Episode 17
V-22 Aegis stealth機の量子エンジンは次第に減速し、やわらかな低い唸りを響かせながら、超高層タワー「Aegis Prime」の屋上にある巨大な駐機デッキへと着陸した。
今のニューヨークは、美しい夕焼けに沈んでいた。空は鮮烈な橙色と、深い紫の絹の帯が溶け合うように染まり、無数のガラス張りの摩天楼が、まるで巨大な水晶の森のようにきらきらと光を反射している。ハドソン川から吹き上げる風は涼しく、砂漠のギザで感じた、うだるような熱気と乾いた臭気、そして死臭をすっかり追い払っていた。
油圧式のハッチが開く。最初に降り立ったのはGensonだった。彼は邪魔なヴァイブラニウム製の仮面を外し、彫りの深い、妖艶で息をのむほど美しい顔立ちをあらわにしていた。片手をゆるくスラックスのポケットに入れ、革靴のつま先でデッキを踏みしめながら、Gensonは俗世の空気を深く吸い込んだ。
「やっぱりニューヨークの、金の匂いがする空気が一番だな」
彼はそう呟き、口元に気だるげな笑みを浮かべた。
すぐ後ろから張円英が跳ねるように降りてきて、Gensonの左腕にぎゅっと抱きつき、頬のえくぼを彼の上腕にすり寄せた。「社長、お疲れさまでした! あとで私が、仙女の薬草風呂を手ずからご用意して、ゆっくりお休みいただきますね!」
Na TrátとJing Nghiも続いて降り立ち、長い戦いのあとのこわばった身体を伸ばして関節をほぐす。さらにその傍らには、女戦神ヴァルキリーのFreyaも並び立ち、金色の瞳で眼下の華麗な都市を、好奇心と驚きの入り混じった眼差しで見下ろしていた。だが、最も強烈なカルチャーショックを受けていたのはFreyaではない。新たに加わった“新人”だった。
Bastetがハッチから姿を現した瞬間、裸足の足が合金製の階段の上でぴたりと止まった。
古代エジプトの猫の女神は、琥珀色の瞳をあちこちに走らせた。眉間に深い皺を寄せ、頭上の猫耳は絶えずぴくぴくと動き、数百メートル先の路上から聞こえてくる救急車のサイレンに合わせて揺れている。背後の長い尻尾は、感電したかのようにぶわりと逆立っていた。
「こ、ここは……どこなの?」Bastetは呆然と声を上げた。澄んだ声は、圧倒されて震えている。「この巨大なガラスの塔……クフ王のピラミッドよりもはるかに壮大じゃない! あの飛び回っている鉄の鳥は何? あなたたちの魔法は……どうしてこんなに奇妙で、うるさいの?」
Na Trátは腹を抱えて笑いながら歩み寄り、Bastetの肩をばしんと叩いたので、女神はびくりと身を震わせた。
「ようこそ現代世界へ、古代遺物のお姉さん!」Na Trátは腕を組み、得意げに顎を上げる。「ここはニューヨーク。世界経済の中心で、私たちがいるこのタワーは、Aegis Primeテクノロジー・グループの本社――つまり、ボスのGenson様の帝国ってわけ。田舎くさいのはやめなよ。ピラミッドより偉大なのは、どう考えてもこっちだから!」
Bastetは一歩引き、警戒して猫耳をしゅんと伏せた。「私は田舎くさくなんかない! 私はエジプトで最も偉大な知識の女神、イシスよ!」
「はいはい、知識の女神さま」
Jing Nghiはサングラスを鼻筋で押し上げ、冷淡に言い放った。「でも、その知識はもう三千年くらいメタ落ちしてるわ。降りてきて。風の通り道をふさいでるの」
Bastetは口を尖らせて悔しそうに唇を噛んだ。そしてGensonを、まるでいじめられた子猫のように潤んだ目で見上げる。「ご主人様……この人たち、Bastetをいじめる……」
Gensonはくすりと笑った。彼は手を伸ばし、彼女の額をそっと軽く弾いた。
「おとなしくしていなさい。中へ入ろう。外は冷えるし、そのうち毛が抜けるぞ」
創造主のその冗談に一同はどっと笑い、Bastetは真っ赤になって、砂漠にいた時からずっと離そうとしなかったGensonの上着をぎゅっと抱え直すと、素直にちょこちょこと彼の後をついていった。
防弾ガラスの自動扉をくぐり、一行はニューヨークでも屈指の豪奢な三層ペントハウスへと足を踏み入れた。
Gensonが、見慣れた羊皮革張りのソファに身を沈めた瞬間、空間のどこからともなく、非常に礼儀正しい、しかし無機質な女性の声が響いた。青白く淡く発光する3Dホログラムが、リビングの中央に浮かび上がる。
「お帰りなさいませ、社長、および各エージェントの皆さま。室温は24度に調整済みです。量子バスの準備も完了しております。いつも通り、ボルドーのワインを少々お召し上がりになりますか?」
それは、Aegisのすべての活動を統括する最高位AI、Cyraだった。
だが、古代の時代から来た女神であるBastetの目には、そう簡単な話ではなかった。
「何者だ、貴様は!?」
Bastetが叫んだ。目を見開き、全身の毛が一斉に逆立つ。瞬く間に、両手の十本の爪がカミソリのように鋭く伸び、黄金の神力を放ちはじめた。
「主のあとを隠形の魔術でつけて、この巣窟までついて来るとは! 貴様はいったい冥府から来た亡霊か、妖怪か! 死ね!」
そう言うや、猫の女神は空中へ跳び上がり、Cyraのホログラムを引き裂こうと、猛然と襲いかかった。
「ちょ、ちょっと! やめて!」Viên Anhが慌てて叫ぶ。
だが、誰かが止めるより早く、Gensonは気だるげに腕を伸ばし、空中で跳ね上がったBastetの、立ったままの弱点――尻尾をひょいとつかまえた。急所を掴まれた女神は、たちまち力を失い、「にゃっ」と短く鳴いて、そのままソファのクッションへとどさりと落ち、Gensonの胸の中へすっぽり収まってしまった。
「敏感すぎるな」
GensonはBastetの背をやさしく撫でて落ち着かせながら、低く温かい声で言った。「亡霊でも妖怪でもない。あれはCyra、俺のAIシステムだ。わかりやすく言えば、この家を管理する“神”みたいなものを、俺が科学で作ったんだ」
「科学?」
Bastetはぽかんとした顔で彼の妖艶な顔を見上げた。手はまだGensonのシャツをしっかり掴んだままだ。「人間が……神を自分で作れるの?」
「この時代じゃ、君たちの魔法なんて、場合によってはトースターにすら負ける」
Jing Nghiは水を一口飲み、平然と皮肉を落とした。
Viên Anhはくすくす笑いながらGensonの隣にどさりと座り、わざと間に割り込んで、Bastetを社長の胸元から引き離した。秘書の少女はバッグから最新型のスマートフォンを取り出し、Bastetの目の前に差し出す。
「ねえ野良猫ちゃん、まずは人間の世界の第一課を教えてあげる。これ、“魔法の鏡”を見てごらん。はい、笑って」
Bastetは興味津々でスマホに顔を近づけた。「魔法の鏡? でも……平べったいし、それに光ってる……」
カシャッ! フラッシュ!
