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Episode 2

「バリバリ……バリバリ、ドカーン!」

 突如として、乾いた破裂音が鼓膜を y 劈(つんざ)くかの如く響き渡り、それに連動して九天をも震撼させるほどの凄まじい大爆発が巻き起こった。その 轟鳴(ごうめい)は、年中深い霧に包まれ、悠久たる一万年もの間、静寂を保ち続けてきた花果山の頂の静けさを一瞬にして打ち砕いた。周辺に充満していた天地の霊気は 俄(にわ)かに 紊乱(びんらん)し、狂り狂う巨大な竜巻へと姿を変えて渦巻き始めた。

「おや、もう夜が明けたのだろうか? 私は一体、どれほどの刻(とき)を眠り続けていたのだろう」

 太古より鎮座していた五色石の残骸の中から、低く、鈴の音のように澄んでいながらも、不可視の威厳を 帯(おび)びた声が 朗々(ろうろう)と響き渡った。

 岩壁が 脆(もろ)くも崩れ去り、そこから 瑕(きず)一つない、すらりとした完璧な手が一つのびてきて、石陣の 塵埃(じんあい)を軽やかに払いのけた。ゲンソン・ジェスダ(Genson Jesuda)は、悠然とした足取りで外の世界へと歩みを進めた。その 偉躯(いく)は驚異の二メートル十センチに達し、広い肩幅と 筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)とした 頑健(がんけん)な胸板は、まるで創世記の至高なる法則によって 穿(うが)たれた彫刻のようであった。その 容貌(ようぼう)は、日月さえもその輝きを失い、 羞(はじ)じらうほどの美麗さを極めていたが、腰の後ろからは野性味あふれる原始的な猿の尾が 密(ひそ)かに揺らめいていた。彼の瞳は 澄徹(ちょうてつ)そのものであり、目配せしながら万物を眺めるその姿は、まるで今しがた目覚めたばかりの赤子のような 茫然(ぼうぜん)さと無垢さに満ちていた。本来であれば万象を見通すはずの無限の英知は、あまりにも長すぎた冬眠の代償として、未だ一時的な凍結状態にあったのである。

「この尻尾……どうしてこうも 痒(かゆ)いのだろうか」

 ゲンソンは 呟(つぶや)きながら、後ろへ手を伸ばして己の猿の尾を 掴(つか)み、愛おしそうにひと撫でした。

「それにしても、ここは 掉(いず)こであろうか。女媧(じょか)の姉上はどこへ行かれた? なぜ見渡す限りに彼女の姿がないのだ」

 彼があたりを 睥睨(へいげい)するも、ただ 茫々(ぼうぼう)たる雲海が広がるばかりであった。その時、彼の視線は大地に深く突き刺さる、黒く光り輝く一本の鉄棒に 釘付け(くぎづけ)になった。それはかつて、女媧が愛の 証(あかし)として彼に贈った、幾千幾万の星々にも匹敵する重量を持つ、偉大なる天を支える神柱であった。

「おや、私の 孫の手(まごのて)がここにあったか!」

 ゲンソンは 稚気(ちき)あふれる笑みを浮かべると、腰を 屈(かが)めてその神柱を、あたかも雑草でも引き抜くかのように軽々と引き抜き、 懐かし(なつかし)そうに肩へと 担(かつ)いだ。

「さて、散策にでも出かけるとしよう。長く眠りすぎたせいで、腹の虫が 鳴(な)って 飢餓(きが)に 苛(さいな)まれている。何か 腹の足し(はらのたし)になるものを探さねば」

 時を同じくして、遥か彼方の 辺境(へんきょう)に位置する荒涼とした砂漠では、黄金の砂塵が 激しく(はげしく)舞い上がり、 腥(なまぐさ)い血の臭いが 充満(じゅうまん)していた。鋭い兵器が 鬩ぎ合う(せめぎあう) 金属音が 轟(とどろ)き、絶望に満ちた 悲痛(ひつう)な叫び声が響き渡る。

「妹よ! 早く逃げろ! 私のことは構うな! 一刻も早く去るのだ!」

 楊戩(ようせん)は満身創痍であり、 破れ(やぶれ)かぶれの衣は 鮮血(せんけつ)に染まり、手に握る長刀は既に半ば 刃零れ(はこぼれ)していた。彼は残された最後の力を 振り絞り(ふりしぼり)、不屈の意志で妹の前に立ちはだかり、苦悶の声を 張り上げ(はりあげ)た。

