Episode 10
暁の光は、本来ならば西岐に、まさに興隆期にある諸侯の地にふさわしい生気をもたらすはずであった。だが今朝の太陽は、まるで血涙を枯らした一つの眼のように、冷たく、灰色で、萎れ切った光を人の世へと滴らせている。西伯侯府の内に満ちる空気は、凝り固まって血溜まりのようになり、下働きの者たちの一呼吸一呼吸をも締め上げるほど重苦しかった。かつて魂を清めたはずの沈香の煙は、いまや地面に落ちてしまい、どうしても天へ昇れない。まるで姫氏一族の運命そのものが、目には見えぬ手に掴まれ、絶望という泥濘へと無理やり押し込められているかのようであった。
静室の内――そこはかつて、人と天道が交わる場であった。姫昌、八卦に通じ、万民から聖人のごとく崇められた賢王は、もはや見る影もなく、狂気に蝕まれ、痩せ衰えた残骸にすぎなかった。彼は青白く冷え切った玉石の床に座り込んだまま、衣は乱れ、白髪は乱れ放題に垂れ下がり、やつれた顔の半ばを覆っている。その眼は、かつて宇宙の六十四卦を見透かし、殷朝の興亡を自信をもって裁断したあの眼は、いまや虚ろで、空っぽで、底知れぬ恐怖に満たされていた。そこに光は映らず、ただ果てのない深淵の影を吸い込むばかりである。
姫昌の十本の指先からは鮮血が滲み、爪は裏返り、赤く腫れ上がっていた。彼は己の生身の肉を使い、硬い石床の上に、執拗に何か異様な形を引っ掻き、何度も何度も描き続けていたのだ。それは八卦の陣形でもなく、道家の符呪でもなかった。あれはただの乱雑な線でありながら、深く刻み込まれた執念を宿していた――五本の指のような形をした山が、天へ向かって突き立ち、光なき虚無の静寂の中に、厳然と聳え立っているのである。
「父上……どうか、おやめください……血が……手から血が流れすぎています……」
姫発は、父の傍らに膝をつき、声を詰まらせ、途切れ途切れに言った。彼は正真正銘の勇将であり、武王として天命を受けて紂王を討つ、威風堂々たる未来の英雄であった。だがこの瞬間、偉大なる父が精神の崩壊を来しているのを前にすると、自分が芥子粒ほどにも頼りない蟻けらに思えてならなかった。姫発は、血に濡れた姫昌の手を取ろうとした。だが衣の裾に触れた瞬間、姫昌は毒蛇に噛まれたかのようにびくりと身を震わせ、身を縮め、震えながら息子を強く突き放した。
「触るな! 闇を刺激するでない!」姫昌は、かすれ切った声で唸った。その声は、冬の夜に枯れ葉が擦れ合う音のように乾き切っていた。彼はなおも、床に描かれた血塗れの山の像を睨みつけ、意味をなさぬ、しかし乾坤を打ち砕くほどの重みを帯びたような予言めいた言葉を、ぶつぶつと呟いた。
「江山も……王権も……あの山の足元で舞い散る塵にすぎぬ……眠っている者は玉座など必要としない。なぜなら、彼にとっての玉座とは、この存在すべてそのものなのだから……乾坤は衰え、陰陽は狂い……天道は刀槍で引き裂かれるのではない、彼の夢によって押し潰されるのだ……彼は眠っている……決して、何千何万回となく、その瞼を開かせてはならぬ……紫金の瞳……万物を喰らう……」
姫発は顔を覆い、声にならぬ涙を流した。彼は気づいたのだ。父は毒に侵されたのでもなければ、ありふれた心魔に取り憑かれたのでもない。西伯侯ほどの知略の士が、まるで自らの人生観と思想体系のすべてを叩き壊すような、あまりにも残酷な“真実”をその目で見てしまったのだ。己の小ささ、そして互いに喰い合って奪い合っているこの世界そのものの、何の意味もない無力さ――その認識から生じた、極限の恐怖である。その恐怖は殷朝の刀剣から来たのではない。冷たい石の下に自らを埋めて眠る、ある至高の存在の不在、その沈黙から来たものだった。
その同時刻、姫昌の禁忌の卜占が引き起こした震動は、因果の流れに乗って、幾重にも重なる雲霧を突き破り、清浄なる結界の壁を引き裂いて、遥かなる崑崙の頂へと真正面から叩きつけられた。
崑崙山――玉虚宮の所在するその地は、もともと三界における最も尊い聖地であった。年中仙気がたゆたひ、鶴仙が翼を広げ、千年を経た松柏は塵ひとつまみも纏わぬ。ここは闡教の総本山であり、世に定められた秩序も、天機も、すべてを統括する中枢である。だが運命のこの朝、山頂を覆っていた七色の霊光は、突如として暗転した。そこに満ちた冷気は、氷雪由来のものではなく、虚無の最奥から押し寄せるものであり、枝葉の一本一本にまで絡みつき、朝露を凍りつかせ、静まり返っていた八卦の池すら濁った泡を浮かべさせた。
荘厳華麗な玉虚宮の内部では、闡教の十二金仙――広成子、太乙真人、玉鼎真人、赤精子ら十二の大能が一堂に会して坐禅していた。すると突然、十二人の胸が同時に、頭蓋を貫くような鋭い痛みに襲われた。それは物理的な攻撃ではない。彼ら自身の大道の根源から生じた反噬であった。太乙真人は顔を蒼白にし、手にしていた払子を玉の階に取り落とした。元神は、巨大な岩にせき止められた川のように激しくうねり、仙気は停滞し、呼吸は重くなった。妖魔を斬り、邪を払う宝剣を携えた広成子でさえ、歯を食いしばり、冷や汗を滝のように流し、両手で坐蒲を必死に掴んでいなければ膝から崩れ落ちそうであった。
「何が……何が起きているのですか?」玉鼎真人が声を発した。その声からは、いつもの平静さが消え失せ、代わって極度の狼狽が滲み出ていた。「五行の霊気が……泣いている? いや、逃げているのか! 崑崙全体が、正体不明の威圧に震えている!」
