第七章 黒星の残響 37
ノアはその光へ向かって、一歩を踏み出した。
地下の冷たい空気が背中から離れていく。
石造りの階段を上るたび、湿った空気は少しずつ温度を失い、代わりに雨上がりの風が頬を撫でた。
誰も喋らない。
アークですら珍しく口を閉ざしていた。
ただ靴音だけが、崩れかけた階段へ静かに響いている。
やがて地上へ出る。
灰色の雲が空を覆い、雨は止んでいた。
学院の中庭は、戦いの爪痕で埋め尽くされている。
崩れた校舎。
砕けた石畳。
折れた樹木。
あちこちで教師たちが治癒魔法を使い、生徒たちを運び出していた。
ノアはその光景を見つめたまま動かなかった。
胸の奥が重い。
喰星を止めた。
門も閉じた。
それでも、これだけの傷跡が残った。
もし自分がもう少し弱ければ。
もし黒星へ完全に呑まれていたら。
学院は残っていなかった。
街も。
仲間も。
何もかも。
「……俺のせいだ」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
しかし、その呟きはアークの耳へ届いていた。
アークはノアの肩を軽く叩く。
「違う」
ノアは振り返らない。
「でも黒星は俺の中にある」
「そうだな」
「なら——」
「だから違う」
アークは真っ直ぐ言った。
「黒星はお前の中にある」
「でも戦ったのは、お前だ」
「止めたのも、お前だ」
「助けたのも、お前だ」
ノアは言葉を失う。
アークは笑わない。
珍しく真面目な顔だった。
「全部を黒星のせいにするな」
「全部を自分のせいにするな」
「どっちも逃げだ」
その言葉が、胸へ深く刺さる。
ノアはゆっくり目を閉じた。
逃げ。
そうなのかもしれない。
黒星へ責任を押し付ければ楽だった。
逆に全部を自分が背負えば、諦めもつく。
でも、それでは何も変わらない。
セシリアが静かに隣へ並ぶ。
「貴方は今回、多くの判断をしました」
「正しかったものもあります」
「間違っていたものもあります」
「それでいいんです」
ノアは苦笑する。
「慰めになってないぞ」
「慰めていません」
即答だった。
「人は間違えます」
「だから次があります」
「貴方だけ特別ではありません」
ルナも頷いた。
「だから、一人で全部背負わないでください」
「今度は、ちゃんと頼ってください」
ノアは三人を見回す。
アーク。
セシリア。
ルナ。
誰も黒星を見ていない。
自分を見ている。
ドクン。
《蓄積値:453》
また一つ減った。
ノアは思わず息を吐く。
やはりそうだ。
黒星は、人との繋がりを嫌う。
孤独を好む。
だからこそ、一人にならないことが一番の対抗手段になる。
老人も静かに歩み寄ってきた。
「……見届けたかった」
その一言に、全員が老人を見る。
「三百年前、私はアルトを止められなかった」
「止めようとはした」
「だが、彼は誰より優秀だった」
「誰より優しかった」
「だから、自分一人で全てを終わらせようとした」
老人はノアを見る。
「お前は違え」
「仲間を遠ざけるな」
「一人で答えを出そうとするな」
「それだけは約束してくれ」
ノアは静かに頷いた。
「約束します」
その返事を聞いた老人は、小さく笑った。
それは、三百年という長い時間を背負ってきた人間が、ようやく少しだけ肩の荷を下ろしたような笑みだった。
エレノーラが教師たちへの指示を終え、こちらへ歩いてくる。
「ノア・アルクライト」
「はい」
「本件は学院最上級機密として扱う」
「地下区画は完全封鎖」
「門の存在を知る者は限定する」
ノアは黙って聞く。
「そして、お前は今日から監視対象でもある」
アークが眉をひそめた。
しかしエレノーラはすぐに続ける。
「同時に、保護対象でもある」
「黒星を宿したお前を、学院は見捨てない」
「それが私の判断だ」
ノアは学院長を見つめた。
疑われることも覚悟していた。
拘束されることも。
学院を追放されることも。
だが返ってきたのは違う言葉だった。
見捨てない。
その一言だけで十分だった。
「ありがとうございます」
エレノーラは短く頷く。
「礼は不要だ」
「代わりに生きろ」
「黒星へ負けるな」
「それがお前の義務だ」
「……はい」
短い返事だった。
だが、その声には迷いがなかった。
レインが壁にもたれながら言う。
「まずは記録だ」
ノアが振り向く。
「今日から毎日、自分を書き残せ」
「感情」
「蓄積値」
「夢」
「飢え」
「全部だ」
「黒星は少しずつ人を変える」
「変わったことに、自分では気付けない」
ノアは頷く。
「分かった」
老人も続ける。
「その記録は、一人で保管するな」
「必ず誰かへ見せろ」
「自分だけの判断を信じるな」
ノアはアークたちを見る。
「頼んでもいいか」
アークは笑う。
「もちろん」
セシリアは静かに頷く。
「毎日確認します」
ルナも柔らかく笑った。
「私も読みます」
ノアは少し照れくさくなって頭を掻く。
「……なんか監視されるみたいだな」
「監視です」
セシリアが真顔で返した。
アークが吹き出す。
ルナも笑う。
その笑いにつられて、ノアも笑ってしまった。
ドクン。
《蓄積値:452》
また数字が減る。
ノアはもう驚かなかった。
笑うこと。
話すこと。
誰かと同じ時間を過ごすこと。
それもまた、黒星との戦いなのだ。
エレノーラはその様子を見届けると、静かに踵を返した。
「全員、治療を受けた後、今日は解散だ」
「詳しい話は明日行う」
教師たちが動き始める。
壊れた学院にも、少しずつ日常が戻り始めていた。
ノアは最後にもう一度だけ振り返る。
地下へ続く入り口。
その奥には、まだ開いてはならない最初の門が眠っている。
喰星も消えてはいない。
向こう側も。
銀色の瞳の存在も。
全てが、まだ世界のどこかで動き続けている。
戦いは終わっていない。
だが、今日だけは違う。
今日だけは、生き残ったことを喜んでもいい。
ノアは静かに空を見上げた。
厚い雲の隙間から、一筋だけ光が差し込んでいる。
その光を見つめながら、小さく呟く。
「……絶対に負けない」
それは黒星へ向けた言葉だった。
喰星へ向けた言葉だった。
そして、自分自身へ向けた誓いだった。
その頃。
学院から遠く離れた街道。
雨に濡れた石畳の上を、一台の白い馬車が静かに走っていた。
車体には、青い魔法陣を象った紋章。
御者は学院の方角を見つめ、小さく手綱を引く。
「間に合いましたか」
馬車の中から、穏やかな男の声が聞こえた。
返事はない。
ただ車輪だけが静かに回り続ける。
誰もまだ知らない。
その馬車に乗る人物との出会いが、ノアの運命をもう一度大きく動かすことを。
――第七章 終




