Episode 19
V-X Aegis Destroyer――ステルス航空機の機内には、いまだ勝利の余韻が漂っていた。壁に埋め込まれた秘匿式サラウンド・サウンドシステムから流れる心地よいジャズの調べが、温かみのある琥珀色の照明と溶け合い、そこには何とも言えぬ寛ぎの空気が満ちている。
ゲンソンは柔らかな羊革張りのシートに身を預け、片腕を背もたれに回し、もう片方の手では、深紅のワインが揺蕩うクリスタルグラスを悠然と傾けていた。
その足元では、かつて「砂漠の猫神」として威風堂々たる姿を誇っていたバステトが、今や小さな猫のように身を丸め、両腕で彼の足首に抱きついている。ビロードのような耳は、ゲンソンが無意識に指を伸ばして撫でるたび、ぴくぴくと愛らしく動いた。
「ご主人様……」
バステトは琥珀色の瞳を潤ませ、甘えるような声で彼を見上げた。
「Aegis Prime塔に戻ったら、またあの量子泡風呂に浸からせてくださいませんか? あそこのお湯、私が昔入っていた古代ナイル川の水より、ずっといい香りがするんですもの!」
ゲンソンは口元をわずかに吊り上げた。その燃えるような赤い瞳には、隠しきれない寵愛の色が浮かんでいる。
「好きにしろ。入りたいだけ入っていい。」
「ふん、まったく、怠け者の猫なんだから!」
向かいのソファに座っていた張苑英は、小型のエネルギーナイフで林檎を器用に剥きながら、頬を膨らませた。
「海底でちょっと手柄を立てただけで、もう要求まで始めるなんて。会長、次に次なる欠片を狩りに行くときは、私を先鋒にしてください! あの子なんかに嫉妬したりしませんから!」
テーブルの上で二振りの銀刀を磨いていたナージャは、それを聞くなり愉快そうに吹き出した。
「やめなって、あんた。さっきサイボーグ・ヒドラを見た瞬間、真っ先に静宜の後ろへ逃げ込んだのは、いったい誰だったっけ?」
「逃げてなんかないわよ!」
苑英は顔を真っ赤にし、ぷくっと頬を膨らませて反論した。
「私は後方で結界を張っていたの! 結界! 『太陽仙陣』を一つ展開するのに、どれだけ霊気を消費すると思ってるのよ、この乱暴な暗殺者!」
静宜は一切動じることなく、携帯型スーパーコンピューターの前に座り、カタカタとキーを打ち続けていた。彼女はサングラスのフレームを軽く押し上げると、淡々と言い放った。
「二人とも静かに。三つの神話断片からのデータが現在、システムへ同期されています。会長の混沌エネルギー指数は、現在、指数関数的な成長を示しています。この速度で進めば、世界中の神話体系をすべて掌握することなど、数か月先の出来事に過ぎません。」
航空機の窓辺に立つフレイヤは、黄金の槍を静かに握り締めていた。彼女は眼下に広がる、真っ白な雲海をしばらく見つめると、振り返り、崇敬に満ちた眼差しでゲンソンを見つめた。
「北欧の神々であろうと、エジプトの砂漠であろうと、オリュンポスの頂であろうと……すべては、あなた様の盤上に置かれた駒に過ぎません。真なる創造主に仕えることこそ、このフレイヤにとって何ものにも代えがたい最高の栄誉です。」
すべてが完璧だった。
鮮やかな勝利。
誇り高く、絶世の美貌と圧倒的な力を備えたハーレム。
そして、万物を支配する未来が、まさに今、目の前に開かれようとしていた。
――だが。
カチッ。
あまりにも微かで、ほとんど存在しないも同然の奇妙な音が、突然、響いた。
ゲンソンのグラスから、赤いワインの雫が一滴、意図せずこぼれた。
しかしその雫は、重力に従って床へ落ちることなく――
途中で、ぴたりと静止した。
宙に浮かんだその雫は、やがて無数の赤い四角形のピクセルへと分解され、そして空間の中へ溶けるように消滅した。
ゲンソンは目を細めた。
そして、ゆっくりとグラスを下ろした。
――ピシッ。
強化ガラスに走る亀裂のような、黒灰色の裂け目が、突如として航空機の機内、その空間のど真ん中に出現した。
そこからエネルギーは一切感じられない。
魔力も存在しない。
ただ、その裂け目だけが天井から床まで一直線に伸び、窓辺に立っていたフレイヤの姿さえも、まるごと引き裂いていた。
「フレイヤ?」
ゲンソンが低い声で呼びかける。
フレイヤは振り向いた。
その唇には、まだ微笑みが浮かんでいる。
だが――
彼女の顔の半分が突然、「ラグ」した。
映像が絶え間なく点滅し始め、やがて彼女の顔は、壊れたデータ・マトリクスの塊へと変貌していく。
「ご主人……様……あなた様が……今、私をお呼びになったのですか……?」
フレイヤの声が響く。
しかしその音声は激しく歪み、傷ついたレコード盤のように同じ言葉を何度も繰り返した。
「お呼びに……なった……お呼びに……お呼びに……お呼びに……」
「いったい何が起きてるの!?」
ナージャは驚愕して勢いよく立ち上がり、二本の刀を抜いた。
だが、彼女が一歩踏み出した瞬間――
その脚が突然、透け始めた。
肉体が薄霧のような半透明状態へと変化していく。
「な……何これ!? 私の脚が……!?」
「静宜! システムはどうなってるの!?」
苑英が狼狽しながら叫ぶ。
しかし静宜の腕に触れた瞬間――
彼女の手はすでに完全に消失し、無数の緑色の暗号文字へと崩壊していた。
静宜は自らのコンピューター画面を見つめた。
そこにはもう戦術データなど表示されていない。
ただ意味を成さない無数のコード列が、書き込まれたそばから自らを消去し続けている。
『警告! 警告・レッドアラート!』
サイラの声が響き渡った。
だが――
今回のそれは、もはや冷静で滑らかな人工知能の声音ではなかった。
それは、激しいノイズにまみれた、断続的で混沌とした咆哮だった。
『システム認識異常を検知! 現実構造のデコードが進行中! 警告……これは原初データではありません! これは……夢です!』
『これは夢です! これは夢です! これは――』
ドォン!
