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Episode 15

 真夜中、ニューヨークは叩きつけるような豪雨に沈んでいた。だが、摩天楼アエギス・プライムのペントハウス階では、量子換気システムのかすかな唸りすら聞き取れるほど、静寂が支配していた。最高戦略会議室は全面が強化ガラスと黒色合金で構成され、足元に散り落ちた星々のように、きらめく都市の灯りを映し返していた。


 チャン・ユエンインは、細く鋭いハイヒールを履いた足元に細心の注意を払いながら歩いた。秘書制服にぴたりと包まれた、果てしなく長い脚は、薄手の黒いシルクストッキングに覆われている。彼女は湯気の立つエスプレッソを両手で捧げ持っていた。苦いコーヒーの香りと、彼女の肌にまとわりつく甘い薔薇の香水が混ざり合い、抗いがたい魅力を放っている。彼女の潤んだ眼差しは、部屋の中央で革張りの肘掛け椅子にだらしなく腰掛けている男へと注がれていた。ゲンソン。彼は相変わらず冷えきったヴィブラニウムの仮面で顔の半分を隠し、長い脚を気怠げに組んでいる。呼吸は平静そのものなのに、その周囲には目に見えぬ圧力が漂い、空気そのものが凍りついたようだった。


「社長、コーヒーですわ」


 ユエンインは甘やかな声で言った。わざと少し身をかがめ、胸元の見事な曲線を覗かせる。熱を帯びた瞳は、彼の無関心そうに薄く結ばれた唇にぴたりと吸い寄せられていた。


 ゲンソンは動こうともしない。ただ無造作に手を伸ばし、コーヒーカップを受け取る。その細く冷たい指先がユエンインの手の甲をかすめ、彼女は小さく身震いした。背筋を電流が走り抜け、彼女の血管で眠っていた紫霞仙子の恋慕の本能が目を覚ます。


「なにをやってるのよ、このお嬢様ぶった子。出撃前のランジェリーショーでもしてるつもり?」


 嘲るようで傲慢な声が、部屋の隅から飛んできた。コ・リーナージャーは超高耐久ケブラー製の戦闘服を身につけ、机に片足を乗せたまま、戦術ナイフをくるくると回していた。切れ長で鋭い彼女の目がユエンインを頭の先から足元までねめつけ、口元には皮肉めいた半笑いが浮かぶ。


 ユエンインはすぐさま振り向いた。甘い笑みは消え、代わりに剃刀のように鋭い眼光が宿る。


「私は秘書としての仕事をしているだけです。それにあなた、スラム街から拾われてきた刺客風情のくせに、せいぜい黙って自分の錆びた武器でも拭いていなさい。社長の絨毯を汚さないで」


「何ですって!?」


 ナージャーは机にナイフを叩きつけた。刃は合金に深々と突き立ち、彼女は殺気をむき出しにして勢いよく立ち上がる。


「飛び立つ前に、そのプラスチック人形みたいなツラを引き裂いてやろうかしら!」


「そこまでだ」


 冷えきった平坦な声が、口論を遮った。チャン・チンイーが闇の中から姿を現す。全身黒一色の戦闘服に身を包み、太ももと腰には弾帯が整然と巻かれている。その姿は、無慈悲な死神の気配をまとっていた。細く長い瞳が二人の女性を一瞥し、二郎神を思わせる威厳が無言のうちに放たれると、ナージャーもユエンインも思わず言葉を失った。


「無駄口はやめなさい、ナージャー。私たちの敵は彼女じゃない」


 チンイーはゲンソンへと視線を移し、そこには指示を待つ気配があった。


「ボス、今回の目標は? ステルスヘリはもう屋上で起動中です」


 ゲンソンはコーヒーカップを机に置いた。そしてゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをする。先ほどまでの張り詰めた空気など、まるで気にも留めていない様子だった。室内の空気はたちまち吸い尽くされ、彼の身体からは氷雪よりも冷たい寒気が漂い出した。


「シベリアだ」


 彼はたった三語だけを吐き出した。低くしゃがれた声には、彼特有の気怠さがあったが、聞いた者の背筋を粟立たせるには十分だった。


「氷点下四十度のツンドラ地帯だ。そこが崩壊しかけている。冥府の連中が何匹か暴れ回って、まだ目覚めきっていない北欧の転生神を食い尽くそうとしている。君たちにはそこへ行って、その断片をここへ持ち帰ってもらう。あるいは……死体を片付けるだけでもいい」


「シベリア? 冗談でしょ? 寒すぎて内臓まで縮むわ!」


 ナージャーはぼやきながら、机からナイフを引き抜いて鞘に収めた。


「君たちは神だ」


 ゲンソンは口元をわずかに吊り上げ、ナージャーの脇を通り抜ける。彼から漂う雪松の香りが彼女の鼻先を打ち、胸の鼓動が一瞬だけずれた。


「寒さで死ぬなら、その魂に価値はない。さあ行くぞ。遊びは始まった」


 二十分後。アエギス・プライム所有の超音速ステルス機、そのVIP区画。


 強化ガラスの外では、マッハ3の速度に引き裂かれた黒雲が渦を巻いていた。機内の豪奢な空間では暖房が静かに稼働していたが、三人の女たちのあいだに漂う空気は、ひどく息苦しかった。


 ゲンソンは後方の広いソファに長々と横たわり、仮面をつけたまま目を閉じている。胸の内で咆哮する混沌のエネルギーを完璧に抑え込み、この無限の身体がうっかり機体の空間そのものを引き裂かぬよう、全神経を集中させていた。


 ユエンインが高価な羊毛の毛布を抱え、おずおずと近づいてきた。彼女はそっとそれをゲンソンの身体にかける。さらに数秒だけそこに留まり、彼の真っ黒な髪に触れようと手を伸ばした。瞳には、狂おしいほどの陶酔が満ちている。彼女は彼を欲していた。この男の細胞の一片に至るまで溶け込みたいほどに。かつて彼が芸能会社の会長を殺した夜を思い出しても、その残酷さは彼女を怖がらせるどころか、むしろ血管に直接注がれた最強の媚薬のように、彼女をさらに熱くした。


「見なさいよ、あの子。よだれが垂れそうじゃない」


 前方の座席で足を組んでいたナージャーが、ガムを噛みながら皮肉っぽく言った。


 ユエンインは振り返って睨みつけた。


「あなたに何がわかるの? 私のあの方への愛は神聖なものです。あなたみたいな下品で荒っぽい女とは違う。ただ拳を振り回しているだけじゃない」


「下品でも、しぶとく生き残るのよ。あなたみたいに、そのハイヒールで戦場に出たら、三秒も持たないでしょ」


 ナージャーは鼻で笑い、わざと自分の身体の曲線をなぞるように手を滑らせた。挑発する気満々だった。


「それに、あんな強い男……温室育ちの花みたいなのを好きになるわけないでしょ。必要なのは、野性の炎よ」


「黙りなさい」


 向かい側で高性能狙撃銃を手入れしていたチンイーが、冷ややかに口を開いた。


「心臓がかなり速く打っている。怖いからじゃない……本能が警告しているの。シベリアに近づくほど、冥府の嫌な気配が濃くなっている。気を引き締めて。ここは香港の殴り合いごっこじゃないわ」


