Episode 14
至高なる御方の白亜の光が虚無の彼方を掃き払ったとき、多元宇宙は、赤く燃え上がる炎の咆哮に呑み込まれることも、漆黒のブラックホールの静寂に沈むこともなかった。ただ――再構築されたのである。古びた絵布の上をひと刷毛で塗り替えるように、混沌の色彩はことごとく消し去られ、そこには純白のキャンバスだけが残った。そして、その白き地平に、ゲンソンはただひとつの世界を、自らの手で描き直した。
地球。魔法のない時代。
ニューヨーク、マンハッタンの中心にそびえる摩天楼。その最上階に浮かぶペントハウスで、ゲンソンはそっと目を閉じた。周囲には、静謐であるがゆえにむしろ息苦しいほどの贅沢が満ちている。数百万ドルは下らないサラウンド音響からは、甘美なピアノの旋律が流れ、赤いベルベットのソファには、絶世の美女たる五、六人の女たちが点々と横たわっていた。彼女たちはトップモデルであり、銀幕のスターであり、上流階級の中でも最も誇り高き薔薇であった。だがこの瞬間に限っては、すべてが深い眠りに落ち、その面差しには、これ以上ないほどの陶酔と満足が淡く宿っている。
ゲンソンはゆるりと瞼を開けた。クリスタルのグラスを持ち上げ、視線と同じ高さまで掲げる。
――ピキッ。
わずか一兆分の一秒の油断。心拍の呼吸に混じった、取るに足らぬ微動。それだけで、クリスタルの杯はあっけなく亀裂を走らせた。血のように紅いワインがひびの隙間から滲み出し、彼の指先――完璧に整った、細く優美な指を伝って滴り落ちる。
「……くそ」
ゲンソンは歯の隙間から低く吐き捨てた。
すぐさま瞼を固く閉じる。周囲の空間が、かすかに捩じれた。おぞましいほどの意志で、ゲンソンは自らの力を押し潰し、砕けたグラスを構成する一つ一つの原子にまで命じて――元の形へと縫い戻した。割れた痕など、最初から存在しなかったかのように、杯は滑らかに蘇り、ワインは逆流するように内へと押し戻される。
ゲンソンは長く息を吐いた。額には、なめらかな肌を濡らすほどの汗が滲んでいる。
肉体の痛みはない。だが精神への苛烈な拷問は、ありとあらゆる存在の限界をとうに超えていた。彼は創世の神である。その力は無限。だが、この魔法なき世界では、霊気は枯渇し、万物は濡れた紙のように脆い。ゲンソンがくしゃみをひとつすれば、恒星風の嵐が銀河を呑み尽くす。足をほんの少し強く踏み込めば、マグニチュード10の大地震が北アメリカ大陸の地殻を引き裂くだろう。
彼は絶えず計算しなければならない。自らの魂の九十九・九%を凍結し、力を「史上最低値」まで抑えつけて、ようやく――人間のように呼吸することができるのだ。
「また星々を滅ぼすことでもお考えになっていたのですか、閣下?」
背後から、やわらかく艶やかな声が響いた。ロシアとイタリアの血を引く女秘書、エレナが、薄絹のローブを身にまとい、忍び寄るように近づいてくる。彼女はゲンソンの広い肩を抱き、頬をその首筋へと寄せた。碧い瞳には、底なしの狂信が満ちている。
ゲンソンはわずかに口角を上げた。その微笑みは、窓の外に浮かぶ月光さえ掠め取ってしまうほどだった。今や彼の美貌は、凡俗の審美眼など遥かに超えている。それはもはや絶対的な完成美、触れれば傷つくほどの危ういまでの神性。彼自身がその魅惑を抑え込まなければ、真正面から顔を見た者は、即座にその執着で正気を失うだろう。
「ただ考えていただけさ。かつて万物の頂に君臨していた連中が、いまや便所掃除や傭兵稼業をやらされるのは……少々、残酷すぎるのではないかとな」
ゲンソンはワインをひと口含み、深く澄んだ声で言った。その声音は、まるで聖歌のように空間を震わせる。
エレナはくすくすと笑った。どうやら彼の言葉の深さには気づいていないらしい。
「またまた、ご冗談を。この世界で、閣下を差し置いて万物の頂に立てる者など、ほかに誰がいるというのです?」
ゲンソンは身体ごと振り向き、エレナの顎をそっと持ち上げた。潤んだ視線は甘やかでありながら、その奥底は氷河のように冷たい。
「君にはわからないだろう、我が天使よ。奴らは今も外にいる。雷霆を司る神々、ひとつの恒星系を血で染め上げた戦神たち……だが今では、誰もが自分が何者だったかさえ忘れている」
それが、ゲンソンの新しい掟だった。彼はあらゆる文明の神々の魂――オリュンポスの頂から、アースガルズの神殿から、東方の天界に至るまで――を根こそぎ集め、輪廻の車輪へと投げ込んだ。彼らは人として転生し、アメリカ、カナダ、ロシア、日本、韓国、イギリス、ブラジル……世界中に散らばっている。
記憶は失われた。生老病死に直面し、電気代の請求書に怯え、人間社会の些細な圧迫に晒されることになる。神たる力は封印され、残されたのは、ただ並外れた身体能力と直感だけだった。
「では、閣下は彼らに何をなさるおつもりで?」
エレナは囁いた。唇がゲンソンの耳朶にかすかに触れる。
「閣下はいつも、奇妙なおもちゃを集めるのがお好きですもの」
「おもちゃ、か」
ゲンソンは冷ややかな笑いを落とす。その音は、空間の奥で鈍く反響した。
「私はそれを、義務と呼ぶよ、エレナ。魔法の輪が回り始め、深淵の底から邪悪な存在たちが人類を狙っている。かつて人間を塵芥のように見下し、崇拝を要求していた傲慢な神々を……今度は、人類の保母にしてやるのさ」
彼は立ち上がり、強化ガラスの壁のほうへ歩いた。眼下には、灯りを点し始めた都市が広がっている。
「ルールは単純だ」
ゲンソンは、まるでガラス面に映る自分の影に語りかけるように、独りごちた。
「人の皮を被って生きること。人類を闇の勢力から守ること。もし残された力で私欲を満たしたり、利己に溺れたり、あるいは自らの管轄区域で人間を惨たらしく死なせたりしたなら――システムが即座に裁きを下す。奴らはまっすぐ冥府へと追放され、永劫に解けぬ地獄の刑罰を受けることになる」
「でも、何も覚えていないのなら、自分が誰を守るべきか、どうやってわかるのです?」
