第八章 白い馬車 1
食堂の窓から差し込んでいた光が、ゆっくりと翳った。
雲が太陽を隠しただけ。
最初、ノアはそう思った。
アークは相変わらず山盛りの朝食を平らげているし、ルナは温かい紅茶を両手で包み、セシリアは食事を終えて昨日の戦闘で傷んだ剣の状態を確認している。
いつもの朝。
少なくとも、そう見える。
昨日。
学院の地下で起きた出来事を知らなければ。
ノアは最後のパンを口へ放り込み、水で流し込んだ。
胸の奥は静かだった。
《蓄積値:451》
さっき確認してから変化はない。
減らない。
増えない。
それでいい。
昨日までは数字が動くたびに身体が強くなることばかり考えていた。
今は違う。
数字が増えることそのものを警戒している。
強くなりたい。
その気持ちは変わっていない。
むしろ以前より強い。
喰星。
門。
向こう側。
最初の門。
あんなものを知ってしまった以上、弱いままでいることの方が怖かった。
だが。
強くなることと。
黒星に喰われることは。
同じではない。
そこを間違えたら終わる。
ノアは空になった皿を見つめた。
「……記録」
小さく呟く。
ルナが顔を上げた。
「昨日言っていたものですか?」
「ああ」
ノアはテーブルの端に置かれていた紙を一枚引き寄せた。
普通の紙だ。
黒星に関する情報は媒体そのものへ影響する可能性がある。
老人はそう言っていた。
なら本来は使わない方がいい。
それでもノアは、試す価値があると思った。
ペンを取る。
日付。
時刻。
蓄積値。
現在の身体状態。
空腹。
疲労。
黒星の脈動。
感情。
思いつく限りを書いていく。
《蓄積値:451》
《身体状態:疲労あり》
《黒星の飢餓感:ほぼなし》
《通常の空腹:あり》
そこまで書いて、ノアの手が止まった。
アークが横から覗き込む。
「最後いるか?」
「いる」
「腹減ったって記録する意味ある?」
「昨日の飢えと普通の空腹を区別するため」
アークの顔から笑いが消えた。
ほんの一瞬だった。
「……なるほどな」
ノアはその反応を横目で見る。
こういうところだ。
自分だけなら見落としていた。
昨日までなら、腹が減ったという感覚を一括りにしていたかもしれない。
だが黒星の飢えと、人間としての空腹は違う。
似た感覚ほど危険だ。
区別できなくなった瞬間、黒星の衝動を自分の欲求だと思い込む可能性がある。
逆もある。
普通の感情まで黒星のせいだと疑い始めれば、自分自身を信じられなくなる。
どちらもまずい。
ノアはもう一行加えた。
《食事後、黒星の飢餓感に変化なし》
セシリアが向かいから紙を見る。
「そこまで細かく記録するのですね」
「細かすぎるくらいでいい」
ノアは答えた。
「今は何が重要なのか分からないから」
セシリアが少しだけ目を細める。
「合理的です」
「だろ」
「ですが一つ抜けています」
ノアの手が止まった。
「何が」
「周囲の状況です」
ノアは紙を見る。
セシリアは続ける。
「蓄積値が貴方自身の状態だけで変化するとは限りません」
「昨日、私たちとの会話でも減少したのでしょう?」
「なら記録するべきです」
なるほど。
ノアはすぐに書き足す。
《周囲:アーク、セシリア、ルナ》
そして少し考えて。
《会話内容:普通》
アークが吹き出した。
「雑!」
「じゃあなんて書くんだよ」
「俺との楽しい朝食」
「絶対書かない」
「なんでだよ!」
ルナが笑う。
「仲が良かった、とかでいいんじゃないですか?」
ノアは一瞬考えた。
それから書く。
《仲間と食事》
ペン先が止まる。
仲間。
以前なら、少しだけ躊躇した言葉。
だが今は自然に書けた。
その瞬間。
ドクン。
《蓄積値:450》
ノアの目が細くなる。
「減った」
三人の表情が変わる。
セシリアがすぐに紙へ視線を落とした。
「何をした直後ですか」
「仲間って書いた」
アークが口を開けたまま固まる。
「……それだけ?」
「それだけ」
