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Episode 11

 翌朝の黎明は、霧の谷には決して訪れなかった。日月の巡りに従えば、太陽はとうに東の稜線の向こうから昇っていてしかるべきなのに、昨日あの凄惨な虐殺が起きた場所にまで差し込む光といえば、せいぜいが灰色に濁った一本の筋だけ――冷え切った油鍋の表面に浮く脂の膜のように、濁って鈍い光であった。何万もの生命が、現実に走った亀裂を塞ぐ「接着剤」として死へと投げ込まれた戦場は、もはや完全に禁忌の地と化し、天道の完璧さに真正面から平手打ちを食らわせるような、醜悪な傷痕となっていた。


 平穏は戻らない。血と怨みの元神によって継ぎ接ぎされたその現実は、癒やしなどではない。極度の腐敗状態のまま「凍結」されているにすぎなかった。足元の泥土と血肉が自然に乾くことはなく、むしろ粘着質の膜へと結晶し、灰を帯びた濃い空気を吐き出していた。谷沿いの古木の根がその土に触れた瞬間、根はたちまち黒ずみ、粉末のように砕け散る。まるで、冥府ですらこの穢れた気を受け入れることを拒んでいるかのようであった。


 何より凄惨だったのは、あの狂殺の夜を生き延びた者たちの姿である。西岐と商朝、双方の残兵数千が灰霧の中をふらつき歩いていたが、もはや彼らを物理的な意味で「人」と呼ぶことはできなかった。彼らの肉体は「現実逸脱症候群」――凡俗の生命が虚無のエネルギーと強引に共存させられたときに支払う、あまりに高すぎる代償――に蝕まれていたのだ。


 商朝の兵の一人が、頬の傷を掻こうとして手を上げた。だが響いたのは皮膚と肉が擦れる音ではなく、硝子同士が触れ合うような鋭く澄んだ音だった。首から下の皮肉は徐々に透明化し、凍りついた血管と、ひび割れた水晶の塊でできたかのように重苦しく脈打つ心臓が、はっきりと見えていた。別の場所では、西岐の一人の兵が泥濘に崩れ落ち、苦痛に喉を裂くような叫びを上げていた。体を捩じり、両手で胸を掻きむしる。だが、その周囲には一切の音がない。ちょうど三度、呼吸が経ったころ、その男の亡骸が完全に静止した瞬間にだけ、耳を引き裂くような、悲痛で凄絶な絶叫が、遅れて空間へと轟いた。まるで彼の音と姿が時間によって二つに断ち割られ、もはや一致しえない別個のものになってしまったかのようだった。この谷の世界は今、完全に「位相ずれ」を起こしていた。因果の断片がばらばらに外され、意味のない空隙へ乱暴に押し込められているのだ。


 真っ白な雲海の九重天、その本来であれば俗塵から完全に隔絶された高みで、太乙真人は金色の蓮台に身を置き、水鏡越しに下界を見下ろしていた。深い道行で知られ、いつも泰然としていた金仙は、今や歯を食いしばり、広い額には青筋が浮いている。玉の井のごとく深遠だったはずの瞳には、いまや狼狽の赤い血走りが走っていた。


 崩壊は、もはや凡界だけにはとどまらない。自らを高位とみなし、輪廻の代弁者を気取っていた神仙たちですら、その元神の奥深くにまで忍び込む「亀裂」を、ついに感じ取り始めていたのである。


 谷から立ち上る灰色の魔気を、ただ黙って見過ごして人と仙の境界をさらに汚させるわけにはいかない。太乙真人は払子を大きく振りかざし、片手で印を結びながら、「浄化訣」――玉虚宮に伝わる、魔障を祓う至高の清浄法門――を口の内で唱えた。理屈の上では、眩い金光が降り注ぎ、穢れを洗い流し、苦しむ魂を済度するはずであった。だが、金仙の霊気が指先を離れたその瞬間、それは空中で急に痙攣し、熱湯を浴びた蛭のようにうねり始めた。崇高で神聖なはずの金色の光輪は、あっという間に、戦場の下に広がる血泥と同じ、黒く粘ついた色に染まってしまった。浄化するどころか、彼の術はかえって火種となり、空間の不安定さを悪化させたのだ。浄化訣が触れたばかりの場所はさらに数丈ばかり裂け、耳障りな金切り声を上げながら、万物を呑み込もうと飢えたように暗黒の穴を穿ち広げた。


 太乙真人は思わず手を引っ込め、胸を激しく上下させた末、金の粒を混ぜた鮮血を一口吐き出した。彼は本当に怯えていた。道家の法――三界を万年にわたり支配してきたあの権能――が、いまや現実そのものに拒絶されているのだ。さらに悪いことに、戦場から無形の灰色の「虚無の塵」が、ゆっくりと逆流するように上がってきて、もともと俗塵をまったく寄せつけないはずの彼の道袍にまとわりついていた。太乙真人は慌てて払い落としたが、払うほどにその見えざる塵は霊気で織られた糸一本一本へと深く染み込み、きらめいていたはずの道袍を、鉛でできたかのように鈍く、重苦しいものへと変えていく。


