Episode 20
渓流沿いに続いていた細い山道は、次第にその姿を消し、代わって真っ直ぐに敷き詰められた花崗岩の石畳が現れた。その道は、一帯の空を支配するかのようにそびえ立つ巨大な建造物へと一直線に続いている。
それはブロンダー家の城――「不死鳥の巣」と称される、天火帝国の権力の中心だった。
溶岩のように鮮烈な紅に燃える石造りの城壁。雲間を突き抜けるほど鋭く尖った幾重もの塔。そして、炎を象った家紋旗が風を受け、力強くはためいている。
小さな火――燃えるように赤い毛並みをした一匹の狐――は、俺を正門まで送り届けると、そこで足を止めた。やがて茂みの中へ身を潜め、尻尾をひらりと振ったかと思うと、まるで初めから存在していなかったかのように姿を消した。
俺はその場に立ち尽くしていた。
粗末な布の服をまとい、鮮烈な赤い瞳を細めながら、行き交う大勢の人々を見つめる。気品漂う管弦楽が響き渡り、人々の談笑が飛び交い、ワイングラスの触れ合う澄んだ音があちこちから聞こえてくる。
今日は、この国にとって特別な日だった。
父、カイ・ブロンダーが正式に即位し、国王となる日。
城はまるで巨大な蜂の巣のように、喧騒と活気に満ちていた。
だが、俺はその場にいる誰よりも、自分だけが取り残されているように感じていた。
頭の中の混沌が、再び蠢き始める。
――ここは本当に現実なのか?
それとも俺は、まだあの古木の根元で眠りながら、夢を見続けているだけなのか?
もし、この世界が本当に現実なのだとしたら――。
俺が神々を滅ぼしたという夢。
アエギスの塔。
そして、あの女たちのこと。
なぜ、それらは胸を抉られるほど生々しく、現実そのもののように感じられるのだろう。
「ゲンソン! あなた!」
一人の人影がこちらへ駆け寄ってきた。
上質な香水の甘い香り。その奥に滲む切迫感が、鼻腔を突き刺す。
そこにいたのは、一人の美しい女性だった。
栗色の髪を高く結い上げ、瞳には涙を浮かべている。
彼女は俺の前に跪くと、小さな両肩を強く掴んだ。
その手は震え、ひどく冷たかった。
「母さん……モリノス・ブロンダー?」
その名が、まるで最初から頭の中に組み込まれていた記憶であるかのように、自然と口からこぼれ落ちた。
「あなた、いったいどこにいたの? 五日よ! 五日と四晩も……!」
母は悲鳴にも似た声を上げた。
声は涙で震え、極限まで張り詰めた不安に満ちている。
「お父様が近衛隊を総動員して、帝国中をくまなく捜しているのよ。お母さんは……お母さんは、もうあなたを失ってしまったんじゃないかって……!」
「母さん……」
俺は彼女を見上げた。
その瞳に宿っていたのは、混じり気のない純粋な愛情だった。
かつて自らを「創造主」と称していたこの俺にとって、それはあまりにも遠い感情だった。
「俺……ただ、少し散歩してただけだよ」
その周囲では、招待客たちがざわつき始めていた。
好奇の眼差しが一斉に俺へと集まってくる。
新たに即位した国王の、行方不明になっていた息子。
彼らが何かを囁き合っている。
その声は次第に膨れ上がり、場内を騒然とした空気で満たしていった。
――ヒュッ。
突然、頭蓋の奥を突き刺すような激痛が走った。
まるで誰かに、真っ赤に焼けた短剣を額の奥深くへ突き立てられたかのような痛みだった。
視界が一瞬で滲んだ。
エネルギー爆発の光景。
神々の体系が崩壊していく様子。
かつて俺を愛してくれた女たちの顔。
あらゆる記憶の断片が荒れ狂う嵐のように脳裏で渦巻き、互いに激しく衝突していく。
そして――世界が突然、静止した。
人々の声。
音楽。
風の音。
そのすべてが、一瞬にして途絶えた。
俺は漆黒の空間に立っていた。
光はない。
重力すらない。
ただ、果てのない闇だけが広がっている。
その正面に、一人の巨大な人影が立っていた。
全身を絶対的な黒に覆われた存在。
顔はない。
ただ、虚ろな瞳だけがこちらを見つめている。
それは――俺だった。
いや。
正確には、俺自身の一片。
