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Episode 25

 私の目に映った部屋は、黒曜地獄のような粘りつく漆黒によって目覚めたのではなかった。

 それは、幻想的なルビー色の光によって目覚めていた。まるで宙に浮かぶ幾千もの水晶から、純粋な輝きだけを濾し取ったかのように、淡く、きらめきながら空間全体を満たしている。


 重厚なシダーウッドの香りに、ほのかに漂うアイリスの花香が溶け合い、鼻腔へ静かに流れ込んでくる。それは、喉の奥に残っていた鉄錆のような血の味と、毒の残滓を優しく洗い流していった。


 私は指をわずかに動かした。


 その下にある錦織の寝台は、まるで温かな雲の上を漂っているかのような、現実離れした柔らかさだった。桃色の錦織と深紅の絹の帳が幾重にも交差し、華麗で気高く、それでいて息苦しいほどの圧迫感を湛えた空間を形作っている。


 一人の姫君のためだけに造られた聖堂。


 そんな言葉が、最もふさわしかった。


 私は胸に残る鈍い痛みに耐えながら、ゆっくりと身体を起こした。


 左の肩甲骨の下に埋め込まれていた抑制チップは、完全に消失していた。その跡には薄い傷痕だけが残され、私の生体細胞によって凄まじい速度で再生が進んでいる。


 私は裸足のまま、金糸の模様が織り込まれた絨毯へ足を下ろした。


 一本一本の繊維が、あり得ないほど滑らかだった。


 この部屋は広すぎる。


 普通の寝室などではない。


 それはむしろ、広大な異空間そのものだった。遥か高みにそびえる天井のアーチには古代の壁画が刺繍のように描かれ、真っ白な水晶石の柱が、空中を漂う幾つもの回廊やバルコニーを支えている。


