第八章 白い馬車 2
馬車の扉が。
ゆっくりと開いた。
最初に見えたのは、黒い靴だった。
磨き上げられている。
学院の石畳へ足を下ろしても、男はすぐには動かなかった。
数秒。
まるで周囲の空気を確かめるように立ち止まる。
その後、一人の男が白い馬車から静かに降りた。
年齢は三十前後だろうか。
灰色に近い髪を後ろへ流し、細い銀縁の眼鏡を掛けている。
服装は派手ではない。
濃紺の長衣。その上から羽織った白い外套。
腰には剣も杖もない。
代わりに、細長い革製の筒と数冊の薄い本が吊られている。
研究者。
一目でそう分かる姿だった。
だが、ノアが見ていたのはそこじゃない。
男が馬車から降りた瞬間。
胸の奥の黒星が、明らかに反応した。
ドクン。
《蓄積値:456》
増えた。
ノアは目を細める。
男はまだこちらを見ていない。
むしろノアが食堂にいることすら、普通なら分からない距離だ。
それなのに黒星は反応した。
視線じゃない。
認識でもない。
少なくとも、これまでと同じ増え方ではない。
ノアは黒い記録帳から距離を取りながら、その感覚を頭へ刻み込む。
今の一回。
絶対に忘れない。
窓の向こう。
男は学院正門で待っていた教師へ軽く頭を下げた。
そして何かを話す。
内容までは聞こえない。
だが、ノアは口の動きを見ていた。
男は短い言葉しか使っていない。
教師の方は何度か説明している。
一方的な会話。
男が質問し。
教師が答えている。
その間、男の視線は学院の破損箇所を何度も巡っていた。
崩れた校舎。
石畳。
結界柱。
窓。
そして。
一度だけ。
地下区画へ続く建物の方向を見た。
ノアの目が鋭くなる。
「……知ってる」
アークが横を見る。
「何が」
「あいつ」
ノアは窓から目を離さない。
「地下の位置を知ってるかもしれない」
ルナが息を呑む。
セシリアがすぐに聞いた。
「根拠は?」
「視線」
ノアは答える。
「学院の被害を見に来たなら、もっと壊れてる場所を見る。でもあいつ、地下入口がある棟を見た」
「一回だけです」
セシリアが言う。
「偶然の可能性もあります」
「ある」
ノアは頷く。
「だからまだ決めない」
それが重要だった。
一つの情報だけで結論を出さない。
第九区では、思い込みが死に直結した。
怪しい。
だから敵。
そんな単純な判断をした奴から罠に嵌まる。
ノアは頭の中へ、今分かっていることを並べる。
魔導院は事件後に出発したとは考えにくい。
男はノアの特徴を知っている。
黒星が男へ反応した。
地下区画の方向を確認した。
だが、まだ敵意は見えない。
足りない。
判断材料が少なすぎる。
「学院長室へ行くぞ」
レインが言った。
ノアは窓から離れる。
アークも立ち上がった。
「俺らは上だな」
「うん」
ノアはアークとルナを見る。
「絶対に声出すなよ」
アークが眉を上げる。
「俺を誰だと思ってんだ」
「すぐ声出す奴」
「否定しづらい」
「ルナ」
「はい」
「アークが喋りそうになったら止めて」
「任せてください」
「俺への信用どうなってんだ!?」
食堂の生徒たちが振り返る。
ノアは無言でアークを見る。
アークも気付いた。
「……今のは違う」
「もう不安なんだけど」
セシリアが小さく息を吐く。
「私は馬車の周辺を確認します」
ノアが頷く。
「できれば、来た人数も」
「分かりました」
セシリアは一足先に食堂を出ていく。
目立たないように。
ただ普通の生徒が歩いているように見える速度で。
だがノアには分かる。
もう完全に仕事へ入っている。
周囲。
出口。
人の配置。
全部を確認していた。
「行くぞ」
レインに促され、ノアも歩き出す。
食堂から本館へ。
昨日は血と悲鳴ばかりだった廊下に、今日は修復作業の音が響いていた。
生徒たちもいる。
ノアを見る者も少なくない。
以前とは視線が違う。
噂が回っている。
何が起きたか正確には知らない。
だが、何か大きな事件の中心にノアがいた。
それだけは知られているらしい。
ノアは視線を拾いながら歩く。
恐怖。
興味。
感謝。
疑念。
全部ある。
だが黒星は静かだった。
《蓄積値:456》
変化なし。
良い。
少なくとも、この程度では反応しない。
