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Episode 24

挿絵(By みてみん) 挿絵(By みてみん) 太陽の人工スペクトルが放つ眩い光が窓枠を突き抜け、長い閃光の筋となって私の瞼を焼いた。

 夢ひとつ見ない、静かな眠りだった。昨夜、抑制用マイクロチップを、人工知能《BadBoy》と組み合わせて体内に移植して以来、血管を駆け巡っていた混沌のエネルギーは完全に封じ込められている。精神の中に訪れた静寂は、私をあまりにも深い眠りへと沈め、普段なら最低限に保っているはずの外周警戒システムさえ、最も低い出力に設定していた。

 ――それが間違いだった。

 多元宇宙そのものを支配したことさえある者が、なお消えかけた人間性に目を曇らせて犯した、致命的な過ちだった。

「起きて! 早く起きなさい、この怠け者!」

 耳元すれすれで甲高い声が響いた。次の瞬間、布団が容赦なくひっぺがされる感触がした。

 私はかすかに眉を寄せた。五歳児の生体身体が、重たげに身じろぎする。

「BoyBot……時間を報告しろ……」

 無意識のまま呟き、なおも瞼を固く閉じている。

 だが、返ってきたのは無機質なAIの音声ではなかった。代わりに、鋭く、簡潔な物理的衝撃が加えられた。

 ――パァン!

 さほど強くはない。だが、痺れるような痛みが、ストライキ中だった私の神経細胞を一気に叩き起こすには十分だった。

 私は跳ね起きるように目を開いた。紅玉色の瞳孔が急激に収縮し、本能的な殺気が喉奥で鋭く唸る。

 しかし、視界の焦点が定まったとき、そこにいたのは敵ではなかった。

 張・媛英だった。

 少女は両手を腰に当て、精巧に仕立てられた訓練生用の制服を身にまとっていた。銀糸の縁取りが施されたネイビーブルーのショートジャケット、短いプリーツスカート。そして左胸には、六芒星を模した徽章がきらめいている。

「初めての予備選考の日だからって、ベッドごと焼け焦がすつもりだったの?」

 媛英は唇を尖らせ、呆れ果てたような表情を浮かべた。

「予備選考? 何の予備選考だ?」

 私はまだぼんやりとした頭で、赤くなった頬を手でさすった。

「お前……どうして私の部屋にいる?」

「昨夜話したこと、もう忘れたの?」

 媛英はため息をつき、ベッド脇の椅子にどさりと腰を下ろした。

「今日はステラ学園の予備選考受付が始まる日なの。父さんと、あの兄弟二人は、別区画の登録会場へ行くために夜明け前から出発したわ。今、この家にいるのは私たち二人だけ。かなり遠くまで行ったから、戻ってくるのは何日か先になるかもしれないって」

 私はゆっくりと身体を起こし、ベッドの背に寄りかかった。広大な邸宅を包む静けさを肌で感じる。

 確かに、BadBoyの音響・熱感知センサーにも、一キロ圏内で私と媛英以外の生命反応は一切検知されていない。

「何も言わずに出ていったのか?」

 訝しげに尋ねる。

 昨夜の張・陸砂は、明らかに私のことを気にかけていた。なのに、なぜ今朝になって、あれほど急いで立ち去ったのか。

「あの人たちはいつもああなのよ。仕事ばかりで、自分のことなんて後回しにするんだから」

 媛英は手を振って私を急かした。

「ほら、早く顔を洗って着替えて。……ねえ、それより本当に聞きたいんだけど、どの学科に登録するつもり?」

 私はベッドを降り、室内に浮かぶホログラム・ディスプレイの横を通り過ぎた。

「この時代の教育制度がどういう構造になっているのか、私にはまだ分からん。選択肢は何がある?」

「学園は大きく三つの主要区分に分かれてるの」

 媛英は小さな指を一本ずつ立てて説明を始めた。

「一つ目は技術科。量子物理学の研究、機械工学、宇宙兵器の製造なんかを専門にするところ。二つ目は魔術科。霊根を持っていて、自然元素や空間を操れる人間のための学科。三つ目は医術科。分子生物学、錬金術、毒薬学を中心に扱うの。昨夜、私は技術科を選びなさいって勧めたでしょう? 覚えてる?」

 私は鼻でせせら笑いながら、自動開閉式の浴室へと入っていった。

「今の私の頭にある知識量なら、技術など子供のお遊びに過ぎん。この時代の魔術も、所詮は私の残滓を借り受けているだけだ。医術に至っては――かつて私は、一柱の神の心臓を白色矮星の核へと置換したことすらある」

 水音が轟く中、私は浴室の奥から言葉を投げかけた。

「三つとも登録する」

「はぁ!?」

 浴室の扉が勢いよく開いた。

 私はちょうど白いシャツを着終えたところだった。そこへ媛英が突進してくる。少女の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。

 ためらいもなく、その手が私の耳たぶを強くつねり上げる。

「痛っ! 何をする!」

 私は顔をしかめた。防御エネルギーを展開することはできない。誤って彼女を傷つける恐れがあるからだ。

「この救いようのない自信過剰野郎!」

 媛英は私の耳を引っ張りながら、ずるずると玄関へ向かって歩き始めた。

「三つ全部選ぶのがそんなに偉いと思ってるの? 光輝の塔の貴族たちに目をつけられて、卒業する前に解剖されて研究材料にされるわよ! それに……」

 少女は不意に立ち止まり、私の耳を解放した。そして頬杖をつき、品定めするような視線で私を見つめる。

「言葉遣いを変えなさいって、昨日から何度も言ってるでしょう? 『我』だの『お前』だの、何なのそれ。そんな無愛想で人を寄せつけない性格のまま学校に行ったら、嫌われるに決まってるじゃない。ほら、もっと可愛く言ってみて」

