第一章 灰狼組
酒場の空気が止まっていた。
第九区の人間は、基本的に他人の話を真面目に聞かない。
誰かが死ぬと言われても「そうか」で終わるし、明日世界が終わると言われても酒を飲む。実際、第九区では明日生きてる保証なんて最初からない。
だからこそ。
今この場が静まっていること自体が異常だった。
白髪の少女は、それだけ場違いだった。
ガルドが眉間へ皺を寄せる。
「嬢ちゃん。」
低い声だった。
「誰の差し金だ。」
少女は即答した。
「違う。」
「なら何者だ。」
「ルナ。」
「名前聞いてんじゃねぇ。」
酒場の奥で誰かが笑う。
だが空気は軽くならない。
ルナは静かだった。
赤い瞳だけが妙に冷たい。
ノアはその視線を見ながら、胸の奥のざわつきを誤魔化すように笑った。
「今夜壊れるって?」
ルナはノアから視線を逸らさない。
「黒牙犬が来る。」
その瞬間、酒場の空気が少し変わった。
何人かの顔色が変わる。
ノアはそれを見逃さなかった。
黒牙犬。
第九区周辺で時々目撃される魔獣だ。
普通の犬より大きく、黒い毛皮と異常な顎を持つ。群れで動き、人を喰う。貴族街近くには結界があるため滅多に現れないが、第九区外縁ではたまに被害が出る。
だが。
「今夜、ここへ?」
ガルドの声が低くなる。
ルナは頷いた。
「群れ。」
「どこ情報だ。」
「見た。」
「……斥候か?」
「違う。」
「じゃあ何だ。」
少しだけ間が空いた。
ルナは静かに言う。
「覚えてる。」
意味が分からなかった。
酒場の連中も怪訝な顔をする。
ノアだけは、妙にその言葉が引っかかった。
覚えてる。
まるで。
“既に起きたこと”みたいな言い方。
ガルドが舌打ちする。
「くだらねぇ。」
酒を一気に飲み干し、机へ叩きつけた。
「黒牙犬なんざ今さら怖くねぇよ。灰狼組だけで何度追い返したと思ってやがる。」
「今回は違う。」
ルナの声は変わらない。
静かで。
確信している。
「今夜のは、多い。」
酒場の空気が少しだけ冷えた。
ガルドは数秒黙った後、鼻を鳴らす。
「……仮に本当だとして、何で銀目に言う。」
ルナはノアを見る。
「この人が必要だから。」
その瞬間、周囲の視線がノアへ集まった。
ノアは露骨に嫌そうな顔をする。
「やめて。」
「必要。」
「怖い。」
「でも必要。」
「その言い方ちょっと傷つくな。」
酒場の奥でまた笑いが起きる。
空気が少しだけ戻った。
だがガルドは笑っていなかった。
鋭い片目でルナを見る。
「嬢ちゃん。」
「何。」
「第九区の外から来たな。」
「……。」
「どこの人間だ。」
少し沈黙。
そしてルナは言った。
「どこでもない。」
ガルドの目が細くなる。
その返答は、第九区では一番危険な部類だった。
所属不明。
後ろ盾不明。
目的不明。
つまり厄介事だ。
ガルドはノアへ視線を向ける。
「銀目。」
「はい。」
「お前どう思う。」
突然振られた。
ノアは少し考える。
それからルナを見る。
綺麗な少女。
でもそれだけじゃない。
何かがおかしい。
立ち方。
空気。
視線。
それに。
さっきから胸の奥の“何か”が反応している。
黒い脈動。
冷たい感覚。
《――適合認識》
また微かに聞こえた。
ノアは眉をひそめる。
気持ち悪い。
でも。
嫌ではなかった。
ノアは肩を竦める。
「嘘は言ってなさそう。」
ガルドが眉を上げる。
「分かんのか?」
「なんとなく。」
「適当じゃねぇだろうな。」
「第九区で生きるのに必要なのは、強さより“誰が嘘ついてるか”だから。」
それはノアの実感だった。
第九区では皆嘘をつく。
騙す。
誤魔化す。
隠す。
正直者は死ぬ。
だからノアは、人の空気を見る癖がある。
視線。
声。
間。
沈黙。
そういうものを読む。
そしてルナは――少なくとも今は、本気だった。
ガルドは数秒黙り、やがて大きくため息を吐いた。
「……分かった。」
周囲がざわつく。
「ガルド、信じるのか?」
「半分だ。」
ガルドは立ち上がる。
巨体が軋むように動いた。
「だが第九区じゃ、“最悪を想定する”のは間違いじゃねぇ。」
そのまま周囲へ怒鳴る。
「お前ら! 外縁見回り増やせ! 武器庫開けろ! ガキ共は地下へ下げろ!」
酒場の空気が一気に変わった。
さっきまで酒を飲んでいた連中が動き出す。