ルナが身を乗り出した。
「でも、さっきまで同じ三人で食事していましたよね?」
「そうなんだよ」
ノアは紙を見る。
ここは重要だ。
同じ状況だった。
三人と食事をしていた。
それでも蓄積値は451のままだった。
変わったのは。
ノア自身が、その三人を仲間だと認識したこと。
つまり。
「周りからどう見られるかだけじゃない」
ノアは呟いた。
「俺がどう認識するかも影響する」
セシリアが頷く。
「昨日も似た推測をしていましたね」
「ああ。でも今のでかなり確度が上がった」
ノアは新しい一文を書き加える。
《仮説:黒星は宿主と周囲、双方の認識に反応する》
その文字を書いた瞬間だった。
紙の端が。
黒くなった。
「……え?」
ルナが声を漏らす。
墨を一滴落としたような、小さな黒い染み。
ノアは動かない。
誰も触れていない。
インクでもない。
染みは紙の端から、ゆっくり内側へ広がっていく。
アークが立ち上がりかけた。
「おい、これ」
「触るな」
ノアが即座に止める。
昨日の老人の言葉が蘇る。
黒星に関する記録は、普通の紙へ書くと黒く滲むことがある。
場合によっては読む者へ影響を与える。
ノアは紙から目を離さない。
染みは文字を目指している。
無作為ではない。
紙全体を黒くしているわけでもない。
一直線に。
《仮説》
そこへ向かっている。
「……なんでそこなんだ」
ノアは呟く。
セシリアが答える。
「仮説が正しいから?」
「それなら前の記録にも反応するはずだ」
蓄積値。
飢餓感。
周囲の状況。
全部、黒星に関係している。
だが染みはそれらを無視している。
仮説。
その一文だけ。
ノアは考える。
違う。
情報の内容じゃない。
何か別の条件がある。
紙に書いた順番を思い返す。
日付。
状態。
空腹。
周囲。
仲間。
仮説。
そして。
仮説を書いた直前。
蓄積値が減った。
ノアの目が細くなる。
「……変化を記録したから?」
ルナが首を傾げる。
「どういうことですか?」
「黒星について書いたから反応したんじゃない」
ノアは紙を指す。
「黒星が変化する条件へ近づいたから反応したんだ」
セシリアの顔から僅かに血の気が引く。
「つまり」
「ああ」
ノアは黒い染みを見る。
「こいつ」
「知られたくない情報がある」
食堂の喧騒が遠くなる。
ノアの意識が一気に研ぎ澄まされた。
これは大きい。
黒星はただの現象ではない。
少なくとも、自分の内部にあるものは情報を選別している可能性がある。
なら。
反応そのものを使える。
何が正しく。
何が間違っているのか。
黒星へ直接聞くことはできない。
だが仮説を立て、その反応を観察すれば。
「黒星自身を使って黒星を調べられる」
ノアは呟いた。
アークが顔をしかめる。
「なんかすげぇ危ないこと言ってない?」
「危ない」
ノアは即答する。
「でも使える」
「お前なぁ……」
「無茶はしない」
「その台詞昨日何回聞いたと思ってんだ」
「今回は本当に」
「信用できねぇ」
セシリアがノアの前から紙を取り上げようとする。
ノアは咄嗟に押さえた。
「待て」
「燃やします」
「まだ観察できる」
「だから燃やします」
「あと十秒」
「三秒です」
「短すぎるだろ!」
「二秒」
「減ってる!」
「一秒」
「分かった分かった!」
ノアが手を離す。
セシリアは紙へ直接触れず、指先に小さな魔法陣を展開した。
紙が浮かび上がる。
そのまま。
ボッ。
青白い炎が包み込んだ。
紙は一瞬で灰になる。
黒い染みだけが、ほんの僅かに空中へ残った。
ノアの表情が変わる。
灰は落ちている。
なのに。
黒だけが残っている。
一秒。
二秒。
三秒。
そして消えた。
誰も喋らなかった。
ノアはその現象を頭へ焼き付ける。
紙ではない。
インクでもない。
黒星が一時的に情報へ何かを付着させた。
なら、専用の記録媒体が必要だと言った老人は、これを知っていた。
どこまで?