「もう否定するのはやめろ、ゲンソン」
その声は耳に届く音ではなかった。
魂そのものへ直接振動を叩き込まれるように、俺の内側へと響き渡った。
「お前は記憶を失ったんじゃない」
「ただ、真実から逃げているだけだ」
「お前は……何者だ?」
俺は叫んだ。
だが、その声は外へ出ることなく、闇の中へと消えていった。
「俺は、お前が捨て去った真実だ」
影がゆっくりと歩み寄ってくる。
漆黒の姿が、まるで俺そのものを覆い尽くすかのように迫ってくる。
「あの出来事は夢なんかじゃない。お前は本当に、あそこに存在していた」
「そしてお前は――わずか三分で、多元宇宙の八割を滅ぼした」
「すべては、お前の力が無限という境界を越え、人間の精神では制御不能な領域にまで達したからだ」
「お前は瞬き一つの間に、数十億もの文明を消し去った」
「生きる目的すら失った者が見せた、無自覚で残酷な破壊だった」
俺は全身を震わせながら、一歩、また一歩と後退した。
「違う……」
「お前は嘘をついている!」
「俺は子供だ!」
「たった五歳の子供なんだ!」
「お前は創造主だ、ゲンソン」
影が笑った。
口など存在しない。
それでも、確かに笑ったのだ。
「間もなく、この宴で起こる出来事が、お前にとって最大の喪失となる」
「それこそが、すべての引き金だ」
「その瞬間、お前は選ばなければならない」
「平凡な子供として生き続けるのか――」
「それとも、再び至高の存在として目覚め、この世界に残されたすべてを破壊するのか」
「お前には、普通の人間になどなれない」
「消えろ――!」
俺は激痛の中でもがき、叫んだ。
――ドォン!
次の瞬間、俺は現実へと引き戻された。
宴の喧騒が、まるで巨大な津波のように一気に耳へ押し寄せてくる。
すると、どこかの貴族らしき男が、仰々しい礼装に身を包んでこちらへ近づいてきた。
その顔には、いかにも取ってつけたような心配が浮かんでいる。
「おや、この少年が……? どうやらあまり具合がよくないようだね。私が手を貸して――」
男が俺の肩へ手を伸ばした。
「影」との邂逅による恐怖は、まだ生々しく残っていた。
そこへ、理由さえ分からない怒りが重なる。
その瞬間、俺の腕が無意識に振り払われた。
ただの何気ない一振りだった。
そこには攻撃の意思など、微塵もなかった。
――ヒュオッ!
目には見えない。
だが、凄まじいほどの衝撃波が空気を引き裂いた。
貴族は何が起きたのか理解する暇さえなかった。
その身体は、まるで糸の切れた凧のように一気に宙へ舞い上がり、城の遥か高みにある最上層へ向かって一直線に吹き飛ばされ、そのまま青く澄み渡った空の彼方へと消えていった。
「うわああああっ!」
群衆から凄まじい悲鳴が上がった。
誰かがその場で気を失う。
母は絶叫し、俺を力いっぱい抱きしめた。
次の瞬間、演壇の方から一つの人影が凄まじい速度で空へ飛び出した。
父――カイ・ブロンダー。
即位したばかりの国王に相応しい威厳をまとったその身体は、目にも止まらぬ速さで宙を駆けた。
そして、落下してきた貴族を、地面や建物にぶつけることなく見事に受け止めた。
父は静かに地上へ降り立つと、その男をそっと下ろした。
それから振り返り、俺を見つめた。
そこに怒りはなかった。
あるのは、極限まで張り詰めた心配だけだった。
父は俺のもとへ歩み寄った。
何も言わない。
ただ、深く俺の目を見つめる。
その瞳の奥に、俺は理解を見た。
父がさらに一歩、俺へ近づく。
そして俺が反応するより早く、父は小さな装置を取り出した。
冷たい、極小の機器。
まるで生体チップのようなそれを、俺の後頭部へそっと押し当てた。
――カチッ。
ひやりとした感覚が背筋を駆け抜け、そのまま脳の奥深くへと広がっていく。
猛烈な頭痛が、まるで誰かの手によって撫で伸ばされるかのように消えていった。
混沌。
「影」の囁き。
得体の知れない恐怖。
そのすべてが、突然静まり返った。