 その言葉を聞くと、ナージャーも笑みを引っ込め、口の中のガムを噛み潰した。彼女は窓の外を見やる。夜の闇は、やがて極地特有の、青白く冷えた光へと塗り替えられていった。


「ピッ……ピッ……」


 操縦席から、AIサイラの警報音が鳴り響く。


「警告。シベリア上空へ侵入しました。外気温、マイナス四十二度。広域空間異常を検知。シートベルトを締めてください。緊急着陸システムを起動します」


 機体は激しく揺れ、吹雪に覆われた雲層を引き裂いて、鉄のように硬い氷雪の平原へと一直線に降下していった。ハッチがゆっくり開くと、何万本もの剃刀の刃のような刺す寒気が一気に吹き込んでくる。ユエンインは思わず悲鳴を上げ、震える肩を抱きしめた。


 ナージャーとチンイーはすぐさま戦闘装備を起動し、薄い熱エネルギー膜が彼女たちの身体を覆った。だが、骨まで沁みる寒さは依然として容赦なく、脊髄の奥へと忍び込んでくる。


 その後ろから、ゲンソンが姿を現した。彼は薄いスーツだけを身につけており、コートもなければ防寒装置も必要としていない。吹き荒れる嵐は、彼に跪く野獣の群れのように唸りながら、自然と左右に割れていく。雪片ひとつとして、彼の裾に触れようとするものはなかった。


「最悪。靴が壊れちゃった」


 ユエンインは震えながら後に続いた。歯はがちがちと鳴っている。


「機体の中にいろ、馬鹿」


 ナージャーはユエンインを見やった。口は悪いが、断熱コートを一枚放り投げてやる。


「下まで降りて氷塊になるつもり?」


 チンイーは何も言わない。鋭い鷲のような目で、白一色の霧を見渡していた。頭上にはオーロラが現れていたが、それは美しい緑ではなく、血のように赤い色をしており、見る者の神経を逆撫でするようにうねっていた。


「ボス……」


 チンイーは狙撃銃を強く握りしめる。


「何かが来る。かなり速いです」


 ゲンソンは口元を歪め、両手をポケットに突っ込んだまま、気怠そうに答えた。


「君たちの見せ場だ。しっかりやれ。私を退屈させるな」


 彼らの前方の空間が、突然ねじれた。ガラスが砕けるような鋭い亀裂音が響き、真っ黒な裂け目が吹雪の壁を引き裂く。そのねじれた闇の奥から、二つの凄まじい殺気が噴き上がった。


 二人の巨大な男が現れた。身長は二メートルを優に超え、顔はそっくり同じ。水死体のように青白く、瞳は黒目がなく、死の白さだけが満ちている。それぞれが肩に、黒氷でできた巨大な戦斧を担いでおり、濃い硫黄の煙を吐き出していた。奇妙なのは、片方の左手が、もう片方の右手を強く握っていることだった。指はねばつくように絡み合い、まるで冥府の生物が持つ、病的で歪んだ感情を示しているかのようだった。


「兄ちゃん……見ろよ、みずみずしい獲物がいるぜ……」


 左側の男が囁いた。吹雪の咆哮に混じる甲高い声。言いながら、舌で右側の男の耳の縁を舐める。


「そうだな、弟よ……こいつらの血は、きっと温かい……骨を砕いて、それから一緒に飲もう……」


 右側の男が、低く太い声で答える。その頬を満足げに相手の肩へ擦りつけた。


 吐き気を催すほど異様で、なおかつ恐ろしい光景に、ナージャーの胃は激しくねじれた。彼女は氷上に唾を吐き捨てる。


「くそったれ、地獄から這い上がってきた病的なホモ野郎かよ。目障りだわ!」


「ナージャー、気をつけて! あいつらの息は……絶対零度の寒気よ!」


 チンイーが叫び、即座に銃を構えて左の男の頭を狙い、引き金を引いた。


 ドンッ!


 量子兵装弾が空気を裂き、戦車すら吹き飛ばせる威力で飛ぶ。だが、弾丸が殺し屋の顔から半メートルの距離まで迫った瞬間、黒氷の壁が突如としてせり上がった。弾丸は氷塊に突き刺さるや否や、完全に凍結し、そのまま微細な粉へと砕け散った。


「何ですって!?」


 チンイーは目を見開いた。


「凡人の玩具……なんと脆弱なことだ」


 双子は同時に、獰猛な笑い声を上げた。


 すると二人は、何の前触れもなく手を離した。巨体からは想像もつかない速度だった。次の瞬間、兄のほうはナージャーの目の前に現れ、巨大な氷の斧を振りかぶって彼女の頭上へ叩き落とした。


「死ね!」


 ナージャーが咆哮した。三太子としての本能が爆発し、彼女は二本の短剣を抜き放って交差させ、渾身で受け止める。


 キィン!


 天地を震わせる激突音が響いた。圧倒的な力がナージャーの身体を押し潰し、彼女は膝まで氷面へ深くめり込む。両腕は電撃を受けたように痺れ、骨が砕けそうな音を立てて軋んだ。さらに恐ろしいのは、闇の斧に宿る冷気が、彼女の武器を伝って一気に腕へと侵入し、ナージャーの肌を瞬く間に蒼白へと変えていくことだった。


「ちくしょう……」


 ナージャーは歯を食いしばり、口端から血を滲ませながら、筋力だけで斧を押し返そうとした。しかし、それはまったくの無駄だった。


 その間に、弟のほうは防御線をすり抜け、チンイーへ肉薄していた。完璧な戦術格闘の動きで、チンイーは氷面を滑るように身をかわしつつ、相手の関節部へひたすら弾丸を叩き込む。だが、効かなかった。弾は彼らの皮膚に触れた瞬間、石ころのように落ちていくだけだった。


「可愛いお嬢さん、もう逃げなくていい……素直に、私たちの氷像になりなさい!」


 弟が斧を横薙ぎに振る。チンイーは短剣で受け流したものの、氷の衝撃波に吹き飛ばされ、十数メートルも離れた。雪上を転がり、口から鮮血を吐き出す。胸が鋭く痛み、肋骨のいくつかは折れているのかもしれなかった。


 交戦開始から一分も経たないうちに、アエギス・プライムの二人の女戦神は完全に圧倒され、人智を超えた力の前で無残に打ち据えられていた。


「た、助けて……助けてください! ゲンソン様! 何かしてくださいよ!」


 ユエンインは機体の出入口に立ち、恐怖で涙をこぼしながら叫んだ。それでも彼女の瞳は、あくまでゲンソンの揺るがぬ背中に釘付けになっていた。


 だが、ゲンソンはなおもそこに立ったままだった。彼は小さくあくびをし、仮面の奥の目には何の感情も浮かんでいない。ゆっくりと片手を上げ、自分の小指をぼんやりと眺める。こんな塵芥どものために指一本動かす価値があるのか、考えているかのようだった。


「兄ちゃん、あの小娘の頭を砕け! こっちはこの銃持ちを片づける!」


 双子は狂気じみた快感に満ちた咆哮を上げ、そろって黒氷の斧を高々と振り上げた。冷たい雪の上に倒れ伏すナージャーとチンイーへ、最後の一撃を叩き落とそうとしている。二人の転生神の命は、いまや死神の薄い境界線の上に追い詰められていた。