十二金仙の恐怖に引きつった視線は、一斉に最上段の玉座へと向かった。そこでは元始天尊――闡教を生み出した至高の存在にして、天機を掌る者――が、目を閉じて静かに坐していた。その頭上には、封神榜が据えられている。数万の生霊の生死を決める聖物であり、本来ならば滅びぬ神秘の光を放つはずのそれが、いまや激しく震えていた。巻かれた洪荒玉操の奥底からは、カチカチ……カチカチ……と乾いて鋭い音が響く。まるで骨が折れる音のようである。黄金の神光の表面には、黒い微細な亀裂が一筋、また一筋と広がり、運命の網に、もはや修復不能の巨大な穴が生じたことを告げていた。
元始天尊は、ゆっくりと目を開いた。聖人の瞳の内には、銀河全体の運行と万法の理が宿っている。だがこの瞬間、その偉大な眼差しには、天地開闢以来かつてなかったほどの衝撃と、言い知れぬ動揺が一瞬だけ閃いた。彼は袖を払った。無数の金光が溢れ出し、封神榜の亀裂を鎮めようとしたが、その光は裂け目に触れた途端、ひとかけらの波紋さえ残さず虚無へと吸い込まれてしまった。
無量上尊は眉をひそめた。すぐさま目を閉じ、「天道神眼」を開いて、己の神識を因果の流れに沿って逆流させ、三界五行のすべてを洗い、誰がこの大局を大胆にも打ち抜いたのかを探った。九重天を見透かし、墓軒轅の群妖を一瞥し、朝歌の宮禁をも貫いた。だが妖族は見えず、截教の影もなく、ましてや暴威を振るう魔尊の姿もなかった。
元始天尊が見たものは、長年の歳月でさえ硬化しきった聖人の心臓を、一拍だけ逸らせるほどのものだった。
彼が見たのは、「空白」であった。歴史の流れの中心に、堂々と居座る巨大な虚無のブラックホール。常ならば、封神大劫の最重要の環であるはずの一つの異数――天地を転回させるために生まれ落ちるはずの存在――があるべき場所に、いまや人も因果も形も影もない、静まり返った暗黒が横たわっていた。その者は、己の存在を天機から完全に抹消していたのだ。にもかかわらず、皮肉にも、その“絶対的な不在”そのものが、万物の均衡を砕く千斤の重石となっていた。
その者は、秩序を破壊するために手を下す必要などなかった。ただ、五指の山の麓で眠る一つの夢として在るだけで、天道全体が息を詰まらせ、彼の静寂に席を譲るために、自らを歪めざるを得なくなるのだから。
己の限界を信じ切れず、元始天尊は慌てて手を上げ、十指を立て続けに繰り、万年に及ぶ聖人の修為をもって、その「空白」を強引に算出し、五行山の下に横たわる者の姿を見通そうとした。だが、その瞬間、最も恐るべきことが起こった。
彼の意念が、あの虚無のブラックホールの縁に触れた、その刹那――心の奥底で、淡い紫金色の光が閃いた。続いて、彼の指はぴたりと止まった。つい先ほど自分が卜算を行ったという記憶が、消し去られてしまったのである。
元始天尊の頭は、一瞬にして空白になった。自分が何を算じようとしていたのか、完全に忘れてしまったのだ。もう一度最初からやり直そうとした、そのとき――同じ輪廻が再び繰り返された。目に見えぬ、傲慢にして絶対的な静寂を湛えた力が、彼がその境界へ近づこうとするたびに、思考する権能そのものを奪い去っていったのである。崑崙の最高権力者は、愕然として悟った。自らが長らく誇ってきた「天機を見通す」という称号など、所詮は笑止千万な幻影にすぎなかったのだと。自分も、この下に連なる仙たちも、ただ井戸の底に座る蛙であり、些末な術法をかき回しているに過ぎない。真にその上に広がる空は、あの眠り続ける者の瞳だったのである。
太乙真人は玉の床にひれ伏し、恐怖に声を詰まらせながら、玉虚宮の凍りつくような静けさを破った。
「師父……天地があまりにも静かです……この静けさは平和などではありません……首元に刃を突きつけられた者の、耐え忍ぶ沈黙にすぎない……我らは……我らの仙界は……いったい、どれほどの無上大道に直面しているのですか……!」
元始天尊はゆっくりと手を下ろし、震える両手を大きな袖の中へと隠した。彼の視線は、封神榜に走った黒い亀裂へと釘づけになり、口の中は苦く渋く、言葉にならない。己の心血を注いで築き上げた盤面は、いまや名もなき一者によって、まるで何でもないかのようにひっくり返されていた。刀剣によってでも、法術によってでもない――ただ、乾坤を嘲弄する一つの眠りによって、である。
崑崙の頂を離れ、霧と雪の立ちこめるその峰から、姜子牙は雲に乗り風を踏んで人界へと降り立ち、かすかな霊気をたどって西岐の岸辺を目指した。老いたる彼の足下には、成湯王朝の錦繍の山河が広がっていたが、それは本来の輝きを失い、まるで華麗な袞龍の衣が浮遊する虫けらに食い荒らされ、見るも無惨にぼろぼろとなったかのようであった。今、彼の両手には、一時代そのものの重みを宿す二つの至宝があった。左手には、万里の諸仙の元神すら打ち砕くことのできる鉄鞭・打神鞭を固く握り、右手には、封神大劫において命を落とす万千の名を封じる黄金の巻物・封神榜を抱きしめている。本来、天命を背負って山を下る者は、闇を払う太陽のごとき誇りを胸に宿しているはずであった。だがこの時の姜尚は、胸の内を千年氷に押し潰されたかのように感じていた。彼の顔を打つ風は、春を告げる歓迎の風などではなく、むしろ嗚咽するような悲鳴を含み、見えざる崖を前に震える無数の生霊の慟哭のごとく、耳を打っていた。
老いたる彼は、渭水のほとりに連なる松柏に覆われた荒山で足を止め、揺れ動く心を鎮めるため、もう一度封神榜を開いて確かめることにした。その巻物は九重天の天蚕の糸によって織り上げられ、一本一本の糸が小さな銀河であり、そこに朱砂で記された一画一画が、天道によって定められた、いささかも動かしえぬ血の刻印である。姜子牙はゆっくりとその絹帯を解いた。本来なら、その巻物から放たれる金色の光は彼の魂を温めるはずであった。しかし、その文字に目を落とした刹那、姜尚の瞳孔は極限まで収縮した。冷や汗があふれ、道袍の内側まで濡らしていく。
これは……いったい何だ? 天機が……血を流している!
