Episode 16
ニューヨーク、夜十一時。
エイジス・プライム・タワーの頂上にそびえる、三層のペントハウス。その床から天井まで届く全面ガラス越しに、眠らぬ街が誇る極上の繁栄が一望できた。シベリアのツンドラに満ちていた冷たく荒涼とした空気、血生臭さと死の気配とはまったく対照的に、この空間は、柔らかく温かな淡い黄金色のクリスタルライト、クラシックなレコードプレーヤーから流れるジャズの甘美な旋律、そして世界で最も高価な赤ワインの芳醇な香りに満ちていた。
ゲンソンは、職人の手で仕立てられた羊革張りのソファに身を預けていた。煩わしいヴィブラニウム製の仮面とスーツのジャケットはすでに外し、胸元を大きく開けた黒いシルクシャツ一枚だけを身につけている。鎖骨の輪郭は妖艶に浮かび上がり、引き締まった胸元がかすかに見えていた。彼は目を半ば閉じ、束の間の安らぎを味わっている。
ソファのすぐ傍らでは、チャン・ユェンインがボルドー色のタイトなシルク製キャミドレスに身を包み、白熊の毛皮のように真っ白な敷物の上で、片膝をついて従順にひざまずいていた。ほっそりとした手でクリスタルのグラスを慎重に持ち、極上の1982年産ボルドーを、主席の唇へそっと運ぶ。
「主席……どうぞ、一口お飲みください」
ユェンインは甘えるように囁き、大きな瞳をきらきらと輝かせながら、心酔したように彼を見つめた。
「勝利のお祝いに、あなたのお好きなワインを私が自分で選んだんです」
ゲンソンはひと口だけ静かに口をつけた。舌先に、わずかな渋みが残る。彼は気怠げに手を伸ばし、子猫を撫でるようにユェンインの柔らかな髪を軽く撫でた。
「悪くない。秘書としての仕事も、だんだん板についてきたじゃないか、紫霞仙子」
たったそれだけの軽い頭撫でと短い褒め言葉でさえ、ユェンインの頬を真っ赤に染めるには十分だった。彼女は満ち足りた様子で彼の大きな手のひらに頬をすり寄せ、うっとりと目を閉じる。
「あなたに仕えるためなら、何をさせられても構いません」
少し離れた大理石の一枚板でできたバーでは、ナーザーとジンニーがウイスキーのロックを傾けていた。二人とも、ぼろぼろになった戦闘服を脱ぎ捨て、華やかなイブニングドレスへと着替えている。ナーザーは個性的な銀色のスリットドレス、ジンニーは神秘的な漆黒の背中開きドレスを選んでいた。
「はぁ、見てよ、あのユェンインの骨抜きぶり」
ナーザーはグラスを揺らし、氷がカランと鳴る。
「もう自分が古代の精霊だってこと、忘れかけてるみたいじゃない」
ジンニーは薄く笑い、細めた目をソファの方へ向けた。
「その台詞、あなたが言えます? ナーザー。帰ってくる飛行機の中で、こっそり上司のことを盗み見ては、ひとりでにやにやしてたの、誰でしたっけ」
「ちょ、ちょっと! 黙りなさいよ!」
ナーザーは真っ赤になって言い返し、口を塞ごうと手を伸ばしかけた、そのとき――更衣室の並ぶ廊下の方から、ためらうような足音が聞こえた。
部屋全体が、ぴたりと静まり返る。視線が一斉に廊下へ向いた。
フレイヤ――たった今、帰順したばかりの戦の女神ヴァルキリーが、恥ずかしそうに姿を現した。千年ものあいだ永久凍土の氷に封じられていた彼女にとって、現代文明に触れるのはこれが初めてだ。ユェンインの熱心な助言を受け、フレイヤは、数千個ものスワロフスキー・クリスタルが散りばめられた金色のマーメイドドレスを纏っていた。胸元は深く開き、裾には大胆なスリットが入り、その神々しいまでに完璧な身体のラインと、白く汚れ一つない長い脚を際立たせている。淡い金髪はゆるく高くまとめられ、数本の毛束が頬にかかっていた。
だが、かつて天を砕くほどの槍を振るった戦女神は今、十二センチのハイヒールの上でまるで歩き始めたばかりの子どものように、頬を赤らめながらぎこちなく歩いていた。
「こ、こんな足元の武器……私のライトブレードよりも、よほど扱いが難しい……」
フレイヤは唇を噛みしめ、あたふたと小刻みに足を運びながら、開きすぎたドレスの裾を少しでも体に寄せ、露出を隠そうとしていた。黄金色の瞳をおずおずと持ち上げ、ソファに座る男の方を見つめる。
「ゲ、ゲンソン様……わ、私……どう見えますか? やっぱり……変でしょうか?」
ゲンソンはゆっくりと目を開けた。鋭い視線が、フレイヤのかかとから赤く染まった顔へと流れていく。彼はグラスを置き、口元に妖しく笑みを刻んだ。
「悪くない。ヴァルキリーの鎧は見飽きていたし、たまにはこういう気分転換も目を楽しませる」
そう言って、人差し指をくい、と招く。
「こっちへ来い、フレイヤ」
創造主たる彼のその一動作だけで、フレイヤの心臓は胸から飛び出しそうになる。彼女はどうにか早足になろうとしたが、鋭いヒールに足を取られ、身体のバランスを崩して前へと倒れ込んだ。
――シュッ。
ゲンソンは立ち上がらなかった。ただ手を伸ばしただけだ。見えない、しかし柔らかな力がフレイヤの腰をしっかりと支え、その身体をふわりと宙へと持ち上げ、彼のたくましい胸元へと静かに着地させる。
フレイヤは驚いて目を見開いた。視界いっぱいに映ったのは、主席の彫刻のように整った妖艶な顔と、雪松のような男らしい香りに、酔わせるようなワインの香りが溶け合った気配だった。
「神のくせに、そんなに不器用なのか?」
ゲンソンはくすりと笑い、片腕で彼女の腰を抱き寄せ、もう一方の手で熱を帯びた頬をそっと撫でた。
「わあ、主席って不公平です! 私も抱いてほしい!」
ユェンインが頬を膨らませ、ゲンソンの腕にぎゅっと抱きついて擦り寄る。
ナーザーとジンニーはバーの方で、同時に吹き出した。
「ねえフレイヤ」
ナーザーが悪戯っぽくウインクする。
「戦場での殺気はどこへ行ったの? 今のあなた、まるでお嫁に来たばかりの可愛い新妻みたいよ」
「わ、私は……そんなこと……!」
フレイヤは慌てて否定しようとしたが、身体は正直だった。彼女はさらにゲンソンの胸に身を寄せ、その温もりから少しも離れたくないとでも言うように、すっかり密着してしまう。
ゲンソンは彼女の肩を軽く叩き、柔らかいが威厳を含んだ声で言った。
「よし、冗談はここまでだ。フレイヤ、私と一緒に量子治療室へ来い。君の神髄は、長すぎる封印のせいで傷んでいる。今すぐ修復しなければ、次の戦いには到底耐えられない」