 冥府の黒々とした寒気をまとった巨大な氷槌の刃が空気を引き裂き、まるで無数の亡霊が泣き叫んでいるかのような不気味な音を響かせた。ナ・ジャーとチンイーの周囲の空間は、巨大な圧力に押し潰されるように歪み、彼女たちの背中の下にある氷面は大きくひび割れ、爆弾でも落ちたかのような窪みへと沈み込んでいく。


 ナ・ジャーは下唇を噛み砕き、口元から流れた生温い血がすぐさま冷え固まり、濃い赤い筋となって残った。短剣を握る両手はすでに震え切り、感覚を失っている。少し離れた場所に倒れているチンイーは、途切れ途切れの呼吸を繰り返し、細く切れ長の瞳に、今まさに降り下ろされようとしている死神の影を映していた。彼女たちは神ではある。だが、まだ目覚めきっていない神だ。そんな人間の力も未満の状態で、どうして原初の闇の二体に抗えるというのか。


「もう……終わりだ……」


 チンイーは目を閉じ、骨の髄まで刺すような寒さのために、生理的な涙を一滴こぼした。


 だが、その千鈞一髪の瞬間、耐えがたいほど耳をつんざく叫び声が、ステルス機の扉の方から響き渡った。


「だめ! 死んじゃだめ! あの方のものなのよ!」


 チャン・ユエンイン。贅沢に慣れきった大女優で、つい先ほどまでハイヒールが壊れたと文句を言っていたその少女は、いまやためらいも恐怖もかなぐり捨てていた。裸足のまま鋭い氷面を強く踏みしめ、血を滲ませながら、その赤い筋で白い雪を染めていく。彼女は、恋に狂った者のような猛烈な勢いで吹雪の中へ飛び出した。彼女の頭には死の概念などない。ただ一つだけ分かっていた。――目の前の二人は、自分がこの世で最も愛する男が、苦心して連れてきた配下だ。ならば、その財産は守らなければならない。この小さな命を賭けてでも。


「この狂った小娘! こっちに来るな!」


 ナ・ジャーは目を見開き、喉が裂けんばかりに怒鳴った。


 だが、もう遅かった。ユエンインは飛び込むように駆け寄り、薄い防寒コートごとナ・ジャーとチンイーを包み込んだ。そして両目を固く閉じ、自分の肉体と骨を氷槌が粉砕する瞬間を覚悟した。


 ――ヒュッ。


 骨の砕ける音はしない。天を突き抜けるような激痛もない。


 そこにあったのは、血と硫黄の匂いさえ圧倒するほど濃密で、慣れ親しんだ男のシダーの香りだけだった。それが突然、空間を覆い尽くした。


 ユエンインは、自分の腰がたくましい腕に抱き寄せられたのを感じた。抗うことのできない、しかし優しい力が彼女を持ち上げ、宙へと逃がす。その次の瞬間――


 ドン、ドン、ドンッ!!!


 二本の氷槌が元いた場所に叩きつけられ、凄まじい寒気の爆発を引き起こした。地面は粉々に砕け、巨大な氷塊が十数メートルもの高さまで吹き飛ぶ。だが、その地獄の穴からわずか一メートルしか離れていない場所に、ゲンソンは立っていた。


 彼はまるでフィフス・アベニューを散歩でもしているかのように悠然としていた。片手はスラックスのポケットに深く突っ込み、もう片方の手でチャン・ユエンインの細い腰をしっかりと抱いている。ユエンインが呆然と目を開けると、そこに飛び込んできたのは、びくともしない胸板と、ヴィブラニウムの仮面の向こうにある完璧な横顔だった。しかも彼は、あろうことかあくびをしていた。そう、血と肉片が飛び散る戦場のど真ん中で、彼は口元を覆いながら、はっきりわかるほど大きなあくびを一つ漏らしたのだ。


「こういう涙ぐましい自己犠牲、映像で見るぶんには感動的だな、チャン秘書」


 ゲンソンは身をかがめ、低く掠れた妖しい声を彼女の耳元で響かせた。そこには、気怠げなからかいが混じっている。


「でも、君のせいで私のスーツが汚れた。帰ったら、手洗いで洗っておくことだ」


「し……社長……」


 ユエンインの頬は真っ赤になり、心臓は胸から飛び出しそうなくらい乱打した。彼女は彼の首に両腕を回し、あの陶酔するような香りを深く吸い込む。周囲で吹き荒れる吹雪のことなど、もうすっかり忘れていた。


 数歩先では、双子の殺し屋が氷の粉塵の中からゆっくりと顔を上げていた。白濁した瞳が細まり、自分たちの獲物が目の前で消え、代わりに薄いスーツ姿の男が悠々と美女を抱いているのを見て、驚愕に染まる。


「てめえ……何者だ!?」


 兄が唸ると、殺気が周囲の空気を何重にも凍らせた。


「俺たちの玩具を横取りしやがって! 兄貴、引き裂け! 俺はこいつの目玉をえぐり取る!」


 弟が甲高い狂気じみた声を上げ、氷槌を振りかざして突進する。


 ゲンソンはユエンインをそっとナ・ジャーとチンイーのそばに下ろした。二人はまるで石像のように、彼を凝視している。彼は肩に積もった雪を軽く払うと、両手を背に回し、悠々と前へ出て、巨大な殺し屋二体の前に立ちはだかった。


「ゲンソン! 気をつけて! あいつらの槌は氷まで……!」


 チンイーが警告を叫んだ。


 だが、言い終わらぬうちに、その次の光景が三人の少女の物理と戦闘に対する認識を粉々に打ち砕いた。


 弟が風を裂く速度で飛び込み、槌の刃がゲンソンの腰を薙いだ。だがゲンソンは、ほんの半歩だけ後ろへ下がった。余計な動きは一ミリもない。槌の刃は彼の腹の前をかすめ、空間そのものを切断する寒気を引き連れていったが、彼の服の糸一本すら捉えられなかった。


 兄がすかさず上から叩き落とす。山すら真っ二つに割るだけの威力を持つ一撃だ。ゲンソンは無造作に首を左へ傾けた。槌は彼の耳元を掠め、そのまま地面へ突き刺さる。


「クソッ! 死ね、死ね、死ね!」


 双子は完全に狂乱し、交差する黒い残像を生むほどの連撃を繰り出した。空間は引き裂かれ、細片となって散る。だが、その死の嵐の中心で、ゲンソンはまるで幽霊のように漂っていた。


 身体を傾け、背を反らし、踵を返す。その一つ一つの動きは、まるで見えないワルツに合わせて踊っているかのように静かで滑らかで、獣じみた敵の狂気とはまったく対照的だった。彼はさらに肩をぐるりと回し、二度目のあくびまで、口元を手で覆っていた。


「遅い」


 ゲンソンが呟く。その声は、二人の殺し屋の脳髄に直接響き渡り、極度の屈辱を伴ってこだました。


「角度がズレすぎだ。左手の力が右手より弱いのか? 今朝は腹が満たされていないのか?」


「うわああああああっ!!」


 双子は発狂した。彼らは互いの手を取り合い、寒気を分け与えながら、真っ黒な巨大竜巻を形成する。地上のすべてを根こそぎ巻き上げ、そのままゲンソンを粉塵に変えようと突っ込んできた。


