり、その上を二本の彗星帯が交差しながら、鮮烈な光を放っている。


 ジェンソンは再び灰色のアーマーを身につけ、獣の頭部を象った彫刻の施された石造りの縁に腰掛けていた。


 両脚を宙へぶらぶらと揺らしながら、寒さに手を擦り合わせる。


 口には、どこから摘んできたのか分からない魔法草を一束くわえていた。


 その隣――わずか半メートルほど離れた場所に趙敏が座っている。


 彼女はこの寒さなどまるで意に介していない。


 雪狼の毛皮で作られた外套を羽織り、橙色の髪を風になびかせながら、眼下に広がる無数の王国を遠く見つめている。


 しばらくの間、二人の間に静寂が流れた。


 やがて趙敏が口を開いた。


「あなた、八大貴族都市で権力を握る者の大半が、なぜ女性なのか知っている?」


 ジェンソンはくわえていた草を吐き出し、彼女へ顔を向けた。


 そして、いかにも真剣に考えているような表情を作る。


「鬼婆のほうが男より凶暴だから?」


「さっき俺に薬塗ってた時のお前みたいに?」


 趙敏の眉が跳ね上がった。


 思わず手を伸ばして一発張り倒そうとした。


 しかし――


 寸前で思いとどまり、深く息を吐く。


 この馬鹿に構っていられない。


「この世界を支配しているのは、エーテル――原初の魔力の流れよ」


 趙敏はゆっくりと説明を始めた。


 その声音には、支配者となるための教育を受けた者だけが持つ、深い教養と知性が滲んでいる。


「女性の生物学的構造は、男性よりもエーテルを吸収し、精製する能力に遥かに優れている。効率にして、およそ十倍」


「さらに、全世界の人口に占める女性の割合は八十八パーセントにも達している」


「この王国の男性が弱いわけではないわ。肉体を鍛えれば、物理的な能力の極致にまで到達することはできる」


「震宝のように、肉体そのものを強化することも可能」


「だけど――」


「女は魔法職、男は物理職ってことか」


 ジェンソンが横から口を挟んだ。


 いつものゲーマー口調で、あまりにも簡潔に要約する。


「広範囲攻撃できる魔法使いのほうが、近接で殴り合う脳筋より強い。つまり――女が世界の覇者ってわけだな。了解」


 趙敏は、その奇妙極まりないのに妙に正確な言い回しに一瞬だけ戸惑った。


 それでも頷く。


「……ええ。その通り」


「権力は魔力と共にある」


「どれだけ多くのエーテルを掌握できるか。それによって、生殺与奪の権利さえ決まる」


「父王は、魔法と物理、双方において異常なほど巨大な力を持つ稀有な例よ」


 だが――


 彼女は空を見上げた。


「この世界の本質は……生まれた瞬間から存在する不公平なの」


 ジェンソンは黙った。


 もう笑ってはいなかった。


 その瞳には、紫色の星雲が映り込んでいる。


 深く、静かで、底が見えない。


「じゃあ……」


 しばらくして、彼は尋ねた。


「大きくなったら、お前はその不公平をどうするつもりなんだ?」


「俺みたいな魔法のない奴を、これからも踏みつけ続けるのか?」


 趙敏は彼のほうを振り返った。


 その瞳には、強い意志が宿っていた。


 この腐り果てた城の中で、彼女がこれまで誰にも語ったことのない理想。


「私は――それを変える」


 夜風の中で、その声は鋭く響いた。


「弱い者を守る」


「父王のように、恐怖によって人を支配するのは嫌」


「弱い者たちが、自ら強くなるための機会を見つけられる世界を作りたい」


「幼い子供たちまで肉挽き機へ放り込む、あんな死生闘技場のない世界を」


 言い終えた瞬間、趙敏は自分の呼吸が少し乱れていることに気づいた。


 これは反逆だ。


 魔王の目の前で口にするには、あまりにも反逆的な思想。


 それを――


 知り合ってまだ二日にも満たない、一人の人間の少年へ語ってしまった。


「……あなたは?」


 今度は趙敏が問い返した。


 緊張を隠そうとしながら。


「あなたの目的は何なの、ジェンソン?」


 ジェンソンは頭を掻いた。


 そして、八重歯を見せてへらっと笑う。


「俺?」


「すげえ簡単だぞ」


「俺とお前、見てる方向は同じだ」


「でも俺は、世界全部を救いたいなんて大それたこと考えてねえ」


「もっと狭いんだよ。俺の守備範囲は」


 彼は空を見上げた。


「そのうち、俺はもっと強くなる」