そう言うと、ゲンソンは立ち上がり、ガラス壁の奥に隠された一室へ、フレイヤの手を取って歩いていった。
エイジス・プライムの量子治療室は、無重力の幻のような空間として設計されており、淡い青白い光の帯が宙に漂っている。ゲンソンは、部屋の中央に置かれた合金製のベッドへフレイヤを横たえるよう促した。
「少し脱げ」
平然としたゲンソンの声が響く。
「えっ?」
フレイヤは目を見開き、心臓を激しく打たれたように跳ねさせた。彼女は唇を噛み、震える手で背中のファスナーへと伸ばす。金色のドレスがするりと滑り落ち、幻想的な青い光の下に、むき出しの肩と白磁のような肌があらわになる。彼女はあまりの恥ずかしさに、ぎゅっと目を閉じてベッドに横たわった。
ゲンソンはそれ以上、余計な言葉を発しなかった。彼は大きく荒々しい手のひらを、フレイヤの鎖骨と胸元に重ねる。黒の中に鮮烈な紫がきらめく混沌のエネルギーが、彼の手のひらから彼女の肌へと浸透し、そのまま経脈へ流れ込んでいった。
「んっ……」
フレイヤはこらえきれず、艶のある声を漏らした。痛みはない。むしろ、ゲンソンのエネルギーは狂暴でありながら信じがたいほど温かく、彼女の細胞の隅々へと染み込み、古代の神髄に刻まれた亀裂を癒やしていく。あまりに親密な肌と肌の接触に、戦女神の身体は小刻みに震え、力が回復していく高揚と本能的な欲望が混ざり合って、汗に濡れていく。
「力を抜け。私のエネルギーに逆らえば、経脈が断ち切れて死ぬだけだ」
ゲンソンは彼女の耳元で囁いた。熱い吐息が敏感な耳朶を打ち、フレイヤは思わず身体をくの字に反らせる。
「わ、私は……逆らってなど……」
涙に濡れた瞳を開き、フレイヤはゲンソンを見上げた。その眼差しは、深い敬愛と狂おしいほどの愛情で満ちている。彼女は手を伸ばし、彼の横顔にそっと触れた。
「主よ……この恩寵、この力……あなたは私に第二の命を与えてくださった。これより先、ヴァルキリーの命はあなたのもの。私の栄光は、すべてあなたに捧げるためにあるのです」
ゲンソンは口元をわずかに吊り上げ、身をかがめて彼女の額に軽い口づけを落とした。
「私は栄光など求めない。私が欲しいのは、ただ絶対的な服従だけだ」
まるでこのまま、何かもっと深く甘いものへと燃え上がりそうだった、その刹那――
甲高い警報音が、ペントハウス全体の空気を切り裂いた。
ピッ……ピッ……ピッ……緊急警報発生!
建物全体の照明が、突然真紅へと切り替わる。巨大な三次元ホログラムの壁がリビングの中央に出現し、広大な砂漠地帯の地形図を映し出した。ユェンイン、ナーザー、ジンニーは即座にグラスを置き、表情を一変させて、精鋭戦士の顔へと戻る。
ガラス扉が開き、ゲンソンが治療室から出てきた。片手には、着けかけのシャツを持っている。後ろには、再びドレスを整えたフレイヤが続き、その眼差しも鋭く引き締まっていた。
「何だ、シラ?」
ゲンソンはシャツのボタンを留めながら、気だるげに尋ねた。
無機質でありながら切迫感に満ちたAI、シラの声が響く。
「報告します、主席。エイジスの衛星研究基地04号は、エジプト・ギザのピラミッド群地域に位置していましたが、23時45分をもって完全に通信を喪失しました。低軌道衛星は、古代の呪詛SSS級の痕跡を帯びたエネルギー爆発を検知。研究基地は0.1秒のうちに完全消滅しました」
ホログラム画面では、黄金色の砂漠地帯が、たちまち真っ黒な氷に覆われていく。
「ギザ中心部の気温は、摂氏マイナス30度まで急低下しています。エジプト冥界教団が台頭しています」
シラは続けた。
「同時に、霊的レーダーが神話の断片その二をスキャンしました。非常に強い共鳴信号を発しています。この信号は、転生した猫の女神バステトと、知恵の女神イシスの遺伝子コードと一致します。しかし、信号は弱まりつつあります。目標は追跡を受けている可能性があります」
ナーザーは双剣を召喚し、瞳に戦意を燃え上がらせた。
「また冥界のネズミどもか! 動きが早すぎる!」
「待って、シラ。爆発地点の映像を拡大して」
ジンニーが眉をひそめ、画面の一角を指差した。
三次元映像は、クフ王のピラミッドの麓へとズームする。死の砂嵐が吹き荒れる黒い砂の中から、巨大な存在がゆっくりと姿を現していた。
それは、半人半サソリの怪人だった。上半身は、錆びつきながらも純金のミイラ装甲を身につけ、くぼんだ眼窩からは邪悪な緑の光が放たれている。下半身は巨大なサソリそのもので、金属すら溶かす毒針を備えた尾を持っていた。その周囲では、黒い砂の下から何万体ものミイラが墓を破って蘇り、地獄のような唸り声を上げている。
それこそが、第二章アークの第一の悪役――冥界サソリ将軍だった。
「エイジスの資産を破壊し、しかもゲンソン様の獲物にまで手を出すなんて。あのサソリ、もう死にたいのね!」
ユェンインは激怒して拳を握り締め、紫霞仙子としての気迫を一気に燃え上がらせた。
ゲンソンは何も言わない。静かにヴィブラニウムの仮面を手に取り、ゆっくりと顔へと押し当てる。金属のクリック音が鳴り、仮面の奥にある双眸から真紅の光が夜の闇に閃いた。先ほどまでの温和さや気だるさは完全に消え去り、そこに残っていたのは、死を支配する王としての、残虐で傲慢な気配だけだった。
「砂で遊ぶのが好きなサソリか。冥界の奴らの趣味も、ずいぶんと落ちぶれたものだ」
低くしゃがれた、魔力を帯びたゲンソンの声が響き、部屋にいる美女たちは皆、その圧倒的な威圧感に息を呑んだ。
ゲンソンは、自分のハーレムを見渡す。暗殺者ナーザー、狙撃手ジンニー、恋に溺れるユェンイン、そして、今まさに最強の力を目覚めさせたヴァルキリー、フレイヤ。
彼は軽く手を振った。
「荷造りをしろ、みんな」
ゲンソンは口の端を吊り上げる。
「今夜は砂漠へ行って、日光浴とミイラのポールダンス鑑賞だ」
夜風が、乾ききった熱気と、千年もの時を経た死骸特有の腐臭を孕んで唸りを上げていた。エイジス社のステルス機は漆黒の雲を切り裂き、ギザのピラミッド群の真上に静止している。古代エジプトのきらめく星空はもう存在せず、代わりに猛毒を思わせる緑色の巨大な砂嵐が渦を巻き、月さえも覆い隠していた。