諸神の名を記した純金の文字、聖人によってあらかじめ「正」と「邪」、「仙」と「鬼」に分けられていたはずの名々が、今や水面に漂う亡霊のように、ぼんやりと揺らいでいた。墨跡は滲み、にじみ、定まらない。忠義のために戦死するはずの神々の名までもが、現れては消え、あるいは自動的に「商」の陣営から「西周」へと滑り移り、またあるいは針のむしろで暴れる蟻のごとく狂ったように踊りだしている。もとより堂々たる輝きを放っていた名も、無の彼方から差した真黒な一筆によって、跡形もなく抹消され、その存在の痕跡すら残されていなかった。姜子牙は戦慄した。封神榜を蝕んでいるのは、誰かの邪術による攻撃ではない。この封神榜そのものが、自らを歪めているのだ。それは、ぼろぼろに破れた帳面が、目に見えぬ手によって、しかも静かに、しかし容赦なく、陳腐な道家の筋書きを消し去られ、姜子牙のような易経の達人ですら読み解けぬ、混沌とした何かの言語へと書き換えられていく光景であった。乾坤の「ずれ」は、あまりにも生々しく、残酷であった。まるで宇宙の大時計から、誰かが中央の主軸を気軽に抜き取ってしまったかのように、時針も分針も、意味を失って狂った輪舞を繰り返しているのである。
姜子牙は両手をだらりと垂らし、巻物は草むらへと落ちた。老いたる彼の眼には困惑が満ち、灰色の空を仰いだまま、心を裂くような絶望の中で呟いた。
「聖人はこれを天意だ、揺るがぬ至高の指示だと言う……だが、なぜだ……なぜ、わしには壊滅の匂いがするのだ……この匂いは、未来の破滅から来るものではない……もっと遥かな永遠のどこか……すでに我らを見捨てた何ものかの気配だ……乾坤が自らを引き裂き、ある“空白”にひざまずこうとしている……」
崩壊の兆しは、紙の上だけに現れたわけではなかった。姜子牙が初めて凡身をもって西岐の地を踏み入れた時、彼はようやく知ることになる。五行山の下に眠る「その者」の夢が、現実世界の薄皮を通して、すでに滲み出していたのだと。西岐――鳳凰が鳴いて覇を唱える地として名高かったその土地は、今や身の毛もよだつ異変に沈んでいた。渭水は東へ流れる代わりに、濁った波を巻き上げながら逆流し、上流へとさかのぼっていた。自然の景色は無惨にも反転していた。梅の花が秋の盛りに高らかに咲き誇り、次の瞬間には灰となって萎れていく。枝に止まる鳥たちは、清らかなさえずりではなく、獣のような低く濁った唸り声を発していた。さらに奇怪だったのは、民家のあいだを通り過ぎるたび、姜尚は震え上がったことだ。産声を上げたばかりの乳児たちの透き通った瞳が、刹那だけ、紫がかった黄金の光を宿すのである――それは高貴でありながら妖しく、万物を踏みにじるかのような色であり、すぐに消えて元の光に戻った。あの無辺の力の種子は、どうやら天地の生気そのものへと感染し始めているらしかった。
さらに西岐の境界に近い荒れ果てた峡谷へと分け入ったとき、姜子牙は奇妙な光景に遭遇した。西周軍の若い小隊長らしき男が、ぼろぼろの鎧を身につけ、折れた剣を抱えたまま、大きな岩の前で膝をついていた。死んでいるわけでも、傷を負っているわけでもない。だがその眼は完全に虚ろで、焦点を失い、白く濁っていた。男はひたすら岩に額を打ちつけ続け、額から鮮血がだらだらと流れていても意に介さない。口から漏れるのは断片的な予言めいた言葉で、その声は人のものというより、九泉の冷たい底から響いてくる反響のようであった。
「山が天を押している……天は崩れぬ……震えているのは、地のほうだ……」
姜子牙は近づき、霊力をもってその眉間を打ち、魂魄を呼び戻そうとした。だが霊力が触れた瞬間、夢幻の霧の層に弾き返されてしまう。するとその若い将は、突如としてぎょろりと振り向き、姜子牙の道袍の裾を怪力でつかんだ。吐息は凍えるように冷たく、血に濡れた顔には歪んだ笑みが張りついている。
「老道士……風を探しているのか? もう探すな……西岐の風は、天が生んだものではない……聞こえるか? あの深い地の底に……巨大な影が横たわっている……奴がひとつ息を吸えば、黒雲が渦を巻く。奴がひとつ息を吐けば、渭水は逆流する……われらは自分の息で生きているのではない……ただ奴の呼吸にすがり、かろうじて息をしているにすぎぬ……起こしてはならない……頼む……あの目を、開かせてはならない……」
言い終えるや、若い将は地面に崩れ落ち、そのまま息絶えた。だが、彼の肉体から魂が抜け出すことはなかった。彼の魂は、もはやいつの間にか、極度の畏怖によって粉々に砕かれてしまっていたかのようであった。
恐怖と憤怒、そしてその闇の幕を剥ぎ取りたいという衝動が渦巻く中、姜子牙は舌先を噛み切り、精血をひと口吐き出して指先にのせ、額の中央へと強く押し当てた。彼は禁忌中の禁忌たる神通――神眼破虚を発動し、この西岐を蝕むものの正体が、いったいどこから来るのかを見極めようとした。額の第三の眼から放たれた光は、万里の山河をなめるように走り、雲層を貫き、都市を越えていった。