 私は壁際を一周しながら、カーテンの一枚一枚、彫刻の一つ一つ、その襞の奥まで注意深く探った。


 出口。


 陣法の隙間。


 隠し扉。


 何でもいい。


 しかし、私の努力に応えたのは、ただ果てしなく伸びる空間だけだった。


 そこは、最も価値ある魂たちを閉じ込めるために造られた、豪奢な迷宮だった。


「何を探しているの、ゲンソン?」


 澄み切った声が、ゆったりとした、それでいて傲岸な響きを帯びながら、正面玄関のアーチから響いてきた。


 雷趙敏が姿を現した。


 彼女は地下で身につけていた暗色の衣服を脱ぎ捨て、金糸を織り込んだワインレッドの幾重にも重なる絹のドレスをまとっていた。


 鮮やかな橙色の髪は一分の乱れもなく整えられ、露わになった肩へ、まるで輝く溶岩が流れ落ちるかのように垂れ下がっている。


 彼女が一歩踏み出すたび、足首に取り付けられた銀鈴が澄んだ音色を奏でた。


 純粋な貴族の所作。


 冷たいほど完璧だった。


 私は足を止め、振り返る。


 そして、その美しい――だが見覚えのない顔をじっと見据えた。


「ここはどこだ?」


 私は口を開いた。


 声は疲労のためにひどく低く、掠れていた。


 趙敏は小さく微笑み、両手を腹の前で組みながら、ゆっくりと部屋の中央にある翡翠の茶卓へ歩いていった。


「ようこそ。私の私室へ。……正確に言えば、雷鎮城の心臓部。世界で最も安全な場所よ」


「俺は、お前の安全なんか必要としていない」


 私は低く唸った。


「外へ出る扉はどこだ?」


 趙敏はすぐには答えなかった。


 古びた陶製の急須から茶を一杯注ぐ。白い湯気とともに芳醇な香りが立ち昇った。


 彼女は茶碗を唇へ運び、ほんの一口だけ啜る。


 そして、静かに私へ視線を向けた。


「あなたは本当にせっかちね」


 彼女はため息をついた。


 その声は、子守歌のように穏やかだった。


「この扉の向こうにある世界が、どのように動いているのか知っているの、ゲンソン?」


 彼女はゆっくりと微笑む。


「あなたのその無垢な頭脳に、私が教えてあげるわ」


「父王が五万年もの歳月をかけて磨き上げたこの世界は、秩序そのものの傑作なの」


「八成――つまり、この世界の人口の八十パーセントは貴族の血統よ。財産も、知識も、権力も、絶対的に所有している者たち」


「なら、残りの二十パーセントは?」


 私は目を細めた。


 地下の粗末な天幕の下で見た、あのぼろぼろの人々の姿が脳裏をよぎった。


「二十パーセントは、塵芥よ」


 趙敏は平然と答えた。


 その瞳には、微かな動揺すら浮かんでいない。


「犯罪者、敗北者、そして存在する価値すら持たない遺伝的な残滓。彼らは地底深くへ追いやられ、惑星の核のすぐ近くで暮らすの」


「数千度にも及ぶ熱に耐えながら鉱石を掘り続ける。骨も肉も溶けるまで働き、自らの存在に対する代価を支払うのよ」


「あるいは、大貴族の家々に仕える奴隷となり、死ぬまで奉仕する」


「それを……『秩序』と呼ぶのか?」


 私は拳を強く握り締めた。


「そんなもの、地上に築かれた地獄じゃないか!」


「それは、生物学的に必然な分業よ」


 趙敏は首を傾けた。


 足首の銀鈴が再び澄んだ音を響かせる。


「その二十パーセントの塵芥が犠牲になるからこそ、残りの八十パーセントは繁栄できる」


「私たち貴族の平均寿命は一万五千年。私たちは一万五千年もの間、完全な若さを保って生きるの」


「老化するのは人生最後の二十年間だけ。それが過ぎれば、穏やかに死を迎える」


 彼女の声音が、ほんのわずかに誇らしさを帯びた。


「その中でも、ごく一部の傑物――父王や直系の血族のような者たちは、さらに不死の領域へ足を踏み入れている」


「何百万人もの血と骨の上に築かれた、不死か」


 私は苦い笑みを浮かべた。


「この世界は、あなたが思っているほど悪いものではないわ、ゲンソン」


 趙敏は立ち上がり、ゆっくりと私へ近づいてくる。


「すべては、非常に滑らかに機能している」


「我が雷家は、その頂点に立っている。他の大貴族たちすべてを統べているのよ」


「私たちは秩序を与える」


「その代わり、彼らは服従を献上する」


「俺を放せ」


 私は彼女の目をまっすぐ見つめた。


 嫌悪を隠すつもりなど微塵もなかった。


「お前の世界がそんなに素晴らしいというのなら、俺を外へ出せ」


 趙敏は、私から三歩ほど離れたところで足を止めた。


 唇に浮かんでいた笑みが消える。


 その代わりに、暗い思索の色がその顔を覆った。


「あなたを放す?」


「雷鎮城の境界を越えた瞬間、私の庇護がなかったら、あなたに何が起こると思う?」


「他の大貴族たちが、あなたを八つ裂きにするわ」


「彼らは、あなたが想像している以上に陰険で残酷よ」


「あなたは過去から蘇った神話級の機械。移動する資源の塊そのもの」


「彼らはあなたを研究するために、身体を一片ずつ解剖するでしょうね」


「少なくとも、お前ほど偽善的じゃない」


 私は皮肉を込めて吐き捨てた。


「張遠英を演じるのは、実に完璧だったな」


「お前は俺に温もりを与え、家族を与えた……」


「そして最後には、そのすべてを奪った」


「張家ですって?」


 趙敏が笑った。


 冷たい笑い声が、高い天井のアーチへ反響していく。


「まだ、あの反逆者どもを惜しんでいるの、ゲンソン?」


「張陸沙も、その息子たちも、聖人なんかではないわ!」


「連中は父王を打倒しようと企み、血黒の内戦を引き起こして、この世界を古代の混沌へ逆戻りさせようとしていた」


「父王が彼を『棺桶に収めた』のは、正当な防衛措置にすぎないのよ!」


 私は動きを止めた。


 その言葉が、頭の中へ激しく叩き込まれる。


 反逆者?


 打倒?