血を滲ませる黒砂の下で、大地が裂ける。朽ち果てた包帯を巻いた無数の手が、死の淵から一斉に伸び上がった。血走った目をした冥界のミイラ軍団が、悪魔じみた言語をうめき声のように吐き散らしながら、進路上のすべてを踏み荒らす、闇の津波と化していた。
機体のハッチが勢いよく開く。パラシュートなど不要。エイジス・タスクフォースの四人の絶世の美女が、神の降臨さながらに宙へ飛び込んだ。
「冥界のネズミどもめ! 私のロマンチックな空気を汚しやがって!」
フレイヤが吠えた。淡い金髪が夜空の中で眩しく輝く。ゲンソンによって覚醒・増幅されたヴァルキリーの神力は、今や超新星の爆発のように噴き上がっていた。彼女は黄金の槍を真正面から地上へ突き付ける。ヴァルハラの威力を宿した巨大な光柱が落下し、半径三百メートル以内のミイラ数千体を、一瞬で塵へと変えた。
「手柄を独り占めするな、ニュービー!」
ナーザーが冷たく笑い、双刀を操って銀の刃の竜巻を二つ生み出す。死神の踊り子のように死者の群れへ飛び込み、斬撃のたびに雷を伴って、腐った包帯に包まれた何百もの首を一気に刈り取っていく。
高所の岩場では、ジンニーが強化改造済みの量子狙撃銃を肩に担ぎ、落ち着き払っていた。細長い瞳を細め、連続で引き金を絞る。
ドン、ドン、ドン!
濃紺のレーザーが夜を貫く。弾丸の一発一発には自動追尾の能力が備わっており、砂の下に潜む指揮官格のミイラたちの頭蓋の中心へ、正確無比に突き刺さっていった。
三人の女戦士が血路を切り開く一方で、鋭い眼を持つチャン・ユェンインは真の標的を捉えていた。
「向こうよ! クフ王のピラミッドの足元!」
無線越しにユェンインが叫ぶ。
何千匹もの猛毒サソリに取り囲まれたその中央で、ひとりの非常に妖艶な少女がよろめきながら後退していた。彼女は、薄手の透ける金色の古代エジプト風ベリーダンス衣装に身を包み、エメラルドの宝石をちりばめられ、蜂の腰のように細い腰と、燃えるような曲線美を際立たせている。
だが、彼女の美しい小麦色の肌には、黒々とした血管が浮かび上がっていた。息は荒く、頭上の猫耳はしょんぼりと垂れ、背後の猫の尾も力を失っている。エイジスが追っていた神話の欠片、その二――転生した猫の女神バステトである。
「どけ……汚らわしい……私に触れるな!」
バステトは鋭い爪を振るって数十匹の毒サソリを引き裂いたが、毒はすでに深く骨髄まで回っていた。ついに砂の上へ膝をつき、絶望に満ちた眼差しを浮かべる。
巨大なサソリが、青黒い毒針の尾を振り上げ、彼女の胸を貫こうと突進した。
「死ね、この化け物!」
キンッ!
淡い桃色の霧が突如として弾ける。ユェンインが目の前に降り立ち、仙気を凝縮したエネルギーシールドで、サソリの刺突を真正面から受け止めた。
その瞬間、フレイヤが黄金の閃光のように駆け抜ける。黄金の槍が巨大サソリの硬殻を貫き、十数メートル先へと叩き飛ばした。
「大丈夫?」
ユェンインはバステトを支え起こし、少しだけ仙気を送って、彼女の体内で広がる毒を抑え込んだ。
バステトは、初めて見る見知らぬ女たちを、濡れた琥珀色の瞳で見上げた。
「あなたたち……誰? どうして私を助けるの……?」
「私たちはエイジス・プライムの者よ」
ユェンインがウインクしながら、バステトを立たせる。
「それに、うちの怠け者の上司が、あなたを連れて帰って“欠片”……じゃなかった、社員にしたいってさ」
「あなたたちの上司?」
バステトが戸惑いきったその瞬間、砂漠全体を揺るがすほどの大地震が起きた。
ドン!!
黒砂が爆ぜる。地下から、五階建てのビルほどもある巨大生物がせり上がり、その威圧感は空気そのものを凍らせるかのようだった。上半身は、錆びついた純金のミイラ鎧を身にまとった筋骨隆々の人型。くぼんだ目窩からは、邪悪な緑の光が滲み出ている。下半身は、六本の棘だらけの脚を持つ巨大な砂漠のサソリの姿だった。
冥界サソリ将軍――第2章アークにおける悪役第一号。
「下等な人間どもめ! 冥界の領域に口を挟むとは!」
サソリ将軍が咆哮する。金属を擦り合わせるような甲高い声だった。
「この砂漠の肥料にしてやる!」
巨大な尾が振り下ろされる。無数の鋭い毒針が、矢の雨となってフレイヤ、ユェンイン、バステトに襲いかかった。同時に、金属さえ腐食させる破壊力を持つ、毒々しい緑の酸の竜巻まで吐き出す。
「まずい! 威圧が強すぎる、量子シールドじゃ防ぎきれない!」
離れた場所からジンニーが叫び、狙撃を試みる。しかし、量子弾は相手の黄金鎧にはね返された。
バステトは絶望して目を固く閉じた。
「もうだめ……ここで溶けて死ぬの……」
だが、バステトのまつげに毒針が届くまで、あと数センチ――その寸前で、軽やかな足音が響き、続いて、気怠げな長いあくびが聞こえた。
時間が、ゆっくり引き延ばされたかのようだった。空間がねじれる。色も匂いもない、だが宇宙のブラックホールそのものの圧力を孕んだ見えない衝撃波が、背後から爆発する。
無数の毒針が空中でぴたりと停止し、次の瞬間には千分の一秒で砂塵と化して砕け散った。巨大な酸の竜巻は、突然左右に割れ、王の前に膝をつく家臣のようにおとなしく退いていく。
苛烈な砂嵐の中から、ゲンソンが悠然と姿を現した。
真っ黒なスーツに、完璧に仕立てられたスラックス。ヴィブラニウムの仮面が顔の半分を覆い、夜の闇の中で赤く輝く瞳だけが露わになっている。両手をポケットに突っ込み、灼熱の砂の上を、まるでファッションショーのランウェイを歩くかのように進んでいく。
「うるさいな。こんな真夜中に、くだらない雑音を垂れ流して」
ゲンソンは冷淡に言い放つ。その低く掠れた妖しい声は、広大な砂漠全体にまで響き渡った。
バステトは目を見開いて呆然とした。この男から立ち上る熱を孕んだ息遣いと、魔性の威圧感に、恐怖で高鳴っていた心臓は、いつの間にか激しいときめきへと変わっていた。
「あの方は……」
バステトがかすかに呟く。
「私たちの主席よ。至高なる創造主さま」
フレイヤが誇らしげに顎を上げ、瞳いっぱいに熱烈な憧れを浮かべた。
サソリ将軍は激昂した。天地を揺るがすような咆哮を上げ、六本の巨大な脚で砂を掻き分けるようにして、驚異的な速度でゲンソンへ突進する。巨大な毒針の尾が振り上がり、数万トンの力を込めた一撃を、彼の頭上へと叩き落とした。
「死ね、この化け物め!」
ドン!!
