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星喰らいの王  作者: のあずぅあーくぅ
2/54

第一章 灰狼組

酒場の空気が止まっていた。


第九区の人間は、基本的に他人の話を真面目に聞かない。


誰かが死ぬと言われても「そうか」で終わるし、明日世界が終わると言われても酒を飲む。実際、第九区では明日生きてる保証なんて最初からない。


だからこそ。


今この場が静まっていること自体が異常だった。


白髪の少女は、それだけ場違いだった。


ガルドが眉間へ皺を寄せる。


「嬢ちゃん。」


低い声だった。


「誰の差し金だ。」


少女は即答した。


「違う。」


「なら何者だ。」


「ルナ。」


「名前聞いてんじゃねぇ。」


酒場の奥で誰かが笑う。


だが空気は軽くならない。


ルナは静かだった。


赤い瞳だけが妙に冷たい。


ノアはその視線を見ながら、胸の奥のざわつきを誤魔化すように笑った。


「今夜壊れるって?」


ルナはノアから視線を逸らさない。


「黒牙犬が来る。」


その瞬間、酒場の空気が少し変わった。


何人かの顔色が変わる。


ノアはそれを見逃さなかった。


黒牙犬。


第九区周辺で時々目撃される魔獣だ。


普通の犬より大きく、黒い毛皮と異常な顎を持つ。群れで動き、人を喰う。貴族街近くには結界があるため滅多に現れないが、第九区外縁ではたまに被害が出る。


だが。


「今夜、ここへ?」


ガルドの声が低くなる。


ルナは頷いた。


「群れ。」


「どこ情報だ。」


「見た。」


「……斥候か?」


「違う。」


「じゃあ何だ。」


少しだけ間が空いた。


ルナは静かに言う。


「覚えてる。」


意味が分からなかった。


酒場の連中も怪訝な顔をする。


ノアだけは、妙にその言葉が引っかかった。


覚えてる。


まるで。


“既に起きたこと”みたいな言い方。


ガルドが舌打ちする。


「くだらねぇ。」


酒を一気に飲み干し、机へ叩きつけた。


「黒牙犬なんざ今さら怖くねぇよ。灰狼組だけで何度追い返したと思ってやがる。」


「今回は違う。」


ルナの声は変わらない。


静かで。


確信している。


「今夜のは、多い。」


酒場の空気が少しだけ冷えた。


ガルドは数秒黙った後、鼻を鳴らす。


「……仮に本当だとして、何で銀目に言う。」


ルナはノアを見る。


「この人が必要だから。」


その瞬間、周囲の視線がノアへ集まった。


ノアは露骨に嫌そうな顔をする。


「やめて。」


「必要。」


「怖い。」


「でも必要。」


「その言い方ちょっと傷つくな。」


酒場の奥でまた笑いが起きる。


空気が少しだけ戻った。


だがガルドは笑っていなかった。


鋭い片目でルナを見る。


「嬢ちゃん。」


「何。」


「第九区の外から来たな。」


「……。」


「どこの人間だ。」


少し沈黙。


そしてルナは言った。


「どこでもない。」


ガルドの目が細くなる。


その返答は、第九区では一番危険な部類だった。


所属不明。


後ろ盾不明。


目的不明。


つまり厄介事だ。


ガルドはノアへ視線を向ける。


「銀目。」


「はい。」


「お前どう思う。」


突然振られた。


ノアは少し考える。


それからルナを見る。


綺麗な少女。


でもそれだけじゃない。


何かがおかしい。


立ち方。


空気。


視線。


それに。


さっきから胸の奥の“何か”が反応している。


黒い脈動。


冷たい感覚。


《――適合認識》


また微かに聞こえた。


ノアは眉をひそめる。


気持ち悪い。


でも。


嫌ではなかった。


ノアは肩を竦める。


「嘘は言ってなさそう。」


ガルドが眉を上げる。


「分かんのか?」


「なんとなく。」


「適当じゃねぇだろうな。」


「第九区で生きるのに必要なのは、強さより“誰が嘘ついてるか”だから。」


それはノアの実感だった。


第九区では皆嘘をつく。


騙す。


誤魔化す。


隠す。


正直者は死ぬ。


だからノアは、人の空気を見る癖がある。


視線。


声。


間。


沈黙。


そういうものを読む。


そしてルナは――少なくとも今は、本気だった。


ガルドは数秒黙り、やがて大きくため息を吐いた。


「……分かった。」


周囲がざわつく。


「ガルド、信じるのか?」


「半分だ。」


ガルドは立ち上がる。


巨体が軋むように動いた。


「だが第九区じゃ、“最悪を想定する”のは間違いじゃねぇ。」


そのまま周囲へ怒鳴る。


「お前ら! 外縁見回り増やせ! 武器庫開けろ! ガキ共は地下へ下げろ!」


