Episode 2
「バリバリ……バリバリ、ドカーン!」
突如として、乾いた破裂音が鼓膜を y 劈くかの如く響き渡り、それに連動して九天をも震撼させるほどの凄まじい大爆発が巻き起こった。その 轟鳴は、年中深い霧に包まれ、悠久たる一万年もの間、静寂を保ち続けてきた花果山の頂の静けさを一瞬にして打ち砕いた。周辺に充満していた天地の霊気は 俄かに 紊乱し、狂り狂う巨大な竜巻へと姿を変えて渦巻き始めた。
「おや、もう夜が明けたのだろうか? 私は一体、どれほどの刻を眠り続けていたのだろう」
太古より鎮座していた五色石の残骸の中から、低く、鈴の音のように澄んでいながらも、不可視の威厳を 帯びた声が 朗々(ろうろう)と響き渡った。
岩壁が 脆くも崩れ去り、そこから 瑕一つない、すらりとした完璧な手が一つのびてきて、石陣の 塵埃を軽やかに払いのけた。ゲンソン・ジェスダ(Genson Jesuda)は、悠然とした足取りで外の世界へと歩みを進めた。その 偉躯は驚異の二メートル十センチに達し、広い肩幅と 筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)とした 頑健な胸板は、まるで創世記の至高なる法則によって 穿たれた彫刻のようであった。その 容貌は、日月さえもその輝きを失い、 羞じらうほどの美麗さを極めていたが、腰の後ろからは野性味あふれる原始的な猿の尾が 密かに揺らめいていた。彼の瞳は 澄徹そのものであり、目配せしながら万物を眺めるその姿は、まるで今しがた目覚めたばかりの赤子のような 茫然さと無垢さに満ちていた。本来であれば万象を見通すはずの無限の英知は、あまりにも長すぎた冬眠の代償として、未だ一時的な凍結状態にあったのである。
「この尻尾……どうしてこうも 痒いのだろうか」
ゲンソンは 呟きながら、後ろへ手を伸ばして己の猿の尾を 掴み、愛おしそうにひと撫でした。
「それにしても、ここは 掉こであろうか。女媧の姉上はどこへ行かれた? なぜ見渡す限りに彼女の姿がないのだ」
彼があたりを 睥睨するも、ただ 茫々(ぼうぼう)たる雲海が広がるばかりであった。その時、彼の視線は大地に深く突き刺さる、黒く光り輝く一本の鉄棒に 釘付け(くぎづけ)になった。それはかつて、女媧が愛の 証として彼に贈った、幾千幾万の星々にも匹敵する重量を持つ、偉大なる天を支える神柱であった。
「おや、私の 孫の手がここにあったか!」
ゲンソンは 稚気あふれる笑みを浮かべると、腰を 屈めてその神柱を、あたかも雑草でも引き抜くかのように軽々と引き抜き、 懐かし(なつかし)そうに肩へと 担いだ。
「さて、散策にでも出かけるとしよう。長く眠りすぎたせいで、腹の虫が 鳴って 飢餓に 苛まれている。何か 腹の足し(はらのたし)になるものを探さねば」
時を同じくして、遥か彼方の 辺境に位置する荒涼とした砂漠では、黄金の砂塵が 激しく(はげしく)舞い上がり、 腥い血の臭いが 充満していた。鋭い兵器が 鬩ぎ合う(せめぎあう) 金属音が 轟き、絶望に満ちた 悲痛な叫び声が響き渡る。
「妹よ! 早く逃げろ! 私のことは構うな! 一刻も早く去るのだ!」
楊戩は満身創痍であり、 破れ(やぶれ)かぶれの衣は 鮮血に染まり、手に握る長刀は既に半ば 刃零れ(はこぼれ)していた。彼は残された最後の力を 振り絞り(ふりしぼり)、不屈の意志で妹の前に立ちはだかり、苦悶の声を 張り上げ(はりあげ)た。
「嫌です! 兄上! 私は逃げません! 死ぬ時は、この場所で共に果てる覚悟です!」
楊嬋は 嗚咽し、 泥砂と血に塗れた小さな手で、絶望の 淵にありながらも兄の衣の 裾を 必死に 掴ん(つかんで)で離さなかった。