「嫌です! 兄上! 私は逃げません! 死ぬ時は、この場所で共に果てる覚悟です!」

 楊嬋(ようせん)は 嗚咽(おえつ)し、 泥砂(でいさ)と血に塗れた小さな手で、絶望の 淵(ふち)にありながらも兄の衣の 裾(すす)を 必死(ひっし)に 掴ん(つかんで)で離さなかった。

 彼らと対峙するのは、 燦然(さんぜん)と輝く金甲を身に 纏(まと)い、神話の戦馬に跨った天将であり、彼は傲慢に 嘲笑(ちょうしょう)を浮かべた。

「逃げるだと? 天庭の十万天兵天将の手から逃れられるとでも思っているのか? 玉皇大帝の 宣託(せんたく)に基づき、凡夫の血を引くお前たちが天規を 著しく(いちじるしく) 穢(けが)した罪は、 誅滅(ちゅうめつ)に値する! 無駄な抵抗はやめて、 潔く(いさぎよく)命を差し出すが良い!」

「天規などと、 噴飯物(ふんぱんもの)だ!」

 楊戩は 鬱血(うっけつ)を 吐き出し(はきだし)、 怨恨(えんこん)に満ちた 炯々(けいけい)たる眼光で 睨み付け(にらみつけ)た。

「お前たちは我が母を 惨殺(ざんさつ)し、今また妹の命脈まで 絶(た)とうというのか! たとえこの身が 粉骨砕身(ふんこつさいしん)の 憂き目(うきめ)に遭おうとも、お前たちの喉笛を 噛み千切って(かみちぎって)くれるわ!」

「 頑迷固陋(がんめいころう)な 烏合の衆(うごうのしゅう)め、死に際(しにぎわ)に及んでなお大言壮語を。兵どもよ、者ども出会え! こ奴らを 微塵切り(みじんぎり)にせよ!」

 天将は冷酷に手を 翻(ひるがえ)し、 差図(さず)した。

「おいおい、お前たち、何をそんなに 喧(やかま)しく 騒ぎ立てて(さわぎたてて)いるのだ? 耳元で ガヤガヤ(がやがや)と、 喧しい(やかましい)ことこの上ないぞ」

 殺気が 凝縮(ぎょうしゅく)された戦場の空気を切り裂くように、 弛緩(しかん)しきった、 悠々自適(ゆうゆうじてき)で、かつ極めて 純真無垢(じゅんしんむく)な声が 突如(とつじょ)として 介入(かいにゅう)した。

 十万の天兵天将は一斉にその動きを 凍り付かせ(こおりつかせ)、刀を 振り下ろす(ふりおろす) 勢い(いきおい)を 削が(そが)れた。天将は 眉(まゆ)を 顰め(ひそめ)、怪訝(けげん)そうに振り返った。楊戩と楊嬋の兄妹もまた 茫然自失(ぼうぜんじしつ)となり、血に染まった顔を 辛うじて(かろうじて)上げ、声の主へと視線を向けた。

 灼熱の 砂漠(さばく)のただ中に、二メートル十センチの 巨漢(きょかん)が、あたかも無人の境を行くが如く 悠然(ゆうぜん)と歩を進めていた。その 容姿(ようし)は死角なき完璧な美男子であり、上界のあらゆる天仙を 凌駕(りょうが)する 隠逸(いんいつ)たる気品を 放って(はなって)いたが、その 体躯(たいく)は 威風堂々(いふうどうどう)としており、何よりも後ろで 閑雅(かんが)に 揺れる(ゆれる)猿の尾が異彩を放っていた。黒い鉄棒を肩に 担ぎ(かつぎ)、不敵とも言える 泰然(たいぜん)とした構えで、 呆然(ぼうぜん)と周囲を見渡している。

「何奴(なにやつ)だ! いかなる 妖猿(ようえん)なれば、天庭の 正義(せいぎ)が 執行(しっこう)される戦場に 立ち入る(たちいる)ことを 許される(ゆるされる)と思うてか!」