 私はその場に立ち尽くした。

 熱を帯びた耳をそっとさする。

 千年もの間、私の耳に触れようなどと考えた者は、一人残らず灰になった。

 それなのに、この少女の前では――なぜか、不思議な妥協を許してしまう自分がいた。

 私は深く息を吸い込み、至高の存在として積み重ねてきた驕慢を心の底へと押し沈め、声をわずかに和らげた。

「兄さん……分かった。少し待ってて。上着を取ったら、一緒に行こう」

 媛英の口元が、たちまち満開の花のような笑みに変わった。青い瞳には、空そのものが宿っているかのようにきらめいている。

「そう、それでいいの。ほら、急いで! 04番路線の電磁バスがもうすぐ来るんだから!」

 十五分後、私たちは磁気浮上式の公共バスに乗り込んでいた。

 車体は地上数百メートルの高さに浮かぶ光の軌道を、滑るような静けさで進んでいく。

 透明なガラス越しに、ステラ都市の姿が現れた。

 それは、過去と未来とが完璧に融合した、一枚の絵画のようだった。

 ガラスと超軽量合金で造られた超高層塔が天へとまっすぐ伸び、その合間には青石を敷き詰めた古い街区が広がっている。赤い瓦屋根は優雅な曲線を描き、その周囲には静電場によって保存された歴史的建造物が点在していた。

 空では個人用宇宙船が猛スピードで駆け抜け、地上では人々が今なお機械式自転車を使い、光を放つ生体発光樹木の下を歩いている。

「……綺麗だ」

 私は呟き、窓の外へ視線を釘付けにした。

 あまりにも先進的なのに――どこか古典的な、穏やかな空気を漂わせている。

 私がかつて治めた万金帝国には、決して存在しなかったものだ。

「綺麗でしょう?」

 隣に座る媛英が、床に届かない両脚をぷらぷらと揺らしている。

 少女は首を傾げ、くすくすと笑った。

「今のあなた、初めて家の外に出た馬鹿な猫みたい。可愛すぎるんだけど」

 私は眉をひそめた。

「可愛い」という二文字に反論しようとした、その瞬間だった。

 媛英が小さな保温容器を私の手に押しつけてきた。

「食べて。朝ごはん」

 蓋を開ける。

 中には、ぱりっと焼き上げられたトーストが二枚。人工ベーコンが挟まれている。

 その隣には、乳白色の液体を満たしたガラス瓶があり、ほんのりと優しい香りが漂っていた。

「これ……君が自分で?」

 私は驚いたように少女を見る。

 媛英は誇らしげに顎を上げた。

「当然でしょう! 合成食品なんて、機械に作らせたら不味くて食べられないもの。だから私、早起きして自分で生地をこねて、ミルクも温めたんだから。早く食べて、冷めちゃうよ。入学時の魔力検査でエネルギーを使うんだからね」