第九区は腐っている。
でも、生き残るための勘だけは鋭い。
ガルドが本気で動く時は、大体ロクなことが起きない。
リリが不安そうにノアの袖を掴む。
「銀目……。」
ノアは頭を撫でる。
「大丈夫。」
「ほんと?」
「多分。」
「その返事やだ。」
ノアは笑った。
その時。
ルナが小さく呟いた。
「……遅い。」
ノアが振り向く。
「何が?」
ルナは扉の方を見ていた。
赤い瞳が細くなる。
「もう来てる。」
次の瞬間。
遠くで悲鳴が上がった。
酒場の空気が凍る。
そして。
外から、獣の咆哮が響いた。咆哮は、普通の獣の声じゃなかった。
低く。
濁っていて。
腹の奥を直接揺らすみたいな音だった。
酒場の空気が一瞬で変わる。
酔っ払いが立ち上がり、賭博していた連中が札を放り出し、灰狼組の男達が一斉に武器へ手を伸ばす。
ガルドが怒鳴った。
「配置につけ!!」
その声だけで全員が動く。
第九区では、判断が遅い奴から死ぬ。
ノアも外套の内側へ手を入れ、小型ナイフを取り出した。
安物だ。
でも使い慣れている。
ルナがそれを見て眉をひそめる。
「それで戦うの?」
「貧乏だから。」
「死ぬよ。」
「まだ死んでない。」
「これから死ぬ。」
「縁起悪いな。」
ノアは軽口を叩きながらも、身体の奥に嫌な汗を感じていた。
空気がおかしい。
第九区は危険な場所だ。
喧嘩も殺しも珍しくない。
でも今のこれは違う。
もっと原始的な恐怖。
“人間の外側”にいるものへの本能的な嫌悪感。
また咆哮が響く。
今度は近い。
酒場の窓が震えた。
外から怒鳴り声が飛ぶ。
「東通りだ!!」
「数が多い!!」
「何だあれ――ッ!?」
悲鳴。
何かが引き裂かれる音。
酒場の空気がさらに張り詰める。
ガルドが斧を掴んだ。
巨大な両刃斧。
長年使い込まれ、刃が黒ずんでいる。
「銀目。」
「ん。」
「ガキ共を地下へ運べ。」
「前線じゃなくて?」
「まだお前に前は任せねぇ。」
ノアは少し笑った。
「過保護。」
「勘違いすんな。死なれると後味悪ぃだけだ。」
ガルドはそのまま酒場を飛び出していく。
灰狼組の連中も続く。
ノアはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
その時。
ルナがノアの袖を掴む。
「前。」
「ん?」
「行った方がいい。」
ノアは眉を上げる。
「ガルドに止められたけど。」
「ガルドじゃ止められない。」
その声は静かだった。
でも妙に確信している。
ノアはルナを見る。
赤い瞳。
揺れていない。
まるで、“知っている”みたいだった。
「……何なんだよ、お前。」
ルナは少しだけ黙った。
それから言う。
「今は、ルナ。」
答えになっていない。
だがそれ以上聞く暇はなかった。
外から爆音が響いた。
壁が揺れる。
酒場の奥で誰かが叫ぶ。
「門が破られた!!」
空気が凍る。
ノアは即座に走った。
扉を蹴り開け、外へ飛び出す。
冷たい雨。
泥。
怒鳴り声。
そして。
血の臭い。
第九区東通り。
そこが地獄になっていた。
黒い獣。
普通の犬じゃない。
大きい。
馬ほどではないが、人間より明らかに大きい。
黒い毛皮。
裂けた口。
異常なほど長い牙。
赤い目。
黒牙犬。
しかも一匹じゃない。
十。
二十。
いや、もっと。
群れだ。
灰狼組の男達が応戦している。
鉄パイプ。
斧。
剣。
だが押されていた。
黒牙犬は速い。
異常なほど。
一匹が跳びかかる。
男の喉笛を噛み千切る。
血が飛ぶ。
別の一匹が窓から建物へ飛び込む。
悲鳴。
ノアは思わず舌打ちした。
「多すぎるだろ。」
ルナが後ろから言う。
「まだ増える。」
「最悪。」
黒牙犬の一匹がノアへ気づく。
赤い目。
次の瞬間、飛びかかってきた。
速い。
ノアは咄嗟に横へ転がる。
牙が頬を掠めた。
熱い。
切れた。
黒牙犬が着地し、すぐ振り返る。
低い唸り声。
ノアはナイフを構えた。
勝てる気はしない。
正面からやれば死ぬ。
でも。
逃げても後ろにはガキ達がいる。
「ほんと面倒だな……!」
黒牙犬が突進する。
ノアはギリギリまで引きつけた。
右へ避ける。
同時に、首筋へナイフを突き立てる。
浅い。
硬い。
だが黒牙犬の動きが一瞬止まる。
その瞬間。
横から鉄棒が叩き込まれた。
ガキだった。