昨日より安定している。
ノアはそれも記憶する。
階段へ差しかかる。
その時、前方から二人の生徒が歩いてきた。
ノアを見る。
片方が何かを囁いた。
聞こえた。
「黒い化け物を喰ったって」
噂は、もうそこまで歪んでいる。
ドクン。
《蓄積値:457》
一つ増える。
ノアは足を止めなかった。
でも覚えた。
“黒い化け物を喰った”。
怪物としての認識。
それには反応する。
やはり周囲の噂は放置できない。
エレノーラが言っていた情報戦。
もう始まっている。
「気にするな」
前を歩くレインが言った。
「気にしてない」
「嘘だな」
「気にはしてる」
ノアは訂正した。
「でも腹は立ってない。放置はしないけど」
レインが一瞬振り返る。
「何をする気だ」
「噂を消すのは無理」
ノアは階段を上りながら答える。
「止めれば余計に広がる」
「じゃあ?」
「別の噂で薄める」
レインが少しだけ口元を動かす。
「考えていたか」
「アークが飯を四皿食ったとか」
「なぜ俺の噂なんだよ!」
後ろから声。
ノアとレインが同時に振り返る。
階段の下。
アークがいた。
ルナも。
二人とも固まっている。
ノアは目を細めた。
「なんでいるの?」
アークが無言になる。
ルナがおずおずと答えた。
「四階への道、こっちなので……」
ノアは数秒黙った。
確かにそうだ。
「……じゃあ静かに行って」
「お前今絶対俺が尾行失敗したと思っただろ」
「ちょっとだけ」
「絶対だろ!」
「声」
「……悪い」
レインが額を押さえる。
「本当にこいつらで大丈夫なのか」
ノアは即答した。
「大丈夫じゃないからいいんだよ」
レインの目が向く。
「どういう意味だ」
「完璧な奴らに囲まれてたら」
ノアは少し笑う。
「俺まで自分が特別だって勘違いしそうだから」
数秒。
アークがニヤッとする。
「なるほどな!」
「お前は喜ぶところじゃない」
ルナが笑いを堪える。
ドクン。
《蓄積値:456》
一つ減った。
ノアはもう確信する。
日常。
本当に効く。
それも作った日常では駄目なのかもしれない。
黒星対策のために笑おう。
そう考えて笑ったところで効果は薄い。
今みたいに。
自然に。
普通に。
そういう瞬間。
黒星が一番静かになる。
この違いも記録する。
やがて三階。
ノアとレインは廊下を右へ。
アークとルナはそのまま四階へ上がった。
すれ違う瞬間、アークがノアの肩を軽く叩く。
何も言わない。
それだけ。
ノアも振り返らない。
第二応接室。
扉の前には学院長エレノーラが立っていた。
腕を組んでいる。
ものすごく機嫌が悪そうだ。
ノアは足を止める。
「……怒ってる?」
「怒っている」
即答。
レインが何事もなかったように横へ立つ。
エレノーラの目が細くなる。
「聞いたぞ」
ノアは一瞬レインを見る。
「もう言ったの?」
「言うと言っただろ」
「もうちょっと誤魔化してくれても」
「却下だ」
エレノーラが低く言う。
「学院設備を利用した盗み聞きを作戦として提案したそうだな」
「盗み聞きじゃなくて情報収集」
「同じだ」
「でも相手が怪しい」
「知っている」
ノアが止まる。
「……知ってる?」
エレノーラは腕を下ろした。
「だから許可する」
今度はノアが言葉を失う。
怒っていたのは何だったのか。
「ただし条件がある」
やっぱり来た。
「何」
「こちらも相手を騙す」
ノアの目が僅かに細くなる。
エレノーラは続けた。
「四階の旧講義室へ通じる音響管。使えると思ったのだろう」
「はい」
「使えない」
ノアの眉が寄る。
「壊れてる?」
「いや。魔導院の人間が来ると決まった段階で、私が封鎖した」
「なんで」
「相手がそこを調べるか確認するためだ」
ノアは黙った。
そして、少しだけ笑った。
「学院長も同じこと考えてたんだ」
「お前より先にな」
エレノーラは冷静だった。
「第二応接室は、外部から情報を取ろうとする者を判別するための部屋でもある。壁の中へ偽の導線が何本も入っている」
ノアの目が輝く。
「罠?」
「そうだ」
「盗聴を試みた場合、相手へ“聞かせたい会話”だけを送れる」
ノアは完全に理解した。
こちらが盗み聞きするのではない。
