第一話 旗
阿波の海を渡り、畿内の土を踏んだ足利義栄を待っていたのは、それまでの侘び住まいとは一変した、絢爛たる熱気であった。
三好三人衆の手によって整えられた仮の御所には、連日のように京の公家衆や、畿内近国の大名、国衆たちの使者が群参していた。
「足利の正統たる左馬頭様がお立ちになられたなれば、天下の静謐も間近にございます」
広間の畳に額を擦りつけるようにして平伏する、諸将の群れ。
その発する声の地鳴りのような響きを、正面の座に据えられた義栄は、胸の昂ぶりを抑えながら見つめていた。
これまで、阿波の片田舎でただ息を潜めていた日々のなかで、己を顧みる者など誰一人としていなかった。一匹の野良猫にすら拒絶された、あの底知れない孤独。それが今、この至高の座に身を置くだけで、数多の人間が己を求め、己の言葉一つに一喜一憂している。
(筑前守殿は、持つことは失うことだと仰った。だが、やはりそれは違う……)
義栄は、自らの内に湧き上がる確信を噛み締めていた。
将軍という器。足利という名。これさえあれば、人はおのずと集まるのだ。
己が求めて止まなかった「人との繋がり」も、この立場さえあれば、決して失われることなく自らの周りに留まり続ける。彼は、押し寄せる拝謁の波の中に、自らの孤独を埋める温もりを見出したと信じて疑わなかった。
しかし、このとき仮御所の門を叩いた者たちの眼が、義栄という一人の青年の「人間味」を見ていたわけではないことは、のちの歴史が冷徹に証明している。
彼らが頭を垂れていたのは、義栄という生身の人間ではなく、その後ろに掲げられた「足利十四代」という都合の良い旗印であり、その布を支える三好の武力そのものであった。拝謁の列が長くなればなるほど、集まっていたのは人ではなく、その旗を利用せんとする剥き出しの「欲」に過ぎなかったのである。
この主客の決定的な誤認が、彼をさらなる深淵へと誘う土台となった。
持たぬ者が立場という幻影に酔い、求める者がその実相を見誤っていく歴史の皮肉は、すでにこの華やかな擁立の宴のなかに胚胎していた。
「左馬頭様、次なる御拝謁は摂津の国衆にございます」
長逸が満足げに、しかしその眼の奥で「旗」の価値を値踏みするような冷たい光を湛えて告げる。
義栄は深く頷き、ふたたび押し寄せる人の波へと向かって、静かに右手を挙げた。
その掲げられた手の影が、これからの激流を予感させるように、薄暗い床板へ長く伸びていた。




