第七章 黒星の残響 36
地下通路の奥から、青白い光がゆっくり引いていった。
封印術式は完全に消えたわけではない。床の下、壁の奥、学院そのものの骨組みへ溶け込むように、静かに沈んでいく。まるで眠り直すみたいに。
だが、ノアには分かった。
眠っただけだ。
終わったわけじゃない。
最初の門は目覚めかけている。そして、今もこちらを見ている。
「負傷者を運べ」
エレノーラの声で、止まっていた時間が動き出した。
教師たちが一斉に動く。治癒術師たちが倒れていた生徒や教師へ駆け寄り、傷口へ光を当てる。砕けた通路の破片が魔法で持ち上げられ、道が作られていく。さっきまで世界の終わりみたいだった場所に、ようやく人間の手が戻ってきた。
ノアはそれを見ながら、少しだけ息を吐く。
身体が重い。黒星の脈動は落ち着いているが、疲労は消えていない。むしろ、今になって一気に押し寄せてきた。足元が揺れる。
「ノアさん!」
ルナが咄嗟に支えた。
ノアは何とか踏み止まる。
「大丈夫」
「大丈夫な人は倒れかけません」
「それはそう」
言い返せなかった。
アークが肩を貸そうとして近づく。だが、アーク自身も傷だらけだった。盾はひび割れ、腕からは血が流れている。
ノアは眉を寄せる。
「お前も休めよ」
「俺は頑丈だからいいんだよ」
「それ毎回言ってない?」
「事実だからな」
アークは笑った。だが、笑った直後に少し顔をしかめる。肋骨あたりをやられているのだろう。
セシリアが横から冷静に言った。
「貴方も治療を受けてください」
「いや、俺はまだ」
「受けてください」
「……はい」
アークが素直に引いた。
ノアは少し笑いそうになる。セシリアの圧は、たまに学院長より怖い。そのセシリアも無傷ではなかった。制服の袖は裂け、頬には血が滲んでいる。それでも姿勢は崩さない。剣を収めたあとも、彼女は周囲への警戒を解いていなかった。
ノアはそれに気づいて言う。
「もう大丈夫だと思う」
セシリアは少しだけノアを見る。
「思う、では困ります」
「厳しいな」
「貴方の大丈夫ほど信用できない言葉はありません」
「そんなに?」
「かなり」
ルナが小さく頷いた。
「私もそう思います」
「味方がいない」
アークが笑う。
「俺は味方だぞ。まあ銀目の大丈夫は信用してねぇけど」
「結局敵じゃん」
その軽いやり取りが、地下通路に少しだけ温度を戻した。
教師たちの中には、そんなノアたちを複雑な表情で見ている者もいた。恐怖。警戒。困惑。それでも、さっきほど黒星は反応しない。
彼らの視線は確かにノアへ向いている。だが、その中心にアークたちがいることで、ノアはただの怪物としては見られていなかった。
危険な生徒。異常な力の持ち主。だが、それだけではない。仲間に支えられている少年。
それが混ざっている。
ドクン。
《蓄積値:455》
また一つ減った。
ノアは静かに息を吸った。
この感覚を忘れたくない。戦って強くなるだけでは駄目だ。勝つだけでは黒星は育つ。恐れられるだけなら、向こう側へ近づく。
だから、自分が何者として見られるか。自分が自分を何者だと思うか。それを間違えたら終わる。
レインが隣へ立った。
「分かった顔をしているな」
「少しは」
「なら忘れるな。黒星は、力を使うたびにお前へ問い続ける」
「何を」
「お前は人間か。それとも喰う側か」
ノアは沈黙した。
その問いは重い。だが、今なら少しだけ答えられる気がした。
「俺はノアだ」
レインの赤い瞳が、ほんの少し動く。
「それが答えか」
「今は」
「悪くない」
レインはそう言って、地下の奥へ視線を向けた。青白い術式の光が消えた先。最初の門へ続く暗闇。
「だが、次に喰星と会った時、その答えだけでは足りないかもしれない」
ノアも同じ方向を見る。
「分かってる」
「ならいい」
「……あいつは本当にアルトなのか」
レインはすぐには答えなかった。少しだけ沈黙が落ちる。
「分からない」
意外な答えだった。
ノアが見ると、レインは続けた。
「肉体がアルトなのか、記憶がアルトなのか、黒星がアルトの形を使っているだけなのか。それとも全部が混ざって、もう別のものになっているのか。判断できない」