相手が盗み聞きしているか調べる。
しかも、もし相手が聞いているなら偽情報を流す。
二重。
いや。
こちらがそれを知っていると悟らせなければ三重になる。
「面白い」
エレノーラが睨む。
「楽しむな」
「でも面白い」
「ノア」
「はい」
「今日の目的は勝つことではない」
その一言で、ノアの表情が変わった。
エレノーラは続ける。
「相手の目的を知ることだ」
「余計な情報を渡すな」
「相手を追い込みすぎるな」
「嘘をつきすぎるな」
「なぜ?」
「嘘は情報になるからだ」
ノアは息を呑んだ。
確かに。
嘘をつけば。
“なぜそれを隠したのか”。
そこから逆算される。
沈黙も同じ。
否定も同じ。
会話では、喋ったことだけが情報ではない。
表情。
間。
質問への反応。
全部が情報になる。
ノアの頭の中で戦い方が切り替わる。
昨日まで。
敵の身体を読む。
視線を読む。
重心を読む。
今日は。
言葉を読む。
質問を読む。
相手が聞かなかったことまで読む。
エレノーラはそんなノアの表情を見て、小さく頷いた。
「理解したようだな」
「はい」
「もう一つ」
「?」
「黒星を使うな」
ノアの目が止まる。
「相手の感情とか認識を読むために?」
「そうだ」
「便利だけど」
「だから駄目だ」
エレノーラの声が少し強くなる。
「人間との会話まで黒星へ頼れば、お前は自分の目を使わなくなる」
ノアは何も言えなかった。
図星だった。
昨日、黒星が見せる情報は便利だった。
敵意。
恐怖。
認識。
全部が分かった。
それを使えば。
目の前の男が嘘をついているか。
何を恐れているか。
ある程度分かるかもしれない。
だが、それを繰り返せば。
いつか普通の人間の感情まで、黒星越しでしか見られなくなる。
それは。
怖い。
「分かりました」
ノアは素直に答えた。
エレノーラが少しだけ目を細める。
「意外だな」
「俺だってたまには素直だよ」
「たまにでは困る」
レインが横で小さく笑う。
エレノーラが睨む。
「貴様も笑うな」
「はいはい」
「返事が軽い」
二人の会話。
やっぱり何かある。
ノアはそう思った。
でも今は聞かない。
扉の向こう。
気配がある。
もう来ている。
エレノーラが扉へ手を掛ける。
「相手の名はフィリウス・ヴァンロード」
ノアは覚える。
「特級研究官」
「黒星研究の専門家」
「そして」
エレノーラが一瞬だけ言葉を止める。
「人間の嘘を見抜くことを趣味にしている男だ」
ノアは眉を上げた。
「最悪じゃん」
「そう思うか」
「うん」
少しだけ。
ノアは笑った。
「でも、ちょうどいい」
エレノーラが扉を開ける。
静かな応接室。
中央のテーブル。
向こう側の椅子。
そこへ、灰色の髪をした男が一人で座っていた。
眼鏡の奥。
薄い青色の瞳。
男はノアを見た。
一瞬。
本当に一瞬。
笑みが深くなる。
ノアは見逃さない。
黒星は使わない。
自分の目で見る。
フィリウスは立ち上がった。
そして、とても穏やかな声で言った。
「初めまして。ノア・アルクライト君」
ノアは椅子へ向かいながら答えた。
「初めまして」
そのまま座る。
男の正面。
逃げない。
視線も逸らさない。
フィリウスは微笑んだ。
「思っていたより、普通の少年ですね」
ノアも笑った。
「よく言われます」
嘘だった。
そんなこと。
一度も言われたことはない。
フィリウスの笑みが、ほんの少しだけ変わった。
それだけでノアは確信する。
気付いた。
今の嘘に。
だがフィリウスは指摘しなかった。
「そうですか。それは失礼しました」
「別に」
「私の中で、少し想像が膨らみすぎていたようです」
「どんな想像?」
ノアはすぐに返した。
フィリウスの瞳が僅かに細くなる。
質問に質問を返す。
まず一つ。
相手が自分についてどこまで知っているか。
フィリウスはカップへ指を添えた。
紅茶には口をつけない。
「銀色の目を持ち、異常な魔力現象の中心に現れる少年」
「それだけ聞けば、もう少し恐ろしい人物を想像するでしょう?」
ノアは答えず、フィリウスの言葉を頭の中で分解した。
銀色の目。
異常な魔力現象。
中心に現れる少年。
黒星という単語を使わない。
なぜ。
知らないから?