酒場の空気が一気に変わった。


さっきまで酒を飲んでいた連中が動き出す。


第九区は腐っている。


でも、生き残るための勘だけは鋭い。


ガルドが本気で動く時は、大体ロクなことが起きない。


リリが不安そうにノアの袖を掴む。


「銀目……。」


ノアは頭を撫でる。


「大丈夫。」


「ほんと?」


「多分。」


「その返事やだ。」


ノアは笑った。


その時。


ルナが小さく呟いた。


「……遅い。」


ノアが振り向く。


「何が?」


ルナは扉の方を見ていた。


赤い瞳が細くなる。


「もう来てる。」


次の瞬間。


遠くで悲鳴が上がった。


酒場の空気が凍る。


そして。


外から、獣の咆哮が響いた。咆哮は、普通の獣の声じゃなかった。


低く。


濁っていて。


腹の奥を直接揺らすみたいな音だった。


酒場の空気が一瞬で変わる。


酔っ払いが立ち上がり、賭博していた連中が札を放り出し、灰狼組の男達が一斉に武器へ手を伸ばす。


ガルドが怒鳴った。


「配置につけ!!」


その声だけで全員が動く。


第九区では、判断が遅い奴から死ぬ。


ノアも外套の内側へ手を入れ、小型ナイフを取り出した。


安物だ。


でも使い慣れている。


ルナがそれを見て眉をひそめる。


「それで戦うの?」


「貧乏だから。」


「死ぬよ。」


「まだ死んでない。」


「これから死ぬ。」


「縁起悪いな。」


ノアは軽口を叩きながらも、身体の奥に嫌な汗を感じていた。


空気がおかしい。


第九区は危険な場所だ。


喧嘩も殺しも珍しくない。


でも今のこれは違う。


もっと原始的な恐怖。


“人間の外側”にいるものへの本能的な嫌悪感。


また咆哮が響く。


今度は近い。


酒場の窓が震えた。


外から怒鳴り声が飛ぶ。


「東通りだ!!」


「数が多い!!」


「何だあれ――ッ!?」


悲鳴。


何かが引き裂かれる音。


酒場の空気がさらに張り詰める。


ガルドが斧を掴んだ。


巨大な両刃斧。


長年使い込まれ、刃が黒ずんでいる。


「銀目。」


「ん。」


「ガキ共を地下へ運べ。」


「前線じゃなくて?」


「まだお前に前は任せねぇ。」


ノアは少し笑った。


「過保護。」


「勘違いすんな。死なれると後味悪ぃだけだ。」


ガルドはそのまま酒場を飛び出していく。


灰狼組の連中も続く。


ノアはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。


その時。


ルナがノアの袖を掴む。


「前。」


「ん?」


「行った方がいい。」


ノアは眉を上げる。


「ガルドに止められたけど。」


「ガルドじゃ止められない。」


その声は静かだった。


でも妙に確信している。


ノアはルナを見る。


赤い瞳。


揺れていない。


まるで、“知っている”みたいだった。


「……何なんだよ、お前。」


ルナは少しだけ黙った。


それから言う。


「今は、ルナ。」


答えになっていない。


だがそれ以上聞く暇はなかった。


外から爆音が響いた。


壁が揺れる。


酒場の奥で誰かが叫ぶ。


「門が破られた!!」


空気が凍る。


ノアは即座に走った。


扉を蹴り開け、外へ飛び出す。


冷たい雨。


泥。


怒鳴り声。


そして。


血の臭い。


第九区東通り。


そこが地獄になっていた。


黒い獣。


普通の犬じゃない。


大きい。


馬ほどではないが、人間より明らかに大きい。


黒い毛皮。


裂けた口。


異常なほど長い牙。


赤い目。


黒牙犬。


しかも一匹じゃない。


十。


二十。


いや、もっと。


群れだ。


灰狼組の男達が応戦している。


鉄パイプ。


斧。


剣。


だが押されていた。


黒牙犬は速い。


異常なほど。


一匹が跳びかかる。


男の喉笛を噛み千切る。


血が飛ぶ。


別の一匹が窓から建物へ飛び込む。


悲鳴。


ノアは思わず舌打ちした。


「多すぎるだろ。」


ルナが後ろから言う。


「まだ増える。」


「最悪。」


黒牙犬の一匹がノアへ気づく。


赤い目。


次の瞬間、飛びかかってきた。


速い。


ノアは咄嗟に横へ転がる。


牙が頬を掠めた。


熱い。


切れた。


黒牙犬が着地し、すぐ振り返る。


低い唸り声。


ノアはナイフを構えた。


勝てる気はしない。


正面からやれば死ぬ。


でも。


逃げても後ろにはガキ達がいる。


「ほんと面倒だな……!」


黒牙犬が突進する。


ノアはギリギリまで引きつけた。


右へ避ける。


同時に、首筋へナイフを突き立てる。