 天将は大喝し、 矛先(ほこさき)をゲンソンへと向けて 威嚇(いかく)した。

 ゲンソンは頭を 掻き(かき)、無垢な瞳で天将を見つめ、至って 誠実(せいじつ)に 答え(こたえ)た。

「私は妖猿などではない、名はゲンソン・ジェスダという。それより、お前はその金ピカの 鎧(よろい)を着て、一体何をしているのだ? まるで歩く 焼き鳥(やきとり)のようで、 目が眩む(めがくらむ)ではないか。これほど大人数で、いずれも 一端(いっぱし)の 男児(だんじ)でありながら、なぜそのように 儚く(はかなく) 脆弱(ぜいじゃく)な兄妹を 虐げる(いじめる)のだ? 恥(はじ)を知るが良い」

「何だと?! この私を焼き鳥に 擬(ぞ)えるとは、 片腹痛い(かたはらいたい)わ!」

 天将は 憤怒(ふんぬ)のあまり顔を 歪ませ(ゆがませ)、 額(ひたい)に 青筋(あおすじ)を 浮かべ(うかべ)た。

「 大胆不敵(だいたんふてき)な! これは至高無上なる天律を 執行(しっこう)する天兵天将である! 行く手を 阻む(はばむ)者は、いかなる者であれ 逆賊(ぎゃくぞく)と見なし、 三族(さんぞく) 誅戮(ちゅうりく)の刑に処す!」

「天律?」

 ゲンソンは首を 傾げ(かしげ)、その瞳には 混迷(こんめい)の色が浮かんだ。

「天律とは何だ? それは 食べられる(たべられる)のか? 女媧の姉上がよく 摘んで(つんで)くれた桃のように、甘くて 美味しい(おいしい)ものなのか?」

 楊戩は状況の 異常(いじょう)さを 察知(さっち)し、天兵らの 残忍(ざんにん)さを知るがゆえに、 必死(ひっし)にゲンソンに向かって 叫んだ(さけんだ)。

「そこの 義士(ぎし)殿! 通りすがりなら早く逃げてください! この件に関わってはならない! 彼らは天庭の者たちであり、 容赦(ようしゃ)なく命を奪う 辣腕(らつわん)なる者たちだ! 我ら兄妹のために 無駄死に(むだじに)してはならない!」

 ゲンソンはそれを聞き、楊戩に目をやり、次いで地面に 跪く(ひざまずく)楊嬋へと視線を移した。ゲンソンの澄んだ瞳が楊嬋と 刹那(せつな)に 交わった(まじわった)瞬間、彼女の身体に 震え(ふるえ)が走った。二メートル十センチの 圧倒的(あっとうてき)かつ 揺るぎない(ゆるぎない) 存在感(そんざいかん)、超俗的な美貌、そして一物の 塵(ちり)も留めない(とどめない)純粋な眼差し……。楊嬋の 乙女心(おとめごころ)はにわかに激しく 鼓動(こどう)し、 魂(たましい)の奥底に 激しい(はげしい) 震撼(しんかん)と 焦がれる(こがれる)ような 感情(かんじょう)が 芽生えた(めばえた)。

「そこのお兄さん、 案ずる(あんずる)ことはない」

 ゲンソンは楊戩に 向かって(むかって) ニコ(にこ)りと 笑い(わらい)、再び天兵たちを見据えた。

「この焼き鳥どもは、見かけ倒しで 脆弱(ぜいじゃく)そのものだ。ただ、やたらと 囀る(さえずる)のが 煩わしく(わずらわしく)、食料探しの 邪魔(じゃま)になって 仕方がない(しかたがない)」

「 反逆(はんぎゃく)の 徒(と)め! 問答無用(もんどうむよう)、 悉く(ことごとく) 誅殺(ちゅうさつ)せよ!」

 天将は 怒髪天を衝く(どはつてんをつく) 勢い(いきおい)で 咆哮(ほうこう)した。もはやこの 愚鈍(ぐどん)な猿からの 侮辱(ぶじょく)に 耐えかね(たえかね)ていた。

「この 野良猿(のらざる)を 八つ裂き(やつざき)にせよ!」

 十万の天兵天将は 鬨(とき)の声を上げ、殺気は天を 衝き(つき)、 鋭利(えいり)な武器が 一斉(いっせい)にゲンソンへと 殺到(さっとう)した。砂漠の 砂塵(さじん)は 烈風(れっぷう)を巻き起こし、その 巨大(きょだい)な肉体を 呑み込もう(のみこもう)とした。