違う。
黒星研究の専門家だ。
知っている可能性が高い。
なら意図的に避けている。
こちらが自分から言うのを待っている。
「異常な魔力現象って?」
ノアは知らないふりをした。
フィリウスの笑みがまた僅かに深くなる。
「昨日、この学院で観測されたものです」
「昨日はいろいろありすぎたけど」
「そうでしょうね」
「具体的には?」
「空間の欠損」
フィリウスは即答した。
ノアの内側で警戒が一段上がる。
空間の欠損。
それは喰星の力。
そして門から伸びた黒い手が使ったもの。
学院側が王都へ送った報告に、どこまで書いたのかノアは知らない。
だがエレノーラは黒星について伏せていると言った。
なら。
「そんなのあったんだ」
ノアはわざと首を傾げた。
フィリウスは笑う。
「ええ」
追及しない。
それが逆に怖い。
普通なら。
君はその場にいたのでは?
知らないのですか?
そう聞く。
だが聞かない。
つまり今の返答自体を情報として取った。
フィリウスはカップを一度だけ回した。
「ところで、ノア君」
「何」
「昨日はよく眠れましたか?」
突然。
話題が変わった。
ノアは一瞬だけ考える。
睡眠。
夢。
黒星。
向こう側。
何を狙っている。
「疲れてたから」
答えを絞る。
「よく眠れたよ」
「夢は?」
来た。
ノアは内心で笑いそうになった。
睡眠が知りたいんじゃない。
夢だ。
黒星持ちが見る夢について何か知っている。
「覚えてない」
これは半分だけ本当だった。
断片はある。
暗闇。
銀色。
呼ばれたような感覚。
だが鮮明ではない。
フィリウスは初めてカップへ口をつけた。
「そうですか」
それだけ。
ノアは逆に聞く。
「なんで夢の話?」
「研究者ですから」
「答えになってない」
「夢は面白い」
「もっと答えになってない」
フィリウスが小さく笑った。
「君は想像していたより話しやすい」
「そっちは想像通り話しにくい」
「光栄です」
「褒めてない」
「存じています」
ノアは男を見る。
会話が滑らかすぎる。
どの質問にも即座に返す。
だが、ほとんど情報を出していない。
上手い。
こちらへ質問を意識させない。
雑談の中へ混ぜている。
そして何より。
ノアを子供扱いしていない。
普通なら学生相手にここまで慎重にはならない。
つまり最初から。
ノアが頭を使ってくると知っている。
その情報はどこから来た?