 彼は、残酷で容赦のない真実を悟った。――彼らは、現実そのものに「侵食」されているのだ。昨日あの谷で流された血では、まったく足りなかった。穴の空いた空っぽの現実は、まるで底なしの貪欲な怪物、飢えたエネルギーの機械のように、際限なく生を要求していた。この腐りきった外殻を維持するために、さらに多くの生命を、さらに多くの怨気を求めているのである。


 太乙の傍らに、伝音の術を通じて玉鼎真人の朧な影が現れた。師弟である彼の顔もまたやつれ果て、太乙とまったく同じ絶望を刻みつけていた。


「師兄……やはり、見えているだろう?」

 玉鼎真人の震える声が、太乙の神識に響いた。その響きには、もはや上仙の威厳など半分も残っていなかった。

「五行の霊気は、もう我らの言うことを聞きません。あの南方の『空白』が、ついに代償を求めてきたのです。……供犠を、要求している。」


 太乙真人は目を固く閉じた。払子を握る手には力が入りすぎ、指の関節は白くなり、骨がきしむ音さえした。内面の葛藤が、道士の心肝を噛み裂いていく。生涯をかけて修道してきた彼は、常に自分こそが光の側に立ち、凡俗の羊たちを天命の正しい道へ導く羊飼いなのだと信じていた。だが今、その大義は無数の鋭い欠片へと砕け散り、逆に彼の心臓へ突き立てられていた。


「師弟……」

 太乙は口を開いた。掠れ切った苦い声で、闡教の弟子が考えることすら憚るような、最も背反的な言葉を絞り出す。

「我らはもう、天道を守る者ではない。手は、泥濘に深く浸かりすぎた。我らは……今やただの血の密売人、神仙の衣をまとう下劣な屠殺者にすぎぬ。下界の蟻のような凡人たちから、生を狂ったようにかき集め、盗み取り……完全に破産した宇宙に対して、天文学的な借金を返そうとしているだけだ。」


 その言葉が落ちた瞬間、雲の頂に広がる空間全体が凍りついたように感じられた。罪の静寂が、二人の金仙の元神を締め上げる。彼らは、自ら若き日に修仙の道へ踏み出したときに滅ぼすと誓った、まさにその魔物、その鬼神へと変貌していたのである。


 だが、悔悟している時間などないし、引き返す道もない。昆侖の最も高い峰から、灰色の雲を貫いて、一道の炎のように赤熱した金符が風を裂いて降り、太乙真人の目前の蓮台へと深く突き刺さった。それは挨拶でも、救済の秘伝でもなかった。闡教の至高の化生たる元始天尊からの、最高命令である。


 金符に刻まれた文字は烈々と燃え上がり、あらゆる理性を圧し潰すほどの圧力を放ちながら、その内容だけは、九泉すら凍らせるほどの冷たさを帯びていた。


「天機に穴あり。凡人の血は未だ足りず。いかなる代価を払おうとも、戦争の速度を加速せよ! 規模は百倍、千倍にせよ。停止は許さぬ。進路を阻む者は、門ごと斬滅せよ!」


 太乙真人は、燃え尽きて赤い灰へと変わりつつある文字を、呆然と見つめた。玉虚宮は、世界を救う方法を探そうとしてなどいなかった。最高権力者は、あまりにも徹底した虚偽を選んでいたのだ。命令は下された。もし谷での小さな戦いが、まだ空を塞ぐ「接着剤」として足りないのなら、彼らはこの上なく巨大で、この上なく残酷な屠殺場を作り出すだけだ。三界のすべてを滅亡の渦へ巻き込み、空虚な幻影に、もう少しだけ延命を与えるために。彼らは「封神大戦」を創り出さねばならない。歴史上かつてなかった血の祭祀を、下に横たわる息も絶え絶えの同胞たちの死骸の上で、いままさに始めようとしているのだ。肉を砕く車輪は、神々の手によって正式にアクセルを踏まれ、奈落へ向かって一直線に突き進み始めた

 西岐大営の帥帳の内側は、空気がねっとりと凍りつき、暖を取るための油鍋さえも、白く青ざめた脂の塊へと固まってしまったかのようだった。姜子牙は沙盤の前に身をかがめたまま座り、胸を上下させながら、疲労の色をにじませていた。すると突然、帥帳にただ一つ灯っていた蝋燭がふっと消え、同時に、空を裂くような鋭い裂帛音が響いた。空間が真っ二つに引き裂かれ、裂け目の奥深い闇の中から、一人の男がゆっくりと姿を現した。


 それは楊戩――無敵の若き戦神にして、玉虚宮の誇り高き象徴、かつて万の妖魔を戦慄させ、魂を奪わんばかりに震え上がらせた男であった。だが、今日人間界に降り立った楊戩には、万丈の金光もなければ、天雷の轟きに護られるような壮麗さもない。ただ、死のように静まり返った気配の中を歩いてきた。かつては燦然と輝いていた銀甲は今や色褪せ、まるで死人の灰で鋳造したかのように鈍く、灰色にくすんでいた。だが、姜子牙を最も戦慄させたのは、この師侄の顔であった。楊戩の瞳――もとは真伝の弟子らしい熱血の炎を宿していたはずのその目は、今や完全に澄み切り、冷え切り、そして平板で、まるで感情の波ひとつ宿らぬ人工の硝子玉のようだった。喜怒哀楽のいずれも、そこには欠片すら見当たらない。額の第三の目に至っては、かつては滅魔の神光を放っていたはずなのに、今ではただ虚無へと絶えず深く渦を巻く、真っ黒な穴と化していた。