まるで嵐の後の湖面のように、穏やかに、静かに凪いでいく。
父は安堵したように、ゆっくりと息を吐いた。
そして俺を軽々と抱き上げた。
その姿は、まるで揺るぎない山のように頼もしかった。
「大丈夫だ、息子よ」
父の声は低く、温かく、王としての威厳を宿していた。
それでいて、そこには深い愛情があった。
「何も心配することはない。すべてうまくいく」
「今はただ、ゆっくり休めばいい」
「周りのことなど気にするな」
父は俺を抱いたまま踵を返し、数千もの視線が一斉に注がれる宴の大広間へ向かって、大股に歩き出した。
豪奢な城全体が、重苦しい沈黙に包まれていた。
俺は父の肩へ頭を預け、その身体から伝わってくる温もりを感じていた。
――この人は、本当に俺の父なのだろうか。
それとも、「影」が先ほど描き出した狂気じみた筋書きの中に登場する、別の役者にすぎないのだろうか。
俺には分からない。
ただ、この瞬間だけは――
この偽りの平穏こそが、俺に残された唯一のものだった。
父は俺を抱き上げた。その腕は鍛え上げられており、一つの帝国の命運をその手に握ったばかりの男の、確かな力強さと温もりを宿していた。
下からは雷鳴のような拍手が巻き起こった。絶えることのない喝采が、城の窓の隙間を吹き抜ける風の唸りさえもかき消していく。
父は俺を大理石の演壇へ立たせた。頭上のクリスタル製シャンデリアから降り注ぐ光を受け、俺の髪はまばゆい銀色に輝いていた。
「今日という日は、私が王位に就く日というだけではない」
父は誇らしげに声を響かせながら、俺の肩へ手を置き、優しく力を込めた。
「同時に、天火帝国の民に、この遺産を継ぐ者を紹介する日でもある。ゲンソン。私の息子だ。私の希望そのものだ」
父は、観衆を見渡しながら続けた。
「いつの日か、お前がただの王になるのではなく、この私をも超える偉大な存在となり、この帝国を星々へと導いてくれることを願っている」
俺はそこに立ち、眼下を見つめていた。
母――モリノスはハンカチで目元をそっと押さえている。その顔には、幸せと、言葉では言い表せないほどの誇らしさが入り混じっていた。
周囲では貴族たちや高級官僚たちが、俺の名を声高に叫んでいる。
俺は、自分が展示ケースに入れられた人形のように感じていた。
けれど、意識の奥底では――自分の一部が、彼らの言葉をあまりにも些細なものだと感じていた。
父は俺をその場に残して祝杯を受けるのではなく、俺を抱き上げたまま宴の広間を離れ、人目につかない廊下へと入っていった。
そして、俺の部屋の扉が開かれた瞬間――
俺は一瞬、呼吸の仕方さえ忘れた。
そこは、子供の部屋ではなかった。
ぬいぐるみもない。
色鮮やかな玩具の車もない。
その代わり、部屋全体がまるで巨大なテクノロジーの迷宮と化していた。
強化ガラスの壁の内部には電子回路が張り巡らされ、生体シミュレーション装置が一定の低い駆動音を響かせながら稼働している。
そして部屋の中央には、一台の10Dホログラフィック・プロジェクターが宙に浮かび、複雑極まりない設計図を映し出していた。
あまりにも精密で高度な設計だった。
帝国最高峰の技術者たちでさえ、その構造を解読するのに一生を費やすのではないか――そう思えるほどだった。
「これからも、お前の好きなことを思う存分続けなさい」
父は俺を床へ下ろすと、優しく頭を撫でた。
そして、そのまま踵を返す。
やがて、その大きな背中は扉の向こうへと消えていった。
俺は10Dシミュレーターへ近づいた。
そこに映し出されていた設計図――それは、先ほど父が俺の首筋に装着した生体チップのものだった。
1nm。
極めて精密な抑制装置。
俺はそれを見つめ、次に自分の指先へ視線を落とした。
理屈では説明できない。
だが、本能が告げていた。
――これを作ったのは、俺自身だ。
「マスター、ようやくお戻りになったのですね!」
部屋の隅から、柔らかく透き通った声が響いた。
小さな金属製の球体が宙に浮かび、目に優しい淡い青色の光を放ちながら、俺のもとへ飛んでくる。
