第六話 私が決めました
楢峰地方裁判所の傍聴席は、前から三列目までが記者で埋まっていた。
俺は五列目に座る。
抽選の整理券は、開廷の二時間前から配られていた。並んだのは俺だけではない。
被告人席の鈴音は、拘置所から来る服を着ていた。
首には何も下げていない。壺は、いまは証拠の写真の中にある。
保釈はその二週間前に出ている。
放火予備と、妻への傷害。俺の裁判は、別にある。
正面のモニターに、取調べの録画が映った。
音は天井のスピーカーから出る。
部屋の空調と、紙をめくる音が、声と同じ大きさで入っていた。
録音というのは、いちばん要らない音をいちばん丁寧に拾う。
画面の中の鈴音は、病院の寝間着の上にコートを着ていた。
首に、白い小さな骨壺が下がっている。
彼女は両手を前に出した。
手首を揃えて、机の向こうへ差し出す。
「私が殺しました。28人、全部です」
スピーカーの雑音が、その声の下でずっと鳴っている。
法廷で誰も動かなかった。動かないので、雑音だけが大きくなる。
体を前に倒したとき、壺が一度だけ揺れて、鎖の長さのぶんだけ戻った。
*
「辻本鈴音さん。ご主人との関係から伺います」
奥寺の声だ。画面の外にいる。
「高校のとき、ご主人から受けていたのは、どういう支援ですか」
「お弁当です」
答えるのが速い。
聞かれてから考える人の速さではなかった。
「週に何回ですか」
「土曜日だけです。図書館が開いている日だけ」
「お金は」
「一度も払っていません。払わせてもらえませんでした」
「ご主人は、見返りを求めましたか」
「求めていません」
「本当に」
「……順位表を見せていました。それを見返りと言うなら、そうです」
「順位表は、誰が持ち出したものですか」
「私です。見てほしかったから」
検察官が席を立って、また座った。
この証言がどちらに効くのか、たぶん本人も決めかねている。
机の上に、証拠のビニール袋が置かれた。
四つ折りの跡がついた紙が入っている。
七年前の模試の順位表が、いまも畳んだ形を覚えていた。
ビニールの上から、番号の札が貼られている。証拠になると、紙は厚く見える。
「これは」
「合格通知です。先生が……夫が、名前のところだけ読みました」
「先生、と呼んでいたんですか」
「そのころは」
「合格のあと、ご主人は連絡を絶っています」
「はい」
「理由を、ご本人から聞きましたか」
「聞いていません」
「では、どう理解しましたか」
「私が、住みたいと言ったからです」
画面の中で、彼女は一度だけ息を継いだ。
「あの人は、私を家に入れませんでした。18歳の子を、家に入れませんでした」
「それを、どう受け取りましたか」
「守られたと思いました」
守られた、と彼女は言った。
言い直さなかった。言い直す場面ではないと、彼女のほうが知っている。
傍聴席で、誰かが小さく息を吐いた。
俺の二つ隣の記者が、手元の紙に線を引くのが見えた。
*
「12歳のときの件について伺います」
「はい」
「ご主人は、あなたに何かしましたか」
「していません。一度も」
「では、あのとき、あなたに何があったんですか」
画面の中で、彼女は下を向いた。
下を向いたまま、五秒くらい止まっていた。
録画には、その五秒も入っている。
「兄にされたことを、先生のことにされました」
一文だった。
それ以上は言わない。奥寺も、それ以上は聞かない。
弁護人が、資料を一枚示した。
十年前の、両親と警察のやりとりの記録だ。角に、クリップの跡が茶色く残っている。
俺は、その記録を十年前に一度だけ見せられている。
同じ紙が、いまは別の人間の罪を説明するために出てくる。
「去年の件です。妊娠と、そのあとについて」
「はい」
「ご主人は、堕ろせと言ったと供述しています」
「言っていません」
「麻酔を使わせなかった、とも」
「……夫は、その日、家にいませんでした」
「では、何があったんですか」
「父と母が来ました」
「ご実家から」
「はい。飲み物を出されて、そのあとは覚えていません」
「目が覚めたときは」
「病院でした。終わっていました」