カメラのフラッシュが突然まぶしく光り、Bastetはびくっと飛び上がってソファの後ろへひっくり返り、「ドン」と音を立てて倒れた。両手で頭を抱え込む。
「うわあああ! 雷!? 貴様、目を潰す稲妻の魔術を使ったな!?」Bastetは床の上でわめいた。
部屋中に一斉に大爆笑が起こった。Freyaは腹を抱えてげらげら笑い、Na Trátに至っては机を叩き続け、ついには涙まで流しはじめた。
「ちょっと待って、腹痛い! “知識の女神”がスマホのフラッシュにビビってるよ!」Na Trátはげらげら笑いながら、ソファの背後からこっそり半分だけ顔を出しているBastetを指さした。
Viên Anhは画面をなぞり、今撮ったばかりの写真をGensonに見せた。「社長、見てください。目を剥いて口をあんぐり開けてる瞬間を完璧に捉えました。笑い死にしそうです! Aegisの社内SNSに上げちゃいます!」
Gensonはその写真に目を向け、口元を甘やかな笑みで緩めると、Viên Anhの額を指で軽く弾いた。
「いじめすぎるな。どうせあの子、千年もの眠りから出たばかりなんだ。少しずつ慣れさせてやれ」
Bastetは顔を赤くしてよろよろと起き上がり、Viên Anhを睨みつけた。「貴様……この狡猾な精霊め! わざとご主人様の前で私に恥をかかせたな!」
「なによ? やれるものなら噛みついてみなさいよ」
Viên Anhは舌を出して挑発し、またGensonの肩に頭を預けた。「私は社長に最も近い秘書よ。最初の頃からずっと、ずっと付き添ってきたんだから。あなたは新入りなんだし、自分の立場をわきまえて、後ろに並んでなさいね!」
Bastetは歯をぎりっと食いしばり、怒りで尻尾を振り回す。彼女は歩み寄り、古代エジプトの踊り衣装でかろうじて覆われた豊満な胸を誇らしげに突き出した。
「私は女神だ! それに、砂漠の野生美を持っている。私のサイズは……きっと、そんな小さな体つきの女には負けない! ご主人様だって、私を抱きしめるほうがきっと好きに決まってる!」
「誰が小さいって!?」
Viên Anhは即座に毛を逆立て、腹立たしげに立ち上がった。
そのとき、それまで黙って様子を見ていたFreyaが、咳払いをひとつして金色の髪を整え、二人のあいだへ進み出た。Bastetより一足先に“古代組”として加わった者として、彼女には先輩らしく振る舞う責任があると感じていたのだ。
「こほん、Bastet。郷に入っては郷に従えよ」
Freyaは腕を組み、さきほどネットで覚えたばかりの現代風の言い回しを使おうと努めた。「ここでは、胸囲だの野性的だのを競うものじゃない。それに……自分の服、もう一度よく見てみなさい。この世界でそんな格好で外を歩いたら、ナイトクラブのポールダンサーだと思われるわよ」
Bastetは自分の身にまとった、薄く透ける布と、きらめくエメラルドの宝石飾りを見下ろした。「だから何? これはエジプト王家でもっとも高貴な神衣よ!」
Na Trátが近づいてきて、Bastetの肩をぽんぽんと叩く。「現実見なよ、妹よ。あとでCyraに寸法を測らせて、DiorかChanelの服でも何着か取り寄せてもらいな。そんな格好のまま社長のそばをうろついてたら、いつか社長が我慢できなくなって、その場で君を食べちゃうかもしれないよ」
Na Trátの遠慮のない下品な物言いに、Bastetの頬はトマトのように真っ赤になった。彼女はそっとGensonを盗み見る。すると胸がどくどくと高鳴りはじめる。もし本当にご主人様が自分を“食べたい”というのなら……断る理由などあるだろうか? どうせ彼女は、すべてを彼に捧げると誓ったのだから。
美しい娘たちが口々に言い争い、市場のように騒がしいのを見て、Gensonは諦めたように小さくため息をついた。彼は自らシャツの襟元のボタンを二つ外し、男らしい鎖骨をのぞかせてから、ぱん、と二度手を打った。
パン。パン。
たったそれだけの動作に、加えて創造主としての気配が彼の身体からわずかに広がっただけで、先ほどまで騒然としていたペントハウスは、たちまち静まり返った。暗殺者も、仙女も、戦争の女神も、砂漠の女神も、四人の女たちはまるで教師に叱られた女生徒のように、そろって姿勢を正して立っている。
Gensonの絶対的な威厳は、もはや大げさな演出など必要としなかった。彼が眉をひとつひそめるだけで、この世界を滅ぼしうる力を持つ後宮は、自動的にひれ伏すのだ。
「騒がしすぎる」
Gensonは淡々と言い、テーブル上のデキャンタから赤ワインを自分で注いだ。「Jing Nghi、エジプトの欠片を回収した件は、すぐに量子研究室へ持って行って解析しろ。Na Trát、Freya。二人はギザ基地での装備損失状況を報告しろ」