「BoyBot……?」
俺は小さく呟いた。
「はい、マスター! 私はマスターを120時間42分15秒、お待ちしておりました。現在、室内防衛システムは98%の稼働率を維持しています。生体関連装置も安定しています」
俺はそいつを見つめた。
記憶の大部分が空白となっている俺にとって、こいつは唯一の友だった。
かつて外で向けられた、あの冷たい視線を思い出す。
俺があまりにも周囲と違い、異質で、奇妙だったせいで、他の子供たちは俺を嘲笑った。
BoyBotは俺が導き出した答えだった。
そして同時に――自分自身を映し出した鏡でもあった。
「抑制装置の状態は?」
尋ねる俺の声には、本人も意識していないほど自然に、研究者のような冷徹さが滲んでいた。
「ナノ構造内に若干の信号干渉が発生しております、マスター。現在、補正処理を実行中です」
俺は頷き、そのまま調整を続けるよう命じた。
そして自分の部屋にある五階のバルコニーへ出た。
眼下の中庭を見下ろすと、人々はまだ踊り続けていた。
色鮮やかな照明が夜空を鮮烈に照らし出している。
彼らは楽しんでいる。
そして彼らには、破壊された現実のことも、無限という概念の果てにある限界のことも、考える必要などない。
夕暮れ時。
夕焼けが城の一角を真紅に染める頃、父が一人の少女を連れてきた。
その少女は俺より一歳ほど年下に見え、大きく澄んだ瞳を持ち、恥ずかしそうに父の背後へ身を隠していた。
「ゲンソン。こちらはサーシャ・クロンボンだ。外務大臣であり、私の親友でもある男の娘だ。しばらくこの子の面倒を見てやってくれ。気を遣う必要はない」
そう言い残すと、父はそのまま立ち去った。
サーシャが恐る恐る俺へ近づいてくる。
その少女には、この無機質で冷たい部屋とは正反対の、澄み切った純粋な美しさがあった。
すると突然、BoyBotがノイズ混じりの音を発した。
「こんにちは、少女。私の名前はBoyBotです」
サーシャはびくりと身体を震わせ、一歩後退した。
大きな瞳を見開き、明らかに怯えている。
俺は彼女に近づき、肩を軽く叩いた。
「怖がらなくていい。噛みついたりしない。ただの機械だ」
「わ、私……サーシャ・クロンボン……」
少女はそう呟きながら、服の裾をぎゅっと握りしめた。
「私、こういう玩具のこと全然分からないの……。人形遊び、一緒にしてくれない?」
俺はわずかに口元を歪め、BoyBotを指差した。
「人形遊びは、俺の優先項目には入っていない。BoyBotと遊んでいろ」
サーシャは俺を見つめた。
その瞳に、一瞬だけ寂しげな色が浮かぶ。
「お兄ちゃん……私のこと、迷惑だと思ってるの?」
「私なんか、ここにいてほしくないんでしょう?」
俺はぴたりと動きを止めた。
――なぜ分かった?
俺は一言も、そんなことを口にしていない。
するとBoyBotが慌てたように報告した。
「マスター、先ほど彼女の脳波を生体センサーで測定しました。彼女には強力な超能力的感応能力――極めて高度な霊的透視能力が確認されています」
面白い。
――ミュータント、ということか?
俺はサーシャへ近づいた。
そして、BoyBotが調整を終えたばかりの抑制チップを手のひらに載せる。
「僕が迷惑だって?」
俺は薄く笑った。
あまり友好的とは言えない笑みだった。
「なら、これを試してみようか」
「王族のルールを教えてやる。人の心を勝手に推測するな――封じられたくないのならな」
サーシャが反応するより先に、俺はチップを彼女の後頭部へそっと装着した。
その瞬間――
彼女の瞳がぐるりと反転した。
そして、その小さな身体は力を失ったように崩れ落ちた。
「BoyBot。この子、弱すぎる」
俺はベッドの上で微動だにしない小さな身体を見下ろしながら言った。
「おそらく装置のパルス出力が、彼女の精神感応能力に対する耐性限界を大幅に超えたものと思われます、マスター。周波数を40%まで下げることを推奨します」
