第七章 黒星の残響 32
「……絶対に喰われない」
その声は小さかった。
だが、地下通路の全員が聞いていた。
アークが口元を吊り上げる。
「いいじゃねぇか」
短い言葉だった。
けれど、その声にはいつもの軽さとは違う熱があった。
「だったら俺も手伝う。喰われそうになったら、ぶん殴ってでも戻してやる」
ノアは少しだけ目を向ける。
「お前、ほんとそればっかだな」
「分かりやすくていいだろ」
アークは笑う。
傷だらけで、盾も半壊しているのに、その笑い方だけはいつも通りだった。
そのいつも通りが、今は少しだけ救いだった。
セシリアも静かに剣を収める。
だが、その目は真剣だった。
「私も協力します」
「危険だぞ」
ノアが言う。
セシリアは即答した。
「知っています」
迷いはなかった。
「ですが、貴方一人に任せれば、もっと危険です」
「言い方」
「事実です」
ノアは苦笑した。
ルナも一歩前へ出る。
まだ顔色は悪い。
さっきまでの出来事で、震えも完全には収まっていない。
それでも、彼女はノアを真っ直ぐ見ていた。
「私も、そばにいます」
ノアは何か言おうとして、言葉を止めた。
危ないから来るな。
そう言いたかった。
でも。
さっき、それでは駄目だと分かったばかりだった。
自分一人では戻れない。
黒星は孤独を喰う。
恐怖を喰う。
怪物として見られれば、その認識を喰って育つ。
だったら。
一人で抱え込むことこそが、一番危険なのかもしれない。
ノアは胸の奥へ手を当てた。
黒星は静かに脈打っている。
ドクン。
《蓄積値:460》
増えない。
減りもしない。
まるで、こちらの答えを待っているようだった。
ノアは小さく息を吐く。
「……分かった」
三人の表情が少しだけ変わる。
ノアは続けた。
「無茶はする。でも一人では行かない」
アークが笑う。
「おう。それでいい」
セシリアが頷く。
「最低限、相談はしてください」
「そこまで信用ない?」
「ありません」
「ひどい」
ルナが少しだけ笑った。
その小さな笑みに、地下通路の重たい空気がわずかに緩んだ。
だが、老人とレインの表情は変わらない。
二人は、まだこの話の深刻さを理解している。
いや、理解しすぎている。
老人は金属板の欠片を見つめたまま、低く言った。
「覚悟だけでどうにかなる相手ではない」
ノアは老人を見る。
老人の手元では、割れた金属板の黒星紋が、まだかすかに黒く光っていた。
「喰星がアルト・クロノスなら、あれはただの黒星持ちではない」
老人の声には、怒りでも恐怖でもない、深い悲しみがあった。
「アルトは誰より黒星を理解しようとした」
「誰より人を救おうとした」
「だからこそ、誰より深く黒星へ近づいた」
ノアは黙って聞いていた。
老人は続ける。
「黒星は、恐れる者よりも、理解しようとする者を好む」
「近づけば近づくほど、答えを与える」
「力を与える」
「そして、その者は自分が黒星を制御していると思い込む」
老人はゆっくりノアを見る。
「だが最後には逆だ」
「黒星に、考え方そのものを変えられる」
地下通路へ冷たい沈黙が落ちる。
その言葉は、ノアの胸に深く刺さった。
さっきまでの自分。
黒腕を振るい、喰星へ食らいつき、腹が減ったと呟いた自分。
あれは本当に自分だったのか。
完全に黒星だったのか。
それとも。
自分の中にも、そういう部分が元からあったのか。
ノアは答えを出せなかった。
レインが静かに言う。
「アルトは、黒星を封じる方法ではなく、黒星を人の意思で扱う方法を探していた」
老人がレインを睨む。
「軽々しく語るな」
「事実だ」
「お前に何が分かる」
レインはしばらく黙った。
地下通路の奥から、まだ微かな軋みが聞こえる。
最初の門が反応している音だ。
やがてレインは言った。
「俺はアルトと会ったことがある」
空気が止まった。
老人の目が見開かれる。
「……何を」
「三百年前ではない」
レインは淡々と言う。
「十年前だ」
老人の表情が凍りついた。
アークが思わず口を挟む。
「ちょっと待て。三百年前の奴に十年前会ったってどういうことだよ」
レインはノアを見る。
「黒星に近づきすぎた者は、時間の流れから外れることがある」
ノアの眉が動く。
「時間から外れる?」
「向こう側は、この世界と時間の流れが違う」
レインは崩れた壁に視線を向けた。
「門の奥へ落ちた者が、数百年後に戻ることもある」
「逆に、戻ってきた本人にとっては数日しか経っていないこともある」
ルナが青ざめる。
「そんな……」
「だから門は危険なんだ」
レインの声が低くなる。
「向こう側は、生き物も、空間も、時間も、この世界の理屈で動かない」
ノアの脳裏に、巨大な目と銀色の人影が浮かぶ。
あれは確かに、この世界のものではなかった。