彼は少し間を置き、妖しげな瞳で、いまなお不満げに睨み合っているViên AnhとBastetを見やった。
「それからお前たち二人だ……Viên Anh、Bastetを連れて風呂に入れ、ちゃんとした服に着替えさせろ。ついでに、現代の機器の使い方も教えてやれ。もし私があとで風呂から出てきて、まだくだらないことで言い争っていたら……」
Gensonは口角をわずかに上げ、その低い声には危険な誘惑が滲んだ。
「……今夜は二人とも、私のベッドで同時に相手をする覚悟をしておけ。その時に、まだ喧嘩する余力が残っているか、見ものだな」
その、欲望を強く含んだ脅しめいた言葉を聞いた瞬間、Viên AnhとBastetはそろって首から耳まで真っ赤になった。二人は慌ててこくこくと頷く。
「り、了解です……社長!」
「Bastet、主の命に従います!」
Gensonは満足げにうなずき、ワイングラスを手にゆっくりと量子バスルームへ向かった。彼の背後では、慌ただしい足音と、ひそひそとした服従のささやきが起こりはじめる。地球上でもっとも強大な権力を持つ本拠地で、短くも濃密で、そして新たな波乱を孕んだひとときの夜が始まろうとしていた。
ラベンダーと量子ハーブの香りを帯びた薄い霧が、特大の黒大理石製ジャグジーから立ちのぼっていた。バステトは、床暖房の効いたタイルの上をおそるおそる裸足で歩き、水面に浮かぶ、絹のようにきめ細かな泡立ちを見つめて、琥珀色の瞳を大きく見開いた。
「み、水が……火を使わなくても勝手に沸くの?」バステトは恐る恐るつま先で水面に触れ、心地よいぬくもりが全身に広がるのを感じた。「これは王家の潮汐震動術なの?」
「違うっての!」
バスルームの壁にもたれ、腕を組んでいたナ・チャットが、くすくす笑った。
「それはマイクロ量子ジャグジーよ。飛び込むだけで、水が自動で毒素を取り除いて、毛穴の奥まで洗浄して、肌までケアしてくれるの。正直、千年ものの女神なのに、ほんと“テク音痴”なんだから」
ヴェン・アンは、ちょうど真珠エキスのフェイスマスクを貼り終えたところで、バステトの手にふわふわの超ソフトなタオルを押しつけた。
「さっさと入って。社長を待たせるんじゃないわよ。もしその億単位のバスタブを汚したら、ひと月は床磨きさせるからね!」
バステトは小さな鼻をつんと上げ、背後の猫尻尾を気取ったように疑問符の形へ曲げた。
「ふん、私はイシスであり、バステトでもある! 我慢しているのは主様のためであって、あんたみたいに命令ばかりするしたたかな狐のためじゃない!」
そう言いはしたものの、ぬるく心地よい湯に華奢な身体を沈めた瞬間、砂漠の女神は思わず満足げな吐息を漏らした。ピラミッドの足元での激戦のあとの疲労が、まるで跡形もなく溶けていくようだった。
十五分後、スマート更衣室の扉が開いた。
エイジス・プライムのホログラム式クローゼットは、バステトのためにパリから取り寄せた特注の真っ黒なオートクチュールドレスを選び出していた。ドレスは彼女の曲線にぴたりと寄り添い、深く切れ込んだ胸元が豊かな胸を大胆に引き立て、さらにハイレグ気味のスリットが腰まで伸びていて、傷ひとつない白く長い脚を惜しげもなく見せている。頭上の黒い猫耳がぴくりと揺れ、歩みとともにしなやかにうねる長い尾が重なって、気品と野性味が息をのむほどに同居した美しさを生み出していた。
バステトがリビングへ姿を現した瞬間、空気がすっと止まった。
食卓についていたフレイヤが金色の瞳を上げ、軽くうなずく。
「砂漠の美貌……なるほど、侮れないわね。この美しさは、ヴァルハラでも最上級の女神たちに十分肩を並べるわ」
ティン・ニーは分解した狙撃銃をテーブルに置き、サングラスの縁を軽く押し上げながら、淡々と評した。
「少なくとも今は、古代の墓から逃げ出したベリーダンサーには見えないわ」
ジェンソンは、千年杉の木で作られた食卓の上座に腰かけていた。煙がかった灰色のシルクシャツに着替え、胸元のボタンを大きく開けている。両手には、高価な年代物の赤ワインが入ったクリスタルグラス。前髪の陰からのぞく赤い瞳がバステトの完璧な身体をなぞり、その口元に妖艶な笑みが浮かんだ。
「こっちへ来い、バステト」
ジェンソンは、低くかすれた甘い声で呼んだ。
バステトの心臓が、太鼓のように激しく打ち鳴らされる。彼女は素直に近づくと、空いた椅子には座らず、そのままジェンソンの足元に膝をつき、彼の太ももに顎を乗せた。瞳には、狂信にも似た熱っぽい崇拝が宿っている。
「主様……バステトは、もうお仕えする準備ができております」
ジェンソンはふっと笑い、大きな手を伸ばして、彼女の柔らかな猫耳を撫でた。バステトは目を閉じ、甘ったるい「にゃ……」という声を漏らして、古代エジプトの女神としての高慢さをすっかり手放してしまう。
