第1部 第九区の銀目 序章 泥の街
雨の日の第九区は腐っている。
鼻を刺す下水の臭い。崩れかけた木造建築。泥水を踏む音。酒臭い路地。怒鳴り声。笑い声。泣き声。誰かが殴られる音。遠くで鳴る割れた瓶の音。
王都の最底辺。
貴族街から流れ落ちた汚水が最後に辿り着く場所。
それが第九区だった。
ノア・アルクライトは、薄暗い路地裏を歩きながら小さく欠伸をした。
黒い外套。
安物の革靴。
ぼさぼさの黒髪。
そして銀色の瞳。
その目だけが妙に浮いていた。
だが第九区では珍しくない。
変な奴は多いからだ。
顔半分焼けた男。片腕のない女。薬で頭が壊れた浮浪者。逃亡奴隷。元騎士。殺し屋崩れ。親無しのガキ。
銀目くらいで驚く人間はいない。
皆、見ないふりをするだけだ。
ノアは肩へ背負った袋を持ち直した。
中には乾パンと酒瓶が数本。
今日の配達分だ。
第九区では、こういう細かい仕事を拾わないと食っていけない。
「おーい銀目ぇ!」
前方から声が飛んできた。
振り返ると、小柄な少女が泥水を蹴りながら走ってくる。
茶髪。
痩せた身体。
欠けた前歯。
第九区らしいガキだった。
ノアは片手を上げる。
「おはよ、リリ。」
「おはよじゃないよ! ガルドのおっちゃん探してた!」
「また?」
「今日は本当に怒ってた!」
ノアは少し考える。
「……上納金かな。」
「また誤魔化したの!?」
「誤魔化してない。」
「顔!」
「ちょっと借りただけ。」
「それ誤魔化してるって言うんだよ!」
ノアは笑った。
第九区を実質仕切っているのは、“灰狼組”という半分ギャングみたいな集団だった。治安維持、縄張り管理、違法取引、外部との仲介。汚い仕事を全部引き受けながら、この腐った街を最低限回している。
そしてノアは、その灰狼組に所属している。
正式構成員ではない。
雑用係。
使い走り。
一番下っ端。
ガルドという男に拾われて以来、何となく生き延びている。
リリがノアの袖を引っ張る。
「あと、今日は変な人来てる!」
「変な人?」
「すっごい綺麗な女の人!」
ノアは少し眉を上げた。
綺麗な女は第九区へ来ない。
来るとしても、迷い込んだ貴族か、死ぬ前の観光客だけだ。
「ふーん。」
「反応薄っ!」
「第九区って変人多いし。」
「でもほんとに綺麗だったんだって!」
「ガルドより?」
「比べる相手がおかしい!」
ノアは笑いながら歩き出した。
酒場《黒鉄亭》は、第九区中央の崩れかけた建物の一階にある。
元々は普通の酒場だったらしい。
今では半分灰狼組の拠点だ。
扉を開ける。
酒臭い。
朝なのにもう酔っ払いがいる。
奥では賭博。
床には吐瀉物。
テーブルでは喧嘩。
いつも通りだった。
「お、銀目。」
「今日も死んでねぇな。」
「金返せ。」
「返して。」
軽く挨拶を返しながら進む。
その途中で、空気が変わった。
視線。
静か。
奥の席に、“場違い”が座っていた。
白い髪。
赤い瞳。
黒い外套。
年齢はノアと同じくらい。
少女だった。
綺麗すぎる。
この街にいるには。
ノアは、その少女を見た瞬間、妙な感覚を覚えた。
胸の奥がざわつく。
知らないはずなのに、“知っている”。
その赤い瞳を。
その空気を。
その孤独を。
少女もノアを見ていた。
真っ直ぐ。
じっと。
確認するみたいに。
その瞬間。
ノアの胸の奥で、何かが脈打った。
黒く。
冷たく。
《――適合認識を検知》
ノアは足を止めた。
今。
何か聞こえた。
だが周囲は騒がしいままだ。
誰も気づいていない。
少女だけが、小さく目を細めた。
「……やっぱり。」
小さな声だった。
でも妙にはっきり聞こえた。
その時。
奥から怒鳴り声が飛んできた。
「銀目ぇぇぇぇ!!」
ガルドだった。
二メートル近い巨体。
傷だらけの顔。
灰色の髭。
片目。
第九区の獣みたいな男。
ノアは露骨に嫌そうな顔をした。
「おはよう。」
「上納金どこやった。」
「ちゃんとあります。」
「減ってんだよ!!」
「気のせい。」
「んなわけあるか!!」
酒場中が笑う。
いつもの光景。
ガルドはノアの頭を掴んだ。
「お前また賭博で増やそうとしたな!?」
「結果的に減りました。」
「知ってるわ!!」
ノアは笑いながら拘束を抜ける。
ガルドは本気で怒っていた。
でも本気で殴らない。
ノアはそれを知っている。
ガルドも、自分が拾ったガキを今さら捨てられないのだ。
そういう甘さがある。
第九区の人間にしては珍しく。
その時。
奥の少女が立ち上がった。
空気が変わる。
酒場の連中が静かになる。
少女はガルドへ向かって歩く。
「この人を借りる。」
ガルドが眉をひそめる。
「はぁ?」
「銀目。」
「……ノア?」
少女はノアを見る。
赤い瞳。
静かな声。
「あなた。」
その瞬間。
ノアの胸の奥がまた脈打つ。
黒い何か。
冷たい感覚。
少女は言った。
「死にたくなかったら、今日中に第九区を出て。」
酒場が静まり返る。
ノアは数秒黙る。
それから笑った。
「急だなぁ。」
少女は真顔だった。
「今夜、ここは壊れる。」
その言葉を聞いた瞬間。
ノアは初めて、“嫌な予感”を覚えた。




