皇配エルンストの計略
本編をお読みくださりありがとうございました。
おまけの番外編となります。
結婚して数年経った二人のコメディです。
これはエルンスト王子が特別変わっているわけではなく、本当にそういう人(下記女帝エカチェリーナ2世のパートナー、ポチョムキン元帥)がいたのです。
Wikipedia - グレゴリー・ポチョムキン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%A0%E3%82%AD%E3%83%B3
アルジャン帝国暦1820年秋、栃ノ木月のことだった――。
「……私は反対しましたからね、皇配殿下」
大神殿の応接間にて、当代の大神官ルネ・ボシュエは苦々しげに言うと、アメジスト色の瞳を少し細めて正面に座る黒髪の男――帝国の皇配エルンストをちらと見遣った。
彼の青い瞳に若干でも躊躇いが浮かんでいることを期待したのだが、その瞳はいつになく真っ直ぐだった。
「ああ、わかっている。君のせいにはしないさ、ルネ、そして、大神官猊下」
エルンストは言い切った。
友人として大神官としてのルネに助言を求めたのは事実だが、最終的には全てエルンストが決めること。
誰のせいにするつもりもなかった。
ルネは敢えてエルンストに聞かせるようにため息をつき、顔にかかった金色の巻き毛を耳に掛けながら言った。
「では、飽くまで反対している私から強いてお授けする助言としてお聞きください。今あなたが挙げた三者の中で、最も適任なのは伯爵家の次男フィリベール・ド・アシエでしょう。物静かで知的な方だと評判です」
「やはり、フィリベールか」
エルンストは表情を和らげた。
俄かに立ち上がった彼は、ルネに一歩近づいて手を差し出した。
「ありがとう、ルネ。これで憂いなく東方に発つことができる」
ルネは仕方なくエルンストの手をとって握手をした。
エルンストは数週間後、帝国を離れることになっている。
数か月の間、薬草学研究のために東方諸国を歴訪するのだ。
今日彼がルネを訪問した公式の理由は、旅立ち前の挨拶のためだった。
「東方諸国で無事に目的の成果を得られることを祈っていますよ」
「ああ、そちらは心配ない。既にあちらの高官と話をつけているからね」
エルンストはそう言うと一礼して大神官ルネの元を辞去していった。
彼の姿が扉の向こうに消えるや否やルネは部下の上級神官を呼んだ。
「さて、手紙用の紙とペンを持ってくれ。すぐに女帝陛下に手紙を書かねばならない。……後で私まで怒られるのはごめんだ」
***
それから数日後の午後――。
エルンストは帝国の女帝にして彼の妻であるアリエノールの執務室を訪れた。
「アリエノール、少し話せるかな」
「あら、エルンスト、午後に珍しいわね。どうしたの?」
休憩中だったらしいアリエノールはデスクではなく、窓際の長椅子に座って紅茶を飲んでいた。
窓から差し込む午後の光が彼女のシルバーブロンドの髪と満月色の瞳もまたきらきらと輝せている。
「子供たちは……一緒じゃないのね?」
アリエノールは微かに首を傾げた。
エルンストがわざわざ午後に訪ねてくるのなら、家族での散歩の誘いだと思ったのだ。
結婚してもう6年、二人は温かな家庭を築いている。
二人の皇子と一人の皇女に恵まれ、帝国は盤石だ。
「ああ、大人同士で話したくて。いいかな?」
「もちろん、良いけれど……?」
「ありがとう。少し待っていてくれ」
そう言うとエルンストは一度執務室から出て行った。
部屋の前で待たせている誰かを呼びに行ったようだ。
アリエノールの脳裏に先日受け取ったルネからの手紙の文面が過った。
“帝国の女帝陛下に謹んでご忠告申し上げます。この度のエルンスト皇配殿下の計略について――”
すると、エルンストが一人の青年を伴って戻ってきた。
明るい栗色の髪に灰色の瞳の青年だ。
アリエノールはその青年を知らなかったが、一目見ただけでも、どこぞの貴族家の子息らしいことはわかる。
洗練された身のこなし、麗しい外見。
宮廷に出れば、貴婦人たちがこぞって彼と戯れたがるだろう。
その上、慎み深く堅実そうな雰囲気は、アリエノールの好みでもある。
ただ、身に着けている鮮やかな赤い上着は、まだ彼の体に馴染んでいないように見えた。
きっと本当は女帝の御前に出られるほどの身なりを整える金がないのだ。
今着ている服はエルンストが用立てたに違いない。
「そちらは?」
アリエノールが冷たく問うと、エルンストはかしこまって答えた。
「アシエ伯爵家の次男フィリベールです、女帝陛下」
フィリベールは女帝に最上の敬意を示すべく深くお辞儀をした。
アリエノールの黄金色の瞳が彼を観察するように見つめた。
エルンストはそんな彼女の反応に内心頷きながら続けた。
「来週から数か月、私は東方に行かねばなりません。その間、是非このフィリベールを陛下のお側に置いてください」
アリエノールは微かに眉を上げた。
ルネが書き送ってきた通りだ。
エルンストは自分の不在を政治的に解決しようとしている――つまり、アリエノールに自分の代わりとして「愛人」を差し出そうとしているのだ。
アリエノールは何故か笑いがこみ上げてくるのを感じたが、軽く咳ばらいをしてやり過ごした。
そして、穏やかに微笑んだ。
「お気遣いありがとう、皇配殿下。彼は昼間の朗読係として採用しましょう」
アリエノールは微笑みを崩さなかった。
一方、エルンストは右手で黒髪を撫でた。