第九区の少年。
十四くらい。
痩せた身体。
でも目は死んでない。
「銀目!!」
「ジード!」
ジードが叫ぶ。
「西側も破られてる!!」
「マジかよ!」
「クソ多い!!」
黒牙犬が再び飛びかかる。
ノアはジードを突き飛ばした。
牙。
熱。
肩へ激痛が走る。
噛まれた。
ノアは顔を歪める。
黒牙犬の牙が肩へ食い込んでいる。
血が溢れる。
痛い。
かなり。
黒牙犬の赤い目が目の前にある。
臭い。
獣臭。
腐臭。
ノアは奥歯を噛んだ。
その瞬間。
胸の奥が、脈打った。
黒く。
冷たく。
今までより強く。
《――認識を確認》
頭の中で声が響く。
ノアの視界が、一瞬だけ揺れた。
黒牙犬の“視線”が見える。
敵意。
飢え。
捕食。
そして。
“ノアを獲物だと認識している”。
その感覚が、なぜか分かった。
ノアは息を呑む。
何だこれ。
その瞬間。
胸の奥の黒い何かが、囁いた。
《喰え》
世界が、一瞬だけ静かになった。
《喰え》
その声が頭の奥へ落ちた瞬間、ノアは呼吸を忘れた。
時間が止まったみたいだった。
雨音が遠い。
怒鳴り声も、悲鳴も、全部が膜一枚向こう側へ押しやられる。
見える。
黒牙犬の視線が。
赤い目。
飢え。
獲物を見る感覚。
噛み砕きたいという本能。
その認識が、妙にはっきり流れ込んでくる。
ノアは歯を食いしばった。
何だこれ。
気持ち悪い。
でも。
分かる。
黒牙犬が今どこへ力を入れているか。
次にどこへ動くか。
どの瞬間、牙が緩むか。
全部。
黒牙犬が再び顎へ力を込める。
肩の肉が裂ける感覚。
痛み。
普通なら悲鳴を上げてる。
でも今のノアは、なぜか冷静だった。
頭の奥で、黒い何かが脈打っている。
《喰え》
また声。
次の瞬間。
ノアは反射的に、黒牙犬の赤い目を睨み返した。
銀色の瞳。
黒牙犬の動きが、一瞬だけ止まる。
ノアは理解した。
“怯んだ”。
獲物を見る側だった認識が、ほんの一瞬だけ崩れた。
ノアはその隙へ指を突っ込むみたいに、感覚を滑り込ませる。
視線。
敵意。
恐怖。
そこへ。
《喰え》
胸の奥が熱くなった。
黒牙犬の目が揺れる。
そして次の瞬間。
ノアの中へ、“何か”が流れ込んできた。
熱。
飢え。
獣の本能。
血肉を裂く感覚。
意味不明な情報の洪水。
ノアは思わず息を呑んだ。
黒牙犬が悲鳴みたいな声を上げる。
牙の力が抜けた。
ノアは即座に身体を捻り、ナイフを喉奥へ突き込む。
柔らかい感触。
血。
黒牙犬が暴れる。
だが動きが鈍い。
ノアはさらに押し込んだ。
刃が脳へ届く。
黒牙犬が崩れ落ちた。
静寂。
いや、周囲はまだ戦場だ。
でもノアだけが、一瞬そこから切り離されたみたいだった。
息が荒い。
肩が痛い。
でも、それ以上に。
身体の奥が熱い。
何かを飲み込んだ感覚。
黒牙犬の死体を見下ろしながら、ノアは小さく呟いた。
「……何だよ、今の。」
ルナがすぐ横へ来ていた。
赤い瞳が、倒れた黒牙犬とノアを交互に見る。
その顔は驚いていない。
むしろ。
“やっぱり”という顔だった。
ノアは眉をひそめる。
「知ってたのか。」
ルナは少しだけ黙った。
それから小さく言う。
「……始まった。」
答えになっていない。
その時、遠くで爆音が響いた。
東側のバリケードが崩れた。
灰狼組の男達が吹き飛ばされる。
ガルドが怒鳴っていた。
「下がれ!!」
ノアはそちらを見る。
そして、目を見開いた。
デカい。
普通の黒牙犬じゃない。
二回りは大きい。
黒い毛皮。
異常に発達した前脚。
裂けた口から蒸気みたいな息を吐いている。
その周囲だけ空気が重い。
まるで“群れの王”みたいだった。
ジードが青ざめる。
「何だよあれ……。」
ルナが低く言った。
「黒牙王。」
ノアが振り向く。
「名前付き?」
「群れの中心。」
黒牙王が咆哮する。
その瞬間、周囲の黒牙犬達が一斉に動いた。
統率。
さっきまでの獣的な動きじゃない。
完全に指揮されている。
灰狼組が押し込まれる。
男が一人、建物へ叩きつけられた。
骨の砕ける音。
ガルドが斧で応戦している。
だが押されていた。
黒牙王の一撃は重い。
普通の人間じゃ止められない。
ノアは息を吐いた。
「……勝てなくない?」
「普通は無理。」
「普通じゃないなら?」
ルナはノアを見る。
「できる。」