操作ディスプレイが爆発し、黒煙へと変わった。
周囲のすべてが――
超高性能ステルス機V-X。
紺碧の地中海の空。
テーブルの上で輝いていた神話断片。
そのすべてが、広範囲にわたって亀裂を生じ始めた。
空間そのものが巨大な破片となって崩れ落ち、真下に広がる、墨を流したような無限の暗闇へ次々と落下していく。
ゲンソンの脚に抱きついたままのバステトも、ビロードのような尾の先から、ゆっくりと消滅し始めていた。
彼女は苦痛に顔を歪めることもなかった。
その琥珀色の瞳に宿っていたのは恐怖ではなく――
深く、深く沈んだ悲しみだった。
「ご主人様……」
バステトが囁く。
ゲンソンの頬へ手を伸ばしたその指先が、薄れていく。
「そういうことだったのですね……私は……あなた様の心の中に存在する、一つの幻影に過ぎなかったのですか……?」
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「でも……あなた様に頭を撫でてもらった感覚だけは……本物でした……」
「バステト! 苑英! ナージャ!」
ゲンソンは立ち上がり、手を伸ばして彼女たちを掴もうとした。
だが――
五人の少女たち。
かつて彼と共に世界を蹂躙し、平らげた五人の絶世の女神たちは、すでに花弁へ、霧へ、そして宙を漂う光の粒へと変わり始めていた。
苑英は微笑んだ。
光の粒でできた涙が、その頬を伝う。
「私を……創ってくださって、ありがとうございました……会長……」
ナージャは刀を鞘へ収め、静かに頷いた。
「最高の夢だったよ、ボス……」
静宜は眼鏡のフレームを押し上げ、静かなため息を漏らす。
「もう……あなた様が目を覚ます時なのですね……」
フレイヤは最後に黄金の槍を高く掲げた。
「永遠なる栄光を、あなた様に……真なる創造主よ……」
――ザシュッ!
五人の影は完全に消滅した。
まるで、この世に最初から存在していなかったかのように。
ゲンソンは、崩壊していく空間の中心で、たった一人、孤独に立ち尽くしていた。
彼は自分の両手を見た。
そして、周囲を見渡した。
雪原に覆われたシベリアでの戦い。
ギザの大ピラミッドの麓で行われた粛清。
オリュンポスの頂で壊滅した海底艦隊。
天を貫くAegis Prime塔。
世界を席巻する巨大テクノロジー企業。
そのすべて。
何もかも。
すべては、ただ長く続いた一つの夢だった。
混沌に満ち、孤独で、退屈しきった自らの潜在意識が、あまりにも退屈な現実から逃れるために紡ぎ上げた――
自分自身が王となり、世界を征服するための、あまりにも完璧すぎる茶番劇。
「……ッ!」
ズキィィィィン!
次の瞬間、ゲンソンの脳髄の奥底から、これまで経験したことのない凄まじい頭痛が爆発的に迸った。
まるで何千本もの焼けたドリルが頭蓋骨を貫き、内部でねじ切りながら回転しているかのような激痛。
偽りの記憶が、悲鳴を上げながら寸断され、狂ったように渦巻いていく。
しかし――
この覚醒は、彼に安らぎをもたらさなかった。
それがもたらしたものは――
極限まで膨れ上がった憤怒。
それは、至高なる存在の怒りだった。
偽りを侮蔑する者の怒り。
自らの潜在意識に欺かれ、これほどまでに滑稽なほど完璧な筋書きへと自分自身を騙し込んでいたことへの、底知れぬ憎悪。
「……夢……?」
ゲンソンは低く呟いた。
その声は喉の奥から響き渡り、虚無の宇宙そのものを震わせた。
彼はゆっくりと顔を上げた。
その赤き瞳は、もはや魔法の炎を思わせる赤ではない。
それは――
原初の破壊そのものを象徴する、深紅。
「安っぽいシナリオ……」
「この俺自身が、自分を楽しませるために創り上げた、操り人形の群れだと……!?」
顔に装着されていたヴィブラニウム製の仮面が、轟音とともに爆ぜ、灰へと変わった。
高級なスーツもまた、現実そのものから引き裂かれるかのように破れ去っていく。
そして――
これまで一度として完全解放されたことのなかった、ゲンソンの血脈に宿る本来の力。
極限混沌エネルギー。
それが、逆行するビッグバンの如き勢いで一気に噴き上がった。
ウォォォォォォォォォォォォォッ!!!
漆黒の光が、ゲンソンの肉体から四方八方へと爆発的に広がっていく。
その力は、あらゆる概念を、あらゆる空間を、あらゆる法則を飲み込んでいった。
「全部、俺の前から消え失せろォォォォォ!!」
ゲンソンが咆哮した。
その凄絶な叫びは、虚無の空間そのものを引き裂いた。
「AEGIS CORPORATION! オリュンポス! 神話! ハーレム! すべて……全部、消えてなくなれェェェッ!!!」
ドゴォォォォォォォォォォォォン!!!!
