15.十六夜の聖堂①
昨夜、月女神の祭日前夜、エルンストはアリエノールと宮殿中央棟1階のテラスにいた。
南東の夜空に輝く満月だけが、静かに語り合う二人を照らしていた。
「――まあ、エルンスト。だから、あなたはそんなに熱心に薬草の研究をしているのね」
エルンストからメリュジーヌ病で亡くなった彼の妹ミミの話を聞いたアリエノールが言った。
少し見開かれた満月色の瞳が月光に煌めいていた。
「誤解していたわ。私、あなたが薬草学に没頭しているのは――もちろん、第一にはそれが好きだから、そして、第二には、この帝国の宮廷で上手く立ち回るためだと思っていたの」
「正直なところ、それもある」
エルンストは苦笑した。
薬草学が好きなのは本当だが、薬草学への関心を敢えて隠さないのは「政治に無関心な害のない王子」と見られることを意図していたからだった。
「でも、真の目的は、亡くなった妹君の無念を晴らすことだったのね」
エルンストは、その真の目的を一生誰にも明かすつもりはなかった。
しかし、何故か今夜、よりにもよってアリエノールに打ち明けてしまった。
祭日前夜の満月の引力のせいだろうか。
「まあ、そういうことになるかな……」
エルンストは俯き加減に言った。
15年前の冬の日、僅か5歳だったミミはメリュジーヌ病が急激に悪化して亡くなった。
ヴァルト王国の城の中、魔法により温かく保たれた部屋でミミの小さな体だけが氷のように冷たかった。
「最初はメリュジーヌ病自体を治す薬草を見つけようと思ったんだ。でも、既知の薬草では、いくつか組み合わせたとしても難しいことは、先行研究で既に明らかになっている。かといって、未知の薬草を求めて東方に旅に出るというのも最善とは思えない。何十年探し回っても何も見つからないかもしれないからね」
「それなら、どうするの?」
アリエノールは、エルンストの思考を見透かそうとするように目を細めた。
「10年以上考えに考えた。結果、たどり着いたのは、死まで今しばらくの猶予を与えること――謂わば『時間稼ぎ』だった。つまり、難病患者の体を一度仮死状態にして病気の進行を止めるんだ。治療薬が見つかり次第、仮死状態を解いて即座にその治療薬を投与する」
「そんなことができるのかしら?」
アリエノールは首を傾げたが、その口元にはどこか面白がるような笑みが浮かんでいた。
「おそらくできる。まず、仮死状態を解く方は簡単だ。万能薬を数滴飲ませればいい。難しいのは、仮死状態にする方だが、理論上は可能だと思う。南方の国の古い文献にベラドンナ草とヒヨスの種子を摂取した人が仮死状態に陥った記録がいくつもあるんだ。とはいえ、摂取しすぎれば死んでしまうから、ちょうど良い具合に効果を中和する薬を作りたいんだ。万能薬の原材料のモーリュ草にユグドラシルの木の樹液を組み合わせればきっとできるはずだ」
エルンストは一つため息をついた。
「ただし、問題は費用の工面だ。モーリュ草は高価だし、北の半島にしか生息しないユグドラシルの木の樹液を輸入するのにも金がかかる。実用化に向けて技術者を雇おうとすれば給金を出してやらねばならない……」
「なるほど。あなたには悪いけど、ヴァルト王国の第七王子の『お小遣い』じゃあ足りないわね」
アリエノールの言葉にエルンストはただ肩を竦めた。
彼女の言う通り、ヴァルト王国の財政には、第七王子の素人研究に投資するほどの余裕はない。
「でも、幸いあなたはあと数か月でこのアルジャン帝国の帝室の一員よ。あなたの政治手腕があれば、動かせる金額は数十倍になるのではないかしら?」
「そうかもしれないが、この研究の成功は保証できない。ギャンブルみたいなものさ。帝国のことを思えば、もっと堅実な使いどころがあるんじゃないかな」
ヴァルト王国に比べればアルジャン帝国の財政は豊かだが、その分国の規模が大きい。
エルンストは、先ほどアリエノールが「飢える者のいない国を作りたい」と志を語るのを聞いたばかりだった。
