8.ルバーブジャム
王子は目の前にいる自身の婚約者を殺したかもしれない男――ボシュエ卿――から視線を外すことができなかった。
一方のボシュエ卿もまた、王子を見据えていた。
「王子殿下、先ほどマーリン師から高度な魔道具である『溶ける毒針』の話を伺いましたが、私は事件はもっと単純だと考えています。それを明らかにするためには、私の嘘――昨夜の私の行動についてお話ししなければなりません」
暫しの沈黙の後、卿は切り出した。
「お気付きの通り、昨夜、私が皇太女殿下の側に上がらなかったと申し上げたのは嘘です。実際には、礼拝後からずっと殿下のお側――応接間の隣の控えの間におりました。控えの間の応接間側の壁には、マーリン師が設えた魔法の覗き窓があります。私は数ヶ月前に側仕えを始めて以来、来客がある度に、その覗き窓から応接間の様子を見守っていました。もちろん、神託が示唆した危機から殿下をお守りするためです。覗き窓が設けられたのは皇太女殿下の密命によるものなので、殿下とマーリン師、私の3名以外は、皇帝陛下ですらご存じありません」
エルンスト王子は目を見開いた。
婚約者として、これまで何度も皇太女の応接間を訪ねたが、覗き窓に気づいたことはなかった。
おそらく応接間からは見えないように魔法がかけられていたのだろう。
「皇太女殿下と客人との会話には、帝国の機密情報が含まれる可能性があるため、覗き窓からは応接間の音声が一切聞こえないよう魔法で調整されています。つまり、私が覗き窓越しに得られたのは、この目で見た情報のみです。しかし、それだけでも、昨夜はいくつものおかしなことに気づきました。しかし、それが警戒すべき違和感なのか否か、すぐには判別できなかったのが悔やまれます」
王子はボシュエ卿の言葉を聞きながら、膝の上でゆっくりと手を組んだ。
卿はそれを一瞥し、そのまま話を続けた。
「一つ目のおかしなことは、皇帝陛下と皇太女殿下が面会中に終始難しい顔をなさっていたことです。先ほど陛下は、殿下とは春の叙爵について話したとおっしゃいましたが、それだけであのような表情をなさるとは思えません。
二つ目は、フェール女侯が皇太女殿下と何事か議論なさった後、それまでテーブルの上に置いていた花器を急に殿下に手渡そうとしたことです。しかも、途中でキュイーヴル准将が到着すると即座に渡すのをやめてしまいました。
三つ目は、キュイーヴル准将が持参したカラーの花束を皇太女殿下に直接お渡しにならなかったことです。通常ご婦人に花束を贈るなら、まずは本人に直接手渡すのが自然です。それなのに、彼は何故か自分の母、筆頭女官キュイーヴル伯爵夫人に渡しました。しかし――」
ボシュエ卿はそこで一度言葉を切って顔を上げた。
「しかしながら、最もおかしなことは、最初の訪問者である皇帝陛下がいらっしゃる以前に起こりました。王子殿下、あなたはよくご存じのはずです」
ボシュエ卿はエルンスト王子を見据えた。
儚げな容姿からは考えられない射抜くような視線だった。
「あなたは皇帝陛下より前、午後8時半頃、皇太女殿下を訪ねています」
王子は視線を逸らさず、ただ沈黙を返した。
「あなたが正規の手順で皇太女殿下を訪問されたのなら、今頃皆があなたの訪問を知っています。しかし、あなたはそうなさらなかった。昨夜、あなたは応接間のテラスから忍び込んでいらしたのです」
王子は、皇太女の薨御の知らせを受けて以来、考えないようにしてきた事件当夜のことを思い返した。
中庭から見上げた満月。
窓に投げた小石。
テラスの窓を開けた皇太女の笑み。
“あら、エルンスト。一体どうしたの?”