 私は手の中の食事を見つめた。

 BadBoyの毒性分析システムが、いつもの習慣に従って自動的に一通りのスキャンを実行する。

 重金属、検出されず。

 有害な無機化合物、検出されず。

 生物学的ウイルス、検出されず。

 胸の奥に、温かく柔らかな何かが静かに入り込んできた。

 血と殺戮にまみれた、果てしなく長い人生。

 その中で、私のために自ら食事を用意してくれた者など、片手の指で数えられるほどしかいない。

 私はパンを一口かじり、ミルクを一口飲んだ。

 濃厚なコクと優しい甘みが、口の中いっぱいに広がる。

「……美味しい」

 小さな声だった。

 媛英のほうは見ない。

 ただ窓の外を眺め続け、身体の内側へ広がっていく温もりを、そのまま受け入れた。

 ――もしかすると。

 私は、この世界で本当に最初からやり直せるのかもしれない。

 もしかすると、この張家こそが、私の中に残された最後の人間性を繋ぎ止める錨なのかもしれない。

 だが、その頃――

 ステラ都市の輝く光から遠く離れた場所で、真実はすでに、その最も残酷で、最も醜悪な顔を晒していた。

 黒曜石聖殿の地下深く。

 永遠に陽の光が届くことのない、魂喰らいの密室。

 生臭い鮮血の匂いと、腐敗しきった肉の悪臭が、濃密に混ざり合っている。

 そこには量子技術もなければ、生命の気配もない。

 ただ、口を大きく開けた悪魔の姿に彫刻された石柱が立ち並び、その内部で冷たい青緑色の魔火がかすかに揺らめいているだけだった。

 張・陸砂――

 昨夜、私と笑いながら言葉を交わしていた、名声高き院長であり、模範的な父親だった男。

 その陸砂が今、鎖によって逆さ吊りにされていた。

 鎖は鎖骨を貫通し、傷口から流れ落ちる血が、眼下の翡翠石の祭壇へと滴り落ちる。

 ――ぽたり。

 ――ぽたり。

 その音だけが、密室に不気味に響いていた。

 彼の傍らでは、五歳の少年・陸山が血溜まりの中に横たわっている。

 ぴくりとも動かない。

 胸郭は引き裂かれ、心臓はすでに失われていた。

 見開かれた瞳には、自分がなぜ死ななければならないのか理解できない幼子の、極限の恐怖が刻まれている。

 そして張・五侠――天才と称された長男は、傾斜した石の台座の上へときつく縛りつけられていた。

 身体は絶え間なく痙攣し、眼球は白目を剥き、口からは泡が漏れている。

 淡い金色の光――生命力、優勢遺伝子、そして彼に与えられた端正な容貌そのものが、数十本もの透明なガラス管を通して、静脈から容赦なく吸い上げられていた。

 ガラス管の先は、小さな玉座へと繋がっている。

 そこには、五侠と同じくらいの年齢の少年が座っていた。

 その全身は、ざらついた角質の鱗に覆われ、そこから緑色の腐臭を放つ膿が滲み出ている。

 悪魔の血統に刻まれた、呪われた皮膚疾患。

 だが五侠の生命力が流れ込むにつれ、その角質の鱗が次々と剥がれ落ちていく。

 その下から現れたのは、白く滑らかな肌だった。

「いい……実にいい……」

 最上段の祭壇から、雷鳴のような低く太い声が響き渡った。

 五行仙国の魔王――雷・善長夢が、黒石で造られた階段をゆっくりと下りてくる。

 血龍の刺繍を施した魔王衣を纏い、その瞳は二つの溶岩の穴のように赤く燃え上がっている。

 彼は変化の過程を、冷酷な眼差しで見つめていた。

「雷震――我が息子よ」

 雷善は玉座に座る少年へ手を伸ばし、新たに生え始めた髪を撫でる。

 その口元に、残酷な笑みが浮かんだ。

「卑しい者が、お前のためにその美貌の精髄を捧げたのだ。これでお前は、光輝の塔の玉座に相応しい、最も完璧な美を手に入れる」

「ごほっ……ごほっ……」

 張・陸砂が黒い血を吐き出した。

 濁った目で、どうにか目の前の男を見上げる。

「雷善……陛下……」

 潰れた喉から漏れ出す声は、砕けたガラスを擦り合わせるような異様な音だった。

「なぜ……張家は……幾代にもわたり忠誠を尽くし……技術を捧げてきた……なぜ、こんなことを……? ゲンソンの……ゲンソンの懐柔計画は……我々は、うまく進めていたはず……」

 雷善長夢は足を止め、ゆっくりと振り返った。

 そして、軽く手を振る。

 次の瞬間――

 陸砂の鎖骨に食い込んでいた鎖が、一気に引き抜かれた。

「ぐっ……!」

 彼の身体は、ぼろ布の塊のように床へ叩きつけられた。

 折れた肋骨が皮膚を突き破り、血が噴き出す。

 雷善は歩み寄ると、鋼鉄で覆われた靴を陸砂の頭へと踏み下ろした。

 その顔を、自らの末の息子の血溜まりへと無理やり押しつける。

「忠誠?」

 雷善は大声で笑った。

 その笑い声は、密室そのものを震わせる。

「この私が、お前の目に宿る野望を見抜けぬとでも思ったか、張・陸砂?」

 足に力を込める。

「お前は、あの安っぽい家族愛などという代物を利用して、あのゲンソンという怪物を飼い慣らし、張家だけの究極兵器に変えようとした。そして、その力を利用して私を打倒し、五行仙国そのものの支配権を奪おうとした。――そうだろう?」

 陸砂の瞳が大きく見開かれた。

 最後の絶望が、ゆっくりと心の奥底から湧き上がる。

 慈悲深い科学者を装ったその裏に隠してきた、最も深い秘密。

 最も秘めた野望。

 それを、一体いつから見抜かれていたというのか。

「陛下……そんな……」

 陸砂は呻いた。

 涙と血が混ざり合い、頬を伝って流れ落ちる。

「ゲンソンは……あの子は、とても賢い……我々の不在に気づく……媛英が……媛英には、あの子を誤魔化しきれない……」

 雷善長夢は腰に佩いた漆黒の剣を、ゆっくりと抜き放った。

 刀身から凍てつくような冷気が立ち上る。

「媛英?」

 その名を繰り返しながら、唇の端を吊り上げる。

 その笑みには、極限まで研ぎ澄まされた嘲笑が浮かんでいた。

「お前は本当に、十年前に孤児院から連れてきた娘が、ただの名もなき少女だと思っていたのか?」

「人間の幼子が、なぜ霊能力に恵まれていた?」

「なぜ昨夜、ゲンソンの放ったあの混沌の殺気を前にして、少しも怯えなかった?」

 陸砂の身体が硬直した。

 呼吸は荒くなり、脳が残酷な真実の断片を必死に繋ぎ合わせようとするかのように、瞳孔が激しく震える。

「違う……そんなはずは……」

「その通りだ」

 雷善の瞳に、絶対的な残虐さが閃いた。

「お前が手塩にかけて育て、情を注ぎ、ゲンソンをおびき寄せる餌として利用した、あの従順な娘――」

 一歩、踏み出す。

「……あれは私の血を引く者だ」

 陸砂の顔から血の気が引いた。

「この十年間、あの娘はお前たちの家に送り込まれた私の目だった」

 雷善は静かに告げる。

「そして今――張家の役割は終わった」

 口元がわずかに歪む。

「ゲンソンは釣れた。檻の扉は、もう閉じた」

 ――ズブッ!

 漆黒の剣が張・陸砂の後頭部を貫き、石床へと深々と突き立った。

 張・陸砂の身体が一度だけ大きく跳ねる。

 そして――永遠に動かなくなった。

 その瞳には、拭い去れない怨恨と、最後まで消えることのなかった恐怖が残されていた。

 石の台座の上では、張・五侠の荒い呼吸もまた止まっていた。

 そこに残されたのは、乾ききった灰色の死体だけだった。

 雷善長夢は剣を引き抜く。

 軽く振って刀身についた血を払い落とすと、薄暗い地下室の天井を見上げた。

 その低い声には、勝利者の陶酔が滲んでいた。

「裏切りの味を存分に味わえ、ゼンム・ジョンソン。――地獄へ、おかえり」

 ――ギィ……ギィ……。

 磁気車輪が軌道をかすかに擦る音が響き、私は思考の海から引き戻された。

 バスが大きくカーブへ差しかかっている。

 私はこめかみに手を当てた。

 身体の中に、奇妙な感覚が忍び込んでいる。

 痛みではない。

 胃の奥から広がる、異様な重苦しさ。

 それが神経細胞を伝い、一直線に大脳皮質へと駆け上がっていく。

 窓の外の景色が、次第にぼやけ始めた。

 建物も道路も、すべてが崩れ、無秩序な色彩の帯へと分解されていく。

「BadBoy……」

 私は心の中で呼びかけた。

 心拍数が異常な速度で上昇し始める。

「警告! 警告、レベル・レッド!」

 BadBoyの電子音声が、甲高く、混乱に満ちた響きを放った。

「外来性毒素を検知! ……訂正! これは物理的毒素ではありません! 魂の沈殿型呪詛です! 抑制用マイクロチップを包囲しています! ナノシステムによる分解は不可能! 排除プロトコルを起動……失敗! 起動――」