「誰かが俺の大切な人たちに手を出したら、そいつの顔面を粉々にできるくらいにな」


「たとえ相手が魔王だろうが神様だろうが関係ない」


「俺の仲間に手を出した瞬間――」


 ジェンソンは笑った。


「一人ずつ関節外してやるよ」


 軽薄そうな顔。


 ふざけた口調。


 だが――


 一語一語は、釘を打ち込むように確固としていた。


 再び沈黙が落ちる。


 夜風さえ、どこか穏やかになったように感じられた。


 そして突然――


 ジェンソンが前へ身を乗り出した。


 その顔から、さっきまでのふざけた表情が完全に消える。


 代わりに現れたのは、背筋が凍るほど冷たい真剣さだった。


 その瞳は趙敏の瞳を真正面から捉えている。


 宇宙のブラックホールを思わせるほど、深く、暗い。


 ジェンソンは右胸にある青く点滅する抑制チップを、指先で軽く叩いた。


「趙敏」


「よく聞け」


 その声は低く沈んでいた。


 もはや、先ほどまでの騒がしい少年のものではない。


「何が起きても――」


「俺が気絶しても、重傷を負っても、死にかけても……」


「絶対に、誰にもこいつらを俺の身体から外させるな」


「絶対にだ」


 趙敏の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。


 彼の言葉から発せられる目に見えない圧力が、一瞬で彼女の呼吸すら奪う。


「……なぜ?」


 趙敏は唇を噛んだ。


 本能が告げている。


 これは、触れてはいけない禁忌だ。


「それは何なの?」


「外したら……」


 ジェンソンは微笑んだ。


 だが、その笑みは決して瞳の奥まで届いていない。


「俺はもう、ジェンソンじゃなくなる」


「そして、この世界も――」


「もう世界じゃなくなる」


 彼は静かに続ける。


「ものすごく危険だ」


「……わかったか?」


 趙敏はその瞳の奥を見つめた。


 そこに嘘はなかった。


 脅しでもない。


 彼女が見たのは――


 絶対的な真実だけだった。


 趙敏は深く息を吸い、ゆっくりと頷いた。


「約束する」


「私の命に代えてでも、誰にもその装置には触れさせない」


 その答えを聞いた瞬間――


 先ほどまでジェンソンを包んでいた恐ろしい圧力が、嘘のように消えた。


 彼は再び大きく伸びをし、長いあくびを一つする。


「よし、それでいい」


 一瞬にして、いつもの殴りたくなるような間抜けな少年へ戻った。


「腹減ったぁ……ここ寒すぎてスパークプラグまで凍りそうだ。フォー食いに行こうぜ!」


 ジェンソンが立ち上がろうとした、その瞬間。


 柔らかい。


 だが、ひどく冷たい手が彼の手首を掴んだ。


 グイッ。


 引き戻される。


「……ん?」


 ジェンソンが間の抜けた顔をする。


 趙敏は手を放さなかった。


 それどころか――


 自ら指を伸ばし、細く長い指を彼の指へ絡める。


 柔らかな肌と、硬質な金属アーマーが触れ合う。


 彼女は一歩、距離を詰めた。


 ほのかなアヤメの香りが冷たい風を押し退ける。


 二人の距離は、わずか一手ほど。


 趙敏の緑色の瞳が、ジェンソンの澄んだ瞳を真正面から射抜く。


 その眼差しに、もう迷いはなかった。


 確固たる意思。


 大胆さ。


 そして――決意。


「明日」


 趙敏は口を開いた。


 その声は穏やかだったが、拒否を許さない絶対的な命令の響きを帯びていた。


 天象塔の頂で吹き荒れる夜風と重なり、その言葉は静かに、しかし確実に届く。


「あなたと私――」


「一緒に鍛錬するわ」


 そう言うと、返事を待つことさえせず、趙敏は彼の手を少しだけ強く握った。


 その瞬間――


 変化は始まった。


 これまで最強の者だけが世界の運命を握り、強者の軌道に沿って回り続けていた運命の車輪。


 その巨大な輪が――


 真夜中の塔の頂で交わされた、たった一度の握手によって、初めて軌道を逸れた。


 ジェンソンの静かな宣戦布告。


 そして、趙敏の内側で目覚め始めた意志。


 その二つが、今――正式に絡み合った。


 本当の遊戯は、ここから始まる。


 盤上に伏せられていた最初のカードが――


 ついに、表を向いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。