エレナは不思議そうに問う。指先でゲンソンの完璧な背をなぞりながら、彼女もまた一歩近づいた。
「本能だ」
ゲンソンは簡潔に言った。
「それに……私の介入もある。愚かさゆえに朽ち果てさせるつもりはない」
彼は卓上に置かれた、黒く艶めくヴィブラニウム製の精巧な半面マスクを手に取ると、ゆっくりと顔に着けた。見えているのは深い双眸と鋭い顎だけだというのに、その王者の気配はなお、人を跪かせるに十分だった。この世界で彼は神を演じるのではない。彼はゲンソン――全世界で最も強大な財閥の支配者にして、地球経済の七割を握る男。グローバル・テクノロジー&セキュリティ企業、Aegis Prime の背後に立つ黒幕である。
「奴らを集める」
ゲンソンは言った。その声音には、盤上を支配する者の狂気が滲み始めている。
「私はスーパーヒーロー企業を立ち上げる。あの迷い込んだ神々を、私の旗下へ招き入れる。給料を払う。制服を着せる。人間の法に従わせる」
エレナは目を見開き、恋人を見つめた。彼女には、ゲンソンが荒唐無稽を語っているのか、それとも真実を口にしているのか判別できない。だが、その傲岸不遜な自信に、彼女の身体はかすかに震えた。
ちょうどその時、卓上の量子暗号通信端末が激しく振動した。ゲンソンは受話器を取る。向こう側から響いてきたのは、極めて冷徹な人工知能の声――ゲンソンが全球衛星網のコアへと組み込んだ、Cyra の残滓だった。
「ゲンソン閣下。霊的エネルギー探知システムが、香港・中国、九龍地区において二つの発火信号を検出しました」
「正体は?」
ゲンソンは淡々と尋ねる。片手では、満たされたばかりのワイングラスを弄んでいた。
「神話系統の遺伝子コードに基づけば……それは三太子・哪吒と二郎神・楊戩の魂です。しかし――」
Cyra は珍しく、わずかに言い淀んだ。機械らしからぬ逡巡だった。
「輪廻システムの肉体形成過程にずれが生じました。両実体とも……現在の性別は女性です」
ゲンソンの口元がぴくりと引きつった。笑いを堪えようとしたが、失敗した。
やがて、嘲弄と歓喜が入り混じった朗らかな笑いが、喉の奥からこぼれ落ちる。
「哪吒と楊戩が女になっただと? やはり、私の監視がないと、この輪廻の車輪は実に愉快な働きをするらしい」
ゲンソンは笑いながら、涙まで滲ませた。だが同時に、彼は激痛に耐えていた。自らの笑声が生む音波でビルの窓ガラスが砕けぬよう、必死に制御していたのだ。
「で、奴らはそこで何をしている?」
「裏社会のギャング組織に対する粛清です、閣下。どうやら、彼女たちの好戦的な本性は少しも失われていないようです。重火器で武装した二百名以上の銃撃手に包囲され、さらに血の匂いを嗅ぎつけた変異体の『屍鬼』たちが群がっています」
「完璧だ」
ゲンソンは指を鳴らした。
「S級ステルス専用機を用意しろ。そろそろ、社長自ら未来の部下を視察する時間だ」
……
四十五分後。太平洋上空。
Aegis Prime の紋章を刻んだ漆黒の超音速ジェットが、雲海を切り裂いていた。
王宮の一室を思わせる広さのキャビン内で、ゲンソンは白いクロコダイルレザーのシートにもたれていた。黒いマスクは彼の顔の半分を覆い、残る口元はシャンパンを静かに口に運んでいる。彼の周囲では、プライベートフライト部門に属する麗しき女性たち――世界中からゲンソン自らが選び抜いた傑物たち――が、肩を揉み、足を揉み、やさしく世話を焼いていた。
その外側では、凡人たちの世界が偽りの平穏に浸っている。かつて雨風を生み、山脈を築いた神々が、いまや社会の底辺で生存を賭けてあがいていることなど、知る由もなく。
「もう少し速度を上げろ、Cyra」
ゲンソンは機体制御システムへと念を送った。窓の向こう、遥かなアジア大陸を見据えながら、思慮深い半笑いを浮かべる。
「生意気なあの二人が、先に人間どもを殺し尽くしてしまえば……私の会社と雇用契約を交わす前に冥府へ送られかねないからな」
九龍の埠頭には、叩きつけるような豪雨が降り注いでいた。立ちのぼる血の臭いと火薬の刺すような匂いを、少しでも洗い流そうとするかのように。
錆びついた巨大クレーンの影が落ちる薄暗い闇の中で、死の包囲網は音もなく狭まっていく。濡れた黒いスーツに身を包んだ、逞しい男たちが二十名あまり。攻撃用ライフルやソウドオフ・ショットガンを片手に、朽ち果てたコンテナへ向かって、じりじりと距離を詰めていた。
彼らは香港の地下世界で最も凶悪と謳われる黒虎会の精鋭だ。だが今、その銃口は、二人の女へと向けられている。
「ちくしょう……弾切れだ。凡人が作ったこんなクソみたいな武器、ほんとにゴミじゃないか」
古力ナザトは、血と雨の混じった唾をアスファルトへ吐き捨てた。
鋭く張りつめた美貌。身体にぴったり張りついていたレザージャケットは、すでに裂け、鮮やかな赤に染まっている。彼女の手にあるのは銃ではなく、二振りの短刀。柄には濃紅の布が幾重にも巻かれていた。
追い詰められてなお、瞳の奥には消えぬ猛火が燃えている。何を見ても、何を壊してでも焼き尽くしたいという、出所さえ自分で分からない本能の炎だ。
――ナタの魂が、この凡人の肉体に囚われている。
乾坤圏も、火尖槍もない。残っているのは、血の奥に流れる生来の傲慢さだけだった。
「文句を言う暇があるなら黙ってろ。お前がさっさとあの副幹部の首を斬っていれば、こんな腐った埠頭で足止めされずに済んだんだ」
張静儀は冷ややかに言い返した。その声には、刃物のような冷たさがあった。恐怖など、欠片も混じっていない。
二郎神・楊戩の魂を宿す女は、鉄骨の壁に背を預けていた。高く束ねた長い黒髪は雨に濡れて額へ張りつき、鋭く細い双眸は、第三の目でもあるかのように戦場の死角を絶えず測っている。
彼女は迷いなく、空のマガジンを地面へ放り捨てた。代わりに、残弾三発の拳銃を引き抜く。
「怖いのか、静儀」
古力ナザトが唇を吊り上げる。
「もし今日ここで死ぬなら、私はせめて十人は地獄へ引きずり込んでやる」