 脳裏に張陸沙の苦労を刻み込んだ顔が浮かぶ。


 そして、温厚でありながら揺るぎない五侠の眼差しが蘇る。


 彼らは、本当に平和を踏みにじる者たちだったのか。


 それとも――


 趙敏はまた、新たな偽りの網を張っているのか。


 だが、私は彼女の緑色の瞳を見つめた。


 あの瞳。


 かつて台所で私を見たとき、わずかに震えていた瞳。


 私が意識を失っている間、私の胸元へ涙を落とした、あの瞳。


 そのとき、私はもっと深い何かに気づいた。


 彼女は、完全に嘘をついているわけではない。


 だが――


 自分自身を欺いている。


 その身体に現れる、ほんの些細な乱れ。


 微かに途切れる呼吸。


 ドレスの裾をきつく握り締める指先。


 それらすべてが、この少女の歪みきった内面を、私に鮮明に理解させていた。


「お前は……恐れている」


 私は囁き、さらに一歩、彼女へ近づいた。


「お前は、自分たちがあいつらから聞かされてきたものじゃなく……」


「彼らが命懸けで戦っていたものこそが、本当の真実なんじゃないかと恐れている」


 趙敏の顔色が一瞬で変わった。


 だが、彼女はすぐにいつもの高慢な表情を取り戻した。


「くだらない戯言はもう十分よ」


「今日から、この部屋も、この皇宮も、あなたの新しい家になる」


「あなたは囚人ではないわ……」


「じゃあ、俺は何なんだ?」


 私は言葉を遮った。


「あなたは、私の親衛になるの」


 趙敏は顎を持ち上げた。


 その声には一切の反論を許さない、絶対的な命令の響きがあった。


「あなたは私の背後に立ち、あらゆる危険から私を守る」


「それが、この屋根の下で生きるためにあなたが支払う代償よ」


「俺は絶対に、雷家の猟犬にはならない」


 私は一語一語を噛み締めるように言った。


 趙敏は怒らなかった。


 ただ、静かに二度だけ手を叩いた。


 パン。


 パン。


 部屋の暗がりのあちこちから、銀色の重装甲に身を包んだ十人の護衛兵が姿を現した。


 彼らは高価な貴族服を載せた青銅製の盆と、魔力を放出する香料の瓶を携えている。


「彼を風呂へ連れていき、着替えさせなさい」


 趙敏は私に背を向け、冷然と命じた。


「身体に染みついた地下牢の悪臭を洗い落として」


「私の親衛が乞食のような格好をしているのは我慢ならないわ」


「承知しました、殿下!」


 十人の護衛兵が私へ迫ってくる。


 その中でも特に体格の大きい二人が腕を伸ばし、金属製の万力のような力で、私の両肩を掴もうとした。


 頭の中が揺らぐ。


 脊髄から噴き上がった激痛と、極度の屈辱が重なり、視界が一瞬で暗転した。


 疲れ果てている。


 この身体は……あまりにも脆い。


 私は錦織の床へ崩れ落ちた。


 だが、地面には触れなかった。


 ゲンソンの意識が虚無の彼方へ沈み込もうとした、その瞬間。


 純粋な生体構造の奥底に眠っていた、何かが目を覚ました。


 古く。


 深く。


 そして、遥かに恐ろしい何か。


 それはバッドボーイではない。


 ナノテクノロジーでもない。


 それは――本我。


 ゲンソン・ジェスダという存在、そのものに宿る、原初にして絶対。


 一度として濁りに侵されることのなかった、本質そのものだった。


 シュッ……。


 私の小さな身体が、突如として空中へ浮かび上がる。


 地面から半メートルほど離れた場所。


 両目は固く閉じられたままだ。


 それは、本我がまだこの脆弱な肉体を完全には掌握していない証だった。


 しかし――


 私の皮膚、その一つ一つの毛穴から、色もなく、匂いもなく、形すら持たない圧力が、突如として爆発した。


 それは魔力ではなかった。


 核エネルギーでもない。


 ただ純粋な――空間そのものの歪曲だった。


「な……なんだ、これは!?」


 私に触れようとした護衛兵が叫ぶ。


 男の腕が私を包む空気へ触れた瞬間、その腕は濡れた布切れのように捻じ曲げられた。


 見えない圧力が、数百キロにも及ぶ重量を持つ十人の護衛兵をまとめて弾き飛ばした。


 彼らの身体は白水晶の石壁を突き破り、豪奢な柱を次々と砕きながら吹き飛んでいく。


 やがて、私の喉から声が響いた。


 それは確かに、五歳児の声だった。


 だが、その音色には極限まで研ぎ澄まされた侮蔑が宿っていた。


 まるで、時空の最深部から響いてくるような声。


「この……虫けらども……」


 本我が、私の身体を通して語り始めた。


 唇には笑みひとつ浮かんでいない。


 それでも、その傲慢さだけで皇宮の建築そのものが震えた。


「自らを貴族と称し……」


「自らを神と称する……」


「この卑小な蟻どもは……本当に私を笑わせるのが上手い」


 趙敏が驚愕して振り返った。


 緑色の瞳が縮み、二本の細い線のようになる。


「ゲンソン!?」


「この身体は……あまりにも脆弱だ……」


 本我はため息をついた。


 私の身体がゆっくりと宙で回転する。


 両腕は力なく垂れ下がっていた。


「だが、この金箔で飾り立てた蟻塚を平らにするには十分だ」


「すべてを破壊する……」


「雲の頂から、地の底まで……」


 グォオオオオオオッ!!


 雷鎮城皇宮全域に警報が鳴り響いた。


 巨大な警報サイレンの轟音が、百平方キロメートルにも及ぶ広大な空間全体へ響き渡る。


 あらゆる通路から。


 翡翠で造られた回廊から。


 王立親衛隊の兵士たちが、巣を突かれた蜂の群れのように一斉に押し寄せてきた。


 最新鋭のエネルギー装甲を身につけた兵士は一万を超える。


 彼らは大量破壊兵器を手にし、私のいる趙敏の寝室を取り囲む。


 人と鋼鉄の海だった。


「撃て! 目標を殲滅しろ!」


 指揮官が絶叫する。


 数万本にも及ぶレーザー。


 プラズマ砲弾。


 さらに属性魔術による攻撃。


 それらすべてが同時に空気を引き裂き、宙に浮かぶ私の身体へ殺到する。


 本我は、なおも目を閉じたままだった。


 そして――


 ただ、軽く手を払った。


 蚊を追い払うような、あまりにも単純な動作。


 その瞬間、私の眼前に存在していた空間そのものが、一点へと圧縮された。


 ドォォォン!!


 凄まじい衝撃が爆発した。


 数万本のエネルギー攻撃が、強制的に百八十度捻じ曲げられ、王立軍の隊列へそのまま跳ね返っていく。


 連続する爆発音が空を引き裂いた。


 一万を超える精鋭兵が、吹雪の中を舞う枯葉のように吹き飛ばされる。


 装甲は砕け。


 武器は歪み。


 悲鳴と苦痛に満ちた絶叫が、雷鎮城の広大な空間全体へ響き渡った。


 その瞬間だった。


 二つの黒い影が、毒煙を切り裂いて滑り込んできた。


 黒毒師。


 白毒師。


「玄冥邪毒……天地を圧する掌!」


 二人の達人は、五万年分の修為をすべて、たった一撃へ叩き込んだ。


 片方の手は真っ黒に。


 もう片方は病的なほど白く。


 小惑星さえ溶かすという邪毒をまとった二つの掌が、左右から私の背骨へ向かって叩き込まれる。


 本我は、振り返ろうとすらしなかった。


 バキィッ!!


 二つの邪毒の掌力が、私の皮膚からわずか三センチ離れた空気に衝突した瞬間――停止した。


 まるで卵を花崗岩へ叩きつけたかのようだった。


 邪毒はそのまま跳ね返り、黒白毒師自身の両腕を侵食していく。


「ぐ、ああっ!」


 二人の前腕の骨が、幾つもの破片となって粉砕された。


 二人は黒い血を何度も吐き出し、反動によって石床へ叩き落とされる。


 まるで二本のぼろ杭のように、頭から地面へ突き刺さった。


 散々に叩きのめされた二人の英雄的親衛――光輝の塔の名高き黒白毒師は、もはや身体を起こすことすらできず、わずかなエネルギーすら凝縮することができなかった。


 完全なる圧倒。


 まだ完全には目覚めていない、わずか五歳の生体肉体。


 それだけで、私は巨大な皇宮の防衛体系そのものを踏み潰した。


 しかし――


 五歳児の生体身体には、やはり限界があった。


 本我が動くたび、身体中の経脈が張り詰め、今にも引き裂けそうになる。


 そして、本我が雷鎮城全体を消し飛ばすため、手を上げようとした、その瞬間。


 一つの人影が、恐るべき速度で虚空から滑り出し、私の背後へ現れた。


 雷震宝。


 張五侠から奪い取ったばかりの端正な顔立ち。


 その瞳には、冷酷さと嘲弄の光が浮かんでいた。


 彼は古代魔蠍種の生体特性を利用していた。


 完全なる無音。


 そして、神経反応を上回る刺突速度。


 彼の手には金属製の注射器が握られている。


 中に入っているのは、沈思竜の脊髄から抽出された、最も濃縮された睡眠薬だった。


 シュッ!