彼らと対峙するのは、 燦然と輝く金甲を身に 纏い、神話の戦馬に跨った天将であり、彼は傲慢に 嘲笑を浮かべた。
「逃げるだと? 天庭の十万天兵天将の手から逃れられるとでも思っているのか? 玉皇大帝の 宣託に基づき、凡夫の血を引くお前たちが天規を 著しく(いちじるしく) 穢した罪は、 誅滅に値する! 無駄な抵抗はやめて、 潔く(いさぎよく)命を差し出すが良い!」
「天規などと、 噴飯物だ!」
楊戩は 鬱血を 吐き出し(はきだし)、 怨恨に満ちた 炯々(けいけい)たる眼光で 睨み付け(にらみつけ)た。
「お前たちは我が母を 惨殺し、今また妹の命脈まで 絶とうというのか! たとえこの身が 粉骨砕身の 憂き目に遭おうとも、お前たちの喉笛を 噛み千切って(かみちぎって)くれるわ!」
「 頑迷固陋な 烏合の衆め、死に際に及んでなお大言壮語を。兵どもよ、者ども出会え! こ奴らを 微塵切り(みじんぎり)にせよ!」
天将は冷酷に手を 翻し、 差図した。
「おいおい、お前たち、何をそんなに 喧しく 騒ぎ立てて(さわぎたてて)いるのだ? 耳元で ガヤガヤ(がやがや)と、 喧しい(やかましい)ことこの上ないぞ」
殺気が 凝縮された戦場の空気を切り裂くように、 弛緩しきった、 悠々自適で、かつ極めて 純真無垢な声が 突如として 介入した。
十万の天兵天将は一斉にその動きを 凍り付かせ(こおりつかせ)、刀を 振り下ろす(ふりおろす) 勢い(いきおい)を 削が(そが)れた。天将は 眉を 顰め(ひそめ)、怪訝そうに振り返った。楊戩と楊嬋の兄妹もまた 茫然自失となり、血に染まった顔を 辛うじて(かろうじて)上げ、声の主へと視線を向けた。
灼熱の 砂漠のただ中に、二メートル十センチの 巨漢が、あたかも無人の境を行くが如く 悠然と歩を進めていた。その 容姿は死角なき完璧な美男子であり、上界のあらゆる天仙を 凌駕する 隠逸たる気品を 放って(はなって)いたが、その 体躯は 威風堂々(いふうどうどう)としており、何よりも後ろで 閑雅に 揺れる(ゆれる)猿の尾が異彩を放っていた。黒い鉄棒を肩に 担ぎ(かつぎ)、不敵とも言える 泰然とした構えで、 呆然と周囲を見渡している。
「何奴だ! いかなる 妖猿なれば、天庭の 正義が 執行される戦場に 立ち入る(たちいる)ことを 許される(ゆるされる)と思うてか!」
天将は大喝し、 矛先をゲンソンへと向けて 威嚇した。
ゲンソンは頭を 掻き(かき)、無垢な瞳で天将を見つめ、至って 誠実に 答え(こたえ)た。
「私は妖猿などではない、名はゲンソン・ジェスダという。それより、お前はその金ピカの 鎧を着て、一体何をしているのだ? まるで歩く 焼き鳥のようで、 目が眩む(めがくらむ)ではないか。これほど大人数で、いずれも 一端の 男児でありながら、なぜそのように 儚く(はかなく) 脆弱な兄妹を 虐げる(いじめる)のだ? 恥を知るが良い」
「何だと?! この私を焼き鳥に 擬えるとは、 片腹痛い(かたはらいたい)わ!」
天将は 憤怒のあまり顔を 歪ませ(ゆがませ)、 額に 青筋を 浮かべ(うかべ)た。
「 大胆不敵な! これは至高無上なる天律を 執行する天兵天将である! 行く手を 阻む(はばむ)者は、いかなる者であれ 逆賊と見なし、 三族 誅戮の刑に処す!」
「天律?」
ゲンソンは首を 傾げ(かしげ)、その瞳には 混迷の色が浮かんだ。
「天律とは何だ? それは 食べられる(たべられる)のか? 女媧の姉上がよく 摘んで(つんで)くれた桃のように、甘くて 美味しい(おいしい)ものなのか?」