「怖い、なんて感情は知らない」
張静儀は淡々と答えた。
「ただ、虚しいだけだ。――私たちは、こんな薄汚い場所で、あんな蛆虫どもに殺されるために生まれてきたんじゃない。そんな気がしてならない」
そのとき、濃い雨音を切り裂くように、複数の足音が一斉に響いた。
敵の頭目が前へ出る。銃口をコンテナの隙間へ向け、今にも引き金を引こうとした、その瞬間だった。
空から、鈍く重い裂音が落ちた。
耳を圧し潰すような圧力が、上空から真っ直ぐに地上へ叩きつけられ、埠頭にいる全員の鼓膜を震わせる。
闇色の雲を割って、黒一色のステルスヘリが、ゆるやかに高度を下げてきた。機体には番号の一つもなく、ただAegis Primeの紋章だけが刻まれている。
エンジンの轟音はない。ただ、目に見えぬ圧が、雨粒の落ちる速度すら鈍らせていた。
やがてドアが開く。
降り立ったのは、完璧に仕立てられた手工芸のスーツを着た長身の男。
――ゲンソンが、来た。
黒いヴィブラニウム製の仮面が上半分の顔を覆い、露わになっているのは、薄い唇と、神々の彫像を思わせる鋭い輪郭だけだった。
彼が足を踏み入れた瞬間、周囲の空気はたちまち歪んだ。
「撃てぇっ! あのクソ野郎の頭を粉々にしろ! 黒虎会の揉め事に、誰が勝手に首を突っ込んでいいと言った!」
頭目が狂ったように吠える。
一斉に閃光が走り、無数の銃弾が雨を引き裂いてゲンソンへ殺到した。
だが、彼の内側では、誰にも理解できぬ凄絶な戦いが繰り広げられていた。
弾丸など、恐れるに足りない。
彼の一息は、この銀河ごと吹き飛ばせる。
彼が耐えているのは、ただひとつ――己の力の九十九・九%を封印し続ける、その精神的苦痛だった。
ミクロ単位で時間を測り、自身の魂を“負の記録”へ押し潰すように抑え込む。ほんの少しでも足を強く踏み出せば、ユーラシア大陸が裂ける。殺気を漏らしただけで、地球の大気圏は瞬時に燃え上がる。
「……実に、面倒だな」
ゲンソンはため息まじりに呟いた。
そして、一歩踏み出す。
マフィアたちの目には、彼はただ散歩でもしているようにしか見えなかっただろう。だが実際には、ゲンソンは自分の周囲、極小の範囲に限って時空を捻じ曲げていた。
音速で飛来した弾丸は、空中で這う蝸牛のように鈍くなる。
彼はそれらを、ひとつずつ優雅に避けながら、二十人の殺し屋たちの包囲の中へと、まっすぐ歩み入った。
「なっ……何だ、こいつ……! 当たらない!?」
「バ、バカな……!」
「撃て、撃てぇっ!」
悲鳴が雨音に混じって飛び交う。
しかし、ゲンソンは足を止めない。
そして、軽く手を払った。埃を払うような、あまりにも気怠い所作だった。
たったそれだけで、圧縮された空間の力が弾ける。
屈強な二十人の殺し屋は、見えない壁に弾き飛ばされ、十数メートルも後方へ吹き飛んだ。コンテナへ叩きつけられ、肋骨が砕ける嫌な音が、雨の中に生々しく響く。
だが、その混乱のさなか、地面に倒れた瀕死の男の一人が、恐慌に駆られて引き金を引いた。
大口径のライフル弾が雨幕を裂き、コンテナの陰から飛び出した古力ナザトの頭を正確に狙う。
「危ないっ!」
張静儀が叫んで駆け寄り、ナザトを突き飛ばそうとした。だが、間に合わない。
弾丸は唸りを上げて迫る。
――しかし、ゲンソンは、それよりも速かった。
彼は、この場で未来の社員を失うわけにはいかなかった。契約書に署名する前に死なれては困るのだ。
瞬く間に、仮面の男は二人の女の間へ現れた。
片腕で古力ナザトの腰を抱き寄せ、もう片方で張静儀の肩を引き寄せる。三人の身体が密着する。
その瞬間、雪松に似た香りと、抗いがたい男の色香が、二人の鼻腔を強く打った。冷え切っていた心臓が、かすかに、だが確かに拍を乱す。
弾丸など気にも留めず、ゲンソンはコンクリートを蹴って、二人を抱いたまま埠頭の手すりを越えた。
だが、芝居をより完璧なものにし、神の正体を人間たちから隠すために、彼はあえて左肩の防御磁場をミリ単位で開放した。
「――ッ」
弾丸がスーツを貫き、凡人の肉体をかすめる。
鮮血が迸った。
その刹那、三人の身体は、凍りつくほど冷たく、漆黒に濁ったヴィクトリア湾の流れへと真っ逆さまに落ちた。雨を切り裂く水音が、豪雨に飲み込まれて消える。
川底の闇の中で、ゲンソンは目を固く閉じた。
身体の反射を完全に凍結し、意識を失った者のように、ただ力を抜く。
すると、柔らかい――しかし驚くほど強い――二本の腕が、必死に彼へ伸びてきた。
古力ナザトと張静儀は、すぐに彼の腕を掴むと、足を打って水を掻き、三人を岸へ向けて押し上げていった。
やがて三人は水面を破って浮上し、苔むした石積みの護岸へ這い上がった。
古力ナザトは肩を上下させ、濡れた髪をかき上げながら、地面に倒れた見知らぬ男を見下ろした。左肩から流れる血が、雨と混じって石畳へ落ちていく。
「ねえ! しっかりしろ! あんた、誰だよ! なんで私たちのために弾を受けたの!?」
彼女が肩を揺さぶっても、返事はない。
張静儀は眉をひそめ、すぐに屈みこんで彼の頸動脈に指を当てた。
記憶を失っているはずなのに、戦神としての本能が、目の前の男から異様な圧迫感が滲み出ているのを感じ取っていた。凡人の皮の下に、途方もなく古く、恐るべき何かが潜んでいる――そんな感覚だった。
「……生きてる」
張静儀が低く言う。
「でも、どうしてこんな場所に、あのヘリで現れたんだ? Aegis Prime……世界最大級の武器技術企業じゃないか」
二人が事態を飲み込むより早く、河岸道路の上から、強烈な車両用ヘッドライトが一斉に護岸へ向けて掃射された。闇が白く裂ける。
二十人を超える別働隊が、痩せた老獪な男に率いられて押し寄せてきた。毛皮のコートを羽織り、葉巻をくゆらす、その老人こそ――黒虎会の真の支配者、黒龍だった。
その脇には、スリットの深いドレスで長い脚を惜しげもなく晒した、妖艶な愛人たちが三、四人。雨の中、震えながら傘を差し、老獪な王のご機嫌を必死に守っている。