その刺突は地面を突き破り、直径百メートルの大穴を作った。砂塵が四方八方に舞い上がり、空さえ覆い隠す。
「当たった! ははは!」
サソリ将軍が獰猛に笑う。
「何が当たったって?」
嘲笑を含んだ声が、怪物の頭上から響いた。
サソリ将軍はぎょっとして見上げる。そこには、まさに自分の毒針の先端の上に、ゲンソンが完璧なバランスで立っていた。両手は相変わらず深くポケットに入ったまま。彼はその場で、磨き上げられた革靴のつま先で、怪物の硬い外殻を軽く小突いている。
「攻撃の速度が遅い。角度も五度ずれてる。腕の力も弱すぎる。六本も脚があって、飾りか?」
ゲンソンは口を尖らせて酷評し、うんざりしたように首を振った。
「冥界には、ちゃんとした体力訓練の講座もないのか?」
「貴様……!」
サソリ将軍は狂ったようにもがいた。尾を何度も振り回し、刺し、斬り、あらゆる角度から毒を吐き散らす。しかし、その後に続く光景は、まさに極上の“無駄な回避”という名の屈辱劇だった。
ゲンソンは、千トン級の刺突を紙一重でかわす。彼の動きと針の間隔は、まるで髪の毛一本ぶんしかない。鋭いはさみの上を軽やかに渡り歩き、サソリの背甲の上で跳ね、毒霧は気怠げに身を反らせるだけで避けてみせる。どの動きにも一ミリの無駄もなく、優雅でありながら、徹底した侮蔑が滲んでいた。
彼は、大陸を滅ぼしかねない怪物を、鈍くさい子犬でもからかうかのように弄んでいた。
「イライラしてきた!」
サソリ将軍が唸ると、身体が邪悪な緑の光を爆発させた。ゲンソンを道連れにするため、自爆を選んだのだ。
「十分、引き延ばした。ポールダンスを見る観客も、もう飽きてる」
ゲンソンは足を止め、怪物の背の上で静止する。そしてゆっくりと右手をポケットから抜いた。ヴィブラニウムの仮面の奥で、凶悪な赤い光が瞬く。
力む必要も、詠唱もいらない。ゲンソンはただ胸の高さまで手を上げ、まっすぐ伸ばした小指一本だけを、サソリ将軍の黄金の鎧に向けた。
「砕け散れ」
ゲンソンは小さく告げる。
彼は空中で、小指を軽く弾いた。
パチン。
ごく小さな音だった。だが、その結果は物理法則のすべてを超えていた。ゲンソンの小指の先から、紫を帯びた漆黒の破壊光線が疾走する。針ほどの細さしかないその一筋は、冥界世界で最強クラスの超装甲である黄金の外殻を、濡れた紙を突き破るように貫いた。
サソリ将軍が硬直する。くぼんだ眼窩が見開かれた。
貫かれた箇所を起点に、紫黒いひび割れが蜘蛛の巣のように、巨大な身体全体へと一気に広がっていく。
「まさか……ありえん……この力は……」
サソリ将軍が言い終える前に、その巨体は突然、億単位の細かな破片へと砕け散り、無害な黒砂の雨となって地上へと降り注いだ。爆発はない。血もない。ただ、時間と空間の流れから、完全に抹消されただけだった。
周囲の砂嵐は即座に静まる。ギザの砂漠は、再び不気味な静寂を取り戻した。
ゲンソンは悠々と着地し、肩に残った砂粒を軽く払い落とす。その様子は、まるでお茶を飲みに行ってきた帰りのように気楽だった。
エジプトの誇り高き猫の女神バステトは、その瞬間、完全に屈服していた。ゲンソンから放たれる混沌の気配のおかげで、体内の毒はすでに跡形もなく蒸発している。彼女はよろよろと歩み寄り、ゲンソンの足元にひざまずいた。猫の尾はおとなしく彼のふくらはぎに巻き付く。
「ありがとうございます……救世主さま。バステトは、この魂を永遠に捧げ、あなたに仕えることを誓います……」
濡れた瞳で見上げるその姿には、あからさまな艶めきと、深く甘やかな恋慕が隠されていなかった。
ユェンインが、ふくれっ面で駆け寄り、バステトの肩を軽く小突く。
「順番待ちしてね、妹ちゃん。主席のハーレム、今けっこう混んでるから」
ゲンソンは小さく笑い、新たに手に入れた女神の顎を持ち上げようとした。だがその時、クフ王のピラミッドの足元の地面が、突然激しく震動した。
ドン!! ドン!! ドン!!