 ナ・ジャーは血のにじむほど拳を握りしめた。


「この狂人……ちんたらしすぎだろ! どけよ!」


 台風のような竜巻の中心で、ゲンソンの足がぴたりと止まった。彼は闇から彫り出した彫像のように、静かに立ち尽くす。仮面の奥の瞳が、つまらなさを含んだ真っ赤な光をかすかに宿した。


「もう十分だ」


 ゲンソンの声は大きくない。だが、その一言で、吹雪の咆哮は一瞬にして黙り込んだ。それは創造主の声だった。絶対的秩序の言葉だった。


 彼はスラックスのポケットに入れていた右手を、ゆっくりと引き抜く。拳ではない。複雑な印を結ぶわけでもない。


 ゲンソンは、ただ小指だけをまっすぐ伸ばした。


 その小指を、目前まで迫る巨大な竜巻へ向け、空を軽く弾いた。


 ピン。


 静かな水面に一滴が落ちたような、澄んだ小さな音が鳴る。


 だが直後、ゲンソンの小指の先から、糸のように細い黒紫の光が放たれた。その光は、闇の竜巻へと触れる。大爆発は起こらない。天地を揺るがす炎も煙もない。その代わり、恐ろしいほどの静寂が辺りを包み込んだ。


 巨大な竜巻が、空中でぴたりと止まる。双子の殺し屋は槌を振り上げた姿勢のまま固まり、白濁した眼球を極限まで見開いた。そこには宇宙規模の恐怖が満ちていた。彼らは声すら上げられない。なぜなら、彼らの周囲の空間そのものが消されていくからだ。


 その黒紫の光が触れた胸元から、二人の悪漢の全身へ、輝く亀裂が走る。巨大な肉体も、最強を誇った二本の闇の槌も、砕け散るように微細な光の粒へと変わり、やがて完全に虚無へ溶けていった。血も残さない。骨の欠片も残さない。現実そのものから、完全に消去されたのだ。


 ゲンソンは小指をゆっくりと引っ込めた。手をポケットに戻し、冷たい息を一つ吐く。


「ゴミ拾いも、なかなか骨が折れるな」


 彼はそう呟いた。


 ナ・ジャーは口をぽかんと開け、手にしていた短剣を氷面に落としてしまう。カン、と乾いた音が響いた。チンイーの瞳孔は何度も収縮し、今目の前で見た光景を到底信じられなかった。小指一本? ただの戯れの指弾き一つで、あと少しで自分たちの命を奪っていた二人の悪鬼が消し飛んだというのか?


 だが、チャン・ユエンインはそこまで深く考えなかった。ゲンソンが敵を片づけたのを見ると、彼女は血のにじむ足の痛みを堪えながらよろよろと駆け寄り、そのまま彼の腕の中へ飛び込んだ。


「社長……ご無事ですか? あいつらに、どこか傷つけられていませんか?」


 ユエンインは嗚咽混じりに尋ねた。熱い涙が頬を伝い、真っ赤に染まった顔で、彼のたくましい胸板に強く押しつける。


 ゲンソンは見下ろした。冷え切った吹雪の中で震えながら、それでもなお自分にしがみつく、か弱い凡人の少女を。紫霞仙子の狂おしいほどの熱情と執着は、たしかにこの退屈な日々にうってつけの香辛料だった。彼はわずかに微笑み、片腕を彼女の腰に回す。もう一方の手で、吹雪に濡れた彼女の髪へ指を差し入れ、愛おしむように、それでいて所有欲を込めて撫でた。


「私が傷つくだと? 何を言っている、馬鹿者」


 ゲンソンの声は不意に低く温かくなり、そこには甘やかすような響きが混じっていた。彼は体内の温かな真気をユエンインへ送り込み、骨まで染みる寒さを追い払ってやる。


「だが、驚かされたのは本当だ。死ぬのが怖くないのか?」


「あなたのそばにいられるなら、地獄にだって飛び込めます」


 ユエンインはつま先立ちになり、ヴィブラニウムの仮面に隠されていない、ごくわずかな顎の肌へと、震える柔らかな唇を大胆に押し当てた。冷え切った空間の中で、息を呑むほど濡れた、ロマンチックな瞬間が生まれる。


 遠くでナ・ジャーが舌打ちし、腕に力を込めて立ち上がった。


「おいおい、ボス! 戦場でいちゃつくのはやめろって。冥府の連中は群れで動くんだ、まだ終わっちゃいないはずだぞ……」


 ナ・ジャーの言葉が終わらぬうちに、シベリアの大地全体が、震度9の地震のように激しく揺れた。血のように赤いオーロラが渦を巻き、巨大な瞳のような形を作り出す。


 バキッ……バキッ……バキッ……


 足元の、何百メートルもの厚さを持つ氷層に、ひびが走り始めた。五十メートルほど離れた場所に、深く黒い裂け目が開く。まるで火口の口のようだ。そこから立ち昇る寒気は、先ほどの殺し屋たちの黒い寒気ではない。妖しく煌めく、青白い冷気だった。


 女の声が、底の知れない裂け目の下から響いてくる。


 高く澄み、怪しく、それでいて人を殺すほどの魅惑を秘めた声だった。


「ずいぶん久しぶりね……私のおもちゃを壊せる凡人が現れたのは」


 青い光の柱の中から、一つの人影がゆっくりとせり上がる。


 そこにいたのは、息を呑むほど妖艶で完璧な美女だった。長いプラチナブロンドの髪は足元まで届き、吹雪に踊る。肌は雪のように白く、ほとんど透明に見えるほどだ。身体には、敏感な部分を隠す程度の氷晶の欠片が無造作に纏われているだけで、その下にある完璧な曲線と、燃えるような肉体美をあまりにも露骨に晒していた。エメラルド色の瞳は鋭く、残忍で、ゲンソンの影だけをしっかりと捉えている。


 第三の悪人――冥府の氷雪女王。この地の天候を支配する者が、自ら姿を現したのだ。


 彼女は氷面を滑るように進み、その背後には雪の蓮が咲き誇っていく。視線が、ゲンソンの腕の中に収まるユエンインへと向けられる。赤い唇の端が、軽蔑と渇望をない交ぜにした笑みへと持ち上がった。


「坊や……」


 氷雪女王は甘やかに囁く。その声は絹のように耳へ絡みつき、致死的な催眠の魔力を帯びていた。


「それほどの強靭な肉体に、それほど甘美な力を秘めているくせに……こんな脆弱な凡人を抱きしめているの? だったら……私のところへ来なさい。今夜、破壊の快楽というものを教えてあげる」