 ――ピッ……ピッ……ジジ……。

 BadBoyからの信号が途切れ途切れになり、やがて完全な静寂へ沈んでいった。

 左肩甲骨の下に埋め込まれたマイクロチップから放たれていた光も、何度か不規則に明滅した後――完全に消えた。

 手が震える。

 手にしていたミルクの入ったガラス瓶が床へ落下し、甲高い破砕音を響かせた。

 白い液体が床へと広がり、その表面から淡い緑色の煙が細く立ち上る。

 ――魔火の痕跡。

「食事に……薬が……」

 私はかすれた声を漏らした。

 混沌の気を呼び起こして抵抗しようとする。

 だが――丹田は空っぽだった。

 この毒は、魂を完全に封じ込め、肉体とエネルギーの接続を断つためだけに特別設計されたものだ。

 そして、それはあまりにも容易く私の防御を突破した。

 なぜなら――

 この私自身が、食事を受け取るために防護シールドを下げろと、システムへ命じていたからだ。

 私は座席へ崩れ落ちた。

 呼吸は苦しく、荒い。

 血走った瞳を向ける。

 正面に座っている人物へ。

 バスの中には、ほかに誰もいなかった。

 乗客もいない。

 運転手さえいない。

 車体はあらかじめプログラムされた自動経路に従って走り続けている。

 そしてその進路は、学園へ向かう本来のルートから外れ、濃霧に覆われた区域へとまっすぐ入り込んでいた。

 媛英は、そこに座っていた。

 しかし――

 先ほどまでの無邪気さも、強情さも、あの温かな笑顔も、すべて消え失せている。

 まるで太陽に焼かれ、霧そのものが消滅してしまったかのように。

 少女はゆっくりと顔へ手を伸ばした。

 顎の下から、極薄の生体膜がひび割れ、剥がれ始める。

 そして――

 ゆっくりと、優雅に。

 ぞっとするほど優雅な所作で、少女は完璧な偽装の仮面を剥ぎ取った。

 漆黒だった髪が変化する。

 一本、また一本と、髪が鮮烈な光を放ち始める。

 そして色は――地獄の炎を思わせる、燃えるような橙色へと変わっていった。

 健康的な桃色だった肌は、雪のように白く、傷ひとつないものへと変貌する。

 そこから漂うのは、冷徹で傲慢な貴族の気配。

 そして――目。

 あれほど大きく愛らしかった瞳は、細く長く変わっていた。

 虹彩は深い緑へと染まり、王蛇の毒牙を思わせる鋭い輝きを宿している。

 ――紛れもなく、悪魔の令嬢。

 雷善の王族の血を引く者、そのものだった。

「お前……誰だ……」

 私は一語ずつ、どうにか言葉を絞り出す。

 唇の端から血が滲み始めた。

 その口の中には、裏切りという名の甘ったるく鉄臭い味が満ちている。

 橙色の髪の少女は脚を組み、優雅に両手を膝の上へ置いた。

 そして、わずかに首を傾ける。

 口元には完璧な曲線が浮かんでいる。

 だが、その美しさは、骨の髄まで凍らせるほど残酷だった。

 私を見るその眼差しには、もう姉でも友でもない。

 罠にかかった獲物を見つめる、狩人の視線しかなかった。

「ごめんなさいね、『ソン』。それとも――前の時代が生んだ、偉大なる失敗作と呼んだほうがいいかしら?」

 その声からは、先ほどまでの幼い少女の甲高さなど完全に消えていた。

 低く、艶やかで、魔性を帯びた声。

 それは私の耳ではなく、直接、魂へと響いた。

「張・媛英は、十年前にスラム街の路地裏で死んだわ」

 少女は微笑む。

「今ここにいる私は――ただ、父王から与えられた役を完璧に演じているだけ」

 彼女はゆっくりと身を乗り出した。

 橙色の髪が、冷たくなりつつある私の頬を撫でる。

 先ほどまで漂っていた人工木蓮の淡い香りは、もうどこにもない。

 代わりに残っているのは、焦げたオゾンと黒魔術の臭いだった。

「知ってる? ゲンソン・ジェスダ」

 彼女は私の耳元へ顔を寄せ、囁く。

 一言一言が、短剣の刃のように鋭い。

「あなたの最大の弱点はね――愛されたがっていることよ」

「ほんの少し偽物の温もりを与えられただけで、あなたはすぐに、自分が誇っていた防御の扉を大きく開いてしまう」

 少女の唇が、私の耳元でわずかに笑った。

「だから今は……いい子にして、おやすみなさい」

 闇が大津波のように押し寄せ、私の意識を呑み込んでいく。

 最後に網膜へ焼きついたのは――

 美しくも邪悪な、魔王の娘の顔。

 そして、胸を引き裂くほど残酷な真実だった。

 私は――また、誰かを信じた。

 そして――また、裏切られた。

 今度は、その代償として何を失う?

