21.そして、夜明けへ②
それからひと月後――。
金合歓月のある朝、アルジャン帝国の女帝アリエノールと彼女の皇配エルンスト王子は、丘の上の大神殿の庭を寄り添って歩いていた。
月女神の加護の厚い大神殿の庭には、一年中色とりどりの花が咲く。
中でも一際美しい夜咲きの黄金色の薔薇が東の空に昇り始めた朝日に照らされていた。
彼らが急き立てられることなく、二人きりで話をするのはあの夜明け以来だった。
「――あなたならきっと応えてくれると信じていたわ、エルンスト。ちゃんとあのことに気づいてくれたわね」
エルンストの腕をとって悠然と歩いていたアリエノールは、敢えて軽い口調で言った。
「あのこと」とは、エルンストが柘榴月のあの夜明けに辿り着いた真相の中の一つを指していた。
エルンストは微かに眉を上げた。
「ああ、君やルネの助けなしでは無理だったろうけどね」
アリエノールが月女神から授かった「聖なる魔法」は仮死状態になる魔法だった。
掟により、自らそれを他人に明かすことはできない彼女は曖昧にしか言葉にしないが、事実を見れば明らかだ。
「12年前の事件――つまり、君の10歳の誕生日パーティーでも、同じことが起こったんだね?」
エルンストの問いかけに彼女は静かに頷いた。
「聖なる魔法」は10歳前後で発現するが、最初の発現は意図せず起こる。
アリエノールの場合、それが最初に発現したのは、12年前の10歳の誕生日パーティーの最中だった。
キュイーヴル伯爵夫人が彼女に少量の毒を与えたことが呼び水になったのか、もしくは、完全なる偶然なのかは定かではない。
いずれにしても、彼女は仮死状態に陥り、周囲の者はそれを毒による昏睡だと誤認した。
そして、女侯が手配した万能薬により、仮死の解除と解毒が行われ、無事生還したのだ。
「今回はそれを意図的に発動したの。もちろん、毒が体を蝕むのを止めるため――あなたの薬草学研究の理論と同じ『時間稼ぎ』ね。あとはそのまま万能薬の投与を待てば良い。ただ、情勢が厳しい今、いくらお父様でも既に亡くなっているように見える娘に万能薬を与えるとは限らなかったから、ルネに頼んであなたに事件の調査を依頼したの。掟の通り、私は自分から『魔法』を明かすことはできないけれど、同じことを研究しているあなたなら気づいてくれると信じていたから」
アリエノールは悪戯っぽく微笑んだ。
エルンストもまた微笑みを返しながら言った。
「しかし、毒で命が脅かされていた一瞬で決断するとは、君にはいつも驚かされる」
「ふふ……でも、お父様の決断ほど驚きではないでしょう?」
「確かにそうだ」
エルンストは苦笑しつつも、彼の左腕をとっているアリエノールの手に、空いている右手を重ねた。
「こんなに早く君の正式な皇配になるとは思わなかった」
あの夜明けにアリエノールが復活を遂げたことを知った皇帝は、まず、魔導医に命じて娘の健康状態を念入りに検査させた。
そして、検査の結果を待つ間に、驚くべき早さで二つのことを決めた。
一つは、皇太女アリエノールへの譲位だった。
数日かけて皇太女の状態を検査した魔導医が「異常なし」との結論を出すと、皇帝は早々に既に内定していた高等法院の認可を得て、譲位の手続きをとった。
それは当初構想していた「二頭体制」を実現するためではなかった。
皇帝は、二度も同じ臣下に裏切られた自身の限界を認め、帝国の統治から手を引くことにしたという。
宰相フェール女侯をはじめ大臣たちは留任することもあり、譲位は円滑に行われた。
今、前皇帝は隠居生活に向けて南の離宮へと引っ越す準備を進めている。
今後は、親しい貴族たちと悠々自適に過ごしながら、若き女帝の相談役になるようだ。
そして、皇帝のもう一つの決断は、アリエノールと彼女の復活を助けたエルンストを一刻も早く正式な夫婦にすることだった。
譲位翌日から早速婚礼の準備が始まった。
