19.永遠の宵闇③
「伯爵夫人、何故だ?あなたは実の母のようにアリエノールを気にかけてくれていたじゃないか」
皇帝が問いかけると伯爵夫人は意外なほど優雅な微笑みを浮かべた。
「……皇帝陛下、それはお考え違いというものです。私の子供たちはあくまでキュイーヴル伯爵家の子供たちです。他人など……利益をもたらす相手には親切にもしますが、我々に害をなす相手には道を空けていただく他ありません」
「なんと……私は誤った人物を信用していたようだ……」
皇帝は覚束ない足取りで木製の座席に歩み寄り、崩れ落ちるように腰を下ろした。
伯爵夫人はゆっくりと内陣前の階段を下りてその場に跪くと、皇帝に向けて訴えかけた。
「しかし、陛下、これは私一人の罪です。女神様に誓って、今や寝たきりの夫やここにいる息子をはじめ、当家の家族はこの件には一切関わりありません」
しかし、マーリン師が厳しい口調で指摘した。
「とはいえ、准将殿はカラーの花を使って毒針を運搬していましたが?」
「息子は知らなかったのです。息子は私が準備した花を運んだだけで、何の罪もありません」
王子も伯爵夫人の言う通りだと思った。
先ほど王子がボシュエ卿と共に母子に話を聞いた際に、准将は母が隠しておきたかったであろうこと――12年前に母が昏睡状態になった皇女の名を必死に呼んでいたことや昨夜彼女がカラーの花を下級女官に水場に運ばせていたことを自ら持ち出していた。
彼もこの計画に加担していたとしたら、敢えて触れることはなかったはずだ。
しかし――。
「母上、私に『罪がない』というのは無理があるでしょう」
准将の言葉を聞いた王子は思わず彼に視線を向けた。
彼は一歩進み出ると、皇帝と王子に向けて語りかけた。
「皇帝陛下、王子殿下、私は昨夜の時点では母の謀反を全く知りませんでした。それは女神様に誓って本当です。しかし、知らなかったということは罪がないということではありません」
「ヴィクトル、何を言っているの!やめてちょうだい……!」
伯爵夫人は叫ぶように言ったが、准将は話し続けた。
「母は、13年ほど前に父の病状が悪化して杖をつき始めた頃から、思い詰めていました。母は一人でこの伯爵家を救おうとし、愚かにも12年前の事件と今回の事件を引き起こしたのだと、私は考えています」
准将は拳を握り締め、俯いた。
「そして、その罪は私のものでもあります。12年前、未熟だった私は母が思い詰めているのを知りながら、何もできませんでした。当時、私が軍人として大成することを母に確信させる力量があれば、母がこのような大罪に手を染めることはなかったかもしれません」
母を見つめる准将の暗い色の瞳は揺れていた。
「今回も同じです。私は母が期待する通りの――皇太女殿下に宰相の職を委ねていただける器ではなかった。二つの事件は、どちらも私の力量のなさが招いたことです」
無念に堪えるように固く目を閉じた准将に、伯爵夫人が言った。
「力量など地位を得れば自ずと身につきます。軍隊でも、あなたは部隊を任された途端に指揮官としての才能を発揮しました。今回も地位さえ得られれば何とでもなったはずです!だから、私はあなたにその美貌を最大限活用するよう言ったのです。でも、あなたは真っすぐな子。色恋で皇太女殿下を丸め込もうとはしなかっただけだわ」
「できなかったのですよ、母上。皇太女殿下が私を愛することなどあり得なかったのですから」
「ヴィクトル!馬鹿なことを言わないで。あなたを愛さない婦人はいないわ!」
ほとんど悲鳴のような伯爵夫人の声が聖堂に響き渡った。
「母上、あなたも気づいていたはずです。皇太女殿下のお心にいたのは将来のご夫君である王子殿下だけでした」
その言葉に王子は思わず一歩後ずさった。
「お二人とも高貴なお生まれですから、あからさまに愛情をお示しになることはありませんでした。でも、ある日、庭園を共に散歩なさっているお二人を見て私はすぐに気がつきました。お二人は互いに愛し慈しみ合っていると」
王子の脳裏に皇太女との記憶が蘇った。
二人は幾度も共に庭園を散歩した。
それは、婚約者同士、親交を深めようとしていることを示すためのある種の儀式だった。
お互い求められる役を演じるだけで良いはずだった。
しかし、彼女は驚くほど率直に語り、衒いなく問いかけた。
“ねえ、エルンスト。あなたはどう思って?”
