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Episode 13

 かつて西岐の戦場だった真っ白な虚空は、今や手を加えられて、巨大な異形へと作り替えられていた。無の彼方に浮かぶ、壮大なるゴミの山――多元宇宙の虚無を漂流する巨大な廃棄物群。それはもはや平らな大地でもなければ、青く澄んだ空でもない。灰点は今、空中に浮遊する群島となり、無数の世界から投げ込まれた破片が、論理を無視して突き刺さり、重なり合っている。未来技術の象徴たる青白いネオンガラスの摩天楼は、もはや死に絶えた神話時代の白大理石の神殿の屋根へと逆さまに突き立てられ、錆びついた巨大宇宙船の残骸は、灼熱の赤い溶岩に満ちた原初の大陸の上に、山のような姿で横たわっている。

 ここでは重力など、笑いものにすぎない。巨大な滝が下から上へと逆流し、空中で渦を巻く人工のブラックホールへと叩き込まれている一方、巨岩の塊は無感情な雲のように漂っている。空気は焼け焦げたオゾンの匂い、鮮血の匂い、そして腐りゆく神々の腐臭で濃く満ちていた。


 ヴァエルは、金属片の混じった痰の塊をひとつ、ひび割れた大理石の岩棚へと吐き捨て、口元を手でぬぐった。彼は放浪者――生き延びるためだけに生きる異端の旅人だ。身体の半分は凡庸な人間の血肉、もう半分は青白く瞬く生体マイクロチップの埋め込まれた機械化肉体でできている。ヴァエルは首のない天使像の上でしゃがみ込み、鋭く冷たい刃のような視線を、多次元の谷底で混沌と入り乱れる戦場へと走らせた。彼は栄光のために戦うのでもなければ、くそったれな全能神のために戦うのでもない。ただ、生きる道を探しに来ただけだ。


「状況報告だ、シーラ。この光学遮蔽、もう長くはもたん気がする。下のウジ虫どもも、そろそろ俺たちの匂いを嗅ぎつけ始めてる」

 ヴァエルは鋼で覆われた指でこめかみを軽く叩き、低くくぐもった声で言った。


 感情のない、だが少しばかり皮肉を含んだ人工知能の声が、彼の脳内に直接響く。

「偽装エネルギー残量は十二パーセントです、ヴァエル様。強い動作はお控えください。この座標での重力は負の変動を示しています。もし足を滑らせれば、あなたは空へ逆さまに落下し、上空をうろつく虚空クラゲの餌になります」


 ヴァエルは大きく毒づいて上を見上げた。灰色の雲の層を透かして、半透明の巨大なクラゲに似た生物が、幾十体も漂っている。あれは虚空クラゲの群れ――万物の記憶とエネルギーを吸い尽くす寄生存在だ。何マイルも伸びる触手を垂らし、精神を震わせるうめき声を絶え間なく発している。その声を聞いた者は、誰であれ正気を失う。


「まったく、この宇宙は糞鍋みたいなもんだな。で、目標はどうだ? 生命脈の痕跡は見つけたか?」


「すでに座標を特定済みです、ヴァエル様」シーラが答えた。

「生命脈七番は、三時方向に三マイルほど離れた、倒壊したエネルギー塔の真下にあります。ただし、接近はお勧めできません。そこでは二つの勢力が、生命脈の表層上で直接交戦中です。介入した場合の生存確率は、〇・〇〇〇一パーセント以下です」


「生存確率なんざ聞いてねえ。あの宇宙の電池がまだ無事かどうか、それだけ知りたいんだよ。あの眠ってる巨人の息が吹き抜ける場所には、必ず生命脈がある。それさえあれば、この多次元ゴミ溜めに肉塊へと歪められずに済む。ほら、下を見ろ。お楽しみの始まりだ」


 ヴァエルは口の端を吊り上げ、体勢を低くし、機械義眼で視界を拡大して谷底を見下ろした。


 倒壊したエネルギー塔の足元では、紫がかった黄金色の粘性の流れが、奇妙な光を放ちながら脈打っていた。まるで巨大な心臓のように、規則正しく鼓動している。あれこそが生命脈――ゲンソンの身じろぎが残した名残だ。その流れをめぐって、まったく相容れぬ二つの勢力による凄惨な殺し合いが繰り広げられていた。


 一方は神話残党。先頭に立つのはカエレン――すでに崩壊した宇宙の神である。三丈近い巨体に、ひび割れた金色の鎧をまとい、頭上の光輪は砕け散って鋭い欠片となり、宙に浮かんでいた。彼が手にするのは、青緑色の炎を噴き上げる巨大剣。振るうたびに、空間そのものを断ち裂いていく。その背後には、千を超える亜神の戦士たちが続き、半人半獣の身体で血塗れの聖歌を叫んでいた。


 対するは機械評議会の軍勢。彼らは冷徹で、正確無比な陣形を敷いている。顔はなく、代わりに多面体の合金塊が装甲をまとい、プラズマ砲を装備していた。指揮官たる第7アルファ・ユニットは、磁力推進で空中に浮かび、巨大なルービックキューブのような外見の内部に赤く輝く電子の眼を無数に宿し、耳障りな機械音を絶えず発している。


 カエレンは力任せに地を踏みつけ、機械評議会の戦闘機械を何十体も壁面へと吹き飛ばす衝撃波を生んだ。彼は第7アルファ・ユニットへと巨大剣を突きつけ、神性の威厳を帯びた怒号を空間に轟かせる。


「外道の廃品どもめ! 貴様ら、よくもこの聖なる地を、腐った鉄屑で汚してくれたな! すぐに生命脈から失せろ! この神聖なエネルギーは、アスガース王国の神の血筋に属するものだ。我らはそれを用いて楽園を再構築し、創世主たちの栄光を取り戻すのだ!」


 第7アルファ・ユニットは微塵も揺らがなかった。赤い目がその合金塊の上で回転し、カエレンの姿へレーザーを走らせる。冷たく平坦で、あらかじめ組み込まれた侮蔑を孕んだ声が響く。


「構造解析完了:炭素基生命体、妄想的エネルギーを保持。分類:浄化すべき不要データ。愚かな有機廃棄物よ、貴様が自らを神聖だと錯覚しているのは、最高位アルゴリズムの啓示を一度も受けていないからだ。貴様らが奇跡と呼ぶそのエネルギーは、実際には異常量子放射に過ぎない。腐りゆく肉体を持つ弱者どもに属するものではない。機械評議会がそれを回収し、再利用し、あらゆる生体生命を多元宇宙全域から消し去る」


「お前らの“最高位アルゴリズム”なんざ、狂った道具どもの滑稽な論理にすぎん!」カエレンは激怒して唸った。筋肉が膨れ上がり、青白い血管が幾筋も浮かび上がる。剣に宿る炎が激しく燃え上がった。