衣装合わせやら儀式の段取り確認やらに追われ、二人で腰を据えて話す機会も得られないほど目まぐるしい時が過ぎた。
そして、昨夜の満月の夜、二人は大神殿で夜通し行われた結婚式において、月女神の御前で結婚の誓いを交わした。
伝統に従って夜が明けるまで大神殿の奥殿で過ごした二人は、ようやく掟や慣例、手順から解放され、二人きりで気の向くままに早朝の大神殿の庭を歩いている。
「それにしても、結婚式前から既に私たちに『夫婦の護り』が成立していたとは、誰も気づかなかったでしょうね」
「ああ。まさかあの事件の夜にあのテラスで『護り』が成立していたとは。私も暫く気づかなかったくらいだ」
結婚式の数日前、二人は、大神官から「夫婦の護り」の詳細を教授された。
「夫婦の護り」は月女神に祝福された相手と誓いのキスをすることで成立するが、ただ形式的にキスをするだけでは足りず、互いを愛し慈しみ合うことを真に誓う意志がないといけない――というのはエルンストも事前に前皇帝から聞いていた。
それに加えて、大神官は、「夫婦の護り」で結ばれた夫婦は、離れている間にもう一方が迷いに苛まれた際に、励ましや助言など何らかの声を送ることができることを明かした――概ねあの夜明けにエルンストが推理した通りだった。
過日、皇帝が亡き皇后の声が聞こえる気がすると言ったのも、生前「護り」の効果で聞いていた声がまだ聞こえる気がするということだったのだろう。
「私はあの日ずっと君の声を聞いていた。『護り』の期限は『死が二人を分かつまで』なのだから、君の声が聞こえているということは、君はまだ死んではいないということだった」
エルンストがそう言うと、アリエノールは深く頷いた。
「私、あの日までは、『夫婦の護り』を成立させる『誓いのキス』は結婚式でのキスのことだと思っていたの。でも、言われてみれば伝承や古文書に謳われる成立要件は『月女神に祝福された配偶者と誓いのキスをすること』だけ。結婚式である必要はなかったのね」
そう言って、彼女は左手薬指のアウイナイトの婚約指輪と昨夜その下に加わった細い銀の結婚指輪をさり気なく見つめた。
「……しかし、声を送れるなら、事件についてもっと具体的な助言をくれても良かったのに」
エルンストがわざと不満げに言うと、アリエノールは少し眉を上げた。
「私だってなるべく詳細を伝えようと努力したのよ?でも、『夫婦の護り』は『死が二人を分かつまで』の奇跡。あの状態の私はその期限に近づいてしまっていたから、完全には扱えなかったのよ。そもそも私自身も犯人を知らなかったし」
アリエノールはエルンストに笑みを向けながら続けた。
「それにね、エルンスト。私はあなたに『我が身に起こったこと』――つまり、私の『聖なる魔法』の内容を突き止めるのを期待していただけなの。まさかあなたが事件自体の謎を解こうとして、しかも実際に解いてしまうとは思っていなかったわ」
「そうだね。自分でも驚きだ」
あの十六夜の聖堂での記憶が蘇る。
ただの外国の王子が帝国の皇帝や貴族を前にして皇太女殺害事件の真相を解き明かすなど、よくやったものだ。
しかし、そうせざるを得なかった。
やはり彼自身が彼女の死の真相を求めていたのだから。
「しかし、どうして私からは君に声を送れなかったのだろう?大神官様は『離れている間にもう一方が迷いに苛まれた際』に声を送ることができると言っていたが……」
「簡単なことよ、エルンスト。私は全く迷いを感じていなかったからだわ。『聖なる魔法』で命を繋ぎ、ルネと『君臣の絆』を結んであなたに調査を依頼すれば、最後には全て上手くいくと確信していたの」
そう言い切るアリエノールに、エルンストはただ苦笑した。
そして、彼はふと真剣な顔になって言った。
「キュイーヴル伯爵夫人の処遇のことも、君は確信しているようだね」
「ええ」とだけ答えたアリエノールの満月色の瞳は、正面に向けられていた。
