第五話 門
永禄十一年、秋。
天下の主として迎えられたはずの京の都は、足利義栄にとって、あまりにも冷たく、あまりにも足早に過ぎ去る幻燈に過ぎなかった。
織田信長の圧倒的な「焔」の前に畿内の防衛線は悉く瓦解し、あれほど義栄の周りに群がっていた三好三人衆の欲の化け物たちも、それぞれの保身と利害の泥沼に沈んで離散していった。将軍宣下を受けたあの輝かしい御所は、いまや兵火に怯える公家たちの静かな絶望に満たされ、主を失った回廊にはただ冷たい秋風が吹き抜けるのみであった。
京を去る日。義栄の傍らには、阿波から付き従ってきた数人の近習と、うらぶれた数騎の兵しか残されていなかった。
重い雲が垂れ込める夕暮れ時、一行は京の境界たる都の「門」の前に立っていた。
これをくぐれば、二度と征夷大将軍としてこの都の土を踏むことはない。
それは名実ともに、義栄が歴史の表舞台から引きずり降ろされ、敗者として放逐されることを意味していた。
門の前に佇む義栄の脳裏に、不意に、あの低く重い老怪物の声が鮮烈に蘇った。
『持つとは、時を留めようとして失うことだ』
かつて飯盛山城の暗がりで三好長慶が遺し、富田の陣中や将軍宣下の夜にも義栄の耳裏で鳴り響いていた、呪いのようなあの言葉。
(筑前守殿……お主の言う通りであったな)
義栄は、誰もいなくなった自らの両手をじっと見つめた。
将軍という至高の器を「持ち」、それによって人との繋がりをこの場所に「留めよう」としたからこそ、器が壊れたとき、これほどまでに身を裂かれるような喪失の痛みを味わうことになったのだ。長慶の言葉は、歴史の真実であった。持った者は、必ず失う。
だが。
すべてを奪われ、文字通り空っぽになった若き将軍の胸の奥で、消え失せるどころかいっそう激しく燃え上がる歪んだ業火があった。
孤独を最大の前とし、必要とされたいと願い続ける、彼の「色欲」である。
「……違う」
義栄は、小さく、しかし鋼のような拒絶を込めて呟いた。
「違うのだ、筑前守殿。お主はすべてを失い、諦念の中で死んでいった。持つことが失うことだというのなら、私は何も持たなくていい。将軍の座も、天下の権威も、そんなものはすべて信長に、義昭にくれてやる」
義栄は顔を上げ、眼前の暗い門の向こうを見据えた。
「だが、私はまだ諦めない。私はまだ求める。たとえ誰もいなくなろうとも、私は人を信じ、人を求め、誰かと繋がることを求め続ける。それだけは、あの信長の焔でさえも、私から奪い去ることはできぬのだ」
それは、歴史の勝者たちの理法に対する、あまりにも無力で、しかしあまりにも狂おしい人間の反逆であった。
義栄は一歩、踏み出した。
静かに都の門をくぐり、京の外へとその身を置く。
ふと、彼は足を止め、ゆっくりと振り返った。
そこには、数多の欲望を呑み込み、夕闇のなかに静まり返る巨大な京の都があった。かつて彼を熱狂的に迎えたはずの都は、いまや一介の敗残兵に過ぎない青年の姿を、一瞥もすることはない。京は、義栄を見ていなかった。時代はすでに彼を置き去りにし、新たな覇者である織田の影を追って動き始めている。
「上様、参りましょう……。夜が明ければ、織田の追手が参ります」
近習が涙を堪えながら、義栄の袖を引く。
「……うむ」
義栄はもう一度だけ都を見つめると、今度こそ迷いなく背を向け、暗い街道の先へと歩き始めた。
『第四部 激突』完結にあたって
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
悲願の征夷大将軍の座に就いた義栄。しかしその栄華の裏で、三好三人衆の利害は裂け、織田信長という圧倒的な「焔」の前に畿内の防衛線は次々と瓦解していきました。
久秀からの「人は集めるものではない」という冷酷な告別、去っていく家臣たち。それでもなお、京都の「門」をくぐり抜ける瞬間まで「人を信じ、人を求め続ける」ことを諦めなかった義栄の凄絶な決意はいかがでしたでしょうか。
次回からは、いよいよ物語の最終章となる『第五部 輪廻』が始まります!
すべてを失い、病に侵されながらも阿波の地へと辿り着いた「影の将軍」足利義栄。歴史の表舞台から完全に置き去りにされた彼が、泥に塗れた道の上で見出す「最後の答え」とは何なのか——。
物語はいよいよ、真のクライマックスへ。不遇の将軍が辿りついた魂の救済を、ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