漆黒の混沌エネルギーが、最後に残っていた亀裂だらけの空間を丸ごと呑み込んだ。
すべてが消えた。
過去。
現在。
女神たちに関する記憶。
輝かしい戦果。
最先端の兵器。
その一切合切が、完全なる「0」へと圧し潰された。
一分子すら残さない。
一つの概念すら残さない。
一片の痕跡すら、仮初めの現実に存在することを許さない。
幻想世界は、完全に崩壊した。
そして――
その破壊の爆心地の中心で、ゲンソンの頭痛はついに頂点へ達した。
――パキンッ。
張り詰めすぎた弦が切れるように。
その瞬間、すべてが同時に引き裂かれた。
記憶。
権能。
「創造主」という称号。
そして――
「ゲンソン」という名前さえも。
それらすべてが、彼の魂から無理やり引き剥がされた。
強制的なエネルギー過負荷によって、彼の意識は深く、深く――
底のない暗黒の深淵へと沈められていった。
やがて、すべての空間は原初の混沌へと回帰する。
静寂。
漆黒。
時間すら存在しない。
永遠の闇の中で、彼の肉体はただ静かに浮遊していた。
そしてその身体は、ゆっくりと縮小し始めた。
生物学的構造そのものが書き換えられ、変質し、未知なる形態へと移行していく。
意識は完全に閉ざされる。
夢を見ることすらない。
千年にも及ぶ、果てしなく長い眠りへと――
静かに、深く、沈んでいった。
時も空間も存在しない、暗く果てしない虚無の中。そこでは時間そのものが完全に停止したかのように、微動だにせず凍りついていた。
あまりにも凄まじい混沌エネルギーの爆発によって、仮初めの現実は跡形もなく消滅した。Aegis Corporationにまつわるすべての記憶も、神話の神殿も、そして数多の絶世の美女たちの姿も、残らず一切合切が「0」という数字へと粉砕されていった。
その滅亡はあまりにも苛烈だった。
原初の魂の核が過負荷によって砕け散ることを防ぐため、創造主に備わっていた最上位の自己防衛機構が、完全自動で起動したのだ。
無限の権能。
至高なるあらゆる称号。
そして、千年にも及ぶゲンソンの膨大な記憶。
そのすべてが極限まで圧縮され、血脈の最深部へと封じ込められた。
記憶が封印されるのと同時に、威厳に満ちた成熟した肉体にも異変が起こり始めた。
その身体は徐々に縮み、奇跡的なまでの変化を遂げながら、生物学的構造そのものを書き換えていく。
広い肩幅。
鍛え抜かれた強靭な筋肉。
威圧感すら漂わせていた長身。
そのすべてが、少しずつ小さくなっていった。
骨髄が再構築され、肌は柔らかく変化する。かつて妖しく鋭かった顔立ちは次第にその険を失い、代わりに、生まれたばかりの命を思わせる丸みと無垢さがそこに宿っていく。
やがて彼は、千年にも及ぶ深い眠りへと沈み込んだ。
夢すら見ることなく、定まった行き先もない世界を永遠に漂流しながら――
やがて、まったく新しい現実の岸辺へと辿り着く、その時まで。
「うぅ……痛い……頭が……すごく痛い……」
小さく、幼く、どこかたどたどしい囁き声が響き渡り、静寂に包まれていた世界を初めて揺らした。
彼が最初に感じたものは、冷たい金属の感触ではなかった。
濃厚な赤ワインの香りでもない。
深海の底に閉じ込められた、圧縮された空気でもなかった。
それは、肌全体を優しく包み込む、柔らかな温もりだった。
湿った土の青臭くも懐かしい香り。
若草の甘い匂い。
そして、野に咲く花々のほのかな芳香。
それらが一斉に鼻腔へと流れ込んでくる。
小さな唇がわずかに震え、彼は澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ゆっくりと、目を開く。
それまで漆黒だった視界が、少しずつ鮮やかな色彩で満たされていく。
そこには神殿の金色に輝く天井もなければ、Aegis研究施設の青白いLED照明も存在しない。
彼の目の前に広がっていたのは――
果てしなく広がる、透き通るような青空だった。
雲一つない、どこまでも澄んだ蒼穹。
真昼の黄金色の陽光が、巨大な古木の鬱蒼とした枝葉の隙間から差し込み、地面には銀箔を散りばめたかのような煌めく光の筋が幾重にも落ちていた。
さら……さら……
夏のそよ風が穏やかに吹き抜けるたび、深緑の葉が揺れ、自然そのものが奏でる旋律のような音を響かせる。
高い枝の上からは、小鳥たちの澄んださえずりが聞こえてくる。
それに混じって、どこか遠くでは小川のせせらぎが静かに響いていた。
彼は呆然と空を見上げた。
何度か瞬きを繰り返し、目の前の状況を理解しようとする。
「ここ……ここは……どこだ?」
自分で口にした瞬間、その声に本人が驚いて飛び上がった。
その声は、かつて自分が持っていた、重く低く、威圧感に満ちた至高の存在の声ではなかった。
そこにあったのは――
透明感があり、幼く、どこか甘ささえ含んだ、子供の声だった。
「え……? 僕の声……なんで、こんな声になってるの……?」
彼は呆然と呟いた。
その瞳に、徐々に困惑の色が浮かんでいく。
彼は両手を地面につき、身体を起こそうとした。
だが――
手を目の前へ出した瞬間。
まるで頭から冷水を浴びせられたかのように、意識が一気に覚醒した。
彼は目を見開き、自分の両手を凝視した。
そこにあったのは、細く長く、硬質で力強かった手ではない。
ワイングラスを軽々と持ち、神々を一掃する力を振るっていた、あの手でもない。
目の前にあったのは――
小さく、ふっくらとして、乳白色の肌をした、まるで二つの蒸し饅頭のような幼い手だった。
短い指。
柔らかな皮膚。
そして、指の関節には子供特有の愛らしい肉のくぼみが残っている。
「こ、この手……どうなってるんだ!?」
彼は悲鳴のような声を上げ、両手を顔の前に掲げながら何度もひっくり返して眺めた。
「な……なんで、こんなに小さいんだ!? 僕の手はどこにいったの!?」
動揺した彼は、慌てて両手で自分の顔を触った。
小さな鼻。
ぷっくりとした唇。
そして、絹のように柔らかく、ふっくらとした両頬。
そのまま頭へ手を伸ばす。
かつて顔の半分を覆うほど長かった白金色の髪は、今や細く柔らかな幼児の髪へと変わり、無邪気に額へ垂れ下がっていた。
彼は恐る恐る視線を下へ落とし、自分の身体を見た。
高価なスーツも、煙灰色のシルクシャツも、磨き抜かれた職人仕立ての革靴も、すべて跡形もなく消えている。
代わりに身につけているのは――
淡いクリーム色の粗布で作られた、ぶかぶかのプルオーバー。
柔らかな素材ではあるものの、これ以上ないほど簡素な衣服だった。
そしてその下には、短い脚を隠す程度の薄手の半ズボン。
むっちりと丸みを帯びた、小さな脚がそこから覗いている。
「そ、そんな……ありえない!」
彼は慌てて古木のごつごつした根元へ背中を押しつけた。
小さな両足が乾いた落ち葉を蹴り、カサカサと音を立てる。
「僕の服は!? 僕の身体はどうなったんだ!? 一体、何が起きてる!? なんで僕は、こんなガキになってるんだよ!?」
息が荒くなる。
小さな胸が何度も激しく上下する。
自分の身体が、わずか五歳ほどの幼児の姿へまで縮んでしまっている。
その事実だけで、彼の精神は完全に混乱の渦へと叩き込まれた。
彼は慌てて両手で頭を抱え、ぎゅっと目を閉じる。
そして、必死に記憶の中を探り始めた。
「考えろ……! 一体、あの直前に何が起きた!?」
震える声で、自分自身に言い聞かせる。
「僕は誰だ? どこから来た? どうしてこんな場所にいる!?」
しかし、その瞬間――
頭蓋の奥深くから、鋭い激痛が突然噴き上がった。
「……っ!」
――痛い!!