 ゲンソンはユエンインをそっと背後へ押しやった。仮面の奥の目を細め、口元に邪悪な曲線を描く。


 この新たな脅威は、彼を苛立たせるどころか、むしろこの女王から漂う妖気が、ゲンソンの血管をわずかに沸き立たせていた。


「魅力的な誘いだ」


 ゲンソンは再びポケットへ手を突っ込み、顎を上げる。吹雪の中で、その低く掠れた挑発的な声が響き渡った。


「だが、私はかなり好みがうるさい。さて……冥府の女王とやらが、寝床でもこの氷雪みたいに冷淡かどうか、見せてもらうとしよう」

 冥府の氷雪女王の周囲の空間がねじれ始め、耳をつんざくような亀裂音が走った。彼女はエメラルド色に鋭く光る瞳でゲンソンを見据え、ふっくらとした赤い唇の端を妖しく吊り上げる。ひと振りの手で、シベリアの吹雪はまるでその場で凍りついたかのように静止した。青玉のように輝く巨大な氷晶でできた半球状の空間の檻が降り下ろされ、ゲンソンと彼女を「絶対氷静」と名づけられた独立した世界へ完全に隔離した。


 この氷の迷宮の中には、風の音も、空間や時間の気配すらない。ただ、極限の寒気と、あの悪女の死を招くような魅力だけが満ちていた。


 ナ・ジャー、チンイー、そしてユエンインは空間の遮断壁に弾き飛ばされ、ゲンソンとの連絡を完全に失っていた。


「くそっ、あいつ閉じ込められたぞ!」


 ナ・ジャーは絶対氷壁に拳を叩きつけた。だが、氷にはかすり傷ひとつつかない。逆に跳ね返った寒気が手を刺すように冷やした。


「無駄よ、ナ・ジャー」


 チンイーは一歩下がり、細く切れ長の瞳で夜の闇に輝く巨大な氷塊を凝視した。


「社長は、わざとあの女に閉じ込めさせたのよ。彼のエネルギー値はあの女を完全に上回っている。あの人は……ただ遊んでいるだけ。AIサイラ、周辺を急いでスキャンして」


 無機質なサイラの声がイヤホンから響く。


「北欧神話系の生命反応を、地表下120メートルの座標で検出。対象は消耗著明。緊急救助を推奨します」


 ユエンインは唇の端の血を拭い、いつもは澄みきった瞳を、これまでになかったほど強い決意で輝かせた。


「私たちで助けに行くしかないわ。あの方から与えられた任務です。絶対に失望させません」


 そのころ、「絶対氷静」の内部では。


 ゲンソンは両手をポケットに入れたまま、仮面の奥の瞳で、氷の破片を無数の鏡のように反射させて築かれた壮麗な宮殿を、気怠げに見渡していた。そこには氷雪女王の姿が幾重にも映り込んでいる。


「それだけか?」


 ゲンソンは口元をわずかに歪め、狭い空間に低くしゃがれた声を響かせた。


「景色見物用の檻にしか見えないが」


「傲慢な凡人ね。あとでそんな口が利けるか、見ていなさい」


 女王の甘く長い声が四方にこだました。次の瞬間、氷面の足元から、腕ほどの太さを持つ無数の水晶の鎖が毒蛇のように伸び上がり、ゲンソンの足首、太腿、腰、両腕を絡め取って、彼の身体を宙吊りにした。その鎖には絶対零度の冷気が宿っており、神であろうと半秒で血を凍らせるほどだった。


 だが、ゲンソンに抵抗の色はない。むしろ彼は首を反らし、目を閉じ、安物のマッサージでも受けているかのように享受していた。彼の体内を流れる混沌の血は凍りつくどころか、その寒気を前菜のようにゆっくり取り込んでいく。


 氷雪女王が近づいてきた。彼女の燃えるような肉体は、敏感な部分を覆う薄い氷片だけで辛うじて隠されている。彼女はゲンソンの上にまたがり、白く長い脚で彼の引き締まった腰をきつく絡め取った。冷え切った手が薄いシャツ越しに彼の胸をなぞり、鋭い爪がかすかに引っかいて、褐色の素肌を覗かせる。


「なんて完璧な身体……」


 女王は囁いた。その瞳は狂おしいほどの欲望に満ちていた。


「おまえの陽の気を吸い尽くして、その魂をこの氷の寝台で永遠の僕にしてあげる」


 そう言うと彼女は身をかがめ、冷たく赤い唇をゲンソンに重ね、冥府の魔術で彼の神気を呑み込もうとした。


 だが、唇が触れた瞬間、氷雪女王の瞳孔が激しく収縮した。


 呑み込むはずがない。代わりに、億倍にも感じられるほど古く、暗く、狂暴な力が、ゲンソンの唇から彼女の身体へ逆流してきたのだ。それは冷気ではない。あらゆる認識を焼き尽くす黒い炎だった。


 ゲンソンは目を開けた。仮面の奥から放たれる赤い光が、女王の心へ直接突き刺さる。鎖で縛られていた彼の手が、わずかに動いた。氷? 氷の鎖? 軽く筋肉を入れただけで、それらは粉末のように砕け散る。ゲンソンの逞しい腕が女王の細い腰を抱き込み、その妖艶な身体を胸元へ強く引き寄せた。


「私の生気を吸いたいのか、女王陛下?」


 ゲンソンは邪気を帯びた笑みを浮かべ、形勢を逆転させて、彼女を宮殿の冷たい氷寝台へ押し倒した。


「なら教えてやろう。何をもって“呑み込む”と言うのかを」


 ヴィブラニウムの仮面が下方だけ外れ、薄く妖しい唇があらわになる。ゲンソンは身をかがめ、抵抗は次第に震える恐怖へと変わっていく女王を意に介さず、唇を重ねた。それは獰猛で、野蛮で、所有欲に満ちた接吻だった。ゲンソンの舌先から放たれる混沌のエネルギーが、彼女の経脈へ真っ直ぐ流れ込み、あらゆる魔術防御を引き裂いていく。


「っ……はなして……っ、はなして……」


 女王はゲンソンの胸を押し返そうとしたが、その手は力なく崩れた。


 彼女の身体を覆っていた氷晶の欠片は、高熱を帯びた最上位の社長の体温の前で、ひとつ、またひとつと溶け落ちていく。ゲンソンの指が完璧な曲線の上を滑るたび、そこには激しい昂ぶりを示す赤い跡が残った。密閉された空間の中で、悪女の艶やかな吐息が、肌と肌のぶつかる音に混じって響き渡る。冥府の氷雪女王は、これまで敗北を知らぬ高慢な支配者だったはずが、いまやゲンソンにもたらされる激烈な欲望の海に完全に呑み込まれていた。


 彼は彼女を、従順な獲物のように弄んだ。白鳥のような首筋から鎖骨へと流れる接吻は、軽く吸い、甘く噛むたびに、女王の身体を快楽と絶対的服従のうちに弓なりに反らせた。彼女の持つ冥府の凶悪な気配は、肉体とエネルギーの交わりのたびに、ゲンソンによって少しずつ吸い尽くされていく。かつての悪神は、いまや彼のぬくもりを求めて狂おしくすがりつく、弱々しく恋に落ちた操り人形へと変わっていた。


「お願い……ゲンソン……もっと……もっとちょうだい……」


 女王はすすり泣いた。エメラルドの瞳は欲情の霧で潤み、両手は絶望的に彼の広い肩にすがりつき、支配者としての矜持を完全に失っていた。


「よくできたな。だが、楽しみはここまでだ」


 ゲンソンは口元を歪め、快楽で見る影もなくなった女王の裸身を手放した。彼は悠々と襟元を整え、ヴィブラニウムの仮面を元通りに戻して、死を誘うような魅力を完全に覆い隠した。