本来ならば、彼は姫昌の真命帝運が、自分を迎えるべく鮮烈な輝きを放っているはずだと期待していた。だが、彼の視線は抗いがたい吸引力に引かれるように、南方へと一気に引きずり込まれた。そちらを見れば見るほど、姜子牙の目に映る世界からは色彩が失われていく。天空も大地も草木も、すべてが灰色へと変じていった。そして、彼はそれを見た。
南の地平の果てにあるのは、仙界でもなければ妖気でもない。ただの巨大な「真っ黒な空白」だった。それは邪魔な妖魔の闇ではなく、絶対的な虚無であり、天道すら飲み込む「盲点」であった。その空白の中心には、五本の指の形をした山の、かすかな影があった。姜尚には、その山の下に横たわる者の姿を見ることはできなかった。しかし、その山を取り巻く光景は、老道士の魂を今にも消し飛ばさんばかりであった。
彼は万物の意志を見た。渭水の魂を見、崑崙の山々の元神を見、万千の野獣、草木、飛ぶ鳥、さらには天地を漂う目に見えぬ霊気に至るまでを見た……この世界を形づくるあらゆる法則が、かすかな影として現れ、無数に膝を折り、巨大な輪を描いて、その五行山へと向かってひれ伏しているのである。それらは強さを恐れてひれ伏しているのではない。永遠の真理という存在そのものに服して、ひれ伏しているのだ。あの者がそこにいるからこそ、世界は存在を許されているのである。
神眼はそこで断ち切られた。姜子牙は後ろへ仰け反り、荒れ草の地に三口の鮮血を吐き散らした。彼の気は弱り果て、いまや死に瀕した凡俗の老人と見分けがつかぬほどである。彼は震える手で封神榜を胸に抱きしめた。信じていた神が、ただの土人形にすぎなかったと知った信徒のように、涙に濡れた眼をしていた。彼は笑った。苦く、ひび割れた笑いが、荒涼たる谷間にこだまする。
「ははは……真の主を探す? 西周を輔けるだと? 姜尚よ、姜尚よ、お前は何のために山を下りたのだ? 元始天尊は、この盤をいったい何のために据えたのか? 我らは……三界のすべてが……闡教も、截教も、王権も……ただの盤上で踊る操り人形にすぎぬ……しかも、その本当の持ち主ですら……とうに倦み果てて、眠りに沈んでいるというのに……」
息の詰まるような闇が、ゆっくりと西岐へと覆いかぶさっていく。それは姜子牙に告げていた――この瞬間より、彼の神算鬼謀も、妙算神機も、すべて紙屑に成り果てたのだと。封神の劫はなおも起こり、兵火はなおも燃え上がり、血はなおも河を成して流れるであろう。しかしそれは天地を祭るためではない。南方に君臨するあの恐るべき夢へ、静寂を子守歌として捧げるための、ひとつの調べにすぎないのである。
玉虚宮――闡教の至尊たちが鎮座するその聖域には、かつてないほど重苦しく、息の詰まるような静けさが満ちていた。五色の雲海に浮かぶこの宮殿は、もとは絶え間なく朗々とした経文の声、清らかな鶴の鳴き声、そして千年絶えぬ沈香の香りに包まれていたはずである。だが今は、金で鋳た墓標のような死の沈黙に沈んでいた。
大殿の内では、十二金仙――元始天尊の最も誇るべき十二人の大弟子たちが一堂に会していた。彼らは光を放つ蓮台に座し、瑕ひとつない道袍をまとい、その面差しは秋水のごとく静謐であった。だが、もし権勢の霧を見透かすだけの修為を持つ者がいたならば、その蓮台がかすかに震えているのを見抜いただろう。万重の仙法で覆い隠してもなお、焦燥の色は、彼らの逸らした視線の端々から滲み出ていたのである。
彼らはすでに、天道の異常に気づいていた。これまで信じ、よりどころとして権威を築き上げてきた乾坤の法則が崩れはじめ、「天命」の空虚さが、いまや何よりも明らかになっていたのだ。だが、万民の前で、そして秩序を司る「聖人」の地位を失う危機の前で、彼らは真実を口にする道を選ばなかった。
筆頭たる広成子が、ゆるやかに目を開いた。その眼光は鋭いが、その深奥には隠しきれぬ不安の色が時折きらめいていた。
「天機は乱れ、邪気が盛んになっておる」広成子は、抑揚を帯びながらも乾いた声で言った。「近ごろ截教の動きは実に怪しい。通天教主の門下は妖魔鬼怪を集め、天地の霊気を汚している。かの者らの傲慢こそが、封神榜に異変を生じさせたのだ」
その一言で、宇宙の腐朽はたちまち敵の罪へとすり替えられた。隣に座る太乙真人は、白髪の髭を撫でながらうなずき、同調した。彼は袖の内から三昧真火を取り出した。本来なら邪魔を焼き尽くすほどの熱を宿すはずのその火は、今やかすかに揺らめくだけで、嘘の匂いにも似た冷たさを放っていた。
「大師兄のお言葉、まったくその通り。もしこの世界がひっくり返っているのなら、秩序を正す唯一の道は浄化あるのみ。雑草がはびこるなら、大火で焼き払うまで。不天命の者は、即座に斬り捨て、容赦は無用だ」
衆生を救うはずの仙人たちの慈悲は、もはや一片も残っていなかった。代わりに玉虚宮の大殿に満ちていたのは、腐りかけた玉座にしがみつく独裁者たちの、冷酷で狂気じみた執念だけである。彼らは「天に順じ道を行う」の名のもとに、最も血なまぐさく、最も残虐な戦争を起こすことを決めた。哪吒や楊戩のような傑出した弟子たちには、続々と指令が下された。その命令は驚くほど短く、そして苛烈だった。進路を阻む者は、凡人であれ修行者であれ、ことごとく殺せ、見逃すな。