「逃げられると思ったか、このクソ女どもが」
黒龍が唸るように笑った。
「俺の荷をこっそり齧った報いだ。今日は二人まとめて切り刻んで、川へ放り込んで魚の餌にしてやる。捕まえろ! そこにいる仮面の腑抜けもだ!」
葉巻の煙を吐き出しながら、老獪は下衆な怒声を上げる。
手下たちがマチェーテと拳銃を構え、護岸の階段を駆け下りてきた。
古力ナザトは短刀の柄を握りしめ、張静儀はゲンソンの前へ立ちはだかる。最後の血戦が、今まさに始まろうとしていた。
――だが、そのときだった。
地面に倒れていたはずの男が、かすかに身じろぎした。
ゲンソンはゆっくりと目を開ける。
仮面の下の黒い瞳は、宇宙の暗黒を思わせるほど冷たかった。彼は立ち上がらない。ただ、雨に濡れた石の上へ気怠げに座り込み、深いため息をひとつ漏らす。そして、血のついた右手を、ゆっくりと持ち上げた。
「……うるさいな」
ゲンソンは口元を歪めた。
そして、細く長い小指を、空へ向ける。
次の瞬間――
無音の、しかし凄絶な真空爆が起きた。
小指の先から放たれた、音速の十倍で圧縮された衝撃波が、地表を一閃する。だが、それは何もかもを破壊する力ではなかった。憎意ある者だけを、正確無比に弾き飛ばすための力だった。
階段を駆け下りていた二十人の荒くれ者たちは、突如、見えない大気の壁に胸を叩き潰される。
一斉に血を吐き、糸の切れた操り人形のように宙へ吹き飛んだ。数十メートル先の車道へ叩きつけられ、全員が瞬時に意識を失う。
黒龍でさえ、圧力に押し潰されて地面へ這いつくばった。膝は砕け、両手で雨水の溜まった地面を支えるのが精一杯。顔を上げることすらできない。
小指一本で、すべてが終わった。
古力ナザトと張静儀は、その場で凍りついたように動けなかった。
目を見開き、息を呑む。
――こんな暴力、知っている人間の物理法則を、はるかに超えている。
武術ではない。これは、空間そのものを支配する絶対的な干渉だ。
ゲンソンはゆっくり立ち上がると、高価なスーツについた泥を軽く払った。
そして、階段を一歩ずつ上がり、地面にひれ伏す黒龍のもとへ向かう。
黒龍は震えながら、恐怖に満ちた目で彼を見上げた。
「お前……いったい、何者だ……」
ゲンソンは、その言葉を完全に無視した。
深く、放浪者のようでいて人を惑わせる魅力を湛えた瞳が、黒龍の傍らにいる愛人たちへと移る。雨に震え、抱き合ったまま傘を落としてしまっている、美しい女たち。
仮面の下で、致命的なほど魅惑的な笑みが浮かんだ。
ゲンソンは歩み寄り、指先で、ブロンドの巻き髪の女の顎をそっと持ち上げる。
「こんなに鮮やかで、こんなに気高い花々が、どうしてあんな腐ったゴミの隣で、雨風に打たれなければならないんだろうな。――まったく、造化の美を損なうにもほどがある」
「あなた……」
女は言葉を失い、頬を紅潮させた。冷たい雨にもかかわらず、膝から力が抜けていく。
完璧すぎる美貌と、抗いがたい王者の気配の前で、ついさっきまでの恐怖など、どこかへ吹き飛んでしまう。
「今日は少し、人事の仕事で忙しくてね」
ゲンソンは気怠そうに言った。
「だが、ちゃんと自分の身は守っておくんだ。レディたち。次は必ず戻ってくる……もっと温かいベッドの上で、まとめて面倒を見てやるから」
黒龍は怒りで血を吐きそうになった。
香港の黒社会を束ねる自分の女に、この男は目の前で平然と口説きをかけている。しかも、自分など眼中にないとでも言うように。
だが、ゲンソンから立ちのぼる無形の圧力が後頭部を押さえつけ、罵声ひとつすら吐けなかった。
やがて彼は踵を返し、護岸へと降りていく。そこには、雨の中で呆然と立ち尽くす二人の女がいた。
ゲンソンは胸元の内ポケットへ手を差し入れ、白金の名刺入れを取り出す。そこから、金文字が浮き彫りになった漆黒のカードを二枚引き抜き、彼女たちへ差し出した。
「生存技術は悪くない。目も鋭い。だが、武器と発想があまりにも凡庸だ」
「……あんた、一体、私たちに何を求めてるの?」
古力ナザトは警戒を崩さぬまま、一歩後ずさる。短刀はなお握りしめたままだ。
「私は商売人だ。Aegis Prime は、グローバル保安部門を拡張している」
ゲンソンは静かに答えた。
「二人は、その……警備職に向いている。私の下へ来い。ここみたいなみすぼらしい埠頭で得ている、血まみれの端金の何万倍もの給料を払おう。だが何よりも――」
彼は張静儀の耳元へ顔を寄せた。
その吐息は熱を帯び、万物の頂に立つ者だけが持つ、絶対的な威厳を含んでいた。
「君たちが、いったい何者なのか。必ず教えてやる」
九龍の空を、稲妻が横切った。
激しい雨の帳の下で、神話の最初の二つの欠片が、ついに創世神の掌へと落ちたのだった。
――魔法のゲームは、いま始まったばかりだ。
江南の繁華街を彩る眩いネオンが、KSエンターテインメント本社ビルの強化ガラスに、きらめく筋をいくつも映し出していた。大理石で敷き詰められた広大なロビーには、静寂と緊張が張りつめ、冷や汗が床へ滴る音すら聞こえてきそうなほどだった。
ふだんなら韓国芸能界で火を吹くように威勢を張る重役たちが、今は十数人そろって九十度の角度で腰を折り、頭を上げることもできずに震えている。
その空気を切り裂くように、漆黒の防弾仕様ロールス・ロイス・スウェプテイルから降り立ったゲンソンが、ゆっくりと玄関ホールへ歩み入った。皺ひとつない手仕立てのスーツ、その上には半ばを覆う冷ややかなヴィブラニウム製の仮面。背後には、Aegis Primeの精鋭警護班が隙なく展開し、武装したまま影のように周囲を囲んでいる。
この魔法なき世界において、ゲンソンは単なる大株主ではない。巨大芸能企業の血流そのものを司る、まさしく“神”だった。
「ゲンソン様、ソウルへようこそ。VIPルームと、選りすぐりの練習生の名簿はすでに――」
執行役員が後ろを追いながら、おべっかを並べる。だがゲンソンは、人差し指を一本立てて沈黙を命じただけだった。彼には、俗っぽい追従に耳を傾ける暇などない。