「よし、食べながら話そう」
ジェンソンが合図すると、配膳システムが起動した。
たちまち、精巧なロボットアームが現れ、炭火で焼かれたA5ランクの和牛、希少なキャビア、そして世界中の山海の珍味を次々とテーブルへ並べていく。
ヴェン・アンは手早くジェンソンのグラスにワインを注ぐと、すぐさまプロ顔負けの口調で報告を始めた。
「社長、シベリアとギザの作戦費用をすべて更新しました。両拠点は構造面で軽微な損傷を受けましたが、フレイヤとバステトが持ち帰った魔力鉱石のおかげで、エイジス・プライムのニューヨーク株は、今日の午後に15%上昇しました!」
ナ・チャットは牛肉を一切れ口に放り込みながら、勢いよく付け加えた。
「戦闘面も心配いらないわ、ボス! シベリアでボスから授かった霊気のおかげで、私の双刀の威力は少なくとも倍になった。さっきのギザのゾンビ軍団なんて、準備運動にもならなかったわよ!」
フレイヤも、ジェンソンを見つめる瞳に愛情を宿しながら口を開いた。
「私の神髄は、主様の混沌の力によって完全に回復したわ。今なら、あなたのご命令ひとつで、ヴァルキリー魂軍団をすべて召喚できる」
ティン・ニーはワインをひと口飲み、量子タブレットをジェンソンの方へ滑らせた。
「ただし、バステトが所持している二つ目のピラミッド・クリスタルの初期データには、いくつか異常値があるわ。エネルギー量が北欧の断片を上回るだけじゃなくて……どうやら、どこか外宇宙のほうへ信号を送ろうとしているみたい」
ジェンソンは、美しい娘たちの報告を最後まで聞いても、顔色ひとつ変えなかった。赤ワインをひと口含み、椅子の背にもたれかかる。その様子は、気だるげでありながらも、どこか傲然としている。
「どこへ信号を送ろうが、そんなことは関係ない」
ジェンソンは淡々と言った。手はまだ、彼の手首に巻きついているバステトの猫尾を撫でている。
「相手が誰であろうと、断片を取り返したいなら、ここへ来ればいい。絶望というものがどういう意味を持つのか、俺が教えてやる」
創造主の威圧を帯びた短い言葉に、部屋にいる五人の女性たちは、そろって熱を帯びた感情を胸に宿した。
豪華な夕食のあと、ペントハウスはくつろぎモードへと切り替わった。天井照明の明るさが自動で落ち、やわらかな暖色へ変わる。壁に隠されたサラウンドスピーカーからは、心地よいジャズが流れ始めた。
ジェンソンは、プライベート用のラウンドソファへと移動した。バステトはすっかり彼に懐いてしまっている。彼女はジェンソンのたくましい胸元に頭を預け、暑い日に帰ってきた小さな猫のように、彼の腰をぎゅっと抱きしめた。
「主様……」
バステトは囁きながら、細く長い指先で彼のシルクシャツの胸元を軽く叩いた。
「以前の私は、神々の力と支配こそがすべてだと思っていました。けれど、あなたの前に立ち、その心臓の鼓動を聞いたとき……初めて、本当の“至高の存在”とは何かを知りました。あなたの庇護は、砂漠のどんな神殿よりも、私を安心させてくれます」
ジェンソンは身をかがめ、バステトの紅く熟れた唇に、そっと触れるだけの口づけを落とした。
「素直でいるのはいいことだ」
彼は低く囁く。
「俺のそばでは、もう孤独な女神でいる必要はない。お前の役目は、美しく、忠実で、この人生を楽しむことだけだ」
ジェンソンの指先から穏やかな混沌のエネルギーがバステトの額へ流れ込み、永遠の魂の刻印の儀式が完了した。バステトは身を震わせ、瞳を潤ませながら、歓喜と絶対服従の中で彼を強く抱きしめた。
ヴェン・アン、ナ・チャット、ティン・ニー、そしてフレイヤがソファの周囲を囲み、そろってグラスを掲げる。そこには嫉妬も距離もない。エイジス・タスクフォースの頂点に立つ美しき者たちは、完全に一つになっていた。彼女たちは理解しているのだ――ジェンソンという偉大な樹の下では、自分たちは皆、最も誇り高い花であり、至高の社長のためなら、この世のあらゆる神話世界を平らにする覚悟があるのだと。
ニューヨークの午前3時。眠らない街でさえ、ようやく規則正しい呼吸を始め、街路のネオンも昼間ほどの眩しさを失っていた頃、Aegis Primeタワーの地下五十階では、まったく別の世界が目を覚ましていた。
地下量子研究所――Aegis Sub-Lab――は、まるで莫大な制作費を投じたSF映画に出てくる宇宙船の管制室のようだった。三つのサッカー場ほどもある広大な空間は、冷たい青のLEDラインで照らされ、中央には巨大な量子スーパーコンピュータ「Cyra-V」が鎮座している。その周囲では、反物質エネルギーを蓄えたカプセル群が、低く重い唸りを上げていた。