 そのころ、永遠凍土の地表下120メートル。


 ナ・ジャーは双刀で化石化した木の根を断ち切り、一行を巨大な地下洞窟へと導いていた。洞窟の中央では、淡い金色の光を放つ純粋な氷塊が、小さな人影を閉じ込めている。


「いたわ! 信号はここから!」


 チンイーはスコープを構え、鋭い眼差しで周囲の暗がりをくまなく見渡した。


 ユエンインが駆け寄る。氷塊の中にいたのは、淡い金髪の少女だった。顔立ちは清らかだが、ひどく衰弱している。目は固く閉じられ、呼吸も絶え絶えだ。とりわけ、彼女の脚は何らかの黒い魔術によって萎れ、もはや機能を失っているように見えた。


 それはフレイヤ――偉大な戦女神ヴァルキリーの化身。いまや死を待つ、儚いひとつの魂にすぎなかった。


「彼女、消えかけてる! この氷塊が神話の生命力を吸い取ってるのよ!」


 ユエンインは慌てて両手を氷塊に押し当てた。骨まで染みる冷たさが一気に身体へ流れ込み、彼女は身震いした。


「どいて、砕いてやる!」


 ナ・ジャーが刀を振り上げる。


「だめ! 氷と彼女の命がつながっているの。砕いたら彼女も死ぬ!」


 チンイーが止めた。額には大粒の汗がにじんでいる。


「ここに量子解凍装置はない!」


 ユエンインは歯を食いしばった。身を切るような寒さにもかかわらず、彼女は氷塊を抱きしめる。紫霞仙子の深層に眠る生存本能と仲間を守りたいという衝動が、突然うごめき始めた。彼女の身体から、朝日のようにやわらかな淡い桃色の霧が立ちのぼる。


「何やってるの、ユエンイン! 体温を全部吸い取られるわよ!」


 ナ・ジャーは目を見開いて怒鳴ったが、その瞳には感心の色も宿っていた。


「かまいません!」


 ユエンインは固く目を閉じ、全身を震わせながら、紫に染まった唇で低く言った。


「ゲンソン様は、この断片を持ち帰れとおっしゃったんです。失望させるわけにはいきません! 起きて! 神様のくせに、なんでこんなに弱いのよ。早く目を覚まして!」


 ユエンインの純粋な仙気が氷塊を通して染み込み、フレイヤの金色の光と少しずつ溶け合っていく。氷塊には、ぱき、ぱき、とひびが走り始めた。生命が、ゆっくりと戻りつつある。


 ちょうどそのとき、地上では「絶対氷静」の空間が、ダイヤモンドの雨のように砕け散り、無数の煌めく破片となって落下した。


 ナ・ジャーとチンイーが、まだ意識のないフレイヤとユエンインを洞窟の出口まで運び出した、その直後。


 彼女たちが目にしたのは、信じがたい光景だった。


 ゲンソンが晶片の雨の中から歩み出てくる。衣服には一つの皺もなく、相変わらず気怠く、高慢で、まるで死の国を統べる神のような佇まいだ。彼の手には、氷雪女王のプラチナブロンドの髪が逆さまに掴まれていた。先ほどまで残虐だった悪女は、いまや薄汚れた人形のように見える。ゲンソンの男物の大きすぎるコートを、ひっそりと羽織っているだけだった。彼女は震え、うつろな目でゲンソンを見上げ、恐ろしくほど従順で、恋い焦がれたような視線を向けていた。まるで、彼の腿に頬をこすりつける飢えた家畜のようだった。


「ゲンソン……ご主人様……どうか、私を捨てないで……」


 彼女はすすり泣いた。涙がとめどなく溢れている。


 ナ・ジャーとチンイーは目を丸くした。いったい彼は、あの氷の檻の中で何をしたというのか。冥府の女王を、ここまで哀れなほどの依存体質に変えてしまうなんて。


 ゲンソンは、足元の雪の上へ女王の力の抜けた身体を放り投げた。彼は手を口元にやり、大きくあくびをする。


「うるさい女だ。あの女の冥府のエネルギーはもう食い尽くした。今の彼女は、ただの空っぽの抜け殻だ。二人とも、始末しろ」


 その声はあまりにも無感情で、冷酷だった。


「あなた……何を……」


 女王は見上げた。粉々に砕かれた心で。


「さっき、あんなに私を抱いて……あんなふうに……」


「たった十五分の湯たんぽだ」


 ゲンソンは絶望しきったその瞳をまっすぐ見返し、口元を歪めた。


「もう遊びは終わりだ。チンイー、ナ・ジャー、やれ。あの女の血で、君たちの武器を清めろ。そして、君たちの北欧神話の力を目覚めさせるんだ。急げ。私は眠い」


 ナ・ジャーは双刀を握り直し、深く息を吸った。さっき自分を殺しかけた相手に、情け容赦などない。チンイーもまた、ライフルの銃口を女王の頭蓋に向けて構える。


「私の上司を温めてくれてありがとう、女王様」


 ナ・ジャーは冷たく笑った。


 ズシュッ。


 ドンッ。


 氷雪女王の頭が、ナ・ジャーの刃によって首から切り離され、同時にチンイーの量子弾が彼女の心臓を貫いた。彼女の身体は青い液体となって崩れ、完全に蒸発した。その死の瞬間、彼女の身体から極光のような光が爆ぜ、ナ・ジャーとチンイーへまっすぐ撃ち込まれる。眠っていた彼女たちの神話遺伝子が深部で起動し、二人の瞳には真の神々の威圧が宿った。


「よし」


 ゲンソンは頷き、振り返って機体へ戻ろうとした。


 だが、そのとき、彼らの周囲の空間が不意に歪んだ。耳を裂くような、奇怪な鈴の音が鳴り響く。その音は、鼓膜を引き裂くほどの低周波を伴っていた。


「幻影か。面白い」


 ゲンソンが足を止める。


 霧の中から、一人の男が姿を現した。透明のマントをまとい、骸骨の頭を頂いた杖を手にしている――第四の悪人、冥府の魔術師・パオティンだ。


「我らの女王を殺したか……よくやった……」


 魔術師のねっとりとした引きずる声が四方にこだまし、ナ・ジャー、チンイー、ユエンインの脳へ狂気を流し込む。


「だが、おまえたちは知っているのか……この氷の下に、何が沈んでいるのかを」


 誰も答える間もなく、シベリアの数千里にも及ぶ山脈が、突如として真っ二つに裂けた。


 巨大な手が、山そのものに匹敵する大きさで、藻のように青緑がかった氷の層からせり上がり、アエギスのステルス機を握り潰して鉄屑の山へ変えた。


 大地が激しく揺れる。空が崩れ落ちる。大陸を滅ぼす規模の存在が、血のように赤い空を覆い隠しながら、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。


 考えろ。

 金属が粉砕される耳をつんざくような音が響いた。アエギス・プライム社の数億ドルは下らない超音速ステルス機は、もはや薄っぺらなブリキ玩具と変わらず、苔むした青緑色の氷の巨人ヒルムの巨大な掌の中で無残に握り潰されていた。