楊戩は状況の 異常さを 察知し、天兵らの 残忍さを知るがゆえに、 必死にゲンソンに向かって 叫んだ(さけんだ)。
「そこの 義士殿! 通りすがりなら早く逃げてください! この件に関わってはならない! 彼らは天庭の者たちであり、 容赦なく命を奪う 辣腕なる者たちだ! 我ら兄妹のために 無駄死に(むだじに)してはならない!」
ゲンソンはそれを聞き、楊戩に目をやり、次いで地面に 跪く(ひざまずく)楊嬋へと視線を移した。ゲンソンの澄んだ瞳が楊嬋と 刹那に 交わった(まじわった)瞬間、彼女の身体に 震え(ふるえ)が走った。二メートル十センチの 圧倒的かつ 揺るぎない(ゆるぎない) 存在感、超俗的な美貌、そして一物の 塵も留めない(とどめない)純粋な眼差し……。楊嬋の 乙女心はにわかに激しく 鼓動し、 魂の奥底に 激しい(はげしい) 震撼と 焦がれる(こがれる)ような 感情が 芽生えた(めばえた)。
「そこのお兄さん、 案ずる(あんずる)ことはない」
ゲンソンは楊戩に 向かって(むかって) ニコ(にこ)りと 笑い(わらい)、再び天兵たちを見据えた。
「この焼き鳥どもは、見かけ倒しで 脆弱そのものだ。ただ、やたらと 囀る(さえずる)のが 煩わしく(わずらわしく)、食料探しの 邪魔になって 仕方がない(しかたがない)」
「 反逆の 徒め! 問答無用、 悉く(ことごとく) 誅殺せよ!」
天将は 怒髪天を衝く(どはつてんをつく) 勢い(いきおい)で 咆哮した。もはやこの 愚鈍な猿からの 侮辱に 耐えかね(たえかね)ていた。
「この 野良猿を 八つ裂き(やつざき)にせよ!」
十万の天兵天将は 鬨の声を上げ、殺気は天を 衝き(つき)、 鋭利な武器が 一斉にゲンソンへと 殺到した。砂漠の 砂塵は 烈風を巻き起こし、その 巨大な肉体を 呑み込もう(のみこもう)とした。
「 ああ、 鬱陶しい(うっとうしい)。腹が減っていると言っているのに、なぜそのように 突進してくるのだ」
ゲンソンは 溜息を漏らし(もらき)、 退屈そうな 面持ち(おももち)を浮かべた。
彼は肩の 如意棒を 下ろす(おろす)ことさえ 億劫がり、ただ 左手を 軽く(かるく)上げ、 煩わしい(わずらわしく) 飛び交う(とびかう) 蚊を 払う(はらう)かのように、空間を 軽く(かるく) 薙いだ(ないだ)。同時に、後ろの猿の尾が 虚空を 軽く(かるく) 叩いた(たたいた)。
「ブォン……ドゴォォォン!!」
静寂でありながらも、 混沌の 太古の 威圧を 伴った(ともなった) 凄まじい(すさまじい) 衝撃が 炸裂した。 華麗な 法術も 絢爛たる 光もなく、ただ 原始の 神力を 帯びた(おびた) 圧倒的な 勁気が 周囲を 席巻した。 万里に 及ぶ(およぶ) 砂漠の 空間は、まるで 一枚の 紙のように 歪み(ゆがみ)、 捩じ切られた(ねじきられた)。
「な、何という……この 力は……」
天将の 驚愕の 悲鳴は、喉から 迸る(ほとばしる)前に 掻き消された(かきけされた)。
十万の 天兵天将、 戦馬、 雲車、そして すべての 神兵 利器は、 一瞬の間、 瞬き(まばたき)するよりも 短い(みじかい) 時間に、その 一振り(ひとふり)の手によって 砕かれ(くだかれ)、 輝く(かがやく) 塵へと 変えられた(かえられた)。 彼らは 虚空へと 霧散し、 一滴の 血も、 一片の 鎧の 残骸すら 残さなかった(のこさなかった)。 万里の 砂漠は 瞬時に(しゅんじに) 空虚となり、 あたかも 初めから(はじめから) 何の(なんの) 追跡劇も 存在しなかったかのような、 恐るべき(おそるべき) 静寂に 包まれた(つつまれた)。