「 ああ、 鬱陶しい(うっとうしい)。腹が減っていると言っているのに、なぜそのように 突進(とっしん)してくるのだ」

 ゲンソンは 溜息(ためいき)を漏らし(もらき)、 退屈(たいくつ)そうな 面持ち(おももち)を浮かべた。

 彼は肩の 如意棒(にょいぼう)を 下ろす(おろす)ことさえ 億劫(おっくう)がり、ただ 左手(ひだりて)を 軽く(かるく)上げ、 煩わしい(わずらわしく) 飛び交う(とびかう) 蚊(か)を 払う(はらう)かのように、空間を 軽く(かるく) 薙いだ(ないだ)。同時に、後ろの猿の尾が 虚空(こくう)を 軽く(かるく) 叩いた(たたいた)。

「ブォン……ドゴォォォン!!」

 静寂でありながらも、 混沌(こんとん)の 太古(たいこ)の 威圧(いあつ)を 伴った(ともなった) 凄まじい(すさまじい) 衝撃(しょうげき)が 炸裂(さくれつ)した。 華麗(かれい)な 法術(ほうじゅつ)も 絢爛(けんらん)たる 光(ひかり)もなく、ただ 原始(げんし)の 神力(しんりょく)を 帯びた(おびた) 圧倒的(あっとうてき)な 勁気(けいき)が 周囲(しゅうい)を 席巻(せっけん)した。 万里(ばんり)に 及ぶ(およぶ) 砂漠(さばく)の 空間(くうかん)は、まるで 一枚(いちまい)の 紙(かみ)のように 歪み(ゆがみ)、 捩じ切られた(ねじきられた)。

「な、何という……この 力(ちから)は……」

 天将の 驚愕(きょうがく)の 悲鳴(ひめい)は、喉から 迸る(ほとばしる)前に 掻き消された(かきけされた)。

 十万の 天兵天将(てんぺいてんしょう)、 戦馬(せんば)、 雲車(うんしゃ)、そして すべての 神兵(しんぺい) 利器(りき)は、 一瞬(いっしゅん)の間、 瞬き(まばたき)するよりも 短い(みじかい) 時間(じかん)に、その 一振り(ひとふり)の手によって 砕かれ(くだかれ)、 輝く(かがやく) 塵(ちり)へと 変えられた(かえられた)。 彼らは 虚空(こくう)へと 霧散(むさん)し、 一滴(いってき)の 血(ち)も、 一片(いっぺん)の 鎧(よろい)の 残骸(ざんがい)すら 残さなかった(のこさなかった)。 万里の 砂漠(さばく)は 瞬時に(しゅんじに) 空虚(くうきょ)となり、 あたかも 初めから(はじめから) 何の(なんの) 追跡(ついせき)劇(げき)も 存在(そんざい)しなかったかのような、 恐るべき(おそるべき) 静寂(せいじゃく)に 包まれた(つつまれた)。

 楊戩は目を 見開き(みひらき)、手にしていた折れた刀が 砂(すな)の上に 力なく(ちからなく) 落ちた(おちた)。彼は 身体(からだ)を 激しく(はげしく) 震わせながら(ふるわせながら)、 呂律(ろれつ)の回らない 声(こえ)で 呟いた(つぶやいた)。

「こ、これは……一体……。 ほんの(ほんの) 気まぐれ(きまぐれ)の 一振り(ひとふり)で、十万の 天兵(てんぺい)が 灰燼(かいじん)に 帰した(きした)というのか……」

 楊嬋もまた、同じく 驚愕(きょうがく)の 極み(きわみ)にあり、胸を 強く(つよく) 押さえ(おさえ)ながら、その視線はゲンソンの 背中(せなか)に 釘付け(くぎづけ)になっていた。彼女の心の中で、 恐怖(きょうふ)は 瞬く間に(瞬く間に) 崇拝(すうはい)と 烈しい(はげしい) 慕情(ぼじょう)へと 昇華(しょうか)していった。

 ゲンソンは くるりと(くるりと) 振り返り(ふりかえり)、 袖(そで)についた 砂塵(さじん)を 払い(はらい)ながら、 大股(おおまた)で 二人(ふたり)の前へと 歩み寄った(あゆみよった)。二メートル十センチの 巨躯(きょく)が落とす 影(かげ)は、 不可視の(ふかしの) 威圧感(いあつかん)を 伴い(ともない)つつも、この上なく 温かく(あたたかく)、 包容(ほうよう)力に 満ちていた(みちていた)。