「痛い……!」
彼は顔を歪め、両手で小さな頭を強く抱え込みながら、柔らかな草むらの上を転げ回った。
まるで無数のガラス片が、一つ一つの神経へと突き刺さり、その内部でねじ込まれているかのような激痛だった。
「痛い……頭が痛い……!」
小さな乳歯を食いしばり、何度か苦しそうに咳き込む。
「記憶が……どうして、こんなに空っぽなんだ!? 何もない……何も……本当に何もない!」
その瞬間の彼の精神は――
まっさらな一枚の紙そのものだった。
自分の名前がゲンソンであることすら、思い出せない。
Aegis Corporationという名前も、何のことなのかまったく分からない。
シベリアの凍てつく雪原も。
ギザの大ピラミッドを焼き尽くす炎も。
エーゲ海の深海で繰り広げられた大戦も。
何一つ知らない。
張苑英。
ナージャ。
静宜。
フレイヤ。
バステト。
そんな名前すら、一つ残らず消え去っていた。
その存在を示す影すら、どこにも残されていない。
彼は草の絨毯の上へ仰向けに倒れた。
荒い呼吸を繰り返しながら、大きく丸い瞳で、頭上の葉の隙間をぼんやりと見つめる。
やがて頭痛は少しずつ治まっていった。
だが――
その後に残ったものは、恐ろしいほど深い虚無だった。
「僕……何も覚えてない……」
彼は小さく囁いた。
その声には、まるで今日この世界に生まれ落ちたばかりの存在のような、極限までの困惑が滲んでいる。
「僕の名前は何? 僕の父さんと母さんは誰? どうして僕は、一人でこんな木の下にいるの……?」
彼は小さな手を左胸へ当てた。
ドクン……ドクン……
小さな心臓が、規則正しく、温かく脈打っている。
不思議なことだった。
記憶をすべて失っている。
自分がわずか五歳ほどの、非力で孤独な幼子へと変わってしまったことも理解している。
それなのに――
彼の本能の奥底には、まったくと言っていいほど恐怖が存在しなかった。
小さな血管を流れる一滴一滴の血液にさえ、説明のつかない何かが眠っている。
捨てられた子供のように取り乱すこともない。
父や母を求めて泣き叫ぶこともない。
その代わりに、彼の魂の深部には――
揺るぎない誇りと、奇妙なほど静かで冷酷な気質が、依然として脈々と流れていた。
「……変なの」
彼は少しだけ首を傾げ、自分自身へ語りかける。
「記憶を全部失って、こんなガキの姿になったのに……どうして僕は怖くないんだろう?」
ほんの少し考えたあと、彼は続けた。
「まるで……この世界には、僕を本気で恐れさせられるものなんて、最初から何一つ存在しないみたいだ……」
彼は両手を地面につき、ゆっくりと立ち上がった。
新しくなった身体はまだあまりにも小さく、立ち上がった直後には少しよろめいた。
しかし、彼はすぐに体勢を立て直した。
そして、ぶかぶかの粗布の服についた土埃を、小さな手でぱんぱんと払い落とす。
それから、静かに顔を上げた。
周囲を観察する。
彼が横たわっていた古木は、まるで巨大な塔のようだった。
その幹の直径は、少なくとも十人が手をつないでようやく囲めるほど。
地面からは巨大な根が幾本も盛り上がり、まるで休息する木の龍たちのように大地へ這っている。
そして、彼がその巨大な樹冠の影から一歩外へ出た瞬間――
目の前に広がる壮大な自然の景観が、一気に視界へ飛び込んできた。
果てしなく広がる野花の大平原。
地平線の彼方まで続いている。
黄色。
白。
淡い紫。
数百万もの野花が、夏風の波に揺られながら、一面に美しい色彩の海を作り上げている。
遠く西方には、幾重にも連なる山々が、薄い雲霞の向こうに姿を見せている。
一方、東方には――
透き通った水晶のように清らかな小川があり、鮮やかな緑に覆われた丘陵の間を、蛇行しながら静かに流れていた。
彼は一人、果てしない花海の中に立っていた。
柔らかな風が吹き抜けるたび、五歳ほどの幼子の白金色の髪がふわりと舞い上がる。
彼はしばらく何も言わず、自分の小さくふっくらとした両手を見つめた。
やがて、静かな声で呟く。
「結局……」
「この世界は、一体どこなんだ?」
そして――
「僕は……これから、どこから始めればいいんだろう……?」
完全に真っ白な、新しい一枚の頁が開かれた。
かつて世界そのものを見下ろしていた「創造主」は、今や無垢な幼子の姿となり、すべてを失った。
名も。
記憶も。
過去も。
だがその魂の奥底には、本人すらまだ知らない何かが確かに眠っている。
そして今――
かつての創造主は、何一つ予測できない謎に満ちた新たなる世界へ向けて、最初の一歩を踏み出そうとしていた。
五歳の幼子となった彼の短い脚が、青々とした柔らかな芝生へ向けて、よちよちと最初の一歩を踏み出した。
足の指の間を、朝露を含んだ柔らかな若草がひんやりとくすぐる。その感触に彼は思わずびくっと身を震わせ、危うく前のめりに転びそうになった。
「いてっ……! この草の芽、俺の足を突きやがったな!?」
彼は慌てて自分の足元を見下ろした。ふっくらとした両頬は怒りで真っ赤になっている。
試しに思いきり大股で一歩踏み出してみる。
しかし――
悲しいことに、進めた距離は、かつての自分なら軽く一跨ぎできるほどのものですらなかった。
「ほんっとに面倒くさいな!」
彼は唇を尖らせ、両腕を胸の前で組みながら、一人でぶつぶつと文句を言った。