俺はチップを取り外し、机の上へ置いた。
「クロンボン家について調べろ」
「第十三王族の家系です、マスター。外交における超能力者の運用で知られています。父親は外務大臣アスター・クロンボン。母親セラフィーン・クロンボンは、巡回任務中に嵐に巻き込まれ、行方不明となっています。サーシャには兄が一人います。名前はジムレイ。極めて高い身体能力と飛行能力を保有しています」
その直後、部屋の扉が勢いよく開いた。
俺より頭一つ分ほど背の高い少年――ジムレイ・クロンボンが入ってきた。
その鋭い視線が部屋を一周し、やがてベッドで眠っているサーシャへと止まる。
張り詰めていた表情が、一瞬で安堵へと変わった。
「妹か?」
ジムレイは、低く落ち着きながらも強い威圧感を帯びた声で尋ねた。
「寝ているだけだよ。少し眠っているだけ」
俺は一切動揺することなく答えた。
ジムレイは俺を見つめ、それから部屋中に並ぶ高度な機械装置や生体技術関連の設備へ視線を巡らせる。
その瞳に、鮮烈な輝きが宿った。
「まさか……これを全部、お前が作ったのか?」
「ゲンソン……お前が父から何度も聞かされていた、あの天才技術者なのか?」
俺は肩をすくめ、何事もなかったかのように自分の装置へ向き直った。
「ただの玩具だよ」
そして何気なく尋ねる。
「君もテクノロジーが好きなのか?」
「俺はこういうのは得意じゃない」
ジムレイは豪快に笑い、俺の肩をばんと叩いた。
「だが、お前みたいに頭の切れる奴は大好きだ」
俺はジムレイを見た。
次に、眠り続けるサーシャを見る。
そして、机の上に置かれた抑制チップへ視線を落とした。
眼下では、宴がまだ続いている。
音楽も鳴り止んでいない。
だが――
この瞬間を境に、俺の世界はどうやら、少しずつ変わり始めていた。
もしかすると、この異能力者たちについてもっと知っておくことは――
決して悪い考えではないのかもしれない。
ジムレイは、追い詰められた獣のような勢いで突っ込んできた。
その拳が風を切り裂き、俺の顔面へ真正面から叩き込まれる。
重い一撃だった。
口元から鮮血が滲み、鉄錆のような塩辛い血の味が舌に広がる。
だが、痛みは俺を怯えさせなかった。
むしろそれは、胸の奥底に潜んでいた何かを呼び起こした。
冷たい。
静かすぎるほどに静かで――逆に恐ろしくなるほどの何かを。
「立てよ! 反撃してみろ、この臆病者が!」
ジムレイが怒鳴り声を上げる。
その瞳は怒りの炎に燃え盛っていた。
「妹を気絶させておいて、いったい自分を何様だと思ってやがる!?」
俺は口元の血を拭い、真正面から彼の目を見据えた。
その瞳には、まだ死というものを知らない者の光があった。
滅びというものを、一度たりとも見たことのない者の目だった。
俺はわずかに首を横へ振る。
自分自身でさえ背筋が寒くなるほど、平静な声で言った。
「馬鹿だな。早く逃げろ」
そして、サーシャにも視線を向ける。
「二人とも……ここから離れろ」
サーシャがこちらへ歩み寄ってきた。
大きな瞳には涙が滲み、驚きと心配が入り混じっている。
俺自身、どこから湧き上がった衝動なのか分からなかった。
ただ、俺は自分から彼女へ近づき、その小さな身体を思いきり抱きしめた。
五歳の子供の抱擁。
小さな身体では包みきれないほど、それは罪悪感に満ちていた。
「ごめん……」
俺は彼女の耳元で囁いた。
彼女の荒い息遣いが伝わってくる。
「痛い思いをさせるつもりはなかった」
距離が近すぎた。
俺の顔とサーシャの顔が触れそうなほど近づく。
少女の身体から伝わる温もりに、彼女の羞恥心が一気に爆発した。
サーシャの顔がみるみる真っ赤になり、慌てたように俺を押しのける。
その瞬間を利用した。
俺は身体を翻し、小さな身体に秘められたすべての力――そして、その中に宿る至高の存在の精神を一つの拳へと集約した。
それは格闘家の拳ではない。
技術としての拳。
力任せではなく、正確に弱点と重心を射抜く一撃だった。
――ドゴッ!