その言葉に、ノアは少し顔を歪めた。
期待。
信頼。
そういうものを向けられるのは、あまり好きじゃない。
でも。
嫌でもなかった。
黒牙王がガルドへ飛びかかる。
ガルドが斧で受ける。
衝撃。
地面が砕ける。
ガルドの身体が押し込まれる。
「ぐっ……!」
ノアは走った。
考えるより先に身体が動いていた。
泥水を蹴る。
黒牙王の側面へ回り込む。
ナイフを構える。
その瞬間、また胸の奥が脈打った。
《喰え》
ノアは歯を食いしばる。
うるさい。
でも。
今は使える。
ノアは黒牙王を見る。
見える。
周囲の黒牙犬達の視線。
恐怖。
服従。
“王”として認識されている。
その中心が、あの獣だ。
ノアは理解した。
だったら。
そこを崩せばいい。
ノアは地面を蹴った。
黒牙王が振り向く。
赤い目。
巨大な顎。
普通なら恐怖で止まる。
でも今のノアは違った。
黒牙王の“認識”が見えている。
獲物。
雑魚。
脅威ではない。
だから。
その認識を壊す。
ノアは笑った。
「なぁ。」
黒牙王の目を真っ直ぐ見る。
銀色の瞳が光る。
「お前、本当に上か?」
その瞬間。
黒牙王の動きが、一瞬だけ止まった。
ほんの僅か。
でも確かに。
群れの王としての認識が揺らいだ。
ノア自身、何をしたのか分からない。
ただ。
“そう感じさせた”。
それだけだった。
だが十分だった。
ガルドが吠える。
「銀目ォ!!」
巨大な斧が振り下ろされる。
黒牙王の肩へ直撃。
骨が砕ける音。
黒牙王が咆哮する。
ノアは即座に飛び込み、ナイフを首筋へ突き立てた。
血が噴き出す。
熱い。
黒い。
普通の獣より濃い血。
その瞬間。
ノアの胸の奥へ、また大量の“何か”が流れ込んできた。
飢え。
怒り。
支配。
群れ。
王。
頭が割れそうになる。
ノアは思わず膝をついた。
視界が揺れる。
耳鳴り。
雨音が遠い。
黒牙王の咆哮が聞こえる。
だが妙だった。
さっきより弱い。
周囲を見る。
黒牙犬達が揺れていた。
戸惑っている。
群れの中心が崩れた。
その認識が伝染している。
ノアは息を呑む。
「……マジかよ。」
ルナが静かに呟いた。
「認識を喰ってる。」
ノアは顔を上げる。
「何それ。」
ルナは答えない。
ただ。
赤い瞳だけが、ひどく暗かった。
黒牙王が暴れる。巨大な前脚が地面を砕き、泥と血が跳ねた。ガルドが舌打ちしながら距離を取る。
「銀目! 何しやがった!」
ノアは答えられなかった。
頭が割れそうだった。
黒牙王から流れ込んできた感覚が、まだ身体の奥で暴れている。飢え。怒り。群れの中心として見られる感覚。無数の視線を向けられる感覚。
気持ち悪い。
でも同時に、妙な高揚感もあった。
《喰え》
また声が響く。
ノアは奥歯を噛み締める。
「……うるさい。」
黒牙王がこちらを見る。
赤い瞳。
だがさっきまでとは違う。
警戒している。
恐れている。
ノアはそれを理解した瞬間、自分でも背筋が寒くなった。
見える。
相手が自分をどう認識しているかが、なんとなく分かる。
ルナが低く言った。
「まだ終わってない。」
次の瞬間、黒牙王が咆哮する。
周囲の黒牙犬達が一斉に動いた。
だが、さっきまでの統率はない。群れの中心が揺らいだせいで、動きが噛み合っていない。それでも数は多かった。
「西側から回ってるぞ!」
「ガキ達を地下へ!」
「押し返せ!!」
怒号が飛び交う。
黒牙犬の一匹が建物の窓から飛び込み、中から悲鳴が上がった。
ノアは反射的に走る。
肩の傷が痛む。
熱い。
でも止まれない。
建物へ飛び込むと、中では母親が子供を抱えて震えていた。黒牙犬が低く唸りながら距離を詰めている。
ノアはナイフを投げた。
目へ刺さる。
黒牙犬が暴れた。
その隙に横から鉄パイプが叩き込まれる。
「銀目!」
ジードだった。
十四くらいの痩せた少年。第九区のガキの中では腕っ節が強い。
ノアは即座に子供を抱え上げた。
「地下行け!」
母親が泣きながら頷く。
黒牙犬が再び起き上がる。
ノアは舌打ちした。
しぶとい。
普通の獣じゃない。
黒牙犬が飛びかかる。
ノアは咄嗟に視線を合わせた。
その瞬間、また感覚が流れ込む。
敵意。
殺意。
捕食。
だが今度は、ノアも押し返した。
「――止まれ。」
黒牙犬の動きが、一瞬だけ鈍る。