このときの金仙たちは、まるで顔に朱塗り金箔の木面を自ら被せているようであった。その仮面には神仏の包容を描いてはいるが、その裏にある生身の顔は、あまりにも巨大な「不在」を前にして、恐怖で醜く歪み、皺くちゃになっている。残虐な決断を下すたびに、仮面の金箔はさらに剥がれ、内側に潜む、蛆の湧いた空洞のような自己保身の芯があらわになっていくのだった。
一方、人界では姜子牙が西岐の丞相府へ戻っていた。下山した時の威風堂々たる姿とは打って変わり、今の彼は、生気を根こそぎ吸い尽くされた疲れ切った亡霊のようであった。石畳を引きずる足取りは、まるで足枷でもはめられているかのように重い。姜尚は、すべてがもう手遅れであることをよく理解していた。これから始まる封神の戦いが、盲目の者たちが闇の中でむなしく手を振るうだけの、血に染まった無意味な芝居にすぎないことも知っていた。だが、それを口にすることはできない。彼はすでに舞台に上がり、「天意を執行する者」という外套をまとってしまった以上、たとえ舞台そのものが激しく燃え上がっていようとも、最後まで役を演じ切らねばならなかった。
その夜、かすかな残り火のような蝋燭が揺らめくだけの暗い書斎へ、姫発――やがて史上の偉大なる周武王となる男――が戸を押して入ってきた。未来の帝王という姿とは裏腹に、今の姫発は見るも痛ましいほどやつれていた。目の下には濃い隈が落ち、赤く充血した目はぎらつき、髪は乱れ、握りしめた両手は、爪が肉に食い込んで血を滲ませていた。姫発の父、姫昌――西伯侯――は完全に狂気へ沈み込み、日がな一日、地面を掻きむしりながら、真っ黒な虚空についての意味不明な言葉を呟き続けていた。西岐の江山と万民の生死を背負う重圧は、若き彼の華奢な肩にずしりとのしかかっていた。
姫発は姜子牙の前にどさりと膝をつき、掠れ切って砕けた声で訴えた。
「丞相……師父……私はどうすればいいのですか。父上は気が狂われた。紂王は暴虐を極め、民は塗炭の苦しみに喘いでいる。私は兵を挙げたい。だが、夜ごと悪夢を見るのです……丞相、あなたは仙道を成した方だ。どうか教えてください。天意は、私たちに生きろと言っているのですか。それとも、旗印を捧げる供え物として死ねと言っているのですか」
姜子牙は姫発を見下ろした。若者の澄んだ瞳には、渇望と希望が満ちている。その光は、すでに砕けてしまった姜尚の道心を、万針で刺し貫くかのようだった。そこには、彼がいま代弁している「神」と「正義」への、絶対的な信頼があった。
息を詰まらせるような痛みが姜尚の胸を締めつけた。彼は目を閉じ、喉元までせり上がった鉄錆のような血の味を飲み下した。再び目を開けたとき、その眼差しは、真仙としての冷厳さと、底知れぬ深さを取り戻していた。彼は道徳の仮面を身につけ、雄々しく、そして人を惹きつける響きの声で答えた。
「天意が民を見捨てることなど、決してありませぬ、二公子! 侯爵の狂乱など、夜明け前に立ちのぼる魔障にすぎぬ。暴君・殷寿は天道に逆らっている。西岐こそ、崑崙の万仙が鍛え上げた剣であるのです。公子、あなたは天子たる真命を宿しておられる。私情は捨て、剣を抜きなさい。今日流れる一滴一滴の血は、明日の万朵の平和な蓮となって民を救うのです!」
華麗で勇壮な言葉が姜子牙の口から次々とあふれた。だがその胸の奥では、彼は自分を極限まで軽蔑しながら叫んでいた。自分は欺いているのだ。己自身ももはや筋書きを信じていない巨大な肉挽き機に、善良な若者を押し込んでいるにすぎない。面差しに浮かぶ聖人のような慈悲深さと、灰色に虚ろなその瞳との対比は、容赦のない心理的悲劇をさらけ出していた。真理を最も深く知る者が、最も巨大な嘘つきにならねばならないのである。
支配者層と修仙者たちが虚偽の中で溺れている一方で、西岐社会の最底辺では、静かだが激しい変化が進んでいた。乾坤の「ずれ」に起因する病は、命そのものを奪うのではなく、心を蝕んでいくのである。
近ごろの西岐の陣営は、異様なまでに息苦しかった。幾多の戦場をくぐり抜けてきた将軍たち、そして生涯を神仏の加護に頼ってきた農民兵たちは、皆そろって同じ長い夢を見るようになっていた。空が裂け、廟の神像が泥土と化して崩れ落ち、誰も支配せず、天命もなく、輪廻も定められていない世界を夢見るのだ。恐ろしく混沌としているはずなのに、その世界は……絶対的に自由であった。
空虚さは内側から広がり始めていた。香は相変わらず供えられ、出陣前の祈りも唱えられていたが、兵たちの眼差しは変わっていた。彼らは朱塗りの木像を、ぞっとするほど冷ややかな目で見るようになっていた。
夜の巡回中、一人の老兵が、同僚たちの驚愕の前で、紙の黄色い護符をそのまま焚き火へ放り投げ、ぼそりと呟いた。
「一生ひざまずいてきたが、うちの家族はそれでも飢え死にした。昨夜の夢で見たんだ。玉皇大帝ですら、ただの空っぽの影にすぎんとな。神が俺を救わんのなら、俺は自分で槍を取って敵を刺す。死ぬなら、それも俺自身で決めるさ」