浅い。


硬い。


だが黒牙犬の動きが一瞬止まる。


その瞬間。


横から鉄棒が叩き込まれた。


ガキだった。


第九区の少年。


十四くらい。


痩せた身体。


でも目は死んでない。


「銀目!!」


「ジード!」


ジードが叫ぶ。


「西側も破られてる!!」


「マジかよ!」


「クソ多い!!」


黒牙犬が再び飛びかかる。


ノアはジードを突き飛ばした。


牙。


熱。


肩へ激痛が走る。


噛まれた。


ノアは顔を歪める。


黒牙犬の牙が肩へ食い込んでいる。


血が溢れる。


痛い。


かなり。


黒牙犬の赤い目が目の前にある。


臭い。


獣臭。


腐臭。


ノアは奥歯を噛んだ。


その瞬間。


胸の奥が、脈打った。


黒く。


冷たく。


今までより強く。


《――認識を確認》


頭の中で声が響く。


ノアの視界が、一瞬だけ揺れた。


黒牙犬の“視線”が見える。


敵意。


飢え。


捕食。


そして。


“ノアを獲物だと認識している”。


その感覚が、なぜか分かった。


ノアは息を呑む。


何だこれ。


その瞬間。


胸の奥の黒い何かが、囁いた。


《喰え》


世界が、一瞬だけ静かになった。


《喰え》


その声が頭の奥へ落ちた瞬間、ノアは呼吸を忘れた。


時間が止まったみたいだった。


雨音が遠い。


怒鳴り声も、悲鳴も、全部が膜一枚向こう側へ押しやられる。


見える。


黒牙犬の視線が。


赤い目。


飢え。


獲物を見る感覚。


噛み砕きたいという本能。


その認識が、妙にはっきり流れ込んでくる。


ノアは歯を食いしばった。


何だこれ。


気持ち悪い。


でも。


分かる。


黒牙犬が今どこへ力を入れているか。


次にどこへ動くか。


どの瞬間、牙が緩むか。


全部。


黒牙犬が再び顎へ力を込める。


肩の肉が裂ける感覚。


痛み。


普通なら悲鳴を上げてる。


でも今のノアは、なぜか冷静だった。


頭の奥で、黒い何かが脈打っている。


《喰え》


また声。


次の瞬間。


ノアは反射的に、黒牙犬の赤い目を睨み返した。


銀色の瞳。


黒牙犬の動きが、一瞬だけ止まる。


ノアは理解した。


“怯んだ”。


獲物を見る側だった認識が、ほんの一瞬だけ崩れた。


ノアはその隙へ指を突っ込むみたいに、感覚を滑り込ませる。


視線。


敵意。


恐怖。


そこへ。


《喰え》


胸の奥が熱くなった。


黒牙犬の目が揺れる。


そして次の瞬間。


ノアの中へ、“何か”が流れ込んできた。


熱。


飢え。


獣の本能。


血肉を裂く感覚。


意味不明な情報の洪水。


ノアは思わず息を呑んだ。


黒牙犬が悲鳴みたいな声を上げる。


牙の力が抜けた。


ノアは即座に身体を捻り、ナイフを喉奥へ突き込む。


柔らかい感触。


血。


黒牙犬が暴れる。


だが動きが鈍い。


ノアはさらに押し込んだ。


刃が脳へ届く。


黒牙犬が崩れ落ちた。


静寂。


いや、周囲はまだ戦場だ。


でもノアだけが、一瞬そこから切り離されたみたいだった。


息が荒い。


肩が痛い。


でも、それ以上に。


身体の奥が熱い。


何かを飲み込んだ感覚。


黒牙犬の死体を見下ろしながら、ノアは小さく呟いた。


「……何だよ、今の。」


ルナがすぐ横へ来ていた。


赤い瞳が、倒れた黒牙犬とノアを交互に見る。


その顔は驚いていない。


むしろ。


“やっぱり”という顔だった。


ノアは眉をひそめる。


「知ってたのか。」


ルナは少しだけ黙った。


それから小さく言う。


「……始まった。」


答えになっていない。


その時、遠くで爆音が響いた。


東側のバリケードが崩れた。


灰狼組の男達が吹き飛ばされる。


ガルドが怒鳴っていた。


「下がれ!!」


ノアはそちらを見る。


そして、目を見開いた。


デカい。


普通の黒牙犬じゃない。


二回りは大きい。


黒い毛皮。


異常に発達した前脚。


裂けた口から蒸気みたいな息を吐いている。


その周囲だけ空気が重い。


まるで“群れの王”みたいだった。


ジードが青ざめる。


「何だよあれ……。」


ルナが低く言った。


「黒牙王。」


ノアが振り向く。


「名前付き?」


「群れの中心。」


黒牙王が咆哮する。


その瞬間、周囲の黒牙犬達が一斉に動いた。


統率。


さっきまでの獣的な動きじゃない。


完全に指揮されている。


灰狼組が押し込まれる。


男が一人、建物へ叩きつけられた。


骨の砕ける音。


ガルドが斧で応戦している。


だが押されていた。


黒牙王の一撃は重い。