「この短すぎる脚はいったい何なんだよ? ここから丘の端まで行くだけで、一日がかりになりそうじゃないか! 昔の俺は……あれ? 昔の俺って、どうやって歩いてたんだ?」
彼の足がぴたりと止まった。
胸の前で組んでいた小さな腕が、ゆっくりと下へ落ちていく。
彼は以前、自分がどのように歩いていたのか、どれほど長い脚を持っていたのかを必死に思い出そうとした。
だが、脳裏に返ってきたのは――
ただ果てしなく、空虚で、冷たい闇だけだった。
「また頭が痛くなってきた……」
彼は小さな額をさすりながら、ため息をついた。
その様子は、幼い身体の中に八十歳の老人でも閉じ込められているかのようだった。
「もういいや。思い出せないなら、それでいい。無理に思い出そうとすると、余計に頭が痛くなるだけだ」
彼が小さな頭をぶんぶんと振ると、柔らかな白金色の髪がふわふわと揺れた。
その瞬間――
ある考えが、脳裏に閃いた。
彼は野花の大地の真ん中で立ち止まり、真っ赤な瞳を細めた。
そして、自分の身体の奥底に隠されている何かを感じ取ろうとする。
「自分が何者なのかは覚えてない。でも、この妙に人を見下ろしてるような感覚……俺が普通の人間じゃないことだけは間違いないだろ」
彼は一人でうんうんと頷き、どこか得意げな表情を浮かべた。
「さてと……呪文? 魔法? それとも何かのエネルギーか……。出てこい!」
彼は全身に力を込めた。
五歳の幼子が両足を踏ん張り、両手をぎゅっと握り締める。
小さな拳は、まるで二つの白い肉まんのようだった。
幼い顔は力みすぎて真っ赤になり、乳歯をぎりぎりと食いしばる。
両目を固く閉じ、全神経を手のひらへ集中させる。
「早く出てこい! 混沌でも何でもいい! ぶっ放せぇぇぇぇっ!」
澄んだ幼い声が、大地に響き渡った。
――ポンッ。
返ってきたのは、拍子抜けするほど小さな破裂音。
風船が弾けた程度の音だった。
彼は片目だけをゆっくり開けた。
しかし、ふっくらした手のひらには、世界を滅ぼす闇の球体も、神話級の炎も、荒れ狂う雷も存在していない。
そこに現れたのは――
小さな紫色の光の粒、一つだけ。
その光はふわふわと空中へ浮かび上がり、二度ほどくるくると回転した。
そして――
パチン!
小さく弾け、数個の光の粉塵へと砕け散り、そのまま跡形もなく消えた。
彼は呆然と、自分の空っぽの手のひらを見つめた。
周囲は完全な静寂に包まれている。
聞こえるのは、風が葉を揺らすざわめきだけ。
まるで自然そのものが、先ほど彼が繰り出した「至高の一撃」を嘲笑っているかのようだった。
「な……なんだよ、この茶番は!?」
彼は怒りのあまり飛び上がった。
ふっくらとした両頬が風船のように膨らむ。
短い脚で地面をドンッと強く踏みつけた。
「ただの小さな光の粒だと!? これが俺の力だっていうのか!? こんなんじゃ蚊一匹すら殺せないじゃないか!」
彼は苛立たしげに頭を掻きむしった。
白金色の髪がたちまちぐしゃぐしゃになり、まるで鳥の巣のようになってしまう。
「くそっ、腹立つな! いったいこの身体はどうなってるんだよ!? 力が全部封じられてるのか? それとも、まだ飯を食ってないから力が出ないのか?」
ぐぅぅぅぅ……。
ちょうどその時。
彼の小さな腹が、突然、太鼓を叩き鳴らしたような大きな音を立てた。
彼はぴたりと固まり、小さな手で腹を抱え込む。
「変だな……俺でも腹が減るのか?」
彼は不満そうに顔をしかめた。
「この空腹感……何か甘くて、熱いものが食べたい……甘くて……熱くて……ワイン……? え? ワインって何だ? どうして俺の頭に、そんな言葉が浮かんだんだ?」
彼はわけの分からない考えを振り払うように、ぶんぶんと頭を横に振った。
すると、東の方から聞こえていた小川のせせらぎが、先ほどよりもはっきりと耳に届いてきた。
まるで、乾ききった喉を潤せと誘っているかのようだった。
「まずは水を飲もう。話はそれからだ!」
彼はぽんぽんと自分のふっくらした腹を叩くと、草をかき分けながら小川の音がする方向へ歩き始めた。
道の途中には、五歳児の腰ほどまで伸びた野花の茂みが一面に広がっている。
彼は両手で花の枝を左右へ押しのけながら進み、その口からは絶えず悪態が飛び出していた。
「なんだよ、この花! どけよ! 草木のくせに、なんでこんなにデカいんだよ! 五歳児をナメてるだろ、これ!」
しばらく苦労しながら花の海をかき分けて進んだ末、ようやく小さな脚が小川のほとりへと辿り着いた。
水は驚くほど透明だった。
底に転がる色とりどりの小石も、群れをなして泳ぐ小魚の姿も、はっきりと見える。
彼は丸々とした両膝を柔らかな草地につき、水際の岩へ両手をついて身体を支えながら、鏡のように静かな水面を覗き込んだ。
すると――
水面には、彼自身の姿が鮮明に映し出された。
そこにいたのは、およそ四、五歳ほどの、息を呑むほど美しい少年だった。
白金色の髪は肩に届くほど長く、絹糸のように柔らかく、そのふっくらとした顔を優しく包み込んでいる。
肌は雪のように白く滑らかで、傷一つ、染み一つない。
しかし何よりも目を引くのは、その瞳だった。
二つの瞳孔は、最高級の紅玉のように燃えるような赤色をしており、妖しく危険な光を放っている。
それなのに、その表情はあまりにも無垢で幼い。
彼はしばらく、水面に映った自分の姿を呆然と見つめていた。
やがて、小さな人差し指を伸ばし、水面に映る頬へそっと触れる。
