第三話 罪
飯盛山城の最奥、夜の帳に包まれた病室は、ただ長慶の細い喘鳴だけが微かに響く、静まり返った檻のようであった。
「お主は、人を集めたいのか。それとも、将軍になりたいのか」
昼間の猫に拒絶された記憶が生々しく残る義栄にとって、その問いは己の胸を直接刃で抉られるに等しかった。答えに窮し、ただ床板を見つめて硬直する青年を、長慶は責めもしない。ただ、その老いた眼を虚空へと向け、自らの干からびた指先をじっと見つめた。
「……わしには、四人の弟がおった」
ぽつり、と長慶の口から漏れたのは、乾いた砂が擦れ合うような声であった。それは義栄への語りかけというより、冥府の底にいる者たちへの点呼のようでもあった。
「一存が死に、実休が討たれ、冬康を……このわしが殺した。のちに、我が命とも頼んだ嫡男の義興までもが、わしに先立って逝った。皆、三好の家を、この天下に並ぶ者のない大樹にするために、欠かせぬ柱であったはずの者たちだ」
長慶の脳裏を過よぎるのは、かつて近畿十一カ国を席巻し、室町幕府を事実上その足下に跪かせた三好筑前守の、血塗られた栄華の記憶である。
天文二十一年、父・元長を理不尽に殺した仇敵たちを討ち果たし、京の都へ入ったとき、長慶は確かに「すべてをこの手に掴んだ」と確信した。細川を逐い、足利を排し、三好の法度が天下の正理となる。その巨大な権力の器を維持せんがために、長慶は休むことなく戦い続け、政務の算盤を弾き、法度を重ねた。
だが、持てば持つほど、手の中から最も大切なものが零れ落ちていく。
家臣の謀反を疑い、弟の忠義を信じられなくなり、ついには自らの手で肉親を誅殺する。それは、三好の天下という「形」を永久に留めんとしたがゆえの、狂気的な執着の果てであった。
「足利を排し、細川を凌ぎ、天下をこの飯盛山城に集めた。だがな、左馬頭殿。わしの周りに残ったのは、何だ」
「勝ち続けた、わしが手に入れたものは、何だ」
長慶はかすかに首を動かし、義栄を見た。その眼窩の奥には、もはや怒りも悔恨もない。ただ、燃え尽きた灰のような、凄絶な「空白」だけがあった。
「集まったのは人ではない。わしが築いた権力の匂いを嗅ぎつけ、それを貪ろうとする狼どもの欲だけだ。三人衆も、松永も、わしの血肉を食い破る機会を窺うておる。持てば持つほど、人は離れ、欲だけが城を満たす」
「……勝とうとするな」
長慶の胸が激しく上下し、短い咳が室内に響く。野間が影のように進み出て、静かに薬湯を差し出したが、長慶はそれを細い手で退けた。
「持つとは、時を留めようとして失うことだ」
それは、すべてを持った天下人が、その人生の総括として、血を吐くようにして導き出した唯一の真実であった。
人は、手に入れた平穏を、手に入れた権力を、その瞬間のまま固定しようと足掻く。しかし歴史という激流の前で、時を留めることなど誰にも叶わない。留めようと握りしめた拳の中で、大切なものはすべて砂のように砕け、失われていくのだ。
だが。
その言葉を聞く義栄の胸中を占めたのは、深い共鳴ではなく、ただ戸惑いに似た 静かな違和感 であった。
(持つとは、失うこと、か……)
義栄は畳に両手を突いたまま、己の細い指先を見た。
彼には、失うべき「持っているもの」が何一つとしてない。
阿波の草庵で、ただ足利の血という呪いだけを背負わされ、誰からも顧みられずに生きてきた身である。長慶が語る「十カ国を統べる権力」の重みも、「肉親を犠牲にしてまで守るべき天下」の冷徹さも、彼には未だ実感として届かない。
「筑前守殿の仰るお覚悟、恐れ多く存じます。されど……」
義栄は顔を上げ、長慶の灰色の瞳をまっすぐに見据えた。
「私には、まだ何もございませぬ。失うべきものすら、ないのです。なれば、私はまず持たねばなりませぬ。将軍という器を得て、この空っぽの身に、人の温もりを集めねばならんのです」
その言葉は、長慶の知恵に対する明白な拒絶であった。
義栄の「色欲」――人との繋がりへの渇望は、老天下人の遺言をもってしても、止めることのできない牙を持っていた。
長慶は、それ以上何も言わなかった。
ただ、深く息を吐き出し、ゆっくりと帳の向こうへとその身を沈めていった。
この若き青年が、己と同じ地獄へ歩みを進めようとしている。
それを止める力は、もうこの老怪物には残されていない。
このとき、義栄が長慶の言葉を真には理解していなかったことは、その後の彼の凄絶な足跡を見れば疑いようがない。持たぬ者が持とうとし、求める者がすべてを失っていく歴史の皮肉は、すでにこの密室のすれ違いから始まっていた。