 針が私のうなじへ深々と突き刺さる。


 濃紫色の液体が、脳循環系へ一気に注入された。


 本我が、わずかに動きを止める。


 喉の奥から響く声が、初めてためらいを見せた。


「睡眠薬……下等生物ごときが作った……」


 凄まじかった圧力が、一瞬にして消え失せた。


 私の身体は重力に従って自由落下し、そのまま雷震宝の腕の中へ落ちる。


 そして私は再び、果てしない昏睡の闇へ沈んでいった。


 ――三十分後。


 雷趙敏の執務室。


 外の混乱はひとまず片づけられていた。


 だが、雷鎮城に刻まれた傷は依然として剥き出しのままだった。


 総面積百平方キロメートルにも及ぶこの巨大な皇宮は、かつて雷家の不可侵性を象徴する存在だった。


 それが今では、幾重もの凄惨な亀裂に覆われている。


 雷震宝が部屋へ入ってきた。


 彼は空になった注射器を茶卓へ放り投げる。


 そして高級な貴族服についた埃を軽く払いながら、その美しい顔に半笑いを浮かべた。


「終わったぜ」


 震宝の声は、荒々しく、傲慢で、どこか苛立ったように早口だった。


「ありゃ屠殺場へ連れていかれた豚みたいに気絶してる。医師どもが今、風呂場で身体を洗ってやってるところだ」


 趙敏は窓辺に立ち、雷鎮城の全景を眺めていた。


 振り返らないまま、低い声で尋ねる。


「兵士たちは?」


「一万人が負傷だ」


 震宝は唇を尖らせ、自分で強い酒を一杯注いだ。


「黒白毒師なんか片腕を完全に潰された。邪毒が回復するまで、少なくとも三か月はかかるだろう」


「まったく、役立たずどもが!」


 しかし――


「なあ、姉貴……」


 震宝は言葉を切り、姉の背中を細めた目で見つめた。


「なんで姉貴は、あいつの助命を父王に願った?」


 声には、鋭い疑念が滲んでいた。


「あの化け物は、あと少しで総面積百平方キロメートルのこの皇宮ごと吹き飛ばすところだったんだぞ!」


「父王はあいつの魂を完全に枯らそうとしていた」


「なのに姉貴は跪いて、あいつを生かしてくれって頼んだ」


「しかも……自分の親衛にしたいだと?」


「頭がおかしくなったのか、趙敏?」


 趙敏は長い間、黙っていた。


 扉の隙間を抜けていく風が、細い笛のような音を立てる。


「……分からない」


 彼女は小さく呟いた。


 窓枠を強く握り締める。


「本当に、分からないの。震宝」


「でも……あの子の目を見たとき」


「私の感情が、そうしなければならないと告げたの」


 震宝は声を上げて笑った。


 そこには苦々しさが滲んでいる。


「感情?」


「光輝の塔の第一令嬢が、『感情』で行動するのかよ?」


「なあ、姉貴……一つ、知ってるか?」


 趙敏が振り返る。


 目を細めた。


「何?」


 震宝が近づいてくる。


 声を低くした。


 その瞳には、彼には珍しい恐怖の色が浮かんでいた。


「父王は……あのガキを、ものすごく恐れている」


 趙敏の身体が震えた。


「……何ですって?」


「俺は見たんだ」


 震宝は囁いた。


「父王が、ゲンソンの古代史を照らし出していたときの、あの目を」


 彼の手が、グラスの上でわずかに震える。


「過去にも、今にも……」


「誰もいない」


「一度として、父王にあそこまでの恐怖を抱かせた存在なんていなかった」


「あいつは、俺たちの一族そのものを完全に消し去ることのできる脅威なんだ」


「それなのに姉貴は……あいつを自分のそばに置きたいっていうのか?」


 姉弟の間に、重苦しい沈黙が落ちた。


 雷家の若き世代を代表する二人の天才は、目の前に突きつけられた真実を前に、理解しようとしても理解できない、底知れぬ困惑に包まれていた。


 やがて趙敏はバルコニーへ出た。


 眼下には、皇室専用の浴場区域が広がっている。


 曇りガラス越しに、彼女には見えた。


 何十人もの使用人が、私の小さな身体を丁寧に洗っている。


 そして、豪奢な白絹の衣服へ着替えさせている。


 趙敏は、ほんのわずかに微笑んだ。


 そこには苦味と、それ以上に強い決意が入り混じっていた。


「震宝……」


 趙敏は口を開いた。


 その声は、果てしなく広がる雷鎮城の空間へ静かに溶けていく。


「私は、あいつに言ったの」


「あなたは、私を守る親衛になるのだと――」


 彼女はそこで言葉を止めた。


 緑色の瞳には、複雑で、奇妙な感情が満ちていた。


「……でも、本当は違う」


「ゲンソンは――」


「私が守る人よ」


「私は、あの子を守る」


 彼女の瞳が、静かに揺れる。


「父王から……」


「そして――」


「この世界そのものから」


 ドバァッ!

 夢幻の微睡みを貪っていた感覚が、突如として押し寄せた水の塊によって無残に引き裂かれた。薬草と硫黄の匂いが立ち込めるぬるま湯が、鼻腔へ、耳奥へと雪崩れ込み、私のあらゆる sensory(五感)を暴力的に塗りつぶしていく。

 私は目をカッと見開き、狂乱のうちに水面へと跳ね起きると、肺腑の底から大きな空気を吸い込んだ。視界に広がったのは、巨大な翡翠の単一結晶をそのままくり抜いて作られた豪奢極まりない浴槽だった。濃密な湯気が立ち上り、魔導灯の光を受けて妖しくきらめいている。だが、私を真の驚愕へと突き落としたのは、浴槽の豪奢さなどではない。自分が生まれたままの姿——すなわち全裸であること、そしてその周囲を、岩石のごとき筋肉を躍動させた十数人もの素裸の巨漢兵士たちが取り囲んでいるという異様な光景だった。

「おお、ガキの目が覚めたぞ!」

 髭面の兵士が声を張り上げ、手にしていた荒い羊毛の towels(手ぬぐい)で私の肩口をガシガシと擦り上げた。

「くそが、手加減しやがれ!」

 すかさず別の兵士が髭面の頭をはたいた。「殿下からは『入念に世話をしろ』と仰せつかっているんだ。そんな力任せに擦ったら皮膚が剥がれ落ちちまうだろ!」

 私は瞬きを繰り返し、脳内に散らばる記憶の断片を必死に繋ぎ合わせようと試みた。『真我』の覚醒。兵たちの一掃。雷震宝(レイ・シンホウ)による睡眠薬の投与。そして……今、ここだ。筋骨隆々の男たちに囲まれ、体を洗われているというこの状況。激しい屈辱と恥辱が、私の内なる最も繊細な人性を一瞬にして呼び覚ました。