 目の前の世界が砕け散る。

 すべてが、底の見えない漆黒の深淵へと沈んでいった。

 バスは濃密な霧の中へ疾走していく。

 そこに横たわる私の動かぬ身体を乗せたまま――

 五行仙国の果てなき闇へ向かって、まっすぐに。

 電磁バスは、帯電した濃霧の雲層を静かに滑り抜け、ステラ都市の最先端技術区画から遠ざかっていった。そして人工の光さえ届かぬ下層へと、深く潜り込んでいく。

 不気味なほど静まり返った車内で、私の頭は雷・趙敏の膝の上に預けられていた。

 媛英を覆っていた偽装は完全に剥がれ落ち、そこに現れたのは、冷徹で残酷な貴族の美貌――光輝の塔が誇る大令嬢、本来の雷・趙敏の姿だった。

 地獄の炎を思わせる鮮やかな橙色の髪が肩へ流れ落ち、宙を行く車体のわずかな揺れに合わせて、さらさらと揺れている。細く長い、血の気を感じさせない白い指が、私の乱れた黒髪をゆっくりと梳いていた。その指先がこめかみに触れ、わずかに止まる。

 そこでは、魔火の毒に蝕まれた神経伝達が、ひとつ、またひとつと静かに機能を失いつつあった。

「千年前の破壊兵器が……まさか、温かいミルク一杯で、こんなにもあっさり倒されるなんてね」

 趙敏は囁いた。

 その唇には嘲笑が浮かんでいたが、どこか苦々しさのようなものも混じっていた。

 彼女は顔を上げ、防弾ガラスの窓の外へ視線を向ける。

 その下に広がっていたのは、五行仙国の剥き出しの現実だった。

 魔王・雷善長夢が何世紀にもわたって吹聴してきた「公平で、万人が等しく暮らせる世界」など、実際には世にもおぞましい偽りにすぎない。

 上空の雲層――そこでは支配者階級と貴族たちが、核融合エネルギーと晶石コアで稼働する浮遊塔に暮らしている。あらゆる生活サービスはマイクロテクノロジーによって完全自動化され、彼らは何不自由なく長い生涯を享受していた。

 だが、その足元。

 煤と泥にまみれた下層では、数千万もの庶民が腐りかけた藁小屋で暮らしている。

 石畳の凹凸だらけの道を、荷馬車がガタガタと音を立てて進んでいく。擦り切れた粗布の服をまとった痩せ細った御者たちは、自分たちの頭上を滑る豪華な電磁バスへ、羨望と恐怖の入り混じった視線を投げかけていた。

 階級差別は、もはや滑稽なほどに異常だった。

 雲の頂に住む者たちが数百年にも及ぶ生体寿命を享受する一方、泥沼の底にいる者たちは、わずか三十を越えた頃には微細鉱物によるアレルギー疾患で命を落とす。

「父上は、いつだって正しい」

 趙敏が低く呟いた。

 緑の瞳が細くなる。その脳裏に浮かぶのは、自らの家族が暮らす宮殿だった。

「平等なんて、取るに足らない蟻どもを支配するための、精神的な玩具にすぎない」

 彼女の思考は、実の弟――雷・震宝へと移っていった。

 魔王の血統が生み出した、最も歪んだ産物。

 震宝は、生まれながらにして重度の遺伝性皮膚壊死症を抱えていた。全身は潰瘍に覆われ、そこから悪臭を放つ緑色の膿が絶えず滲み出ていた。

 劣等感と絶え間ない肉体的苦痛は、やがて彼を狂気へと変えた。

 残忍で、凶暴で、救いようのない怪物へ。

 だが今は――

 雷善が邪術によって張・五侠の美貌、生命力、そして優れた遺伝子構造を丸ごと奪い取り、震宝の身体へと移植したことで、彼は完璧な美貌を手に入れていた。

 しかし、その変化が彼を善良にしたわけではない。

 むしろ、狂気じみた傲慢さに翼を与えただけだった。

 震宝には、《神動術》と呼ばれる異常な戦闘適性が備わっていた。

 それは、肉体を変形させることなく、古代から現代に至るあらゆる動物種の生物学的特性を瞬時に引き出し、自在に操る能力だった。

 一撃の拳でティラノサウルスの咬合力を再現することもできる。

 あるいは、身体の形を一切変えず、古代の猛禽類にも匹敵する速度で駆けることさえできる。

 雷善は、震宝を心から溺愛していた。

 そこに見ているのは、自分自身が持つ卑劣さ、冷酷さ、そして際限なき野心を完璧に受け継いだ後継者だった。

 だが、趙敏に言わせれば、弟は力こそあれど知恵のない愚者にすぎない。

 本当に恐ろしい存在は――自分だ。

 趙敏こそが、光輝の塔の若い世代において最も危険な存在だった。

 深遠な精神能力。

 広範な魔術知識。

 そして、人心を冷徹に操る卓越した頭脳。

 それらすべてを兼ね備えている。

 だというのに――

 テクノロジーという仮面を被った封建社会において、魔王の寵愛は常に、王位継承者たる息子へと偏っていた。

「他人の姿を手に入れたところで、所詮は永遠に偽物よ」

 趙敏は囁いた。

 その指先が、私の髪をわずかに強く握る。

「でも、あなた……ゲンソン……あなたは本物」

 * * *

 十五分後。

 脊髄を貫くような鋭い痛みが、私を虚無から引きずり戻した。

 ゆっくりと目を開く。

 最初に感じたのは――濃くこびりついた鉄錆の臭いと、地下牢特有の湿った、腐臭を孕んだ空気だった。

 私は冷え切った石床の上に横たわっていた。

 両手首と両足首には、魔力封鎖合金で作られた重い枷が嵌められている。

 一つ一つの鎖の輪は子供の手首ほどもあり、太い鎖はそのまま巨大な岩壁へ深々と打ち込まれていた。

 私は、巨大な鉄檻の中にいた。

 鉄格子の向こうには、数十人の兵士が立っている。

 全員が分厚い黒鎧に身を包み、手には赤黒い光を放つエネルギー刀を握りしめていた。

「げほっ……」

 咳き込んだ瞬間、黒い血が口から吐き出された。

 ミルクに仕込まれていた毒は、なおも神経伝達系を蝕み続けている。

 混沌のエネルギーを動かす能力は、ほとんど完全に麻痺していた。

「おい! このガキ、目を覚ましたぞ!」

 檻の外の兵士が刀の柄で鉄格子を強く叩く。

 ――ガンッ!