 彼は 大きな(大きな)手で楊戩の肩を 豪快に(ごうかいに) 叩いた(たたいた)。「ドン!」

「うわっ!」

 楊戩はその 一撃(いちげき)で 砂に(すなに) 埋もれ(うもれ)そうになり、ゲンソンが 骨折(こっせつ)させまいと 骨身(ほねみ)を 惜しんで(おしんで) 手加減(てかげん)したにもかかわらず、 骨(ほね)が 軋む(きしむ) 音(おと)が響いた。

「おや、 大丈夫(だいじょうぶ)か、お兄さん」

 ゲンソンは 訝しげに(いぶかしげに) 少年(しょうねん)を見つめた。

「ずいぶんと 加減(かげん)したつもりなのだが、なぜそれほどに 脆い(もろい)のだ? 凡夫(ぼんぷ)とは 皆(みな)、そのように 儚い(はかない) 存在(そんざい)なのか?」

「は、はい…… 私は(わたしは) 大丈夫(だいじょうぶ)です。 救って(すくって)いただき、 深謝(しんしゃ)いたします」

 楊戩は 唾(つば)を 飲み込み(のみこみ)、 慌てて(あわてて) 恭しく(うやうやしく) 拱手(きょうしゅ)し、 地面(じめん)に 頭(あたま)を 擦り付けた(すりつけた)。

「我ら 兄妹(きょうだい)を 絶体絶命の(ぜったいぜつめいの) 危機(きき)から 救い出して(すくいだして)くださり、この 恩義(おんぎ)は 終生(しゅうせい) 忘れません(わすれません)。 尊き(とうとき) 神仙(しんせん)様、どうか 御名(おんな)を お聞かせ(おきかせ)ください。この 再生(さいせい)の 恩(おん)は、 犬馬の労(けんばのろう)を 尽くして(つくして)でも 報いる(むくいる)所存(しょぞん)です!」

 ゲンソンは手を 振り(ふり)、 ケラケラ(けらけら)と 笑いながら(わらいながら) 言った(いった)。

「名はゲンソン・ジェスダだと言っただろう、ゲンソンと 呼べば(よべば)良い。 神仙(しんせん)などではない、私はただ 桃(もも)を探しに 行く(いく) 途中の(とちゅうの) 通りすがり(とおりすがり)だ。お前たちが 虐げられている(いじめられている)のが 目に(めに)留まり(とまり)、 ついでに(ついでに)あの 金ピカの(きんぴかの) ハエ(はえ)どもを 追い払った(おいはらった)までだ。それにしてもお前たちは 弱(よわ)すぎる。このままでは、 次に(つぎに)また別の 焼き鳥(やきとり)に 出会った(出会った)時、 再び(ふたたび) 辛酸(しんさん)を 舐める(なめる)ことになるぞ」

 その時、楊嬋は 勇気(ゆうき)を 振り絞って(ふりしぼって) 一歩(いっぽ) 前へ(まえへ) 出た(でた)。 白い(しろい) 衣(ころも)の 裾(すす)が 砂漠の(さばくの) 風(かぜ)に 揺れる(ゆれる)。彼女は 涙(なみだ)に 濡れた(ぬれた)瞳で彼の 美しい(うつくしい) 顔(かお)を見つめ、 震える(ふるえる)声で、しかし 限りなく(かぎりなく) 優しく(やさしく) 懇願(こんがん)した。

「ゲンソン…… 大兄(たいけい)様。 私は(わたしは)楊嬋と 申します(もうします)。どうか……あなたのお 供(とも)をし、 身の回り(みのまわり)のお 世話(せわ)をさせていただけないでしょうか? あなたのためなら、いかなる 事(こと)でも 厭いません(いといません)……」

 ゲンソンは頭を 掻き(かき)、 罪のない(みのない) 純粋(じゅんすい)な眼差しで彼女を見つめた。

「私についてきて どうする(どうする)のだ? 私は桃を探しに 行く(いく)のだぞ、ついてきても 飢える(うえる)だけだ。それに私は 一人が(ひとりが) 好きなのだ(すきなのだ)。 大人数(おおにんずう)では 煩わしい(わずらわしく)、私の 尻尾(しっぽ)が 時折(ときおり) 暴れて(あばれて)お前に 当たれば(あたれば)、また 泣く(なく)ことになるだろう」