ジムレイの身体が後方へ吹き飛んだ。
そのまま城の中庭にあるプールへ一直線に落下し、水面を凄まじい勢いで叩き割った。
俺の父――カイ・ブロンダーは、すぐ近くに立っていた。
父は目を見開き、驚愕の表情で俺を見つめる。
そして、親友の息子であるジムレイが水面に浮かび上がるのを見下ろした。
俺は血の混じった唾を吐き捨て、プールを見下ろしながら挑発する。
「もう倒れたのか?」
「それでも兄貴かよ?」
サーシャは慌てて兄のもとへ駆け寄り、プールサイドから様子を確認しようとした。
だが、その足が滑る。
俺は反射的に駆け出し、彼女の身体を支えた。
再び、俺たちの距離が極端に縮まった。
手を伸ばせば届くどころか、サーシャのまつ毛の一本一本まで数えられそうなほど近い。
しかし、その瞬間だった。
サーシャの身体から、強烈な精神波の衝撃が爆発的に放たれた。
「きゃっ!」
俺はそのまま後方へ弾き飛ばされ、空高く舞い上がった。
一瞬にして無重力のような感覚が訪れる。
俺は宙に浮かびながら、眼下に広がる城の敷地全体を見渡していた。
そして――そのとき、俺は見た。
地平線の向こう。
青空を切り裂くように、幾条もの光が走っている。
鳥ではない。
民間航空機でもない。
あれは――
万金帝国が誇る、最新鋭世代の戦闘機部隊だった。
数十機もの戦闘機が編隊を組み、こちらへ向かっている。
さらにその後方から、熱核弾頭を搭載した巡航ミサイルが、波を切り裂くような勢いで一直線に降下してきていた。
「みんな! 空を見ろ!」
俺は叫んだ。
だが、その声は吹き荒れる風の中で引き裂かれていく。
父が空を見上げた。
その顔が、一瞬で青ざめる。
アスター――サーシャの父も、それを認識した。
彼は即座にエネルギーを展開し、琥珀色の不可視の防護膜を宴の会場一帯へ広げた。
父は空高く飛び上がり、宙に浮いていた俺を掴む。
そして、俺を地面へ強く下ろした。
「ゲンソン!」
父が怒鳴る。
「ジムレイとサーシャを連れて行け!」
「今すぐここを離れるんだ!」
「父さん!」
「早く行け!」
――ドォォォン!
最初の爆発が、城を真っ二つに引き裂かんばかりの轟音とともに炸裂した。
アスターは必死に防護膜を維持しようとした。
だが、敵は多すぎた。
火力が桁違いだった。
ミサイルが雨のように次々と降り注いでくる。
父は母のもとへ駆け寄った。
そして、自らの身体を盾にして、彼女を降り注ぐ爆撃から守った。
俺には見えた。
二人の姿が。
そして、最後に父が俺へ向けた視線も。
そこにあったのは絶望ではなかった。
――託す者の目だった。
次の瞬間、すべてが炎と灰へと変わった。
ブロンダー城。
帝国の誇りであったその場所は、今や燃え盛る瓦礫の山へと姿を変えていた。
俺には泣いている時間などなかった。
本能が目を覚ます。
俺は隠していた小さな遠隔操作装置を取り出した。
すると、地下の秘密格納庫から、一隻の特殊宇宙船がゆっくりと姿を現した。
多用途。
全地形対応。
そして、俺自身が誰にも知られぬまま、廃棄された技術部品を寄せ集めて作り上げた機体だった。
「BoyBot! 緊急プロトコルを起動!」
「了解しました、マスター」
BoyBotの声が響く。
「現在地、およびマスターとご家族の居住区――完全に消失しました」
その淡々とした報告は、まるで刃物のように俺の胸を貫いた。
ジムレイはサーシャを抱きしめていた。
自分たちの両親までも失ったことを理解した二人は、深い苦痛の中で言葉を失っていた。
サーシャは声を上げることさえできず、ただ静かに涙を流している。
「現在、危険度Aランクの緊急事態にあります」
BoyBotが続ける。
途切れることのない警報音が船内を満たす。
「万金帝国の特殊部隊が掃討作戦を開始しています」
俺の宇宙船は、この世界に存在するどんな乗り物とも違っていた。
空を飛ぶだけではない。
姿を隠すこともできる。
水中を航行することもできる。
そして、どのような地形であろうと突破できる。
格納庫の扉が閉まり、俺たちの背後にかつての世界が取り残される。
船内には、俺がこれまで集めてきた玩具や、高度な技術設計図が所狭しと積み込まれていた。
ジムレイはそれらを見回す。