チタン合金製のエレベーターの扉が滑るように開き、Gensonが悠然と姿を現した。彼は寝心地のよい部屋着の上に薄手の黒いシルクガウンを羽織り、手にはまだ飲みかけのワイングラスを持っている。そのすぐ後ろには、見慣れた美貌の面々が続いていた。ヴィエン・アンはあくび混じりに彼の腕にしがみつき、ナ・チャットは眠気ひとつ見せない鋭い眼差しを向け、フレイヤは軽量のヴァルキリー装甲をまとって威厳を放っている。そしてバステトは、琥珀色の瞳を大きく見開き、生まれて初めて目にするものばかりに、感嘆の声を漏らし続けていた。
「ラーとナイルの神々よ……」
バステトが小声でつぶやく。頭上の猫耳は、ガラス壁を走るデータ光を見てはぴくぴくと震えていた。
「主様……ここはあなたのお墓なの? こんな場所、十代のファラオの陵墓を全部合わせたよりも大きいじゃない! あの光るガラスの箱たちは、光の魂を閉じ込めているの?」
「うちを墓みたいに言うな、間抜け」
Gensonはくすりと笑い、バステトの鼻先を軽く叩いた。彼女は鼻をひくひくさせ、可愛らしく身をすくめる。
ティン・ニーは、すでに先に研究室入りしていた。黒のタイトな衣装の上に白衣を重ね、髪はきっちりと編み上げられている。細い目は、目の前のホログラム画面を流れ続ける無数の複雑なコードを映していた。
「光の魂なんてものじゃないわ」
彼女は冷たく言いながら、空中で素早くキー入力を続けた。
「それは混沌量子フォトニック・コアよ」
サングラスの位置を押し上げ、Gensonを一瞥する。
「社長、スペクトル解析室の準備はできています。分解を始めてよろしいですか?」
Gensonはうなずき、見学用エリアの革張りの椅子へと歩いていき、そこに身を沈めた。
「始めろ。この野良猫が持ち帰った“おもちゃ”が何なのか、見せてもらおう」
バステトはおとなしく前へ進み、神妙に両手で、ピラミッド型の結晶――エジプト神話の断片――を差し出した。ティン・ニーは磁気ピンセットでそれをつまみ上げ、強化ガラス製のマトリクス台座の中央へ据えた。
台座が降下した瞬間、量子レーザースキャナーが一斉に起動した。無数の緑の光線が結晶へと降り注ぐ。普通の魔術であれば、この結晶は反動で都市一つを吹き飛ばしてもおかしくない。だが、Aegisの科学と最高位の魔術封印が組み合わされた装置の前では、結晶はかすかに震えるだけだった。まるで千年ぶりに錠が外れる手枷のように、パチパチという乾いた音を立てている。
「信じられない……」
バステトは口元を押さえて息を呑んだ。
「それはラー神ご自身が施した『星の鍵』よ。少し強く触れただけでも火傷するほどの神力なのに……あなたたちの機械は、それを葡萄の皮みたいに簡単に剥がしてしまうの?」
「お嬢ちゃん、科学が魔法の上に立つ世界へようこそ」
ナ・チャットが得意げにバステトの肩を叩いた。
そのとき、少し離れた別の台座の上で、シベリアから回収した北欧神話の断片が突然、激しく発光した。北の氷雪を象徴する断片と、乾いた砂漠を象徴する断片――その二つが、共鳴波を生み始めたのだ。
ヴォン……ヴォン……ヴォン……
研究室の空気が一気に沈み込む。中央のプロジェクションシステムから巨大な三次元ホログラム地図が立ち上がり、部屋全体を埋め尽くした。それは地球の姿だったが、現代の高層都市が並ぶ地球ではない。大地は原始のまま荒れ、溶岩を吐く大陸片と、天を覆う魔術の嵐に包まれた、太古の地球だった。
「何だよこれ……!?」
ヴィエン・アンはすっかり眠気が飛び、目を丸くして宙に浮かぶ巨大な球体を見つめた。
ティン・ニーは眉をひそめ、透明キーボードの上を十本の指で矢継ぎ早に叩いた。
「データを復号中……。セキュリティレベル:原初の混沌。社長、どうやら古代の星図コードを起動してしまったようです。この二つの断片……互いに接続されています」
3Dマップ上に、二つの光点が現れた。ひとつは極寒の北方、もうひとつはギザの砂漠。二つの光点は光の鎖を射出し、地球の核深くへと突き刺さっていく。
そのとき、サイラの無機質な声が響いた。そこには、すべての女神たちの背筋を凍らせる情報が含まれていた。
「解析完了。神話の断片は、単なるエネルギー電池ではありません。魔術的DNA配列に基づくと、これらは『九界封印(Nine Realm Seals)』を構成する部品です。主機能:地球内部の中心で休眠中の『原初混沌実体(Chaos Titan Engine)』――宇宙を破壊しうる力を持つ生体機械――を封じ、抑え込むこと」
その言葉を聞いた瞬間、フレイヤとバステトはそろって後ずさった。顔から血の気が引いていく。
「原初混沌実体……?」
フレイヤが震える声を絞り出す。手にした槍がかちかちと鳴った。
「じゃあ……ラグナロクの伝承、炎の巨人スルトが九界を焼き尽くすという話は、独立した神話ではなかったの? あれはただ……地球の核の下に眠る、あの存在から漏れ出したエネルギーにすぎないの?」