アルトも同じ現象を経験した?
なら記録庫には。
ノアの思考がそこまで進んだ時。
「そこまでだ」
低い声。
全員が振り返る。
食堂の入口にレインが立っていた。
いつからいたのか分からない。
壁へ背を預け、腕を組んでいる。
その顔は呆れていた。
「起きて半日もしないうちに黒星の実験か」
ノアは眉を寄せる。
「実験じゃない」
「本人だけがそう思っている実験が一番危ない」
「……見てたのか」
「途中からな」
レインは灰になった紙を見る。
「エレノーラが正しかった」
「何が」
「お前から紙を取り上げるべきだった」
「そこまで?」
「そこまでだ」
アークが大きく頷く。
「俺も賛成」
「裏切るなよ」
「昨日死にかけた奴が朝飯食いながら未知の呪いを研究し始めたら止めるだろ普通!」
珍しく正論だった。
ノアは反論できない。
レインが食堂へ入ってくる。
そしてノアの前へ、一冊の薄い本を置いた。
黒い表紙。
何の文字もない。
ノアは触れずに見る。
「これは?」
「記録媒体だ」
「もう用意したのか」
「エレノーラがな」
レインは椅子を引く。
「三百年前の対黒星用記録紙を加工してある」
「完全に安全とは言えない」
「だが普通の紙よりは遥かにましだ」
ノアは黒い本を見つめる。
奇妙だった。
黒星と似た色。
なのに嫌な感覚はしない。
むしろ。
胸の奥が少しだけ遠ざかったような感覚がある。
「材料は?」
ノアが聞く。
レインは一瞬黙った。
「今は知らない方がいい」
その答え。
ノアはすぐに引っかかった。
知らない方がいい。
つまり、知識そのものが危険。
あるいは。
「黒星に関係するものが使われてる?」
レインが眉を寄せる。
「お前は本当に余計なところだけ察しがいいな」
「当たりか」
「答えない」
それで十分だった。
ノアは本を開く。
一頁目。
何もない。
ペンを取る。
《蓄積値:450》
書く。
変化なし。
《黒星は宿主と周囲、双方の認識に反応する可能性》
書く。
数秒待つ。
何も起きない。
ノアはさらに書こうとして。
レインに手首を掴まれた。
「続きは専用室でやれ」
「まだ一行しか」
「一行で十分だ」
「でも」
「学院長がお前を呼んでいる」
ノアの動きが止まる。
「今?」
「ああ」
レインの視線が食堂の窓へ向いた。
ノアもつられて見る。
学院正門。
遠くて細部までは見えない。
だが。
門の外に。
何か白いものが見えた。
馬車。
幕間で近づいていた、あの白い馬車が。
もう到着している。
その周囲へ教師たちが集まっていた。
学院の修復作業とは明らかに違う緊張感。
セシリアも立ち上がる。
「来客ですか」
レインは答えない。
その代わり、ノアを見る。
「ここから先」
声が少し低くなった。
「昨日とは違う戦いになる」
ノアは眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「昨日の敵は分かりやすかった」
「喰星」
「門」
「向こう側」
「殺される前に止めればいい」
レインは窓の外を見る。
「だが今日から相手にする連中は、お前を殺したいとは限らない」
「むしろ」
「生かしておきたい奴の方が多い」
アークが顔をしかめる。
「それの何が危ないんだよ」
レインは即答した。
「利用できるからだ」
食堂の空気が変わった。
ノアは白い馬車を見る。
「誰が来た」
「王国魔導院」
老人から一度だけ聞いた名前。
王国最高峰の魔法研究機関。
そして。
黒星を研究している者たち。
ノアは椅子から立ち上がった。
「俺を調べに?」
「表向きは学院の被害調査だ」
「表向きは?」
「昨夜の時点で王都へ届いた報告には、黒星の名前は一度も書かれていない」
レインの赤い瞳が細くなる。
「それなのに」
「黒星研究の専門家が来た」
ノアの思考が止まった。
一秒。
すぐに回り始める。
報告していない。
なのに来た。
偶然。
あり得ない。
なら情報が漏れた。
だが。
誰から?
