第三話 道
一歩を運ぶごとに、足の下の土が、まるで底なしの泥濘であるかのように重く、深く、義栄の身体を絡めとっていくようであった。
永禄十二年の春を前にした阿波の街道は、絶え間なく吹きつける海風によって白く乾き、冷酷なまでに真っ直ぐに伸びていた。
「上様、もうこれ以上は……。どうか、城へお戻りくださりませ」
背後から付き従う近習が、声を震わせながら義栄の直衣の裾に手をかける。
その目には、日々目に見えて細くなっていく主君の背中への、痛切な悲愴が浮かんでいた。
義栄は立ち止まり、激しく込み上げてくる咳を白い布で押さえた。
布を離すと、そこには前日よりも一回り大きな、鮮烈な赤が滲んでいる。
病の爪は、もはや彼の肺腑を完全に引き裂こうとしていた。それでも、義栄は近習を安心させるように、青白い唇をかすかに吊り上げて微笑んだ。
「まだ、歩ける。この道の先に……待っている者がいるような気がするのだ」
そう言って義栄が見据えたのは、自らが歩む、終わりの見えない一本の「道」であった。
かつて彼が歩んでいたのは、征夷大将軍という至高の器を掲げ、天下の頂へと昇り詰める「覇道」であった。それは絢爛たる光に満ち、数多の人々が拝み倒してくる輝かしい道であったが、その実相は、三好三人衆の剥き出しの強欲や嫉妬が渦巻く、醜い利害の泥沼に過ぎなかった。そしてその道は、織田信長という圧倒的な「焔」によって、一瞬にして灰燼に帰したのである。
いま、義栄が歩いているのは、そんな華やかな歴史の表舞台から完全に放逐された、名もなき辺境の泥道であった。
何も持たず、誰からも顧みられず、ただ病の身体を引きずりながら、そこに生きる生身の「人間」を探して彷徨う道。それは端から見れば、ただの哀れな敗残者の、無意味な徘徊に過ぎないかもしれない。
だが、義栄の胸中を占めていたのは、かつて京の御所で味わった、あの底知れぬ孤独の暗がりではなかった。
道すがら、義栄は一つの粗末な辻堂の前にさしかかった。
そこには、先の畿内の戦乱によって故郷を追われ、行き着く先を失って飢えに震える、数人の浮浪の民が身を寄せ合っていた。
「上様、近寄ってはなりませぬ。どのような病を得ているかも分からぬ者どもです」
近習たちの制止を、義栄は静かに手で遮った。
そして、自らもまたその辻堂の泥土の上に、静かに腰を下ろしたのである。怯え、身構える彼らの前に、義栄は自らの懐から、僅かに残されていた干し飯の包みを差し出した。
「お前たちも、遠いところを歩いてきたのだな。私も同じだ。行き着く先のない、ただの旅人だよ」
義栄の言葉には、かつて将軍として三人衆を宥めようとしたときの、あの哀切な必死さはなかった。ただ、そこにいる他者をそのままに受け入れ、自らもまた同じ地平に立つという、透き通った静けさだけがあった。
干し飯を貪るように食う浮浪の男の一人が、煤に汚れた顔を上げ、義栄の白い直衣と、その気品ある面影を見て、怪訝そうに呟いた。
「お侍様……いや、お公家様かの。俺たちの言葉など、誰も聞いてはくれねえ。この世は地獄だ。強い奴らが戦をして、俺たちの家を焼き、すべてを奪っていく。神も仏もありゃしねえ」
その怨嗟に満ちた言葉を聞いた瞬間、義栄の脳裏に、かつて信長が放った傲慢な言葉が、幻聴のように響いた。
『そのような古い甘えが、この世をいつまでも戦国たらしめているのだ。俺は古い木々をすべて焼き払い、更地にする』
信長なら、この道端に這いつくばる弱者たちを、新しい世の礎にもならぬ「泥濘」として迷いなく踏み潰していっただろう。だが、義栄は違った。
彼が求めたのは、信長が創る冷徹な新世界ではない。
この、泥に塗れ、傷つき、それでもなお生きていこうとする人間の、あまりにも不器用で、愛おしい営みのなかにこそ、彼が命をかけて守りたかった「和」の本質があったのだ。
義栄は、男の泥塗れの手を、自らの細い両手でそっと包み込んだ。
炭焼きの老人のときと同じように、そこには拭えない「遠さ」があった。
男は義栄の高貴な気配に圧倒され、完全に心を開いているわけではない。それでも、触れ合った手のひらから伝わってくる、生身の人間としての確かな熱が、義栄の魂を優しく、しかし強烈に満たしていく。
(これでいい……。私は、このために歩いているのだ)
かつて三好長慶は『持つとは失うことだ』と遺した。
将軍の座に執着し、人を自らの足元に「留めよう」としたからこそ、すべてを失ったときに身を裂かれるほどの絶望を味わった。ならば、私はこの道を、何も持たずに歩き続けよう。
明日にはすべてが離れ、誰にも振り返られなくなるとしても、いま、この一瞬、この道の上で誰かの手に触れ、その温もりを分かち合うこと。
何度拒絶され、空振りに終わろうとも、人との繋がりを求めて手を伸ばし続けること。
その果てなき「求道」の歩みそのものが、信長の焔でさえも決して焼き尽くすことのできない、足利義栄という人間の、たった一つの生きる「道」なのだ。
「……生きてくれ。生きて、この道を歩み続けてくれ」
義栄が静かに告げると、浮浪の民たちは、何故か救われたような顔をして、何度も何度も頭を下げた。
ふたたび立ち上がり、街道を進む義栄の背中に、傾きかけた夕陽が長い影を落とす。
胸を刺す痛みは激しさを増し、残された命の火が、いよいよ短くなっていることを身体が告げていた。だが、若き将軍の足取りは、かつて京の都の門をくぐったあの時のどれよりも、確かで、力強かった。
すべてを失った者が行き着いた、孤独で、しかし最も人間らしい救いの道。その道の果てに待つ、自らの人生の本当の「答」を見出すために、義栄は冷たい海風を真正面から受けながら、さらに一歩、その先へと踏み出していくのであった。