「離れろ!」

 私は腕を振り払い、髭面のタオルを弾き飛ばすと、浴槽の縁まで後退して慌てて股間を覆い隠した。

「お前たち、一体全体なにをやっているんだ!?」

 兵士たちの動きがピタリと止まり、次の瞬間、腹の底から響くような爆笑が一斉に巻き起こった。その野太い笑い声が、翡翠の広間に空しくこだまする。

「なにって、なに言ってんだ? お前を風呂に入れてやってんだろうが!」

 額に傷のある兵士が口元を歪め、その視線を私の頭から足先へと走らせた。そして、私が必死に隠している一点に釘付けになる。彼は舌を打ち、隣の男の肘を突いた。

「……だがまあ、言わせてもらえばよ。このガキ、御年五歳にして……とんでもねえ異相の持ち主だな」

「ああ、俺も言おうと思ってたところだ」隣の男も頷き、その瞳には驚愕と微かな嫉妬の色が混じり合っていた。「さっき目測してみたんだが……クソが、未勃起の状態で少なくとも十四センチはあるぞ。俺たち禁衛軍の大半のモノを足したよりデカいんじゃねえか?」

「デカいだけじゃねえ」別の男が唾を飲み込む。「あの血管の走り方、組織の密度……成人する頃には倍じゃきかねえぞ。一体どこのどいつの化け物だ?」

 頭に血が上り、両頬が焼けるように熱くなる。

 機械の中で一千年のコールドスリープを経験し、数々の死線を潜り抜け、幾多の破壊神と対峙してきたこの私が……まさか、召使いの兵士どもに『男としての器量』を衆人環視の中で解剖・品評される羽目になろうとは。この極限の羞恥心が、ゲンソン・ジェスダという——人間としての私の仮面を、滑稽なまでに子供じみた拒絶反応へと暴発させた。

「黙れッ……黙りやがれえぇッ!」

 私は絶叫し、股間を覆っていた手を放すと、両足で浴槽の壁を力任せに蹴った。身体能力を爆発させ、その小さな体躯をカワウソのごとき俊敏さで跳躍させる。傷顔の男と髭面男の髪の毛をまとめて掴み取り、生まれ持った怪力でふたつの頭を薬草の湯の中へと叩き伏せた。

 ゴボ……ゴボゴボッ……!

「助け……ぐはっ……!」

 二人の巨漢兵士が水中で暴れ回り、両足を無様にバタつかせる。

「どこ見てやがる! 誰が見ていいと言った!? 挙げ句に品評まで始めやがって!!」

 私は二人の頭を水底へ押し付けながら、顔を真っ赤にして叫び散らした。

「俺のが十四センチあろうがなかろうが、お前らの飯の種に関係ねえだろ! 全員、水に顔突っ込んでやがれ!」

 残りの兵士たちは顔を引きつらせて後退し、誰一人として制止に入ろうとはしなかった。

 五歳の子供が、全裸で、二人の巨漢兵士を極度の混乱と怒りのままに溺れさせている——まさに悲喜劇というほかない光景がそこにあった。超然たる天才、そして古の存在という仮面の下で、感情を爆発させて愚者として振る舞うことが、妙な解放感をもたらしていることに私は気づいていた。

 ◇

 一刻(約一時間)後。

 私は皇室専用浴場のエリアを後にした。背後には十人の衛兵が続いているが、どいつもこいつも顔中アザだらけの濡れネズミで、もはや誰一人として私と目を合わせようとはしなかった。

 夜はすっかり更けていた。雷鎮城(ライチンジョウ)の核心部たる暖房エリアを抜けると、気温は牙を剥くように急降下した。雲上に位置するこの五行仙国の気候は極めて苛烈だ。昼間は凍てつくような寒さだが、夜ともなれば大気圏から降り注ぐ霜が、皮膚を切り裂くような烈風となって吹き荒れる。

 私は身震いし、兵士から渡されたばかりの粗末な絹の寝巻きの襟ぐりを引き上げた。それは趙敏(チョウ・ビン)の部屋にあったような高級な絹織物ではなく、分厚くゴワゴワとした、松脂の青くさい匂いを放つ代物だった。

「私の部屋はどこだ?」

 私は振り返り、魔導灯を掲げて先頭を歩く傷顔の兵士に問いかけた。

「ついて来い」

 彼はむっつりと答え、その声にはまだ水に溺れたときの後遺症が残っていた。

 私たちは長い道のりを歩いた。金箔で彩られた廊下や、怪しく光る翡翠の庭園を通り抜け、宮殿の最外郭エリアへと向かっていく。景観は目に見えて荒廃していった。足元は石英の石畳から冷たいたたき(押し固められた粘土)へと変わり、周囲には広大な果樹園が広がっている。枝葉が複雑に絡み合い、人工の月光の下で歪な影を落としていた。

 やがて、兵士は漆黒のモミの木で組み上げられた、今にも崩れそうな長屋の前で足を止めた。彼が扉を荒々しく押し開けると、錆びついた蝶番が悲鳴のような音を立てた。

「入れ。明朝、魔王陛下への謁見のために迎えが来る」

 兵士は私に真鍮の鍵を投げつけると、警護の群れとともに踵を返した。暗闇の中に、私一人だけを取り残して。

 私は部屋に足を踏み入れ、庭から差し込むわずかな光を頼りに室内を見渡した。

 文字通りの『下男の小屋』だった。広さはわずか二メートル四方。狭い木製のベッドと、小さな机、脚のガタつく丸椅子がひとつ置かれているだけだ。絹のカーテンも、錦織の絨毯もない。低い天井からは無骨な小屋組みの梁が剥き出しになっていた。部屋の隅には素焼きのレンガで作られた小さな暖炉があり、その奥でわずかな熾火が消えかかっている。

 私はベッドの縁へ歩み寄り、薄いウールの掛け布団をそっと撫でた。手触りは固くゴワついているが……驚くほど、生々しいリアリティがあった。

 不思議なことに、この狭く、荒削りで、冷え切った空間が、私の胸の竦みを静めてくれた。ここには趙敏の欺瞞に満ちた香水もなく、支配階級の虚飾もない。この場所は私に現実を突きつけている——私は今、盤面そのものをひっくり返そうと企む一枚の『駒』なのだと。私は不敵な笑みを浮かべ、大きく伸びをしてから、硬いマットレスの上に体を投げ出した。