帝国の予算は、彼の不確かな研究より、彼女の確固たる志のために使われるべきだろう。
「あなたって本当に真面目ねえ……。つまらないわ」
アリエノールはからかうように言って、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
当然、エルンストはそれが冗談であることはわかっていた。
しかし、それでも胸が軋んだ。
自分がもっと陽気で快活な男なら何か違ったのだろうか。
どうしてもそんな思いに囚われてしまう。
だが、アリエノールは穏やかに言った。
「でも、私は嫌いじゃないわ、エルンスト。あなたの研究費は私が私費で支援しましょう。三代前の皇帝は本当のギャンブルに熱中して破産しかけたのだから、これくらい良いでしょう?」
エルンストはただ彼女の黄金色の瞳を見つめた。
暗闇の中、彼女のシルバーブロンドの髪が満月に照らされて輝いていた。
――ああ、私はこの素晴らしい女性を妻とし、夫として彼女を一生愛し、慈しむのだ。
気がつくと彼は彼女の頬に触れ、そのままその唇に口づけていた。
先ほど二人一緒に味わったルバーブジャムの味がした。
***
「――殿下、王子殿下」
東棟2階の窓から斜向かいに見える中央棟のテラスを眺めていたエルンスト王子は、顔を上げ、手に持っていた植物図鑑を閉じた。
普段は薬効のある植物についてしか読まないが、今まで開かれていたのは、珍しく観賞用の花に関するページだった。
振り返ると、背後に立つボシュエ卿のアメジスト色の瞳が彼を見つめていた。
「ああ、すまない、ボシュエ卿。どうだった?」
王子は数時間前にボシュエ卿を使いに出していた。
今回の事件のパズルの残りのピースを集めるためだ。
「仰せの通り、まずはフェール女侯殿と親しい宮内大臣の女伯殿に面会してまいりました。女伯殿によると、女侯殿には嫡子はいませんが、彼女の死後、フェール侯爵領は女侯殿の兄の末子であるマリー=ヴァレリー様ことエタン夫人が相続することになっているそうです。特別目をかけていらっしゃる姪御殿のようです」
王子は頷いた。
これで一つ埋まった。
「それから、マーリン師にも再度お会いし、今回の事件捜査の流れを改めて確認しました。といっても、マーリン師は、昨夜まで別の任務で遠方にいたので、事件発生前の対応と初動捜査については当番宮廷魔導士から報告を受けた内容とのことです」
ボシュエ卿は顎に手を当てながら話し始めた。
「まず、事件発生前のことです。昨夜、礼拝後の午後8時頃、皇太女殿下が居殿に戻った際、キュイーヴル伯爵夫人と私を含む側仕えの者たちが検査を受けて異常がなかったことと、午後11時半前に西棟側の水場から戻った下級女官が検査を受けて異常がなかったことは、昼間に師から聞いた通りです」
王子が頷くと、卿は話を先へと進めた。
「次に事件発生後の初動捜査です。まず、当番宮廷魔導士が寝室で皇太女殿下のご薨御を確認しました――殿下の最期に立ち会った私が居殿の入口で警備に当たっていた彼らを呼びに走ったのです。その後、数十分程度で非番の宮廷魔導士も現場に駆けつけて、亡骸を別棟にある宮廷魔導士の詰所に運び、検死が行われました。夜明け前に検死が完了した時点で、亡骸は聖堂に移されたそうです。並行して、現場に残った宮廷魔導士により居殿一帯は即座に封鎖され、側仕えの者たちは検査された上で自室や控室に帰されました。私もここで一度自室に戻っています。先ほどキュイーヴル伯爵夫人から聞いた花器の件も確認しましたが、確かに伯爵夫人から聖堂に花を飾るための花器を持ち出したいと要望があり、検査済みの花器を渡したそうです」
王子は再度頷いた。
想定通りだった。
「そして、夜明け頃、マーリン師が宮殿に到着し、本格捜査が始まりました。今日一日かけて皇太女殿下の居殿と中庭含む居殿周辺、下級女官や下級侍従の控室や宿舎、キュイーヴル伯爵夫人の私室と市内の伯爵家の私邸などを捜索しましたが、目ぼしい成果は挙げられていません。明日からは宮殿の公的な部屋や庭園、別棟に捜査を拡大するそうです。皇帝陛下が許可なされば、閣議の間や会食の間、聖堂なども捜索できるかもしれないということでした」
