第四話 影
飯盛山城の最奥、もはや外界の光すら届かぬ暗室には、ただ死を待つ三好長慶の、微かな喘鳴だけが溜まっていた。
その静寂を破ることなく、影の中から野間が姿を現す。
彼は長慶の枕元へ静かに膝を突くと、畿内の仮御所から届いた報せを、感情を排した低い声で伝えた。
「左馬頭(義栄)殿は、三人衆の擁立に深く安堵され、連日の拝謁に心を満たしておられる様子。また、先だって弾正(松永久秀)が御所へ参り、左馬頭殿へ『将軍は枯れ木に過ぎぬ』と牙を剥きましたが、左馬頭殿はこれを不忠の暴言として退けられたとのことに出ございます」
野間の報告は、現在の義栄がどのような幻想の中に身を置いているかを、残酷なまでに浮き彫りにしていた。三人衆の剥き出しの強欲を「己への期待」と履き違え、久秀が突きつけた冷徹な実相を「悪意」として撥ね退けた青年。彼は未だ、自分が他者の欲の濁流に浮ぶ、ただの木の葉に過ぎぬことに気づいていない。
長慶は、閉じた眼の奥でその報告を聞いていた。枯れ枝のような指先が、布団の上で微かに震える。
「……そうか」
漏れ出たのは、深い溜息とも、あるいはすべてを予期していた者の諦念ともつかぬ声であった。
長慶の脳裏には、かつて己が犯してきたあまたの過ちが蘇っていた。
時を留めようとし、権力を握りしめようとした結果、最も大切な人々を失い、自らの周りを欲の化け物だけで満たしてしまった、血塗られた生涯。
だからこそ、あの若き義栄に「人は過ちを犯す。それを泥の中でなお生かせ」と、自らの贖罪のすべてを託したはずであった。
しかし、義栄は長慶の語った「泥の重み」ではなく、将軍という「器の輝き」を選び取ってしまった。
「やはり、人は……持たねば、気づかぬものか」
長慶の掠れた声に、深い哀憐の情が滲む。
何も持たぬがゆえに人を求め、孤独を埋めるために立場に縋る青年の脆さを、この老天下人は誰よりも正確に理解していた。
しかし、その先に待つのが、握りしめた拳の中で全てが砂のように砕け散る地獄であることを、経験せぬ者に伝える術はどこにもない。
長慶はゆっくりと眼を開け、天井の闇をじっと見つめた。
その灰色の瞳には、もはや己の家を動かす力を持たぬ、一人の老人の無力さだけが宿っていた。
義栄が長慶の託した「贖罪」をただの公的な約束事と見做し、己の飢えを満たすための宴に酔いしれたことは、三好家の崩壊を決定づける遠因となった。
老天下人の最期の祈りが、若き将軍の耳に届かぬまま虚空へ消えていく。そのすれ違いの残酷さは、すでにこの飯盛山城の暗闇のなかに完結していたのかもしれない。
長慶の呼吸が、いっそう深く、不気味な静けさの中へと沈んでいく。
巨星がまさに墜ちんとするその影で、歴史の歯車は、誰も止めることのできぬ速度で破滅への坂道を転がり始めていた。