見るだけで世界の方が歪む。
そんな存在だった。
老人が震える声で聞く。
「十年前、アルトは何を言った」
レインは老人を見た。
その赤い瞳に、一瞬だけ影が差す。
「自分は失敗した、と」
老人の手が震えた。
レインは続ける。
「黒星を制御するには、黒星の仕組みを理解するだけでは足りない」
「黒星が喰う“認識”そのものを変えなければならない」
「そう言っていた」
ノアの胸が小さく脈打つ。
認識。
またその言葉だ。
黒星は認識を喰う。
人々がノアを怪物と見るほど、ノアは怪物に近づく。
なら逆に。
人として見られれば、戻れる。
さっき蓄積値が減ったことが、その証拠だった。
老人が目を閉じる。
「アルトは、そこまで辿り着いていたのか……」
その声は、悲しみに似ていた。
「だが、それでも戻れなかった」
レインは静かに言った。
「おそらくな」
「ならどうして喰星に……」
老人の声が震える。
レインは答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
代わりにノアが口を開いた。
「たぶん、喰われたんだろ」
全員がノアを見る。
ノアは自分の右腕に残った黒い紋様を見た。
「黒星を理解しようとして、近づいて、最後に自分の中の何かを喰われた」
「それで、別のものになった」
老人は言葉を失った。
ノアは続ける。
「でも全部が消えたわけじゃない」
レインが目を細める。
「なぜそう思う」
「さっき、喰星は俺を止めた」
ノアは地下通路の奥を見た。
巨大な目が現れた時。
上位存在がこちらを覗いた時。
喰星は確かに言った。
見るな。
喰われるぞ。
あれは、殺す相手へ言う言葉じゃない。
完全な化け物なら、わざわざ警告なんてしない。
「喰星の中に、まだアルトが残ってるのかもしれない」
老人の息が止まる。
レインも黙った。
アークが腕を組む。
「つまり、あいつ敵だけど敵じゃねぇかもしれねぇってことか?」
セシリアが静かに答える。
「少なくとも、単純な敵ではないということですね」
ルナが不安げに言う。
「でも、ノアさんを喰うつもりだったんですよね……?」
「そこは敵だな」
ノアは即答した。
ルナが困ったような顔をする。
ノアは少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
「でも、もしあいつの中にアルトが残ってるなら」
「黒星を制御する答えも、あいつが持ってる可能性がある」
レインが頷く。
「その可能性は高い」
老人は強く首を横へ振った。
「危険すぎる」
「喰星へ近づくなど自殺行為だ」
ノアは老人を見る。
「じゃあ逃げ続けるのか」
老人は黙る。
「最初の門は目覚めた」
「外の門も近づいてる」
「向こう側の上位存在にも認識された」
ノアは一つずつ言葉を置くように続けた。
「もう隠してても無理だろ」
老人は何も言えなかった。
その通りだったからだ。
三百年隠してきた封印は、今日揺らいだ。
喰星は現れた。
向こう側はノアを見た。
そして金属板は割れた。
もう、元には戻らない。
レインが静かに言う。
「問題は、これを誰に伝えるかだ」
地下通路に、新しい緊張が生まれる。
セシリアが言う。
「学院長には報告すべきです」
「当然だ」
レインは頷く。
「だが王国と星教会には慎重に扱う必要がある」
ルナが不安そうに聞く。
「星教会……」
ノアもその名に反応する。
イリス。
金色の瞳。
星教会の聖堂騎士候補。
彼女はノアを見て、星の匂いがすると言った。
あの時からもう、星教会は何かを知っていた。
レインが言う。
「星教会は黒星を神敵として扱っている」
「知れば、間違いなくノアを処分対象にする派閥が出る」
アークが顔を歪める。
「処分っておい」
「殺すという意味だ」
レインは隠さない。
地下通路の空気が冷える。
ルナが唇を噛む。
セシリアも表情を硬くした。
ノアは不思議と冷静だった。
殺されるかもしれない。
その可能性は、最初からあった。
黒星を宿した時点で、自分は普通の生徒ではいられない。
それでも。
「なら殺されないように強くなるしかないな」
アークがニヤリと笑う。
「そうこなくちゃな」
セシリアがため息を吐く。
「単純すぎます」
「でも分かりやすいだろ」
「分かりやすいだけです」
いつものやり取り。
ほんの少しだけ空気が和らぐ。
だが、その時。
地下通路の奥から、また音が響いた。
ゴン――。
低い音。
遠い。
だが確かに。
最初の門。
ノアだけではなく、今度は全員にも聞こえた。
老人の顔が青ざめる。
「封印音が外へ漏れた……」
レインが表情を変える。
「まずいな」
ノアは地下の奥を見る。
黒い線が太くなっている。
まだ遠い。
まだ開いてはいない。