これもまたパズルの隙間にぴたりと嵌った。
王子は静かに「ありがとう、ボシュエ卿」と言った。
「今夜の聖堂の警備の件も問題ないね?」
「はい、マーリン師に依頼しました」
「では、早めの晩餐にするべきだな。君の分も用意させる」
王子はボシュエ卿の肩越しに東側の窓の外を見た。
紺色の空に十六夜月が昇り始めている。
「あの、王子殿下……あなたはもう真相に至っているのでしょうか?」
王子はその問いに答えなかった。
今はまだそのときではなかった。
「もう少し月が高く昇ったらマーリン師と合流して聖堂に行こう。君も一緒に来てくれるね、ボシュエ卿」
パズルの最後のピースはそこにある。
***
アルジャン帝国暦1814年、柘榴月25の日の夜。
当夜の月は、前夜の満月から僅かに欠けた十六夜月だ。
真冬にしては珍しく雲一つない空から、その欠けた月の光が降り注ぐ。
日付が変わった真夜中過ぎ、首都郊外の宮殿敷地内にある聖堂では、祭壇前に置かれたガラスの棺が月光に照らされた。
そして、それに忍び寄る者の横顔もまた――。
「フェール女侯殿、何をしていらっしゃるのです?」
低い男の声に宰相の女侯の肩が僅かに震えた。
男は周囲より数段高くなった内陣にある祭壇の前に立ち、そこに続く階段に足を掛けていた彼女を見下ろしていた。
「そちらにお持ちなのは……錫の花器でしょうか?」
女侯は右手に持っていた錫の花器を自分の体に引き寄せた。
祭壇前のガラスの棺の傍のテーブルに置かれた銀の花器とよく似たデザインだが、素材が違うのは男の言う通りだった。
「灯りを!」
男が言うと、聖堂のところどころに小さな灯りが灯された。
薄暗い聖堂の中、目の前の男の宝石のような青い瞳にその灯りが反射し、揺れていた。
女侯が思った通り、彼はガラスの棺に眠る皇太女の婚約者――ヴァルト王国のエルンスト王子だった。
「王子殿下、どうか誤解なさらないでください」
女侯はすぐに冷静な声色を作った。
これまで数多の修羅場を潜り抜けてきた彼女には容易いことだった。
そして、さり気なく目を細めて月明かりに照らされた王子の表情を観察した。
しかし、彼がどんな感情を抱いているのかは窺い知れなかった。
皇太女と王子の婚儀は、典型的な政略結婚のはずだった。
その婚姻が成立する前に婚約者を失った彼の悲しみは、通り一遍のものなのか、もしくは、海よりも深いのか――。
「女侯殿、どうかそのまま」
王子の青い瞳が射抜くように女侯を見つめていた。
女侯は彼の次の言葉を待ったが、意外にも彼は彼女から視線を逸らし、方々に視線を走らせた。
「……他の方々もいらっしゃったようです」
彼が言うと、様々な方向から人影が現れた。
まず、女侯の背後の通路を通って堂々と現れたのは、皇帝その人だった。
次に、先ほど女侯が入って来たのと同じ内陣横の裏口から現れたのは、若き英雄キュイーヴル准将――宮廷魔導士長マーリン師に付き添われていた。
そして、最後に、内陣下の一角獣の彫像の影にある隠し通路から姿を現したのは、筆頭女官キュイーヴル伯爵夫人――上級神官ボシュエ卿に付き添われていた。
一同はそれぞれに戸惑い、恐れ、驚愕の表情を浮かべながら、内陣へと続く階段下に集まった。
祭壇前のエルンスト王子は、人々を見渡して言った。
「皆さま、こんばんは。まさか、こんなに多くの方にお集まりいただくとは……予想外でした。しかし、これも女神様のお導きなのかもしれません」
時刻は既に真夜中を四半時ほど過ぎていた。
天窓から十六夜の月光が降り注ぎ、その真下に立つ王子の姿をはっきりと照らし出した。
「どうかこれから私がお話しすることを聞いていただけないでしょうか。女神様の祭日前夜に皇太女殿下の身に何が起こったのか、その真相を皆さまにお話ししたいのです」