事件の後、キュイーヴル伯爵夫人は宮廷魔導士に拘束されている。
エルンストを含め誰もがこの後の裁判で彼女は死罪になると考えていたが、アリエノールには別の考えがあった。
「帝国側の停戦交渉の使者として北の大国に送り込む――あちらの女王は美人に弱いから上手い考えだとは思うが少し心配だ。彼らに殺されるかもしれないし、逆に女王にスパイとして取り込まれるなんてことは……」
エルンストの問いかけに、アリエノールは前を見据えたまま答えた。
「前者については、覚悟してもらいましょう。そもそも、臣下の身分で皇太女を害した以上、裁判を受ければ死罪は免れないわ。それから、後者については、准将を監視のために同行させようと思うの」
それから、彼女は明るい声色を作った。
「それに、彼女の家族のほとんどはこの帝国にいるわ。特に寝たきりの伯爵は他国に亡命することもできない。ジュリエットが謀反を企てたのも家族を思ってのこと――その思いがある限り彼女は帝国のために働くわ」
エルンストはただ頷きを返した。
母代わりだった伯爵夫人の謀反にアリエノールが傷ついていないはずがない。
しかし、帝国の女帝は前に進まねばならない。
そこで、ちょうど彼らは白い石造りの東屋に辿り着き、その中のベンチに腰を下ろした。
東屋の周囲には、満月のような黄金色の薔薇と夜空に似た紫色のスミレが咲きこぼれている。
それを見た王子は、昨夜のことを思い出した。
「ところで、昨夜、式の前にルネと話したよ」
「あらまあ、彼は私のところには来なかったわ。この前まで私に仕えていたのだから私の方に来るべきではなくて?」
わざとらしく託つアリエノールの言葉に、エルンストの口元に笑みが浮かんだ。
彼がアリエノールに会いに行かなかったのは致し方ない事情からだった――結婚式の直前の花嫁は女性としか会えない。
「君にもそのうちに正式に裁可の要請が届くだろうけど、ルネは今回の事件の解決を助けた功績で、次代の大神官になることが内定したらしい。当代の大神官様は数年以内に引退予定だから、無事に運べば歴代最年少のようだ」
「まあ、良かったわ」
アリエノールは衒いのない笑みを浮かべた。
「おやおや、随分と嬉しそうだ」
「ええ、実は彼を『君臣の絆』で縛ってしまったことが気になっていたの。彼はもう大神殿での奉仕に戻ったけれど、私が何かの拍子に命令してしまえば、また私に命を握られることになるわ。でも、大神官ともなれば、たとえ女帝であっても、複雑な手続きを経ないと正式に命令することはできないの」
それを聞いたエルンストは肩を竦めた。
「ルネは君の命令なら喜んで聞きそうだけどね」
「だとしても、女神様の罰がある以上脅して従わせるのと変わりがないわ。できれば、自由意志で聞いてほしいのよ。その方が健全でしょう?」
アリエノールはどこか楽しげだった。
それを見ていた王子の心は温かく満たされていった。
そこで、王子はずっと気になっていたことを尋ねることにした。
今なら素直に訊ける気がしたのだ。
「……一つ訊いていいかな」
「あら、何かしら?」
アリエノールはその満月色の瞳を少し細めてエルンストを見つめた。
「あの満月の夜、テラスから逃げ出してしまった私に、君は何を言いかけたのだろう?」
“エルンスト、待って!高度に政治的なことで話しておきたかったことが――”
“エルンスト、私はあなたを――”
あの夜、背中で聞いた声の残響が今でもエルンストの耳の奥にあった。
一方のアリエノールは事も無げに言った。
「ああ、それは……あの時点ではフェール女侯と戦略的に『君臣の絆』を結ぶ可能性があったから、あなたとは『絆』を結べなくなるかもしれないと伝えておこうとしたの。まさか、あの後すぐに実行することになって、しかも結局はルネと結ぶことになるなんて思っていなかったけれど」
アリエノールは視線を遠くに移した。