バステトも目を見開き、猫の瞳孔が恐怖で細く縮んだ。
「エジプト神話では、毎晩ラー神が大蛇アペプと戦い、世界を呑み込ませないとされているわ。まさか……偉大なるアペプですら、この封印から漏れ出した、取るに足らない残滓にすぎなかったの?」
二つの古代文明を代表する最高位の女神たちは顔を見合わせ、恐るべき真実を悟った。自分たちが崇拝してきた強大な神々、千年の叙事詩に記された偉大な聖戦――それらは実のところ、原初実体の欠片から恩恵を受けるか、あるいは災厄をこうむるだけの、取るに足らない門番に過ぎなかったのだ。
研究室の空気が重く沈む。ヴィエン・アン、ナ・チャット、ティン・ニーは息を呑み、ただ一人の男へと視線を向けた。
Gensonはなおもそこに座り、足を組み、気にも留めないようにワイングラスをくるくると回している。ホログラム地図の混沌の光が、彼の赤い瞳に映り込んでいた。
「し、主様……」
バステトはうわずった声でつぶやき、彼の膝元へ這い寄って抱きついた。
「いったい誰が、地下にあんな宇宙規模の破壊実体を封じるような封印システムを作れたというの?」
Gensonは口元をわずかに吊り上げた。その妖艶さと、底知れない傲慢さが混じった笑みだけで、少女たちの鼓動は跳ね上がる。彼はグラスを置き、バステトの冷えた頬をそっと撫でた。
「誰だと思う?」
声は低く、どこまでも落ち着いていた。
「言うことを聞かない獣なら、檻に入れるしかないだろう。何億年も経ったせいで、その檻が少し緩んだ。だからこそ、お前たちみたいな神の名を騙る蟻どもが、地上で王のように振る舞う隙があっただけだ」
創造主の、その羽のように軽い告白に、フレイヤとバステトは完全に打ちのめされた。二人はすぐさま跪き、額を強化ガラスに押しつける。時空の法則すら超えるその力に、無条件の服従を示したのだ。
だが、その衝撃の瞬間――
ウィーオー! ウィーオー! ウィーオー!
研究室の青い照明が一斉に消えた。代わりに、血のように赤い警告灯が狂ったように回転し始める。耳を裂くサイレンが鳴り響き、チタン製の安全扉は次々と自動でロックされた。
「レッドアラート! SSS級緊急事態!」サイラの声が、いつもの冷静さを失って切迫したものになる。「第三級神エネルギーの変動を検知! 放散座標は電離層を貫通! 外部勢力が第三封印断片の強制破壊を開始しています!」
「何だって!? こんなに早いのか!?」
ヴィエン・アンがはっとして、急いで霊剣を抜いた。
「すぐに座標を特定しろ、ティン・ニー!」
Gensonが命じる。彼の眼光には、冷たい殺気が宿っていた。
ティン・ニーは歯を食いしばり、仮想キーボードを打ち砕くかのような勢いで指を走らせた。すると地球の3Dマップが一気に回転し、ヨーロッパへ拡大され、やがて無数の島々が点在する深い青の海域で止まった。
「座標はエーゲ海、地中海です。海底三千メートル……社長、そこはオリンポス天門の沈んだ遺跡、ギリシャ神話の聖地です!」
ティン・ニーは続けて報告した。
「狙われているのはギリシャ神話の断片、コードネーム『雷の心臓(Heart of Thunder)』です!」
「社長のものに手を出すなんて、どこのどいつよ!?」
ナ・チャットが双剣を抜く。刃と刃が擦れ、火花が散った。
「また冥府の連中か、それとも北欧の残党怪物か?」
「違います」
ティン・ニーは眉をひそめ、サイラが世界中の地下ネットワークから抽出した機密データを開いた。画面には、オリーブの枝に巻きつく稲妻を象ったロゴを持つ企業のマークが映し出される。
「情報によれば、この動きは『Olympus Bio-Tech Syndicate』という組織によるものです。スイス・チューリヒに本拠を置く巨大バイオテクノロジー企業で、ヨーロッパの医療網と生物兵器網をほぼ掌握しています」
「ただのテクノロジー企業が? Aegisに対して企業戦争を仕掛ける気?」
ヴィエン・アンが鼻で笑った。
「甘く見ないほうがいい」
一歩前へ出たフレイヤの金色の瞳は鋭く光っていた。
「オリンポスは、まともなビジネス集団なんかじゃない。あれは表向きの顔にすぎないの。あいつらは古代ギリシャの神々の末裔であり、現代では企業家や科学者の仮面をかぶっている。傲慢で、狡猾で、ほかのどの神系よりも強烈な野心を持ち、人類を支配しようとしているのよ」
バステトが喉の奥で低く唸った。
「オリンポスの卑劣な連中め……あいつら、封印の支配権を奪うために『雷の心臓』をわざと解放しようとしているの。もし成功したら、原初混沌実体を目覚めさせ、自分たちの思い通りの新世界を作り出すつもりよ!」
全員の視線が、再び椅子に座る創造主へと集まった。