それこそが、「人心」の台頭であった。仙人たちが山を移し海を埋めるような力で権威を誇示しているあいだ、凡人――最も小さき駒たち――は、自ら神権に抗う「抗体」を生み出していた。理由はわからなくとも、血管の奥底で盲目的な崇敬は死に、むき出しで、横柄な生存本能がその座を奪っていたのである。
丞相府の内は、なおも水を打ったように静かであった。姫発はまだそこに跪いていたが、姜子牙の雄弁な教えを聞き終えると、ゆっくりと顔を上げた。姜尚が期待していたような熱狂はそこにはなく、姫発の口元に浮かんだのは、むしろ痛ましい笑みだった。彼の年齢にはあまりにも老いた、疲れ切った笑みである。
姫発は姜子牙の深い眼をまっすぐ見つめ、静かな、しかし山のように重い声で言った。
「丞相……父が発狂する前、よく庭で一人将棋をしていたのです。父は言っていました。この天下も、衆生も、仙も凡も、すべてはひとつの大きな盤上であると。ですが……」姫発は言いよどみ、潤んだ瞳に、果てしない絶望を宿した。「……ですが、もし駒を動かす者がとうの昔に嫌気をさして去ってしまっていたら、もしこの盤上にもう見届ける者がいないのだとしたら……私たちのような駒は、ただ斬り合い、進み、退くだけで……いったい何をもって、この勝負を終えればよいのでしょうか」
答えられぬ問いであった。
姜子牙はまるで秘孔を突かれたかのように硬直した。顔の筋肉が一つひとつ凍りついていく。姫発の問いは、彼が必死に守っていた最後の仮面を、引き裂くように剥ぎ取った。彼は姫発に向かって、「その通りだ、我らは見捨てられたのだ」とは言えなかった。
姜子牙は沈黙を選んだ。ゆっくりと背を向け、窓の外へ視線を投げた。その先、南方の果てに広がる灰色の霧の向こうには、五本の指の形をした山が、なお永遠の静寂に沈んでいた。
そのとき彼は、自らの本当の動機に気づいた。もはや玉虚宮の栄光のために戦っているのでもなく、西周王朝の繁栄など、とうに眼中になかった。彼もまた、雲の高みで震えている金仙たちと同じく、ただひとつの、最も原始的で卑小な恐怖のために戦っていたのである。もしこの盤上が止まり、すべての駒が真実に気づいて動きを止めたなら、この空虚な現実そのものが、ただちに粉々に崩れ去り、塵と化してしまうのではないか――彼はそれを恐れていたのだ。血と涙の中であろうと、歯車を回し続けねばならない。
姜子牙は深く息を吸い、闇夜に冷たく響く声で告げた。それは死神の下す判決にも似ていた。
「命を伝えよ。明日、旗を捧げ、出兵する。後退する者は……斬る!」
彼はついに、駒を前へ押し出した。血の宴はここに正式に始まる。だがそれは、神聖なるものを讃えるためではない。絶望に沈む虚無を覆い隠すための、血で書かれた仮初めの祭儀にすぎなかった。
出陣の日の暁の光は、万物を温める太陽の眩い黄金ではなく、渭水に浮かぶ膨れた死体を思わせる、鈍く青灰色の色を帯びていた。空気は粘りつくように重く、冷たく、掘り返された泥土の生臭い匂いを含んでいた。西岐の大営には、すでに幾万もの兵が整然と列を成している。刀剣や槍戟は鋭い寒気を放ち、軍旗は天を覆うようにはためき、その上には霊獣の紋が翻っていた。だが、よく耳を澄ませば、その旗を吹き抜ける風の音は、勇壮さなど微塵もなく、まるでまだ冥府へ帰りきれぬ怨霊たちの慟哭のようであった。
戦鼓が打ち鳴らされはじめる。「どん……どん……どん……」。その低く重い響きは山壁に反響したが、不思議なことに、それは粗く、空虚で、途切れ途切れであり、まるで今にも尽きようとする心臓が、最後の一滴の血を搾り出しながら打つ、絶望の拍動のようでもあった。九丈の高台に立つ姜子牙は、道袍を正しく身にまとい、玉を嵌めた令旗を手にしていたが、その袖の内に隠された丞相の両手は、氷のように冷え切っていた。彼は、何万という人間を死地へと送り出す直前の、最も神聖な儀式――旗を祀る祭礼を取り仕切っていたのである。
例に従えば、もっとも強健な真っ黒な牡牛が祭壇へと引き出される。屈強な屠殺役が、きらりと光る大刀を振り上げ、祭牲の首を落としてその血を軍旗に振り撒き、天地の加護を請うはずであった。だが、刃が牛の首筋の皮膚に触れた、その刹那――白昼のただ中で、凄まじい異変が起こった。鋼の刃は肉を断つこともできず、一滴の血も流れなかったのである。代わりに、巨躯を誇るその牡牛の全身が、突如として烈しく燃え上がった。それは人の世の赤橙の炎でもなく、道家の三昧真火でもなかった。骨の髄まで凍りつくような、漆黒の炎であった。ほんの一瞬で、牛は真っ黒な灰の山へと変じた。どこからともなく吹き込んだ怪風が、その灰を空中へ巻き上げ、ねじれ、うねりながら、やがて灰色に曇った天へ真っ直ぐ突き立つ五指の山の幻影へと凝集させたのち、完全に虚無へと溶け去った。
これほどの大凶兆はない。尋常の軍であれば、この天理に逆らう妖異を目にした瞬間、兵たちは武器を投げ出し、震えながら跪くか、恐慌のあまり叫びながら逃げ散っていただろう。だが、姜子牙の胸を鉄の掌で掴まれたかのように締めつけたのは、あの黒い炎ではなかった。その下に立つ、幾万もの人間たちの反応である。