何千トンもの重さを持つ、ピラミッド封印の石扉が、内側から爆ぜ飛ぶ。濃く粘つく黒い瘴気が溢れ出し、数百万もの冤罪の魂が嘆く声を伴って広がっていく。先ほどまで温かかった砂漠の温度が、一気に氷点下まで落ちた。
古代墳墓の真っ暗な闇の中から、長身の人影がすうっと現れる。彼はぼろぼろの黒いマントを纏い、毛深いジャッカルの頭を持ち、その目には冥界の炎が燃え盛っていた。手には、魂を奪い去る黄金の杖――耳をつんざく悲鳴を孕んだその杖を携えている。
黒い瀝青のように濃密な冷気が、古い墓所の奥から噴き出し、ギザの空にかすかに残った最後の光を飲み込んでいく。無念のうちに散った何百万もの魂の慟哭が広大な砂漠にこだまし、まるで鋭い爪でガラスを引っかくように耳朶を引き裂いた。つい先ほどまで灼熱だった砂漠の気温は、一気に急降下して氷点下へと落ち込み、黒い砂を死の荒涼たる吹雪へと変えていく。
クフ王のピラミッドの、真っ黒な洞窟めいた口から、冥界の大司祭アヌビスが砂に足跡一つ残さず滑るように現れた。ぼろぼろの黒い外套が吹雪の中でひらめき、毛深くおぞましいジャッカルの頭部を露わにする。眼窩の奥では冥界の青緑の炎が燃え盛り、Aegisの一行をじっと見据えていた。彼の手にある、宝石をあしらった黄金の杖は、囚われた魂たちの甲高い悲鳴を絶え間なく響かせている。
「異端者どもが……冥界の神聖なる供儀の地を汚すとは……」
アヌビスの声は、地の底から響いてくるように低く、しゃがれていた。
「貴様らはサソリ将軍を討ち取った。その罪は、千年の油釜の地獄に魂ごと堕とすことでしか、洗い流せぬ!」
ゲンソンはわずかに首を傾げ、大きなあくびを一つ、わざとらしいほどゆっくりと手で隠した。なおも自分の足元でひざまずいたままのバステトの肩を軽く叩き、気だるげに言い放つ。
「またおしゃべりなのが一人増えたな。お前たち冥界の連中は、現れるたびに長い演説をしないと気が済まないのか? さっさと本題に入ればいいだろ」
アヌビスは激昂し、魂の杖を地面へ強く突き立てた。
「傲慢! 愚劣! 我が冥界死神領域で、絶望を味わうがいい! マアトの天秤――魂の審判!」
音波が爆ぜる。Aegis一行の周囲の空間はたちまち歪み、空は血のように暗い赤へと変わった。黒い雪の下から、怨念をまとった幾万もの魔導鎖が突き上がり、ナチャー、ティンニー、フレイヤ、そしてユェンインめがけて一直線に襲いかかる。
「みんな、気をつけて! 魔力を奪う呪いよ!」
ユェンインが大声を張り上げ、印を結んで、桃色の仙気を放ち、障壁を張ろうとする。
だが、アヌビスの死神領域はあまりにも邪悪だった。その呪いは肉体を狙うのではなく、心の傷や魂の亀裂そのものを直接えぐり取ってくる。
最初に崩れ落ちたのはフレイヤだった。ユェンインの障壁を怨念の鎖が突き破り、ヴァルキリーの手足をきつく縛り上げる。魔術のもたらす死のような冷たさが、永遠の氷の下に封じられていた千年もの孤独を一気によみがえらせたのだ。
「だめ……寒い……閉じ込めないで……主さま……」
フレイヤは頭を抱えてうめき、黄金の槍を取り落とす。今しがた覚醒したばかりの眩い神力はたちまち吸い尽くされ、風前の灯のように弱々しく瞬いた。
その直後、ナチャーとティンニーも同時に膝をついた。
「くそっ……体が……動かない……」
ナチャーが歯噛みし、双刀を取り落とす。黒い鎖は彼女の生気を狂ったように吸い上げ、白い肌を目に見えて青ざめさせていく。隣のティンニーも息を切らし、視界が滲み、量子狙撃銃がひどく重く感じられた。
ただ一人、ユェンインだけが、ゲンソンを守る最後の仙気を必死に保ち続けていた。美しい額には汗が珠のように浮かんでいる。
アヌビスは獣じみた笑い声を上げる。その笑いは背筋を凍らせた。
「はははは! もがけ! 泣き叫べ! マアトの天秤の裁きの前では、貴様らの罪も弱みもすべて暴かれる! 闇の餌になれ!」
「やめなさい、この犬頭の化け物!」
澄んでいるのに威厳に満ちた怒声が、闇を切り裂いた。
猫の女神バステトが、ゲンソンの足元からふらつきながら立ち上がる。サソリ毒を受けたばかりでなお身体は弱っていたが、琥珀色の瞳には、かつてないほど強い意志の炎が宿っていた。彼女は両腕を広げ、その細い身体で、アヌビスとAegisの美しき戦士たちのあいだに立ちはだかる。
「妹ちゃん、下がって……まだ回復してないでしょう……」
ナチャーがか細い声で言う。
「みんなが私を守ってくれた。救世主様が私の命を救ってくださった。今度は私が恩を返す番よ」
バステトは唇を噛みしめ、血がにじむほどだった。
その瞬間、彼女が意志を極限まで燃やし尽くした刹那、胸の奥から、黒に紫の輝きを帯びた一筋の光が突如として閃いた。先ほど、ゲンソンが毒を浄化した際に、無意識のうちに彼女へ移した混沌のエネルギーだ。その至高の力は、バステトの魂の奥底で眠っていた古代神髄に火を点ける、完璧な火種となった。
ウウゥゥン!