 甲高い音が、暗い牢獄全体に反響する。

「見ろよ、あのツラ。昨日までは大切に世話されてた大貴族様だったってのに、今じゃ食卓に並ぶ日を待つ犬ころと何も変わらねえ!」

「黙れ」

 隣の兵士が顎をしゃくる。

「殿下のお達しだ。魔王陛下から正式な命令が下るまでは、あいつを侮辱するな。死にたいのか?」

 私は目を閉じた。

 胸の奥で煮え立つものを、必死に押し殺す。

 ――失敗だった。

 ――愚かな信頼だった。

 あの口づけ。

 あの朝食。

 そして今朝、「姫様」と呼び、「兄さん」と優しく答えたあの声。

 それらの記憶が、錆びた刃物となって私の脳裏を何度も何度も掻きむしる。

 私は――弱かった。

 残された人間性などというものに、自分自身を形作らせてしまった。

 そして、その結果がこれだ。

 ――カツ……カツ……。

 木靴が石床を静かに叩く音が、暗い廊下の沈黙を破った。

 瞬間、並んでいた兵士たちが左右へ退き、汚れた床へ一斉に跪いた。

「殿下に拝謁いたします!」

 雷・趙敏が姿を現した。

 黒い絹の長衣には金糸で精緻な刺繍が施され、鮮やかな橙色の髪は高い位置で優雅に結い上げられている。

 その背後には、二人の異様な男が立っていた。

 一人は漆黒の外套をまとい、骸骨を思わせる痩せ細った顔をしている。全身から死を連想させる灰色の瘴気が立ち昇っていた。

 ――黒毒師。

 もう一人は純白の鎧を纏い、死人のように蒼白な肌と、一度も瞬かない血走った目を持っている。

 ――白毒師。

 二人は趙敏が最も信頼する側近であり、天下に名を轟かせた邪毒――《玄冥神掌》を操る達人たちだった。

 趙敏は檻の前で立ち止まる。

 緑色の瞳が、鉄格子越しに私を見下ろした。

「目が覚めたのね――『兄さん』?」

 その二文字は、嘲笑を極限まで込めて発せられた。

 私は顔を上げた。

 紅玉色の瞳には、恐ろしいほどの静けさが宿っている。

「雷・趙敏……本当の名は、なかなか美しいな。あの偽物の『媛英』なんかより、ずっといい」

 趙敏の目が細くなった。

 唇の端がわずかに引きつる。

「こんな状況になっても、まだその傲慢な態度を捨てられないの?」

 彼女は一歩近づいた。

「自分がどこにいるのか、分かってる? ここは黒曜獄。たとえ神が落ちてきたとしても、その魂を完全に搾り取られる場所よ」

「ここがどこだろうと、俺には関係ない」

 一語一語を噛みしめるように言った。

 声は低かった。

 だが、その奥に宿る力に反応して、周囲の鉄格子が微かに震える。

「俺が知りたいのはただ一つ……張・陸砂、五侠、それに陸山……あいつらは生きているのか?」

 趙敏は小さく笑った。

 そして、両手を背中で組み、さらに一歩近づく。

「あなた、まだ他人の心配なんてできるのね」

「残念だけど、あの人たちはもう死んだわ」

 淡々とした声だった。

「父上と震宝のための生贄よ。張・陸砂は父上の剣で死んだ。五侠は生命力をすべて抜き取られて、弟の新しい顔にされた。そして陸山――あの子の心臓は、今頃なら実験用の薬剤炉に入っているでしょうね」

 牢獄全体が、死よりも深い沈黙に包まれた。

 胸を、氷の手で握り潰されたような感覚がした。

 ――死んだ。

 千年もの眠りから目覚めた後、初めて温もりを与えてくれた唯一の家族。

 そのすべてが、あまりにも惨たらしく消し去られた。

 そして――直接の原因は、他でもない。

 私自身の存在だった。

「開けなさい」

 趙敏は兵士隊長へ命じた。

「ですが……殿下」

 兵士の声が震えた。

「陛下が……」

「私の言葉が理解できなかったのかしら?」

 趙敏が兵士を一瞥する。

 次の瞬間、見えない精神波が牢獄を横切った。

「ぐっ……!」

 兵士はその場で血を吐き、後ろへ吹き飛んだ。

 残った兵士は恐怖に顔を引きつらせ、慌ててエネルギーキーを取り出し、鍵穴へ差し込む。

 ――ガコンッ!

 重い鉄扉が轟音とともに開いた。

「そいつの枷を外して」

 趙敏は続けた。

「処刑室へ連れていきなさい。父上はもうすぐ閉関を終える。すべての準備を整えておくのよ」

「はっ!」

 屈強な兵士二人が慎重に檻の中へ入り、鍵解除装置を使って私の四つの枷を外し始めた。

 ――カチッ。

 ――カチッ。

 重い合金の輪が、次々と石床へ落ちる。

 私はゆっくりと立ち上がった。

 手首には紫黒色の痕が深く残っている。

「立て、このクズ!」

 兵士が怒鳴り、エネルギー刀を振り上げた。

 私の背を小突こうとした、その瞬間。

 それが――

 奴の最後の過ちだった。

「BadBoy――緊急プロトコルを起動!」

 私は心の中で叫んだ。

『命令を確認! 魔力封鎖毒を無視……生体コアより予備動力源を起動!』

 そして、あの聞き慣れた不敵な声が大脳内で弾けた。

『さあ、親分――パーティーの時間だ!』

 ――ジュウウウウッ!

 左肩甲骨の下。

 毒によって押さえ込まれていた数十億の黒銀色ナノマシンが、一斉に爆発的な活動を開始した。

 高熱反応によって魔火の毒素を貪り食い、わずか一万分の一秒にも満たない速度で全身へと拡散していく。

 次の瞬間――

 不可視だったナノアーマーが実体化した。

 私の身体は角張った漆黒の金属装甲に覆われ、両眼部から血のように赤い光が鋭く放たれる。

「な、何だと!? ナノアーマーは破壊されてなかったのか!?」

 兵士が恐怖に叫ぶ。

 ――バキッ!

