第一話 空
鳴門の激しい渦潮を越え、再び踏みしめた阿波の土は、驚くほどに冷たく、そして静かであった。
京の都を追われ、命からがら逃げ延びた足利義栄を迎えたのは、かつてのような歓声でも、絢爛たる軍列でもない。勝瑞城の片隅に用意された部屋は、将軍の御所とは名ばかりの、ただ風が吹き抜けるだけの虚ろな空間であった。
あれほど彼を囲んでいた三好三人衆も、拝謁を求めて列をなした公家や大名たちも、ここには誰一人としていない。付き従う者は、阿波の草庵時代から彼を知る僅かな近習のみ。金も、権力も、兵も、征夷大将軍という至高の器さえも、すべては京の都の門の向こうに置いてきてしまった。歴史の表舞台から完全に置き去りにされた義栄の周囲には、文字通り、ただ圧倒的な「空から」の虚無だけが広がっていた。
おまけに、彼の身体は京での過酷な敗走の中で、深く病に蝕まれ始めていた。
時折、胸の奥から突き上げてくる激しい咳は、彼の体力を容赦なく削り取り、残された日々の短さを静かに告げているようであった。
だが、すべてを失い、静寂に包まれたその部屋の中で、義栄の瞳の奥にある光だけは、どうしても消し去ることができなかった。
「……上様、本日はお身体を休めねば」
制止する近習の声を振り払い、義栄は粗末な直衣を纏うと、ふらつく足取りで城の外へと歩き出した。
将軍ではない。天下の主でもない。
ただの一人の青年となった義栄は、それから毎日、あてもなく阿波の地を歩き回り、誰かを訪ね続けた。
ある日は、山の端にある鄙びた寺の門を叩き、老いた住職と並んで境内の落ち葉を掃いた。
またある日は、ぬかるんだ泥に塗れた田畑へ赴き、腰をかがめて働く百姓たちに混じって、とりとめもない世間話に耳を傾けた。
起伏の激しい里山を越え、かつて阿波衆として畿内へ従軍し、傷を負って故郷へ戻ってきた老兵の家を訪ねては、縁側に腰掛けて静かにその手を取り合った。
「上様、我らに何を命じられるのですか。まさか、再び京へ攻め上るための兵を……」
訪ねられた者たちは皆、一様に怯え、あるいは戸惑いの表情を浮かべた。
当然であった。歴史から見捨てられたとはいえ、彼は時の将軍なのである。
何か恐ろしい企みや、無理な要求をされるのではないかと身構える彼らに対し、義栄はただ、不器用な苦笑いを返すだけだった。
「いや、何も頼みはせぬ。ただ……皆の顔が、見たくてな」
義栄は本当に、何も求めなかった。
再び神輿に担がれるための人望も、織田に対抗するための軍勢も、自らの権威を誇示するための拝礼も、何一つ要求しない。
ただ、そこに生きる生身の「人間」に会いに行き、言葉を交わし、その温もりに触れる。ただそれだけのために、彼は病の身体を押して、毎日手を伸ばし続けていたのである。
それこそが、すべてを失った「影の将軍」に残された、最後の、傷だらけの業の形であった。
かつて「将軍になれば人が集まる」と信じ込んでいた絶頂の誤解は、いまや完全に打ち砕かれていた。天下や権威といったものを自らの内に「持とう」としたからこそ、それが掌からこぼれ落ちたとき、身を裂かれるような喪失の痛みを味わうことになったのだ。
ならば、何も持たなければいい。
ただ、明日も、その次の日も、何度拒絶され、空振りに終わろうとも、人との繋がりを求めて手を伸ばし続けること。それこそが、信長の焔でさえも焼き尽くすことのできない、自らの人生の証明なのだと、彼は虚無の日常の中で静かに気付き始めていた。
夕暮れ時、勝瑞の冷たい風が、義栄の細い肩を通り抜けていく。
激しく込み上げてくる咳を白い布で押さえ、そこに滲む微かな血斑を見つめながらも、義栄は遠く広がるひなびた村々の灯りを見つめ、静かに微笑んだ。
すべてを失った「空」のなかに、確かな「答」の萌芽を宿しながら、若き将軍の、孤独で、しかし最も人間らしい歩みは、この阿波の地で静かに続いていく。