彼らは、少しも恐れていなかった。
陣列の中から、低く濁った唸り声が一つ、二つ、そして幾万と重なって響いた。西岐の兵は一斉に槍戟を高く掲げ、天を仰いで咆哮した。その叫びには、忠君愛国の理想も、暴君を討つ正義の熱もない。あるのは、もはや人であることを失い、逃げ場のない暗い隅へと追い詰められた獣たちの狂った咆哮だけであった。口元には歪んだ笑みが浮かび、瞳には血走った光が宿り、飢えた獣のように狂暴で、なおかつ血に飢えていた。乾坤の「ずれ」がもたらした病は、すでに彼らの理性を完全に呑み込んでいたのである。自由意志は奪い去られ、魂の空洞を埋めるのは、ただ最も原始的な殺戮本能だけとなった。姜子牙は万軍を見下ろし、胸が張り裂ける思いだった。天機を見通す者の眼には、もはや生きる命の群れは映らない。ただ、魂なき死体の群れ、今にも滅びゆく巨大な宇宙の肉挽き機へと順番を待って並ぶ、狂乱した蟻の群れが見えるだけであった。
やがて、霧に閉ざされた峡谷で、戦いは幕を開けた。西岐の前軍が、殷の精鋭と激突したのである。
勇ましい名乗りもなければ、精緻な戦術もない。二つの軍勢は、濁流のように渦巻き、泥を噛み合うかのごとく正面からぶつかり合った。金属が激しく打ち合う音、骨の砕ける音、肉の潰れる音が入り混じる。奔流のように流れる鮮血は、岩の苔をも赤く染め上げた。だが、この戦場は歴史上のどの戦争とも異なっていた。そこは、あらゆる物理法則、天地の理、そして道法の論理が、粉々に引き裂かれる場所であった。
というのも、上空では、闡教と截教の仙人たちまでもが介入しはじめていたからである。眩い宝物が放たれ、山を移し海を埋めるほどの威力を持つ符籙が風を切って飛んでいく。ところが、通常なら天地を揺るがす大爆発となるはずの法力同士の衝突は、空間の薄い皮膜を直撃する巨大な鑿となった。現実は次第に「穴」を生じはじめる――局所的で瞬間的な亀裂だが、その帰結は身の毛もよだつほどに凄絶であった。
闡教の烈火が殷軍の隊列を薙ぎ払い、截教のある仙人が張った水銀のような結界と衝突した。すると、その衝突点の空間が、突然ぐにゃりと歪んだ。炎は敵を焼き尽くすことなく、周囲の万物から生命力を奪い去ったのである。盾を掲げて防ごうとした数十人の殷兵は、刹那のうちに身体が硬直し、皮膚も骨も、完全に透明な水晶へと変わってしまった。そして次の瞬間、かすかな風が吹いただけで、その生きた水晶像は無数の輝く破片となって砕け散り、地面へとらららと降り注いだ。叫び声もなく、血も流れない。
別の場所では、一滴の生血が踏み固められた地に落ちた、その瞬間、地面そのものが自らの存在法則を「忘れ」てしまった。半径十丈の範囲で大地が裂け、千度を超える灼熱を帯びた乾いた赤砂の砂漠へと変じたのである。不運にもそこへ足を踏み入れた兵は、たちまち焼き尽くされ、脂がじゅうじゅうと音を立てて流れた。だが次の瞬間には、その砂漠が絶対零度で凍りつき、炭化した遺骸は奇怪な氷像へと姿を変える。重力さえも、もはや戯れでしかなかった。いくつかの区域では、地球の引力が突如として消滅し、斬り合っていた兵たちがふわりと宙へ浮かび上がる。武器までもが宙に漂い、彼らは空中でなおも唸り声を上げながら互いを引き裂いていたが、重力が突然戻ると、全員がどさりと地上へ落下し、血肉の混じり合った無惨な塊と化した。最も恐るべきは、時間の流れの混乱である。ある白丁の首が敵の一太刀で飛ばされた。常識であれば、その肉体は倒れるはずだった。だが違う。首を失ったその身体はなおも踏みとどまり、両手で大刀を振るって、さらに一炷香ほども斬り続けたのである。一方、泥濘の上を転がる頭部は、白く濁った目を見開いたまま、子どもを寝かしつける童謡を、戦慄を伴う旋律で低く口ずさみ、その不気味な響きは谷の片隅にまでこだましていた。
不条理の極みが空間を包み込み、戦場は狂気の超現実的な絵図へと変貌した。だが、最も恐ろしいのは、そこに身を置く者たちの態度であった。何万という凡俗の人間たちは、誰ひとりとして驚愕せず、誰ひとりとしてその恐るべき現実の異変から逃げようとしなかった。砕け散る水晶の塊も、凍結した砂漠の窪地も、首なしで踊る屍も、彼らにとっては当然のことだったのである。彼らは論理の崩壊に対して完全に無感覚であり、死への恐怖すら捨て去っていた。ただ互いに突っ込み、歯で噛みつき、手で眼窩を抉り、自らの折れた骨をもって敵の喉笛を突き刺す。それはもはや、戦場における死が栄光でも敗北でもないことを意味していた。ただ機械的で無意識な反射にすぎなかった。
その惨劇の地から遠く離れた一つの険しい丘の上で、姜子牙はひとり、獣車の手すりに身を預けていた。その背は、崩れ落ちる天空の重さを一身に背負っているかのように、深く折れ曲がっていた。開戦以来、この丞相は打神鞭を振るうこともなく、ひとつの呪文すら唱えていない。ただそこに立ち、血涙に濡れた天道神眼を見開いたまま、破壊の拍動を凝視し続けているだけであった。