Gensonは、戸惑いも怒りも不安も見せなかった。むしろゆっくりと立ち上がり、その場で最も面白い話題でも耳にしたかのように、満足げに伸びをする。最後の一口を飲み干し、クリスタルグラスを強くテーブルへ置いた。
「Olympus Bio-Tech Syndicate? 神を装ったテック系の大富豪たちか」
彼は声を上げて笑った。低く、しかし獰猛なその笑いが、研究室全体に響き渡る。
「面白いじゃないか。商戦と神話戦争を同時にやろうってのか? 創造主相手に横取りを企むとは、どうやらギリシャの神系は平和に慣れすぎて、滅びの感覚を忘れたらしいな」
薄手のガウンの袖を少しだけまくり上げ、Gensonは、無垢な羊の群れを見下ろす狩人のような炎を瞳に宿した。そして、自分の持つ破壊的なハーレムの面々へ顎を向ける。
「ヴィエン・アン、ナ・チャット、ティン・ニー、フレイヤ、バステト。命令だ」
「はい、私たちです!」
五人の絶世の美女がそろって姿勢を正し、殺気を帯びた気配が一気に噴き上がる。その圧力だけで、周囲のホログラム地図が吹き飛ばされそうになった。
「重武装ステルス戦闘機V-Xを起動させろ。量子級兵装をすべて準備だ。今夜、あのギリシャの玩具企業に、“敵対的買収”というものを、Aegis流で叩き込んでやる」
Gensonはそう言い残すと、マントを翻しながらエレベーターへ向かって背を向けた。残したのは、究極の傲慢さを孕んだ一言。
「準備はいいか、皆。これから地中海へ休暇に行く。そしてついでに……オリンポスをもう一度、海底へ蹴り落としてやろう」
レッドアラートの画面はなおも点滅を続け、武器の装填音が女神たちの手元で小気味よく鳴り響く。彼女たちの熱を帯びた視線は、創造主の揺るがぬ背中を追いかけていた。こうして、ニューヨークでの短い休息は終わりを告げ、新たな大嵐――「Arc 3:ギリシャ神話の呼吸とオリンポス頂上戦争」――の幕が開くのだった。
Aegis Prime超高層タワーの屋上は、今や高出力の装甲サーチライトに照らし出され、ニューヨークの静まり返った夜を鋭く切り裂いていた。ハドソン川から吹きつける風が唸りを上げていたが、量子エンジンが放つ、暴力そのもののような低い轟音をかき消すことはできなかった。
重装ステルス機 V-X Aegis Destroyer――Aegisグループが誇る反物質技術の結晶――は、真っ黒な鋼鉄の獣のように発着場にどっしりと居座り、今にも天空を引き裂かんばかりの構えを見せていた。
発着場の脇では、Aegis Task Forceの美女たちが装備の換装を終え、最新鋭のハイテク戦闘装甲に古代魔術を融合させた姿で並び立っていた。
ヴィエン・アンが最初に姿を見せた。淡い白桃色のナノスーツは、華奢な身体にぴたりと沿いながらも、出るところはしっかり出ており、そこへ眩い妖精の紋様が輝いている。ナ・チャットはその後ろを滑るように進み、黒光りする暗殺者用装甲をまとい、二本の短刀は血を欲するかのように小刻みに震えていた。ティン・ニーは戦術用ステルス装甲の光学サイトを冷静に再確認し、フレイヤは、Cyraによって反エネルギー量子シールドが追加された黄金のヴァルキリー神装甲を身にまとい、比類なき威厳を放っていた。
だが、最も注目を集めていたのは――“新人”だった。
バステトはおずおずと歩み出てきた。猫の女神のために特別設計されたAegis製戦闘装甲は、黒と金を基調とした王者のような配色で、砂漠の野性味ある曲線にぴたりと張りついている。しかも巧妙な構造により、頭上のふわふわした猫耳と、自在に揺れる長い尻尾のための空間まできちんと確保されていた。
「この金属みたいな布、薄っぺらいくせに重いじゃない! それに、こんなに胸元がきついなんて、どうやって息をすればいいの?」
バステトは胸元を引っぱりながら不満を漏らし、猫尻尾を苛立たしげに揺らした。
「黙って慣れなさいよ、田舎娘」
ナ・チャットはそう言って、バステトの尻を軽く叩いた。バステトはびくっと跳ね上がり、「にゃっ」と声を漏らす。
「それは超軽量のカーボンナノ繊維とヴァイブラニウムの混成装甲よ。戦車砲にだって耐えられるんだから。文句を言わずに、さっさと乗りなさい!」
ジェンソンは悠然と昇降梯に乗り込んだ。いつもの黒いスーツをきっちり着こなし、手にはヴァイブラニウム製の仮面を持っている。その姿は、神の軍勢を殲滅しに行く戦士というより、週末の休暇へ向かう大富豪のように見えた。
「起動しろ、Cyra。ヨーロッパで朝食の約束がある」
ジェンソンは淡々と命じ、操縦席中央の柔らかな革張りの司令椅子に身を沈めた。
「了解しました、社長。反物質エンジンを起動。格納扉を閉鎖。航路は大西洋横断、目的地はエーゲ海域。離陸します」
ヴォオオ――ドン!