「俺のこと調べた?」
ノアは直球を投げた。
フィリウスは否定しなかった。
「少し」
「どこまで?」
「第九区出身」
ノアの表情は変えない。
「学院入学時の成績は筆記上位、実技下位」
まだ普通。
「戦闘では観察を重視し、格上を相手にするほど戦績が上がる」
少し深い。
「短剣を好みますが、武器への執着はない」
ノアの目が細くなる。
そこまで。
「そして」
フィリウスが言う。
「嘘をつく時、相手の目を見る」
ノアは。
笑った。
「へえ」
「今もそうですね」
「じゃあ今、俺が何か嘘ついてる?」
「いいえ」
フィリウスは首を横へ振る。
「今は、私を試しています」
その答え。
ノアは素直に評価した。
やっぱり上手い。
なら。
少し角度を変える。
「そこまで俺を調べてるのに」
ノアは椅子へ背を預けた。
「なんで昨日の事件が起きる前から、学院に向かってたの?」
空気が止まった。
ほんの一瞬。
フィリウスの指。
カップの縁に触れていた人差し指が。
止まった。
ノアは見た。
それだけで十分だった。
当たり。
少なくとも。
事件前から出発していたことを隠したかった。
フィリウスはゆっくりカップを置く。
「誰から聞きました?」
質問。
否定しない。
失敗だ。
ノアは答えない。
「事件の後なら間に合わない」
フィリウスの笑みが薄くなる。
「移動時間を計算しましたか」
「した」
「王都から学院までの距離も?」
「だいたい」
「術式馬車の平均速度は?」
「知らない」
ノアは即答した。
「でも普通の馬車より速くても、準備時間まで含めたら厳しい」
フィリウスは数秒黙った。
それから。
「素晴らしい」
静かに拍手を一度だけした。
ノアは眉を寄せる。
「誤魔化す?」
「いいえ」
フィリウスの表情から。
初めて。
作った笑みが消えた。
「ここからは少し、真面目に話しましょう」
ノアも姿勢を変える。
来る。
「確かに」
フィリウスは言った。
「私は昨日の事件が発生する前に王都を出ています」
認めた。
ノアは何も言わない。
次。
理由。
「なぜなら」
フィリウスの薄青い瞳が、ノアを真っ直ぐ捉える。
「昨日の事件を予測していたからです」
胸の奥。
黒星が脈打ちかける。
ノアは抑える。
使わない。
自分の頭で考える。
予測。
知っていた、ではない。
言葉を選んだ。
「何を予測してた?」
「門の活性化」
ノアの呼吸が。
ほんの僅かに止まった。
失敗。
だが戻せない。
フィリウスは見ていた。
確実に。
「門って何?」
今さら知らないふりをする。
フィリウスが微笑んだ。
「今の反応の後では、少し遅いですね」
ノアは舌打ちしたくなるのを抑えた。
一つ取られた。
でも。
それも情報だ。
フィリウスは“門”を知っている。
それどころか活性化を予測できる。
「どうやって予測した」
ノアは知らないふりを捨てた。
これ以上続けても意味がない。
フィリウスの目が少し楽しそうになる。
「切り替えが早い」
「答えて」
「星が消えたからです」
意味が分からない。
ノアは黙る。
フィリウスは懐から一枚の紙を取り出した。
テーブルへ置く。
星図。
夜空の配置を記したもの。
その中。
一ヶ所だけ。
黒い丸が描かれている。
「七日前」
フィリウスが指を置く。
「北東の空から、一つの星が消えました」
「雲じゃなく?」
「三ヶ所の観測所で同時確認しています」
「星が消えることと門に何の関係がある」
「三百年前にも同じことが起きた」
ノアの目が止まる。
フィリウスは続ける。
「黒星災害の十九日前」
「星が一つ消えた」
「十三日前」
「二つ目」
「六日前」
「三つ目」
「そして」
フィリウスの指が星図を滑る。
「最初の門が開いた日」
「空から七つの星が消えた」
ノアは星図を見る。
七日前に一つ。
なら。
始まっている。
「今はいくつ」
「昨日までで二つ」
フィリウスが答えた。
「二つ目が消えたのは」
一拍。
「昨日」
ノアの胸が冷える。
「何時」
「学院で異常魔力が観測された時刻と、ほぼ同時刻です」
偶然。
そう考えるには一致しすぎている。