波紋が幾重にも広がっていった。
「へえ……」
彼は何度か瞬きをした。
そして、小さな口元をわずかに吊り上げ、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「どうやら、こんなガキの姿になって記憶を全部失ったとしても……この顔だけは、なかなかイケてるらしいな?」
彼は白金色の髪を整えながら、川面を鏡代わりに、自分自身を満足そうに眺めた。
「この銀髪。この赤い瞳……ふむ。この雰囲気からして、どう考えても貧乏人の子供じゃないだろ!」
「自分の名前すら思い出せなくても、見れば分かる。俺は昔、相当な大物だったはずだ!」
彼は両手を冷たい小川へ浸した。
水は驚くほど甘く、澄んでいて、喉を通ると、燃えるようだった渇きが瞬く間に癒えていく。
彼は手ですくった水を顔へかけ、残っていた土埃を洗い流した。
清涼感が小さな身体全体へ広がり、彼は思わず心地よさそうに息を吐いた。
――だが。
両手が水に触れた、その瞬間。
またしても、奇妙な感覚が彼を襲った。
彼は感じ取った。
目には見えない何かが、この川の水の中を豊かに流れている。
それだけではない。
吹き抜ける風の中にも。
足元の大地の中にも。
同じエネルギーが満ちている。
温かく、生命力に満ちた、目には見えない力。
それは極めて純粋な自然エネルギーだった。
その濃度は驚くほど高い。
そして、彼の潜在意識は直感的に理解していた。
このエネルギーは――
自分がこれまで知っていたどんな場所の力とも、まったく異なる。
「ここは……」
彼は顔を上げた。
燃えるような赤い瞳が、遠くの山々から果てしない空へ向けて、周囲を一巡する。
「ここの空気……妙なエネルギーが、すごく濃いな」
「排気ガスの匂いもない。道を走る鉄の塊が唸り声を上げることもない……」
彼は眉をひそめた。
「ここはいったい……どんな世界なんだ?」
彼はその場にぺたんと座り込み、両脚を組み、両手で顎を支えながら考え込んだ。
五歳児らしい小さく丸まった座り方は、どこか滑稽でありながら、同時にひどく愛らしかった。
「このままこの木の根元に座り込んでたら……」
彼は自分自身と議論するように呟いた。
「確実に餓死するか、猛獣の餌になるだろうな」
そして、すぐに顔をしかめた。
「でも、俺はどんな獣の餌にもなりたくない!」
「こんなにイケメンな俺が、こんな辺鄙な野原で野垂れ死にするわけにはいかないだろ!」
彼は勢いよく立ち上がった。
土のついた小さな両手を、ぶかぶかの粗布の服の裾にぱんぱんと擦りつける。
そして、一度だけ振り返った。
そこには、先ほどまで自分が眠っていた巨大な古木がそびえ立っている。
彼はその姿を最後に一度見つめ、それから、小川に沿って野原の外へ続いている細い小道へ視線を向けた。
「よし!」
彼は果てしない空へ向かって、力いっぱい叫んだ。
幼く澄んだ声が、広大な大地の上へ響き渡る。
「俺が何者だろうが、記憶を全部消されていようが、このガキみたいな身体に変えられていようが……!」
「この世界こそ、覚悟しておけ!」
「俺は、自分のものだったすべてを取り戻してやる!」
彼は口元を吊り上げた。
赤い瞳の奥で、原始的な誇りと冷酷さを帯びた光が鋭く煌めく。
小さな胸を堂々と張り、無限の好奇心を抱く一人の幼子と――
その魂の奥底で静かに眠り続ける、至高なる存在の本能をその身に宿しながら。
彼は、小さな脚で一歩、また一歩と、未知なる未来へ向かって歩き始めた。
五歳の幼子となった彼が、小川沿いをさらに数歩進んだ、そのときだった。
前方の鬱蒼と茂った草むらから、突然、妙な物音が響いた。
――ガサ……ガサッ……
乾いた枝葉が、何かに軽く踏みつけられて折れる音。
一面に揺れる野花の海の中で、幼子の頭よりも高い草むらが、何度もかすかに揺れている。
彼は即座に足を止めた。
小さな身体が一瞬にして強張る。
両耳をぴんと立て、音の正体を探る。
記憶をすべて失い、か弱い五歳児の姿にまで縮んでしまったとしても――生存本能と、脊髄の奥深くに刻み込まれていた鋭敏な殺気察知能力だけは、瞬時に目を覚ましていた。
「誰だ!?」
彼は澄んだ幼い声で、精一杯低く、威圧的に叫んだ。
素早く腰を落とし、短い両脚を大きく開く。
そして両手をぎゅっと握り締め、二つの白い肉まんのような小さな拳を胸の前に構えた。
――本人としては、必死の戦闘態勢である。
しかし傍から見れば、どうしようもないほど愛らしい構えだった。
「こそこそ隠れて何してやがる!? さっさと出てこい! さもないと……この俺が、お前の頭を叩き潰してやるからな!」
彼はふっくらした顎をぐいっと上げ、二つの紅玉のような赤い瞳で草むらを睨みつけた。
とはいえ、正体不明の相手が何者なのか分からないせいで、胸の鼓動は内心では激しく高鳴っていた。
――ガサガサッ。
草むらが左右へ押し分けられる。
そして、そこから小さな生き物がゆっくりと姿を現した。
彼は呆然と何度か瞬きをする。
そこに現れたのは、恐ろしい神話級の怪物でもなければ、暗殺者でも、ましてや宇宙人でもなかった。
一匹の小さな狐だった。
その毛並みは秋の炎のように鮮やかな赤。
柔らかく、ふわふわとした毛が全身を覆っている。
長い尾の先だけは雪のように真っ白で、空気の中をゆっくりと揺れていた。
さらに奇妙だったのは――