ノア自身、何をしたのか分からなかった。ただ、“そう認識させた”。
その隙にジードが鉄パイプを振り下ろす。
骨が砕ける音。
黒牙犬が崩れ落ちた。
ジードが息を切らしながら叫ぶ。
「今の何だよ……!」
ノアも知りたかった。
「俺に聞くな!」
外ではまだ戦いが続いている。
雨は強くなっていた。
泥と血が混ざり、路地が黒く染まっている。
ノアが外へ出た瞬間、空気の異変に気づいた。
静かすぎる。
さっきまで暴れていた黒牙犬達が、少しずつ後退している。
いや、違う。
何かを警戒している。
ルナも気づいていた。
赤い瞳が、通りの奥を見ている。
「……来る。」
低い声だった。
次の瞬間、遠くの建物が吹き飛んだ。
爆音。
石壁が崩れ、土煙が舞う。
その中から、“それ”は現れた。
デカい。
黒牙王よりさらに大きい。
異常なほど長い四肢。黒い毛皮。裂けた口。そして額に浮かぶ赤黒い紋様。
周囲の黒牙犬達が、一斉に頭を下げた。
ガルドの顔色が変わる。
「……冗談だろ。」
ルナが静かに呟く。
「変異種。」
ノアは目を細めた。
「普通のと何が違う。」
「人を喰いすぎた。」
空気が凍る。
変異種はゆっくり周囲を見回す。
その赤黒い目が、真っ直ぐノアを捉えた。
瞬間、背筋が粟立った。
今までの黒牙犬とは格が違う。
知性がある。
敵を理解している目だ。
変異種がゆっくり口を開く。
滴る唾液。
覗く牙。
そして次の瞬間、地面が爆ぜた。
速い。
巨体なのに、信じられない速度で突っ込んでくる。
ノアは咄嗟に横へ跳ぶ。
直後、背後の壁が粉砕された。
もし直撃していたら、人間なんて跡形も残らない。
ガルドが斧を振るう。
変異種が前脚で受け止める。
衝撃で周囲の地面が沈んだ。
ガルドの顔が歪む。
「硬ぇ……!」
変異種が咆哮する。
至近距離。
ガルドの身体が吹き飛ばされた。
酒場の壁へ叩きつけられる。
リリが悲鳴を上げた。
「ガルドのおっちゃん!」
ノアは歯を食いしばる。
強い。
さっきまでとは次元が違う。
しかも。
見られている。
変異種の認識が、自分へ向いているのが分かる。
獲物じゃない。
脅威として。
胸の奥が脈打った。
《喰え》
ノアの銀色の瞳が、雨の中で静かに光った。《喰え》
胸の奥で脈打つ声が、さっきよりはっきりしていた。
まるで喜んでいるみたいだった。
変異種の認識が揺らいだ瞬間、その動揺がそのままノアの中へ流れ込んでくる。怒り。警戒。そして、“理解できないもの”への恐怖。
ノアは息を呑んだ。
獣が、恐怖している。
自分を。
その事実に、ぞわりと背筋が粟立った。
変異種が低く唸る。周囲の黒牙犬達も落ち着かない様子で視線を揺らしている。群れの中心が揺らげば、全体が不安定になる。ノアはそれを、感覚として理解していた。
「……銀目。」
ガルドが斧を構えたまま低く言う。
「今、何しやがった。」
ノアは目を離さないまま答えた。
「分かんない。」
「分かんねぇことを戦闘中にやるな。」
「俺もそう思う。」
変異種が咆哮する。
空気が震えた。
その瞬間、周囲の黒牙犬達が再び動き出す。
今度は速い。
さっきより統率が強い。
ノアは舌打ちした。
揺らいでも、完全には崩れていない。
変異種はまだ群れの王だ。
黒牙犬が左右から飛びかかる。
ノアは身体を沈め、一匹の下を滑り込む。もう一匹の顎が肩を掠めた。傷口が裂ける。熱い痛み。
だが、止まれない。
着地と同時に足元の石を蹴り上げる。黒牙犬の目へ命中。怯んだところへナイフを突き込む。
血。
断末魔。
その瞬間、また感覚が流れ込んできた。
飢え。
恐怖。
群れへの服従。
ノアは顔を歪める。
頭へ無理やり他人の感情を押し込まれているみたいだった。
「……っ、クソ。」
気持ち悪い。
だが、分かる。
黒牙犬達が今どこを見ているか。
何を恐れているか。
どの瞬間に動きが鈍るか。
全部。
ノアは一瞬だけ、雨の中で立ち尽くした。
視界の端で、灰狼組の男が押し倒される。黒牙犬が喉へ噛みつこうとしている。
その瞬間、ノアは無意識に叫んでいた。
「そいつを見ろ!」
黒牙犬達の視線が、一瞬だけ変異種へ向いた。
ほんの僅か。
でも確かに。
“王”へ確認を取るみたいに。
ノアは目を見開く。
できた。
認識を誘導した。
ガルドもそれに気づいたらしい。