楊戩は目を 見開き(みひらき)、手にしていた折れた刀が 砂の上に 力なく(ちからなく) 落ちた(おちた)。彼は 身体を 激しく(はげしく) 震わせながら(ふるわせながら)、 呂律の回らない 声で 呟いた(つぶやいた)。
「こ、これは……一体……。 ほんの(ほんの) 気まぐれ(きまぐれ)の 一振り(ひとふり)で、十万の 天兵が 灰燼に 帰した(きした)というのか……」
楊嬋もまた、同じく 驚愕の 極み(きわみ)にあり、胸を 強く(つよく) 押さえ(おさえ)ながら、その視線はゲンソンの 背中に 釘付け(くぎづけ)になっていた。彼女の心の中で、 恐怖は 瞬く間に(瞬く間に) 崇拝と 烈しい(はげしい) 慕情へと 昇華していった。
ゲンソンは くるりと(くるりと) 振り返り(ふりかえり)、 袖についた 砂塵を 払い(はらい)ながら、 大股で 二人の前へと 歩み寄った(あゆみよった)。二メートル十センチの 巨躯が落とす 影は、 不可視の(ふかしの) 威圧感を 伴い(ともない)つつも、この上なく 温かく(あたたかく)、 包容力に 満ちていた(みちていた)。
彼は 大きな(大きな)手で楊戩の肩を 豪快に(ごうかいに) 叩いた(たたいた)。「ドン!」
「うわっ!」
楊戩はその 一撃で 砂に(すなに) 埋もれ(うもれ)そうになり、ゲンソンが 骨折させまいと 骨身を 惜しんで(おしんで) 手加減したにもかかわらず、 骨が 軋む(きしむ) 音が響いた。
「おや、 大丈夫か、お兄さん」
ゲンソンは 訝しげに(いぶかしげに) 少年を見つめた。
「ずいぶんと 加減したつもりなのだが、なぜそれほどに 脆い(もろい)のだ? 凡夫とは 皆、そのように 儚い(はかない) 存在なのか?」
「は、はい…… 私は(わたしは) 大丈夫です。 救って(すくって)いただき、 深謝いたします」
楊戩は 唾を 飲み込み(のみこみ)、 慌てて(あわてて) 恭しく(うやうやしく) 拱手し、 地面に 頭を 擦り付けた(すりつけた)。
「我ら 兄妹を 絶体絶命の(ぜったいぜつめいの) 危機から 救い出して(すくいだして)くださり、この 恩義は 終生 忘れません(わすれません)。 尊き(とうとき) 神仙様、どうか 御名を お聞かせ(おきかせ)ください。この 再生の 恩は、 犬馬の労を 尽くして(つくして)でも 報いる(むくいる)所存です!」
ゲンソンは手を 振り(ふり)、 ケラケラ(けらけら)と 笑いながら(わらいながら) 言った(いった)。
「名はゲンソン・ジェスダだと言っただろう、ゲンソンと 呼べば(よべば)良い。 神仙などではない、私はただ 桃を探しに 行く(いく) 途中の(とちゅうの) 通りすがり(とおりすがり)だ。お前たちが 虐げられている(いじめられている)のが 目に(めに)留まり(とまり)、 ついでに(ついでに)あの 金ピカの(きんぴかの) ハエ(はえ)どもを 追い払った(おいはらった)までだ。それにしてもお前たちは 弱すぎる。このままでは、 次に(つぎに)また別の 焼き鳥に 出会った(出会った)時、 再び(ふたたび) 辛酸を 舐める(なめる)ことになるぞ」
その時、楊嬋は 勇気を 振り絞って(ふりしぼって) 一歩 前へ(まえへ) 出た(でた)。 白い(しろい) 衣の 裾が 砂漠の(さばくの) 風に 揺れる(ゆれる)。彼女は 涙に 濡れた(ぬれた)瞳で彼の 美しい(うつくしい) 顔を見つめ、 震える(ふるえる)声で、しかし 限りなく(かぎりなく) 優しく(やさしく) 懇願した。
「ゲンソン…… 大兄様。 私は(わたしは)楊嬋と 申します(もうします)。どうか……あなたのお 供をし、 身の回り(みのまわり)のお 世話をさせていただけないでしょうか? あなたのためなら、いかなる 事でも 厭いません(いといません)……」
