↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傀儡の夜明け —怪物の狭間に生きた「影将軍」足利義栄—  作者: 細川 雅堂
第一部 贖罪

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/25

第二話 器

飯盛山城に留め置かれた足利義栄の日々は、針のむしろに座るがごとき静寂のなかにあった。


城内を巡る三人衆の、あの剥き出しの欲望の熱気から取り残され、この広大な城の中で、己一人が「無」であるかのような錯覚に囚われる。実績もなく、従う大名もなく、ただ足利の血が流れているというだけの、空っぽの器。それが自分であった。


ある曇天の午後、義栄は息詰まる客間を逃れ、誰もいない内庭の縁側に腰を掛けていた。


ふと見れば、朽ちかけた築山の陰から、一匹の痩せた野良猫が姿を現した。(ぶち)の毛並みは汚れ、人目を警戒するように耳を伏せている。


義栄の胸の奥に、奇妙な親近感が湧いた。


己もまた、阿波の片田舎からこの見知らぬ城へ放り込まれ、周囲の獣たちに怯えながら息を潜めている身である。


「お前も、一人か」


呟き、義栄は懐から、昼餉(ひるげ)手を付けずにとっておいた干し魚の一片を取り出した。

それを指先に挟み、そっと床板の上へ差し出す。


猫は足を止め、じっと義栄を見た。


義栄は息を詰め、ただ「こちらへ来てくれ」と念じた。

誰でもよかった。この城の中で、己の存在を認め、懐に飛び込んできてくれる者が欲しかった。

それこそが、彼の内に眠る、人を激しく求める欲の萌芽であった。


だが、距離にして三尺。


猫は干し魚の匂いを嗅ぐそぶりさえ見せず、ただ義栄の「足利」という身構えに、あるいはその眼裏(まなうら)にある見えない飢えを察したのか、短く喉を鳴らすと、一瞥(いちべつ)をくれただけで、音もなく塀の向こうへ飛び去ってしまった。


差し出された義栄の右手が、虚空に取り残される。


「……やはり、私には、一匹の獣を呼び寄せる力もないか」


義栄はぽつりと呟き、誰に見せるでもない苦笑いを浮かべた。その照れ笑いの裏には、自嘲の、そして底知れない寂寥の影が張り付いている。


この不器用な青年が、明日もこの血臭漂う城で笑っていられるか。それを保証するものは、いまだ何一つとしてなかった。


その夜、義栄はふたたび長慶の病室へと召された。


昼間の明るさが消え去った室内に、わずかな灯明がともされている。


長慶の細い指先が、布団の上でかすかに動いた。

義栄は平伏したまま、昼間の静寂を取り戻そうと、一気に言葉を紡ぎ出した。


それは、昼間に猫に拒絶された反動であるかのように、妙に熱を帯びていた。


「筑前守殿。私は、将軍家を再興せねばならぬと考えております。足利がふたたび京に立ち、正しき秩序を示せば、乱れた天下は必ずや静まりましょう。足利の名が立てば、諸国の大名も、路頭に迷う民草も、おのずと私の周りへ集まるはず一にございます」


義栄の声は、広い病室の壁に虚しく響いた。


「将軍という器が人を集める。だから、自分はその器にならねばならない」


それだけが、この孤独な青年が絞り出した、自らの存在理由であった。


長慶は、その熱弁を否定しなかった。ただ、深く落ち窪んだ眼をわずかに開き、静かに義栄を見つめた。その眼は、かつて天下をその手に掴み、そしてすべてを失ってきた男の、冷徹極まる光を湛えている。


「……左馬頭(さまのかみ)殿」


長慶の声は、地を這うように低かった。


「お主は……人を集めたいのか」


一呼吸おいて、さらに問いが重ねられる。


「それとも、将軍になりたいのか」


義栄は、言葉を失った。何を問われているのか、その意味が、一瞬にして理解できなかったのである。


将軍になれば人は集まる。人が集まるからこそ将軍である。その二つは、己の中で完全に同じものとして結びついていた。その間に、どのような断絶があるというのか。


「それは……」


言いかけて、義栄の口は止まった。


長慶の眼光が、義栄の心の奥底、あの昼間に猫へ手を伸ばした瞬間の、「誰かに必要とされたい」という剥き出しの飢えを、正確に見透かしているように思えたからである。


二人の間に、重苦しい沈黙が降りる。


義栄には、長慶の問いの答えが分からない。己が求めているものが、天下の権力という冷徹な「立場」なのか、それとも、ただ自らの孤独を埋めてくれる「人との繋がり」なのか、その違いを知るには、彼はまだあまりにも若く、そして何も持っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。