「今だァ!!」
巨大な斧が振り下ろされる。
変異種が咄嗟に受ける。
衝撃。
その隙に灰狼組の男達が一斉に黒牙犬へ反撃した。
「押し返せ!!」
「囲め!!」
「ガキ共を通すな!」
怒号が飛び交う。
第九区の人間は強くない。
騎士みたいな訓練も受けていない。
でも、生き汚い。
死にたくないという執念だけは異常だった。
ノアは息を切らしながら変異種を見る。
雨の中で、赤黒い目がこちらを睨んでいる。
完全に狙われていた。
変異種は理解したのだ。
群れを乱している中心がノアだと。
次の瞬間、変異種が消えた。
速い。
ノアは咄嗟に後ろへ飛ぶ。
直後、さっきまで立っていた場所が砕け散った。
石畳が爆発したみたいに弾ける。
ノアは地面を転がりながら立ち上がる。
間に合ってない。
速すぎる。
変異種の前脚が再び迫る。
避けられない。
そう思った瞬間。
横から火花が散った。
鉄。
剣。
セシリアではない。
第九区に騎士はいない。
そこにいたのは、長剣を持った女だった。
黒髪。
長身。
片目に傷。
灰狼組の幹部、レイン。
彼女は歯を食いしばりながら変異種の爪を受け止めていた。
「銀目! ボサッとしてんじゃない!」
ノアは即座に動いた。
レインの横を抜ける。
変異種の懐へ。
ナイフを逆手に握る。
狙うのは首じゃない。
目だ。
変異種が咆哮する。
ノアの殺気を感じた瞬間、頭を振る。
ナイフが頬を裂いた。
浅い。
だが赤黒い目がこちらへ向く。
その瞬間、ノアは笑った。
「見たな。」
銀色の瞳が光る。
変異種の認識が流れ込んでくる。
怒り。
敵意。
殺意。
そして、ノアを“危険”と認識した感覚。
ノアはそこへ指を突っ込むみたいに、自分の意識を滑り込ませた。
「お前。」
低く呟く。
「本当に勝てると思ってる?」
その瞬間、変異種の動きが止まった。
ほんの一瞬。
だが十分だった。
ガルドが吠える。
「潰せぇぇぇ!!」
巨大な斧が、変異種の肩へ叩き込まれる。
骨が砕ける音。
変異種が絶叫した。
周囲の黒牙犬達が一斉に怯む。
群れの認識が揺らいでいる。
ノアは理解した。
こいつらは“力”だけで従っているわけじゃない。
“王として認識している”から従っている。
なら。
その認識を崩せばいい。
ノアの胸の奥で、黒い何かが歓喜するように脈打った。
《喰え》
今度は、ノアも少しだけ笑った。
「……なるほどな。」「……なるほどな。」
ノアは雨の中で、小さく呟いた。
変異種の動きが見える。
完全に予測できるわけじゃない。だが、“どこへ意識を向けているか”が分かる。誰を警戒しているか。誰を脅威と認識しているか。
そして今、変異種の視線は完全にノアへ固定されていた。
ガルドが斧を引き抜く。黒い血が飛び散った。
変異種が咆哮する。
怒っている。
だが、その怒りの奥に、確かに恐怖が混じっていた。
「銀目ォ!!」
レインが叫ぶ。
「そいつ引きつけろ! 他を片付ける!」
「簡単に言うなぁ!」
変異種が突っ込んでくる。
ノアは咄嗟に横へ飛ぶ。地面が砕け、泥水が爆ぜた。直後、横から黒牙犬が飛びかかる。
速い。
だが今のノアには見える。
視線。
殺意。
飛び込む瞬間。
ノアは半歩だけ下がり、黒牙犬の勢いを逸らす。そのまま首へナイフを突き立てた。
血が飛ぶ。
また感覚が流れ込んでくる。
飢え。
群れ。
服従。
頭痛。
ノアは顔を歪めた。
「っ、クソ……。」
気持ち悪い。
でも、身体が慣れ始めている。
その事実が一番怖かった。
変異種が再び距離を詰める。黒い巨体が雨を裂きながら迫る。ノアは建物の壁を蹴って飛び上がった。
直後、変異種の爪が石壁を粉砕する。
破片が飛び散る。
ノアは空中で身体を捻り、変異種の背へ飛び乗った。
「銀目!?」
ガルドが目を見開く。
変異種が暴れる。
振り落とそうと身体を振る。
ノアは毛皮へナイフを突き刺し、必死にしがみついた。
近い。
近すぎる。
獣臭と血の臭いが鼻を刺す。
そして。
流れ込んでくる。
群れの認識。
何十もの黒牙犬達が、この変異種を“王”として見ている感覚。
絶対的な中心。
ノアは息を呑んだ。
《喰え》
また声。
胸の奥の黒い何かが、異様なほど強く脈打つ。
喰いたい。
そう思った。
その瞬間、自分でゾッとする。
何を?
認識を?
“王”を?