 大地は激しく揺れ、氷塊は次々とひび割れては隆起し、あるいは沈み込み、底の見えない裂け目を生み出していく。もともと陰鬱だったシベリアの空は、いまや恐るべき重力に引きずり込まれるように崩れ落ち、血の色をしたオーロラは渦を巻いて巨大なブラックホールのような穴へと変わり、あらゆる光を完全に覆い隠していた。ヒルム――アーク1の最終ボスにして、冥府から現れた大陸破壊級の存在――が、ついに目覚めたのだ。そこにあるのは、まさしく終末そのものの気配だった。


 ヒルムの巨体は雲をも覆い隠すほど高くそびえ、その一呼吸ごとに、噴火中の火山すら即座に凍りつかせるほどの原初の寒気を吐き出していた。


「絶望したか、小さな獲物ども?」


 ねっとりとした、どこか艶めかしい声が、四方八方から響き渡る。冥府の魔術師パオティンは黒い霧の中に身を潜め、骸骨の頭を頂いた杖を振るって、怪しい幻聴の波を撒き散らしていた。


「聞くがいい……おまえたちの骨が砕ける音を……おまえたちの魂が引き裂かれ、この永久凍土の下に永遠に封じられていく音を……。ハハハハ!」


 その幻聴の波が、まっすぐに一行の脳へと叩き込まれる。ナ・ジャーは膝をつき、両手で頭を抱えた。眼球には血走った筋が浮かび上がる。脳裏には、かつてのスラム街が焼き払われた光景や、無辜の人々が上げていた悲鳴が蘇り、心を引き裂いていく。チンイーも同様だった。彼女は正気を保とうと唇を噛み切るほどの力で耐えたが、銃を握る手は激しく震え、視界の中の空間は何千もの醜悪な形へと歪んでいった。


「聞くな! あれは幻覚よ! チンイー、ナ・ジャー、立ちなさい!」


 ユエンインが叫んだ。彼女は残された最後の仙気を振り絞り、淡い桃色の薄い霧の膜を作って一行を包み込む。だが、その膜もヒルムの寒気に押し潰されるように砕け散った。ユエンインは吹き飛ばされ、鋭い雪面の上を転がる。身体はずたずたに裂け、流れた血が真っ白な大地を赤く染めた。


「くそっ……」


 ナ・ジャーが吠えた。戦士としての本能が、幻覚の濁流を叩き返す。彼女は双刀を地面に突き立て、よろめきながら立ち上がった。


「幻覚だろうがラスボスだろうが関係ない。あたしが、おまえを叩き斬ってやる!」


 そのとき、ユエンインが救い出したばかりのフレイヤ――偉大なる女戦神ヴァルキリー――が、ゆっくりと目を開けた。純粋な仙気のおかげで、彼女の失われた両脚はすでに回復していた。淡い金髪が風に揺れ、双眸には黄金の炎が燃えている。フレイヤは虚空へと手を伸ばし、その掌の中に眩い光の槍を凝縮させた。


「私はフレイヤ……冥府の闇に、これ以上この地を呑み込ませはしない! 戦士たちよ、私に続け!」


 フレイヤは強く地を蹴り、黄金の流星となってヒルムへと突進した。ナ・ジャーとチンイーも吠えるように叫び、覚醒したばかりの力をすべて叩き込むつもりで続く。これが、必殺の総攻撃だった。


「無駄だ、虫けらども!」


 パオティンが狂ったように笑う。


 ヒルムはゆっくりと頭を下げ、暗い眼窩に侮蔑の光を宿した。もはや腕を振るう必要すらない。ただ巨大な口を開け、天地を揺るがす咆哮を放つだけだった。


「ぉおおおおおおおッ!!」


 圧縮された寒気の嵐が、百もの竜巻を束ねた以上の圧力で噴き出す。三人の女神の攻撃は、たちまち火に飛び込む蛾のように滑稽なものへと変わった。フレイヤの光槍は瞬時に砕け、ナ・ジャーの双刀は細片となって散り、チンイーの量子弾は吹き返されて彼女へと戻ってきた。


「ああっ!」


 三人はまとめて弾き飛ばされ、硬い氷原へと激しく叩きつけられた。口や鼻、裂けた傷口から血が噴き出す。肉体はぼろぼろに裂け、骨は砕けたも同然で、死の境界線すれすれまで追い込まれていた。彼女たちは真っ白な雪の上でかろうじて息をつき、絶望に染まった眼差しで、山ほどもあるヒルムの巨大な手が、ゆっくりと自分たちの頭上へと落ちてくるのを見上げていた。とどめを刺すために。


 死の影が、ナ・ジャー、チンイー、そしてフレイヤを覆う。彼女たちは目を閉じ、粉砕される瞬間を待った。


「まったく……うるさいな」


 低くしゃがれた声が、気怠さと無関心を帯びたまま、嵐の中心に響いた。その声は天地の雑音を切り裂くほど明瞭だった。


 ヒルムの巨大な手は地表まで十メートルにも満たないところで、突如として止まる。シベリアの寒気すら比べものにならない、深く、恐ろしく、無形の威圧が一気に放たれ、周囲の風雪を完全に停止させた。


 氷雪の霧が舞う中から、一人の人影が悠然と歩み出る。


 ゲンソン。


 彼は相変わらず薄手のスーツ姿で、両手をのんびりとズボンのポケットに突っ込み、まるでレッドカーペットでも歩いているかのように、整った歩調で進んでいた。巨大な怪物を見上げることすらせず、ただ手で口元を隠し、大きなあくびを一つする。


「おまえの幻影の中で、ひと眠りしてきたぞ、みすぼらしい魔術師め」


 ゲンソンは呟いた。仮面の奥の視線が、身を隠すパオティンへと流れる。


「この惨めな芝居、何度も何度も繰り返して……飽きないのか?」


「……どうやって、私の幻覚から抜け出した!?」


 パオティンが恐怖に引きつった声で唸る。自分の魔術をここまで平然と無視する存在など、見たことがなかったのだ。


「そんな子供騙し、創造主には通じない」


 ゲンソンは冷ややかに笑った。


 ヒルムが激昂する。怪物は地響きのような咆哮を上げ、全力で巨大な手をゲンソンの頭上へと叩き落とした。その動きは空間を引き裂き、断続する黒い雷を生み出すほどだった。


 だが、次の瞬間、目撃した者すべてが、物理法則の存在そのものを疑うことになる。


 巨大な手が振り下ろされたとき、ゲンソンは受け止めることも、技を放つこともしなかった。ただ左へ……ほんの半歩、身をずらしただけだった。


 ドォン!!


 山のような掌は広大なツンドラ地帯を粉砕したが、ゲンソンの衣の裾をかすめただけに終わる。土煙がもうもうと立ち上る中でも、ゲンソンはその巨大な手首の周囲を、のんびりと歩き回っていた。


 ヒルムは苛立ち、手を引き戻すと、巨大な杭打ち機のように何度も地面を殴りつける。


 ドン! ドン! ドン!