仮面の奥の深い瞳が、ビルの構造をなぞるように巡る。胸の内で暴れようとする混沌の奔流を、必死に抑え込んでいるのだ。赤絨毯の上を歩くだけですら、彼は自らの体重を精密に計算しなければならない。さもなくば、創世の歩みひとつでソウルの土台そのものが粉砕されてしまう。
「一人で歩ける。無駄に人を寄こすな。安っぽい香水の匂いで息が詰まる」
そう冷たく言い捨てると、ゲンソンは最上階の専用練習棟へ続く廊下へと、迷いなく足を向けた。
――VVIP第1控室。
たった今、音楽が止んだばかりだった。
張元英――メディアがJang Wonyoungと讃える、国民的ガールズグループのセンターにしてビジュアルの象徴――は、ソファに崩れ落ちるように腰掛け、長い脚をガラスのテーブルに投げ出したまま、荒い息をついていた。きらめくクリスタル装飾の舞台衣装に身を包み、顔立ちは細部まで計算されたメイクで彩られている。その姿は、絵本から抜け出した姫君のように、甘やかで気高い。
だが、ノックもなく扉が突然開いた。
「ちょっと、マネージャー、あと十分だけ休ませてって言ったでしょ……」
苛立ち混じりに顔を上げた元英の言葉は、喉の奥でぴたりと止まった。
立っていたのは、あの脂ぎったマネージャーではない。見知らぬ男――高く、圧倒的に大きく、ただそこにいるだけで王者の重圧を放つ存在だった。部屋の空気そのものが凍りついたようだった。黒い半仮面が、鋭い顎と薄情に見える唇をいっそう際立たせている。
ゲンソンは戸口に背を預け、腕を組んでいた。深い黒の瞳が、元英を真っ直ぐ射抜く。
創世者たる彼の、万物を見透かす視線の前では、アイドルという華やかな仮面など一瞬で剥ぎ取られる。ゲンソンの目に映ったのは、彼女の血脈を激しく巡る輪廻の流れだった。二十歳そこそこのか弱い娘の背後に、淡紫の衣をまとい、紫青の宝剣を携えた一人の仙子の幻影が重なる。何万回もの輪廻を越えてなお消えぬ、骨の髄に刻まれた悲哀を引きずって。
紫霞仙子。
ゲンソンはわずかに口端を上げた。久しく見せなかった、興味を含んだ笑みだった。
――情ひとつのために天界を大騒ぎさせたあの仙女が、いまや短いスカートを着せられ、凡人たちの歓楽のために踊らされ、しまいには倒れそうになるまで食事制限を強いられているとは。
自らが仕掛けた転生の遊戯の、あまりに皮肉な光景に、ゲンソンは思わずそんな感慨を抱く。
「……あなた、誰ですか? どうしてここに入れたんです? 警備は――」
元英は慌てて立ち上がり、乱れた衣服を押さえた。警戒はある。だが、その脚は勝手に震えている。目の前の男が放つ気配は、常軌を逸していた。彼女のいつもの高慢さなど、容易く押し潰してしまうほどに。
ゲンソンは、ゆっくりと近づいた。歩を進めるたび、空間そのものが脈打つように揺れる。
わざと、ぎりぎりまで距離を詰める。
元英は後退を余儀なくされ、ついに背中を冷たいガラス壁へとぶつけた。
「君は、張元英か」
「そ、そうです……。あなた、まさか熱狂的なファンですか? 近づかないでください、じゃないと叫びますよ」
声は震えていた。
「熱狂的なファン?」
ゲンソンは低く笑った。その胸の奥から響くような笑いに、元英の心臓は思わず一拍、飛び跳ねる。
「私は、君が搾り取るように働いている、その会社の最大株主だ。言い換えれば、君は私の社員だよ、少女」
その反骨と無垢が入り混じった顔を見て、ゲンソンは少しだけ悪戯心を覚えた。
細く冷たい指先が、彼女の額に張りついた汗で濡れた前髪へそっと触れる。それを耳の後ろへ撫でつける仕草は、あまりに柔らかく、元英は完全に固まった。
「気配は悪くない。まるで地上へ降りた仙子だ。だが、ああやって踊って回るのは、君には似合わない。君は剣を持つほうが、ずっと映える」
「け、剣って……何を言ってるんですか、あなた……」
元英は真っ赤になり、ゲンソンの放つ、雪松の香りを含んだ温かな息から顔を逸らそうとした。
だが、ちょうどゲンソンが身を屈め、彼女の前世についてもうひとつ皮肉を落とそうとした、その瞬間だった。
小さな事故が起こった。
ゲンソンは、自身の体内で暴れそうになる霊気を抑えることに意識の一部を割かれていたため、外装の周囲に張っていた保護磁場の維持を、一瞬だけ失念してしまったのだ。もともと爆弾にも銃弾にも破壊されないはずのヴィブラニウム製合金の留め具が、彼自身の自然圧によってぷつりと切れた。
カチン。
黒一色の仮面が、ゲンソンの顔から滑り落ち、絨毯の敷かれた床へと真っ直ぐ落ちた。
練習室の時間が、そこで止まった。
元英は無意識に視線を上げた。
そしてその瞬間、彼女の世界観は音を立てて崩壊した。
ネオンの光を浴びたゲンソンの素顔は、凡俗の美男などという言葉で表せる代物ではなかった。人間の基準で測れるような顔立ちではない。星辰の鋭さ、宇宙の深淵、そして正視した者の魂を引き裂くほど危険な妖魅――それらすべてを抱えた、超越的で、あまりに完璧で、残酷な美しさだった。
黒曜石のように深い瞳は、銀河そのものを閉じ込めたかのように煌めき、高く通った鼻梁、薄い唇には、王者めいた半笑いが浮かんでいる。
元英の思考が爆ぜた。
心臓が狂ったように打ち、血が脳へ一気に押し寄せる。呼吸の仕方も、自分が誰なのかも、つい先ほどまで感じていた恐怖さえも忘れてしまった。
ただ、その顔を見つめることしかできない。
深い前世の底から、見知らぬはずなのに懐かしい、激しい感情の奔流が込み上げ、理性を丸ごと呑み込んでいく。恋に落ちたのだ。
たった一瞬で刻みつけられた、絶対的な恋慕だった。
「……あなた……」
元英は震える手を伸ばした。そこにある顔が、本当に人間のものなのか、それとも神が地上へ降り立ったものなのか、確かめたかった。
だが、その指先がゲンソンの頬に触れようとした、その直前――練習室のドアが、凄まじい力で蹴り破られた。
バンッ!