「道具は永遠に道具だ! 魂なき機械が、信仰の偉大さをどう理解する? 不死の血を引く者の威厳を、どう理解できる? 貴様のエネルギー核を叩き潰し、神の怒りとは何たるか思い知らせてやる!」


「信仰は生体ソフトウェアの一種にすぎません。不死とは、非効率な処理を無意味に長引かせるだけのものです。破壊プロトコル、座標系に対して起動。有機障害物を全て排除」


 第7アルファ・ユニットが言い終えると同時に、無数の戦闘機械の砲門が一斉に火を噴いた。超高熱のエネルギー弾が人工の夜空を裂き、神話残党の陣形へと一直線に襲いかかる。カエレンは咆哮し、剣を振るって青緑の炎の壁を生み出し、プラズマの奔流を食い止めた。神の炎と科学のエネルギーが激突し、周囲の空間そのものを歪めながら、恐るべき爆発を引き起こす。両軍の兵士たちは互いに殺到し、引き裂き合った。剣が金属を断つ音、骨が砕ける音、亜獣たちの絶叫、システムの警報音が混ざり合い、狂気じみた死の交響曲を奏でていた。


 高い岩棚の上で、ヴァエルは合成栄養カプセルをむしゃむしゃ噛み砕きながら、冷ややかにその戦いを眺めていた。


「見えるか、シーラ? これこそ多元宇宙で最もくだらない茶番だ。自分たちの世界を失って、この無限の豚小屋に投げ込まれたってのに、なおどっちが偉いかで言い争ってやがる。神だの機械だの、結局は上位存在の食べ残しを奪い合う乞食にすぎねえ」


「お客様の心理分析は、常に極端ですね、ヴァエル様。ですが現在、その“食べ残し”は手の届くところにあります。機械評議会が挟撃陣形を展開中。まもなく神話残党を生命脈の境界線から押し返すでしょう。行動を決定するまで、あと十秒です」


「量子外套の準備をしろ」

 ヴァエルはカプセルの殻を地面へ投げ捨て、背中から混成ライフルを引き抜いた。銃身は魔獣の骨、だが内側は縮小化された粒子加速器でできている。

「俺はあの鉄屑の背後を回る。奴らが自分の生き方の正しさを証明するのに夢中になってる隙に、生命脈から少しエネルギーを吸って、すぐにずらかる」


「警報!」

 シーラの声が突然、ヴァエルの脳内で鋭く跳ね上がった。赤い警告信号が激しく点滅する。

「極大脳波変動を検知! 下の二勢力からではありません。環境エネルギーが、測定限界を超えて急上昇しています! 空間係数が変化している何かが……!」


 ヴァエルは動きを止めた。問い返す暇もなく、ひどい吐き気がこみ上げ、喉元までせり上がってくる。背骨の一本一本に、無数の針を同時に打ち込まれたかのようだった。谷底で繰り広げられていた血みどろの戦いも、突然ぴたりと止まる。カエレンも剣を振るうのをやめ、第7アルファ・ユニットも砲撃を止めた。爆音も叫び声も、すべてが人工的な真空へと吸い込まれていく。灰点の灰色の空は、突如として血のように濃い、恐ろしい紅へと変わった。


「一体何が起きてるんだ……?」

 ヴァエルはうわごとのように呟き、後ずさって天使像の陰に身を寄せた。両手で頭を抱えながら、巨大な精神波が脳髄へと叩き込まれるのを感じる。


 その波は言葉を伴わなかった。だが、あまりにも凶暴で明白な意志を伝えてきた。戦場からでもなければ、虚空クラゲの群れからでもない。はるか南方、果てしなく霞む彼方から吹き寄せてくる――ゲンソンの息だ。五行山の下に鎮座する支配者が、眠りの呼吸のリズムを変えたのだ。彼がわずかに身じろぎしただけ。あの無量の世界にとっては、ただの無意識な体勢の調整にすぎない。しかし、その夢にへばりつく微小な寄生虫たちにとっては、それは絶対的破壊を伴う“夢の嵐”だった。


「だめ……ありえない……このエネルギー……私たちの生体コードを強制的に書き換えています!」

 シーラがヴァエルの頭の中で悲鳴を上げた。電子系統は深刻なノイズに蝕まれ、部品がショートするジジジという音が混じり始める。


 谷底では、弱さという名の悲劇が、残酷なまでに露わになっていた。ゲンソンの息が吹き抜け、混沌たる真理の歪みを伴ってすべてをなぎ払う。つい先ほどまで信仰を高らかに叫んでいた勇猛なる神カエレンは、今や地面に崩れ落ち、喉を押さえてのたうち回っていた。肉体が異様に膨れ上がり、金色の鎧が砕け散る。裂けた筋肉から、無数の歪んだ腕がさらに生え、見えない目玉が突き刺さっていた。彼の兵士たちも悲鳴を上げながら、骨が皮膚を突き破り、肉体同士が癒着して、ぐちゃぐちゃの巨大な肉塊へと溶け合っていく。その塊は、色も性も失ったようなうめき声を漏らしながら、上空に輝く赤いエネルギーへと生命を捧げたがっていた。


 無機質で、生命から切り離されているはずの機械評議会ですら、この夢の嵐から逃れられなかった。第7アルファ・ユニットの演算核に、混沌のウイルスが侵入する。エラービープが狂ったように鳴り響き、合金の外殻には赤く生々しい肉が芽吹き、鼓動する血管が電線へと絡みついていく。機械は無理やり半生体の怪物へと進化させられ、理性を完全に失って、同胞へ向かって無差別に砲撃を始めた。神々の傲慢も、機械の論理も、眠りに落ちた至高存在の息ひとつで、泥のように叩き潰されたのだ。


 ヴァエルは銃身を地面に突き立て、機械の腕に全力を込めて、嵐の中心へ吹き飛ばされぬよう踏みとどまった。冷や汗が滝のように流れる。さっきまで多元宇宙を支配しようとしていた強大な存在たちが、今や苦悶の声を上げ、欲望と狂気にまみれた怪物へと変貌し、紫がかった黄金の生命脈の泥沼の中で互いを食いちぎっている。ヴァエルは血走った瞳を震わせながら、紅い霧に覆われた南方を見つめた。そこには、理性ある万物が決して触れられぬ、途方もない偉大さを秘めた存在がいる。


