第二話 器
飯盛山城に留め置かれた足利義栄の日々は、針のむしろに座るがごとき静寂のなかにあった。
城内を巡る三人衆の、あの剥き出しの欲望の熱気から取り残され、この広大な城の中で、己一人が「無」であるかのような錯覚に囚われる。実績もなく、従う大名もなく、ただ足利の血が流れているというだけの、空っぽの器。それが自分であった。
ある曇天の午後、義栄は息詰まる客間を逃れ、誰もいない内庭の縁側に腰を掛けていた。
ふと見れば、朽ちかけた築山の陰から、一匹の痩せた野良猫が姿を現した。斑の毛並みは汚れ、人目を警戒するように耳を伏せている。
義栄の胸の奥に、奇妙な親近感が湧いた。
己もまた、阿波の片田舎からこの見知らぬ城へ放り込まれ、周囲の獣たちに怯えながら息を潜めている身である。
「お前も、一人か」
呟き、義栄は懐から、昼餉手を付けずにとっておいた干し魚の一片を取り出した。
それを指先に挟み、そっと床板の上へ差し出す。
猫は足を止め、じっと義栄を見た。
義栄は息を詰め、ただ「こちらへ来てくれ」と念じた。
誰でもよかった。この城の中で、己の存在を認め、懐に飛び込んできてくれる者が欲しかった。
それこそが、彼の内に眠る、人を激しく求める欲の萌芽であった。
だが、距離にして三尺。
猫は干し魚の匂いを嗅ぐそぶりさえ見せず、ただ義栄の「足利」という身構えに、あるいはその眼裏にある見えない飢えを察したのか、短く喉を鳴らすと、一瞥をくれただけで、音もなく塀の向こうへ飛び去ってしまった。
差し出された義栄の右手が、虚空に取り残される。
「……やはり、私には、一匹の獣を呼び寄せる力もないか」
義栄はぽつりと呟き、誰に見せるでもない苦笑いを浮かべた。その照れ笑いの裏には、自嘲の、そして底知れない寂寥の影が張り付いている。
この不器用な青年が、明日もこの血臭漂う城で笑っていられるか。それを保証するものは、いまだ何一つとしてなかった。
その夜、義栄はふたたび長慶の病室へと召された。
昼間の明るさが消え去った室内に、わずかな灯明がともされている。
長慶の細い指先が、布団の上でかすかに動いた。
義栄は平伏したまま、昼間の静寂を取り戻そうと、一気に言葉を紡ぎ出した。
それは、昼間に猫に拒絶された反動であるかのように、妙に熱を帯びていた。
「筑前守殿。私は、将軍家を再興せねばならぬと考えております。足利がふたたび京に立ち、正しき秩序を示せば、乱れた天下は必ずや静まりましょう。足利の名が立てば、諸国の大名も、路頭に迷う民草も、おのずと私の周りへ集まるはず一にございます」
義栄の声は、広い病室の壁に虚しく響いた。
「将軍という器が人を集める。だから、自分はその器にならねばならない」
それだけが、この孤独な青年が絞り出した、自らの存在理由であった。
長慶は、その熱弁を否定しなかった。ただ、深く落ち窪んだ眼をわずかに開き、静かに義栄を見つめた。その眼は、かつて天下をその手に掴み、そしてすべてを失ってきた男の、冷徹極まる光を湛えている。
「……左馬頭殿」
長慶の声は、地を這うように低かった。
「お主は……人を集めたいのか」
一呼吸おいて、さらに問いが重ねられる。
「それとも、将軍になりたいのか」
義栄は、言葉を失った。何を問われているのか、その意味が、一瞬にして理解できなかったのである。
将軍になれば人は集まる。人が集まるからこそ将軍である。その二つは、己の中で完全に同じものとして結びついていた。その間に、どのような断絶があるというのか。
「それは……」
言いかけて、義栄の口は止まった。
長慶の眼光が、義栄の心の奥底、あの昼間に猫へ手を伸ばした瞬間の、「誰かに必要とされたい」という剥き出しの飢えを、正確に見透かしているように思えたからである。
二人の間に、重苦しい沈黙が降りる。
義栄には、長慶の問いの答えが分からない。己が求めているものが、天下の権力という冷徹な「立場」なのか、それとも、ただ自らの孤独を埋めてくれる「人との繋がり」なのか、その違いを知るには、彼はまだあまりにも若く、そして何も持っていなかった。