ゲンソンは頭を 掻き(かき)、 罪のない(みのない) 純粋な眼差しで彼女を見つめた。
「私についてきて どうする(どうする)のだ? 私は桃を探しに 行く(いく)のだぞ、ついてきても 飢える(うえる)だけだ。それに私は 一人が(ひとりが) 好きなのだ(すきなのだ)。 大人数では 煩わしい(わずらわしく)、私の 尻尾が 時折 暴れて(あばれて)お前に 当たれば(あたれば)、また 泣く(なく)ことになるだろう」
彼の 飾り気のない、しかし 残酷なまでの 無垢な 拒絶は、 初めて(はじめて) 恋心を 知った(しった)楊嬋の胸を 深く(ふかく) 抉った(えぐった)。彼女は 唇を 噛み(かみ)、 哀愁を 帯びた(おびた) 瞳の 奥に、 割り切れない(わりきれない) 執念を 宿らせた(やどらせた)。彼女は 理解していた。この 男が自分を 救った(すくった)のは 単なる(たんなる) 偶然であり、その 心には 塵ほどの 俗情も 存在しない(そんざいしない)ということを。
ゲンソンは 如意棒を 掲げ(かかげ)、 地平線の 彼方で 霊気に 包まれた(つつまれた) 霞む(かすむ) 山を 指し示した(さししめした)。
「おい、楊戩のお兄さん、あの 山を 見る(みる)が良い。あそこには 玉鼎真人という 偏屈な 老人が住んでいる。少々 狂気を 帯びて(おびて)はいるが、 道を 説く(とく) 腕は 確か(たしか)だ。 二人で(ふたりで)あそこへ行き、 師に 事える(つかえる)が良い。 技を 修めた(おさめた)なら、 次は己の手であの 焼き鳥どもを 討つ(うつ)が良い。私を 煩わせる(わずらわせる)でない、私は 眠い(ねむい)のだから」
楊戩はその 指し示された(さししめされた) 方角を 記憶の 奥底に 刻み付け(きざみつけ)、 幾度も(いくども) 頷いた(うなずいた)。
「 指針をいただき、 感謝いたします! 我ら 兄妹は 直ちに(ただちに)その 地へと 赴きます(おもむきます)!」
「よし、では私はこれにて 御免! さらばだ、お兄さん、 妹よ!」
ゲンソンは 満面の(まんめんの) 笑みを浮かべ(えみをうかべ)、 猿の尾を 嬉しそうに(うれしそうに) 揺らし(ゆらし)ながら、 神柱を肩に 担ぎ(かつぎ)、 スキップ(すきっぷ)しながら 去って行った(さっていった)。彼は 歩きながら(あるきながら)、 混沌の 時代から 伝わる(つたわる) 難解な 古歌を 口ずさんでいた(くちずさんでいた)。
楊嬋は 荒涼たる(こうりょうたる) 砂漠に 立ち尽くして(たちつくして)いた。 熱風が彼女の 髪を 揺らした(ゆらした)が、彼女は 瞬き(まばたき)一つせず、 遥か(はるか) 彼方の(かなたの) 霧の中に 消えゆく(きえゆく)二メートル十センチの 雄大な(ゆうだいな) 背中を 見つめ続けていた(みつめつづけていた)。
「ゲンソン・ジェスダ……」
楊嬋はその 名を 心の中で(こころのなかで) 呟き(つぶやき)、 小さな(ちいさな)手を 白く(しろく)なるまで 強く(つよく) 握り締めた(にぎりしめた)。
一万年に 及ぶ(およぶ) 荊棘の(けいきょくの) 道、 三聖母の 哀切なる 片想い(かたおもい)の 悲劇は、この 砂漠の(さばくの) 血涙の 日から 幕を開けた(まくをあけた)のである。彼女は、 出口のない 深淵へと 墜ちていく(おちていく)ことを 自覚していた。愛される 者が「 愛」という 概念すら 知らぬ(しらぬ)という、その 終わりなき(おわりなき) 迷宮へと。