 この灰点では、英雄などいない。悪役もいない。神であれ、悪魔であれ、あるいは自分のような放浪者であれ、すべては“ゲンソン”という名の共有された悪夢の中で、必死にもがく安っぽい断片にすぎない。多元宇宙を狩る捕食者たちの時代は、こうしてついに幕を開けた。血にまみれ、理不尽で、逃げ場のないままに。夢の嵐がようやく静まりを見せたとはいえ、第七生命脈の谷は、もはや静寂な虚無へ戻ったわけではなかった。そこはぞっとする沼地へと変貌し、血を滴らせる新鮮な肉塊、断ち切られた内臓、そして溶融した銅張りの鉄骨が混然一体となった、粘液質の腫瘍のような塊と化していた。暗い桃色の毒ガスが、酸の溜まりからじゅうじゅうと泡を立てながら立ちのぼっている。沼の底では、かつて猛々しき神カエレンであり、戦争機械第七アルファ・ユニットであったものが、今や互いに癒着していた。赤くむき出しになった筋肉の塊が金属の隔壁を突き破って生え出し、無数の真紅に輝く電子の眼球が、痙攣する肉の繊維へと深々と食い込んでいる。その異形の存在は、耳をつんざくような奇怪な叫びを上げた。そこには、二進法の無機質な悲鳴と、堕ちた創造主の慟哭とが、同時に混ざり合っていた。


 ひび割れた天使像の上で、ヴァエルは片膝をついていた。片手で、青白い火花を散らす機械義腕を強く抱え込んでいる。金属を覆っていた生体皮膚は泡立ち、そこから剥がれ落ちた皮膚の隙間には、熾火のように赤く燃える光ファイバーの束が露わになっていた。彼はオゾンと死にゆく血の匂いで濃く淀んだ空気を、荒い息をつきながら何度も吸い込んだ。胸は激しく上下している。


「シーラ……神経弁を……今すぐ、ロックしろ……」

 ヴァエルは歯を食いしばって唸った。額から流れ落ちた汗と鮮血が、顎先まで伝っている。

「さっきの放射……あれが、俺の頭の中に入り込んでやがる……!」


 シーラの声が彼の脳内で悲鳴のように響いた。もはや機械めいた均一さは失われ、損傷したマイクロ回路による重いノイズで途切れ途切れになっている。


「警報レベル5! 閣下の生体遺伝システムが、毎秒40パーセントの速度で再構築されています! 中央演算装置の温度は、すでに摂氏400度を超えています! ヴァエル様、神経接続を遮断しなければ、あなたは“眠る者”の脳波と完全に同期させられます!」


「止めろ! あの生体感知モジュールを、今すぐ止めろ!」

 ヴァエルは怒鳴り、肉の手で膝を力いっぱい殴りつけた。

「俺は、下にいるあの絶叫する肉の塊になるつもりはねえ!」


「第十二区画の神経弁を遮断しました! ですがヴァエル様、第七生命脈のエネルギー源は、すでに完全に汚染されています。もはや純粋なエネルギーではありません。認識型ウイルスです。直ちにこの座標から離脱しなければなりません!」

 シーラが告げた。金属同士がぶつかるような、硬い音を帯びた声だった。


「離脱だと? この無重力の豚小屋で、どこへ逃げろっていうんだ!」

 ヴァエルは苦い笑みを浮かべ、掠れた声を漏らした。視線を沼地へ落とす。

「見てみろよ……あいつらは、かつて自分たちの宇宙における絶対的な力の体現者だった。一方は神を崇め、もう一方は機械を崇拝していた……だが結局は、混成ブンブンみたいな一塊になっちまった。この夢は、本当に容赦がない」


「ヴァエル様、新たな問題です!」

 シーラが突然言葉を遮った。声の周波数が、深紅の警報音へと変わる。

「上方より、この空間座標へ進入してくる高エネルギー信号を三つ検知しました。いずれも先ほど崩壊した二勢力とは無関係です!」


 ヴァエルははっとして、すぐさま天使像の胴体に身を寄せ、機械眼のナイトビジョンを起動した。上空の暗赤色の毒雲の中から、まるで黒鉄で装甲された巨大な糞虫のような形をした宇宙船が、ゆっくりと降下してくる。船腹の着陸ゲートが大きく開き、宇宙外縁の魔獣の皮で作られた外套を羽織った三つの人影が、重装レーザー銃を手に飛び出し、谷を囲む浮遊岩へと軽やかに着地した。


 奴らは虚空狩りの群れ――多元宇宙の残骸にたかり、そこに残った灰を掻き集めて生きる、傭兵兼略奪者たちだった。


 先頭の傭兵が前へ出て、外套の裾を後ろへ払う。そこには、冷酷に金色を瞬かせる四つの縦眼と、鋭い歯が並んだ異形の顔があった。彼は銃口を沼地へ向け、それからゆっくりと、ヴァエルが身を隠している天使像のほうへ振り向いた。


「おお、見ろよ、何か面白いもんを見つけたぜ!」

 隊長格の男が、胸元に下げた翻訳機から漏れる蛇のような音声で、しゃがれた声を上げた。

「仙仏どもの溶けたガラクタと、機械どもの残骸……それに、上にはまだ息のある機械ネズミまでいやがる! こいつは実に愉快だ!」


「隊長、あの野郎、背中に量子加速モジュールを積んでますぜ!」

 包帯を全身に巻き、血で染まった男が甲高い声で叫んだ。

「あれ、まだ無事だ! もし外して、99次元の奴隷評議会に売りさばけば、三回分の嵐サイクルを生き延びるだけの燃料が手に入る!」


 隊長は唇の端を吊り上げ、下劣な笑みを浮かべると、さらに一歩ヴァエルへにじり寄った。


「聞こえたか、小ネズミ?」

 彼は銃口をゆらゆらと揺らした。

「おとなしくそのモジュールを外し、自分で金属の腕を切り落として、ここへ放り投げろ。そうすりゃ、額にプラズマ弾を一発ぶち込んで、楽に殺してやる。さもなきゃ……俺の部下どもがお前の肉を一枚ずつ剥いで、上空の虚空クラゲの餌にしてやるぜ!」


 ヴァエルは薄く笑い、ゆっくりと岩棚の上で立ち上がった。肉の手で、背中の混成ライフルの銃身を整える。機械眼には、冷たい青光が宿っていた。


「別の案を提案する」

 ヴァエルは、少しも怯えを見せずに平然と言った。

「お前らが互いに銃口を向けて、引き金を引け。そっちのほうが、双方にとってずっと時間の節約になる」


「死にてえのか、このネズミが!」

 包帯の男が吠え、すぐさま銃を構えて引き金を引こうとした。


「撃て! だが背中だけは外せ! モジュールを壊すな!」

 隊長が短く命じる。


 直後、二筋の橙色のレーザー光が霧を引き裂き、天使像へ一直線に飛んだ。ヴァエルの反応は稲妻のように速かった。彼は避けるのではなく、身を翻して仰向けに倒れ、天使像から自由落下する。

「ドン! ドン!」

 二本のレーザーは像の頭部に激突し、大理石の破片を無数に撒き散らしながら爆ぜた。


 無重力の空中で、ヴァエルは身体をひねり、混成ライフルを振り上げた。


「シーラ、粒子加速の目標ロックモードを起動しろ! 撃て!」


「ロック完了! 撃ってください、ヴァエル様!」


 ヴァエルの銃口から、深紫色の閃光が爆発する。その一撃は三人の略奪者を狙ったものではなく、沼地の下にいるカエレンと第七アルファ・ユニットの、粘つく肉塊へと真っ直ぐ叩き込まれた。粒子加速エネルギーが、汚染された生命脈の液体と衝突し、恐るべき連鎖反応を引き起こす。

 轟然!