 楊戩は、もはや一個の生命ではなかった。彼は闡教の上層にいる者たちによって、人間性から完全に「断ち切られ」、独立した思考を悉く剥ぎ取られ、ただ命令を遂行するためだけの兵器へと鋳造されてしまっていた。天道の無感情な斬撃機械へと。


「丞相」


 楊戩の声が響いた。その声音は平板で、乾いていて、抑揚というものがまるでなく、荒い石板同士を擦り合わせる音のようだった。


 姜子牙の返答を待つこともなく、楊戩は懐から血のように赤い玉簡を取り出した。それは封神の勅書などではない。元始天尊の最も苛烈な意志を帯びた「御旨血祭」――その名の通り血の祭を命じる符であった。玉の塊は宙に浮かび、どす赤い光を放ち、姜子牙の蒼く萎びた老顔を照らし出した。


「玉虚宮からの命だ」と楊戩は淡々と言った。その視線は、外に布陣する数万の兵を、まるで雑草の群れでも見るかのように一瞥しただけだった。「この瞬間より、戦いは旗を奪うためでも、城を破るためでも、英雄を論じるためでもない。包囲の策も不要、補給線を断つ必要もない、降兵を受け入れる必要もない。あなたに課せられた唯一の任務は、刈り取ることだ」


「か、刈り取る……?」姜子牙の声は震えていた。すでにおぼろげながら察してはいたのだ。


「そうだ。天は裂けている。そして、それを埋めねばならぬ」楊戩は沙盤を指さした。「師伯は軍勢の集結点を設けよ。殷の軍と西岐の軍、その全てを玉虚宮が印を付けた“裂け目”へと追い込むのだ。散らせてはならぬ、逃がしてはならぬ。万の群れごと固めさせ、最大強度で殺し合わせよ。圧縮された血、肉、恐怖、怨嗟――それらこそが、現実を継ぎ合わせるための最も豊富な原料となる」


 楊戩が、数十万の人間、味方も敵も同然の者たちの死を語る口調は、ひどく軽く、そして冷たかった。まるで、農夫が熟した一畝の稲を刈る話でもしているかのように、あるいは、不要な雑草を一束切り払う話でもしているかのように。あまりに端正な仙風道骨の容貌と、邪気を帯びた言葉との落差に、姜子牙は胃の腑をねじられた。老人は震える手を差し出し、その真っ赤な玉簡を受け取った。抵抗など、ひとかけらもなかった。たとえ一言でも拒絶を口にすれば、楊戩の三尖両刃刀が即座に己の首を刎ね、玉虚宮はただそれよりも残忍な別の者を送り込むだけだと、姜子牙は痛いほど理解していたからだ。


 楊戩が闇の隅へと退くと、姜子牙は沙盤の上に崩れ落ちた。怪しい光を放つ玉簡の下で、老人の視界は滲んでいた。やがて彼は筆を手に取り、新たな軍略を書き始めた。それは孫子の兵法でもなければ、六韜三略でもない。屠殺場の設計図であった。彼は「誘敵」の道筋を引き、諸将には「粘り強く戦え」と命じ、戦いを迅速に終わらせることを絶対に禁じた。互いに絡み合い、爪を立て合い、疲弊しきるまで争わせ、血を少しずつ、絶えず流させるためである。地図を見つめる姜尚の眼には、もはや山も川も、肉体を持つ兵士たちの命も映っていなかった。老人の目に映る戦場は、ただ数値だけであり、喘ぐ天の底なし胃袋へと注ぎ込むために必要な、冷え切った「血の単位」だけだった。彼は完全に、闇の中で糸を引く卑劣な黒幕へと成り果てていた。聖人の衣をまとった屠夫へと。


 そのとき、帷幕が荒々しく跳ね上げられた。姫発が飛び込んできたのである。


 未来の武王――仁徳ある王朝への希望をその肩に担う男は、今や怒りの極みに達していた。胸は激しく上下し、双眸は血走っていた。彼はつい先ほど、負傷兵の野営地を視察して戻ってきたばかりだった。死体が山のように積み上がる光景、異常な空間の中でのたうつ負傷兵たちの姿が、彼の精神を粉々に打ち砕いていた。姫発は手にした戦況報告書の束を、姜子牙の目の前の机へと叩きつけた。


「丞相! これは一体どういうことだ!」


 姫発は怒鳴った。掠れた声が静寂を引き裂く。

「なぜ峡谷で側面攻撃をしなかった! なぜ南宮適の前軍を、平地に立ち尽くさせたまま、殷の騎兵の突撃をまともに受けさせた! 三万だ……西岐の三万人の仲間が、あなたの訳の分からぬ“死守して退くな”という命令のせいで、たった一朝で粉砕されたんだ! これは戦争なのか、それとも、あなたが我が軍の兵士を自殺させているだけなのか!」


 姫発は姜子牙を凝視した。そこに求めていたのは、説明か、謝罪か、せめて一瞬の後ろめたさであった。だが違った。姜子牙はただゆっくりと顔を上げるだけで、その表情には何の感情もなく、乾いた土で作られた彫像のようだった。


 闇の隅から、楊戩が歩み出た。仙人の存在感は重く、姫発を半歩後退させるほどの圧力を放っていた。楊戩は姫発の目を深く覗き込み、その声に恐ろしいほど魅惑的な魔力を滲ませた。


