第四話 合格の日
穂澄西高校の正門は、バス通りに面している。
塾のチラシは、高校の前でいちばん減る。朝より、下校の時間のほうが減る。
その日、俺は二束目を開けたところだった。
制服が固まって出てくる。三人、五人、また三人。
差し出す。受け取る。
受け取らない。手がふさがっているふりをして避ける子もいる。
一人が、俺の前で止まった。
止まって、動かなくなった。
髪を後ろで一つに結んでいる。上履きの袋を提げて、鞄の肩紐を両手で握っていた。
顔は覚えていた。三年で輪郭が変わっても、目と目の間隔は変わらない。
12歳のときは、前髪で片目が隠れていた。いまは出ている。
腹の前の束が、少し重くなった。
「せん……」
声が途中で切れる。
「先生」
俺は束を左手に持ち替えた。
生徒に呼ばれて返事をしない教師はいない。俺はもう教師ではないが、返事の仕方のほうは体が覚えている。
「新堂さん」
彼女の肩が下がった。名前を呼ばれるとは思っていなかったらしい。
「あの、私……ずっと」
「……ごめんなさい。先生、ごめんなさい」
謝る言葉は、三年かけて用意されていたはずだった。
用意されていたはずのものが、二つしか出てこない。
彼女は一歩前に出て、そこで止まった。
俺も動かなかった。バスが一台、俺たちのあいだの道を通り過ぎていく。
「お父さんとお母さんが、もう戻れないって」
「あんなに大きくしたのに、いまさら違いますって言ったら、お父さんとお母さんが捕まるって」
「だから、教室だと言ったのか」
「……はい」
「誰が考えた」
「……お母さんが、そう言えばいいって」
「絵は」
「あれは、私が」
そこで声が止まった。
止まった場所から先は、三年経っても動かないらしい。
「ずっと言えなくて。先生に会ったら言おうと思って、でも、どこにいるか」
そこまで言って、彼女は鞄の肩紐を握り直した。
握り直すたびに、指の色が変わる。
「先生、いま、何をしてるんですか」
「見て分かるだろう」
俺はチラシを一枚、差し出した。
彼女は両手で受け取った。
その日、両手で受け取ったのは彼女だけだ。
*
次の週、同じ場所に立った。
彼女はまた止まった。鞄から何かを出そうとして、やめる。
「先生。……数学、教えてもらえませんか」
「金は」
「ない、です」
「いらない」
「どうして」
「俺はいま、教えることしかできない」
彼女は少し考えて、頭を下げた。
市立図書館の学習室は、四人掛けの机が六つある。
予約票に名前を書くと、二時間使える。高校生も、老人も、誰かの小さい子も座っている。
最初の日、彼女は一次関数でつまずいた。
三年のブランクではない。中学の途中から聞くのをやめた人間の、つまずき方だった。
三度目の土曜日、彼女は昼を過ぎても何も食べなかった。
「食べないのか」
「あとで食べます」
「いまは」
彼女は答えなかった。
順位が下がった月は、昼の金が出ない家らしい。
そういう家があることは、教師をしていたころ、知識としては知っていた。
知識としては、というのは、目の前に座らせたことがない、という意味だ。
翌週、俺は弁当を二つ作った。
自分の分と、もう一つ。中身は同じにした。
違う中身にすると、意味が変わる。
「新堂さん、先に食べていい。ノートはあとで見る」
彼女は蓋を開けて、閉めて、もう一度開けた。
「……いただきます」
包みから出したばかりの弁当箱は、手のひらより少しだけ温かい。
彼女はそれを両手で持って、しばらく机に置かなかった。
礼は言われた。俺は、いい、とだけ返す。
*
一年が過ぎた。
図書館の学習室が取れない日は、駅前のファミレスに行った。
ドリンクバーが一人200円。二人で400円。
二時間いても、誰も何も言わない。
コーラは薄い。氷が多いのか、シロップが減っているのか、毎回同じ薄さで薄かった。
彼女はそれを一杯だけ取って、三時間持たせる。
窓際の席は一度も取れなかった。いつも通路側の、二人掛けだ。
模試の順位表を、彼女は毎回持ってきた。
折り目が四つついている。制服のポケットに入る大きさに畳む折り方だ。
順位が上がった月は、小遣いが出る。下がった月は、昼の金が消える。
家の中に、条件分岐が一つ置いてある。
条件が満たされたら実行し、満たされなければ実行しない。書いた人間は、たぶん自分が何を書いたか分かっていない。
分岐は、書いた人間より長く動く。
「先生、これ、合ってますか」
「合ってる。途中式が一行足りない」
「書きます」
「書け」
ノートの字は、三年前より小さくなっていた。
小さい字は消しやすい。消した跡が、ページの同じ場所に何度も残っている。
夏の終わりに、彼女の携帯が鳴った。
画面に「お兄ちゃん」と出ている。彼女は伏せて、鳴り終わるのを待った。
「出なくていいのか」
「いいです」
15歳上の兄がいると聞いたのは、その日だった。
兄の話をするときの口数は、順位表の話をするときより少ない。
彼女は、俺が返信するまで次を送らなかった。
一日待つ日もある。待っていた日の文面は、待っていない日より短い。
短いほうが、たぶん何度も書き直している。
三年目の秋、順位表の数字が二桁になった。
彼女はそれを机に置くとき、裏返して置いた。
裏返して、俺が表に返すのを待っている。
紙の手ずれは、月を追うごとに減っていった。
持ち歩く時間が、短くなっている。
*
合格通知は紙で来た。
番号はその前に出ていたのに、彼女は紙が届くまで何も言わない。
図書館の前の階段に座って、封筒を出した。
「開けてください」
「自分で開けろ」
「先生が開けてください」
俺が開けた。
名前と、学部と、手続きの期限が書いてある。
学校は、東京の、この国でいちばん入りにくい国立大学だ。
それだけの紙だ。18歳の三年分が、A4の紙一枚になって届く。
「読んでください」
「読んだ」
「声に出して」
俺は名前のところだけ読んだ。彼女はそれで足りたらしい。
彼女は階段の下を三往復した。
戻ってきて、俺の二段下に立つ。立ったまま、上を向いた。
「先生。私、先生の家に住みたいです」
「何を言ってる」
「ごはん作ります。掃除もします」
「……先生の奥さんと、娘さんの代わりには、なれないけど」
「ならない」
「なれないのは、分かってます」
「代わりの話をしてるんじゃない。住まない、と言っている」
彼女は口を開けて、閉じた。
「じゃあ、卒業したら」
「新堂さん」
俺は封筒を彼女に返した。
「大学は東京だ。ここには、もう来なくていい」
「先生は、東京にいたんですよね」
「昔の話だ」
「戻らないんですか」
「戻らない」
彼女は封筒を胸の前で持ったまま、何も言わなかった。
階段の上を、自転車を押した誰かが通っていった。
*
その月の終わりに、俺は返信をやめる。
最初の三通には返した。四通目からは返していない。
五通目のあと、彼女は送るのをやめた。
四通目の文面は覚えている。覚えているが、ここには書かない。
塾を辞めた。市を出た。
番号も替えた。
*
「それは、彼女のほうが離れていったということですか」
取調室で、奥寺がそう聞いた。
「いや」
俺は机の上で指を組んだ。
「決めたのは俺だ。あの子じゃない」