神眼という眼鏡を通して、姜尚はこの残酷な戦争の本質を見抜いた。法術の衝突によって「空間の穴」が開くたび、彼には虚無の真っ黒な空隙がその背後から覗き、世界そのものを呑み込まんと口を開けているのが見えた。だが、そのたびに何千もの生命が虐殺され、彼らの血肉と砕けた元神が混ざり合って、ねっとりと濃い暗紅色のエネルギーへと変わっていく。その血塗れの力は、皮肉にも泥のような粘液となり、現実の亀裂を埋め、補修していったのである。
姜子牙は、笑った。その笑みは歪み、慟哭と怒りと苦渋が極まったものであり、風の唸りの中で凄絶に響いた。熱い涙が皺だらけの頬を伝い、道袍の裾へと落ちる。彼は理解したのだ。崑崙の金仙たちが必死にしがみついている、あの腐りきった「天命」の正体を。封神の戦いも、殷と西周の争いも、二大教派の対立も、そのすべてが、宇宙に備わった残忍な自動装置にすぎなかったのである。この世界は、南方にあまりにも巨大な「無」が存在するために崩壊しつつあった。そして、この脆い外殻が即座に砕け散るのを防ぐには、エネルギーが要る。血が要る。魂が要る。万民の極限の怨恨が要る。それらをもって、現実に一時しのぎの糊を貼らねばならないのだ。仙人たちも、幾万の凡人たちも、まるで自滅する八卦炉に自らを投げ込み、互いの命を焼き尽くしながら、この舞台をただ一刻、一炷香でも存続させようとしているにすぎない。
老いた道士はゆっくりと南方へ顔を向けた。そこでは、永遠の霧雲がなおも静かに流れている。冷たい風が彼の顔を打ち、白髪を激しくたなびかせた。姜子牙は打神鞭をだらりと下ろし、両手を胸の前で合わせた。それは元始天尊に礼をするためではない。五指の山の麓で眠る、名もなき存在へ、深い虚無の底に向けて、絶望に満ちた囁きを送るためであった。
「五本の山の足下で眠る、名もなき御方よ……どうか、その夢を続けてください。目覚めないでください。どうか、身を起こさないでください。我ら――この小さく卑しい生き物たちが、互いに殺し合い、同族の皮を剥ぎ、腱を断ち、その世界の穴を塞ぐのです。我らは血と涙で一枚の帷を織り上げ、御方の不在を覆い隠しましょう。この世界は、まだ崩れはしません……我らに、この偽りを彩るだけの血が残っているかぎりは……」
夜がゆるやかに降り始め、滅びゆく一日の最後の青白い光を飲み込んでいくと、戦いの激しさもまた、次第に鈍っていった。将軍たちが退軍を命じたからではなく、双方が戦術を確立したからでもない。単純に、凡身の肉体が完全に疲弊し尽くしただけであった。生き残った者たちはよろめきながら後退し、戦場には、人の肉と血が膝の高さまで溜まった、ぬかるんだ地獄が取り残された。
夜の静寂は、昼の殺声よりも遥かに恐ろしかった。空間のあちこちには、負傷者の呻きも、死者への哀哭もない。響いていたのは、現実に残された「裂け目」を風が吹き抜ける音だけである。それは千本の針が鼓膜を刺すように、鋭く冷たかった。
その荒れ果てた戦場のただ中、死体の山と化した高い丘の上で、西岐の若い将軍がひとり、動かぬまま座っていた。鎧はぼろぼろに裂け、乾ききった濃紅色に染まっている。誰もその名を知らず、気にする者もいない。彼はただそこに座り、虚ろな眼で宙を見つめていた。泥と血と肉で汚れた両手の中で、彼はある小さな物を大切そうに弄んでいる。それは粗雑に削られた木馬――たった今、自らの手で殷軍の兵の胸を抉り、心臓を取り出した際、その兵の懐から偶然拾った、子どもの玩具だった。若き将軍の震える指が、その木馬の車輪をそっと回す。ぎい、と乾いた音が、静まり返った夜に響いた。それは、永遠に打ち砕かれてしまった無垢の最後の象徴であり、魂を奪われた世界に、かろうじて残された人間性の破片であった。
魂なき若い将軍は、夜空を見上げた。本来なら、西岐の月なき夜には、星々がまたたく銀河が一面に広がっているはずであった。だが今夜の天蓋は、腐れたビロードの幕のように黒ずんでいる。星たちは、もはや招くように輝いてはいなかった。空虚なその瞳の中で、彼はそれらの光が次第に薄れゆくのを見た。星はひとつ、またひとつと、散発的に瞬き、やがて完全に闇へと消えていく。まるで夜の巨大で不可視の指が静かに伸び、一本また一本と、残酷に蝋燭の火を押し潰して吹き消していくかのようであった。
はるか遠く、両軍の営みの境から、また戦鼓の音が風に乗って響きはじめた。「どん……どん……どん……」。それは幽玄で、おぞましく、死神が魂を呼び戻す声のようである。この血に染まった大地では、今夜、尊大な聖人から下賤な凡夫に至るまで、ひとりとして眠りに落ちる者はいない。ひとりとして夢へ身を委ねる者もいないだろう。歪められた潜在意識の深奥で、彼らはみな、骨の髄まで冷える真実を知っているからだ。小さき生き物の眠りなど、あまりにも脆い。この南方の孤独な山の下で、生の存続そのものを支配している者が、いつ大地を覆すような夢から目を覚まし、万物を消し去るとも知れない以上、眠る資格など最初からないのだ。人間の徹夜は、いまや虚無の断崖に立つ、絶望的な見張りにすぎなかった。