「二公子、あなたの慈悲は、羊飼いの美徳であって、天命を受ける帝王のものではありません。あなたは三万人の死を見ている。しかし、あなたは三界全体の存亡が揺らいでいることを見てはいない。紂王の暴虐、天を衝く怨気が、天道そのものを引き裂いてしまったのです。あの兵士たちは無駄死にしているのではない。彼らは道のために死んでいる。彼らの血は、人間界の罪を洗い流しているのです。新たな王朝は、血に濡れていない地の上には芽吹けません」


「お前たちは狂っている……」


 姫発は呟き、激しく首を振った。自分は神々の前に立っているのではなく、悪鬼の群れのただ中にいるのではないか、そんな感覚に襲われていた。


「お前たち仙人は、人の命を草芥のように扱うのか! 私は、自分の民の骨の上に玉座を築く帝王になるくらいなら、羊飼いでいるほうがましだ!」


「公子!」姜子牙が机を叩いた。その声には法力がこもり、姫発の元神へと真正面から叩きつけられた。「あなたに選択権があるとでも思っているのか! 天命はすでに定まっている! もし今日の犠牲を拒めば、明日には三万の兵士どころか、西岐も、九州万歳も、あなたの父母も妻子も、すべてが虚空へと消え失せるのだ! あなたは自分の小さな人間性を守りたいのか、それとも、この現実を救う明君となりたいのか!」


 それは、残虐な洗脳であった。楊戩が語る偽りの真理と、姜子牙の苛烈な精神圧力が組み合わさり、姫発の最も深い急所――責任という重荷――を直撃したのである。姫発は立ち尽くし、両手で頭を抱え、電撃でも受けたかのように体を震わせた。彼の脳裏には、狂った父が荒野を掻きむしる姿が浮かび、西岐が砂塵と化す未来図が見えた。神聖で崇高な理屈、「犠牲」「大局」「救世」といった言葉は、やがて一本の見えない縄となって、善良な若者の心臓を締め上げていった。


 涙を滲ませたその瞳の奥で、慈悲深き王の炎が最後に一度だけ閃き、そして完全に消えた。姫発の瞼が落ちる。再び顔を上げたとき、そこにある瞳は、もはや温かな透明さを失っていた。代わりにあったのは、暗く冷たい色――悪に対する、絶望の果ての妥協だった。彼は折れたのだ。姫発は、自分もまた盤上の一駒にすぎないという残酷な真実を受け入れた。そして生き延びるためには、自らも無感情な指し手となり、他の駒を死地へと投げ込む側に回らねばならないのだと悟った。周王朝に残されていた最後の人間性は、その日、帥帳の中で完全に埋葬されたのである。


 営外には、軍勢を覆う不気味な空気が漂っていた。西岐の陣営はもはや生者の駐屯地ではなく、斬首の日を待つ屠殺場に変わっていた。武器を打ち鳴らして鍛錬する音もない。焚き火を囲んで笑い合う声もない。故郷を語る話もなければ、恐怖に泣き叫ぶ声すらない。数十万の兵士たちは、灰色の霧の中で黙然と座り込んでいた。彼らは鈍く、硬直し、肉でできた機械のようにしか動かなかった。


 現実の「拍子のずれ」は峡谷の境界を越え、そのまま軍中へと感染していた。営の片隅では、焚き火を囲む一団の兵が、熱も持たぬ火の前に集まっていた。彼らの唇は絶えず動いていたが、発しているのは通じる言葉ではなく、太古の洪荒時代から伝わる、誰にも理解できぬ怪異な言語だった。ある者は武器を研いでいたが、鋼の剣を研ぐ代わりに、自分の肉皮から骨が突き出した腕の骨を、石で狂ったように磨き続けていた。その口元には、空っぽな笑みが浮かんでいる。別の兵士は見張りに立っていたが、その影は天幕の壁から勝手に剥がれ落ち、主が気づくこともないまま、よろよろと夜の闇へ歩み去っていた。


 不条理と、時空の変質が、もはや日常となっていた。兵士たちは逃げなかった。なぜなら、彼らの精神はすでに砕けていたからだ。彼らは死を受け入れ、歪んだ現実から逃れる唯一の救済として、死を待っていた。


 帥帳の中で、楊戩は幕をわずかにめくり、外の濃密な空間を見やった。そこでは、見えない裂け目から、濃い紫色の妖しい光が、天へ向かって滲み出し始めていた。戦神の乾いた唇がかすかに動く。彼は振り返り、血に濡れた沙盤へ顔を伏せている姜子牙と姫発を見た。そして、姜尚のような枯れ果てた男でさえ背筋が凍るような、そんな囁きを落とした。


「丞相、二公子。お二方はよくやった。だが、この程度の薪集めではまだ足りない。今夜、夜が落ちたら、殷軍の進軍を待つ必要はない。我らの手で、この機械を起動するのだ。伝令――全面奇襲。いまだ立っている者は、陣営の別を問わず、一人残らず皆殺しにせよ。すべては、天道へと捧げる灰塵となる準備が整っている」