ノアは歯を食いしばった。
「ふざけんな……。」
変異種が建物へ身体を叩きつける。
衝撃。
ノアの背中に激痛が走る。
息が詰まる。
それでも離さない。
変異種の赤黒い目が、こちらを見上げた。
ノアはその目を真っ直ぐ睨み返す。
銀色の瞳。
雨の中で光る。
「お前さ。」
低く呟く。
「本当に“上”か?」
変異種の認識が揺れる。
ノアには分かった。
効いている。
こいつは“王”として成立している。だからこそ、“王じゃない”と揺さぶられるのが致命的なんだ。
《喰え》
ノアは無意識に、変異種の認識へ触れていた。
恐怖。
支配。
群れ。
それらが、黒い何かへ吸い込まれていく。
変異種が絶叫した。
周囲の黒牙犬達が、一斉に混乱する。
「今だァァ!!」
ガルドが突っ込む。
レインも続く。
灰狼組の連中が一斉に反撃へ転じた。
さっきまで押されていたのが嘘みたいだった。
黒牙犬達が怯んでいる。
群れの中心が揺らいでいる。
ノアは理解した。
これだ。
力じゃない。
認識。
“誰が上か”。
それが崩れれば、群れ全体が崩れる。
変異種が暴れる。
ノアは吹き飛ばされた。
泥水へ転がる。
痛い。
全身が痛い。
肩の傷から血が流れている。
それでもノアは立ち上がった。
変異種も傷だらけだった。
肩を砕かれ、目の横が裂け、息も荒い。
だがまだ倒れない。
赤黒い目が、真っ直ぐノアを見ている。
殺意。
憎悪。
恐怖。
全部が混ざっていた。
ルナが静かに近づいてくる。
「もう少し。」
ノアは息を切らしながら笑う。
「他人事みたいに言うな。」
「他人事じゃない。」
ルナは変異種を見る。
その赤い瞳に、ほんの少しだけ暗い感情が混じった。
「……似てる。」
「何が。」
「昔の。」
ノアは眉をひそめる。
だが聞き返す暇はなかった。
変異種が再び突っ込んでくる。
今度は真っ直ぐノアへ。
周囲が見えていない。
完全に怒りで突っ込んできている。
ノアは息を吸った。
見える。
認識が。
変異種はもう、“王”として戦っていない。
ただの怒った獣だ。
だったら。
崩せる。
ノアは泥水を蹴った。
真正面から突っ込む。
ガルドが怒鳴る。
「銀目!!」
変異種の顎が迫る。
ノアはギリギリまで引きつけた。
そして。
真っ直ぐ、その赤黒い目を見る。
「お前。」
銀色の瞳が光る。
「もう、終わってるよ。」
その瞬間、変異種の認識が崩れた。
ノアの胸の奥へ、大量の感覚が流れ込む。
恐怖。
孤独。
飢え。
王であろうとした執念。
頭が割れそうになる。
だがノアは歯を食いしばった。
逃がさない。
《喰え》
黒い何かが歓喜する。
変異種の動きが止まる。
ほんの一瞬。
だが十分だった。
ガルドの斧が振り下ろされる。
レインの剣が走る。
ノアのナイフが、変異種の喉奥へ突き刺さる。
絶叫。
血。
雨。
次の瞬間、変異種の巨体が崩れ落ちた。
地面が揺れる。
静寂。
雨音だけが残る。
周囲の黒牙犬達が後退する。
怯えている。
群れの王が死んだ。
その認識が、群れ全体へ伝染していた。
やがて一匹が逃げた。
それを合図みたいに、黒牙犬達が一斉に散っていく。
誰も追わなかった。
そんな余裕はない。
第九区はボロボロだった。
崩れた建物。
血まみれの路地。
倒れた人間達。
泣き声。
呻き声。
ノアはその場へ膝をついた。
息が荒い。
頭が痛い。
胸の奥が熱い。
《喰え》
まだ声がする。
ノアは額を押さえた。
「……何なんだよ、これ。」
その時。
誰かの視線を感じた。
顔を上げる。
路地の奥。
雨の向こう側。
黒いローブの男が立っていた。
顔は見えない。
だが、確かにこちらを見ている。
ノアと目が合った瞬間、男は小さく笑った気がした。
次の瞬間には消えていた。
ノアは目を細める。
ルナも気づいていた。
赤い瞳が、暗い雨の向こうを見つめている。
「……始まった。」
小さな声だった。
でもその言葉だけ、妙に冷たく聞こえた。雨は、夜が深くなるほど強くなっていった。
第九区は酷い有様だった。
崩れた建物。血で黒く染まった路地。噛み裂かれた死体。泣いているガキ。呻く怪我人。灰狼組の連中が怒鳴りながら後処理を進めている。
だが、不思議なことに。
誰も“終わった”とは思っていなかった。
黒牙犬の群れは退いた。
変異種も死んだ。
それなのに、空気が重い。
何かが残っている。
ノアは酒場《黒鉄亭》の壁へ背中を預けながら、ゆっくり息を吐いた。
肩の傷が痛む。
包帯代わりに布を巻いているが、血はまだ止まり切っていない。
ジードが隣へ座り込む。
「生きてる?」
「微妙。」
「死にそうな顔してる。」
「痛い。」
「そりゃ噛まれてたし。」
ノアは頭を押さえた。
傷より問題なのは、こっちだった。
まだ残っている。
黒牙犬達の感覚。
恐怖。
飢え。
群れ。
特に最後、変異種から流れ込んできたものが酷かった。
頭の奥に残っている。
まるで、他人の感情がこびりついているみたいに。
気持ち悪い。
だが。
完全には嫌じゃなかった。
そこが一番怖い。
「銀目。」
ガルドが近づいてきた。
巨大な身体も血だらけだった。腕には深い裂傷があり、斧の刃も半分欠けている。
ノアは軽く手を上げる。
「お疲れ。」