王子もまた彼女に微笑みを返し、手に持っていた瓶を示した――。
「応接間に忍び込んだあなたは、まず皇太女殿下に何かを手渡しました――瓶入りのルバーブジャムです。殿下はその真っ赤なジャムを元から応接間に用意されていた紅茶と共に召し上がりました。そして、その後、お二人はテラスに出て何かお話しされていました。テラスに出てしまわれたお二人の様子は、私からはよく見えませんでしたが、暫くするとあなたはそのまま帰ってしまわれた。何故かルバーブジャムの瓶を持ったまま。皇太女殿下への贈り物であれば、置いて行くでしょう?あなたがそこまで吝嗇という噂も聞いたことがありません。よって、あなたがジャムを持ち帰った理由はただ一つ。そこに毒が仕込まれていたからです」
そう言ってボシュエ卿は目の前のテーブルに置かれているルバーブジャムの瓶を見た。
瓶の中のジャムはまるで鮮血のような赤だった。
「数時間後、その他の客人の応対を終えて寝室に入られた皇太女殿下は、急に私をお呼びになりました。私が駆け付けたとき、殿下は床に臥して苦しんでおいででした。殿下は私に応接間から銀の花器――当夜にフェール女侯が持参したものです――をとってくるようにお命じになりました。私が花器をお渡しすると、殿下はそれをすぐに私に返して、息も絶え絶えに『口をつけなさい』とおっしゃいました。主から渡された銀の盃に臣下が口をつければ『君臣の絆』が結ばれます。皇太女殿下は銀の花器を銀の盃代わりにしたのです。お苦しみの殿下を前に、私は従う他ありませんでした。そして、私の手首に刻印が現れたのを確認した殿下は、最期に『我が婚約者たるエルンスト王子をして、我が身に起こったことを調査させよ』とおっしゃったきり、遂に動かなくなりました」
ボシュエ卿の鬼気迫る語りに、王子は彼が真実を語っていると理解した。
最早、真実からは逃れらなかった。
王子は一度長く息を吐いてから口を開いた。
「ボシュエ卿、私は――」
「王子殿下、言い逃れをなさろうと思わないでください。何よりあなたには手段も動機もあるのですから」
ボシュエ卿が王子の言葉を遮って言った。
不意を突かれた王子は思わず眉を上げた。
「手段と……動機?一体何のことだろう?」
ボシュエ卿は淡々と続けた。
「まず、手段は明らかです。あなたが薬草学の知識をお持ちなのは周知の事実。宮殿の敷地内に薬園までお持ちです。そこで育てた薬草からルバーブジャムに仕込む毒を煎じるのは容易だったでしょう。あなたも皇太女殿下と共にジャムを召し上がっていましたが、自分にだけ解毒剤を用意するのも造作もなかったはずです。そして、動機はあなたが一番よくおわかりでしょう、王子殿下」
ボシュエ卿の鋭い言葉が王子を貫いた。
「キュイーヴル准将のことです」
――キュイーヴル准将。
その名を聞いて王子は胃がひっくり返るような感覚を覚えた。
「王子殿下、あなたは皇太女殿下とキュイーヴル准将が恋人同士だという噂を当然ご存知でしたね。彼の母は筆頭女官ですから『母の頼みで皇太女殿下の退屈しのぎのお相手をしている』という建前がありつつも、実際のところお二人は愛し合う仲だというのが、宮廷貴族たちの大方の見解……」
王子は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「もちろん、慣習上、皇太女殿下は一介の貴族でしかない准将殿と結婚することは叶いません。しかし、女帝や皇太女が、血筋と同盟のために結婚する外国の王族出身の夫とは別に、真の愛情で結ばれる寵臣を持つのも珍しくありません。しかし、高貴なあなたの矜持は、早くも結婚前から寵臣が存在することに耐えられなかった。違いますか?」
ボシュエ卿の推察は正解ではないが、しかし、間違ってもいなかった。
――動揺するな。
――交渉しろ。
――「政治的」に振る舞え。
王子はそう自分を叱咤し、喉の奥から声を絞り出した。