普通の人間じゃ止められない。


ノアは息を吐いた。


「……勝てなくない?」


「普通は無理。」


「普通じゃないなら?」


ルナはノアを見る。


「できる。」


その言葉に、ノアは少し顔を歪めた。


期待。


信頼。


そういうものを向けられるのは、あまり好きじゃない。


でも。


嫌でもなかった。


黒牙王がガルドへ飛びかかる。


ガルドが斧で受ける。


衝撃。


地面が砕ける。


ガルドの身体が押し込まれる。


「ぐっ……!」


ノアは走った。


考えるより先に身体が動いていた。


泥水を蹴る。


黒牙王の側面へ回り込む。


ナイフを構える。


その瞬間、また胸の奥が脈打った。


《喰え》


ノアは歯を食いしばる。


うるさい。


でも。


今は使える。


ノアは黒牙王を見る。


見える。


周囲の黒牙犬達の視線。


恐怖。


服従。


“王”として認識されている。


その中心が、あの獣だ。


ノアは理解した。


だったら。


そこを崩せばいい。


ノアは地面を蹴った。


黒牙王が振り向く。


赤い目。


巨大な顎。


普通なら恐怖で止まる。


でも今のノアは違った。


黒牙王の“認識”が見えている。


獲物。


雑魚。


脅威ではない。


だから。


その認識を壊す。


ノアは笑った。


「なぁ。」


黒牙王の目を真っ直ぐ見る。


銀色の瞳が光る。


「お前、本当に上か?」


その瞬間。


黒牙王の動きが、一瞬だけ止まった。


ほんの僅か。


でも確かに。


群れの王としての認識が揺らいだ。


ノア自身、何をしたのか分からない。


ただ。


“そう感じさせた”。


それだけだった。


だが十分だった。


ガルドが吠える。


「銀目ォ!!」


巨大な斧が振り下ろされる。


黒牙王の肩へ直撃。


骨が砕ける音。


黒牙王が咆哮する。


ノアは即座に飛び込み、ナイフを首筋へ突き立てた。


血が噴き出す。


熱い。


黒い。


普通の獣より濃い血。


その瞬間。


ノアの胸の奥へ、また大量の“何か”が流れ込んできた。


飢え。


怒り。


支配。


群れ。


王。


頭が割れそうになる。


ノアは思わず膝をついた。


視界が揺れる。


耳鳴り。


雨音が遠い。


黒牙王の咆哮が聞こえる。


だが妙だった。


さっきより弱い。


周囲を見る。


黒牙犬達が揺れていた。


戸惑っている。


群れの中心が崩れた。


その認識が伝染している。


ノアは息を呑む。


「……マジかよ。」


ルナが静かに呟いた。


「認識を喰ってる。」


ノアは顔を上げる。


「何それ。」


ルナは答えない。


ただ。


赤い瞳だけが、ひどく暗かった。




黒牙王が暴れる。巨大な前脚が地面を砕き、泥と血が跳ねた。ガルドが舌打ちしながら距離を取る。


「銀目! 何しやがった!」


ノアは答えられなかった。


頭が割れそうだった。


黒牙王から流れ込んできた感覚が、まだ身体の奥で暴れている。飢え。怒り。群れの中心として見られる感覚。無数の視線を向けられる感覚。


気持ち悪い。


でも同時に、妙な高揚感もあった。


《喰え》


また声が響く。


ノアは奥歯を噛み締める。


「……うるさい。」


黒牙王がこちらを見る。


赤い瞳。


だがさっきまでとは違う。


警戒している。


恐れている。


ノアはそれを理解した瞬間、自分でも背筋が寒くなった。


見える。


相手が自分をどう認識しているかが、なんとなく分かる。


ルナが低く言った。


「まだ終わってない。」


次の瞬間、黒牙王が咆哮する。


周囲の黒牙犬達が一斉に動いた。


だが、さっきまでの統率はない。群れの中心が揺らいだせいで、動きが噛み合っていない。それでも数は多かった。


「西側から回ってるぞ!」


「ガキ達を地下へ!」


「押し返せ!!」


怒号が飛び交う。


黒牙犬の一匹が建物の窓から飛び込み、中から悲鳴が上がった。


ノアは反射的に走る。


肩の傷が痛む。


熱い。


でも止まれない。


建物へ飛び込むと、中では母親が子供を抱えて震えていた。黒牙犬が低く唸りながら距離を詰めている。


ノアはナイフを投げた。


目へ刺さる。


黒牙犬が暴れた。


その隙に横から鉄パイプが叩き込まれる。


「銀目!」


ジードだった。


十四くらいの痩せた少年。第九区のガキの中では腕っ節が強い。


ノアは即座に子供を抱え上げた。


「地下行け!」


母親が泣きながら頷く。


黒牙犬が再び起き上がる。


ノアは舌打ちした。


しぶとい。


普通の獣じゃない。


黒牙犬が飛びかかる。


ノアは咄嗟に視線を合わせた。