丘の上にある大神殿からは、帝国の首都が見渡せるが、彼女の視線は郊外の宮殿の方を向いているように見えた。
「それは『高度に政治的なこと』の方だろう?私が知りたいのは、君が『私はあなたを』と言いかけたその続きだよ」
エルンストが問いかけると、アリエノールは彼の方に顔を向け、口元だけで笑った。
「まあ、エルンスト。そんなの火を見るより明らかだわ。あのとき私たちの間に『夫婦の護り』が成立したのだから」
――「夫婦の護り」は互いに愛し慈しむことを真に誓った二人にしか成立しない。
あの満月の夜に見た彼女の瞳が思い出された。
エルンストがアリエノールを見つめると、彼女もまた静かに彼を見つめ返した。
あの夜と同じ、黄金の瞳が全てを物語っていた。
「そうか……逃げ出したりなんかして本当にごめん」
エルンストは視線を落としたが、アリエノールは含みのある笑みを浮かべた。
「あらあら、自惚れないでちょうだい、エルンスト。私は少しもあなたに傷つけられてなんかいないのよ?だって、私の方は、あなたの気持ちにずっと前から気づいていたもの」
その言葉にエルンストは一瞬目を見開いた。
そして、笑い声を漏らした。
アリエノールはそんな彼の様子を楽しむように見ていたが、やがて立ち上がり、先ほどまで彼らがいた奥殿へと続く道を歩き始めた。
エルンストも数歩遅れて後に続く。
「――さて、来月の菖蒲月には、いよいよ私の戴冠式が執り行われるわ」
譲位自体は既に完了しているが、儀式としての戴冠式もまた行わなければならない。
この後、宮殿に戻れば、彼らは今度は戴冠式の準備に忙殺されることになる。
「あなたは皇配ではあっても皇帝にはなれないから、私と一緒に戴冠することはできないし、かといって、『君臣の絆』で結ばれた『第一の臣下』でもないわ。けれど、女帝として戴冠した私に最初に跪いて宣誓するのはあなた。そのとき、あなたは私の『何』としてどんな誓いを立てるのかしら?」
彼女は立ち止まってエルンストを振り返った。
エルンストの青い瞳に彼女の煌めく満月色の瞳が重なった。
彼は前に進み出て、彼女の左手をとると、その手の甲に優しく口づけた。
「君のことだから、全てわかっているだろう?アリエノール。私は君の臣下として、夫として、そして、ただ君を愛する男として生涯の愛と忠誠を誓おう」
それは月女神の加護も罰もない「奇跡」の枠外の自由意志での誓い。
何の保証もないが、だからこそ、かけがえのない無二の誓い。
「ええ。あなたならそう言うと思ったわ、エルンスト」
微笑み合う二人を東の空に上る朝日が照らした。
夜明けを迎えてなお寄り添い続ける彼らが歌う夜明曲は、甘い夜の終わりを告げる別れの歌ではない。
それは、夜更け前に別れ、夜明けに再会した二人を祝う歓びの歌だった。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
本作は個人企画「春の異世恋推理’26」(主催:琥珀様)の参加作品でした。
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【参考】
Rachmaninoff: Piano Concerto No. 3
https://youtu.be/TLpufG9s0QY?si=PHHXoCOw9CHEeUM6
執筆途中で本作に雰囲気が合う曲として思い浮かび、聞きながら書き進めたところ、曲そのままの作品になった気がしています(主観)。
もし、本作のようにミステリーとロマンスが同調して進行する作品がお好きな方がいらっしゃれば、是非下のリンクから「メラヴェル女男爵ミステリーシリーズ」を覗いてみていただけると嬉しいです。
異世界ものではないのですが、舞台となる20世紀初頭エドワード朝の英国の興味深さもお伝えできれば……!という趣旨のシリーズでもあります。