――動揺しているわね、エルンスト。
彼の目論見からして昼間の朗読係では困るのだ。
「しかし、アリエノール……いや、女帝陛下、彼はやはり夜に――」
「フィリベール、悪いけど、今日は下がってちょうだい。皇配殿下とお話があるの。大事なお話がね」
アリエノールは敢えてエルンストの言葉を遮って、「愛人候補」の青年に向けて言った。
彼は一瞬戸惑ったが、すぐに恭しくお辞儀をして執務室を去って行った。
エルンストと二人きりになったアリエノールは彼に視線を向けた。
しかし、エルンストはさり気なく視線を逸らす。
そこでアリエノールは、鋭く尋ねた。
「さて、エルンスト。どうしてこんな計略を企んだのかしら?」
「計略ではないさ……ただ、私の不在中でも君が――」
彼は俯いて何やら曖昧に呟いたが、アリエノールには全てお見通しだった。
エルンストは自分の不在中のことが心配なのだ。
今回のエルンストの東方諸国への旅は数か月に渡る予定だ。
万が一、自分の不在中に、アリエノールが気に入った誰かを愛人になどしてしまえば――現実として女帝にはそれができてしまう――エルンストにとっては非常に悪いことになる。
まず、皇配としては、政治的影響力を失い、宮廷での居場所がなくなるかもしれない。
次に、夫としては、妻が愛人を持っているなど、矜持に差し障るだろう。
そして何より、アリエノールを愛する彼としては、愛する女性が他の男に目移りしてしまうのは、耐えがたい苦痛であるはずだ。
――でもね、普通の人はそう思ったとしても「不在中浮気しないでくれ」なんて念を押すくらいなものよ。
――エルンストったら、何でもかんでも駆け引きにしてしまうんだから。
アリエノールは思わずため息をついた。
エルンストは、自らが念入りに選別し、彼自身の影響下にある青年を敢えて愛人として差し出すことで、皇配としての立場も、夫としての矜持も、アリエノールを愛する男としての感情も守ろうとしているのだ。
――全く、困ったような、愛おしいような。
アリエノールは口元に微かな笑みを滲ませながら、俯いたままのエルンストに語りかけた。
「ねえ、エルンスト。私にはあんな青年本当に必要ないのよ」
「しかし――」
「あなたは自分が制御できる人が相手であれば、私があなた以外と夜を過ごしても平気なの?」
アリエノールの問いにエルンストの頬が僅かに引き攣った。
「それは……平気ではないが……次善策として――」
「あなたが不安に思うのはわかるのよ?でも、離れていても私たちは『夫婦の護り』があるし、それ以上にこれまで築いてきた信頼があるのではなくて?」
「信頼……」
顔を上げたエルンストの青い瞳とアリエノールの満月色の瞳が重なる。
結婚前、アリエノールに危機が訪れた際、彼らは一度離れ離れになったが、それでも最後には再会した。
それからは、ずっと近くで支え合い、公私に渡る困難を共に乗り越えてきた。
エルンストはその記憶一つひとつを思い出そうとするように一度目を閉じた。
そして、喉の奥から声を絞り出した。
「……ごめん。君と私には駆け引きなど必要ないことを忘れてしまっていた」
「いいのよ、エルンスト。私こそごめんなさい。ちゃんと言っておかなかったのが悪かったわ」
そう言うと、アリエノールは立ち上がってエルンストに歩み寄った。
そして、彼の肩に手をかけて耳元で囁く。
「私はあなたがいれば十分なのよ、エルンスト。あなただけいればね」
エルンストは朱に染まった頬を隠すようにそっと手を当てた。
***
「――それにしても、昼間の朗読係としては本当に採用するんだね、アリエノール?」
出立の日、アリエノールに準備ができたことを知らせにきたエルンストは、彼女の傍らで早速詩集を朗読しているフィリベールを見て少し眉を上げた。
とはいえ、アリエノールは彼の朗読をほとんど聞いていないようで、ただ真っ直ぐにエルンストの元へと歩み寄ってきた。
「そうよ、エルンスト。私たちの間に駆け引きは必要ないけれど、残念ながらこの宮廷を掌握し続けるためには必要ね。その意味であなたの計略は非常に正しかったわ」
満月色の瞳の目配せを受けてエルンストは少し笑った。
確かに彼女の言う通りだ。
このままフィリベールを側に置くことで、宮廷貴族たちは「女帝アリエノールが皇配エルンストの影響下にある『愛人』を重用している」という図を見せられることになる。
すると、彼らは勝手に「不在であっても皇配殿下の影響力は健在」と解釈するわけだ。
そうなれば、皇配の不在を利用して女帝に取り入ろうとする者への強い牽制となる。
「あなたって、やっぱり呆れるほど素晴らしい計略家ね、エルンスト」
アリエノールは満足そうに微笑んだ。
エルンストは肩を竦め、敢えて冗談半分に言う。
「……君はそういう私が好きなんだろう?アリエノール」
彼は、また彼女がさも可笑しそうに「自惚れないでちょうだい」と言うことを期待していた。
しかし、それは裏切られた。
「ええ、そうよ。今頃気づいたの?エルンスト」
返す言葉に詰まる彼をよそに、アリエノールはエルンストの腕をとって歩き出す。
「だからね、あなたが東方諸国の美女に目移りしたら許さないわよ?」
「おやおや、私が少しでも迷ったら『夫婦の護り』で君の叱責の声が飛んでくるというわけだ」
二人は顔を見合わせて、ただただ笑った。
あの夜明け以来、寄り添って歩み続ける二人には、暫しの別離すら再会の歓びの予感に過ぎないのだった。