 その言葉が終わるや否や、遥か高みにおいて、巨大で、どろりと粘ついた、アスファルトのように濃い闇が、ゆっくりと西岐一帯を覆い尽くし始めた。それは夜の闇ではない。嵐雲でもない。虚無そのものが口を開けたかのような、神と凡人の両方の罪とあがきとを丸ごと呑み込もうとする、かつてない大いなる破滅の闇であった。:::


 必要なら、この訳を「もっと漢語っぽく荘重にする版」か「読みやすく自然な小説調に整える版」に分けて出せます。

 濃密な闇が帳のように人間界を覆い隠していたが、西岐大営の高台から鳴り響く軍鼓は、それでもなお、乾ききって濁った拍を刻み続けていた。まるで、無意味な死の舞踏に拍子を与えるかのように。高台に立つ楊戩は、血に濡れた三尖両刃戟をだらりと垂らし、虚ろで透明な瞳で、眼前の真っ黒な虚空をじっと見つめていた。


「始めろ、丞相」


 楊戩の声は冷たく、感情の欠片もない。大きくはないが、周囲の者の鼓膜をまっすぐに貫いた。


「あの家畜どもを祭壇へ追い込め。一人たりとも残すな」


 姜子牙はその傍らに立ち、薄い道袍の下で老いた身体を震わせていた。彼はぎゅっと目を閉じ、下唇を噛み裂いて血を滲ませると、地面に伏したまま恐怖で縮み上がっている伝令の将へ向き直り、吠えるように命じた。


「南宮适に伝えよ! 西岐軍は決して分断してはならん! “円月陣”を組み、殷の三十万を中央の谷地へ完全に押し込め! 包囲を破ること、逃亡兵を追撃すること、いずれも厳禁だ! 命令に背いた者は、九族皆殺しだ!」


「で、ですが……丞相……」


 伝令の将は震えながら顔を上げ、涙をぼろぼろとこぼした。


「もし一か所に押し込んで、殲滅しなければ……あいつらは獣みたいに噛み返してきます……。内側の我が軍は、ぺしゃんこに潰れて泥になります……」


「泥にしてしまえ!」


 甲高く、狂気を帯びた声が、夜の帳を引き裂いた。姫発がよろよろと歩み出てくる。髪は乱れ、両目は見開かれ、人間性を完全に失った者特有の血走った赤い筋が浮かんでいた。未来の明君たる男は、伝令の襟首を掴むと、胸を裂くように叫んだ。


「泥にしろと言っているんだ! 丞相の言葉が聞こえなかったのか! 押し込め! 殺せ! 殺せ! 互いに噛み裂かせろ! 西岐と殷の血を混ぜ合わせろ! それが栄光だ! それが解放だ! 分かるのか!?」


 伝令の将は恐慌状態のまま何度も頷き、這うようにして指揮台を去った。谷底では、屠殺場の火が正式に燃え上がった。


 もはや「殺せ!」「殺せ!」と男気を鼓舞する叫びは聞こえない。戦場に満ちるのは、獣のような唸り声と噛み裂く音ばかりだった。巨大な閉鎖円陣に押し込まれた殷軍三十万と周軍十五万は、長剣を振るうことすらできぬほど狭い空間で互いに激突した。


「どけ! これ以上押すな! 後ろがもうない!」


 殷の副将が、絶望に満ちた声を上げる。


「噛みつけ! その喉笛を食いちぎれ! まだ死んでいない、天が裂けちまう!」


 西岐の兵が、両腕を斬り落とされたまま、血に染まった歯で敵の喉元へ狂ったように食らいついた。


「なぜ退かん! 陣形が崩れた! 陣形が崩れたぞ!」


 包囲の中心から、悲鳴じみた叫びが錯綜する。


 だが、誰も退かない。退ける者などいない。円陣の四方は、玉虚宮の不可視の符術によって封じられ、巨大な血受けの壺と化していた。そして、血が十分に流れ、狂乱が頂点へ達したとき、現実が崩れ始めた。


「見ろ! 俺の足……俺の足がない!?」


 一人の兵が、獣じみた悲鳴を上げた。彼は自分の足元を見下ろしたが、そこにあるのは血肉でも傷口でもなく、ただ透き通った空白だけだった。彼の身体は現実から「削除」されつつあり、肉体の一部一部が空気へ蒸発していく。


「化け物だ! 血……血がお前の身体に逆流してるぞ!」


 殷軍の兵が、目を剥いて後ずさりし、手にしていた刀を放り投げた。彼はたった今、周軍の兵の心臓を貫いたばかりだった。だが、空中に飛び散った鮮血が、突然ぴたりと止まり、逆流して傷口へ戻っていく。周囲の時間が巻き戻っていたのだ。死んだはずの周兵が、ふらりと立ち上がり、白濁した目で呻いた。


「天が……天が腹を空かせている……」


 時空の断裂は、あらゆる場所で進行していた。乾いた「ぱん、ぱん」という破裂音が連続して鳴り響く。ひとつ鳴るごとに、空間の一部が引き裂かれ、数十の命が灰色の虚無へ呑み込まれていく。殺された兵は黄泉へ落ちることすらできなかった。彼らの元神はそこに縫い留められ、無数の血赤い亡霊へと変じ、戦場を覆い尽くす濃密な血臭の霧となった。生きる者が死者を刺し、死者が生者の身体を貫いて叫ぶ。