だが、確実に目覚めている。
その時だった。
割れた金属板の欠片から、黒い光が立ち上った。
細い光。
それは空中で文字を形作っていく。
古い文字。
ノアには読めない。
だが、黒星が反応した。
ドクン。
《蓄積値:462》
頭の奥へ、意味が流れ込む。
ノアは無意識に読み上げていた。
「第一封印、覚醒」
老人の顔が歪む。
文字は続く。
ノアの声が、地下通路へ響く。
「継承者確認」
「黒星核、未成熟」
「第二位階、星喰」
「監獄機構、再起動」
その瞬間。
地下通路全体へ、青白い光が走った。
床。
壁。
天井。
崩れた石畳の下から、無数の術式が浮かび上がる。
アークが飛び退く。
「うおっ!?」
セシリアが剣を構える。
ルナが息を呑む。
レインが低く呟いた。
「学院の封印機構か……まだ生きていたのか」
老人の目に涙が滲んでいた。
「……アルト」
その言葉に、ノアが反応する。
「アルトが作ったのか」
老人は頷いた。
「監獄機構の基礎を作ったのはアルトだ」
「黒星を封じるためではなく」
「黒星を宿した者を、殺さずに繋ぎ止めるために」
青白い術式が、ノアの足元へ集まる。
ノアは一瞬身構えた。
だが、術式は攻撃してこない。
代わりに。
胸の奥の黒星へ、冷たい鎖みたいな感覚が触れた。
ドクン。
《蓄積値:460》
減った。
ノアは目を見開く。
さらに。
ドクン。
《蓄積値:458》
また減る。
黒星の脈動が少しだけ静かになった。
ルナが小さく声を漏らす。
「減ってる……?」
レインが目を細める。
「封印機構が蓄積を抑えている」
老人は震える声で言った。
「まだ動く……」
「まだ、アルトの術式が残っている……」
ノアは足元の青白い光を見る。
温かいわけではない。
優しいわけでもない。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
黒星を押さえつける鎖。
けれど、殺すためのものではない。
戻すためのもの。
ノアは小さく息を吐く。
「……なるほど」
レインが見る。
「何が分かった」
「アルトは完全には負けてない」
地下通路に静けさが落ちる。
ノアは続けた。
「喰星になったのかもしれない」
「黒星に喰われたのかもしれない」
「でも、こういうものを残してる」
「誰かが戻ってこられるように」
老人は目を伏せた。
その肩が微かに震えていた。
長い時間。
三百年。
ずっと失われたと思っていたものが、まだ残っていた。
それはきっと老人にとって、救いだった。
青白い術式は、やがて地下通路の奥へ向かって流れ始めた。
最初の門へ。
黒い線と、青白い光が絡み合う。
ノアには見えた。
黒星が門を呼ぶ線。
封印機構が門を縛る線。
二つが、地下の奥でせめぎ合っている。
ノアは理解する。
これは時間稼ぎだ。
完全な封印じゃない。
だが、今すぐ開くことは防げる。
「どれくらい保つ」
ノアが聞く。
老人は術式を見つめながら答える。
「分からない」
「しかし、数日ではない」
「数ヶ月……うまくいけば一年」
アークが息を吐く。
「十分かどうか分かんねぇけど、時間は稼げるってことか」
レインが頷く。
「その間に準備する」
セシリアが言う。
「黒星の制御」
ルナが続ける。
「蓄積値を減らす方法」
アークが笑う。
「あと、銀目が暴走した時の殴り方」
「それ一番いらない」
ノアが即答する。
アークは笑った。
「いや一番いるだろ」
ノアは小さく笑い、そして地下の奥を見た。
黒い線。
青白い封印。
最初の門。
そして、外へ伸びるもう一本の線。
全てが繋がっている。
第七章の戦いは終わりに近づいている。
だが、物語はむしろここから大きく動き出す。
ノアはそう感じていた。
その時、上の方から足音が響く。
複数。
重い靴音。
教師たち。
そして、その中心にいる強い気配。
学院長エレノーラ。
レインが静かに言った。
「来たな」
老人は金属板の欠片を握り締める。
ノアは右腕の紋様を見た。
少し薄くなっている。
だが、完全には消えていない。
自分がもう普通には戻れない証のように。
それでも。
ノアは立った。
足はふらついた。
ルナが支えようとする。
ノアは少しだけ手で制した。
「大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは大丈夫じゃないです」
「厳しいな」
ルナは少しだけ笑った。
ノアは自分の足で立つ。
ここから先は、隠せない。
学院長へ。
教師たちへ。
そしていずれは、王国や星教会へも。
黒星を宿した自分が、何を選ぶのか。
それを見せ続ける必要がある。
地下通路の奥から、青白い術式の光がわずかに漏れていた。
その光を背にして、ノアは上から近づいてくる足音を待った。