 ゲンソンは、あの有名な「ねちっこい回避」を始めた。片手をポケットに入れたまま、するりと身体をかわす。横殴りの拳は、彼がわずかに背を反らして四十五度傾くだけで避けられ、巨人の踏みつけは踵を返して美しく一回転するだけで抜けられる。ひとつひとつの動きはあまりに軽く、気だるげで、だが死との距離だけは常に……一ミリのまま保たれていた。


「遅い。鈍重。洗練が足りない」


 ゲンソンは避けながら、露骨に見下した口調で講評する。


「肘の力が弱すぎる。氷のかけらを食いすぎて、肥満になったのか? 今の拳、角度が三度ずれていたぞ。どこの武術だ、それ。冥府の幼稚園か?」


 行動でも言葉でも徹底的に侮辱されたヒルムは、巨体の口元から血を噴き出すほど激怒した。怪物は大きく口を開け、シベリアの冷気をすべて吸い込み、破壊的なエネルギーを孕んだ巨大な黒氷の球体を生成する。ツンドラ一帯を消し飛ばすつもりで、ゲンソンへと放とうとした。


 パオティンもまた叫び、魔力をその球体へと注ぎ込む。


「死ね、この異形め! おまえの女どもごと、消え失せろ!」


 ゲンソンは足を止めた。こめかみを揉みながら、うんざりしたように小さく息を吐く。


「引き延ばしは十分だ。仲間たちも、生死の匂いはもう十分味わって、覚醒しただろう。そろそろ、このゴミを片付けるか」


 ヴィブラニウムの仮面の奥の瞳が、絶対的な威圧を伴う不気味な赤い光を放った。ゲンソンは肩を回すことも、呪文を唱えることもない。派手な演出すらない。


 ただズボンのポケットから右手を抜き、胸の高さまで持ち上げ、ヒルムとパオティンへ向けて、ゆっくりと小指だけをまっすぐ伸ばした。


「判決だ」


 ゲンソンが、たった二語を吐き出す。


 彼は軽く小指を弾いた。


 パチン。


 小さな音だった。だがその瞬間、周囲の時間が止まったように感じられた。ゲンソンの小指の先から、黒地に細い紫の筋を帯びた光が走る。それは大きくはない。ただ糸のように細い。だが、その中には原初の混沌、現実を消去するための力が宿っていた。


 光の糸は、光速の概念を超えた速度で飛ぶ。巨大な黒氷の球体を貫き、無効化し、何の音も残さずその存在を消し去った。


 光はなおも進み、ヒルムの胸の中心を撃ち抜いた。爆発はない。叫び声もない。


 山ほどの巨体を誇っていたヒルムが、ぴたりと動きを止める。怪物は自分の胸にぽっかり開いた小さな穴を見下ろした。その穴から、黒紫の光の亀裂が全身へと広がっていく。ヒルムが状況を理解するより先に、その肉体は無数の微細なエネルギー粒子へと砕け、やがて完全に空中へ溶けて消えた。


 死の糸はヒルムの胸を貫き、そのまま背後にいたパオティンの額へと突き刺さる。魔術師は目を剥き、助けを乞おうと口を動かしたが、声はすでに消去されていた。肉体は黒い液体となって溶け崩れ、半瞬のうちに完全に蒸発した。


 世界を滅ぼす規模の二大悪役、傲慢な冥府の存在は、宇宙の地図から完全に消去された。しかも、それはゲンソンが気怠げに小指を弾いただけで起きたことだった。


 シベリアの空は、たちまち晴れ渡った。血の色をしたオーロラは払いのけられ、静かな夜と、瞬く星々、そして穏やかな北の光が戻ってくる。吹雪は、最初から存在しなかったかのように消え去った。


 空間は、完全な沈黙に包まれた。


 ナ・ジャーとチンイーはどうにか上体を起こし、ポケットへ手を戻す男の背中を、ぽかんと口を開けたまま見つめた。あの力は……人間のものではない。神のものでもない。至高なる創造主の顕現だった。ナ・ジャーの傲慢さも、チンイーの冷徹さも、もはや完全に粉砕されていた。その代わりにあったのは、細胞のひとつひとつに刻まれるほど深く、圧倒的な畏敬だった。


「しょ、社長……」


 傷だらけのチャン・ユエンインは、こらえきれずに声を上げて泣き崩れた。よろよろと歩み寄り、痛みなど構わずにゲンソンの胸へ飛び込むと、彼が消えてしまうのではないかとでもいうように、その腰に強く腕を回した。


「すごすぎます……。もうだめだと……本当に、もう終わりだと思いました……」


 ゲンソンは見下ろし、小さく震えるこの小さな秘書を抱き留める。大きな手が、乱れた彼女の髪を優しく撫でた。その身体から広がる温もりが、ユエンインの寒さと痛みをやわらげていく。


「言っただろう。私がいる限り、地獄ですら君たちの命は取れない」


 ゲンソンは微笑んだ。低く温かなその声は、ひどく魅力的だった。


 少し離れた場所で、フレイヤ――戦女神ヴァルキリー――が、光の槍を杖のように支えながら、一歩ずつ苦労してゲンソンのもとへ向かってくる。北欧神の気高い美しさは、もはや絶対的な謙虚さを伴っていた。彼女はゲンソンの前に立ち、黄金の瞳で仮面の男を見上げる。


 フレイヤの心の奥では、神としての信仰の糸が、すでに完全に断ち切られ、別のものへと置き換わっていた。目の前の男。その気配、その力、その傲慢さは、彼女の知るヴァルハラのいかなる最高神をも凌駕していた。


 フレイヤはゆっくりと片膝をつき、雪と氷の上に身を沈めた。左胸に手を当て、もっとも敬虔で、もっとも服従のこもった礼を取る。


「私はフレイヤ。ヴァルハラの戦いの女神……いえ、今この瞬間をもって、ヴァルハラはもはや私の信仰ではありません」


 澄んだ声が、闇夜に響き渡る。そこには揺るがぬ意志と、隠しきれない激しい感情があった。


「あなたこそが新たな秩序。傷ついたこの魂を救う光です。至高なるお方、この誓いをお受け取りください。この肉体も、この魂も、この槍も……ヴァルキリーはすべてをあなたに捧げます。永遠に神のしもべとして、剣として、そしてあなたの女として」


 ナ・ジャーとチンイーは顔を見合わせ、苦笑にも似た、しかしどこか納得したような微笑を浮かべた。あんな男の前では、従うことこそが唯一の道であり、同時に、あらゆる強者にとって最も幸福な道でもあるのだ。


 ゲンソンはわずかに眉を上げた。ユエンインをそっと離し、フレイヤの前へ歩み出る。黒い革手袋をはめた手がゆっくりと伸び、戦女神の顎を持ち上げて、仮面の奥にある赤い瞳と真正面から向かい合わせた。


「神の誓いは重いぞ、北欧の娘」


 ゲンソンはからかうように言い、親指で彼女の柔らかな唇をそっとなぞる。


「魂を私に売るなら、もう後戻りはできない」


「この先の一生……フレイヤに、退く道などありません」


 彼女の瞳は揺るがず、熱く答えた。頬はうっすらと赤く染まっている。


「よろしい」


 ゲンソンは笑い、夜明けに染まり始めた地平へと身体を向けた。


「ようこそ、後宮……いや、Aegis Task Force の超人部隊へ。AIサイラ、新しいステルス機を手配しろ。もう家へ帰って風呂に入りたい。ここに立っていると、寒くてたまらん」

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