「話はわかった。しかし、それでどうする?このルバーブジャムを宮廷魔導士の検査に回せば、毒が検出されても、されなくても、アルジャン帝国とヴァルト王国の外交問題になる。どうだろう?まずは、私の話を聞いて――」
王子は言葉を続ける代わりに、青い瞳を大きく見開いた。
ボシュエ卿が目の前のルバーブジャムの瓶に迷いなく手を伸ばしたからだった。
彼はその蓋を捻って開けると瓶の中に残っていたジャムのほとんどをスプーンで掬って紅茶に溶かした。
王子が何か言葉を発する前に、卿はルバーブジャムで赤く染まった紅茶を一気に飲み干した。
そして、悠然と手元のナフキンで口元を拭ってから言った。
「王子殿下、私はルバーブジャムはあなたの大好物だと聞いていました。しかし、今朝からあなたは一度たりともこのジャムに手をお付けにならなかった……つまりは、これが昨夜皇太女殿下が召し上がった毒入りのジャムだということです。私が食べることを期待してテーブルに出していたのでしょう?今、私は瓶の中身をほとんど飲み干しましたからすぐに女神様の元にいけるはずです」
「ボシュエ卿、君は一体……?」
戸惑う王子にボシュエ卿は落ち着き払って言った。
「この国では神官殺しは必ず死刑になります。もちろん、皇族の殺害も重罪ではあります。しかし、動機が単なる嫉妬であれば、外交的配慮が働き、あなたは裁きを受けない可能性もある。しかし、女神様の僕たる神官殺しは宗教上の最大の罪。あなたがその身分により法の裁きを逃れたとしても、女神様のお力で必ず無残な死がもたらされます」
卿は瓶の中に僅かに残る赤いルバーブジャムを見つめていた。
「昨夜、私は皇太女殿下と急遽『君臣の絆』を結び『第一の臣下』として特別な絆を得ました。これは私にとっては最後の機会です。『第一の臣下』として主に殉ずることが、12年前と今回、いずれも神託を受けながら皇族をお救いできなかった父と私の2代に渡る罪への贖いなのです」
そう言い切るボシュエ卿に王子はただ黙することしかできなかった。
***
それからボシュエ卿は静かにそのときを待った。
刻一刻と時は過ぎていき、5分、10分、15分。遂には30分が経過した。
しかし、瓶に半分以上あったルバーブジャムをほとんど飲み込んだにもかかわらず、ボシュエ卿の身には何も起きなかった。
ただ、甘酸っぱい味が口の中に残っているだけだった。
40分が経過しようとしたとき、冷静さを取り戻したエルンスト王子が遂に沈黙を破った。
「……ボシュエ卿、もうおわかりかと思うが、そのルバーブジャムは毒入りではない。そもそも、私は皇太女殿下を殺していない」
ボシュエ卿は王子の言葉を信じなかった。
彼は、他にルバーブジャムの瓶がある可能性や王子が他の手段で皇太女殿下に毒を摂取させた可能性について考えを巡らせているようだった。
それを見たエルンスト王子は腹を決めた。
疑いを晴らすには、これまで隠していたことを明かすしかない。
王子は静かに切り出した。
「ボシュエ卿、これは私の独り言として聞いてもらいたいのだが――」
ボシュエ卿のアメジストの瞳が探るように王子を見たが、結局、ひとまずは口を挟まずに王子の話を聞くことにしたようだった。
「昨夜、私は帝室ご一家と共に、聖堂で祭日前夜の礼拝に出席した。そして、午後8時過ぎに自室に戻ると故国ヴァルト王国から取り寄せていたルバーブジャムが届いていた。皇太女殿下に差し上げると約束していたものだった。私は何故か翌日まで待つ気になれず、すぐにジャムの瓶を持って中央棟1階に向かった」
王子はそこで一度言葉を切ると、一つ息を吐いてから続けた。
「しかし、まだ婚約者でしかない外国の王子が夜に約束もなく皇太女殿下をお訪ねすれば、神聖な結婚に卑俗な情熱を持ち込んでいると誹りを受けかねない――そこで私はあろうことか殿下の応接間に忍び込むことを思いついてしまった。我ながらどうかしていた。私が中庭から皇太女殿下の応接間の窓に向かって小石を投げると、運よくお一人だった皇太女殿下が気づき、寛大にも室内に入れてくださったというわけだ」