傍聴席の、遺族のために取ってある列で、誰かが立ち上がった。
廊下へ出ていく足音が、扉が閉まるまで続く。
弁護人が、病院の記録を示した。
同意書の署名は、彼女の字ではない。
麻酔の記録には、通常どおりの記載があった。
俺が取調室で言ったことは、その一行で全部落ちた。
「同意書に署名があっても、ご本人の同意にはなりません」
画面の外で、奥寺の声がそう言った。
「不同意堕胎の疑いがあります。医療機関の側については、別に調べます」
「首に下げていたものについて伺います」
「私が作りました」
「作った、というのは」
「手続きをして、火葬して、分けてもらいました。お店で、鎖をつけてもらいました」
「ご主人に言われて、ですか」
「言われていません」
「ご主人は、自分が下げさせたと言っています」
彼女は、少し黙った。
「あの人は、私に、忘れるなと言いました」
「忘れるな、と」
「はい。でも、忘れたくないのは、私です」
画面の中の彼女は、首のあたりに手をやった。
もう何もないところを、指が一度だけ探した。
俺は膝の上で指を組んだ。
組んだ手を、隣の席から見られている気がした。見られていても構わない。
*
「祝言について伺います。費用は、あなたが」
「私が出しました」
「なぜ、あの日に、あの人数を」
「集まってもらう理由が、ほかになかったからです」
声の高さが、さっきまでと変わらない。
弁当の話をしていたときと、同じ高さだった。
傍聴席が動く。
前の列で、ペンがいっせいに走る音がした。
「集めて、どうするつもりでしたか」
「殺すつもりでした」
「全員ですか」
「そこにいる人、全員です」
「準備を始めたのは、ご主人に頼まれたからですか」
「頼まれていません。私が決めて、用意しました」
検察官が、受診と処方の記録を示した。
三年分ある。複数のクリニック。
一回ごとの量は、どれも普通の量だった。普通の量を、三年分並べた表になっている。
検察官が、その表の行数を読み上げた。読み上げるのに、しばらくかかった。
供述どおりの場所から、使い残しも出ている。
本家の納屋の、農薬の棚の一段下だ。
「ご主人には」
「夫の飲み物に入れました。祝言が終わって、部屋に戻ってからです」
「なぜ」
「見せたくなかったからです」
「ご主人は、いつ起きましたか」
「分かりません。目が覚めたら、首を掴まれていました」
「そのあとは」
「覚えているのは、そこまでです」
そこで、録画が一度止まった。
弁護人が異議を述べ、裁判長が短く応じる。俺の耳には、言葉の中身よりも、止まっている雑音のほうが残った。
「ご主人がガソリンを撒いたことは」
「見ていません。あとから聞きました」
「どう思いましたか」
「後始末をしてくれたんだと思いました」
記者の手が止まった。
止まってから、いっせいに動いた。翌朝の見出しは、たぶんこの一行で決まる。
弁護人が、婚姻届の控えを示した。
提出前の複写だ。証人の欄に、会計士と大家の名前が入っている。
画面の中で、彼女はその紙を見た。
「それは、私が出しに行きました」
*
「ひとつ、分からないことがあります」
奥寺の声だった。
「結婚したばかりです。どうして、その日に」
「子どもが、もういないからです」
「それは」
「もう産めません。夫に、家を返せません」
「価値がない、なんてことはない」
画面の外から、そう言われた。
彼女は少し黙った。
「そうかもしれません。でも、返せないことは変わりません」
画面の外の人間は、そこで引かなかった。
引かなかったが、彼女の答えも動かなかった。
「だから、殺したんですか」
「あの親族が生きているかぎり、夫は、この町から離れられません」
「離れる、というのは」
「私が全部持っていきます。そうしたら、夫は、きれいなところで暮らせます」
「鈴音さん」
「奥寺さん」
「はい」
「夫を、帰してください」
「それは、私が決めることではありません」
「私が決めました。全部、私が決めました」
画面の中で、彼女はもう一度、両手を前に出した。
もう手錠はかかっている。
かかっているものの上に、また手首を揃えて差し出していた。