 目を閉じようとした、まさにその時。

 ——コン、コン。

 ノックの音が響いた。

 私は眉をひそめ、体を起こした。「入れ。鍵はかかっていない」

 木製の扉が静かに開いた。隙間から冷たい北風が吹き込み、ひとりの子供の影を運び込んでくる。

 私の心臓が、ひやりと跳ねた。

 そこに立っていたのは、私のために解体された心優しき恩人——張五侠(チョウ・ゴキョウ)の顔をした者だった。しかし、その瞳にはコブラのごとき狡猾さと残忍さ、そして狂気が揺らめいている。雷震宝。現在の生物学的な年齢で言えば私より二歳若い、つまり三歳半の幼児の姿をしているはずなのだが、その身から放たれる気圧は歪みきっており、凶悪そのものだった。

「やあ、化け物」

 震宝は口元を歪めた。盗んだ顔に浮かぶその笑みは、完璧な造形美をみにくく歪ませていた。

「よう、顔泥棒」

 私はすぐさま言い返し、ベッドの上で脚を組んで無関心を装った。

 震宝は軽く目を細め、一瞬だけ殺気を走らせたが、すぐにそれを押し殺した。彼は毛皮のコートのポケットに手を突っ込み、光沢のある長方形の物体を取り出すと、私に向かって荒々しく投げつけた。

 私はそれを手で受け止めた。ステルス合金で覆われたハイテクスマートフォンだった。画面が青い光を点滅させている。

「趙敏の姉上から、お前に渡すよう頼まれた」

 震宝は胸の前で腕を組み、顎をしゃくった。

「そこには姉上の専用量子通信チャンネルが登録されている。この犬小屋で凍死していなければ、状況報告に使うといい。……言っておくが、姉上に庇われているからといって、この雷鎮城で生き残れると思うなよ。明朝、父王様がお前直々に『地獄』ってものを教えてくださるはずだ」

 吐き捨てるように言うと、そのガキは背を向け、私が言葉を発する前にドアを叩きつけるように閉めて去っていった。

 手の中の端末を見つめ、私は苦笑しながら首を振った。

「雷家の配達サービスは、随分と接客態度が悪いな」

 画面をスライドして開く。パスワードはかかっていない。洗練されたUIの上には、たったひとつのメッセージウィンドウだけが表示されていた。その瞬間、画面が明るく灯る。

 ピコン。

[ 趙敏:おやすみ、ゲンソン。 ]

 私はその短い二文字を見つめたまま、呆然と立ち尽くした。

 命令もない。脅迫もない。嘲笑すらない。ただの、一人の少女による『おやすみ』の挨拶。今日の夕方、私の胸元でこぼれ落ちた彼女の涙が脳裏をよぎる。この人間の感情は、果たして真実なのか、それとも偽りなのか。あるいは彼女自身すら、仮面と真我の境界線を見失っているのかもしれない。

 私は仮想キーボードの上に指を滑らせ、悪戯っぽい笑みを浮かべると、送信ボタンを押した。

 ◇

 時を同じくして。雷鎮城の中心部に位置する、絢爛豪華な紅玉の寝室にて。

 趙敏は巨大な錦のベッドの上に横たわっていた。室内の温度は常に完璧な状態に保たれていたが、彼女は寝返りを繰り返し、一向に眠りにつくことができずにいた。左へ返っては夜明珠の灯りを見つめ、右へ返っては揺れる絹のカーテンを見つめる。

 彼女の精神は、もつれた毛糸玉のようになっていた。

 自分の服の裾にすがりついて「姫様」と呼んでいた幼子から、虚空に浮遊して万の軍勢を押し潰した『化け物』へと変貌を遂げたゲンソンの姿が、脳裏で明滅し続ける。なぜ自分は父に懇願して彼の命を乞うたのか? なぜ暗い牢獄で打ちひしがれる彼を見て胸を痛めたのか? この『脆さ』は病であり、魔王の継承者にとっては致命的な欠陥でしかないというのに。

 彼女は溜息をつき、ガバッと起き上がると、 bedside(枕元)のナイトテーブルに置かれたスマートフォンに手を伸ばした。画面は暗いままだった。

「……返事なんて、来るはずがないわね」

 趙敏は自嘲気味に呟き、端末を放り投げようとした。

「あの人は私を恨んでいる。この一族を憎み抜いているもの」

 ピコン。

 かすかな振動音が、彼女の心臓をドクンと跳ねさせた。

 趙敏は慌てて画面を裏返した。

[ ゲンソン:お前の家の犬小屋にある木製ベッドは固くて腰が痛い。だが少なくとも、お前の部屋みたいに安っぽい香水の匂いが充満していないだけマシだな。スマホをありがとう、敏敏(ビンビン)。 ]

 趙敏の唇の端がぴくぴくと痙攣した。

「……敏敏(ビンビン)?」

 捕虜の分際で取った無礼かつ傲慢な態度に、腹の底から怒りが込み上げてくる。しかし——脳が処罰のシグナルを発する前に、彼女の唇にはふっと柔らかい笑みがこぼれていた。張員瑛(チョウ・エンエイ)という仮面を被って生きてきたこの十年間のなかで、初めての、純粋な笑顔だった。