その瞬間、また感覚が流れ込む。


敵意。


殺意。


捕食。


だが今度は、ノアも押し返した。


「――止まれ。」


黒牙犬の動きが、一瞬だけ鈍る。


ノア自身、何をしたのか分からなかった。ただ、“そう認識させた”。


その隙にジードが鉄パイプを振り下ろす。


骨が砕ける音。


黒牙犬が崩れ落ちた。


ジードが息を切らしながら叫ぶ。


「今の何だよ……!」


ノアも知りたかった。


「俺に聞くな!」


外ではまだ戦いが続いている。


雨は強くなっていた。


泥と血が混ざり、路地が黒く染まっている。


ノアが外へ出た瞬間、空気の異変に気づいた。


静かすぎる。


さっきまで暴れていた黒牙犬達が、少しずつ後退している。


いや、違う。


何かを警戒している。


ルナも気づいていた。


赤い瞳が、通りの奥を見ている。


「……来る。」


低い声だった。


次の瞬間、遠くの建物が吹き飛んだ。


爆音。


石壁が崩れ、土煙が舞う。


その中から、“それ”は現れた。


デカい。


黒牙王よりさらに大きい。


異常なほど長い四肢。黒い毛皮。裂けた口。そして額に浮かぶ赤黒い紋様。


周囲の黒牙犬達が、一斉に頭を下げた。


ガルドの顔色が変わる。


「……冗談だろ。」


ルナが静かに呟く。


「変異種。」


ノアは目を細めた。


「普通のと何が違う。」


「人を喰いすぎた。」


空気が凍る。


変異種はゆっくり周囲を見回す。


その赤黒い目が、真っ直ぐノアを捉えた。


瞬間、背筋が粟立った。


今までの黒牙犬とは格が違う。


知性がある。


敵を理解している目だ。


変異種がゆっくり口を開く。


滴る唾液。


覗く牙。


そして次の瞬間、地面が爆ぜた。


速い。


巨体なのに、信じられない速度で突っ込んでくる。


ノアは咄嗟に横へ跳ぶ。


直後、背後の壁が粉砕された。


もし直撃していたら、人間なんて跡形も残らない。


ガルドが斧を振るう。


変異種が前脚で受け止める。


衝撃で周囲の地面が沈んだ。


ガルドの顔が歪む。


「硬ぇ……!」


変異種が咆哮する。


至近距離。


ガルドの身体が吹き飛ばされた。


酒場の壁へ叩きつけられる。


リリが悲鳴を上げた。


「ガルドのおっちゃん!」


ノアは歯を食いしばる。


強い。


さっきまでとは次元が違う。


しかも。


見られている。


変異種の認識が、自分へ向いているのが分かる。


獲物じゃない。


脅威として。


胸の奥が脈打った。


《喰え》


ノアの銀色の瞳が、雨の中で静かに光った。《喰え》


胸の奥で脈打つ声が、さっきよりはっきりしていた。


まるで喜んでいるみたいだった。


変異種の認識が揺らいだ瞬間、その動揺がそのままノアの中へ流れ込んでくる。怒り。警戒。そして、“理解できないもの”への恐怖。


ノアは息を呑んだ。


獣が、恐怖している。


自分を。


その事実に、ぞわりと背筋が粟立った。


変異種が低く唸る。周囲の黒牙犬達も落ち着かない様子で視線を揺らしている。群れの中心が揺らげば、全体が不安定になる。ノアはそれを、感覚として理解していた。


「……銀目。」


ガルドが斧を構えたまま低く言う。


「今、何しやがった。」


ノアは目を離さないまま答えた。


「分かんない。」


「分かんねぇことを戦闘中にやるな。」


「俺もそう思う。」


変異種が咆哮する。


空気が震えた。


その瞬間、周囲の黒牙犬達が再び動き出す。


今度は速い。


さっきより統率が強い。


ノアは舌打ちした。


揺らいでも、完全には崩れていない。


変異種はまだ群れの王だ。


黒牙犬が左右から飛びかかる。


ノアは身体を沈め、一匹の下を滑り込む。もう一匹の顎が肩を掠めた。傷口が裂ける。熱い痛み。


だが、止まれない。


着地と同時に足元の石を蹴り上げる。黒牙犬の目へ命中。怯んだところへナイフを突き込む。


血。


断末魔。


その瞬間、また感覚が流れ込んできた。


飢え。


恐怖。


群れへの服従。


ノアは顔を歪める。


頭へ無理やり他人の感情を押し込まれているみたいだった。


「……っ、クソ。」


気持ち悪い。


だが、分かる。


黒牙犬達が今どこを見ているか。


何を恐れているか。


どの瞬間に動きが鈍るか。


全部。


ノアは一瞬だけ、雨の中で立ち尽くした。


視界の端で、灰狼組の男が押し倒される。黒牙犬が喉へ噛みつこうとしている。


その瞬間、ノアは無意識に叫んでいた。


「そいつを見ろ!」


黒牙犬達の視線が、一瞬だけ変異種へ向いた。


ほんの僅か。


でも確かに。


“王”へ確認を取るみたいに。


ノアは目を見開く。


できた。