漆黒の吹雪を突き破り、太陽のぬくもりを帯びた眩い黄金の光柱が天を裂き、そのままバステトの身体へと降り注いだ。まばゆい光の中で、ぼろぼろだったベリーダンス衣装は、荘厳に輝く古代エジプトの神鎧へと置き換わる。猫の耳は誇り高くぴんと立ち、彼女の手には、権力と生命を象徴するアンクの杖が現れた。
妖艶な猫の女神としての気配は、今や転生した知識の女神イシスの絶対的権威と完全に融合していた。
「太陽の光の名において、すべての闇は浄化されねばならぬ! 砕け散れ!」
バステト――いや、今やイシスとなった彼女は、アンクの杖を地面へ強く打ち下ろした。太陽光の豪雨が叩きつけるように降り注ぎ、熱波となってアヌビスの呪縛の鎖をことごとく焼き払う。
フレイヤ、ナチャー、ティンニー、そしてユェンインは、すぐに魔力を取り戻し、ほっと息をついて安全圏まで退いた。
アヌビスは半歩後ずさりし、まぶしさを避けるように片手で目を覆った。その声には、恐怖と信じがたいという色が濃く滲んでいる。
「イシスだと? ありえぬ! 貴様の神髄は冥界に千年封じられていたはずだ。なぜその至高形態を目覚めさせることができた!? 誰だ……誰が貴様に封印を破る力を与えた!」
ヴィブラニウムの仮面の奥で、ゲンソンの口元がわずかに吊り上がる。冷たく妖艶な笑みだ。彼はゆっくりと、乾いた拍手を数回送った。
「よくやった、野良猫。どうやら君の潜在能力を見誤ってはいなかったようだ」
めったに見せない主席の柔らかな笑みを向けられ、バステトの頬は赤く染まる。彼女は振り返り、恭しく頭を下げた。
「すべて、あなたのご恩寵のおかげです、主さま」
「貴様……この下衆な人間め!」
アヌビスは、憎悪に燃える眼差しをゲンソンへ向けた。
「貴様が手を出したのか! 冥界の好機を台無しにしおって……貴様には、究極の苦痛を味わわせてやる! 上がってこい! 今すぐ時空の天秤に乗れ!」
アヌビスが大きく杖を振るう。ゲンソンの足元の大地が裂け、白骨と巨大な地獄の霧で構成された、巨大な天秤が空中に姿を現した。一方の皿には、真実の羽根――マアトの羽根が載っている。もう一方の皿は空で、罪深き魂が落ちるための場所となっていた。
時空の天秤から妖しく引き寄せる力が放たれ、ゲンソンの魂を肉体から強引に引き剥がそうとする霊的な渦が巻き起こる。
「主席! 気をつけて、それは古代魔術よ! 皿に引きずり込まれちゃだめ!」
ユェンインが驚いて駆け寄ろうとする。
だがゲンソンは、ただ片手を上げて彼女たちにその場に留まるよう合図した。引力に抵抗する素振りすら見せない。むしろ両手を悠然とズボンのポケットに差し込み、空気でできた階段を何事もないように上り、そのまま裁かれる側の皿の中央へと歩み入った。
彼は天秤の皿の上に立ち、黒いシルクシャツの裾をはためかせながら、赤く輝く双眸でアヌビスを、まるで不快な虫でも見るように見下ろした。
「私を裁くと?」
ゲンソンの声は淡々としていたが、そこには創造主としての極限の傲慢が宿っていた。
アヌビスは勝ち誇ったように嘲笑う。
「そうだ! この天秤に乗った存在は、罪が重ければ重いほど、皿は沈んでいく。そしてそれがアアルの深淵に触れた時、貴様の魂はアミットの獣どもに食いちぎられるのだ! 死ね!」
アヌビスが呪文を唱える。時空の天秤が動き始めた。
一秒……二秒……三秒。
しかし、場の空気は奇妙なほど静まり返っていた。ゲンソンの足元の皿は……まったく動かない。たとえ一ミリたりとも沈まなかった。対となる真実の羽根も、ただ静かにそこにあるだけだ。
「な……何だこれは? なぜ動かぬ? 冥界の機械が壊れたのか!?」
アヌビスは顔面蒼白となり、狂ったように杖を振り回して天秤の柱を叩き始めた。
「貴様の魂の重みが……なぜ測れぬ!? 一体何者だ!」
ゲンソンはあきれたように首を振り、そのため息が虚空の世界いっぱいに響いた。
「違うな、臭いジャッカル。動いていないんじゃない」
彼は天秤の皿の上に、革靴のつま先を軽く下ろした。
「むしろ……お前たちの貧弱な冥界ごときでは、私の重さを支える資格すらない、それだけだ」
その言葉が終わるや否や、ゲンソンは自らの内にあるエネルギーの抑制を解いた。解放されたのは、たった一万分の一にも満たない究極の混沌の力だった。
バキ……バキ……
恐るべきひび割れの音が響き渡る。古代魔術で作られた時空の天秤が激しく震え、やがて無数の亀裂が走った。アヌビスが苦心して作り上げた冥界空間そのものが、ゲンソンという存在の圧力に押し潰され、歪み、ねじれ、大きく崩壊していく。
創造主の存在重量は、時間、空間、善悪、業という概念を超越していた。神聖なる天秤は、この凄まじい圧力に耐えきれず、瞬時に百万片の光の破片となって爆散した。
ドンッ!!
「ぎゃあああっ!」
魔術は無残にも破られ、その反動は術者へ跳ね返る。アヌビスは黒ずんだ血を一口吐き、十数メートルも後方へ吹き飛ばされて砂の上に転がった。死神領域は完全に消滅し、ギザの夜空には再び星々の輝きが戻った。
「ありえぬ……冥界の法則すら打ち砕く力だと……貴様……貴様は混沌を纏っている……人間ではない……」
アヌビスは震えながら後退した。燃えるようだった瞳には、今や極度の恐怖しか残っていない。黒いスーツを纏った男が、ゆっくりと空中から降りてくるのを見上げるしかなかった。
「正解だ。だが、褒美はない」
ゲンソンはアヌビスからおよそ五歩の距離に立った。彼は気だるげに右腕を上げ、握りしめた手からただ一本、小指だけを真っ直ぐに伸ばして、大司祭の眉間に向ける。
「いつもの技だ。技名を考える時間がもったいない」
ゲンソンが虚空へ向けて、小指を軽く弾く。
ピシュッ。
漆黒の光条が、混沌の破壊力を宿して走った。その速度は光を超えていた。ダイヤモンドのように硬いアヌビスの頭蓋骨を、豆腐を貫くかのようにいとも容易く貫通する。大きな爆発音はなかった。アヌビスの額に開いた小さな穴はみるみる広がり、瞬きする間もなく、冥界でも屈指の力を持つ大司祭の肉体は、砂漠の風に舞う塵へと化した。
「弱すぎる」
ゲンソンはポケットに手を戻し、気だるげに小さく呟いた。
ナチャー、ティンニー、フレイヤが駆け寄る。バステトもまた神の姿を解き、従順にその後に続いた。彼女のゲンソンを見る眼差しは、もはや崇拝を超えて、狂信の色に染まっている。
「主席、かっこよすぎます! 小指一本で二大悪役を倒しちゃうなんて!」
ユェンインは歓声を上げ、ゲンソンの腕にぎゅっと抱きついて頬を擦り寄せた。
だが、女たちの笑みがまだ完全に咲ききらぬうちに、ギザ一帯が突如として激しく揺れ始めた。今度は魔術の余波ではない。本物の地震だった。
ゴゴゴゴゴッ!
大地の深奥、三大ピラミッドの地下から、神格級の圧力が爆発し、九天の上まで突き抜ける。血のように赤い光輪が、何百万トンもの砂と岩を空へ吹き飛ばした。その圧力はあまりにも凄まじく、夜空に赤く燃える空間の亀裂すら生じさせた。サソリやアヌビスとはまったく違う、エジプト魔術の頂点に君臨する真の神の力だった。
低く、血に飢え、絶対的な威厳を宿した声が空間全体に響き渡る。女たちの鼓膜からは血がにじんだ。
「誰だ……我が門前に現れ、我が過ちの記録を消し、冥界の欠片まで奪い去ろうとする者は……!」
砂漠の砂粒一つひとつが、恐怖のあまり宙に浮いたように見える。
バステトの顔色がさっと変わり、絶望に震える声でつぶやいた。
「まずい……あれは……目覚めたのね……冥界のラスボス……災厄神セト・ウィルダーネス……闇のファラオ!」
Aegisの美女たちが皆、冷や汗をにじませ、武器を握り締めて、かつてない本格的な戦いに備える中――ゲンソンだけは口の端を吊り上げた。その妖しく傲慢な笑みはさらに深まり、ヴィブラニウムの仮面の奥で赤い瞳が、めったにない高揚の光を放つ。
「やっと本物のボスが出てきたか」
ゲンソンはネクタイを緩め、首をゴキゴキと鳴らした。
「みんな、下がってろ。少しだけ、体をほぐさせてもらう」
ギザのピラミッド群を覆う夜空には、もはや一つの星の姿もなかった。空間そのものが、血のように深紅の断片へと砕け散っている。地下から立ち上る神格級の破壊的な圧力は、周囲の空気から酸素を根こそぎ奪い去ったかのように重く、息苦しかった。
――ドンッ!!!