皮肉だがどこか楽しげな笑みを向けられれば、最早「害のない王子」の役を演じ続けることはできなかった――。
王子はガラスの棺に眠る皇太女をただ見つめた。
その顔は残酷なほど美しかった。
「ともかく、伯爵夫人。こうなれば、あなたの身柄はまず宮廷魔導士が預からねばなりません。大人しくついてきてくださいますね」
マーリン師が厳粛に言った。
しかし、キュイーヴル伯爵夫人は微動だにしなかった。
そこで、マーリン師は何か魔法を使おうとしたが、それを押しとどめたのは皇帝だった。
「キュイーヴル伯爵夫人、私があなたを許すことはない。だが、あなたは最後まで貴婦人としての矜持を保つべきだ」
伯爵夫人は観念したように顔を上げた。
王子は、マーリン師に続いてゆっくりと聖堂の出口へと歩む伯爵夫人の後ろ姿をただ見つめていた。
――ああ、やっと終わった。
だが、事件の謎を解いたところで皇太女が戻るわけではない。
彼の青い瞳は、憎しみの炎も、悲嘆の波も映してはいなかった。
眼前には、永遠に明けることのない宵闇が横たわるばかりだった。
王子は皇太女の棺へと歩み寄り、そのガラスの蓋にそっと手を当てた。
――アリエノール、君はなんて残酷なんだ……。
しかし、やがて微かに首を振った。
――いや、違う。
――残酷だったのは私自身だ。
ヴァルト王国の王室に、突如アルジャン帝国の皇太女との縁談が舞い込んだのは、一昨年の春のことだった。
元々皇太女と婚約していたクラベル王国の第二王子が不慮の事故で亡くなったことを受けての火急の婿探しであることは明らかだった。
そして、それは本来、王子の兄である第五王子宛ての縁談だった。
それを王子が兄が自分より高位の女性と結婚することに不安を覚えるよう誘導し、自分が選ばれるように仕向けたのだ。
大陸一豊かな財政を誇る帝国から薬草学研究の費用を掠め取るための合理的な結婚――のはずだった。
しかし、半年前に王子が帝国に来てすぐに、その目論見は綻び始めた。
皇太女アリエノールは、事前に送られてきた公式肖像画に描かれていた美しい姫君とは全く違った。
肖像画では温かく描かれていた瞳は、真夜中の満月のように冷たかった。
柔らかな弧のように描かれていた唇は、頑なに結ばれていた。
それに、人柄は優しく穏やかだと聞いていたのに、実際は沈着で鋭い皮肉を好んだ。
――私は最初からその全てを愛していた。
――なのに、それを認めることができなかった。
――余計な第七王子が手に入るわけがない愛など望むべきではないと思っていた。
――……全て言い訳だ。
王子の心に、あの夜明曲の哀しくも美しい旋律が流れた。
降り注ぐ朝日。
惜しみながら別れる恋人たち。
彼らのひたむき過ぎるほどの愛――。
――私にあの夜明曲は歌えない。
――愛を認めることもなく、夜明けどころか夜も更けきらぬうちに逃げ出した。
――そんな私には別れを惜しむ歌すら与えられない。当然だ。
――でも、アリエノール。
――それでも、私はもう一度君に会いたい……。
(エルンスト、私はあなたを――)
皇太女の声が途切れたとき、王子ははっと顔を上げた。
視界の端で何かが光ったのだ。
マーリン師に続いて通路を歩いていたはずの伯爵夫人が、懐から銀のナイフを取り出しながらこちらを振り返っていた。
彼女はそのまま王子のいる内陣へと駆け戻ってきた。
「母上!何を!」
「お前さえいなければ、息子を宰相にしてやれたのに――」
王子は動かなかった。
感じたのは恐怖ではなかった。
微かな希望だった。
――女神様の元へ行けば、またアリエノールに会えるのだろうか。
そう考えながら目を閉じたとき――。
「王子殿下!」
その叫びがボシュエ卿のものであることを認識したときにはもう遅かった。
目を開けた王子が見たのは、彼の宵闇色の祭服と大理石の床に転がった血塗れのナイフの禍々しい輝きだった。
大変なことになってしまいましたが、これにて二つの殺人事件は解明されました。
次章、最終章真相編(性質が違うので編を分けることにしました)です。
エルンスト王子はまだ気づいていませんが、そもそも皇太女の命は「我が婚約者の王子をして、我が身に起こったことを調査させよ」でした。
事件を解決せよとも、犯人を突き止めよとも言っていません。
結局、皇太女の身に何が起こったのか、何故彼女はそれを王子に調査させたかったのか。
そして、事件の本質ではないため、差し当たりの結論を出して通り過ぎた謎の中にもいまいち腑に落ちない点もあるような……。
解決編までの内容で推理できるようになっている……はずです。
推理中の方もそうでない方も、最終章までお楽しみいただければ幸いです。