ボシュエ卿は眉を寄せて王子の話を聞いていた。
王子は卿の反応に構わず先を続けた。
「あとは、君が見た通りだ。私は殿下にルバーブジャムを差し上げ、共に食した。そして、私たちはテラスで話すことになり――昨夜の満月は格別に美しかったから。いつもより個人的な会話を交わした。皇太女殿下はこれから帝国を背負う重責について話し、飢えるものがいない国を作りたいと語られた。一方の私は、幼い頃病気で亡くなった妹のことを語った。妹の死以来、私にはある構想がある。皇太女殿下は私の構想を実現するための費用を私費で寄付しても良いとおっしゃった。それで、私は浮かれていた……。そうして、お暇するべき時刻になり、私は来たときと同じくテラスから帰ろうとして――とんでもない過ちを犯した」
王子は暫し躊躇った後、半ば諦めたように告げた。
「私は、一時の高揚に身を任せて畏れ多くも皇太女殿下に口づけてしまった……」
それを聞いたボシュエ卿は二、三度瞬きをした。
アルジャン帝国では、未婚の男女の恋愛も一定程度認められるが、節度を保つことが前提だ。
噂になっている皇太女殿下とキュイーヴル准将の関係も、一応彼らが常に第三者の同席の下で会い、少なくとも表向きは精神的な関わりに留まっているからこそ黙認されてきたのだ。
それを考えると王子の「口づけ」は行き過ぎではある。
とはいえ、皇太女と王子は既に月女神の祝福を受けた婚約者同士なので、ほとんど夫婦と言っても良い間柄ではある。
よって、「口づけ」は褒められたことでもないが、大罪を犯したかのように告白することでもない。
ボシュエ卿は、先ほどまでの勢いを忘れて遠慮がちに尋ねた。
「王子殿下……それを『とんでもない過ち』というのは些か言い過ぎでは?何故そんな風に思うのです?」
王子の頬にはほんの僅かに赤みが差していた。
「そんなのわかりきったことだろう。君だってさっき言ったじゃないか。皇太女殿下とキュイーヴル准将はお互いに想い合っているという話だった……。つまり、私は他に想い人のいる女性の気持ちを無視して口づけをしてしまったのだ。間もなく私と政略結婚しなければならない彼女にとって今が最後の自由な時なのに、それを奪ったんだ……」
王子はため息交じりに言ったが、ボシュエ卿はただ眉を上げただけだった。
「ともかく、私はそれですっかり気が動転してしまった。それで、殿下が手に持っていたジャムの瓶を何故か受け取り、そのまま自分の部屋へと帰ったというわけだ……こうして言葉にすると何とも滑稽だが」
昨夜、満月に照らされた中庭へとテラスの階段を駆け下りた王子に向けて皇太女は言った。
“エルンスト、待って!高度に政治的なことで話しておきたかったことが――”
“エルンスト、私はあなたを――”
その言葉を背中で受けながら、王子は故郷で聞いた古い夜明曲を思い出していた。
それは、共に夜を過ごした恋人たちが別れを惜しみながら夜明けに歌う歌。
政略により合理的な結婚をする皇太女と王子は、決して歌うことのない歌。
しかし、何故かその旋律が頭から離れなかった。
そして、それが二人の別れだった。
――あのとき、アリエノールは何を言おうとしたのだろう。
――「私はあなたを愛することはない」?「私はあなたを夫にしたくない」?
――いや、その直前に「高度に政治的なこと」と言ったのだから、「私はあなたを夫としては認めるけれど……」ということだろうか?
皇太女アリエノールにとって、
皇帝は唯一の肉親、
フェール女侯は政治信条を共にする同志、
キュイーヴル准将は愛で結ばれた恋人、
キュイーヴル伯爵夫人は優しい母親代わり、
ボシュエ卿は奇跡の絆を結んだ「第一の臣下」だった。
――彼女にとって結局のところ私は何だったのだろう。
王子はその答えを聞かなかったことを深く後悔した。