人類の千年の奇跡たる巨大なクフ王のピラミッドは、爆音とともに砕け散り、無数の岩塊となって宙に浮かぶ。その爆心地から、ひときわ巨大な黒い影がゆっくりと姿を現した。
彼は空高くそびえ立ち、全身を血錆のにじむ漆黒の金属鎧に包まれ、滾るような黒い瘴気を放っている。顔は、くすんだ黄金のファラオ仮面の奥に隠され、その双眸からは狂気を宿した真紅の雷光が迸っていた。手にしているのは、轟々とうなりを上げる《混沌の権杖》。その波動は、空間そのものを歪めていた。
古代エジプトの闇を絶対支配する災厄の神、冥界セト――闇のファラオが、ついに降臨したのである。
「虫けらどもめ!」
セトの声は雷鳴のように轟き、鼓膜を激しく震わせた。
「千年ものあいだ封じられていたこの俺、セトが、ようやく死の空気を吸えるとはな! 貴様ら小僧ども、我が供儀を台無しにし、イシスまで奪いおって! 魂ごと砂塵に砕いてやる!」
ゲンソンはわずかに眉を上げ、舌打ちした。
「また俺の顔に向かって喚くのか。古代の神様って、“聴覚保護”って概念はないわけ?」
セトは怒りに満ちた咆哮を上げた。彼は《混沌の権杖》を天へと掲げる。たちまち、砂漠全体が激しく震え出した。黒砂は瞬時に血のような赤へと染まり、空を渦巻いて閉ざされた《死の領域》を形成する。
「絶技――《災厄の砂漠》!」
セトが吠えた。
血色の砂嵐の中から、冥界の邪悪な気配をまとった巨大な砂竜が幾千と現れ、エイジスの一行めがけて風を裂いて急襲する。その一体一体に、山脈すら平らにできるほどの力が宿っていた。
「後ろに下がってろ、この怠け者!」
ナーザーが叫ぶ。双刀の刃は銀の稲妻をまとって輝いていた。
「主席に命令するな、このバカ・ナーザー! みんな、防御陣形!」
ユェンインが素早く前へ出る。彼女は指を噛み、血で、桃色の仙気をまとった護符を描き出した。
威厳に満ちた女神イシスの姿となっていたバステトは、その意図を即座に理解した。彼女はアンクの杖を高く掲げ、太陽の光が彼女の神髄とユェンインの仙気に強く共鳴する。
「《太陽仙子結界》!」
二人は声を揃えて叫んだ。
黄金と桃色が交錯する巨大なエネルギー障壁が即座に噴き上がり、エイジスの隊列全体を覆い尽くす。何千もの赤い砂竜が結界へと叩きつけられ、耳をつんざく爆発を引き起こした。結界の表面はひび割れては、そのたびに瞬時に再生を繰り返す。
「守るだけじゃエイジスらしくないわ!」
ティンニーが冷ややかに言った。彼女は片膝を砂の上につき、量子狙撃銃をセトの左目へと正確に向ける。
「座標ロック完了。量子貫通弾――発射!」
ドォン!
濃紺のレーザーが夜を貫き、幾千もの砂竜の隙間を縫って、セトの黄金の仮面へ突き刺さった。神の鎧を貫くことはできなかったが、その強烈な衝撃によってセトはよろめいて一歩後退し、左肩の鎧に魔力の亀裂が走る。
「隙あり! ナーザー!」
フレイヤが叫ぶ。黄金のヴァルキリーの翼を大きく広げ、彗星のように夜空へ舞い上がった。
「了解!」
ナーザーが跳躍する。フレイヤの槍先を踏み台にしてさらに加速し、超音速で突進した。
「シルバー・ヴォルテックス――《裂断》!」
ナーザーの双刀が何百もの剣気を放ち、それらは網目のように絡み合ってセトの肩の裂け目へと斬り込んだ。外装鎧を繋ぐ魔力の結びつきが断ち切られる。
「これで終わりだ――ヴァルハラの裁き!」
上空からフレイヤが、雷の神力をすべて込めた黄金の槍を、砕けた鎧の部分へと叩き落とした。
――ドォン! ドォン! ドォン!!!
まばゆい爆発が空間の一角を飲み込み、セトの外部神装甲は砕け散って黒い金属片が飛び散った。
結界の内側で、バステトは絶句していた。無駄の一切ない、完璧な連携。自分の神話の世界では、神々はいつも互いを踏み台にしながら権力を奪い合う、独善的な存在だった。だがここでは、見知らぬ少女たちが仲間の背中を完全に信じて戦っている。古代の女神である彼女は、初めて、自分の独りよがりな誇りがひどく滑稽だと感じた。彼女はここに属したいと、強く願ったのだ。あの、腕を組んで静かに立つ男の側に。
「このクソどもが! よくも我が神装甲に傷をつけおってぇぇぇ!」
セトは激昂した。巨体が膨れ上がり、赤い砂嵐が収束して、百倍は厚く禍々しい新たな鎧を形作る。彼は《混沌の権杖》を掲げ、周囲一帯を破壊し尽くす一撃を放とうとした。
「みんな、下がれ。よくやった」
低く、気だるげでありながら、絶対的な威厳を帯びた声が響く。
ゲンソンが前へ出た。彼は高価な黒のスーツジャケットを、ゆっくりと脱ぐ。振り向いて、それをバステトへ渡した。
「持ってろ。俺の服を汚すな。高かったんだ」
バステトは、彼の体温と、妖しく男らしいミントの香りを残すジャケットを慌てて受け取った。彼女はそれを胸に大切そうに抱きしめ、素直にうなずく。
「はい……主さま……」
今は、身体のラインが際立つ黒いシルクシャツだけを身に着けたゲンソンが、結界の守備範囲の外へと、悠々と歩み出る。彼は防御壁など一切使わず、そのまま赤い砂嵐の渦中へと踏み込んだ。奇妙なことに、彼の身体が触れた瞬間、凄絶な砂嵐は左右へ退き、一粒の砂さえ彼の服に触れようとしない。
「愚かな人間が! お前ごときが、なぜこの災厄の神に素手で挑む!?」
セトは狂ったように《混沌の権杖》を振り下ろす。地球を両断しかねないほどの力を伴う一撃は、黒い空間の亀裂を引き連れ、現実そのものを裂こうとした。
「俺が、誰だって?」
ゲンソンは仮面の奥から、真っ赤な瞳をわずかに持ち上げた。口元には、侮蔑に満ちた笑みが浮かぶ。
神の規模を持つ一撃を前にしても、ゲンソンは一歩も退かず、避けもしない。彼は何気なく右手を差し出した。
バチン!