 空の上で陣を操っていた金仙たちが、異変に気づき始めていた。


「師兄! 太乙師兄!」


 玉鼎真人の伝音が響く。だが、もはやその声には冴えはなく、極度の狼狽で掠れ切っていた。


「私の法器……斬仙剣が制御を失っています! 天地の霊気を吸っているのではない、あれは……あれは私の元神を吸っています!」


 太乙真人は蓮台の上で顔面蒼白となり、額から玉のような汗を噴き出していた。彼は慌てて印を結ぶ。


「法力を引け! 早く結びつきを断て! 凡人の生贄の数では、現実の崩壊速度をもう補いきれん!」


「だめだ! あ、あああっ!」


 拘留孫の絶叫が空間を裂いた。ふくよかな金仙の全身に、突如として無数の深い亀裂が走る。体内から金色の光が滝のように噴き出し、谷底の赤い霧に竜巻のように吸い込まれていく。


「助けてくれ! 奴らが俺を喰っている! 姜尚! お前、一体何をしでかしたんだ!」


「玉虚宮に騙された!」


 遠く天の果てから、怒りに満ちた咆哮が轟いた。截教の趙公明だ。全身の甲冑は粉々に砕け、燃える彗星のように突進してくると、手にした鞭を太乙真人の顔面へ突きつけた。


「この外道め、闡教の連中! 封神を口実にして、我ら截教をこの屠殺場へ誘い込んだな! 万仙の元神を使って天を埋めるつもりか!?」


「公明! 来るな!」


 太乙真人が絶望の声を上げ、手を伸ばして制止しようとする。


「我々も餌だ! 全員が餌なんだ! 天道が反噬している! この機械……運用している者から先に喰っているんだ!」


 だが、もう遅かった。


 巨大な亀裂が天を縦に割き、趙公明と太乙真人の間の空間を引き裂いた。趙公明の無限の仙力は、その裂け目に触れた瞬間、泡のように蒸発する。截教の大仙は目を見開いたまま、自身の肉が一層ずつ剥がれ、魂の断片までもが黒いエネルギーの帯となって、裂け目へ流れ落ちていくのを見ていた。


「元始天尊……通天教主……あの老いぼれの糞どもが……」


 それが趙公明の最後の言葉となり、彼は完全に虚無へと粉砕された。


 原初の飢えと狂気は、もはや完全に制御を失っていた。


 谷の中央、三十万もの死体が積み上がるそのど真ん中で、地面が唐突に陥没した。深淵のように暗く、目玉のように渦を巻く巨大な虚無の穴が、ゆっくりと口を開く。その引力は無機物ではなく、「生」を狙っていた。無数の命が、凡人も、空に浮かぶ散仙たちも、刹那のうちに肉体から元神を引き剥がされる。凡躯は干からびた抜け殻となって崩れ落ち、魂と神力は黒々とねじれた光の筋へと変わり、悲鳴を上げながら、その巨大な穴へ吸い込まれていった。


 姜子牙は数里離れた高台に立ち、濁った眼で、歴史上最も壮大な破滅の光景を映していた。かつて三界を支配すると自任した傲慢な仙人たちが、今や蜘蛛の巣に絡まった蝿のように叫び、もがき、神力を吸い尽くされ、空中で枯れ木のように萎れていくのが見えた。


「きれいだ……」


 姫発がその傍らで、呆けたように笑い出した。その狂った笑い声が、死の静寂の中に虚しく響く。


「丞相、見てください。あの穴……大きな口みたいじゃありませんか? あれに食わせてやれば……食べ飽きたら、もう俺たちを食わないでしょう?」


 姜子牙は答えなかった。


 ただゆっくりと顔を向け、虚ろな目で、なおも動かぬまま黒い穴を見つめ続けている楊戩を見た。


「師侄よ……」


 姜子牙は掠れ切った声で呟いた。もはや生気の欠片もない。


「これが、師父の言う救いなのか? 我々は天を補っているのではない……三界まるごと、あれの胃袋へ投げ込んでいるだけではないか」


 楊戩はわずかに首を傾け、口元をかすかに動かした。そして、冷酷に凍てついた声を漏らす。


「エネルギーは均衡しています、丞相。機械は起動しました。あとは呑ませておけばいい。あそこへ落ちる者は、誰であれ福音です。少なくとも、彼らの死は、下で眠るあの方の目を欺けるだけの、十分に濃い人工の夜を作り出すでしょう。お悲しみになることはありません、丞相。玉虚宮があなたに封神榜を授けると約束したではありませんか。今夜を越えさえすれば、この世のすべての魂はあなたのものとなり、空の上の空っぽな墓へ、自由に振り分けることができるのです」


「封神だと……」


 姜子牙は天を仰いだ。その笑いは、泣き声のように響き、砕け、あまりにも痛ましかった。


「封神だと? 封鬼と呼ぶべきだ! 我々は、冤死した者たちを、死んだ宇宙の神に封じているだけではないか! ははは! 全部が欺瞞だ! 全部が、無意味さへ捧げるための饗宴にすぎん!」


 老いた男のうめきは、風にちぎれて消えていく。


 その下で、黒い穴はさらに膨らみ始めていた。虚無が咀嚼する湿った音が、とうとうはっきりと聞こえ始める。それは、血と肉の宴がまだ始まったばかりであり、世界の皮膜の向こうに潜むあの巨大な飢えが、いまだ満たされてなどいないことを告げていた。:::