認識を誘導した。


ガルドもそれに気づいたらしい。


「今だァ!!」


巨大な斧が振り下ろされる。


変異種が咄嗟に受ける。


衝撃。


その隙に灰狼組の男達が一斉に黒牙犬へ反撃した。


「押し返せ!!」


「囲め!!」


「ガキ共を通すな!」


怒号が飛び交う。


第九区の人間は強くない。


騎士みたいな訓練も受けていない。


でも、生き汚い。


死にたくないという執念だけは異常だった。


ノアは息を切らしながら変異種を見る。


雨の中で、赤黒い目がこちらを睨んでいる。


完全に狙われていた。


変異種は理解したのだ。


群れを乱している中心がノアだと。


次の瞬間、変異種が消えた。


速い。


ノアは咄嗟に後ろへ飛ぶ。


直後、さっきまで立っていた場所が砕け散った。


石畳が爆発したみたいに弾ける。


ノアは地面を転がりながら立ち上がる。


間に合ってない。


速すぎる。


変異種の前脚が再び迫る。


避けられない。


そう思った瞬間。


横から火花が散った。


鉄。


剣。


セシリアではない。


第九区に騎士はいない。


そこにいたのは、長剣を持った女だった。


黒髪。


長身。


片目に傷。


灰狼組の幹部、レイン。


彼女は歯を食いしばりながら変異種の爪を受け止めていた。


「銀目! ボサッとしてんじゃない!」


ノアは即座に動いた。


レインの横を抜ける。


変異種の懐へ。


ナイフを逆手に握る。


狙うのは首じゃない。


目だ。


変異種が咆哮する。


ノアの殺気を感じた瞬間、頭を振る。


ナイフが頬を裂いた。


浅い。


だが赤黒い目がこちらへ向く。


その瞬間、ノアは笑った。


「見たな。」


銀色の瞳が光る。


変異種の認識が流れ込んでくる。


怒り。


敵意。


殺意。


そして、ノアを“危険”と認識した感覚。


ノアはそこへ指を突っ込むみたいに、自分の意識を滑り込ませた。


「お前。」


低く呟く。


「本当に勝てると思ってる?」


その瞬間、変異種の動きが止まった。


ほんの一瞬。


だが十分だった。


ガルドが吠える。


「潰せぇぇぇ!!」


巨大な斧が、変異種の肩へ叩き込まれる。


骨が砕ける音。


変異種が絶叫した。


周囲の黒牙犬達が一斉に怯む。


群れの認識が揺らいでいる。


ノアは理解した。


こいつらは“力”だけで従っているわけじゃない。


“王として認識している”から従っている。


なら。


その認識を崩せばいい。


ノアの胸の奥で、黒い何かが歓喜するように脈打った。


《喰え》


今度は、ノアも少しだけ笑った。


「……なるほどな。」「……なるほどな。」


ノアは雨の中で、小さく呟いた。


変異種の動きが見える。


完全に予測できるわけじゃない。だが、“どこへ意識を向けているか”が分かる。誰を警戒しているか。誰を脅威と認識しているか。


そして今、変異種の視線は完全にノアへ固定されていた。


ガルドが斧を引き抜く。黒い血が飛び散った。


変異種が咆哮する。


怒っている。


だが、その怒りの奥に、確かに恐怖が混じっていた。


「銀目ォ!!」


レインが叫ぶ。


「そいつ引きつけろ! 他を片付ける!」


「簡単に言うなぁ!」


変異種が突っ込んでくる。


ノアは咄嗟に横へ飛ぶ。地面が砕け、泥水が爆ぜた。直後、横から黒牙犬が飛びかかる。


速い。


だが今のノアには見える。


視線。


殺意。


飛び込む瞬間。


ノアは半歩だけ下がり、黒牙犬の勢いを逸らす。そのまま首へナイフを突き立てた。


血が飛ぶ。


また感覚が流れ込んでくる。


飢え。


群れ。


服従。


頭痛。


ノアは顔を歪めた。


「っ、クソ……。」


気持ち悪い。


でも、身体が慣れ始めている。


その事実が一番怖かった。


変異種が再び距離を詰める。黒い巨体が雨を裂きながら迫る。ノアは建物の壁を蹴って飛び上がった。


直後、変異種の爪が石壁を粉砕する。


破片が飛び散る。


ノアは空中で身体を捻り、変異種の背へ飛び乗った。


「銀目!?」


ガルドが目を見開く。


変異種が暴れる。


振り落とそうと身体を振る。


ノアは毛皮へナイフを突き刺し、必死にしがみついた。


近い。


近すぎる。


獣臭と血の臭いが鼻を刺す。


そして。


流れ込んでくる。


群れの認識。


何十もの黒牙犬達が、この変異種を“王”として見ている感覚。


絶対的な中心。


ノアは息を呑んだ。


《喰え》


また声。


胸の奥の黒い何かが、異様なほど強く脈打つ。


喰いたい。


そう思った。


その瞬間、自分でゾッとする。


何を?


認識を?


“王”を?