扉は壁に激突し、鈍い音を立てる。
「役立たずどもめ! こんな時間に休憩だと!? 今、下のロビーに誰がいると思ってる! 張元英の小娘をさっさと連れて来い!」
酒と傲慢の熱で真っ赤になった顔の、禿げ上がった肥満体の男が、乱暴に部屋へ踏み込んできた。KSエンターテインメントの会長――芸能界の生殺与奪を握る男だ。よろめきながら高級酒の瓶を片手に、室内の状況もろくに見ずに怒鳴り散らしている。
「ここで何してやがる!? 俺の金の卵の部屋に、どこのどいつが勝手に入り込んだんだ!」
会長は咆哮し、酒瓶を振り上げた。
甘く芽吹きかけた空気は、たちまち裂け散った。
創世者が、人類に対して残していたわずかな忍耐など、その瞬間、完全に蒸発した。
星々を湛えていたゲンソンの瞳は一瞬で消え失せ、そこには虚無の冷たさだけが残った。彼は仮面を拾うことすらしない。
幻影のような動きで、ゲンソンは元英の視界から消え、次の瞬間には会長の目の前に立っていた。
片手で、太った首根っこを掴む。百キロはあろう巨体を、まるで雛鳥でも摘むかのように、軽々と宙へ持ち上げた。
「う……ぐ……お前……お前は……」
会長の目が大きく見開かれ、酒瓶が床へ落ちて砕け散る。間近でゲンソンの、完璧でありながら殺意を孕んだ顔を見た瞬間、体の中の酒精はたちまち冷や汗へと変わった。
Aegis Primeの、無限の権力を握る謎の大株主――その男だと、ようやく気づいたのだ。
「も、申し訳ございません……ゲンソン様……」
会長はかすれた声で命乞いした。足は宙を蹴るばかりだ。
「うるさい。気分を台無しにされた」
ゲンソンの声には怒りすらなかった。ただ、万物の上に立つ存在が下等生物へ下す、無感情な断罪だけがあった。
「韓国には、あと半月ほど滞在する。だが、その間にいくつか片づけねばならない。お前の手下どもに伝えろ。私のために最高級の住まいをすべて整えておけ。――それから」
ゲンソンはわずかに首を傾げた。
銃も刃物も使わない。首を握り潰す必要すらない。
彼はただ、もう片方の手をゆっくりと持ち上げた。そして、小指をぴんと伸ばす。
「――ッ」
次の瞬間、小指から、糸のように細いのに、どんな合金よりも鋭い気の刃が放たれた。
それは会長のスーツを貫き、脂肪を裂き、胸骨を穿ち、その心臓を一撃で粉砕した。
鈍い赤黒い血が背後へ噴き出し、白い壁を鮮血で染め上げる。
ゲンソンは手を離した。巨体がどさりと床へ崩れ落ちる。会長の目はなお見開かれたまま、左胸にはぽっかりと穴が空き、血が止まることなく溢れていた。
即死だった。悲鳴ひとつ、上げる暇もない。
その惨劇を目の当たりにした元英は、口を押さえたまま後ずさり、そのまま床へ崩れ落ちた。
極限の恐怖が全身を覆う。だが奇妙なことに、ゲンソンへ向ける視線からは、どうしても狂おしいほどの憧憬が消えない。
その男は、目の前で誰かを無慈悲に殺した。なのに、嫌悪するどころか、もっと見ていたい、もっと自分を見てほしい――そんな欲望さえ芽生えてしまう。
ゲンソンはゆっくりと振り向いた。
胸ポケットから白い絹のハンカチを取り出し、小指についた血のひとしずくを、丁寧に拭う。そして屈み、落とした仮面を拾い上げ、何事もなかったように再び顔へ装着した。
魔性の美貌は、ふたたびその奥へ隠される。
彼は元英の前まで歩み寄り、床に座り込んだ彼女の顎をそっと持ち上げた。半笑いが、いつものように浮かぶ。
「怖がるな、私の仙子。死ぬべき者が死んだだけだ。荷造りしておけ。明日から君は、もうアイドルじゃない。私の専属秘書だ」
そう言い残すと、ゲンソンは血の匂いが濃く立ちこめる部屋を背に、踵を返して出ていった。
張元英は、薄暗い光の中に一人残された。だが凡人としての心は、もはや完全に、神の顔をした悪魔によって奪われていた。
――その頃、ソウルから南へ数千キロ離れた香港では。
豪雨はすでに過ぎ去り、星ひとつない真っ黒な夜空だけが残っていた。
旺角の古びた、今にも崩れそうな団地の奥。薄暗い蛍光灯のちらつく下、二人の女が向かい合って座っている。
古力ナザトは、血のついた短刀を荒っぽく木製テーブルへ放り投げた。そして、自分の腕の傷口を隠すように、衣の端を引き裂いて強く巻きつける。鋭い顔立ちは今、苛立ちと焦燥に満ちていた。
「くそっ……いったい、あの男は何者だったの? 見たでしょ、あいつのやったこと! 小指でひと弾きしただけで、黒虎会の精鋭二十人がゴミみたいに吹っ飛んだのよ。人間じゃない!」
張静儀は答えなかった。
凡人の顔を持つ女戦神は、破れたソファに静かに腰掛け、金文字の刻まれた漆黒の名刺を見つめたままだった。カードには、盾のような純粋な紋章と、たった一行の文字がある。
――Aegis Prime - Genson。
「……あの男が何者かは、分からない」
静儀は低く呟いた。その声音はいつもの冷たさを保っていたが、そこには僅かに震えが混じっていた。
「でも、あの弾丸を受け止めるために私に触れた瞬間……私の中の何かが、目覚めた気がした」
彼女は額の中央に手を当てる。凡人の皮膚の下で、そこには熱い脈動があった。第三の目が、殻を破って開こうとしているような、激しい熱だ。
「私もだ」
ナザトが歯を食いしばる。瞳の奥には、見えぬ怒りの炎が燃えていた。
「奴が現れた瞬間、血管が破裂しそうだった。怖かったんじゃない。――戦いたいって、そう思ったのよ。原初の憤怒みたいなものだわ。まるで、私はこの世界を焼き尽くすために生まれてきて、あの男がその檻を開けたみたいに」
静儀はゆっくり顔を上げ、ナザトを見た。そして深く息を吸う。
香港の闇社会だの、縄張りを奪い合う小競り合いだの――そんなものが、突如としてひどく空虚に思えた。
「Aegis Prime……スーパーヒーロー企業、か」
静儀は名刺を手に取り、強く握りしめた。
「準備しよう、ナザト。私たちのチンピラごっこは、もう終わりだ。……ゲンソンというあの男は、私たちを、地獄よりも苛烈な戦いへ引きずり込む気がする」