 必要なら、この訳をさらに「文学寄りに格調高くする版」か「漫画・小説にそのまま使いやすい自然文版」に整えられます。

 まさに、谷の中央に浮かぶ黒い穴が大きく口を開け、戦場に残された最後の空間を呑み込もうとした、その瞬間だった。万物が突如として停止した。いや、何かの法力が介入して止めたのではない。空間も、時間も、因果律さえも、完全に凍結したのだ。


 下界の群がる魔物たちが噛み裂く音は、ぴたりと途絶えた。元神を剥ぎ取られつつあった金仙たちの悲鳴も、忽然と消えた。宙に漂っていた血の滴は、紅い王冠のような形のまま、永遠に静止した。風も止まった。万の生霊の心臓が一斉に拍動を外し、まるでこの宇宙そのものが、見えない手で喉元を締め上げられたかのようだった。


 そして、遥か南方の霞む彼方――大地に五本指のような姿で根を張る山の方角から、一つの声が響いた。いや、正確には耳で聞く音ではなかった。それは万物の根源へ直接叩き込まれる「震動」であり、眠りの中でわずかに身じろぎした者の意識を伴った、壮大な念波だった。


「虫けらどもの騒ぎが……我が夢を揺り起こしたか……」


 性別も音色もなく、三界のいかなる言語にも属さぬその声音が、突如として一切の生き物の心中に爆発した。九重天に坐す玉皇大帝から、西岐の泥の下を這う一匹の土虫に至るまで、すべての意識に直接響いた。それは言葉ではない。反抗という反抗を粉砕する「真理」そのものだった。


 その念が乾坤をなぞった刹那、眩い紫金色の光が、天の果てから噴き上がった。神眼すら焼き潰すほどの光芒が、戦場を覆う血の霧を切り裂く。そのエネルギーには破壊が宿っていた。だが同時に、さらに原初的で、荒々しく、暴虐な「創造」の権能もまた含まれていた。


 その紫金の波が生き物の身体を通過した瞬間、修道史上、かつて例を見ぬほどの恐るべき異変が、三界すべての女たちに降りかかった。


 宮中で静かに閉関していた女媧であれ、朝歌の摘星楼で妖艶に佇む妲己であれ、天庭の清心寡欲な仙子たちであれ、戦場で死から逃れようと叫ぶ女戦士や凡人の女たちであれ――すべてが一斉に崩れ落ちた。


 それは、Gensonの念との接触により、魂の最深部に大洪荒の時代から埋もれていた原初の遺伝子が呼び覚まされたからだった。狂気じみたまでの生存本能と繁殖本能。あまりにも巨大な超越者の意思と、押し寄せるエネルギーに強制的に同調させられた彼女たちの身体は、生命そのものを吸い上げる器へと変質していく。肉体の奥底から燃え上がる原初の衝動が、理性も倫理も、すべての防壁を焼き尽くした。


 身体は炭火のように熱を帯び、汗が衣を濡らした。彼女たちは地にのたうち、断続的な喘ぎを漏らしながら、極限の苦痛と、抗いがたい異様な高揚のあいだで引き裂かれていた。血脈は沸騰し、生命の気は混沌のうねりとなって身体を満たし、周囲の生気を呑み込んでいく。超越者たるその存在が求める「充填」の欲求は、無慈悲な暴走となって周囲へ波及し、清らかな女仙も、誇り高き王妃も、抗えぬうちにその威光の前へ跪かされていった。


「だ、だめだ……何だ、この邪術は……師父、助けて……!」


 その叫びは、姜子牙の心中へも届いた。遠く離れた地点で、ある師妹が道袍を掻き裂きながら倒れ伏していたのだ。しかし、姜子牙には誰一人救えなかった。彼自身もまた高台にひれ伏し、七竅から血を流していたからだ。Gensonの念がその魂にのしかかる重みは、泰山万座が一度に押し潰しかかったかのようだった。


 傍らの楊戩も同様だった。額の第三の目――かつては静かな深淵であったそこは、今や無数の破片となって砕け散り、鮮血が顔面を赤く染めていた。


「お、お前は……何者だ……なぜ……なぜ三界を穢す……」


 姜子牙は声にならぬ叫びを念として投げた。


「穢す?」


 その声が再び響いた。今度は、羽毛のように軽い、しかし魂を切り裂くほど薄い嘲りを含んでいた。


「我は目覚めたのではない。お前たちを滅ぼすために来たのでもない。まして、この枯渇した世界を支配したいわけでも、辱めたいわけでもない。ただ、少し身じろぎしただけだ。お前たちが味わっている狂乱も、渇望も、崩壊も、海を一滴の水が抱え込もうとする際に支払う代償にすぎぬ。神を名乗り、聖を名乗り、天命を裁く者を気取るか。見よ、思い違いをしている塵芥どもよ。お前たちが必死に覆い隠してきた真実が、いったい何であるのかを」


 言い終わるか終わらぬかのうちに、谷の中心、黒い穴が浮かぶその場所で、天地を揺るがす轟音が鳴った。黒穴は消えない。消えるどころか、巨大な硝子の稜鏡が大槌で砕かれたかのように、ひび割れていく。空中には無数の空間の破片が漂い始めた。