その瞳だ。
蜂蜜のように透き通った黄金色。
大きく丸く、好奇心に満ちた輝きを宿している。
「え……」
彼は小さな拳を下ろし、頬をぷくっと膨らませた。
「一……一匹の狐?」
小狐は首をかしげ、尖った耳をぴんと立てた。
そして、白金色の髪と異様なほど赤い瞳を持つ幼子をじっと見つめる。
「キュウ……?」
「キュウじゃねえよ!」
彼は即座に一歩後ずさり、両腕を胸の前で組んだ。
そして、いつもの尊大な表情を取り戻す。
「何見てんだ!? こんなイケメンを見たことがないのか!? そこの四つ足、まさか俺に食われるために来たんじゃないだろうな?」
だが、小狐は幼子の見せかけの威嚇をまったく恐れなかった。
それどころか、そのどこか甘ったるい幼い声と、ちんまりとした姿がすっかり気に入ったらしい。
ふさふさの尾をふりふりと揺らしながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「おい! そこで止まれ!」
彼はふっくらした片手を上げ、しっしっと追い払うように振った。
「警告しておくぞ! 俺が小さいからって、簡単にいじめられると思うなよ! この俺が本気を出せば、お前なんて丸焼き狐だぞ!」
どれだけ脅されても、小狐は悠々と歩み寄ってくる。
そして頭を低くし、小さな黒い鼻を彼の手の甲へ近づけ――
すりっ。
ひんやりと冷たい鼻先を、そっと擦りつけた。
くすぐったい。
小狐の鼻から伝わる、ひやりとした湿った感触が柔らかな肌を刺激し、彼はびくっと身体を跳ねさせた。
慌てて手を引っ込めようとした。
だが、小狐の方が一歩早かった。
前脚を彼の太ももへ乗せ、ふわふわの頭を持ち上げる。
そして――
冷たい鼻先を彼の頬へぴたりと押しつけ、そのまま甘えるように何度も擦りつけてきた。
「うわっ! おい! 何してんだよ!?」
彼は思わず叫んだ。
驚きで両頬が真っ赤になる。
「離れろ! 汚い鼻を俺の頬にこすりつけるな! くすぐったいって……ははっ……! もう、どけよ、この馬鹿狐!」
彼は小さな両手で小狐の柔らかな頭を押し返そうとした。
しかし、五歳児の非力な腕では、喜々として懐いてくる小動物を押し退けることなど到底できない。
それどころか小狐はますます嬉しそうに尾をぶんぶん振り――
ぺろっ。
小さな桃色の舌で、彼の指を一度、ぺろりと舐めた。
「うわああっ! よだれが手についた!」
彼は顔をしかめ、ぶすっとした表情になる。
そして慌てて、ぶかぶかの粗布の服の裾を引っ張り出し、ごしごしと手を拭き始めた。
「とんでもない狐に出会っちまった……!」
彼はむくれながら呟いた。
「俺が誰なのかも分からないけど……とにかく、俺はすごく偉い奴なんだ! お前に舐められるような存在じゃないんだからな!」
小狐はそんな彼の言葉など気にする様子もなく、その場にぺたんと座り込んだ。
前脚をちょこんと揃え、蜂蜜色の瞳でじっと彼を見上げる。
その尾は、まるで巨大な毛筆のように左右へぱたぱたと揺れている。
「キュウ~……キュウ~……」
甘えるような声が、二度響いた。
彼は小狐の向かいにぺたんと座り込み、両手を膝に置いて、目の前の小さな生き物を頭のてっぺんから足先までじっくり観察した。
「ふむ……妙だな」
彼は小さな人差し指を顎へ当て、思案する。
「どうも普通の狐じゃないみたいだな。お前の毛……なんで、こんなに淡く光ってるんだ?」
改めてよく見る。
陽光に照らされた小狐の赤い毛一本一本の間を、無数の微細な光が流れているではないか。
特に白い尾の先端には、ときおり淡い橙色の火花がちらりと灯り――
すぐに消える。
「魔法でも使えるのか?」
彼の口元がわずかに吊り上がる。
赤い瞳に、興味の光が宿った。
「なかなか面白いじゃないか。よし、お前にも少しくらい実力はあるってことにしてやる」
彼は小さな胸をぐっと張り、指先を小狐の顔へ向けた。
そして、いかにも尊大そうな口調で宣言する。
「よく聞け、そこの四つ足! お前は俺のところへ自ら参上し、礼儀正しく忠誠を示した!」
「だから、この俺の寛大な心で――お前を最初の部下として迎えてやる!」
「今日から俺の言うことを大人しく聞け! 食べ物を探して俺に持ってきろ! それから、でっかい怪物が俺を襲ってきたら、お前が俺を守るんだ! 分かったな!?」
小狐は首をかしげた。
「キュウ?」
「部下なら名前が必要だ!」
彼は妙に誇らしげに頷いた。
「さて……赤い毛に、炎みたいな尾か……」
「『オレンジツイスト』……いや、『狐まんじゅう』……うーん、馬鹿っぽすぎるな」
しばらく考えた末――
彼は指を鳴らした。
「そうだ! 『小火』だ! よし、小火! これなら格好いいし、ちゃんと燃えてる感じもする!」
その瞬間、小狐が勢いよく立ち上がった。
空中で二回ぴょんぴょんと跳び――
「キュウウウッ!」
嬉しそうな声を高らかに上げた。
「ははっ! その名前が気に入ったんだな!?」
彼は大喜びで笑い声を上げ、小さなふっくらした手を伸ばして、小狐のふわふわした頭を撫でる。
「よし、小火! 今日からお前は俺の……」
一瞬考え――
「……子犬……じゃなくて、俺の可愛い狐だ!」
――ゴォォォォ……。
ちょうど二人の主従関係が成立し、楽しそうにじゃれ合っていた、そのとき。
どこからともなく、巨大な風が突然吹き抜けた。
――ウォォォォォォォォッ!!