そして俺へ視線を向ける。
そこにあった敵意は、今や隠しきれない驚愕へと変わっていた。
「お前……まだ五歳なんだろ?」
声が震えている。
「五歳のガキが……こんな化け物みたいなものを作ったっていうのか?」
俺は操縦席へ腰を下ろした。
表情には何も浮かべない。
目の奥には、乾ききった涙の跡だけが残っていた。
「失うものが何もなくなったとき、人は何でも作れるようになるんだ」
俺は静かに答えた。
「ジムレイ」
「それで……これから、どこへ行くの?」
サーシャが怯えるように尋ねた。
泣き腫らした瞳が痛々しく赤くなっている。
俺は操縦パネルへ視線を向けた。
レーダーには無数の赤い反応が表示され、俺たちの周囲を取り囲んでいる。
どこへ行くべきなのか。
俺には分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――俺の中にいる「至高の存在」が、ゆっくりと目を覚まし始めている。
「その場その場で考える」
俺はそう答え、操縦レバーを強く握り込んだ。
次の瞬間、宇宙船は夜の闇へ向かって猛烈な速度で飛び去っていく。
誰にも見つけられない、深い闇の中へ。
「この世界は、俺にあまりにも高い代償を払わせた」
俺は前方を見据えたまま、静かに呟いた。
「なら――そのツケは、一円残らず払わせる」
灰が黒い雪のように降り注ぎ、ブロンダー城の残骸を喪に服すような色へと染めていた。
崩れ落ちた瓦礫の山には、焼け焦げた金属の臭いと、死の気配が濃厚に漂っている。
やがて、万金帝国の航空機が次々と降下し、すでに亀裂だらけとなった大地を震わせるほどの轟音を轟かせながら着陸した。
機体のハッチが開く。
そこから、一人の年配の男がゆっくりと降り立った。
男が身にまとっているのは、純白のローブだった。
血と炎と瓦礫に満ちた周囲の光景とは、あまりにも対照的だった。
ゼンク・ジョンソン。
稀代の天才科学者であると同時に、万金帝国の国王でもある男。
彼は瓦礫の下に横たわる三つの遺体を見下ろし、口元をわずかに吊り上げた。
そこに勝者としての敬意など存在しなかった。
あるのは、実験対象を用いた研究が一段階完了したことを確認する科学者の目だけだった。
「哀れなものだ。時代遅れの思想にしがみついた、王族の末路か」
ゼンクは乾いた笑いを漏らした。
その声は、乾いた枯れ葉同士が擦れ合う音のように冷たかった。
彼は無線機を手に取る。
その声が、崩壊した瓦礫の間に無機質に響き渡った。
「主要目標の排除を確認した」
「だが、残りの三匹のネズミはどうした?」
「三人のガキを必ず見つけ出せ」
「侵攻計画はすでに八十パーセントまで完了している」
「残された『あれ』の残滓さえ一掃すれば、この土地は正式に万金帝国の遊び場となる」
俺の宇宙船では、俺自身が作り上げた人工知能――BoyBotが、その会話を船内スピーカーへ転送していた。
薄暗い隅では、ジムレイが座り込んでいた。
両手は血が滲むほど強く握り締められている。
その目には、狂気じみた憎悪の赤い光が宿っていた。
彼は拳を船壁へ叩きつけた。
金属が苦痛を訴えるような甲高い音を響かせる。
「ゼンク・ジョンソン……!」
「両親の魂に誓う!」
「この老いぼれを、必ず八つ裂きにしてやる!」
「生まれてきたことそのものを後悔させてやる!」
ジムレイは叫んだ。
その声は、悲しみで掠れていた。
「ゲンソン!」
「どうして戻らなかった!?」
「どうして俺たちを、臆病者みたいに逃げさせたんだ!」
俺は操縦席の前に座ったままだった。
モニターから漏れる青白い光が、俺の無表情な顔を照らしている。
ジムレイの方を見ることなく、レーダーの探知を避けるために黙々と飛行経路を調整していた。
「やめろ、ジムレイ」
俺の声は低く、静かだった。
凪いだ湖面のように穏やかでありながら、その底には深いものが沈んでいる。
「俺たちはもう負けたんだ」
「お前が憎しみと呼んでいるものを、あいつらはただの標的と呼ぶ」
「今ここで戻れば、お前は火に飛び込む蛾と同じだ」
「お前の父親は、お前がそんな無意味な死を遂げるために命を捨てたんじゃない」
サーシャはその隣で身体を小さく縮めていた。
もう泣いてはいない。