ノアは歯を食いしばった。


「ふざけんな……。」


変異種が建物へ身体を叩きつける。


衝撃。


ノアの背中に激痛が走る。


息が詰まる。


それでも離さない。


変異種の赤黒い目が、こちらを見上げた。


ノアはその目を真っ直ぐ睨み返す。


銀色の瞳。


雨の中で光る。


「お前さ。」


低く呟く。


「本当に“上”か?」


変異種の認識が揺れる。


ノアには分かった。


効いている。


こいつは“王”として成立している。だからこそ、“王じゃない”と揺さぶられるのが致命的なんだ。


《喰え》


ノアは無意識に、変異種の認識へ触れていた。


恐怖。


支配。


群れ。


それらが、黒い何かへ吸い込まれていく。


変異種が絶叫した。


周囲の黒牙犬達が、一斉に混乱する。


「今だァァ!!」


ガルドが突っ込む。


レインも続く。


灰狼組の連中が一斉に反撃へ転じた。


さっきまで押されていたのが嘘みたいだった。


黒牙犬達が怯んでいる。


群れの中心が揺らいでいる。


ノアは理解した。


これだ。


力じゃない。


認識。


“誰が上か”。


それが崩れれば、群れ全体が崩れる。


変異種が暴れる。


ノアは吹き飛ばされた。


泥水へ転がる。


痛い。


全身が痛い。


肩の傷から血が流れている。


それでもノアは立ち上がった。


変異種も傷だらけだった。


肩を砕かれ、目の横が裂け、息も荒い。


だがまだ倒れない。


赤黒い目が、真っ直ぐノアを見ている。


殺意。


憎悪。


恐怖。


全部が混ざっていた。


ルナが静かに近づいてくる。


「もう少し。」


ノアは息を切らしながら笑う。


「他人事みたいに言うな。」


「他人事じゃない。」


ルナは変異種を見る。


その赤い瞳に、ほんの少しだけ暗い感情が混じった。


「……似てる。」


「何が。」


「昔の。」


ノアは眉をひそめる。


だが聞き返す暇はなかった。


変異種が再び突っ込んでくる。


今度は真っ直ぐノアへ。


周囲が見えていない。


完全に怒りで突っ込んできている。


ノアは息を吸った。


見える。


認識が。


変異種はもう、“王”として戦っていない。


ただの怒った獣だ。


だったら。


崩せる。


ノアは泥水を蹴った。


真正面から突っ込む。


ガルドが怒鳴る。


「銀目!!」


変異種の顎が迫る。


ノアはギリギリまで引きつけた。


そして。


真っ直ぐ、その赤黒い目を見る。


「お前。」


銀色の瞳が光る。


「もう、終わってるよ。」


その瞬間、変異種の認識が崩れた。


ノアの胸の奥へ、大量の感覚が流れ込む。


恐怖。


孤独。


飢え。


王であろうとした執念。


頭が割れそうになる。


だがノアは歯を食いしばった。


逃がさない。


《喰え》


黒い何かが歓喜する。


変異種の動きが止まる。


ほんの一瞬。


だが十分だった。


ガルドの斧が振り下ろされる。


レインの剣が走る。


ノアのナイフが、変異種の喉奥へ突き刺さる。


絶叫。


血。


雨。


次の瞬間、変異種の巨体が崩れ落ちた。


地面が揺れる。


静寂。


雨音だけが残る。


周囲の黒牙犬達が後退する。


怯えている。


群れの王が死んだ。


その認識が、群れ全体へ伝染していた。


やがて一匹が逃げた。


それを合図みたいに、黒牙犬達が一斉に散っていく。


誰も追わなかった。


そんな余裕はない。


第九区はボロボロだった。


崩れた建物。


血まみれの路地。


倒れた人間達。


泣き声。


呻き声。


ノアはその場へ膝をついた。


息が荒い。


頭が痛い。


胸の奥が熱い。


《喰え》


まだ声がする。


ノアは額を押さえた。


「……何なんだよ、これ。」


その時。


誰かの視線を感じた。


顔を上げる。


路地の奥。


雨の向こう側。


黒いローブの男が立っていた。


顔は見えない。


だが、確かにこちらを見ている。


ノアと目が合った瞬間、男は小さく笑った気がした。


次の瞬間には消えていた。


ノアは目を細める。


ルナも気づいていた。


赤い瞳が、暗い雨の向こうを見つめている。


「……始まった。」


小さな声だった。


でもその言葉だけ、妙に冷たく聞こえた。雨は、夜が深くなるほど強くなっていった。


第九区は酷い有様だった。


崩れた建物。血で黒く染まった路地。噛み裂かれた死体。泣いているガキ。呻く怪我人。灰狼組の連中が怒鳴りながら後処理を進めている。


だが、不思議なことに。


誰も“終わった”とは思っていなかった。


黒牙犬の群れは退いた。


変異種も死んだ。


それなのに、空気が重い。


何かが残っている。


ノアは酒場《黒鉄亭》の壁へ背中を預けながら、ゆっくり息を吐いた。


肩の傷が痛む。


包帯代わりに布を巻いているが、血はまだ止まり切っていない。


ジードが隣へ座り込む。


「生きてる?」


「微妙。」


「死にそうな顔してる。」


「痛い。」


「そりゃ噛まれてたし。」


ノアは頭を押さえた。


傷より問題なのは、こっちだった。


まだ残っている。


黒牙犬達の感覚。


恐怖。


飢え。


群れ。


特に最後、変異種から流れ込んできたものが酷かった。


頭の奥に残っている。


まるで、他人の感情がこびりついているみたいに。


気持ち悪い。


だが。


完全には嫌じゃなかった。


そこが一番怖い。


「銀目。」


ガルドが近づいてきた。


巨大な身体も血だらけだった。腕には深い裂傷があり、斧の刃も半分欠けている。


ノアは軽く手を上げる。


