↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十年前、俺を「わいせつ教師」にした教え子と結婚した。初夜、彼女の一族28人が死んだ  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/7

第三話 チラシの束

夕方に署を出た。


送ると言われて、断った。歩いて帰れる距離だ。


店の前の道に、人が集まっていた。


規制線が、電柱から店の角まで張ってある。制服が何人も立っていた。


アスファルトの上に、白い布が二つ置かれていた。


一つは大きい。もう一つは、ひどく小さい。


俺は規制線の手前で足を止めた。誰かが俺の名前を呼んだ。


腕を掴まれた。


店のガラスに、赤いスプレーで字が書いてある。


「この家に近づくな」


一行だけだ。書いた人間は、あまり長い文章を書く気がなかったらしい。


肩に手を置いた警察官が、事実だけを並べた。


「昨夜、男が何人か、この店に入っています」


「妻は」


「お子さんを抱いて、三階から屋上に上がられた。そこから先は、お話ししません」


「落ちたのか」


「……高さがありました。下に、緩衝になるものがなかった」


「娘は」


「ご一緒です」


「一緒、というのは」


警察官は答えなかった。


答えないことが答えになる。


俺は布をめくろうとして、止められた。


強く止められたわけではない。腕に、手が二本乗っただけだ。


店の中にも入れなかった。


カウンターの上のカメラが、台ごと壁から外されているのが、ガラス越しに見える。


「あれは」


「壊されています。ただ、先日お見せした20分は、署に残っています」


「やったやつは」


「まだ何も申し上げられません」


「妻は、何か言ったか」


「私は、そこにはいませんでした」


そこは残るのか、と思った。


残っても、もう誰に見せるものでもない。


「今夜、泊まるところはありますか」


「ない」


「署のほうで用意します」


用意された部屋には、洗面台と、毛布が二枚あった。


毛布は新しかった。こういう夜のために新しい毛布を置いておく部署が、どこかにある。


誰がやったのかは、その場では言われなかった。


一週間して、署で名前を教えられた。


新堂鈴音のいとこたちだ。二十代が何人か、その夜のうちに県外へ出ている。


「本人たちには、まだ接触できていません」


「県外か」


「はい」


「捕まるのか」


「やります」


やります、という言い方は、できます、とは違う。


俺はそのとき初めて、この人たちの語尾を数えるようになった。


出てくる証言はない。


店のカメラは壊されていた。あの通りに、道路を向いた防犯カメラはない。


    *


包丁は、厨房の壁から取った。


粉のついたタオルで柄を拭いて、上着の内側に入れた。


本家までは車で40分ある。


坂を上がるあいだ、俺は何も考えていなかった。考えていたものは、全部坂の下だ。


門は開いていた。


母屋の戸も開いている。人が逃げたあとの家は、たいてい開いている。


座敷にも、台所にも、誰もいなかった。


縁側に、熊手を持った老人が立っていた。


新堂鈴音の父方の祖母だ。80を過ぎている。


「誰だ」


縁側から、そう言われた。


「辻本だ」


名乗ると、熊手の先が上がった。


先は、俺の胸の高さで止まった。


「出ていけ」


手が震えていた。震えは、たぶん力のほうだ。


俺は包丁を出さなかった。


出さずに、熊手の柄を掴んで、横へ払った。


それだけだ。


縁側の板と、庭の踏み石で、順に音がした。


二つ目の音のほうが短かった。


俺は包丁を持ったまま、その場所を見ている。


手に残っているのは、熊手の柄の、乾いた木の感触だけだった。


    *


住居侵入と傷害致死。懲役三年、実刑。


判決を読み上げているあいだ、俺は自分の手を見ていた。


国選の弁護士は、最後まで丁寧な人だった。


「控訴されますか」


「しない」


「されたほうがいい。量刑のところは、まだ動きます」


「しない」


書類を鞄に戻す音が、法廷の外の廊下で妙に大きく響いた。


十年前の告発について、裁判所は何も言わなかった。


言う場所ではない。俺の名誉は、どの法廷にも係属していなかった。


禁錮以上の刑が確定すると、教員免許は失効する。


そういう条文がある。


条文は、俺が何をしたかを見ない。人が死んだかどうかだけを見る。


中で一度、死のうとした。書くのはそれだけにする。


「辻本さん、出たあとの予定は」


面接に来た保護司に、そう聞かれた。


「働く」


「どこで」


「決めていない」


死ななかった理由は、何度か作り直した。


いちばん長く保ったのは、新堂鈴音がいまどこにいるのか知りたい、という理由だった。


「辻本。荷物はそれだけか」


「それだけだ」


出所の日は、よく晴れていた。


門の外に迎えはいない。妻の実家からの連絡は、公判のあいだに一度あったきりだ。


35歳になっていた。


持って出たのは、封筒が一つと、失効した免許状の控えだけだった。


妻と娘の骨は、妻の実家が引き取っている。


会いに行く資格の話をされたことはない。話をされる前に、俺のほうが行かなくなった。


    *


仕事はすぐには決まらなかった。


三つ目に行った個人塾で、チラシ配りなら明日から来ていいと言われた。


「経歴、うちでは聞きません」


そう言った塾長は、俺の顔も三秒しか見なかった。


「配るだけです。教室には入らないでください」


「分かった」


「時給1200円。交通費は出ません」


「いい」


朝、事務所で束を受け取る。


一束500枚。腹の前で抱えると、ちょうど呼吸のあたりに角が当たる。


駅前と、スーパーの出口と、バス停の屋根の下。


「いりません」


「結構です」


受け取らない人のほうが多い。


断る言葉は、だいたい二種類しかない。


差し出して、引っ込める。その往復を一日に何百回かやると、紙の端が指の同じところを削っていく。


「今日、何枚いけた」


「380くらいだ」


「明日は駅の反対側にして。こっちは飽きられてる」


夕方、事務所に戻って余りを数えた。


一枚、端の印刷がかすれているのがあった。


インクの乗りが悪かったらしい。抜いて、机の端に置く。


残りを揃えて、紙の帯を巻いた。


束は、朝より軽い。軽くなった分だけ、今日は配れている。


明日の分は、明日の朝に渡される。


俺は束を棚に戻して、事務所の電気を消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。