17.永遠の宵闇①
聖堂内の人々の視線は、一点――キュイーヴル伯爵夫人に集中していた。
息が詰まる静寂の中、彼女は穏やかな口調で切り出した。
「恐れながら王子殿下、先ほどの12年前の件に関するお話は全て推測のように聞こえましたけれど。何か証拠があるのですか?」
「いいえ、何もありません」
王子の返答を聞いた伯爵夫人は、顔の前に翳していた扇を閉じた。
ピシリという扇の音が鋭く響き、露わになった美しい顔が月光に照らし出された。
王子は静かに続けた。
「当時も捜査にあたったマーリン師によると、12年前の事件では『溶ける毒針』が使われた可能性が高いとのことでした。『溶ける毒針』は東方由来の魔道具です。事件以前に東方へ巡礼に行ったあなたには、それを入手する機会は十分にありました。とはいえ、『溶ける毒針』は、ほとんど証拠を残さない厄介な魔道具です。そうでしたね、マーリン師?」
「王子殿下のおっしゃる通りです。『溶ける毒針』は人に刺したところで傷跡も残りませんし、針自体も溶けてしまいます。使用時には魔法痕も残らないので、あるとすれば、保管容器に毒の痕跡が残るくらいですが、当時保管容器は発見されませんでした」
マーリン師が重々しく告げると、王子はゆっくりと一度頷いてから言った。
「ですから、伯爵夫人。先ほどの話は全て戯言ととらえてくださって結構です」
「あらまあ、戯言でこのような重大な告発をなさるとは……ヴァルト王国が牧歌的で素敵なお国だという風聞は事実のようでございますわね」
伯爵夫人の形の良い唇が嘲りを含んだ弧を描いた。
「ええ、どうか田舎者の不調法をお許しください。しかし、伯爵夫人、外国人の戯言にもこうも真摯に反応してくださるとは相変わらずご親切ですね」
王子がそう言うと、彼女は微かな声で何事かを呟いたが、王子は聞こえなかったふりをして話を続けた。
「ただし、戯言は12年前の事件についてだけです。今回の事件は別です」
俄かに鋭さを孕んだ王子の声が聖堂に響き、伯爵夫人は僅かに目を細めた。
「ボシュエ卿を通じて、皇太女殿下から『我が身に起こったことを調査せよ』との命を受けた私ですが、当然、殺人事件を調査したことなどこれまで一度もありません。しかし、ヴァルト王国の第七王子として生まれて以来、素人ながら政治は嗜んできました。田舎の小国には他に娯楽もありませんから」
王子は心にもない笑みを浮かべた。
「そこで、その経験をより活かせそうな12年前の事件を先に検討したのです。そこで得られた答えから逆算すれば、今回の事件の謎も解けるかもしれない――その可能性に賭けました。結果、私は賭けに勝ちました」
「一体、何をおっしゃっているのやら……」
伯爵夫人はその声に滲む戸惑いを隠すように再度扇を開いた。
「今回の事件は、犯人があなたであると仮定して考えると非常に簡単でした。しかし、それを明かす前に、念のため他の方が犯人ではないこともご説明せねばなりません」
王子はまず皇帝の方に向き直った。
「まずは、皇帝陛下です。昨夜、陛下は午後9時に皇太女殿下を訪問されましたが、お持ちになった貴腐ワインからは毒が検出されていませんし、ボシュエ卿によると、陛下は殿下と終始テーブルを挟んでお話しになっていたので、万一『溶ける毒針』をお持ちだったとしても、それを刺す機会はありませんでした」
瞬時に「当然だ」と応じた皇帝の低い声が聖堂に響いた。
「念のため言っておくと、私には『聖なる魔法』があるが、現場から私の魔法痕が出ていないのは宮廷魔導士が確認しているし、そもそも、『聖なる魔法』で人を殺せないのは皆知っての通りだ」
エルンスト王子は深く頷いたが、皇帝から視線を逸らさずに言った。
「ただ、陛下には敢えてお話しにならなかったことがあります。ボシュエ卿、君が覗き窓から見たことを話してくれないか」
「はい。昨夜、陛下と殿下はいつになく険しい表情でお話しされていました。後で陛下に伺ったところによると、春の叙爵についてお話しされたとのことですが、既に内容が決定し公表までされている件についてお話しになっただけで、不穏なご様子になったのには違和感がありました」
ボシュエ卿の言葉に皇帝は微かに目を細めたが、何も言わなかった。
そこで、王子は先を続けた。
「おそらく、お二人が春の叙爵についてお話になったことは事実でしょう。しかし、先ほど申し上げた通り、春の叙爵の中でも、フェール女侯の陞爵とキュイーヴル准将の伯爵への叙爵には、単に爵位を授ける以上の意味がありました。その点でお二方は対立したのです」
王子の言葉に皇帝は僅かに眉を上げた。
「つまり、皇太女殿下は叙爵自体には反対なさらなかった。しかし、陛下がそれをもって女侯に引退を勧奨し、代わりに准将を宰相に任じることには、明確に異を唱えられた――ということではないでしょうか?」
一瞬の静寂の後、皇帝は深い溜息をついてから言った。