フィリウスはノアを見る。
「だから来ました」
「黒星が現れる場所を知ってたわけじゃない?」
「いいえ」
「じゃあなんでこの学院」
「それは」
フィリウスは一瞬。
初めて。
答えを迷った。
ノアはそこへ食いつく。
「何」
沈黙。
「言えない?」
さらに。
「それとも言ったら困る?」
フィリウスが小さく息を吐く。
「君は本当に嫌な聞き方をしますね」
「褒め言葉?」
「半分は」
「残りは?」
「警戒です」
ノアは笑わない。
フィリウスも笑わなかった。
「この学院を選んだ理由は二つあります」
「一つは」
「三百年前の黒星災害に関する記録が、この学院から始まっているから」
ノアは老人を思い出す。
最初の門。
地下。
アルト。
確かに。
「もう一つは?」
フィリウスが。
ノアを見る。
「君です」
やっぱり。
「俺?」
「正確には」
フィリウスの視線が、ノアの銀色の目へ向く。
「銀眼の少年」
ノアは動かない。
「誰から聞いた」
「記録です」
「どの記録」
「百八十七年前」
「九十四年前」
「四十一年前」
フィリウスは三つの数字を並べた。
「門が大きく活性化した時期」
「必ず記録へ同じ特徴を持つ人物が現れる」
ノアの背筋へ。
冷たいものが走った。
「銀色の目?」
「ええ」
フィリウスは頷く。
「年齢も」
「性別も」
「出身も違う」
「ただ一つ」
「全員、銀色の目を持っていた」
ノアの指が。
僅かに動く。
自分の目。
ずっと。
ただ珍しいだけだと思っていた。
第九区でも目立った。
銀目。
アークからもそう呼ばれる。
それが。
黒星と関係している?
いや。
待て。
「そいつらは黒星持ちだった?」
フィリウスは答えない。
ノアは気付く。
答えられないんじゃない。
こちらが何を知っているか確認している。
「質問を変える」
ノアは言った。
「その銀眼の奴ら」
「最後はどうなった?」
フィリウスの目から。
ほんの少し。
感情が消えた。
「全員」
短い沈黙。
「行方不明です」
ノアは何も言わない。
「死亡じゃない?」
「遺体が見つかっていません」
「最後に確認された場所は」
フィリウスは。
答えなかった。
それで。
ノアは分かった。
「門の近く」
フィリウスの瞳が僅かに揺れる。
当たり。
ノアは椅子へ深く座る。
頭の中で。
一気に線が繋がり始める。
銀眼。
黒星。
門。
活性化。
過去の失踪者。
自分。
喰星はノアを見て。
次代の黒星と呼んだ。
向こう側の銀色の存在。
銀。
そこまで考えた瞬間。
胸の奥で。
ドクン。
《蓄積値:457》
増えた。
ノアは表情を変えない。
だが。
分かった。
今。
何かへ近づいた。
どれだ。
銀眼?
失踪者?
向こう側の銀色?
全部?
フィリウスがノアを観察している。
まずい。
黒星の反応は見えていないはず。
でも身体の変化を読まれる可能性がある。
ノアは意図的に別の質問を投げる。
「その記録、見せて」
フィリウスは即答した。
「条件があります」
「何」
「私の質問へ一つ答えてください」
交換。
ノアは警戒する。
「質問を先に聞く」
「もちろん」
フィリウスは眼鏡を僅かに上げた。
そして。
「昨日」
声が低くなる。
「門の向こう側で」
ノアの全身へ緊張が走る。
フィリウスは続けた。
「銀色の人間を見ませんでしたか?」
沈黙。
ノアは。
動かなかった。
動けなかったのではない。
今度は。
意図的に。
完全に止まった。
呼吸。
瞬き。
指。
全部。
フィリウスの瞳だけを見る。
どうして知っている。
誰にも。
言っていない。
いや。
老人やレインには、断片を話したかもしれない。
だが魔導院には渡っていない。
それに。
質問の仕方がおかしい。
“何かを見たか”ではない。
“銀色の人間を見なかったか”。
存在を知っている。
ノアは口を開く。
「その質問」
「答える前に」
一拍。
「一つだけ確認していい?」
「どうぞ」
ノアはフィリウスを見る。
「お前」
「向こう側へ行ったことある?」
初めてだった。
フィリウス・ヴァンロードの顔から。
完全に。
笑みが消えた。