「お疲れ。」


ガルドは無言でノアの頭を掴んだ。


「痛っ。」


「馬鹿野郎。」


低い声だった。


本気で怒っている時の声。


「誰が真正面から突っ込めっつった。」


「いや、あれは流れで。」


「死んでたぞ。」


「まだ生きてる。」


「結果論だ。」


ガルドは数秒黙り、それから大きく息を吐いた。


「……助かった。」


ノアは少し目を瞬かせる。


ガルドがそんな真面目に礼を言うのは珍しい。


周囲の灰狼組の連中も、ちらちらこちらを見ていた。


視線。


感謝。


驚き。


畏怖。


ノアは少しだけ居心地悪そうに眉をひそめる。


「やめて。」


「何がだ。」


「そういう目。」


ガルドは鼻を鳴らす。


「今さらだろ。」


ノアは黙る。


第九区では、“役に立つ奴”の価値は重い。


今日のノアは、確実に役に立った。


それも、誰より。


だから周囲の認識が変わっている。


ノアはそれを、妙にはっきり感じ取れてしまう。


《蓄積値:13》


頭の奥で、微かな声が響いた。


ノアの表情が固まる。


数字。


今まで聞こえなかったもの。


ルナがすぐ気づいた。


「聞こえた?」


ノアは小さく頷く。


ルナの顔が少し曇る。


「……早い。」


「何が。」


ルナは少し迷って、それから言った。


「馴染み始めてる。」


答えになっていない。


だが今のノアには、それを追及する余裕がなかった。


酒場の中では怪我人の治療が始まっていた。まともな治癒術師なんて第九区にはいない。傷口を焼いて塞ぐか、酒をぶっかけるか、その程度だ。


悲鳴が響く。


リリが泣きながら包帯を運んでいた。


ノアは立ち上がる。


「手伝う。」


ガルドが少し意外そうな顔をする。


「珍しいな。」


「人手足りないし。」


「優しいじゃねぇか。」


ノアは露骨に嫌そうな顔をした。


「やめろ。気持ち悪い。」


ガルドは笑った。


その夜、第九区は眠らなかった。


死体の処理。


怪我人の手当て。


壊れた建物の補強。


灰狼組だけでは足りず、住民達まで動いていた。


第九区の人間は、生き残る時だけ妙に団結する。


ノアは酒場の裏で、血のついた水桶を運んでいた。


疲れている。


全身が重い。


だが、頭だけ妙に冴えていた。


見える。


周囲の視線が。


感謝。


恐怖。


期待。


全部。


それが、自然に分かる。


ノアは舌打ちした。


「ほんと気持ち悪いな。」


その時、後ろから声がした。


「でも嫌じゃない。」


ルナだった。


いつの間にか立っている。


赤い瞳が、静かにノアを見ていた。


ノアは眉をひそめる。


「盗み聞き?」


「顔に書いてある。」


「便利だね。」


「ノアが分かりやすすぎる。」


ルナは水桶を受け取り、隣へ並ぶ。


しばらく無言で歩く。


雨は少し弱くなっていた。


崩れた路地を、水が静かに流れている。


やがてノアが小さく言った。


「……あれ、何だったんだろうな。」


ルナはすぐ分かったらしい。


「力?」


「うん。」


少し沈黙。


ルナは空を見上げる。


雨雲。


暗い夜。


星は見えない。


「“星”に近い力。」


ノアは目を細めた。


「星?」


「この世界の外側。」


意味が分からない。


だが、ルナは冗談を言っていなかった。


「人は、本来そこへ触れられない。」


「じゃあ俺は?」


ルナはノアを見る。


赤い瞳が、少しだけ悲しそうに揺れた。


「触れ始めてる。」


ノアは黙る。


世界の外側。


星。


認識。


黒い声。


全部、意味不明だった。


でも一つだけ確かなことがある。


今日、自分は変わった。


もう元には戻れない。


その感覚だけは、嫌なほど分かっていた。


酒場へ戻ると、ガルド達が地図を広げていた。


第九区の簡単な見取り図。


東通りが赤く塗られている。


被害が集中した場所だ。


レインが腕を組みながら言う。


「妙なんだよ。」


「何が。」


ノアが近づく。


レインは地図を指差した。


「群れの動き。」


「普通じゃない?」


「普通の黒牙犬は、ここまで統率されねぇ。」


ガルドも頷く。


「あの変異種だけじゃ説明つかねぇ。」


ノアは、雨の向こうにいた黒ローブの男を思い出した。


あれは何だったのか。


偶然じゃない気がする。


その時、酒場の扉が開いた。


全員が振り向く。


入ってきたのは、一人の男だった。


長い外套。


濡れたブーツ。


細い身体。


顔には疲労が滲んでいる。


そして胸元には、王国騎士団の紋章。


第九区の空気が一瞬で変わった。


警戒。


敵意。


嫌悪。


騎士は基本的に第九区へ来ない。


来る時は、徴収か粛清だ。


男は周囲の視線を受けながら、静かに言った。


「灰狼組の責任者はいるか。」


ガルドが前へ出る。


「俺だ。」


騎士は一枚の封書を取り出した。


王家の印章入り。


「王立魔導学院より通達だ。」


酒場が静まり返る。


王立魔導学院。


第九区の人間には、ほとんど縁のない場所だった。


騎士は続ける。


「黒牙犬変異種討伐、および異常認識現象確認により、該当者を王都中央へ召喚する。」


ノアは眉をひそめる。


嫌な予感しかしない。


騎士の視線が、真っ直ぐこちらへ向いた。


「ノア・アルクライト。」


酒場の空気が変わる。


騎士は静かに言った。


「お前に、学院入学資格が与えられた。」


誰も、すぐには言葉を出せなかった。


ノア自身も。

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