 深紅の混沌の火柱が、小さな火山のように噴き上がり、二人の傭兵を吹き飛ばした。邪悪な炎がその肌肉を焼き尽くし始めると、奴らは狂乱して絶叫した。


 虚空狩りの群れの隊長は、四つの眼を剥き出しにするほど怒り狂った。彼は下駄代わりのジェットブーツを起動し、矢のように突っ込んでくると、手にした分子剣でヴァエルの銃身を弾き飛ばし、そのまま胸板へ思い切り蹴りを叩き込んだ。


 バキッ!

 ヴァエルの凡庸な肋骨がへし折れる。彼は鮮血を吐き、身体を凹凸のある崖へ強く打ちつけられた。


「このクソ野郎が!」

 隊長はヴァエルの眼前へ着地し、分子剣を高く振り上げ、喉笛を貫こうとした。

「俺の獲物を二つも台無しにしやがって! お前の肉を、端から端まで削いでやる!」


 ヴァエルは崖に張りついたまま横たわり、息は絶え絶えだった。それでも瞳には、なおも頑強な光が燃えている。彼は衣の内側へ手を差し入れ、錆びた銅線のコイルに覆われた小さな球状の金属装置をつかんだ――死んだ宇宙から拾い上げた、未検閲の空間ゲート跳躍装置だった。


「ヴァエル様! だめです!」

 シーラが彼の心の中で叫ぶ。

「その跳躍装置は、構造の五十パーセントが損傷しています! この混沌放射の中で起動すれば、座標は完全にずれてしまいます! あなたは原子単位に引き裂かれます!」


「引き裂かれるほうがマシだ……こんな化け物の餌になるくらいならな……」

 ヴァエルは囁き、親指で中央の起動ボタンを強く押し込んだ。


「待て……これは……何だ……!?」

 虚空狩りの群れの隊長が、突然ぴたりと動きを止めた。剣が宙に浮いたまま止まる。四つの眼が大きく見開かれ、ヴァエルの肩越しに、崖の向こうの無限の虚空を凝視していた。


 ヴァエルのナイトビジョンも、深刻なノイズに見舞われた。機械眼の量子レンズを奇妙な電圧が突き抜け、レンズを強制的に自動拡大させる。灰色の濃霧と、どこかおぞましい血雲の層を貫き、その視線は灰点の遥か南方へと伸びていった。


 灰白い霧の向こうに、そして異様な血の雲の帯を越えて現れたその光景は、ヴァエルの精神を完全に凍りつかせた。


 それは星でも、惑星でもなかった。無限の果てには、五本の指を広げたような姿をした巨大な質量体があり、虚無の漆黒へと深く根を張っていた。五行山。だが、もはやそれは普通の岩山ではない。山体を幾万里にもわたって走る巨大な亀裂の隙間から、真紅の金色を帯びた溶岩が、まるで癒えぬ傷口から流れ出る血のように、激しくうねりながら噴き出している。切り立った岩壁には、幾百万もの古代の、そして邪悪な文様が、絶えず自ら刻み込まれ、ひび割れ、そして消滅していた。そしてその山の麓には、透明な空間膜が一枚、ゆっくりとした鼓動に合わせて脈打ち、収縮している……まるで、深い眠りに沈む至高の存在の胸郭そのもののように。


 残酷で戦慄すべき真実が、ハンマーのようにヴァエルの精神へと打ち下ろされた。


 彼は悟ったのだ。いわゆる多元宇宙も、いわゆる次元空間も、そして無数の生き物たちが互いを食いちぎっているこの灰点も……そのどれもが独立した世界などではなかったのだと。彼らは惑星に住んでいるのでも、銀河に住んでいるのでもない。ただ、ある至高の存在の肉体の外皮にしがみつく、塵ほどの、目にも映らぬほど小さな寄生生物にすぎなかった。そして、その至高の存在がほんのわずかに身じろぎするだけで、その外皮にひびが入り、彼らが「現実」と呼ぶもののすべてが崩壊するのだ。


「俺たちは……世界の中で生きてるんじゃない……」

 ヴァエルは嗚咽まじりに呟いた。頬を一筋の涙が伝う。

「俺たちはただの……腐った生き物だ……夢の死骸の上を、這いずってるだけの……」


「死ね!」

 虚空狩りの群れの隊長が、恐怖に押し潰されそうになりながら叫び、宇宙規模の恐れに抗うように、分子剣を思い切り振り下ろした。


 その瞬間、ヴァエルの手の中にあった空間ゲート跳躍装置が爆発した。


 ガシャァン!

 漆黒の光が噴き上がり、ヴァエルの周囲の空間すべてを歪める。跳躍座標は、ゲンソンの脳波によって完全に捻じ曲げられていた。異形の空間門から生じた凄まじい吸引力が岩壁を引き裂き、ヴァエルと虚空狩りの隊長をまとめて、ねじれた虚無の領域へと呑み込んでいく。


「ヴァエル様! 座標が五千パーセントずれています! 今、時間断裂地帯へ落下しています!」

 シーラの最後の叫びは、ノイズの帯へと押し潰された。


 空間門は鋭い破裂音を残して閉じ、完全に荒廃した生命脈の谷と、堕ちた存在たちの方角の定まらぬ呻き声だけを残した。ヴァエルとシーラは、まったく新しい分岐へと巻き込まれてしまったのだ――時計の針が逆流し、生命の法則そのものが完全に反転する禁域へ。そこから、さらに一万倍は残酷で、狂気じみた新たな章が幕を開ける。

 その欠陥のあるジャンプ装置が引き起こした空間の跳躍は、ヴァエルと虚空狩りの群れの首領を、灰白い岩のすり鉢状の窪地へと叩き落とした。そこは、暗い虚無のただ中に浮かぶ場所だった。だが、最も恐ろしいのは衝突そのものではなかった。彼らの体内で、まさに今起きている異変だった。