ただ、呆然とした目で俺を見つめている。
まるで――たった五歳の子供が、この高度な宇宙船を操縦しているという現実を、まだ理解できずにいるかのようだった。
「じゃあ……私たち、どうするの……ゲンソン?」
サーシャが尋ねた。
その声は、ほんの少し大きくなっただけで、この脆い現実そのものが砕け散ってしまいそうなほど弱々しかった。
「新しい仲間を探す」
俺は答えた。
「この盤面をひっくり返すのを手伝ってくれる連中をな」
その瞬間だった。
頭蓋の奥を何千本もの針で貫かれるような猛烈な頭痛が走った。
視界が歪む。
モニターの四隅から、黒い色が染み出すように広がっていく。
宇宙船の機体がわずかに揺れ、操縦桿がぶれる。
そして――
俺の心の奥、いつも闇の片隅に潜んでいた「もう一人の俺」が、再び語りかけてきた。
その声は耳からではなく、脳そのものへ直接響いてくる。
低く、重く、そして甘く誘惑するような声だった。
「ゲンソン」
「お前はあまりにも弱い」
「俺に支配権を渡せ」
「たった一瞬――ほんの一度、瞬きをするだけでいい」
「俺が、あの万金帝国の連中をすべて無へ変えてやる」
「あんな奴らのために、お前が逃げ回る必要なんてない」
俺は歯を食いしばった。
小さな手で操縦桿を強く握り締める。
ふっくらとした指の間に血管が浮き上がった。
「断る」
「俺には俺のやり方がある」
「お前のやり方だと?」
影が嘲笑う。
「待つことか?」
「希望に縋ることか?」
「お前は結末を知っているだろう」
「お前は創造主だ」
「どうして自らをこんな惨めな人間にまで貶める?」
「俺はお前じゃない」
俺は歯の隙間から言葉を絞り出した。
「そして――二度と、こいつらには触れさせない」
俺は後頭部へ手を回し、抑制チップを強く押し込んだ。
瞬間、微弱な電流が身体を駆け抜ける。
「もう一人の俺」の囁きが、意識の最深部へと強制的に押し沈められていった。
頭痛は徐々に和らいでいく。
だが、粗末な布の服はすでに汗でびっしょりと濡れていた。
俺は振り返り、二人の仲間を見つめる。
その瞳には、先ほどまでにはなかった鋼のような意志が宿っていた。
「ジムレイ、サーシャ」
俺は言った。
その声には、二人が思わず口を閉ざすほどの確かな威厳があった。
「安全区画へ移動しろ」
「もう、悲しんでいる時間はない」
「もっと安全な場所まで一気に加速する」
「BoyBot、マルチスペクトル・ステルスモードを起動」
「エンジン出力を百二十パーセントまで引き上げろ」
「了解しました、マスター。ただし、機内圧が許容限界を超過する可能性があります。乗員の身体および船体構造に損傷を与える危険があります」
BoyBotが警告する。
「構わない」
俺は答え、指を高速で操作パネルの上に滑らせた。
「やれ」
「俺たちが生き残ってさえいれば、他のものは全部、あとから直せる」
ジムレイは俺を見つめた。
彼の中にあった怒りは、いつの間にか隠しきれない驚愕へと変わっていた。
やがて彼は俺のもとへ歩み寄る。
そして俺の肩へ手を置いた。
そこに、先ほどまでの荒々しい兄としての姿はなかった。
代わりにあったのは――道を示す者への敬意だった。
サーシャも小さく頷き、俺の手をぎゅっと握り締める。
まるでそれだけが、この少女を世界につなぎ止める最後の命綱であるかのように。
「お前……本当に、まだ五歳なのか?」
ジムレイが尋ねた。
その声には疑いがあった。
だが同時に、確かな希望も込められていた。
俺は答えなかった。
ただ、口元をわずかに吊り上げる。
その笑みには、子供らしい無邪気さなど、どこにもなかった。
俺は操縦桿を前へ押し倒した。
宇宙船が低く唸り、次の瞬間、轟音とともに急加速する。
機体は大気圏を一気に突破し、光速に迫る勢いで闇の彼方へと突き進んでいく。
その背後には、かつて俺が生きていた世界の残骸が残されていた。
そして俺たちは、血と焼き尽くされた魂を代償として支払うことになる旅の闇へと、静かに突入していった。
――もう、この世界に思い知らせる時が来た。
創造主が追い詰められたとき、彼はただ新たなものを創り出すだけではない。
必要とあれば――
その手で、すべてを消し去る。