「十年前に会ったんだろ」
「ああ」
「どんな奴だった」
レインはしばらく黙った。少しだけ遠い目をする。
「笑っていた」
「笑って?」
「ああ。今の喰星と同じ顔でな」
ノアは喰星の笑みを思い出す。圧倒的な強者の笑み。獲物を見つけたような笑み。同時に、どこか人間の名残を感じさせる笑み。
「ただ、言っていた」
レインは続けた。
「黒星は人を壊す。だが人は、黒星を変えることもできるかもしれない」
ノアの胸が小さく鳴る。
「アルトの言葉か」
「たぶんな」
「たぶん?」
「その時のあいつが、どこまでアルトだったか分からない。だが、その言葉だけは覚えている」
ノアは目を伏せた。
黒星は人を壊す。だが人は、黒星を変えることもできる。
それは、今日ノアが少しだけ見つけた答えと重なる。喰星はそれを知っていた。あるいは、知っていたからこそ失敗したのかもしれない。
老人が近づいてきた。
彼は割れた金属板の欠片を布へ包み、大切そうに懐へしまっている。
「アルトは、最後まで諦めなかった」
老人の声は静かだった。
「私が見た彼は、いつも何かを書いていた」
「魔法陣か?」
ノアが聞くと、老人は小さく頷いた。
「魔法陣も、理論式も、観察記録も、それから日記も」
「日記?」
「黒星に触れた者が、何を感じ、何を考え、どう変わっていくのか。彼は自分自身を記録していた」
ノアは少し息を呑む。
自分自身を記録する。
それは、今のノアにも必要なことかもしれない。黒星がどう反応するか。何で増え、何で減るのか。どんな時に飢えが強くなるのか。どんな時に静かになるのか。全部、記録すれば見えてくる。
頭脳戦は敵との戦いだけじゃない。自分自身の中にある黒星との戦いも、分析できる。
ノアは静かに言う。
「俺も記録する」
老人が頷く。
「それがいい」
レインも同意した。
「感覚だけに頼るな。黒星は感覚へ入り込む。だが記録は、後から自分を見直せる」
セシリアが口を開く。
「なら、私たちも確認役になります」
ノアが見る。
セシリアは真剣だった。
「貴方自身が書いた記録でも、黒星の影響を受けている可能性があります」
「……そこまで疑う?」
「疑います」
即答。
「貴方が自分では気づかない変化を、私たちが見る必要があります」
ルナも頷く。
「私も見ます」
アークが笑う。
「じゃあ俺は、銀目が変なこと書いてたら笑ってやる」
「確認役として一番不安なんだけど」
「何言ってんだ。笑いは大事だぞ」
ノアは少しだけ肩の力が抜けた。
記録する。確認する。仲間と共有する。それは、黒星を制御する第一歩になる。ただ力を振るうだけじゃない。黒星を理解する。そして、飲まれないための仕組みを作る。
それはアルトが辿り着きかけた道でもある。
けれど今度は、一人ではない。
エレノーラが教師たちへの指示を終え、戻ってきた。
「話はまとまったようだな」
ノアは頷く。
「黒星の記録を取ります」
「良い判断だ」
エレノーラは即答した。
「専用の記録室を用意する」
「記録室?」
「通常の紙では危険だ。黒星由来の情報は、媒体へ影響を与える可能性がある」
老人が頷いた。
「三百年前もそうだった。黒星に関する記録は、普通の紙へ書くと黒く滲むことがあった。場合によっては、読む者へ影響を与える」
ルナが顔を強張らせる。
「読むだけで……?」
「黒星は認識へ干渉する」
老人の答えは重かった。
「読んで知ることも、認識の一つだ」
ノアは唇を引き結ぶ。
情報そのものが危険。つまり、記録すら扱い方を間違えれば黒星の餌になる。
頭脳戦はさらに複雑になる。隠しすぎれば対策できない。広めすぎれば黒星を強める。誰に何を伝えるか。どこまで共有するか。それ自体が戦略になる。
エレノーラはノアの表情を見て言った。
「理解したか」
「はい」
「なら覚えておけ。これからお前の敵は、化け物だけではない」
エレノーラの目が鋭くなる。
「情報だ」
地下通路へ静かな緊張が走る。
「誰が何を知るか。誰がお前をどう呼ぶか。誰がお前を怪物として見るか。誰がお前を英雄として祭り上げるか。その全てが、黒星へ影響する」
ノアは黙って聞いた。
英雄。