 彼女は返信しなかった。

 スマートフォンを枕元に置き、布団を顎まで引き上げて目を閉じる。今度ばかりは、秋の風のように穏やかな眠りが彼女を包み込んでいった。

 ◇

 翌朝。

 雲層の核をなす精石から放たれる人工の光が、木造小屋の隙間から差し込み、新しい一日の訪れを告げた。

 私は乱暴な扉のノック音によって目を覚まされた。

 黄金の鎧に身を包んだ三人の近衛兵——昨日の風呂の兵士どもとは明らかに格の違う猛者たちが、外で待ち構えていた。

「ゲンソン殿下」

 隊長格の男が頷き、表面上の敬称で私を呼んだが、その瞳の奥には隠しきれない蔑みが宿っていた。

「お時間です。魔王陛下が『第二十八層』にてお待ちだ」

 私は大きくあくびをし、骨を鳴らして背伸びをした。

「行くなら行くが……朝飯は出るんだろうな?」

「陛下に、誰かの食事を待つという習慣はない」

 隊長は冷たく言い放ち、背を向けた。

 私はぞろぞろと彼らの後をついて行った。

 日光の下で見る雷鎮城は、その圧倒的な壮大さと、内に秘めた狂気を遺憾なく晒していた。私たちは宙に浮かぶ庭園を通り抜けた。そこでは麻の衣を着た数千の奴隷たちが、俯いて千年生人参を摘み取っていた。魔導で動く数万の機甲兵器が地平線まで列をなす練兵場を横切った。ここにあるすべてが、絶対的な力と、容赦なき鎮圧の象徴だった。

 その深層において、私の脳は興奮に打ち震えていた。

 天才たる私の頭脳が高速回転を始め、あらゆる経路、すべての警備施設、この都市の構造的弱点を克明に記憶・計算していく。表向きは、公園を散歩するガキのように能天気に笑い、廊下に口笛を響かせていたが。

 私たちは『昇天軸』——地表から中央の最上階タワーへと垂直に貫く巨大な光柱へと足を踏み入れた。無重力感が体を包み込む。光柱は私を急上昇させ、電磁雲の層をいくつも突き抜けて、ついに『第二十八層』へと到達した。

 扉が開く。

 ここの空気は希薄を極めており、常人であれば肺胞が即座に破裂するレベルだった。オゾンの臭気と、原始的な核エネルギーの波動が濃密に立ち込めている。

 そこは『部屋』ではなかった。

 平流層(成層圏)の中央にぽっかりと浮かぶ、透明なガラス張りの展望台。五行仙国の全景を一望できる、天空の孤島だった。

 ガラス壁に向かい、背中で手を組んで立っているひとりの男がいた。

 星々を刺繍した黄 robe(帝服)を纏い、背が高く、岩のように頑強な体躯をしている。艶やかな黒髪には銀の筋が混じり、腰のあたりまで長く伸びていた。彼が振り向きもしないというのに、その存在自体から発せられる圧倒的な圧力が、周囲の空間そのものを歪ませているようだった。

 雷善長夢(ライゼン・チョウム)。

 この世界を統べる、絶対の魔王。

「下がれ」

 雷善が声を発した。

 大きな声ではない。しかしその音波はダイレクトに大脳へと侵入し、すべての神経細胞に対して『服従せよ』と命令を下してくる。

 三人の近衛兵は平伏し、震えながらエレベーターへと引き下がり、姿を消した。

 残されたのは、私と彼だけだった。

「こちらへ来い」

 雷善がゆっくりと振り返った。

 花崗岩から削り出したかのような頑強なエラを持つ顔立ち。その深紅の瞳は、あらゆる光を飲み込むふたつのブラックホールのように怪しく輝いていた。何万年という時を生きていながら、老いという兆候は微塵も感じさせない。

 私は肩をすくめ、粗末な布ズボンのポケットに両手を突っこむと、悠然と歩み寄って彼のちょうど十歩手前で足を止めた。

「景色でも見せようと俺を呼び出したのか? おっさん」

 私はニッと口角を上げ、極限まで人を食った態度をとってみせた。

 雷善は怒らなかった。

 ただ目を細め、私の魂までも解剖するかのような鋭利な視線を投げかけてくる。

「何も覚えておらぬのか、ゲンソン・ジェスダよ」

 雷善の声は淡々としていた。

「『創造主』の力を宿しながら、命長からぬ(凡夫の)子供の肉体に囚われるとは。皮肉なものだな」

「何の話だ? 覚えてなきゃいけないことでも?」私は頭を掻いた。

 雷善は手を後ろに組んだまま、私の周囲をゆっくりと旋回した。

「お前が今日まで呼吸を続けていられる理由は、我が娘が愚かにも命乞いをしたからだけではない。……かつて、時間の概念すら形を成していなかった遥かなる紀元において、お前は我が命を救ったことがある」

 私の動きが止まった。口元の笑みが、かすかに消えかける。

 ……奴の命を救った?

 封印された私の脳のデータ領域には、そのような記録は存在しない。私の最古の記憶は、一千年の眠りにつくこととなった最後の決戦だけだ。おそらく、雷善が語っているのはそれ以前のループ、あるいは私の『真我』が介在した前世の出来事なのだろう。

「ゆえに」

 雷善は私の正面で足を止め、施しを与えるような声で言った。

「お前の命を免じてやる。この雷鎮城において、新たなる生を与えよう。……その代わり、お前の義務はその卑しい命を賭して、我が二人の子——趙敏と震宝を守ることだ」

「ちょっと待てよ」

 私は眉をひそめ、無知な子供のフリをして驚いてみせた。

「二人だって? 昨日の夜、敏敏は『私の専属護衛になれ』って言ってたぞ。あんな綺麗な姫様を守るってなら話は分かるが、あの顔泥棒の精神病患者まで守れってのは……勘弁してくれよ、おっさん」

 ——バリッ。

 雷善の足元の床がひび割れた。

 その赤い瞳から、凄惨な殺気が爆発的に噴き出す。

「趙敏がどう言おうと、それは奴の都合だ」

 雷善が低く唸る。その音圧だけで、第二十八層の強化ガラス全体が激しく振動した。

「だがこの世界において、我が言葉こそが物理法則(絶対の理)だ。過去に恩があるからといって、調子に乗るなよ。娘の執押しがなければ、昨日の一件で貴様の中にある混沌エネルギーを、この手で根こそぎ引き抜いていたところだ!」

 私は見上げた。

 体躯の差も、気圧の差も、天と地ほどにあった。一方は世界を統べる神であり、一方は貧相なガキだ。しかしその深層において、私のふてぶてしい本性が激しく首をもたげ、狂気的な計算を張り巡らせる脳を覆い隠していく。