 私は二言目を吐かせなかった。

 ナノ装甲に覆われた腕が稲妻のように走る。

 拳ではない。

 指が兵士の喉を掴み――そのまま咽頭を握り潰した。

 次の瞬間、男の身体が石壁へ叩きつけられる。

 頭蓋と脳が砕け、壁に赤黒いものが飛び散った。

「捕らえろ! 反撃だ!」

 二人目の兵士が刀を振り上げる。

 だが、ナノアーマーを起動した私の速度は、生物の反射神経などとうに超えている。

 私は身体を回転させた。

 横薙ぎの蹴りが、奴の両膝を同時にへし折る。

 同時に肘からナノブレードが噴き出した。

 刃は背後から胸部を貫き、心臓を一撃で断ち切る。

 わずか三秒。

 その短い時間の中で、室内にいた六人すべての兵士が、原形すら残さない死体へと変わっていた。

 鮮血が灰色の石壁へ飛び散り、趙敏の足元まで赤く濡らしていく。

 だが――

 趙敏は一歩も退かなかった。

 緑色の瞳が細くなる。

 一瞬だけ驚愕が走る。

 だがすぐに、その感情は冷たい静けさへと塗り潰された。

「驚いたわ」

 彼女は腕を組む。

 その声には、まだ余裕があった。

「その皮膚の下に、まだ切り札を隠していたなんてね」

 私は死体を踏み越え、檻の外へ出た。

 両腕が変形し、それぞれが鋭いナノブレードへと変わる。

 刃からは一千度を超える熱が噴き上がっていた。

 装甲の赤い光を通して、私の視線は趙敏へと完全に固定される。

「俺は魔王の首を獲る」

 装甲の音声フィルターを通じ、低く重い声が響いた。

「そして――雷・趙敏」

 ナノブレードがゆっくりと構えられる。

「お前には、その道を切り開いてもらう」

「……身の程知らずが!」

 雷鳴のような怒声が地下牢を震わせた。

 次の瞬間――

 趙敏の背後にいた二つの黒影が、一瞬で前方へ滑り出した。

 彼女の前に立ち塞がる。

 黒毒師と白毒師。

 二人は同時に外套を翻し、掌を突き出した。

 ――ジュウウウッ!

 二人の足元にあった石床が瞬時に腐食し、黒と青の煙が立ち昇る。

 死体の腐臭を思わせる悪臭が牢獄中へと広がった。

 二つの邪毒掌力――黒と白。

 それぞれの掌上で渦を巻き始め、やがて恐ろしい毒気の竜巻へと変わっていく。

「殿下の御前で、よくも無礼を!」

 黒毒師が牙を剥くように叫ぶ。

「玄冥神掌――祭毒!」

 白毒師が吼えた。

 二人の達人が同時に掌を突き出す。

 空間そのものが引き裂かれた。

 黒と白、二つの毒気が絡み合い、巨大な邪毒の蟒蛇へと姿を変える。

 その大口が開かれ――

 光速にも匹敵する速度で、私の胸部へと突っ込んできた。

「最大防御!」

 私は叫んだ。

 両腕を胸前で交差させる。

 全身のナノマシンが一斉に集中し、濃密なエネルギーシールドを形成した。

 ――轟ォォォォン!

 凄まじい爆発が、黒曜獄の地下システム全体を震撼させた。

 玄冥神掌の邪毒の渦が、ナノシールドへ真正面から激突する。

 だが、この邪毒の侵食速度は、BadBoyの計算を遥かに上回っていた。

 周囲数十メートルが一瞬で吹き飛び、石壁は黒々とした溶岩へ変わっていく。

 ――ピシッ……。

 ――ピシッ……。

 ――バキィッ!

『警告! ナノシールド損壊率八十パーセント……九十パーセント!』

 BadBoyの声が初めて明確な混乱を帯びた。

『毒素が抑制コアへ侵入しています! ボス! この攻撃を相殺するには、アーマーの全エネルギーを放出する必要があります! さもなければ――あなたは死ぬ!』

「やれ!」

 私は歯を食いしばって命じた。

 ――ドォォォン!