ガルドは無言でノアの頭を掴んだ。
「痛っ。」
「馬鹿野郎。」
低い声だった。
本気で怒っている時の声。
「誰が真正面から突っ込めっつった。」
「いや、あれは流れで。」
「死んでたぞ。」
「まだ生きてる。」
「結果論だ。」
ガルドは数秒黙り、それから大きく息を吐いた。
「……助かった。」
ノアは少し目を瞬かせる。
ガルドがそんな真面目に礼を言うのは珍しい。
周囲の灰狼組の連中も、ちらちらこちらを見ていた。
視線。
感謝。
驚き。
畏怖。
ノアは少しだけ居心地悪そうに眉をひそめる。
「やめて。」
「何がだ。」
「そういう目。」
ガルドは鼻を鳴らす。
「今さらだろ。」
ノアは黙る。
第九区では、“役に立つ奴”の価値は重い。
今日のノアは、確実に役に立った。
それも、誰より。
だから周囲の認識が変わっている。
ノアはそれを、妙にはっきり感じ取れてしまう。
《蓄積値:13》
頭の奥で、微かな声が響いた。
ノアの表情が固まる。
数字。
今まで聞こえなかったもの。
ルナがすぐ気づいた。
「聞こえた?」
ノアは小さく頷く。
ルナの顔が少し曇る。
「……早い。」
「何が。」
ルナは少し迷って、それから言った。
「馴染み始めてる。」
答えになっていない。
だが今のノアには、それを追及する余裕がなかった。
酒場の中では怪我人の治療が始まっていた。まともな治癒術師なんて第九区にはいない。傷口を焼いて塞ぐか、酒をぶっかけるか、その程度だ。
悲鳴が響く。
リリが泣きながら包帯を運んでいた。
ノアは立ち上がる。
「手伝う。」
ガルドが少し意外そうな顔をする。
「珍しいな。」
「人手足りないし。」
「優しいじゃねぇか。」
ノアは露骨に嫌そうな顔をした。
「やめろ。気持ち悪い。」
ガルドは笑った。
その夜、第九区は眠らなかった。
死体の処理。
怪我人の手当て。
壊れた建物の補強。
灰狼組だけでは足りず、住民達まで動いていた。
第九区の人間は、生き残る時だけ妙に団結する。
ノアは酒場の裏で、血のついた水桶を運んでいた。
疲れている。
全身が重い。
だが、頭だけ妙に冴えていた。
見える。
周囲の視線が。
感謝。
恐怖。
期待。
全部。
それが、自然に分かる。
ノアは舌打ちした。
「ほんと気持ち悪いな。」
その時、後ろから声がした。
「でも嫌じゃない。」
ルナだった。
いつの間にか立っている。
赤い瞳が、静かにノアを見ていた。
ノアは眉をひそめる。
「盗み聞き?」
「顔に書いてある。」
「便利だね。」
「ノアが分かりやすすぎる。」
ルナは水桶を受け取り、隣へ並ぶ。
しばらく無言で歩く。
雨は少し弱くなっていた。
崩れた路地を、水が静かに流れている。
やがてノアが小さく言った。
「……あれ、何だったんだろうな。」
ルナはすぐ分かったらしい。
「力?」
「うん。」
少し沈黙。
ルナは空を見上げる。
雨雲。
暗い夜。
星は見えない。
「“星”に近い力。」
ノアは目を細めた。
「星?」
「この世界の外側。」
意味が分からない。
だが、ルナは冗談を言っていなかった。
「人は、本来そこへ触れられない。」
「じゃあ俺は?」
ルナはノアを見る。
赤い瞳が、少しだけ悲しそうに揺れた。
「触れ始めてる。」
ノアは黙る。
世界の外側。
星。
認識。
黒い声。
全部、意味不明だった。
でも一つだけ確かなことがある。
今日、自分は変わった。
もう元には戻れない。
その感覚だけは、嫌なほど分かっていた。
酒場へ戻ると、ガルド達が地図を広げていた。
第九区の簡単な見取り図。
東通りが赤く塗られている。
被害が集中した場所だ。
レインが腕を組みながら言う。
「妙なんだよ。」
「何が。」
ノアが近づく。
レインは地図を指差した。
「群れの動き。」
「普通じゃない?」
「普通の黒牙犬は、ここまで統率されねぇ。」
ガルドも頷く。
「あの変異種だけじゃ説明つかねぇ。」
ノアは、雨の向こうにいた黒ローブの男を思い出した。
あれは何だったのか。
偶然じゃない気がする。
その時、酒場の扉が開いた。
全員が振り向く。
入ってきたのは、一人の男だった。
長い外套。
濡れたブーツ。
細い身体。
顔には疲労が滲んでいる。
そして胸元には、王国騎士団の紋章。
第九区の空気が一瞬で変わった。
警戒。
敵意。
嫌悪。
騎士は基本的に第九区へ来ない。
来る時は、徴収か粛清だ。
男は周囲の視線を受けながら、静かに言った。
「灰狼組の責任者はいるか。」
ガルドが前へ出る。
「俺だ。」
騎士は一枚の封書を取り出した。
王家の印章入り。
「王立魔導学院より通達だ。」
酒場が静まり返る。
王立魔導学院。
第九区の人間には、ほとんど縁のない場所だった。
騎士は続ける。
「黒牙犬変異種討伐、および異常認識現象確認により、該当者を王都中央へ召喚する。」
ノアは眉をひそめる。
嫌な予感しかしない。
騎士の視線が、真っ直ぐこちらへ向いた。
「ノア・アルクライト。」
酒場の空気が変わる。
騎士は静かに言った。
「お前に、学院入学資格が与えられた。」
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
ノア自身も。