 ヴァエルは口を開き、血の塊を吐き出そうとした。だが、その血は……喉の奥へ逆流した。胸の骨が砕けていた箇所は、自動的にパキッと音を立てて接合され、痛みが爆発するより先に完全に消え去る。かと思えば次の瞬間には、胸板が再び、身の毛もよだつほどの逆算されたリズムでひび割れていた。


「肉……血……いったい何なんだ、これは!?」

 ヴァエルは喉を押さえ、咳き込みながら叫んだ。

「シーラ! 報告しろ! どうして俺の血が逆流してる!?」


 彼の大脳皮質の奥で、シーラの声が歪み、途切れ途切れに響いた。逆再生された磁気テープのように、音声がねじれている。

「……ヴァエル様……逆流……しているのは……時間です……この座標は……断裂しています……我々は禁域にいます! ここの時間は前へ進んでいません。逆方向に流れているのです!」


「時間が逆流してるだと!?」

 ヴァエルは岩の地面に崩れ落ちた。すぐさま頭上を仰ぐ。何万という黒い雨粒が、落ちてくるのではなく、地面から天へ向かって一直線に噴き上がり、灰色の霧を引き裂いていた。

「ふざけるな、シーラ! どうして時間が逆流なんかするんだ!?」


「未来のデータが……出来事が起こる前に、記憶へ流し込まれています!」

 シーラは金属を擦り合わせるような甲高い声で悲鳴を上げた。

「警告! 今、私は、あなたの左腕が切断される未来の記憶を記録しました……十分後の出来事です! しかし現時点では、まだ切断されていません! この因果の混乱が、私のアルゴリズムを引き裂いています!」


 それほど遠くない場所から、混乱に満ちた金切り声が空気を突き破った。


「やめろ! やめてくれ! 俺の四つの目は!? 顔が……皮膚が、どこへ消えてるんだ!?」


 ヴァエルはすぐさま振り返り、混成ライフルを構えた。彼から十歩ほど離れた場所で、虚空狩りの群れの首領スカールが、極度の恐怖にのたうっていた。魔獣の皮で作られた彼の装甲は、みるみる痩せ細っていく体には大きすぎる。顔の縦に並ぶ四つの眼のうち二つは完全に消え失せ、その代わりに、少年時代のような滑らかな皮膚が現れていた。彼は凄まじい速度で若返っており、そのまま胚の状態へ突き進んでいた。


「このクソ野郎が!」

 スカールは地面を這うようにして、細く縮んだ手をヴァエルへ差し伸べた。その声は、もはや野太い威嚇ではなく、子どものような甲高い震え声に変わっている。

「お前、俺に何をした!? ここはどんな地獄だ!?」


「黙れ、スカール!」

 ヴァエルは歯を食いしばり、跳びかかって、戦闘用ブーツのつま先を傭兵の胸に強く叩きつけた。

「俺は何もしていない! あの跳躍門が、あの巨人の放射でねじ曲げられたんだ! 俺たちは逆流する時間の裂け目にいる!」


「助けてくれ……助けてくれ!」

 スカールは顔の輪郭を失っていくのを両手で押さえながら叫んだ。

「縮んでいく……! 脳が……俺の記憶が蒸発してる! 自分の宇宙船の名前すら思い出せない! 量子杭をくれ! 俺を固定しろ!」


 ヴァエルは、つい先ほどまで自分の肉を削ぎ落とすと脅していた敵をにらみつけた。スカールが胚の塊へと変わり、そのまま消え失せれば、次に時間逆行の法則に押し潰されるのは自分だと、彼には分かっていた。


「シーラ!」

 ヴァエルは怒鳴った。

「不時空間の定位杭は、まだ倉庫に残っているのか!?」


「一本だけです、閣下!」

 シーラが断続的なノイズ混じりの声で答えた。

「ですが、それを彼に使えば、時間の流れが崩壊点に達した際、あなた自身を固定する手段がなくなります!」


「こいつを生かしておく必要がある。囮にする!」

 ヴァエルは吠えた。

「定位杭を抜け、今すぐだ!」


 ヴァエルは腰の装備箱に手を突っ込み、指ほどの長さの金属杭を取り出した。それは安定した緑色の光を放っていた。ためらいなく、その杭をスカールの頸椎へと深々と突き立てる。


「アァァァッ!」

 スカールは腹の底を裂くような悲鳴を上げた。


 緑のエネルギー波が爆ぜ、スカールの体を包み込む。その周囲の時間の流れが強制的に凍結された。若返りは止まる。スカールは岩盤の上で荒い息をつきながら倒れ込み、その姿は、恐怖に目を見開いた異形の少年のような状態で固定されていた。


「お前……俺を助けたのか?」

 スカールはヴァエルを見上げ、かすれた声で言った。虚空狩りの群れの首領としての凶暴さは、もうどこにもなかった。


「夢を見るな」

 ヴァエルは冷たく答え、スカールの額に銃口を向けた。

「お前を固定したのは、役立たずの肉塊に変わらないようにするためだ。立て! その下賤な命を守りたければ立ち上がれ。そして、ここへ落ちる前にお前が何を見たのか話せ」


 スカールは震えながら起き上がり、喉に詰まった唾を飲み込んだ。


「俺は……山を見た……」

 スカールは青ざめたまま呟いた。

「五本の指みたいな山だ……岩なんかじゃない! 山の裂け目の中に……俺は血管を見た! あれは呼吸している、ヴァエル! 山の足元にある“何か”が、息をしているんだ!」


「俺も見た」

 ヴァエルは、虚空を見据えたまま低く呟いた。

「多元宇宙そのものが、あれの熱に浮かされているだけだ。だが、どうしてここでは時間が逆流している?」


「それは、この場所が主の現在の夢に属していないからです」

 不意に、シーラの声が響いた。だが今回は、どこか異様に低く、もはや機械の響きではなかった。


 ヴァエルははっとして、こめかみを叩いた。

「シーラ? 今、何て言った?」


「いえ……私は何も言っていません、ヴァエル様」

 シーラの声はすぐに、いつもの歪んだノイズ混じりの調子へ戻った。

「そのデータは……私のプロセッサから発せられたものではありません! 何者かが、あなたの神経帯域へ信号を差し込んでいます!」


 ヴァエルが反応するより早く、彼らを取り巻く空気は、突如として摂氏マイナス百度へと落ち込んだ。逆流していた黒い雨粒は、灰色の雪片へと変わる。目の前の歪んだ霧の中から、半透明の影たちが、次々と浮かび上がってきた。


 それらには完全な顔がなく、全身がひび割れた光の帯で織り上げられていた。時の亡霊――それは、何十億年も前にゲンソンによって滅ぼされた宇宙の残響たる意識であり、この因果の裂け目に永遠に幽閉された存在だった。