 彼の 飾り気(かざりけ)のない、しかし 残酷(ざんこく)なまでの 無垢(むく)な 拒絶(きょぜつ)は、 初めて(はじめて) 恋心(こいごころ)を 知った(しった)楊嬋の胸を 深く(ふかく) 抉った(えぐった)。彼女は 唇(くちびる)を 噛み(かみ)、 哀愁(あいしゅう)を 帯びた(おびた) 瞳(ひとみ)の 奥(おく)に、 割り切れない(わりきれない) 執念(しゅうねん)を 宿らせた(やどらせた)。彼女は 理解(りかい)していた。この 男(おとこ)が自分を 救った(すくった)のは 単なる(たんなる) 偶然(ぐうぜん)であり、その 心(こころ)には 塵(ちり)ほどの 俗情(ぞくじょう)も 存在しない(そんざいしない)ということを。

 ゲンソンは 如意棒(にょいぼう)を 掲げ(かかげ)、 地平線(ちへいせん)の 彼方(かなた)で 霊気(れいき)に 包まれた(つつまれた) 霞む(かすむ) 山(やま)を 指し示した(さししめした)。

「おい、楊戩のお兄さん、あの 山(やま)を 見る(みる)が良い。あそこには 玉鼎真人(ぎょくていしんじん)という 偏屈(へんくつ)な 老人(ろうじん)が住んでいる。少々 狂気(きょうき)を 帯びて(おびて)はいるが、 道(みち)を 説く(とく) 腕(うで)は 確か(たしか)だ。 二人で(ふたりで)あそこへ行き、 師(し)に 事える(つかえる)が良い。 技(わざ)を 修めた(おさめた)なら、 次(つぎ)は己の手であの 焼き鳥(やきとり)どもを 討つ(うつ)が良い。私を 煩わせる(わずらわせる)でない、私は 眠い(ねむい)のだから」

 楊戩はその 指し示された(さししめされた) 方角(ほうがく)を 記憶(きおく)の 奥底(おくそこ)に 刻み付け(きざみつけ)、 幾度も(いくども) 頷いた(うなずいた)。

「 指針(ししん)をいただき、 感謝(かんしゃ)いたします! 我ら 兄妹(きょうだい)は 直ちに(ただちに)その 地(ち)へと 赴きます(おもむきます)!」

「よし、では私はこれにて 御免(ごめん)! さらばだ、お兄さん、 妹(いもうと)よ!」

 ゲンソンは 満面の(まんめんの) 笑みを浮かべ(えみをうかべ)、 猿の尾(さるのお)を 嬉しそうに(うれしそうに) 揺らし(ゆらし)ながら、 神柱(しんばしら)を肩に 担ぎ(かつぎ)、 スキップ(すきっぷ)しながら 去って行った(さっていった)。彼は 歩きながら(あるきながら)、 混沌(こんとん)の 時代(じだい)から 伝わる(つたわる) 難解(なんかい)な 古歌(こか)を 口ずさんでいた(くちずさんでいた)。

 楊嬋は 荒涼たる(こうりょうたる) 砂漠(さばく)に 立ち尽くして(たちつくして)いた。 熱風(ねっぷう)が彼女の 髪(かみ)を 揺らした(ゆらした)が、彼女は 瞬き(まばたき)一つせず、 遥か(はるか) 彼方の(かなたの) 霧(きり)の中に 消えゆく(きえゆく)二メートル十センチの 雄大な(ゆうだいな) 背中(せなか)を 見つめ続けていた(みつめつづけていた)。

「ゲンソン・ジェスダ……」

 楊嬋はその 名(な)を 心の中で(こころのなかで) 呟き(つぶやき)、 小さな(ちいさな)手を 白く(しろく)なるまで 強く(つよく) 握り締めた(にぎりしめた)。

 一万年に 及ぶ(およぶ) 荊棘の(けいきょくの) 道(みち)、 三聖母(さんせいぼ)の 哀切(あいせつ)なる 片想い(かたおもい)の 悲劇(ひげき)は、この 砂漠の(さばくの) 血涙(けつるい)の 日(ひ)から 幕を開けた(まくをあけた)のである。彼女は、 出口(でぐち)のない 深淵(しんえん)へと 墜ちていく(おちていく)ことを 自覚(じかく)していた。愛される 者(もの)が「 愛(あい)」という 概念(がいねん)すら 知らぬ(しらぬ)という、その 終わりなき(おわりなき) 迷宮(めいきゅう)へと。

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