 ナノアーマーが、内側から爆発した。

 純白の光が一瞬にして膨張し、黒毒師と白毒師の邪毒を周囲へ弾き飛ばす。

 同時に、凄まじい反作用が私の身体を後方へ叩き飛ばした。

 私は牢獄の奥深くにある石壁へ激突する。

 ナノアーマーは完全に灰へと崩れ落ちた。

 そして――左肩甲骨の下に埋め込まれていた抑制用マイクロチップもまた、衝撃によって粉砕された。

 無数の微細な破片となって、石床へとぱらぱらと落ちていく。

 私はその場に膝をついた。

 荒い呼吸が止まらない。

 衣服はずたずたに引き裂かれている。

 アーマーが玄冥神掌の威力の九十九パーセントを受け止め、内臓だけは辛うじて守ってくれた。

 だが――

 生体エネルギーを完全に使い果たしたこと。

 そして、抑制チップそのものが破壊されたこと。

 その二つが重なり、私に残されていた最後の力まで容赦なく奪い去っていた。

 頭の中がぐるぐると回る。

 額から流れ落ちる血が視界を赤く染める。

 全身の細胞一つ一つに、耐え難い疲労がのしかかってくる。

「ぐっ……」

 私は石床へ崩れ落ちた。

 瞼が重く閉じていく。

 そして――

 その日のうちに、再び二度目の昏睡へと沈んでいった。

 黒毒師と白毒師は掌を収めた。

 二人とも呼吸がわずかに乱れている。

 そして、地面に倒れた私を見つめた。

 そこにあったのは、隠しきれない驚愕だった。

「我ら二人の合掌による玄冥神掌をまともに受けて……」

 白毒師が呟く。

「ただ力尽きただけ……だと?」

 声がわずかに震えた。

「この怪物……もし成長を許せば……」

 黒毒師は黒気を纏う短刀を抜き放ち、私へ歩み寄った。

「殿下、ここで始末させてください。この災いの芽を、絶対に残してはなりません!」

「手を出すな!」

 鋭い声が響いた。

 趙敏が残留する毒煙を掻き分け、黒毒師と私の倒れた身体の間へと立ちはだかった。

「殿下?」

 黒毒師が立ち止まり、困惑したように主君を見つめる。

「言ったはずよ。父上から正式な勅命はまだ下っていない」

 趙敏は二人の側近を冷たく見据えた。

「あなたたちは、この切り札の運命を父上に代わって勝手に決めるつもり?」

「め、滅相もございません!」

 二人の毒師は慌てて跪いた。

 趙敏は振り返る。

 そして――

 床に横たわる私を見下ろした。

 小さく、裸同然で、全身を傷だらけにした五歳の身体。

 抑制チップは砕け散った。

 つまり――

 私が目を覚ました瞬間、内部に封じられている混沌の気が、いつ爆発してもおかしくない。

 だが今の私は、ただ冷たい石床の上で身体を丸めて眠る、一人の五歳児にすぎなかった。

「この子を、私の私室へ運びなさい」

 趙敏が命じた。

 その声には、本人さえ気づいていないほど微かな震えが混じっていた。

「ベッドへ寝かせて。父上がお越しになるまで、この子の身体に指一本でも触れた者がいたら――その魂を私が直接抜き取る」

「承知しました!」

 黒毒師は急いで私を肩に担ぎ上げ、慎重に歩き出した。

 * * *

 一刻後。

 黒曜石聖殿最上層――雷・趙敏専用の豪奢な寝室。

 その空間は、先ほどの地下牢とは完全に別世界だった。

 広々とした室内には伝説級の魔獣の毛皮から織られた絨毯が敷き詰められ、天井から吊るされた夜光珠が、柔らかな光を静かに降らせている。

 私は柔らかな絹で包まれた大きな寝台の上に横たわっていた。

 身体の傷はすでに洗い流され、ぼろぼろだった衣服は脱がされ、簡素な白い絹の服へと着替えさせられている。

 呼吸はようやく安定していた。

 だがエネルギーを完全に消耗していたため、深い昏睡からはまだ戻っていない。

 ――カチャ。

 扉が開く。

 趙敏が一人で入ってきた。

 彼女はすでに、すべての侍女と護衛を外へ追い払っていた。

 ゆっくりとベッドへ近づき、そこに横たわる私の青白い顔を、黙って見下ろす。

 誰一人として声を発しない静寂の中で――

 光輝の塔の大令嬢を覆っていた冷酷な仮面に、少しずつ亀裂が入り始めた。

 趙敏は手を伸ばした。

 指先が微かに震えている。

 そして、その指が私の頬へそっと触れる。

 まだ、生きた生命の温もりがわずかに残っている。

 彼女の瞳――

 蛇王の毒のように鋭かった緑色の瞳が、今だけは柔らかく揺らいでいた。

 そこには慈しみと――

 自分でも名前をつけられない、複雑な感情が溢れていた。

 十年間。

 張・媛英を演じている間、彼女は張家とともに暮らし、この世界に存在する数え切れないほどの偽善を見てきた。

 だが――

 厨房で私が彼女を抱き寄せた、あの瞬間。

 千年もの孤独をすべて込めて彼女へ口づけをした、あの瞬間。

 そして、電磁バスの中で私が彼女を「姫様」と呼んだ、あの瞬間。

 あれらすべてが、完全な演技だったわけではない。

 彼女の演技は、あまりにも完璧だった。

 完璧すぎたからこそ――

 いつの間にか、彼女自身の魂の一部まで、その役の中へ落としてしまっていた。

「あなたは本当に……救いようのないほど残酷な謎ね……」

 趙敏は囁いた。

 親指が、私の頬に残った薄い痣を優しく撫でる。

「どうして……あなたは父上の敵なの?」

「どうして……あなたは、消されなければならない怪物なの?」

 一滴の透明な涙が、知らず知らずのうちに彼女の瞼から零れ落ちた。

 そして私の胸元へ――

 静かに落ちた。

 しかし次の瞬間。

「……っ!」

 趙敏は、まるで火傷を負ったかのように、突然手を引いた。

 その顔が一変する。

 柔らかさが消え去り、再び歪んだ冷酷な表情へ戻っていく。

 そして、自分自身の頬を軽く叩いた。

「違う……! 私は何を考えているの!?」

 彼女自身の心の中で絶叫する。

 二歩、後ずさる。

 その瞳には、激しい否定と、己自身に対する嫌悪が満ちていた。

「私は雷・趙敏!」

「私は光輝の塔の姫。父上と共に、この多元宇宙を支配する者になる!」

「破壊兵器なんかに、心を揺さぶられてはいけない!」

「こいつはただの切り札……ただの道具よ!」

 彼女は深く息を吸い込んだ。

 両手を強く握り締める。

 爪が肉へ深く食い込むほどに。

 その瞳に一瞬だけ宿った柔らかな光は、権力と野望という名の氷の下へ、永遠に沈められた。

 趙敏は背を向ける。

 そして、足早に部屋の出口へ向かった。

 ――カチャ。

 重い合金製の扉が閉じる。

 豪奢ではあるが、どこか冷たいこの部屋の中に、私一人を閉じ込めるように。

 廊下の闇が、彼女の背中を静かに呑み込んでいく。

 あとに残されたのは――

 そこで眠り続ける私だけだった。

 檻にかかった獣。

 その深い眠りの底で、やがて訪れる破滅的な怒りを、静かに、そして確実に蓄えながら。

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