「……未来の記憶を、我らに……渡せ……」

 砕けた鎧をまとった古代の神の姿をした亡霊が囁いた。どの方角からともなく、その声は反響している。

「我らには……お前の寿命が要る……空がまだ崩れ落ちる前の日へ……戻るために……」


「何なんだ、こいつらは!?」

 スカールが狼狽して分子剣を掲げ、叫んだ。

「どこから湧いた!?」


「触るな!」

 ヴァエルは粒子加速器付きの銃身を外し、大声で制した。

「あいつらは物理的な実体を持たない! 記憶と寿命を盗むんだ!」


「お前が死ぬのを見た!」

 別の亡霊がスカールの顔面すれすれまで迫り、不気味に笑った。

「お前は宇宙404で、エネルギーの鎌に真っ二つにされる……その死をよこせ。失われた生を、我に取り戻させろ!」


「消えろ! 消えろ、俺の頭から出ていけ!」

 スカールは半狂乱で剣を振り回した。刃は亡霊を貫いたが、直後、スカールの顔から血の気が失せる。

「ヴァエル! 俺……この剣の使い方を忘れちまった! 記憶が吸い取られてる!」


「シーラ! 無線衝撃波を撃て!」

 ヴァエルは吠え、銃口を真上へ向けた。

「奴らの霊的周波数を消し飛ばせ!」


「超極限衝撃波を起動します!」


 ドンッ!

 ヴァエルの銃から青い音波が爆発し、谷全体を薙ぎ払った。時間の亡霊たちは何十体も悲鳴を上げ、そのまま浮遊する光の粉へと崩れ去る。


「行け! あの逆流する滝へ走れ!」

 ヴァエルはスカールの襟首をつかみ、谷底の中心へと死に物狂いで引きずっていった。そこでは、深い紫色の光の滝が、渓谷の底から岩山の頂へ向かって逆流していた。


「なんであの滝なんだ!?」

 走りながらスカールが息を切らして叫んだ。

「俺たちを空まで巻き上げる気か!?」


「空間が崩壊しないようにしている“何か”が、あの滝の中心にある!」

 ヴァエルは怒鳴り返した。

「見ろ!」


 逆流する光の滝のど真ん中に、巨大な雫のような結晶が浮かんでいた。それは翡翠色の放射を放ち、周囲の時間の歪みを押し返している。あれは時の核――「夢の涙」から生まれたものだった。ゲンソンが、原初の宇宙の滅亡を目の当たりにした瞬間、無意識に漏らした痛みの名残から形成された残滓である。


 ヴァエルとスカールは滝の境界を突破し、翡翠色の光の領域へ身を投げ込んだ。するとすぐに、吐き気と時間の逆転は止まった。雨粒はもう逆流せず、ヴァエルの胸の傷も完全に安定する。


「はあ……はあ……」

 スカールは時の核の足元にある大理石の床へ崩れ落ち、胸を押さえて必死に息をした。

「助かった……。もう赤ん坊にでもなったかと思ったぜ……」


 ヴァエルは答えなかった。彼は雫形の結晶へ歩み寄り、装甲のついた手で、その滑らかな表面にそっと触れた。


 ピッ……ピッ……


 ヴァエルの機械眼が断続的に点滅する。時の核の内部から流れ出した古代データの一筋が、即座にシーラの記憶領域へと流れ込んだ。


「原初データを解析中……」

 今度のシーラの声には、隠しきれない戦慄が満ちていた。

「ヴァエル様……これは偶然の裂け目ではありません。この土地は……ゲンソンの一滴の涙から作られたものです」


「涙だと?」

 ヴァエルは目を細めた。

「至高の存在が、泣くことなんてあるのか?」


「主が泣いたのは、哀れみのためではありません」

 シーラはデータを読み上げた。

「絶対的な孤独のためです。ご自身の巨大な夢の中で、主は無数無数の世界を創造し、そして自らの手で破壊されました。この禁域は、主が最も惜しんだ時間の流れを隠しておくための場所です……ですが、今まさに自壊しています。時の核の構造は、限界を超えて亀裂を生じています!」


「それはどういう意味だ!?」

 スカールが跳ね起き、恐怖で声を上ずらせた。

「亀裂が入ったら、どうなる!?」


「この禁域全体が、今にも爆発するという意味だ!」

 ヴァエルは吠え、スカールを振り返った。

「その前に、俺たちはクォークの粒にまで砕かれる!」


「そんな……そんなはずはない!」

 スカールは頭を掻きむしり、半狂乱になった。

「俺はやっと命をつないだばかりなんだぞ! 出口はあるはずだ! お前は旅人だろ、量子加速器があるんだろ! 何かしろよ、ヴァエル!」


「出口は、十分前に封じられている。スカール」


 翡翠色の霧の向こうから、ひどく冷たく、錆びた金属が擦れ合うような無機質な声が、突然響いた。


 ヴァエルはぎくりとし、すぐに音のした方向へ銃口を向けた。スカールも構えを取り、警戒で目を細める。


「誰だ!?」

 ヴァエルが叫んだ。

「出てこい!」


 霧の中から、重い足音が一歩、また一歩と響く。錆びた機械関節の軋みが、静まり返った空間に反響する。やがて、長身の影が姿を現した。


 その人物は、黒い装甲をまとったぼろぼろの外套を羽織っていた。左腕は変形したチタン合金の塊、右目は煙を上げる真っ赤なレンズである。手には、死の世界の黒い光を放つ、奇妙な武器を携えていた。


 その男が顔を上げ、陥没した傷跡だらけの顔と、鋼鉄製の下顎の半分を露わにした瞬間、スカールは唖然とし、ヴァエルは完全に凍りついた。ヴァエルの銃を握る手が、激しく震える。


