第四話 託
飯盛山城の奥深く、死臭と薬の匂いが融け合う病室の空気は、日を追うごとに濃くなっていく。
三好長慶の命の灯火がまさに消え入ろうとしていることは、枕元に侍る野間や、数日に一度召される足利義栄の目にも明らかであった。衰弱しきった長慶の呼吸は、まるで破れた鞴のように細く、頼りない。しかし、その肉体の崩壊とは裏腹に、老怪物の政治的視座は、死の直前まで驚くべき透明度を保っていた。
永禄八年の初夏、長慶はかすかに震える右手を動かし、平伏する義栄を病床の近くへと招き寄せた。
「……左馬頭殿。お主に、一つだけ、頼みがある」
長慶の口から漏れたのは、祈りのようでもあり、同時に不可避の呪縛のようでもある重い一言であった。
「三好を……我が三好の家を、決して朝敵にしないでくれ」
朝敵。
その二文字が室内に落とされた瞬間、義栄の背筋に冷たいものが走った。
先代将軍・義輝を暗殺するという前代未聞の大逆を犯した三好三人衆の行いは、いつ天下から朝敵の御教書を下されてもおかしくない大罪である。それを今、この天下を統べた怪物が、平伏せんばかりにして己に乞うているのだ。
義栄は、これこそが天下人・三好筑前守が最後に望んだ「家の存続」の執念であると考えた。強欲な長逸たちが家を滅ぼさぬよう、将軍の権威をもって盾となれ、という命令なのだと。
しかし、長慶が抱えていた胸中は、そのような政治的な算盤の次元にはなかった。
「……人は、過ちを犯す」
長慶の落ち窪んだ眼から、一筋の涙が乾いた頬を伝い落ちた。
それは、かつて弟を殺し、家臣を疑い、孤独の中で天下を持とうとしてすべてを失った男の、最後の「贖罪」の雫であった。
「長逸も、政康も、友通も、皆、己の欲に目を眩ませて公方を手に掛けた。それは弁解の立たぬ過ちだ。だがな、左馬頭殿……彼らの過ちのゆえに、三好の家を、いや、三好の血を引くあまたの民草や兵たちの命を、ここで終わらせてはならんのだ。過ちを犯した人間をも、泥の中でなお生かさねばならん。それが、わしの最後の願いだ」
長慶が求めていたのは、主家を守るという大義名分ではない。
己が愛し、そして裏切られ、最後には欲の化け物へと変えてしまった家臣たちへの、凄絶な憐れみであった。人は罪を犯す。それでもなお、明日を生きていかねばならない。長慶は自らの大罪を背負ったまま、その人間の泥臭い営みを義栄に託そうとしたのである。
義栄は、深く頭を垂れた。
「……お約束いたします。私が将軍の宣下を受け、京に入った暁には、必ずや三好の家を朝廷の敵とはなさぬよう、この命に代えても差配いたしましょう。それこそが、私を立ててくれた三好家への、そして筑前守殿への、将軍としての使命にございます」
義栄の声は生真面目であり、一切の偽りはなかった。彼は長慶の願いを、文字通り「将軍としての公的な責務」として、一点の曇りもない綺麗な器の中に収めてしまったのである。
だが、義栄は気づいていない。
長慶が語った「人は過ちを犯す」という言葉の、本当の恐ろしさを。
そして、その過ちごと人間を抱き留めるという「人としての血の通った繋がり」の重みを。
彼は長慶の願いを、あくまで冷徹な政治の約束事として受け取ってしまったのだ。
長慶は、それ以上は何も語らず、ただ静かに眼を閉じた。
その顔には、安堵とも諦念ともつかぬ影が浮かんでいた。
このとき、義栄が長慶の言葉を真には理解していなかった。
持たぬ者が持とうとし、求める者がすべてを失っていく歴史の皮肉は、すでに始まっていた。
老天下人の命の灯火が完全に消え去る前に、義栄という「器」は、己の意志とは無関係に、三好の罪という名の濁流の中へと押し流されようとしていた。