助走など一切なしだった。量子エンジンが轟音を上げると、V-X Aegis Destroyerは垂直に夜空へと飛び上がり、ニューヨークの黒雲を引き裂いて、わずか三秒で成層圏へ到達した。超音速の衝撃波が空一面に響き渡り、深い蒼色の光の尾を流星のように残していく。
機内では重力制御システムが完璧に作動していたため、ジェンソンはワイングラスを傾けても一滴たりともこぼさない。だが、音速の十倍という速度は、古代の女神にとっては精神的な衝撃でしかなかった。
「きゃああああっ! もっとゆっくり! ラー神の戦車だって、こんなにひどくは飛ばないわ!」
バステトは悲鳴を上げ、女神としての威厳など跡形もなく吹き飛んでいた。彼女は一目散にジェンソンへ駆け寄ると、その腕にしがみつき、彼の胸に顔を埋めて震え出した。猫耳はすっかり後ろへ伏せられている。
向かいに座るヴィエン・アンは唇を尖らせ、つま先でバステトのすねを軽く蹴った。
「どきなさいよ、臆病猫! そこは私の席でしょ! たかだかマッハ10で泣きわめいてるようじゃ、あとで海底で戦う時に溺れて死ぬわよ!」
「水が怖いわけじゃない! この鉄の箱が速すぎるのが怖いだけよ!」
バステトは顔の半分だけをのぞかせて言い返したが、両手はなおも社長の腕を離さなかった。
ジェンソンは二人の言い争いなど意に介さず、バステトの背を軽く叩いて宥めると、中央表示システムへ目を向けた。
「Cyra、オリンポスの状況を報告しろ」
機内中央に3Dホログラム地図が浮かび上がる。そこには、朝日を受けてきらめくエーゲ海が映し出されていた。もっとも、海面から三千メートル下へ映像を透過させた瞬間、その光景は異様なまでに暗く、重苦しいものへと変わった。
「社長、ご報告します。沈没したオリンポスの中心座標において、レーダーがOlympus Bio-Tech Syndicateの大規模な海中艦隊を探知しました」
Cyraの声は終始平板だった。
「彼らはレヴィアタン級超大型潜水艦を三隻、移動式生物研究ステーションを数十基展開しており、現在は“雷の心臓”と呼ばれる断片を狙って、超高性能の電磁掘削網を構築中です」
ティン・ニーは地図上に密集する赤い点を見つめ、コントロールパネルを素早く叩いた。
「社長、見てください。掘削区域の周辺では、古代の怪物遺伝子と機械を融合させた改造生物まで放たれています。まるで……機械化されたクラーケンやヒュドラのようです。ギリシャ勢は、生体工学で神話の怪物を再現しているのよ」
「ふん、いかにもオリンポスの神らしいやり口ね」
フレイヤは鼻で笑い、侮蔑を含んだ視線を向けた。
「常に自分こそ至高だと思い込み、他者の生命を操って兵器に変える。あんな機械仕掛けの雑魚魚に、ヴァルハラの歩みを止められるとでも?」
「怪物だけじゃありません」
ティン・ニーは画面の一角を拡大した。
「封印の中心部の周辺には、A+級を超える人型エネルギー反応が複数あります。おそらく、現代世界におけるオリンポスの半神、あるいは神々の化身でしょう」
ジェンソンはクリスタルのグラスを軽く揺らした。赤ワインが鈍く光を反射する。彼は口角をわずかに上げ、妖艶さと狂暴な殺気を帯びた笑みを浮かべた。
「生物製薬の企業ごときが、潜水艦艦隊と怪物を引き連れて海底まで物を盗みに来るとはな。なかなか入念に準備したようだ」
そう言ってグラスを置き、彼はゆっくりと立ち上がった。
創造主の存在感が機内いっぱいに満ち、空気が数度ほど冷え込んだように感じられる。バステトは素直に彼の腕を離し、他の美女たちとともに姿勢を正した。
「だが残念だな。ギリシャの連中のおもちゃが、俺の散歩道をふさいでしまった」
ジェンソンはヴァイブラニウム製の仮面を手に取り、ゆっくりと顔へ当てた。
カチリ。
磁気ロックが噛み合う。ジェンソンの上半分の顔は無感情な黒鋼に覆われ、そこからのぞくのは、原初の混沌を宿した炎のような瞳だけだった。いつもの気怠く傲岸な空気は一掃され、代わりに、万物の支配者としての絶対的な圧が前面に押し出される。
「Cyra、接近予想時間は?」
仮面越しに、くぐもった低い声が響く。
「あと十秒でエーゲ海空域に入ります、社長。機体は海面上五千メートルまで降下中です」
ジェンソンは降下口へと歩み寄った。ヴィエン・アン、ナ・チャット、ティン・ニー、フレイヤ、バステトもまた、武器を手に取り、彼の背後に整列する。五人の絶世の美女は、それぞれが人類と神話の極点とも言うべき力を帯び、いかなる神域すら切り裂ける一本の鋭剣のように並び立っていた。
「全員、よく聞け。怪物の改造生物や、あのくだらない研究施設など気にするな。任務はただひとつ、海底へ真っすぐ突入し、防衛線をすべて粉砕し、“雷の心臓”をここへ持ち帰ることだ」
「了解です、社長!」
五人の美女がそろって答え、殺気が天井を突き抜けるほどに立ち上った。
「降下口を開け」
ジェンソンが命じる。
ギィ……シュー……
機体下面の巨大な油圧ハッチが大きく開いた。エーゲ海の塩辛い風が、鋭い唸りを上げて機内へ吹き込んでくる。地中海の朝日は、女神たちの戦闘装甲を眩しく照らし出した。その足元、五千メートル下には、オリンポス神系の巨大軍事艦隊を秘めた深い青の海が広がっている。
ジェンソンは出口の縁に立ち、スーツの裾を狂風になびかせながら、海底の深淵をまっすぐ見下ろした。赤い瞳が、期待に満ちて細くなる。
「さて……オリンポスの神々は、泳げるのかな」
そう言い終えると、ジェンソンはそのまま地中海の空へと自由落下した。パラシュートも、減速装置も必要ない。まさしく破壊神そのものの姿で、彼は身を投げたのだ。
「社長、待ってください!」
ヴィエン・アンが叫び、すぐさま後を追った。ナ・チャット、ティン・ニー、フレイヤ、バステトも次々に、光の尾を引いて海へと飛び込んでいく。
新たな戦いが、いま正式に点火した。
ギリシャ神話の静かな海は、“創造主”という名の悪夢を迎え撃つことになる。ニューヨークでの前哨戦はここに幕を閉じ、Arc 3――ギリシャ神話の脅威とオリンポス転覆戦争――の血と炎に満ちた扉が、今まさに開かれようとしていた。