 その顔……残された肉の半分……それは、まさしくヴァエルだった。


 だがそれは、年老い、擦り減り、砕け、絶望を極限まで抱え込んだ、破滅の果てまでたどり着いた男の姿だった。


「お前……」

 ヴァエルは信じられないというように息をのんだ。

「お前は、誰だ!?」


「この錆びついた声に、若いお前は気づかないのか?」

 未来のヴァエルは口の端を歪め、合金の歯をむき出しにして苦々しい笑みを浮かべた。

「俺はお前だ……三百回の時間循環の後の姿だ。多元宇宙のあらゆる門をくぐり抜けた、その先のな」


「ありえない!」

 スカールが叫び、数歩後ずさった。

「ヴァエルが二人だと!? この狂った世界は、一体何なんだ!?」


「黙れ、やせ細った傭兵」

 未来のヴァエルはスカールを一瞥し、氷のような声で言った。

「俺の時間軸では、お前なんざ十分钟前にすでに肉片へ剥ぎ取られていた。若い俺に、こんな馬鹿げた慈悲がまだ少し残っていることを、ありがたく思うんだな」


 ヴァエルは深く息を吸い、手の震えを必死に抑えた。銃口を、未来の自分へ向ける。


「何をしに来た!? どうやってこの禁域に入った!?」


「お前を止めに来たんだ、ヴァエル」

 未来のヴァエルは声を落とし、赤く燃える眼差しを真っ直ぐに彼へ向けた。

「時の核を壊して外へ出ようとするな。灰点へ戻ろうとするな」


「なぜだ!?」

 ヴァエルは怒鳴った。

「この核が爆発して虚無と化すのを、ここで待てというのか!?」


「なぜなら、あの門の向こうには、もう灰点はないからだ!」

 未来のヴァエルは黒々とした武器を高く掲げ、その先を虚空へ突きつけた。

「ゲンソンが目を開いた! もう夢を見ていない! さっきの身じろぎで、多元宇宙の境界はすべて粉砕された! 門の外に残っているのは、もはや“混沌の狩場”だけだ。至高の存在が、次元という次元を一つずつ喰らっている!」


 未来からの警告は、谷間に凍てつくように響き渡った。それは、流浪の者たちの運命に振り下ろされる死の鐘の音のようだった。

 最初の「パキッ」という音は大きくはなかった。だが、その不気味さは、谷に生きるあらゆる細胞を凍りつかせるほどだった。禁域の宙に浮かぶ時の核――創造主の純粋な涙――には、頂から底までを貫く稲妻形の亀裂が走っていた。時の秩序を維持していた翡翠色の光は、突如として点滅し、断裂しかけた空間の耳障りな悲鳴を呼び起こした。


「割れた! 見えるだろ!? 割れてるぞ!」

 スカールが絶叫した。目は白目をむき、恐怖で引きつっている。重力が制御を失い始め、彼は地面の大理石を必死に掻きむしった。下半身が、まるで天へ吸い上げられるように引き上げられていく。

「この核は安全だって言ったじゃねえか、ヴァエル! このクソ野郎、俺を騙しやがったな!」


「その汚い口を閉じろ、スカール! 岩のくぼみにしがみつけ!」

 ヴァエルは歯の隙間から唸り、火花を散らす機械義腕で自分を地面に固定した。


 ヴァエルは、なおも時の嵐の中心に立つ未来の自分へと鋭く顔を向けた。傷跡だらけのその顔は、微塵も動揺していない。


「今、何て言った!? ゲンソンが目を開けた、だと!?」

 空間が崩壊する轟音をかき消すように、ヴァエルは吼えた。

「正気か!? 何億年ものあいだ、あの方が身じろぎしたのはたった一度きりだぞ! こんな時に目覚めるはずがあるか!」


 未来のヴァエルは、乾いた苦笑を漏らした。合金の顎が擦れ合い、氷のように冷たい音が響く。

「俺が好き好んで、自分の寿命を引き裂き、三百回分の時空断裂を飛び越えて、ただお前に空想話を聞かせに来たとでも思っているのか、この間抜けが? 俺は向こう側にいた! 俺は見たんだよ。俺たちが生き延びるための闘技場だと思っていた、あの巨大なゴミ溜め――灰点――が、一瞬で蒸発するのを!」


「そんなはずは……」

 ヴァエルは呆然と呟き、機械眼がシステムエラーで激しく瞬いた。


「データ……解析不能!」

 ヴァエルの脳内で、シーラの声が悲鳴のように響いた。人工知能にしては珍しく、明らかな混乱が滲んでいる。

「ヴァエル様! 境界の外側にある宇宙定数が消失しています! 破壊されているのではありません。“量子記憶”から丸ごと抹消されています! 無限のエネルギーフィールドが、現実全体を薙ぎ払っています!」


「お前のコンピュータが何て言ってるか、聞こえたか?」

 未来のヴァエルは冷たく鼻を鳴らし、漆黒の武器を地面に突き立てて、谷を引き裂く吸引力に抗った。

「若造、お前はずっと、多元宇宙は無限で、次元を渡り歩けば死から逃げられると思っていたんだろう。違う。あの世界のすべて――機械評議会の強大な機械どもも、ボロ布みたいな神話の連中も――全部、主の夢の中に浮かぶ澱にすぎない。そして主が目覚めれば……夢は終わる」


「だったら、お前は何しに戻ってきた!?」

 ヴァエルは怒りに満ちて吠えた。

「全部消えるなら、このクソみたいな時代に戻ってきて、俺と一緒に死ぬつもりか!?」


「臆病だった自分を、修正しに来たんだ!」


 未来のヴァエルは、突然大きく踏み込んだ。右手を振り上げたが、それはヴァエルを攻撃するためではない。自分自身の胸に、鋼鉄の指を深々と突き刺したのだ。


 ぐしゃっ。


 金属が肉を裂く、耳を覆いたくなるような音が響いた。未来のヴァエルの口元から黒い血が溢れた。それでも赤い瞳は、一度たりとも瞬きをしなかった。


「何をしてやがる、この狂人!」

 スカールが岩の窪みの下から悲鳴を上げた。自殺まがいの光景に、顔から血の気が引いている。


「黙れ!」

 未来のヴァエルが怒鳴る。胸に沈んだ手が、内側でねじれ始めた。腕の筋肉が盛り上がり、歯を食いしばって思いきり引き抜く。神経ケーブルと合金の肋骨が裂ける音を伴って、彼は胸の奥から奇妙な結晶体を引きずり出した。


 その結晶は時の核とは違っていた。完全に透明で、固定された形もない。純白と深い漆黒のあいだを絶えず点滅しながら変化している。その放つ放射は、物理法則にも魔術にも属していなかった。――それは、始まりだった。


「それは何だ!?」

 ヴァエルは息を呑んだ。あの光を前にして、凡人の胸が破裂しそうなほど激しく脈打つのを感じる。


「コア・コードだ」

 未来のヴァエルは荒く息をつき、黒い血を地面に吐き捨てながら、ふらついてヴァエルのすぐそばまで歩み寄った。

「俺は残りの人生をすべて捨てた。かつて仲間と呼んだ連中も全員犠牲にした。――そして夢の裂け目の最果てまで潜り込んで、これを奪ってきた。これは、至高の存在の原初意識の欠片だ。受け取れ!」


 言い終えるなり、未来のヴァエルはヴァエルの襟首をつかみ、血に濡れた手で、眩い光を放つ結晶をその凡人の胸へと強く押し込んだ。


「アァァァァァッ!」


 ヴァエルは天を仰いで獣のような叫びを上げた。結晶は肉体を貫いたのではない。そのまま魂と“融合”したのだ。痛みは肉体から来るのではなく、圧縮された無数の宇宙の記憶、何万テラバイトにも及ぶデータが、脳へ無理やり流し込まれてくることから生じていた。彼は星が生まれる瞬間を見た。ブラックホールが崩壊するのを見た。そして、創造主たる者の、果てしない虚無を見た。