 その一つ一つは、現在の戦場を映しているのではない。別の世界、別の時間軸を照らし出し、残酷な現実――多元宇宙――を曝け出していた。


 姜子牙、楊戩、姫発は、血の滲む目を見開いたまま、その漂う破片を呆然と見つめた。最初の破片には、紂王・殷寿が完全勝利した暴君の姿で現れ、姫発の屍を踏みつけながら狂ったように笑っていた。


「西岐は滅んだ! 孤こそが天道だ! 孤こそ唯一だ!」


 別の破片では、姜子牙が黄袍をまとう姿が映っていた。誰かに封神を与えるのではない。己自身を新たな玉帝として封じ、元始天尊の血で玉座を染めているのだ。さらに、漆黒の破片もあった。そこでは宇宙が完全に凍結し、万物は静まり返り、命の芽さえ存在しない。ただ、赤い砂嵐が、十二金仙の姿をした石像の間を吹き抜けていた。


 すべてだ。無数の宇宙に分岐するあらゆる可能性、封神大劫の行き着く先のすべてが、いまや曲げられ、捻じられ、中心の破片――すなわち五行山の在る場所へと引き寄せられていた。あらゆる時間軸が、この偉大なる夢の引力から逃れられない。


「見えるか……お前たちの戦も、深謀も、英雄の流血も、卑劣な残虐も……」


 Gensonの念が流れ、死を告げる鈴のように、ひそやかに一人一人の耳へ囁いた。


「ただの無意味な反復にすぎぬ。我の断続する夢にすぎぬ。我が目を閉じれば、お前たちは生まれ、育ち、殺し合う。少し眉をひそめれば、お前たちの世界など泡のように砕け散るのだ」


 真実は、解剖刀のように信仰を切り裂いた。姫発は、つい先ほどまで敵を粉砕しようと狂気に沈んでいたのに、今は床板の上に崩れ落ち、顔を覆って子どものように慟哭した。周囲のすべてを奪われたかのような、惨めで無力な泣き方だった。彼が背負ってきた努力も罪も、結局は何の意味もなかったのだ。


 多元宇宙の砕けた稜鏡の内側で、空間が激しく波打ち始める。過去、現在、未来が、ひとつの時空座標へ引きずり込まれていく。紫金の光の中、未来の時間片の奥底から、この時代には存在しなかった黒い影たちが姿を現し、西岐の空へとその輪郭を映した。


 姜子牙は息を呑んだ。そこには、黒い破れマントを羽織り、砕けた大鎌を手にした男の姿があった。漆黒の気が渦巻き、冷笑が響く。


「万物は空へ還る。旧き神々の時代は終わった。御身の種子は、空間を越えて芽吹いた……我が鎌は、この腐りきった因果を断ち切る!」


 さらに別の破片には、薄い紗幕の向こうに顔を隠した魔女が映る。血に濡れた帯を全身に巻きつけ、双眸を熾烈な溶岩のように赤く輝かせながら、Gensonから放たれる原初の衝動の波を恍惚と受け止めていた。


「見事……なんという創造の力、なんという喰らう力……。私を呼んでいる! 万層の空間を貫いて、私は万厄の根源を抱きに行く!」


 この世界の道教でも魔界でもない、異なる流派の力を携えた名もなき強大な存在たちが、次々と「引き寄せ」られ始めていた。Gensonは西岐の現実を脅かしているだけではない。彼がわずかに身じろぎしたことで、多元宇宙全体に亀裂の種が撒かれ、狂信者も、破滅を求める者も、あるいは未知の未来から来た好奇心の亡者も、ここへ集い始めたのだ。封神の始点は、いまや終点となり、混沌たる多元宇宙の交差点へと変貌していた。


 姜子牙はふらつきながら立ち上がった。老いた手が震えつつ懐へ入り、封神榜の巻物を引き出す。かつて黄金の輝きを放ち、生殺与奪を定める絶対権力の象徴だった至宝である。だが、老人が見下ろしたその巻物には、もはや黄金の光は失われていた。巻を開けば、朱砂の文字も、神聖な名も、すべて蒸発したかのように消え失せている。ただ、白い絹布のように空白で、虚ろで、まるで今の姜子牙自身の心そのものだった。


 封神の戦い、殷の王朝、闡教の算段――すべては、もはや正式に終わっていた。勝者によって終わったのではない。乾坤の真の主が、盤面ごと泥沼へ蹴り飛ばしたのである。


 戦場は静寂に沈んだ。幾万もの死体が折り重なり、生き残った者たちは呆然とし、狂乱し、あるいは原初の欲望と恐怖の夢に沈んでいた。紫金の光は徐々に収束し、南方へと引いていく。五行山の下に鎮まる者が、ひとまず再び眠りについたのだと告げるかのように。


 だが、あの一瞬の身じろぎが残した結果は、もはや元には戻らない。天空は巨大なガラスの板のように砕け散り、修復不可能なまでに割れていた。


 最も深い裂け目――空の中央に穿たれたその内側から、ゆっくりと足音が響く。未来の時間鏡の奥から、まったく見知らぬ巨大な黒影が歩み出て、この世界のものではない圧力をまとっていた。赤く燃えるその瞳が荒廃した戦場を一瞥し、冷笑を浮かべる。それは、神仏の時代に永久の終止符を打ち、そして新たな悪夢の連鎖を開く存在――多元宇宙の名を持つものだった。

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