酸性雨が、東京・歌舞伎町の雑踏へと続く狭い路地に、しとしとと降り注いでいた。青と赤のネオンが眩しくもどこか冷たく、湿った夜気の中で鋭い光の筋を引いている。
廃棄された地下駐車場の底は、血と硫黄の臭気で濃く満ちていた。
そのとき、空間が不自然に捻じれた。
まるで巨大なハンマーで叩き砕かれた鏡のように、闇がひび割れ、漆黒の裂け目が生まれる。冥府の亀裂から、痩せこけ、爛れ、長大な鉤爪を備えた無数の腕が狂気じみた勢いで伸びてきた。
地上へ這い出したのは、十数体の異形の「尸鬼」だった。ぎざぎざの歯を剥き出しにし、唸りながら、生き物のぬくもりを求めて獲物へにじり寄る。
その絶望の輪の真ん中に立っていたのは、ちぎれたセーラー服を身にまとい、短く切られた髪を血に濡らした少女だった。手には刃こぼれした刀身の刀。肩は大きく上下し、息は荒い。
凡人としての記憶は、彼女に自分がごく普通の女子高生だと告げている。だが、血の奥底では、ある日本の暴風の神の狂暴な力が、解き放てと叫び続けていた。
彼女はひと息に刀を振るい、突進してきた一体を真っ二つに断ち斬る。だが次の瞬間、別の三体が飛びかかり、鋭い牙を肩へ深く食い込ませた。
闇は、東京を呑み込もうとしていた。
そして同時に、記憶を失った神々の生存本能までも、ひとりずつ噛み砕こうとしていた。
――その遥か半周先。
ニューヨーク、マンハッタンの中心では、空があまりに静かだった。
Aegis Prime本社の塔は、雲を突き刺すようにそびえ立っていた。巨大な盾のような外観を持ち、最先端の反射強化ガラスに覆われたその姿は、威厳そのものだった。
塔の最上階。量子防壁で厳重に守られたその場所で、チャン・ウォニョンは、濃いエスプレッソのトレイをそっと抱え、羊毛の絨毯が敷かれた廊下を慎重に進んでいた。
かつてソウルで万人の視線を集めた国民的ビジュアルは、今では自ら進んで、身体にぴたりと沿う秘書制服を身につけている。長い巻き髪は肩先へと流れ、透き通るような瞳は、何度も社長室の扉へと吸い寄せられていた。
あの夜、KS Entertainmentで起きた惨劇。
あの男の仮面が落ちた瞬間から、彼女の内側にいた紫霞仙子の魂は、ただ一つの信仰を見つけてしまったようだった。
悪魔でも神でも、もうどうでもいい。
ただ、そばにいたい。
あの男の吐息に混じる雪松の香りを、もう一度だけでも吸い込みたい。
その深い瞳に、もう一度だけでも見つめられたい。
「チン」
専用エレベーターの到着音が、夢想に沈んでいたウォニョンの思考を断ち切った。
扉が開く。
現れたのは、見知らぬ二人の女だった。
この上流階級の空気にはまるでそぐわない、重く濃い殺気を纏っている。
古力娜扎は、擦り傷だらけの暗紅色のレザージャケットを羽織り、ガムをくちゃくちゃと噛みながら、吊り上がった目を不遜に光らせていた。隣には張静儀。黒いタクティカルウェアをぴたりと着こなし、腰には弾倉とダガーが並ぶ。顔立ちは氷のように冷たい。
香港の裏社会で名を馳せた二人の女大頭目は、Aegis Primeの専用機で、血に濡れた港からこの贅沢な世界へと直送されてきたのだ。だが、その瞳にはまだ、警戒が色濃く残っていた。
「へえ……保安会社にしちゃ、ずいぶん派手じゃないの。てっきり、どこかの地下牢にでも放り込まれるかと思ったわ」
娜扎は感心したのか嘲ったのか分からない口調で言い、噛んでいたガムを感応式のゴミ箱へ吐き捨てた。
その視線が、ちょうど立ちふさがっていたウォニョンとぶつかる。
娜扎は片眉を上げ、目の前の、いかにも華奢で美しい秘書を上から下まで値踏みした。
「ねえ、そこのお嬢さん。お茶出しが終わったなら道を開けて。私たちは、あんたの仮面の上司に会いに来たの」
ウォニョンは眉をひそめ、背筋をぴんと伸ばした。
仙子としての矜持が、胸の奥でふっと頭をもたげる。
彼女は怯まなかった。トレイを脇のガラステーブルへ静かに置くと、腕を組み、いかにも事務的で人工的な笑みを浮かべた。だが、その目だけは刃物のように鋭い。
「あなたたちは誰ですか。ここはVVIPエリアです。市場のチンピラが入っていい場所じゃありません。アポイントはありますか?」
「アポイント?」
娜扎は高らかに笑い、一歩前へ出た。わざとウォニョンに近づき、圧をかける。
「うちのボスが、黒いカードをポンと投げて、私たちをそのまま飛行機に乗せたのよ。私の細い足を折られたくなければ、さっさと脇にどきなさい」
「やれるものならやってみてください!」
ウォニョンは顎を持ち上げ、一歩も退かなかった。目の奥が妙に明るく輝いている。
なぜだろう。命を脅かされているというのに、怖くない。
それどころか、血の中で見えない力が沸騰し始め、あの生意気な女を張り倒せとささやいているようだった。
「やめろ、娜扎。騒ぐな」
張静儀が冷ややかに声を発した。そして二人の間へ割って入る。
細く切れ長の瞳が、ウォニョンをじっと見据える。かすかに、懐かしい光を感じていた。まるで、遠い昔にどこかで会ったことがあるかのような――そんな、説明しがたい感覚だ。
「君は、Gensonの秘書か」
静儀は平坦な声で言った。
「彼に伝えてくれ。娜扎と静儀が、招待に応じて来たと」
「社長は今お取り込み中です。こちらで少々お待ちを――」
ウォニョンが言い終える前に、社長室のオーク材の扉が、音もなく、突然開いた。
その瞬間、見えない圧力が、万の山々を一斉に押しつけたように廊下へ降りかかった。
空気が凍りつく。
娜扎は膝から崩れそうになり、静儀は歯を食いしばって壁に手をつき、どうにか跪かされるのを堪えた。ウォニョンですら、胸が苦しくなるほどの圧迫を感じたが、その奥に、言葉にできない陶酔が混じっていた。
暗い室内から、Gensonがゆっくりと姿を現す。
完璧な肉体を持つその中で、彼は今まさに凄絶な拷問を受けていた。秒ごとに、創造神の意志で神経の一本一本を封じ、心拍の速度を落とし込んでいく。体内の混沌の気配は、いつ破裂してもおかしくない原子炉のように暴れていた。