「……認めよう。しかし、私が娘を殺してはいないことには変わりない」
「ええ、おっしゃる通りです。寧ろ……恐れながら陛下は、皇太女殿下との最後の会話が険悪なものになってしまったことを後悔しておいでなのではないでしょうか。だからこそ、今日の午前中も、こうして夜が更けてからも、皇太女殿下の側にいらっしゃったのです」
王子が躊躇いがちに言うと、皇帝はただ沈黙した。
その顔には、王子が午前中に見たのと同じ寂しそうな笑みが浮かんでいた。
王子もまた少し視線を落としたが、強いて顔を上げて話を続けた。
「しかし、いずれにしても、陛下との意見の不一致により皇太女殿下は次の行動に移られました。そうですね、フェール女侯殿?」
彼はそう言いながら今度はフェール女侯に視線を向けた。
女侯は眉一つ動かさず、王子を見返した。
「何のことでしょうか?王子殿下」
「先ほど、キュイーヴル伯爵夫人から伺いました。昨夜あなたが皇太女殿下を訪ねたのは、殿下の方からお呼び出しがあったからです。『前に頼んでおいたものを持参するように』との指示と共に。そして、『前に頼んでおいたもの』とは、あの純銀の花器のことです」
一同の視線が棺の傍らに置かれている花器に向けられた。
それは天窓からの月光を受けて妖しくも美しく輝いていた。
「先ほど皇太女とボシュエ卿が『君臣の絆』を結ぶために使ったと言っていた純銀の花器だな。すると、皇太女は――?」
「陛下のお見立ての通りかと存じます。『停戦派』だった皇太女殿下は、『主戦派』の陛下に対抗するために、その純銀の花器を使って、『停戦派』の同志であるフェール女侯殿と『君臣の絆』を結ぼうとされていたのです。陛下が女侯殿の解任と准将の宰相任命を強行されたとしても、女侯殿が皇太女殿下の『第一の臣下』であれば、女神様の『奇跡』による裏付けを得た臣下として、女侯殿の影響力も保持されます。殿下は同志である女侯殿を何としても政治の中心に踏みとどまらせたかったのです」
そう言い切った王子は一瞬だけ月光に照らされたガラスの棺を見た。
――だからこそ、アリエノールは死に瀕していても、即座にその花器を使ってボシュエ卿と「君臣の絆」を結ぶことができたんだ。
――毒に苦しみながら一から構想するのは難しいが、元々計画したことを相手を変えて実行するだけであれば、彼女ほどの聡明さがあれば難なく思いついただろう。
「なんということだ。我が娘ながらそこまで劇的な策を考えていたとは」
皇帝は驚きに目を見開きながら片手を額に当てた。
「しかし、現実には、お二人が『君臣の絆』を結ぶ前にキュイーヴル准将が訪ねて来られたので、その計画は成就しませんでした」
王子がボシュエ卿に視線を向けると、卿は深く頷いて言った。
「私は覗き窓からその場面を見ていました。女侯殿は皇太女殿下と何事か議論された後、手元にあった純銀の花器を殿下に渡そうとしましたが、ちょうど准将殿がいらしたので渡せずに終わりました」
王子もまた卿に頷きを返してから、女侯に向けて言った。
「准将が訪ねて来なければ、あなたは花器を一度殿下に渡し、再度殿下から受け取った後でそれに口を付けることで『絆』を成立させるおつもりだったのでしょう。しかし、そうはいかなかった。それどころか、その数時間後に皇太女殿下は薨御された。皇太女殿下という『停戦派』最大の後ろ盾を失ったあなたは今夜、この聖堂に来る他なかったのですね?」
女侯は暫し考えを巡らせていたが、終にははっきりとした口調で言った。
「……ええ。皇太女殿下が薨御されたことで、『停戦派』の政治的敗北は決まりました。私は宰相を退くしかありません。それは最早致し方のないこと。しかし、皇帝陛下や新たに権力の座につくキュイーヴル伯爵家に、私が皇太女殿下と『君臣の絆』を結んでまで対抗しようとしていたことが知られれば、最悪領地まで取り上げられかねません。姪に相続させる領地を守るために、私はこの計画をなかったことにしなければなりませんでした」
女侯は手に持っていた花器を抱きしめるように引き寄せた。
「それであなたは、今夜、聖堂に残された純銀の花器を錫の花器と交換なさろうとしました。事件当夜に持参された純銀の花器が聖堂に残っていると、お二人が『君臣の絆』を結ぼうとしていたことに誰かが気づいてしまうかもしれませんから」
「おっしゃる通りです、王子殿下。しかし、これで私が畏れ多くも皇太女殿下のお命を奪ったわけではないことは、お分かりいただけたかと思います」
「ええ、あなたは皇太女殿下と結んで『主戦派』に対抗しようとしていただけです。そもそも、女侯殿が当夜に持参された苺からも毒は出ていませんし、あなたが皇太女殿下に『溶ける毒針』を刺せるほど近づいていないのはボシュエ卿も見ていました。そして、花器に毒が仕込まれていたわけでもない――事件直後に、宮廷魔導士が花器を検査したという話も聞いています」
女侯は深く頷いた。
そして、王子は再度一同に向き直った。