「最大レベル警報! ソウル・エネルギーコアが爆発寸前です! 神経系が過負荷を起こしています!」

 シーラがヴァエルの頭の中で半狂乱になって叫ぶ。彼の額には、ミミズのように血管が浮き上がっていた。


「耐えろ、ヴァエル!」

 未来のヴァエルは彼の肩をつかみ、吼えた。赤く血走った瞳には、痛々しいほどの切実さと、揺るがぬ決意が宿っている。

「受け取れ! それは神と戦うための武器じゃない! ゲンソンの浄化の光に、お前を“消すべきシステムエラー”だと認識させないための、唯一の通行証であり、最後の偽装なんだ!」


「痛い! お前、俺を……殺してる……!」

 ヴァエルは呻き、膝をついた。光を帯びて明滅する胸を、自分の手で掻きむしる。


 その瞬間、はるか南方――禁域の霧を貫いて――重々しい音が響いた。耳で聞く音ではない。原神に直接叩き込まれるような振動だった。


 崩壊。


 遠い地平の灰色の空が、突如として裂けた。偉大なる五行山は、かつて時間の流れを支える錨のような役目を果たしていたが、いまや頂から麓へと亀裂が走り始めていた。大陸ひとつ分の巨大な岩塊が、何百万と剥がれ落ち、宙に漂っては塵へと変わっていく。


 そして、その巨大な瓦礫の向こう側から、真実が姿を現した。


 万物を貫くのは、まばゆいほど純白で、絶対的で、恐怖を誘うほど冷たい光だった。それは太陽のように眩しいのではない。黒い穴のように静謐だった。――あれは光ではない。至高の存在の目だった。ゲンソンが、目を開いたのだ。


「いや……いやあ! 神様ぁ! 助けてくれ! 生かしてくれ!」

 スカールは子どものように泣き叫び、鼻水と涙を垂らしながら、白い光へ向かって狂ったようにひれ伏した。


 だが、至高の存在は虫けらの懇願など聞かない。白濁したその視線は灰点を一掃していく。光が触れた場所は、ただちに完全な白へと変わった。機械評議会の何百万もの戦艦は、レーザーを放つ間もなく跡形もなく消滅した。虚空クラゲの群れは泡のように蒸発する。神々も、多元宇宙の旅人も……すべてが、静寂の中で“フォーマットし直された”。


「見えるか、ヴァエル?」

 未来のヴァエルは、白い奔流が禁域を破壊しながら押し寄せるのを見上げ、穏やかな笑みを浮かべた。

「万物の終わりってのは、詩が書くような喧騒じゃない。炎も、硫黄も、英雄的な戦いもない。夢見る者が目を覚ましたとき、すべてはただ消える。白く塗りつぶされた紙の上のインクの線みたいにな」


「俺たち……どうすればいい!?」

 ヴァエルは何とか立ち上がった。胸の結晶が共鳴し、かすかなエネルギーフィールドを張って彼の体を包む。


「もう、多元宇宙の裂け目を通って逃げようとするな! 外に多元宇宙なんて、もうないんだ!」

 未来のヴァエルは勢いよく振り向き、頭上のひび割れた時の核を、損壊した機械の手でつかんだ。


「何をする気だ!?」


「俺の命と、体内に残った核のエネルギーを使って、時の核を逆位相で爆発させる!」

 未来のヴァエルは吼えた。体内の電線が激しく発光し、熱が急上昇して外套を溶かし始める。

「三秒だけ、小さな裂け目を開く! あの惨めなスカールの抜け殻をそこへ放り込む! お前には案内役が必要だ!」


「正気か!? お前は塵になるぞ! 一緒に来い!」

 ヴァエルは駆け寄り、未来の自分を引き留めようとした。


「さっき言っただろう! 俺は何百もの生を前に、もう死んでる!」

 未来のヴァエルは容赦のない蹴りで、ヴァエルを後方へ吹き飛ばした。赤い瞳にひびが入り、冷却液と鮮血が滲み出す。

「ここで死ぬな! 覚えておけ、ヴァエル! その裂け目を抜けた先で――夢の中心を探せ! あの光にまだ消されていない、唯一の場所だ!」


 ドンッ!


 未来のヴァエルが時の核を砕いた瞬間、彼の肉体から凄まじい場の爆発が生じた。周囲の空間は限界まで捻じ曲げられ、ヴァエルの足元に真っ黒な穴が裂け、渦を巻く。


 ゲンソンの白光は、すでに谷の縁まで達していた。岩も、逆流する滝の一滴一滴も、次々と虚無へ蒸発していく。


「俺も引っ張れ! ヴァエル! 俺も入れろ!」

 スカールが叫び、何としてでも空間の穴へ這い寄ろうとする。


 ヴァエルは血がにじむほど強く歯を食いしばった。機械義腕を伸ばし、スカールの襟首をつかんで引きずり込む。彼は最後にもう一度だけ振り返った。


 絶対的な白に飲み込まれゆくその中で、未来のヴァエルはただ一人、両腕を広げて孤独な盾のように立っていた。肉体はゆっくりと黒い灰の粒へと分解されていく。鋼の口元に浮かんだ笑みには、もはや重荷はなかった。消えゆく沈黙の中に沈み込む最後の言葉が、静かに、かすかに漏れる。


「……まともに、生きろよ……ヴァエル……」


 シュン。


 白光が襲いかかり、未来のヴァエルと禁域のすべてを、量子の塵ひとつ残さず消し去った。


 だが、ヴァエルとスカールは、すんでのところで空間の裂け目へ身を投げ込んでいた。至高の存在の光が境界に触れた、その瞬間に裂け目は「パチン」と乾いた音を立てて閉じる。


 ……


 ヴァエルの周囲には、もう戦争の音はなかった。空間が砕ける金切り声もない。シーラの混乱した警告もない。あるのは、宇宙の胎内のように深く、冷たく、決して生まれたことのない静寂だけだった。


 彼らは落ちていた。光も、重力も、時間も存在しない、果てのない虚空へ自由落下している。


 ヴァエルの胸の中の結晶が、かすかに脈打ち、無限の闇の一角を薄く照らした。彼は胸を抱きしめ、目を固く閉じる。もう多元宇宙はない。灰点もない。周囲にあるのは、創造主の最も原初的な破片、まだ形を持たぬ意念だけだった。


 彼らは、正式に“夢の中心”へ踏み込んだのだ。逃走は終わった。だがいま、存在そのものを統べる“あの存在”との、最も静かで、最も狂気じみた真正面からの対峙が、ようやく始まろうとしていた。

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