 私は口元を歪め、八重歯を見せて笑った。

「いいことを教えてやろうか、雷善」

 私は首を仰ぎ見、まるでジョークでも語るかのような軽いトーンで言い放った。

「遅かれ早かれ……俺はお前をこの手で殺す。そのあと、お前のそのケツをその玉座から蹴り飛ばして、俺がそこに座るんだ。……どうだ? 完璧な計画だろう?」

 空気が、凍りついた。

 コンマ一秒にも満たない刹那、雷善の姿が消えた。

 そして次のコンマ一秒、万力のごとき巨大な手が私の首を過剰な力で締め上げ、地面から宙へと吊り上げていた。

「ガハッ……!」

 私は空中で両足をバタつかせた。

「身の程を知れ、小僧」

 雷善が顔を近づけてくる。熱く猛々しい息からは、血の匂いが漂っていた。

「私が寛大に見逃しているからといって、吠えたい放題吠えられると思うな。貴様の体内の力は固く封印されており、現在の貴様はただの『廃物』に過ぎん。虫ケラを捻り潰すことなど、造作もないのだぞ」

 喉を襲う激痛が大脳へと伝達される。酸素の供給が絶たれる。

 窒息の感覚が、私の魂の最深部に眠る『絶対防衛プロトコル』を起動させた。

 劇的に——『愚かなゲンソン』が消え去った。

 私の顔の筋肉が弛緩し、完全な無表情へと変貌する。

 直前まで恐怖に見開かれていた瞳が一瞬で濁り、光を呑み込む底なしの漆黒——部屋のすべての光を吸い上げる宇宙のブラックホールのごとき色へと塗りつぶされた。唇が、微かに開く。

 私が発したその声は、声帯を震わせた音波ではなかった。

 それは魔王の『魂の膜』へと直接共鳴し、響き渡る波動だった。冷徹で、残酷で、一切の迷いがなく、背筋が凍りつくほどにストレートな——『真我』の声。

「手を……離せ」

 雷善の体が硬直した。

 私の首を絞めていた己の手が、まるで液体窒素に叩き込まれたかのように一瞬で凍てついた錯覚を覚えたのだ。

「魔王を自称するか……」

 真我は言葉を続けた。唇ひとつ動かさず、その小さな体躯は宙に吊り下げられたままでありながら、放たれる絶対的な気圧が逆に巨漢の肩へと重くのしかかる。

「……だが貴様は、己の目の前に立っている存在の正体を何も理解していない。この肉体の中で眠る膨大なエネルギー……貴様が『封印されている』と呼ぶ代物……。私がその一千億分の一でも解放すれば……今この瞬間に、この退屈な宇宙全体を素粒子(クォーク)の塵へと還元することなど造作もない。……試してみるか? 『塵芥』よ」

 雷善の赤い瞳孔が、極限まで収縮した。

 彼の呼吸が、完全に停止する。

 その瞬間の出来事だった。

 世界を統率する絶対の魔王が、一体何を目撃したというのか? 彼の目に映っていたのは、もはや子供の姿ではなかった。私の底なしの黒い瞳の奥に、彼は神の概念すら超越した巨体——暗闇の中で悠然と身を丸め、ただ一瞬の瞬きで銀河全体を喰らい尽くさんと機会を窺う『怪物』の輪郭を見たのだ。

 何万年もの間、味わったことすらなかった原始的な恐怖が、彼の背骨を駆け上がった。

 彼の手が、無意識のうちに震えた。

 そして、その手を離した。

 ドサッ!

 私は床の上に無様に落ちた。

 尻が地面に着いた瞬間、目の中の漆黒は露と消え、澄み渡った無邪気な瞳が戻ってきた。顔の筋肉が痛みに歪み、私は首を抱えて激しく咳き込んだ。

「痛ぇッ! お前、頭おかしいんじゃないのか!?」

 私は顔をしかめて見上げると、子供特有の甲高い怨み節をぶちまけた。

「ちょっと冗談言ったくらいで、骨が折れるほど首絞めるやつがあるかよ! ユーモアの欠片もない暴君め!」

 雷善は半歩後退した。その瞳には、隠しきれない動揺と疑念が渦巻いている。

 彼は私を穴があくほど見つめ直した。

 ……このガキは、今なんと答えた?

 先ほどの恐ろしいまでの気圧は何だったのだ? なぜ今、何も知らぬ愚者のように振る舞っていられる?

「お前は……今、何と言った?」

 雷善は探るように、声を低くして問い詰めた。

「お前にはユーモアのセンスがないって言ったんだよ!」

 私は立ち上がり、赤く腫れ上がった首を擦った。

「天下を奪うぞって言ったくらいでムキになりやがって。ダメならダメって優しく言え!」

 雷善は数秒間、沈黙した。

 彼は深く息を吸い込み、乱れた心拍数を強制的に落ち着かせた。自分は魔王だ。恐怖に支配されるわけにはいかない。先ほどの圧迫感は、おそらくゲンソンの前世の残滓が一時的に響いただけのこと。いずれにせよ、目の前にいるガキが現時点でただの『廃物』であることに変わりはないのだから。

「……フン、いいだろう」

 雷善は袖を払い、日頃の威厳を取り戻してみせた。

「口だけは達者なようだな。だが我が世界において、実力を伴わぬ大口は、殺されるのを待つ豚と同じだ」

 彼は黒石で作られた玉座へと歩み寄り、どかと腰を下ろした。

「お前の存在価値を証明する機会を与えてやる」

 雷善は宣告し、その鋭い視線で私を指さした。

「今日の午後、皇宮の『生死闘技場』にて、我が息子・雷震宝とお前を戦わせる。ルール無用の死闘だ。どちらかが完全に倒れるまで終わらん。お前が誇るその資質とやらが、あいつの一撃に耐えられるか見ものだな」

 私は目を丸くした。

 雷震宝と……戦うだと?

 表向き、私は能天気に笑みを浮かべ、胸をポンと叩いてみせた。

「任せておけって! あの顔泥棒のガキを泣かせて、母親のところに逃げ帰らせてやるからよ!」

 だが——私の脳内では、あらゆる警報アラームが狂ったように鳴り響いていた。

(くそッ! くそッ! くそったれが……!!)

 私は心の中で絶叫していた。

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