昨日、地下にいた者。
教師。
生徒。
学院長。
老人。
レイン。
あるいは。
もっと前から監視されていた。
「……いつ出発した」
ノアが聞く。
レインの口元が僅かに動いた。
「そこに気付くか」
「答えて」
「王都からここまで、通常の馬車なら二日」
「術式馬車なら半日程度」
「到着したのは今朝だ」
ノアは窓を見る。
昨日の事件が起きた時刻。
報告が出た時刻。
王都まで情報が届く時間。
魔導院内部で確認する時間。
人員を選ぶ時間。
出発。
移動。
全部を足す。
合わない。
どう考えても早すぎる。
「事件が起きる前に出てる」
ノアが言った。
ルナが息を呑む。
アークの表情から軽さが消える。
セシリアだけは静かだった。
だが、その手は既に剣の柄へ近づいている。
レインは頷いた。
「俺もそう考えている」
「じゃあ」
ノアは白い馬車を睨む。
「昨日何が起きるか知ってた奴がいる」
誰も答えない。
その可能性が何を意味するのか。
全員理解していた。
昨日の事件。
喰星。
黒い手。
門。
最初の門の覚醒。
もし。
それを予測していた者がいたなら。
偶然ではないかもしれない。
ノアは思い出す。
喰星の態度。
まるで最初から何かを試していた。
自分を殺そうとしなかった。
育てようとしていた。
門が開いた時だけは焦った。
つまり。
すべてが計画通りだったわけではない。
だが。
誰かが別の目的で動いていた可能性はある。
「レイン」
「なんだ」
「魔導院の奴らは敵?」
レインは少し考えた。
「分からん」
「じゃあ味方?」
「それも分からん」
「役に立たないな」
「だから言っただろ」
レインはノアを見る。
「昨日とは違う戦いだ」
敵か味方か。
最初から決まっていない。
なら。
会話。
情報。
嘘。
相手の目的。
全部を見極めなければならない。
ノアは不思議と。
少しだけ笑った。
怖くないわけではない。
黒星を狙う者が来た可能性もある。
自分を研究材料として見る者かもしれない。
それでも。
昨日みたいな、理解不能な怪物との戦いとは違う。
人間が相手なら。
考えられる。
読める。
騙せる。
ノアがずっと第九区で生きるために使ってきたもの。
力ではなく。
頭。
「何笑ってんだよ」
アークが怪訝そうに見る。
「いや」
ノアは黒い記録帳を閉じる。
「こういう相手なら、まだやりやすいと思って」
レインが呆れたように目を細める。
「相手は王国最高峰の研究者だぞ」
「だから?」
「何十年も研究と政治の世界で生き残った連中だ」
「そう」
ノアは立ち上がる。
「じゃあ」
「どっちが先に相手の目的を見抜くか勝負だな」
アークが額を押さえた。
「お前、昨日まで死にかけてたよな?」
「昨日は昨日」
「切り替え早すぎだろ」
セシリアはそんなノアを見ていた。
そして。
ほんの少しだけ笑う。
「貴方らしいですね」
「褒めてる?」
「半分ほど」
「残り半分は?」
「無謀です」
「結局それか」
ルナが立ち上がる。
「私たちも行きます」
レインが首を横へ振った。
「いや」
「最初はノアだけだ」
三人の表情が変わる。
ノアもレインを見る。
「なんで」
「相手からの指定だ」
「指定?」
「ああ」
レインの顔から、完全に軽さが消えた。
「王国魔導院の使者は、学院長へこう伝えた」
一拍。
「銀色の目を持つ少年と」
「二人きりで話したい、と」