強烈な夏風が野花の平原を横切る。
何百万もの黄色と白の花弁が一斉に舞い上がり、空一面を覆い尽くした。
まるで色鮮やかな花の嵐だった。
巨大な古木の枝葉が激しく震え、ざわざわと大地を揺るがすような音を響かせる。
それはまるで――
数千年もの眠りについていた古代の神が、今まさに目を覚まそうとしているかのような、低く唸る咆哮だった。
そして、その風の中から――
奇妙な音が聞こえてきた。
声ではない。
明確な言葉でもない。
それは、神秘的で、深く、どこか荘厳な旋律のような囁き。
その音は耳を通るのではなく――
直接、幼子の心の中へ響き渡った。
まるで世界そのものが語りかけているかのように。
過去を洗い流し、新たなる姿へと転生した至高の王を迎える――
世界そのものによる、敬虔なる祝福。
小狐――小火は驚いて、幼子の脇腹へぴたりと身体を寄せた。
耳をぴんと立て、周囲を警戒する。
だが――
五歳の幼子は、一歩も退かなかった。
舞い狂う花弁の嵐の中で、彼はただ静かに立っていた。
白金色の髪は風に煽られ、後方へ大きくなびいている。
ぶかぶかの粗布の服が風を孕み、大きくはためく。
彼はゆっくりと顔を上げた。
そして、雲一つない広大な青空を真正面から見据えた。
ドクン……。
ドクン……。
小さな胸の奥。
そこには封印された血脈が眠っている。
その最深部で――
誇りと絶対なる力の炎が、突然、燃え上がった。
自分が何者だったのか覚えていなくても。
どこから来たのか知らなくても。
かつて成し遂げた輝かしい偉業のすべてが、完全に消え去っていても――
一つだけ。
永遠に変わらない真実がある。
彼は、生まれながらにして――
世界の頂点に立つための存在なのだ。
真っ赤な瞳が、冷酷で、圧倒的で、絶対的な光を宿して煌めいた。
小さな唇に浮かんだ笑みは、もはや無邪気な子供の笑顔ではない。
そこには――
世界そのものを躊躇なく踏み潰す者の、傲岸不遜な笑みがあった。
「この風……」
彼は静かに呟いた。
声自体は幼く澄んでいる。
だが、発せられる一語一語には、千斤もの重圧が込められていた。
「俺を前にして……震えているのか?」
彼は小さな手を空へ掲げ、ぎゅっと握り締める。
まるで、空間そのものを手のひらへ収めようとするかのように。
「誰がこんなふざけた真似をしたのか、俺にはまだ分からない」
彼は果てしない虚空を睨みつけながら、冷たい声を響かせた。
「誰が俺の記憶をすべて消し、俺を五歳の子供に変えたのか……」
そして――
「よく聞け!」
幼い声が、風に乗って広大な大地へ響き渡る。
「たとえ俺が、すべてをゼロからやり直すことになろうとも!」
「たとえ、この力のすべてが封印されていようとも!」
「この世界は――遅かれ早かれ、もう一度、俺の足元へ跪くことになる!」
吹き荒れていた風が、次第に弱まっていく。
宙を舞っていた野花の花弁が、ゆっくりと緑の草原へ降り注ぐ。
そして世界は再び、穏やかな真昼の静けさを取り戻していった。
彼はゆっくりと顔を下げた。
先ほどまで放っていた凄まじい殺気を、静かに収める。
そして、自分を呆然と見上げている小狐――小火へ視線を向けた。
その直後――
ぐぅぅぅ……。
彼の腹が、またしても盛大に鳴った。
「……ふん。だが、まずは……」
彼は頬を膨らませ、ぼさぼさになった髪を掻く。
「この腹に何か詰め込むものを探さないとな。腹が減って死にそうだ!」
彼は半ズボンについた埃をぱんぱんと払い、小火へ向かって手を振った。
「おい、小火! 行くぞ!」
「この野原から外へ出る道を案内しろ!」
「それから、もし甘くてうまいものを見つけたら――頭を一回撫でてやる!」
「キュウ~!」
小火が嬉しそうに鳴いた。
そして勢いよく前方へ跳び出す。
炎のような尾をふわりと揺らしながら、まるで当然のように道案内を始めた。
白金色の髪。
燃えるような赤い瞳。
幼い顔に浮かぶ、不敵な笑み。
彼は両手を背中へ回し、小さな胸を堂々と張りながら、小さな脚で小火の後をついていった。
幼い影が青々とした草原を横切り、外の世界へと続く、曲がりくねった細道へ向かって進んでいく。
そして――
完全なゼロから始まる、新たなる章が幕を開けた。
新たなる時代。
新たなる旅。
そして――
すべてを再び征服するための、まったく新しい物語が、今この瞬間、静かに始まった。