乾いた音が鳴る。砂漠全体が息を止めたかのようだった。
エイジスの美女たちは目を見開く。バステトは心臓を強く打たれたように息をのんだ。
ゲンソンは、たった片手でセトの巨大な《混沌の権杖》の先端を受け止めていたのだ。衝撃も爆発もない。神格級の権杖が持つ破壊力は、ゲンソンの掌に触れた瞬間、完全に相殺されていた。
「……ありえぬ……我が武器には、宇宙の混沌の力が宿っているのだぞ……」
セトは慌てふためきながら巨体をねじり、杖を引き抜こうとする。だがそれは、まるで油圧クランプに固定されたかのように、ゲンソンにがっちりと挟まれていた。
「お前の混沌なんざ、見掛け倒しだ」
ゲンソンは冷たく言い放つ。
彼は指先に、ほんのわずかな力を込めた。
バキ……ガシャン!
神格兵器――冥界の神髄から鍛えられたそれは、まるで粗悪なプラスチック玩具のように砕け散り、何万もの鉄屑となって砂の上へぱらぱらと落ちた。
「アアアア! いやだぁぁぁ!!」
本命武器を破壊されたセトは、悲鳴を上げた。彼は後ずさりし、身体が急激に収縮したかと思うと、次の瞬間には《砂漠のブラックホール》へと変貌し、周囲のあらゆるものを虚無へと吸い込んでいく。
「ならば俺も死ぬ! 貴様ら全員を、道連れにしてやる!」
凄まじい引力が光すら歪める。砂も岩も、そして空間そのものまでもが、ブラックホールの巨大な口へと吸い込まれていく。
ゲンソンは舌打ちした。彼はゆっくりと重心を落とし、右手を強く握りしめる。その瞬間、いつもの気怠さは完全に消え去り、真の創造主たる威圧だけがその場を支配した。彼の存在だけで、周囲の空間が崩れ落ちていく。
「一%……《究極の混沌》、起動」
ゲンソンが小さく呟く。
夜空に、黒い閃光が走った――あらゆる色彩を飲み込む、理不尽な光だ。
「本物のブラックホールがどういうものか、教えてやる」
ゲンソンは虚空へ、真っ直ぐ拳を放った。
炎もなければ、雷もない。派手な魔法演出も存在しない。ただ、純粋な力だけがあった。宇宙の最も原初的な力を宿した真空の拳が空間を突き破り、砂漠のブラックホールを真っ二つに引き裂く。
――BOOMMM!!!
静寂を伴いながらも、凄まじい破壊力を持つ真空爆発が砂漠を薙ぎ払った。赤い砂嵐は跡形もなく吹き飛ぶ。冥界の気配は完全に浄化された。拳はそのまま物理空間を突き抜け、セトの霊体の胸の中央に、巨大な穴を穿つ。
セトは、自らの胸に空いた穴を呆然と見下ろした。狂気に赤く染まっていた瞳が、瞬きを繰り返したあと、ゆっくりと消えていく。
「……創……造……」
それがセトの最後の言葉だった。次の瞬間には、巨大な身体は塵と化し、あらゆる時の流れから永遠に消滅した。第2章のラスボス、偉大なる災厄神は、たった一撃で抹消されたのである。
暗黒の夜は裂かれ、遠い地平線の向こうでは、新しい一日の最初の朝日が少しずつ差し込み、荒廃したギザの大地を黄金に染め始めていた。
ゲンソンはゆっくりと手を引き、ちょうど蚊を払うように手首を軽く振った。
「殴ると疲れるな。もうおしまいだ。帰るぞ」
彼は振り返り、何事もなかったように少女たちの方へ歩み出す。
バステトはもう我慢できなかった。彼女はジャケットを抱えたまま駆け寄り、両膝をついて深くひざまずき、その服を両手で差し出す。ゲンソンを見上げるその瞳には、もはや無条件の服従しかなかった。
「主さま……あなたこそ至高の存在。バステトは誓います。これより先、この魂も、この身体も、この神聖な権能も、すべてあなたのものです」
バステトの胸元から、小さなピラミッド型のクリスタルがゆっくりと浮かび上がった。やわらかな黄金の光を放つそれこそ、エジプト神話の欠片――Aegisが探していた第二のピースだった。
ゲンソンは手を伸ばして、そのクリスタルを受け取る。直ちに、彼の指輪に内蔵された空間システムが振動し、Aegisグループの新たなエネルギー到達点が起動されたことを知らせる。彼はその欠片を収めると、今度はバステトの手からジャケットを受け取り、ついでに彼女の柔らかな髪と猫耳を優しく撫でた。
「よくやった、いい子だ。Aegis Task Forceへようこそ」
彼の妖しく微笑む口元に、バステトの頬は真っ赤に染まる。彼女は小さな猫のように、ゲンソンの掌へ頬を寄せた。
後ろから、ユェンインがむくれ顔で駆け寄り、ゲンソンの腕に抱きつく。
「主席、ひいきです! 入ったばかりなのにもう頭を撫でられてる! ニューヨークに戻ったら、あたしにアイス買ってよね!」
ナーザーは双刀を収め、鼻で笑った。
「後ろにくっつく小娘が。で、そこの猫ちゃん、新入りなんだから私たちのことは先輩って呼びなさい。わかった?」
フレイヤは翼を収め、誇らしげに笑った。
「任務完了。ヴァルハラは常に、あなたを誇りに思っております、主さま」
果てしなく広がるギザの砂漠に、荘厳な朝焼けが差し込む中、エイジス社のステルス機がゆっくりと高度を下げていく。ハッチが開き、世界を滅ぼす力を宿した美女たちを従える、圧倒的な主席を迎え入れた。
量子エンジンが唸りを上げ、風を切って夜明けの空へと舞い上がる。向かう先は、繁華なニューヨーク。
第二の欠片はすでに手中に収まった。だが、恐るべき陰謀と、さらに古く深い闇の勢力は、まだ――