ひどい頭痛だった。
自分の力を、常識外れの“マイナス”まで圧縮し続けるせいで、脳髄を直接ねじ切られるような痛みが走る。
一瞬でも緩めれば、この太陽系はたちまち虚無へ蒸発するだろう。
Gensonは仮面の上からこめかみをそっと押さえ、白く冷たい吐息を、夏のニューヨークの空気へと落とした。
「言い争いは、もう終わったか、レディたち」
その低く甘く妖しい声が、三人の少女を圧迫から解き放った。
三人は同時に彼を見上げる。
ウォニョンは心酔。
娜扎は警戒に好奇心を混ぜて。
静儀は、骨の髄から来る畏れを隠しきれないまま。
「ずいぶん派手なお出迎えね」
娜扎が意地を張った。
「私たちをここへ呼んで、何をさせる気? ファッションショーでも始めるつもり?」
Gensonは答えない。
浪人めいた眼差しで、彼は三つの神話の欠片を見た。恋に縛られた紫霞仙子、苛烈な三太子・哪吒、そして冷厳な二郎神・楊戩。
この輪廻の逆転は、彼にとってマッハ法のゲームをはるかに面白くしていた。
彼は口角をわずかに上げ、招くように手を差し出した。
「中へ入れ。君たちが、自分の命にどれほどの価値があるのか――そろそろ知るべき時だ」
三人の少女は黙ったまま、Gensonのあとに続いて広大な執務室へ足を踏み入れた。
そこには豪奢な家具はひとつもなかった。
ただ、漆黒の空間と、透明な強化ガラスの床があるだけだ。
扉が閉まると、Gensonは指を鳴らした。
「パチン」
一瞬で、部屋全体が無数のホログラムで埋め尽くされる。
財務表ではない。
世界各地の血塗られた光景だった。
冥府の怪物たちが人間を殺戮する映像、闇の実体が夜の底から這い上がってくる映像、何の罪もない人々が鬼の爪に引き裂かれていく映像。
「な……何よこれ。映画の特殊効果?」
娜扎が目を剥いた。
「違う」
Gensonはゆっくりと振り返り、背中で手を組んだ。
王が家臣を見下ろすような、静かな威厳があった。
「これが現実だ。君たちが生きている世界――いや、正確には、すでに始まったマッハ法の時代だ。霊気は枯れ、秩序は崩れた。君たちが見ているのは、冥府の生き物たちだ。放っておけば、あれは人類を呑み込む」
「私たちに何の関係があるのよ」
娜扎が顔をしかめる。
「私たちはただの殺し屋。世界を救うヒーローなんかじゃない」
「だからこそだ」
Gensonは一歩前へ出た。その殺気がほんの少し漏れただけで、脇のガラス製タンブラーが砕け散った。
「君たちは凡人じゃない。記憶を奪われた神だ。君たちの血には、山を砕き、海を埋める力が眠っている。だが今は、ただ眠っているだけだ。――ゲームは単純だ、レディたち」
Gensonは静儀と娜扎の間へ身を屈め、顔を近づけた。
仮面越しでもなお、声は氷のように冷たく、それでいて、万物を従わせる絶対的な響きを帯びていた。
「この瞬間から、君たちはAegis Primeのスーパーヒーロー部隊に属する。任務は人類の保護だ。成果を上げれば、金も名声も与えよう。失われた神力も、少しずつ解放していく。だが、臆病に逃げるなら。利己的に振る舞うなら。あるいは失敗するなら――」
彼は手を上げた。
そこに、業火が沸き立つ地獄の次元と、幾万の魂の絶叫が、ありありと映し出された。
「私自ら、君たちの魂を冥府へ追放する。一切の例外はない。それが私の定めた法だ。そしてこの世界では、私の法こそが絶対だ」
沈黙が、喉を締めつけるほど濃く落ちた。
静儀は唇を噛み、血をにじませる。
信じられない。
信じられないはずなのに、目の前の仮面の男は、どう考えてもそれをやってのける。
生死を超えた圧力と、魂の奥を震わせる確信が告げていた。
この男は、冷酷な新秩序の暴君だ。
「……あなた、いったい何者なの?」
静儀がかすれた声で問うた。
「私か?」
Gensonは笑った。
それはあまりにも魅惑的で、危険な笑みだった。彼は少し身を引き、背もたれの高い革張りの椅子へ腰を下ろす。
「ただの、少しばかり金のある会社の社長だ。あと――綺麗なものが好きなだけ。君たちは、私を“ボス”だと思えばいい」
彼は指先で椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「どうする? 死の契約、結ぶかい?」
ウォニョンは一歩前へ出た。迷いはなかった。
熱に浮かされたような瞳で、Gensonを見つめる。
「社長が望むなら、私は何でもします。だから……私を、捨てないでください」
娜扎は舌打ちし、頭を掻きむしった。
「ちくしょう、なんか悪質な詐欺みたいな話だけど……あんたの気迫を前にすると、嫌とは言えない。いいわ! ついていく! どれだけ強くしてくれるのか、見せてもらう!」
静儀は無言のまま、小さく頷いた。
その瞬間だった。
中央管制システムが、突然耳をつんざく警報を鳴らした。
「ビーッ、ビーッ……」
室内の照明が、一斉に赤へと切り替わる。
Cyraの無機質な声が響く。
「S級警報です、Genson様。衛星スキャンが、異常を検出しました。冥府の巨大次元門が、二か所で同時に開いています」
「場所は」
Gensonの目が細くなる。先ほどまでの圧力は完全に引き、代わりに指揮官としての冷徹な気配が立ち上がった。
「第一地点。ブラジル、アマゾン熱帯雨林。南米系の転生神群が、血鬼軍団に包囲されています。第二地点。ロシア、シベリアの氷原。北欧神話の転生体が暴走し、冥府の生物に引き裂かれつつあります。もはや持ちません」
部屋の三人は、同時に緊張を走らせた。
血の匂い。戦の匂いが、すぐそこまで迫っている。
身体の内側で脈が激しく鳴る。抑えきれない戦意が、獣のようにうなっていた。
Gensonは立ち上がる。
高価なシャツの袖を整え、スーツの皺を軽く払う。そして仮面越しの視線で、目の前の新たな三人を見据えた。
その口元が、妖しくも傲慢な弧を描いた。
「Aegis Primeへようこそ、諸君」
彼は低く、朗々と告げた。
「制服に着替えろ。狩りに出るぞ」