ノアの目が細くなる。
名前ではない。
黒星持ちでもない。
銀色の目を持つ少年。
自分の特徴を知っている。
つまり。
「俺のことまで知ってるのか」
「そういうことになる」
アークが立ち上がった。
「行かせられるわけねぇだろ」
「落ち着け」
「これで落ち着けるかよ!」
食堂の何人かが振り返る。
アークは声を抑える。
それでも怒りは消えない。
「昨日あんなことがあったばっかだぞ」
「その直後に、銀目のこと知ってる怪しい奴が来た」
「しかも一人で来い?」
「罠ですって言ってるようなもんじゃねぇか」
「俺もそう思う」
ノアが言った。
アークが止まる。
「なら」
「だから行く」
「お前なぁ!」
「アーク」
ノアは真っ直ぐ見る。
「向こうは俺が来ると思ってる」
「なら行かない方がいいだろ!」
「違う」
ノアは首を横へ振る。
「向こうが何を知ってるのか分からない状態の方が危ない」
「俺のこと」
「黒星のこと」
「昨日のこと」
「どこまで知ってるのか確認したい」
セシリアが口を開く。
「ですが、二人きりという条件を受け入れる必要はありません」
「うん」
ノアは頷く。
「だから本当に二人きりにはしない」
レインが少しだけ眉を上げる。
ノアは続ける。
「向こうが二人きりだと思えばいい」
数秒。
沈黙。
アークが先に気付いた。
「盗み聞きか?」
「言い方」
「合ってんだろ」
「合ってるけど」
セシリアが考える。
「盗聴魔法は対策される可能性があります」
「魔導院なら当然だろうな」
レインが言う。
ノアは頷いた。
「だから魔法は使わない」
「じゃあどうするんです?」
ルナが聞く。
ノアは食堂の窓を見る。
馬車。
学院長室。
校舎の構造。
昨日、地下へ行くまでに通った経路。
頭の中で地図を組み立てる。
「場所はどこ?」
レインが答える。
「学院長の第二応接室」
ノアは思い出す。
本館三階。
外壁側。
隣に資料室。
反対側は空き部屋。
そして。
上は。
「四階の旧講義室」
ノアが呟く。
レインの目が僅かに細くなる。
「何を考えている」
「第二応接室の天井」
「古い建物だから魔力配管が通ってる」
「……よく覚えているな」
「入学した時に校舎の構造見た」
アークが呆れた顔をする。
「なんでだよ」
「逃げ道探すため」
「お前ほんと昔から変わんねぇな」
ノアは無視した。
魔力配管。
学院の古い設備。
今は使われていない箇所も多い。
音は。
通る。
「盗聴魔法じゃない」
ノアは言う。
「ただの管を使う」
レインが数秒黙る。
そして。
笑った。
本当に僅かに。
「なるほど」
セシリアも理解する。
「魔法を警戒する相手ほど」
「物理的な方法を見落とす可能性がある」
「そういうこと」
「ですが、気付かれれば」
「その時はその時」
「それを無謀と言うのです」
「まだ何もしてないだろ」
「考えた時点で半分しています」
アークが笑いそうになり。
すぐ真顔へ戻る。
「俺は上にいればいいんだな」
ノアが頷く。
「アークとルナ」
「セシリアは?」
セシリア自身が聞く。
「別」
ノアは少し考える。
「相手が本当に一人で来てるか確認してほしい」
「馬車に何人いたか」
「周辺に魔導院の人間が隠れてないか」
「分かりました」
即答だった。
ノアはレインを見る。
「学院長には?」
「俺から話す」
「怒るかな」
「間違いなく怒る」
「やっぱり」