その言葉が妙に引っかかった。
恐れられるだけではない。崇められても増える。老人もそう言っていた。つまり、ノアは怪物として恐れられても駄目。英雄として崇められても駄目。
ただの人間として見られなければならない。
だが、黒星の力を使えば使うほど、人はノアを普通には見なくなる。
なんて厄介な力だ。
ノアは小さく舌打ちした。
「勝っても駄目、恐れられても駄目、褒められすぎても駄目ってことか」
レインが頷く。
「その通りだ」
「面倒すぎる」
アークが笑う。
「じゃあ俺が毎日お前の失敗話してやるよ」
「やめろ」
「銀目が授業中寝てた話とか」
「やめろ」
「飯食って眠そうにしてた話とか」
「普通すぎるだろ」
ルナが少し笑う。
セシリアもわずかに口元を緩めた。
その瞬間。
ドクン。
《蓄積値:454》
また減る。
ノアは思わず笑ってしまった。
「……本当に効くのかよ」
レインが少しだけ呆れたように見る。
「馬鹿馬鹿しいが、効果はあるらしいな」
エレノーラも小さく息を吐いた。
「なら、馬鹿馬鹿しいことも戦略に入れるべきだ」
アークが胸を張る。
「任せろ!」
セシリアが即座に言う。
「調子に乗らないでください」
「なんでだよ!」
地下通路に、ほんの少し笑いが戻った。
だが、その笑いの中で、ノアは確かに感じていた。
これは逃避じゃない。
戦略だ。
黒星に対して、人間らしさで抗う。恐怖でも崇拝でもなく、日常で薄める。それは、アルトが一人では辿り着けなかった答えなのかもしれない。
老人はその光景を、涙を堪えるような顔で見ていた。
「もう少し早く」
老人が呟く。
「彼に、こういう仲間がいれば」
誰も返事をしなかった。
その言葉には、返せる言葉がなかった。
やがてエレノーラが静かに告げた。
「全員、地上へ戻る」
「地下区画は封鎖する。ノア、アーク、セシリア、ルナは治療後、私の執務室へ来い。レイン、お前もだ」
レインは面倒そうに目を細める。
「拒否権は」
「ない」
「だろうな」
老人が小さく言う。
「私も同行しよう」
エレノーラは少しだけ老人を見る。
「あなたには聞きたいことが山ほどある」
「私にも話すべきことが山ほどある」
「なら逃げるな」
「三百年逃げなかった」
老人はそう答えた。
その言葉に、エレノーラは何も言わなかった。
地上へ戻るために、教師たちが崩れた階段を補修していく。青白い簡易足場が作られ、負傷者が先に運ばれていく。
ノアは最後に地下の奥を振り返った。
暗闇。
見えない扉。
最初の門。
黒い線は、まだそこへ続いている。
外へ伸びるもう一本の線も、遠くで蠢いている。
喰星はいつかまた来る。向こう側の銀色の存在も、ノアを覚えた。アルト・クロノスの真実も、まだ分からない。
けれど、今日得たものもある。
黒星は増えるだけじゃない。
減らせる。
黒星は孤独を好む。
なら、一人にならなければいい。
黒星は認識を喰う。
なら、認識を操ればいい。
これは戦える。
ノアはそう思った。
正面から力で勝つだけじゃない。人の認識。情報。感情。記録。仲間。全部を使う。
それが、黒星との頭脳戦だ。
「行くぞ、銀目」
アークの声。
ノアは振り返る。
アークが手を差し出していた。
少し迷って、ノアはその手を取る。
「自分で歩ける」
「知ってる」
「じゃあなんで」
「なんとなく」
ノアは少し笑った。
「雑だな」
「俺だからな」
その手に引かれて、ノアは崩れた地下通路を歩き出す。ルナが隣へ並ぶ。セシリアが後ろを守るように歩く。レインと老人が少し離れて続く。
学院長エレノーラは最後に地下の奥を見つめ、静かに杖を掲げた。
青白い封印術式が一瞬だけ輝く。
地下の扉が、遠くでまた小さく鳴った。
ゴン――。
けれど今度は、ノアは振り返らなかった。
まだ開けない。
まだ行かない。
だが、いずれ向き合う。
その時までに。
自分は、黒星に喰われないだけの答えを見つける。
地下から地上へ続く階段を上る。
薄暗い通路の先に、朝の光が見えた。
雨上がりの空気が流れ込む。
湿った風。
土の匂い。
壊れた学院の匂い。
それでも、光はあった。
ノアはその光へ向かって、一歩を踏み出した。




