第五話 擁
飯盛山城の一角に設けられた政務の間には、ただならぬ緊迫感が張り詰めていた。
広間の中心に据えられた長机を囲むのは、三好長逸、三好政康、岩成友通の三人衆である。彼らの前には、畿内諸国の大名や公家へ送るための、夥しい数の奉書が積み上げられていた。
「足利左馬頭(義栄)殿を次の公方として擁立する。これ以外の道は万に一つもございませぬ。すでに京の公家衆への工作も、この長逸が抜かりなく進めております」
長逸の鋭い眼光が座を圧する。その言葉の端々には、新たな将軍を傀儡として据えることで、三好の権力をさらに盤石なものにせんとする「強欲」が満ちていた。
「ふん、京の公家どもなど、金さえ積めばどうとでも転ぶ。問題は、他国の大名どもがこの擁立に素直に従うかどうかだ。前線で命を張る我らの軍勢が、いかに威を示せるかにかかっている」
政康が不満げに鼻を鳴らす。常に己の武功の序列と評価を気にする彼の胸中は、他者への不信と「嫉妬」で波立っていた。
その傍らで、山積みの書類に墨を入れ続けていた友通が、顔も上げずに冷たく言い放つ。
「他国への言い訳など、私が書状の文言一つで封じてみせます。諸将への差配も、兵糧の算段も、すべてこの友通の手の内にあれば足りる。余計な異論は無用」
実務の一切を抱え込み、他者に一切の権限を渡そうとしない彼の「暴食」的な執着が、暗闇の中で筆を走らせていた。
この日、三人衆によって「十四代将軍・足利義栄」の擁立は正式に決定された。しかし、この至高の政務の間に、三好家の頂点たる筑前守長慶の姿はどこにもなかった。ただの一度も、その重い足音が響くことはなかったのである。
静寂を破るように、部屋の隅に控えていた側近の野間右兵衛尉長久が、静かに一通の書状を差し出した。それは、三人衆の決定を全軍へ伝えるための総決起の命であった。
野間は懐から筆を取り出すと、息を整え、書状の末尾へ一気にある形を書き入れた。
それは、三好長慶の「花押」であった。
流麗にして力強いその署名は、病床で瀕死の褥しとねにある長慶の本人が書いたものと、いかなる史眼をもってしても見分けることのできぬほど、完璧に模写された偽筆であった。
「……筑前守様のご差配にございます」
野間が淡々と告げると、三人衆は深く頷き、誰もその真偽を疑おうとはしなかった。
いや、疑う必要すら合意の上でなかったのだ。主君が生きているか死んでいるかなど、彼らにとっては些事に過ぎない。ただ「三好長慶」という天下の怪物の名さえ機能していれば、彼らはその影の内で、自らの欲望のままに天下を動かし続けることができるからである。
同じ頃、城の裏門では、出立の準備を整えた足利義栄が、網代車の小さな窓から飯盛山城を見上げていた。
義栄の胸を満たしていたのは、これまで彼を苛んできた不安ではなく、にわかには信じがたいほどの高揚感であった。
(これで……人が集まる)
三人衆が己を将軍として仰ぎ、天下の諸将が己の名のもとに動き出そうとしている。
阿波の片田舎で独り、誰からも顧みられなかった空っぽの青年のもとに、いま巨大な時代のうねりが押し寄せているのだ。将軍という至高の器さえ手に入れば、あの昼間の猫のように己から離れていく者などいなくなる。すべての孤独は終わり、己は多くの人々に必要とされる存在になれるのだと、義栄は疑いもなく信じ込んでいた。
だが、このとき、長慶が自らの血を吐くような生涯をもって託した「人間の罪と泥への憐れみ」と、義栄がただ華やかな救済として受け取った「将軍という器」の間に、埋めがたい致命的な乖離があったことは、その後の歴史が証明している。老天下人の遺言と、若き将軍の野心が、真には一寸の交わりも持たぬまま偽りの幕を開けたのだった。
「出立せよ」
義栄の乗った網代車が、不気味な軋みを立てて動き出す。
何も持たぬ青年が、他者の欲望の濁流に乗り、京の都へとその一歩を踏み出した瞬間であった。
『第一部 贖罪』完結にあたって
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
阿波の片田舎で深い孤独を抱えていた青年・義栄。 三好長慶の遺した「持つとは、失うことだ」という言葉を胸に抱きながらも、彼は人の温もりを求めて前へ進み出します。
次回からは、いよいよ『第二部 擁立』が始まります!
京都を目指す欲望の渦の中で、義栄はどのような運命を辿るのか――。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。