「だが許可は出すだろう」
ノアは意外に思う。
「なんで」
「お前を試すためだ」
レインは静かに答えた。
「黒星を持つ者に必要なのは戦闘力だけではない」
「自分を狙う人間から生き残る知恵も必要になる」
ノアは白い馬車を見た。
確かに。
これから先。
喰星のような怪物だけを相手にするわけではない。
黒星を欲しがる人間。
恐れる人間。
利用する人間。
救おうとする人間。
その全部と向き合わなければならない。
そして厄介なのは。
悪人だけではないことだ。
善意で近づく人間の方が。
場合によっては断りづらい。
ノアは黒い記録帳を制服の内側へ入れた。
その瞬間。
胸の奥で。
ドクン。
《蓄積値:451》
増えた。
ノアの動きが止まる。
「……増えた」
全員がノアを見る。
レインが聞く。
「何をした」
「何も」
本当に何もしていない。
戦っていない。
黒星を使っていない。
恐れられてもいない。
ただ。
白い馬車の人物について考えていた。
いや。
違う。
その直前。
黒い記録帳を懐へ入れた。
ノアはゆっくり記録帳へ手を当てる。
ドクン。
黒星が反応する。
強くはない。
だが。
確実に。
《蓄積値:452》
ノアの顔から表情が消えた。
レインも気付く。
「記録帳か」
「たぶん」
「さっきは反応しなかった」
「そう」
開いた時も。
文字を書いた時も。
変化しなかった。
なのに今。
身体へ近づけた瞬間。
増えた。
ノアは記録帳を机へ置く。
数秒。
《蓄積値:452》
変わらない。
再び手に取る。
ドクン。
《蓄積値:453》
確定。
アークが低く言う。
「それ、持ってて大丈夫なのか?」
ノアは答えない。
レインを見る。
「これ」
「何で作った?」
レインは沈黙した。
先ほど。
今は知らない方がいい。
そう言った。
その理由が。
ようやく見えてきた。
ノアは記録帳から手を離す。
「レイン」
「答えて」
レインはしばらくノアを見つめていた。
やがて。
「……最初の門だ」
小さく答えた。
食堂の音が遠ざかった。
「何?」
「正確には」
レインは黒い本を見る。
「三百年前」
「最初の門から剥がれ落ちた欠片を加工したものだ」
ノアの胸が大きく脈打つ。
ドクン。
《蓄積値:454》
黒星が。
喜んでいる。
ノアは黒い記録帳を見る。
そして。
一つの疑問が浮かんだ。
なぜ。
そんなものが。
学院に残されている?
いや。
もっと根本的な疑問。
最初の門から剥がれた欠片。
それを。
誰が。
記録帳に加工した?
ノアはゆっくり顔を上げる。
「これを作ったのは誰?」
レインは答えなかった。
その沈黙で。
ノアには分かった。
知っている。
レインは知っている。
そして。
言いたくない。
ノアがさらに問い詰めようとした。
その時だった。
学院中へ。
カァン――。
澄んだ鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
来客を知らせる鐘。
食堂の窓の外。
学院正門が開く。
白い馬車の扉へ。
一人の男が手を掛けた。
レインが静かに言った。
「時間だ」
ノアは男を見る。
まだ顔は見えない。
だが。
胸の奥の黒星は。
記録帳ではなく。
今度は明確に。
その男へ反応した。
ドクン。
《蓄積値:455》
ノアの銀色の瞳が細くなる。
馬車の扉が。
ゆっくりと開いた。




